第十幕 存亡の秋 -勝利への執念-
十一月七日。
阿波国・吉野川
吉野川の東側で安宅信康と岩成友通が激突した。
「三好の名を残すには勝たねばならぬ!いざ進めッ!」
「裏切り者の信康を許すな!返り討ちじゃ」
義輝の反撃が始まった昨年の十月以降、合戦で初めて三好一門同士の戦いとなった。奇しくも互いに三好の家を残すには勝たなければならず、背負っているものは同じだった。両者は最初こそ弓、鉄砲で激しくやりあったものの、すぐに白兵戦へと移っていった。
「ぐぬ……、信康如きに…」
数こそ岩成勢が優勢だが、勢いは安宅勢にあった。信康は三好の家を背負うべきはずの一門衆が久秀の走狗に成り果てていることに我慢ならず、信康は友通と違って自らが先頭に立って兵を進めていた。これが部隊の士気を大いに上げた。
「退くな!逃げるな!」
友通が大声で兵を叱咤しても最初の勢いを覆すことが出来ず、安宅勢の猛攻の前に味方がそこら中でバタバタと倒れていった。
そこへ松永久通の部隊が救援に駆け付ける。
「友通様。我らが援護いたします」
「おおっ!久通か、助かる」
久通の手勢が側面から回り込み、安宅勢を襲う。流石に多勢に無勢であり、見かねた細川藤孝が援護に出ることによって戦況を五分へ戻した。
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また中央でも戦は大きく動いていた。
畠山高政が三好政康の猛攻の前に崩れた。義輝は控えていた二陣から島清興を当て、高政が抜けた穴を埋める。
「我ら筒井勢の強さを三好の者共に知らしめよッ!」
清興としても三好には何度も辛酸を舐めさせられている。その三好は、この戦に負ければ滅ぶ。故に積年の恨みを晴らすならば、この戦が最後の機会となる。故に意気込んでいた。
「三好政康は何処じゃ!この儂が引導を渡してくれるッ!」
「小癪な!筒井の家臣風情など政康様が相手をするまでもない。この新開実綱が討ち果たしてくれる!」
「ふん!雑魚は引っ込んでおれ」
実綱が手槍を鋭く突き上げる。清興の胴を狙った一撃だったが、清興は巧みに身体を捻ってそれを避けた。
「今度は儂の番じゃ」
清興が渾身の力を込めて槍を叩き下ろす。実綱はそれを愛槍で防ぐが、柄が真っ二つに折れてしまった。清興の一撃が凄まじいということもあったが、先ほど戦い始めた清興と違い実綱の槍は連戦で痛んでいたのだ。
「くそっ!」
槍を失った実綱は刀に手を掛けるが、その隙を清興が見逃すはずはなく、鞘から抜ききる前に実綱はあの世へと旅立っていた。
「新開実綱は討ち取った!次は政康じゃ」
新開勢を討ち破った島勢がどっと政康勢に押し寄せる。しかし政康も必死だ。楯を一列に並べると構えたまま兵に突進をさせた。島勢はすかさず弓や鉄砲で応戦するが、政康勢の勢いは止まらず、充分に近づくと楯を押し倒して雪崩れ込んだ。島勢は勢いに飲まれ、二町をも押し返されてしまう。
「お…おのれ……!!」
新開勢を討ち破った勢いは完全に削がれてしまい、清興は悔しがった。
その時である。清興の右手から大きな喚声が湧き上がった。
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一進一退を繰り返していた幕府軍右翼では、浅井長政の参戦で形勢が一気に傾いた。
「このまま揉み潰してしまえ!」
長政が采を振るう。辺りには東讃衆のものと思われる死体が山のように転がっていた。それはつまり先ほどまでこの地で戦闘が行われていた証であった。それほどまでに幕府勢は敵を追い込んでいた。
「申し上げます!安富盛定より寝返りの申し出がございます!」
「分かった。すぐに槍を返さねば、敵として討つと伝えよ」
「はっ!」
長政は事前に讃岐衆への調略が行われていることを知っているため、事務的に返答する。ただ素直に喜べる事態ではない。安富勢は既に戦闘に加わっており、それは最後の最後まで幕府軍の勝利を疑っていたことになる。それだけ、まだ義輝の力が弱いことを意味していた。
安富勢の寝返りで右翼は混乱の極みに達した。寒川元隣は討たれ、大西頼武がなんとか支えているものの半刻(一時間)保つかどうかといったところだ。それよりも厄介なのが、寝返りが伝染することである。
