第一幕 天下の状勢 -弟たちの還俗-
永禄八年(1565)から十年に至るまでの凡そ二年間は激動の時代であった。その発端となったのは言うまでもなく“永禄の変”である。
永禄八年五月十九日。天下の権は三好三人衆と松永久秀が握っていたが、征夷大将軍・足利義輝は前年に三好長慶が死去したのを好機と捉え、三好一党の排除を画策していた。対する三好三人衆らは義輝弑逆を謀り、機先を制して二条御所を襲撃したのであった。
五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで
義輝は死を覚悟し、辞世の句を詠んだが、武家の棟梁として最後の意地を見せた。秘蔵の名刀の数々を持ちだして三好兵を斬りに斬りまくったのである。その甲斐あってか、三好勢の攻撃が緩んだ隙を衝いて義輝の師・塚原卜伝と上泉信綱が救出に現れる。途中、柳生一族の加勢や明智光秀の助力により、義輝は無事に京を脱することに成功した。
その後、義輝は三好の追撃を振り切って越前朝倉に身を寄せるが、三好一党は足利義栄を征夷大将軍に就けて幕政を完全に掌握する。ただ三好の暴挙を快く思わない諸大名が多く、義輝の上洛要請に応じて次々と馳せ参じ、上杉(畠山、神保、椎名)、織田、朝倉、浅井、松平などを糾合して都合七万にまで膨れ上がる。義輝の軍勢は勢多の地で三好・松永の軍勢と一戦に及び、完膚無きまでに討ち破る。義輝は帰洛を果たし、征夷大将軍へ返り咲くことになった。
勢多の敗戦から三好一党は立ち直ること出来ず、三好三人衆と松永久秀は上方の所領を次々と失っては本貫の四国へと落ち延びた。一方で宗家の当主である三好義継は義輝に降伏する。一年後、義輝は義継に命じて淡路の安宅信康を離反させ、四国へ上陸。三好・松永らは吉野川で乾坤一擲の勝負を挑むが、あと一歩のところで義輝の首を獲れずに敗れ去った。
三好三人衆は滅び、松永久秀は行方を暗ませた。
これにより義輝の版図は急激に拡大した。今や山城、近江、大和、丹波、摂津、河内、和泉、淡路、阿波、讃岐と十カ国を治めている。これは日本六十六州の内、約六分の一に相当し、名実ともに日本で最大の大名となった。
ただ義輝としては、土佐と伊予をも平定して四国を完全に幕府の支配下に置きたかったのが本音である。それが不可能だったのは、無理を押しての四国遠征で兵糧が充分に確保できていなかったこと、地方の状勢が慌ただしくなりつつあり、京への帰還が急がれたことが主な要因であった。それでも蜷川親長の帰参により、長宗我部元親を土佐守護として国内の平定に当たらせることは出来た。
このように上方は二年ほどで勢力図がガラリと塗り代わったのであるが、地方でも大名たちの勢力は大きく変化していた。
まず義輝に与した織田信長は、尾張に美濃を加え、南近江と北伊勢をも版図に加えた。たった四カ国ではあるが、石高の多い国ばかりを治めているために国力は将軍家に匹敵するほど大きい。さらに周辺国とは同盟関係にあり、目立った大敵もおらず領内の統治は非常に安定している。
また西国では、毛利元就がかつて西国で覇を争っていた大内と尼子を滅ぼし、中国の王たる地位を手に入れていた。その勢力は本貫の安芸を中心に周防、長門、石見、出雲、伯耆、備後、備中の八カ国にまで勢力を伸ばし、周辺国は毛利の次なる矛先が何処へ向くか、その動向に警戒感を募らせている。
さらに西の九州では、大友宗麟が豊後、豊前、筑前、筑後、肥後、日向を支配し、龍造寺隆信が肥前で勢力を伸ばしつつある。薩摩の島津義久が家督を継いだのもこの頃である。
同じく東国でも大きな動きがあった。
義輝の要請に応じて関東管領・上杉輝虎が上洛している隙に、関東は北条氏康が佐竹、里見らを追い詰めていた。北条は難攻不落の小田原城を拠点に相模、伊豆、武蔵、上野、下野、下総、上総にまで勢力を伸ばし、悲願である関八州の統一を目前としていたのだが、上方より帰還した輝虎が立ち塞がった。
輝虎は関東管領として反北条の勢力を纏め上げ、巻き返しを図った。しかし、相次ぐ合戦により上杉軍は疲弊しており、なかなか上手くは行かない。しかも臼井城攻めで手痛い敗北を喫してしまい、上州沼田にまで後退を余儀なくされた。