「安富盛定が寝返った!?ええい!我らも遅れてはならぬ。公方様へ急ぎ使者を立てい!」
安富盛定の寝返りは戦局を一変させた。左翼では香川之景と羽床資載が揃って寝返り、中央では側面が露わとなった三好政康が窮地に陥る。政康は急ぎ一宮成助を香川勢に当てると本陣に救援を求め、勝瑞城から三好康長、篠原長房が三〇〇〇を率いて西讃衆へ当たった。
その直後に急報が本陣にもたらされた。
「申し上げます!岩成友通が討ち死にした模様!」
「なにッ!?」
宿敵である三好三人衆の一人の死に義輝は驚いた。戦況を聞いている限り、岩成勢とは形勢は五分だったはずだ。
「信康が討ち取ったのか?」
「いえ。安宅様ではないようです。何れかの雑兵の手にかかったようにございます」
「三好三人衆の一人が名もなき者に討たれたか…。ま、それも相応しき末路であろう」
“逆賊の末路など左様なものだろう”として義輝はさして気にはしなかったが、実は友通は久通の手にかかって殺されていたのだった。それも義輝の次の一言を引き出すためだけに…
「信康と兵部に追撃させよ。元綱も追って出す」
合戦は敵の離反が相次ぎ、三人衆の一角も崩れた。これにより義輝は勝利を確信した。唯一の懸念は久秀が仕掛けているはずであろう罠が何であるか分からないことだったが、義輝は久秀が何かしでかす前に久秀を屠ってしまおうと考えた。
まさにそれこそが、久秀の狙っていたことだとも知らずに…
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突如、松永勢が方向を変えた。
久通の手勢こそ岩成の残党を吸収しつつ後退していたが、久秀の本隊が川を渡って丹波勢の側面を衝いたのである。松永勢は安宅・細川の部隊が抑えていると思っていた波多野秀治はこれに備えることが出来ず、後退を余儀なくされた。
「おのれ!またしても松永かッ!」
もはや勝ち戦と思っていただけに秀治の怒りは凄まじいものがあった。そもそもが三好、その中でも内藤宗勝(久秀の弟)に悩まされていただけに腸が煮えくり返るものがあった。
しかし、部隊を退げる他に選択肢はない。代わって朝倉景恒の部隊が入る。そうすると戦局は再び幕府軍の優勢に戻った。
その一連の光景を冷静に眺めている男がいた。明智光秀である。
光秀は義輝に近いことから第三陣を任されていたが、味方の奮戦と相次ぐ敵の離反でこれまで出番がなかった。今に於いても二陣のみで決着しそうであり、自分の出る幕はないと思っている。しかし、それ故に戦況を客観的に見続けることが出来ていた。
光秀が最初に違和感を覚えたのは、松永久秀の行動であった。
岩成友通の戦死により北島おける戦闘は幕府軍の優勢となった。久秀としては、全軍を以て迫る軍勢に当たらなければならないはずだが、あろうことか部隊を二つに分けて丹波勢を攻撃した。これは兵法で言えば明らかに下策である。秀治が虚を衝かれるのも無理もないと言えるだろう。
(下策を以て上策と成す。それはいいのだが…)
結局のところ、久秀の行動は一時的に丹波勢を退けただけに過ぎず、兵力で劣る久通の部隊では安宅・細川・朽木三隊の攻撃をとても防ぎきることは出来ない。かといって朝倉勢と戦闘に入った久秀が息子の救援に駆け付けることもできず、手詰まりの状態にある。結果、久秀の行動はやはり下策ということになる。
そんな中、光秀はあることに気が付いた。
(兵が少しずつ上様の周りから遠ざけられている…)
その時である。光秀の目には吉野川を遡ってくる船団が見えた。
「いかん!!これが松永の策か!?」
光秀は自軍を急ぎ全軍を本陣のある方角へと向けた。
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義輝の本陣では、予想外の敵の登場に狼狽えていたといえば、そうではない。奇襲を受けたとはいえ、本陣には三〇〇〇もの手勢が控えている。そうそう容易く崩れるものではない。
「久秀が考えそうなことだ」
「上様。感心している場合ではございませぬぞ」
悠長に感想を述べている義輝を三淵藤英が諫める。この義輝の悠然とした態度は人を惹き付ける大きな魅力となっているが、こういう場合は少なくとも安全を期して本陣を下げるべきである。しかし、当の義輝は陣を下げるどころか打って出ようとしていた。
(危険すぎる!)
如何に義輝の武が優れていようと数の暴力には負けるのだ。それに、ここまでくれば藤英にも久秀の狙いが何であるか分かっている。久秀は義輝の命だけを狙っており、そのためには合戦の勝利すら捨てる気でいるのだ。それが分かっていながら、義輝の出撃を認めるわけにはいかなかった。
「私が本陣の兵をいくらか率いて出ます故、上様はここで全軍の指揮を御願い致します」
「もはや余が指揮を執らずとも戦は勝ちだ。それよりも迫る敵を排除せねばならぬ」
「ですから、それは私の役目にございます。私で不安とあらば、明智殿にも支援を頼みます故にどうかご安心下さい」
藤英としては何としても義輝の出撃を阻止しなければならなかった。明智に頼むと言ったのも方便であったが、光秀は独自に動いてこちらへ向かっているので結果として嘘にはならなかった。
「ならば左衛門尉(藤英)、二千を率いて行け」
こうなると義輝も任せるしかない。家臣を信頼することも義輝の役目であり、手柄を奪うようなことはあってはならない。
かくして三淵藤英は本陣の東南・堀之内に上陸してきた久秀の奇襲部隊と戦うことになった。
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船団が無事に上陸したという報せはいち早く久秀の許へと届けられた。
「どうやら上手く行っているようだな」
義輝を奇襲した部隊は森元村の部隊だった。阿波水軍の棟梁であり土佐泊城主・村春の父である。一年前に四国へ逃げてきた久秀は隠居していた元村を召し出して、阿波平島近く那賀川の河口に第二の阿波水軍なるものをこの瞬間だけのために創り上げていた。
合戦が始まったことを知った元村は予てよりの久秀の作戦通り林通勝の手勢を船に乗せ、紀伊水道を通って吉野川へ入り、絶妙な時期に上陸させて義輝の本陣を襲ったのである。
「後は仕上げだけだな。狼煙を上げる手筈を整えておけ」
久秀が配下に命じると自身は船に乗った。このまま吉野川を伝って勝瑞城に逃げ込む気でいるのだ。義輝の命を奪ったとて周辺は敵勢だらけである。万が一に備えて、身の安全を確保しておく必要があった。
「申し上げます!将軍本陣より出撃した一隊が林様の軍勢に襲いかかったようにございます。また明智勢も迫っているようです」
「よし!狼煙を上げよ!」
言葉に思わず力が入る。一年間かけて練り上げた策が成就する瞬間だった。つまり、それは船団による奇襲策の続きがまだあったことを意味していた。
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この戦で初めて、光秀の怒号が響いた。
「鉄砲衆、放てッ!」
光秀の眼前で火砲が一斉に弾丸を放った。明智勢の鉄砲隊である。
滋賀郡を任せかされた光秀はまず鉄砲隊を組織しようと考えた。ただ新兵器である鉄砲はまだ造れる者が少ない所為か高価である。これを多量に買い込む金が光秀にはなかった。そこで思い立ったのが義景からの築城費用である。これを水増しして請求し、その一部を鉄砲の購入費用に充てたのだ。
これにより明智勢には八〇挺ばかり鉄砲があった。光秀は当面、これを五、六〇〇挺ほどまで増やしたいと考えている。
その初めての鉄砲隊の指揮を、自ら執った。轟音が、鳴り響く。
「敵が…脆い?」
明智勢の鉄砲隊に一撃された林勢は怯んだ。本来であれば奇襲部隊は形勢を逆転させるほどの要の軍勢は士気が高いはずであり、鉄砲の一撃で怯むとは思えない。
(まさか…!これも我らを釣り出す策か!?)
光秀が久秀の罠に懸念を抱いている隣で、三淵藤英は林勢に追い打ちを懸けていた。慌てて光秀が深追いを避けるよう注意を促しに藤英の許を訪れた時、背後の天円山より喚声が上がった。
「い…いかん!」
光秀が後ろを振り返ると、既に義輝の本陣は敵に襲われていた。光秀はすぐに軍を反そうしたが、その時になって林勢が攻勢に転じてきた。
「松永久秀……、最初からこれが狙いか!」
光秀は躊躇した。義輝を助けることが急務ではあるが、ここで軍を反しては目の前の軍勢を義輝の許へ呼び込むことに繋がる。
「光秀!上様が危うい!」
「分かっております!ここは手前が引き受けます故、三淵様は上様を…」
「承知した!」
光秀に義輝救援を託された藤英は軍を反転させた。その間に割って入るように光秀が軍勢を動かす。
「鉄砲衆。儂について参れ」
光秀の鉄砲隊を率いて前線へ出る。少しでも藤英の後退を援護するためだ。しかし、光秀は義輝のことが気にかかって目の前の敵に集中できず、己もじりじりと後退するのであった。
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義輝の本隊は異様な状態に陥っていた。