そこに、武田信玄が駿河に攻め込んだという報せが入る。
武田は甲斐と信濃を治める守護大名であるが、近年は上杉との争いで伸び悩んでいた。上方で将軍方が勝利し、輝虎の力が増大することを懸念した信玄は、上杉が北条と戦っている間に盟友であった今川を滅ぼすことを決意する。信玄は躑躅ヶ崎館を出陣し、駿府を陥落させた。この信玄の動きに応じて三河の徳川家康も東進を開始、遠江に雪崩れ込んでいる。
今まさに、今川家は絶体絶命の危機に瀕していた。
そして、これらの課題を義輝は征夷大将軍として全て解決していかなくてはならなかった。
未だ、義輝の天下一統への道のりは遠い。
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永禄九年(1566)十二月十一日。
京・二条城
三好征伐を終えた将軍・足利義輝は京に凱旋した。
帰洛したばかりの義輝がまず行ったのは、足利義冬と義栄親子の葬儀であった。喪主は子の義助が務め、義輝が後見した。二人は足利一門として丁重に将軍家墓所である等持院へと葬られることになったが、この時になって初めて二人が松永久秀によって暗殺されたことが公表された。幕府は天下の大罪人として久秀追討令を発布、全国の大名に松永親子の捜索を命じた。
葬儀が終わった義輝を待っていたのは、戦勝報告の参内を始め、連日に亘る宴や溜まりに溜まった書類に向かう毎日であった。また同時に論功行賞も考えねばならず、あっという間に年は明けて永禄十年となっていた。
その年賀の席では、三好征伐の論功行賞が発表された。
「細川兵部に阿波一国を与え、守護とする」
「はっ。謹んで、御受け致しまする」
藤孝は恭しく礼をしたが、その表情には綻びが見える。長年の苦労が報われて嬉しかったのだろう。その様子に義輝は満足感を感じていた。
(兵部には苦労をかけたからな。阿波一国では少ないくらいよ)
義輝に付き従った幕臣の中で、藤孝ほどの功臣はいない。派手さはないが、藤孝の根回しによって助けられたことは数え切れないほどあった。忠功には、明確な恩賞を以て応えなくてはならない。
次に讃岐は藤孝に続いて朽木元綱が守護に任じられた。これは元綱を含め代々の朽木当主の功績を重んじての守護抜擢だった。
これまで藤孝と元綱はあくまでも代官の立場で統治を代行していたに過ぎないが、これからは守護として統治に望むことになる。但し、旧領は全て義輝が収公した上での完全な国替えで、幕府の支配力を強める要素にもなった。
尚、藤孝が代官を務めていた和泉は御牧景重が後任となり、近江高島郡は浅井長政に恩賞として与えられた。
他には、淡路が一旦は安宅信康から没収した上で三好義継に与えられ、安宅信康はその麾下に入った。その他、三好征伐で寝返った者たちは、四国の領地を没収した上で全て義継に預けられることになっている。
また領地ではなく恩賞として官位を賜った者をいる。
留守中の京を平穏無事に治めたことを評価された一色藤長が正五位下へ昇り、讃岐を拝領した朽木元綱と和田惟政が正五位下・侍従、三淵藤英が従五位上・大和守、波多野秀治が従五位下・丹波守、池田勝正が従五位下・民部大輔となった。また朝倉家臣である明智光秀と景恒も叙任され、光秀は従五位下・日向守、景恒は従五位下・中務大輔となった。特に正式な叙任を受けたことにより、景恒の家中に於ける立場は筆頭家老の景鏡に並ぶまでになったが、流石に当主たる朝倉義景へ何の恩賞も与えない訳にはいかなかった。そこで義輝は御内書を発し、加賀一国の切り取り次第を言い渡した。
現在の加賀は本願寺門徒の支配する国であるが、義輝は門徒如きに加賀を任せるつもりはない。何れは守護を置くことを考えなくてはならないが、その場合に候補となるのは加賀を攻め続けている朝倉家となる。ただ表向き本願寺との関係があるので、幕府として正式に朝倉家に加賀平定を命じるわけにはいかない。そこで内示のみ与え、表向き朝倉家が勝手に加賀を攻めるように仕向けたのである。
(義景は愚鈍な男ゆえに喜び勇んで加賀を攻めるだろう。よしんば失敗して影響はないし、もし朝倉が加賀を切り従えるようならば、景恒を守護に据えればよい)
それが義輝の考えだった。そうすることにより、朝倉家中に義輝派、将軍派と呼べる勢力が一定の幅を利かせることになる。
ちなみに土佐守護に任じられたばかりの長宗我部元親が正式に宮内少輔として叙任され、義輝政権下の大名に列することになった。
今回のことで多くの者が昇進したが、中でも特出すべきは義輝と藤孝だろう。
義輝は正三位・大納言へと昇進したが、春先には従二位に昇って内大臣になることが決定している。足利将軍で大臣職に任じられるのは九代・義尚以来であり、名実共に将軍権力が回復したことを世に知らしめる出来事となった。また藤孝は従四位下・参議になり、義輝の政権下で初の公卿が誕生した。これは義輝の藤孝への信頼が絶大である証であった。
その年賀の席で、もう一つ慶事があった。
「兄上!我ら還俗いたし、兄上の扶けになりたく存じます」
「我らが願い、是非とも御聞き届け下さいますよう…」
覚慶と周蒿の二人が還俗を申し出てきたのである。
突然の申し出だったが、二人は昨年の暮れに京で再会した折より話を進めていたようだった。事前に相談を受けていたのか、見計らったように藤孝が賛意を表した。
「上様の周りには信頼できる一門が必要かと存じます。血を分けた御二方ならば、申し分はございませぬ」
藤孝としては、今のところ将軍職を継げる者が義冬の子・義助(他に弟が二人いる)だけであることは問題だと考えていた。実際、幕臣たちの多くは義晴方であった者が多く、義助を将軍職に就けるくらいなら義輝の弟である覚慶か周蒿の方が良いと思っている者が大半だった。
「うむ。二人が余を支えてくれれば、心強い限りじゃ」
義輝も藤孝の政治的な考えは理解していたが、それを抜きにして弟たちの想いは嬉しいことだった。義輝は即座に還俗を認め、藤孝に日取りを決めるよう沙汰を言い渡した。
後日、覚慶は足利義秋と名を改めて従四位下・参議となり、周蒿は弟という立場から一日遅れで還俗し、足利晴藤と名乗った。こちらも同じく従四位下・左近衛中将となった。
二人が名乗った名前には、政治的な意味合いが含まれている。
義秋には足利家代々の通字である“義”が与えられており、男子のいない義輝の跡目を継ぐ第一番目は義秋であることを暗に意味していた。ただ正式に表明したわけではないので、跡目を誰が継ぐかは議論の余地はある。そもそも義輝はまだ若いので、子が出来る可能性は残されている。
次に晴藤は父・義晴と兄・義輝の旧名の義藤より一字ずつ与えられており、序列では義秋、義助に続く三番手となった。晴藤より義助を上に立てたのは、亡き義冬へ命を助けられた周蒿(晴藤)自身の申し出によるものだった。ちなみに義助も二人と同じく従四位下となり、右兵衛督に任じられた。
ここに、新たな足利一門が二人誕生した。
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永禄十年(1567)三月二日。
近江国・坂本城
正月の忙しさも一段落した頃、義輝は近江にいた。完成したという明智光秀の城を見に来たのである。
「なんとも美しい城よ」
率直な感想だった。
坂本城は琵琶湖に面した連郭式の水城として築城されており、本丸は完全に湖上に位置し、今や天守と名を変えた多聞城や信貴山城にあった大櫓が上げられている。特に坂本城は平城である故に天守からは近江一帯が見渡せた。
琵琶湖の水面が美しく輝いており、その風景に義輝は酔いしれていた。
「このような景色が毎日でも眺められるとは、日州(光秀)が羨ましいわ」
「この城は上様の為の城。いつでも御越し下さりませ」
「うむ。ここは京のような煩わしさがなくてよいわ」
存分に羽を伸ばす義輝であったが、単に城を見に来ただけではないと光秀は思っている。征夷大将軍は、そんなに暇ではない。ただ義輝は雑務から解放されて寛いでいるところだ。ここで本題に入るのは避けた。
その夜、義輝歓迎の宴が終わってから月夜を眺めて晩酌をしている時である。義輝は近江の状勢について光秀に訊いた。