本陣に残っている義輝の手勢は約一〇〇〇。その内の半数以上が荷駄隊であり、奇襲を受けると一気に混乱に陥って使い物にならなくなった。しかし、残りは柳生宗厳の馬廻衆であり、一兵一兵が武芸者の集団である故に突然の奇襲にもまったく動じていなかった。
「上様!ここは危険にござる。急ぎ三淵殿の軍勢と合流なされませ!」
柳生宗厳が義輝へ退避を促す。手には血みどろになった刀があった。既に義輝がいる場所にも矢が飛来してきており、先ほど義輝も自ら刀を手にして飛来する矢を叩き落とした程だ。
「余は動かぬ!討ち払え!」
「されど…それでは御身が……」
「何のための馬廻衆か!あれしきの数に恐れをなしたか!」
義輝はあれしきと言ったが、敵の正確な数は把握していない。ただ山岳部に潜んでいた敵であるから、数はそう多くないと判断していた。
「恐れなど、あろうはずがございませぬ!」
元より宗厳に恐れはない。単に義輝の身を案じて発言しただけだった。
「ならば退く理由はない!二度と我が背中を久秀に見せるものかッ!!」
そう…義輝にとって三好長慶が亡き今、松永久秀という人間は越えなくてはならない壁であった。これを乗り越えてこそ、本当の意味で初めて幕府再興への最初の一歩を道を踏み出せると思っている。そして、その口から発せられた言葉は宗厳の心を大いに震えさせた。
「上様…」
「すまぬが付き合ってくれ。所詮、余の意地でしかないことは分かっている」
「なんの。この宗厳以外に誰が上様に付き合えましょうか」
宗厳はここが戦場であることを忘れてしまうほどの笑みを浮かべた。決意を固めれば、行動は早い。
だが状勢はけしていいとは言えなかった。義輝が宗厳に命じて集めさせた全国の武芸者で構成される馬廻衆は全員が恐ろしく強く、冷静に戦っている。ある者は刀を取り、ある者は槍を持ち、弓矢や鉄砲、鎌や斧まで手にしている者もいる。皆、敵を圧倒している。
「ふん!」
義輝が刀を振り、敵兵を一人冥土へ送る。また義輝の背後を襲おうとする者を宗厳が斬り伏せた。全国より集められた名のある武芸者がいるにも関わらず、ここまで攻め込まれているのには理由があった。
彼らはその強さこそ圧倒的だが、あくまでも個人の武である。組織戦に慣れておらず、各々が勝手に戦っているだけなのだ。しかも敵は義輝の首のみを狙っており、必要以上に余人と戦うことをしなかった。足並みの乱れは、敵が義輝に近づく隙が生む。それでも宗厳が必死に指揮をしているが、用いる武器の違いから上手く機能しなかった。
「あれが将軍ぞ!者共、槍じゃ!槍を持て!」
義輝の姿を見つけたのは奇襲部隊を率いる楠木正虎だった。楠木正成の子孫を称する兵法家である。今回の作戦で義輝暗殺という最も重要な役目を任されている。
「それッ」
正虎の家臣ら四人が一斉に手槍を義輝へ向けて投げた。これに義輝は激昂した。
「おのれッ!」
槍を投げる行為は戦場に於いて卑怯者のやることとされており、名誉を尊ぶ武士からは嫌われている戦法だからだ。それを平然とやってのけるとは、流石に松永久秀の家臣と言えた。
ここで義輝と宗厳が妙技を見せる。義輝が二本の槍を一刀で同時に薙ぎ払い、宗厳は刀を捨てると飛翔する槍を半身で避け、後ろの一本を素手で掴んだのだ。しかもお返しとばかりに、その槍を相手に投げつけた。
もちろん敵に義輝たちのような芸当が出来るわけがない。正虎は串刺しにされ、兵は四散した。
「ほう…やるではないか」
「上様も、流石でござる」
二人は視線を交わし合うと、戦意を喪失している敵へ向かって駆けだした。その直後、藤英の部隊が戻り敵を掃討し始めた。
戦は、もう終わりに近づいていた。
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松永久秀は勝瑞城前に戻ったところで、楠木正虎の奇襲が失敗したことを知った。あの松永久秀が膝頭を地につけたのだ。
「お…おのれ!おのれ!おのれ!おのれッ!!」
久秀が何度も拳を地面に叩きつけて怒りを露わにする。家臣たちは、それを止めることなく呆然と見つめていた。いつも冷静沈着で全てを知ったような顔でいる主君が、これほどまでに感情を表に出したのを初めて見たからだ
「許さぬぞ義輝…。必ずや貴様を殺してやる!殺してやるぞッ!!覚えておれッ!!!」
久秀は双眸に復讐の炎を灯らせ、義輝のいる方角を睨み付けた。
ただ、久秀にもここから巻き返す策は、もうなかった。
【続く】
合戦後編です。いつもより少し長くなりました。
三好・松永との合戦はこれで終わりますが、本章はあと三幕ほど続きます。本章終了は目標は今月中でしたが……、来月頭くらいになりそうです。申し訳ない。
次回、意外な人物の名が登場します。