「六角は織田軍の前に為す術なしかと。ただ織田も損害を恐れてか兵糧攻めの構えにございます」
現在、近江は平穏そのものに見えるが、甲賀郡の石部城では六角承偵が旧領回復に失敗して織田軍を前に籠城を続けている。援軍の当てもないので、勝敗は既に決したようなものだった。光秀は包囲軍に加わっていないが、国内のことなので詳細に状況を報せていた。
「ならば石部は直に落ちるな。それよりも問題は東か…」
「…武田、にございますか。好き放題に暴れているようですな」
「いつもの事よ。こちらの言うことなど聞きはせぬ」
前年の十一月、武田信玄は駿河に侵攻した。いち早く駿府を落とした信玄は、今は駿河一国を手に入れるべく兵を動かしている。仮に義輝が信玄に停戦を命じたところで聞くとは思えなかった。信玄はかつて信濃守護職を得るべく義輝を利用した男だ。あの時は義輝の力が小さかったから我慢するしかなかったが、今の義輝は十カ国を支配している。もう武田であろうが遠慮をする気は一切なかった。
強気に出て、屈服させる、それのみ。従わねば、滅ぼす。
(でなければ天下に泰平をもたらすことなど不可能よ)
将軍家の弱体化が乱世の始まりだった。ここでの妥協は、乱世の再発を招くことになる。
「日州よ。武田には織田弾正を当てるつもりでおる」
「織田様を?ですが、織田家は武田と同盟関係にございますが…」
信長の養女が、信玄の四男・諏訪勝頼に嫁いだのは義輝が上洛する少し前のことである。
「それを理由に弾正は余の命令を拒むと思うか?」
「……それは」
自分で言ってみたものの、光秀は口を噤んだ。確かに光秀は信長に大きな懸念を抱いてはいるが、正直なところ信長の考えがまったく読めていなかった。素直に義輝の命令に服すかもしれないし、公然と拒否を示してくるかもしれない。
「余は、ここらで織田弾正の真意を確かめようと思っておる」
「織田様の…真意?」
「そうじゃ。余が天下を一統するには弾正の力が不可欠なのは間違いない。されど弾正が心より余に服しているとは思えぬ。あやつは輝虎とは違う」
「私もそのように思いますが…」
「輝虎には北条を押さえて貰わねばならぬ故、武田との戦いには加われぬ。ならば武田に当たれるのは、織田弾正を置いて他にない。三河守(徳川家康)では力不足よ」
義輝がこう言うのも、幕府として軍勢を催す余裕がないからであった。先の三好征伐で幕府の財政は火の車であり、少なくともこの一年くらいは内政に専念しなければならず、いくら信玄が暴れても軍勢は出せない。ならば、その間に武田と戦う者が必要となってくる。
それが唯一可能な大名こそ、織田信長だった。
「ならば手前を御遣わし下さりませ。光秀も織田様の真意を確かめたく存じます」
「うむ。余もそのつもりであったからこそ、今日は参ったのじゃ。幕府として軍勢は出せぬが、頼むぞ」
「はっ!御任せ下さりませ!」
「ならば、その前にやっておくことがあるな。日州、明日は供をせい」
「ははっ。石部にございますな」
「織田が武田に当たるのに、承偵をそのままには出来まい」
翌朝、義輝は石部城へ向かった。義輝の来訪に織田の諸将は驚いたが、義輝は気にする事なく、まるで自分の軍勢を操るが如く城内へ使者を遣わすよう命令を下した。
「余は承偵らの命までは欲しておらぬ。京にて隠居料を与える故、潔く降伏せよ」
義輝の上洛前から敵対していた相手にしては、寛大な処置だった。六角承偵は裏切り者とはいえ、長きに亘って義輝を支援してきた事に対する最後の情けであった。
もはやこれまでと、六角親子は城を開けることに同意した。
【続く】
新章第一幕です。
話としては、これまでの総括的なものでありますが、三十幕以上も続いたので話を整理する回とさせて頂きました。今後も、こういう回を少なからず取り入れていくつもりです。
はてさて、周蒿の名前は完全にオリジナルです。悩みました。案しては“晴輝”“輝晴”“藤晴”や“義朝”“義能”(周蒿の孫とされる結城朝能より)などが考えられましたが、一番しっくりくるのが晴藤でした。(父親の名前を後ろに持ってくるのは憚られたので、晴藤となりました)