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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第二章 ~三好征伐~
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第八幕 焦燥 -風林火山、駿府に立つ-


永禄八年(1565)十二月某日。

甲斐国・躑躅ヶ崎館


武田徳栄軒信玄は甲斐・信濃二カ国の守護を務める大名であり、その武名は東国のみならず西国にまで轟いている。しかし、その武名に反して本拠を置く甲斐府中には城を構えずに躑躅ヶ崎館を己の住処としていた。これは信玄が常に領地の外で戦うことを信条としているからである。


その信玄の許に足利義輝が征夷大将軍へ再任されたという報せが入った。すぐに信玄は主殿で緊急の評定を開く。招集されたのは武田信廉、河窪信実、一条信龍、穴山信君、馬場信春、飯富源四郎、内藤昌豊、春日虎綱、小山田信茂、秋山信友ら武田首脳らである。


「三好一党が畿内より駆逐され、義輝公が将軍職へ返り咲いた」

「なんと!?まだ上洛して一月程度ではありませぬか」

「三好の弱体化がここまで進んでいようとは……」


一同が揃って驚きの声を上げる。無理もない。三好家は長きに亘って京を支配していた大大名である。その勢力は天下第一といっても過言ではない。如何に三好長慶が死去したとはいえ、一月余りで畿内から駆逐されるのは早すぎた。


(まさか将軍家が七カ国も手にしようとは…、景虎めの欲のなさも度が過ぎるわ)


上方からの報せは論功行賞の内容にも触れられており、将軍家が上方で七カ国を直轄地にしたことが分かった。さらに義輝は管領職まで廃止してしまったというから信玄も驚いた。これは織田信長の進言によるものだが、それを知らない信玄は将軍への忠義が篤い景虎が全て主導したものだと思っていた。ちなみに信玄は上杉輝虎の上杉家継承を認めず、今も長尾景虎と呼び続けている。


(これでは景虎の力が大きくなってしまう。何か手を打たねば……)


信玄は景虎と長く争っているので、義輝が景虎に大きく肩入れしているのを知っているのだ。つまり上方で将軍である義輝の力が強まれば、その後ろ盾を持つ輝虎の力も増大していく。関東管領の威光も増す。これは信玄にとって憂慮する事態だった。


さらに信玄を悩ませたのが織田信長の躍進であった。最初は尾張の小領主としか考えていなかったが、いつの間にかに美濃を獲り、将軍を奉じて上洛して南近江も版図へ加えてしまった。表向きは同盟者として祝意を伝えてあるが、それは武田家の西方への進出を困難にしたことと同じであった。


この時、信玄の中に小さな焦りが生じたことを、まだ本人は気付いていなかった。


「御屋形様。なれば景虎めは帰国した後は必ずや関東へ出馬いたしましょう」

「うむ。北条は佐竹義昭の死に衝け込む気でおる。無論、佐竹は景虎へ救援を請うであろうから、そうなるな」


この時、まだ佐竹義昭の死は公表されていないが、信玄は素波の手によりそれをいち早く知っており、重臣たちへもそれを報せていた。


「五月…いや、早ければ四月か」

「北陸道の雪は深い。景虎が京を発つのは早くても三月の初め頃であろうから、そんなところだろう」

「では北条から当家へも支援の要請が参ろう。仕度を整えておかねば」

「次こそは箕輪城を落としてくれる。石倉城と同じ轍は踏まぬわ」


今年の九月、西上野攻略の拠点として築いた石倉城が上杉の計略によって失われた。この時、武田は二千人に近い死者を出しており、その損害は景虎の留守を狙って上州に進出することを不可能にしただけでなく、今冬は出兵を控えるしかなくなった。


(やはり南へ征くしかないか……)


家臣らが上杉への復讐に闘志を燃え(たぎ)らせる中、信玄の眼は一人南を向いていた。


駿河への侵攻。それは武田家にとって最大の秘事だった。


そもそも駿河は今川家の領地であり、今川と武田は同盟関係にある。しかし近年、今川家が松平家康の前に後退を続けており、遂には三河一国が奪われた。今のままでは駿・遠・三の東海三カ国は何れ家康のものとなるのは時間の問題だった。


(家康如き若造に今川領はやれぬ)


その前に武田が今川家を倒してその領地を版図へ加える。それが今後における信玄の方針だった。しかし、それも本来は西上野を手に入れてからの話だった。


「駿河を攻める。その算段をせよ」


唐突に信玄が方針を口にし、一同は口籠もった。家臣らは信玄が駿河攻めを考えていること自体は知っているために驚きはないが、どうしても駿河の話となると口が重くなってしまう。


「御屋形様…それは……」


唯一、飯富源四郎だけが僅かに口を開いたが、明らかに駿河攻めに難色を示している様子だった。


これには理由がある。


二ヶ月ほど前の話だ。家中で謀叛を企てた者がいた。信玄の嫡男・太郎義信と源四郎の兄・虎昌である。しかもそれを密告したのが源四朗自身なのだ。幸い謀叛自体は未然に防ぐことが出来たのだが、虎昌は義信を庇い全責任を負って自害した。事の原因は信玄と義信の対立にあり、発端はこの駿河攻めに起因するところであったが、源四郎は兄の名誉のために主君を恨むようなことはなかった。


義信の正室は今川義元の娘であり、義信は何かにつけて今川家を擁護し、同盟関係を維持すべしと主張していた。松平へ対しても“武田が支援すれば済む話”として父の方針に頑として反対しており、その結果、謀叛が起こって虎昌が自害した。虎昌は宿老筆頭であった故にこれを内々の争いで亡くし、義信は幽閉(まだ廃嫡はされていない)されたことは武田にとって大いなる損失でしかない。


この様な経緯から、源四郎としては駿河攻めは家運を傾けるように感じられて仕方なかった。ちなみに源四郎は信玄の配慮によって翌年一月に飯富姓を離れて山県を名乗り、山県昌景と称することになる。


「されど当家が駿河に攻め入れば、北条が黙っておりますまい」

「この際、上州は北条にくれてやる。さすれば当家は上州で北条と長尾が争っている内に駿河を獲れる」

「果たして、そう上手く事が運ぶでしょうか?北条は関東へ兵を出しながらも今川へ援軍を送れるだけの兵力を抱えておりましょう」


北条家の大きさは同盟者である武田の者は誰もが知っているし、その認識を共有している。これに対して信玄は腹案を考えていた。


「松平を味方に付ける。遠州をやると言えば、乗ってくるはずだ」


もちろん最初に北条へ今川領を分かちあおうと誘いを入れることはするが、氏康は拒否してくるだろうから信玄は同時に松平へも同盟を呼びかけるつもりだった。松平は既に今川と敵対しているので、同盟締結はさして難しくはないと思われる。


「されど皆には承知しておいて欲しい。儂は遠州をも版図へ加えるつもりでおる」

「つまり家康を利用すると?」

「その通りだ。もっとも遠州の西を僅かばかり与えてやっても良いとは思っておるがな」

「流石は御屋形様じゃ。慈悲深くあられる」


賛意を示すのは、穴山信君である。信君は甲斐南部の河内を領しており、この駿河攻めには最初から乗り気だった。


「しかし家康がそれで納得しましょうか?我らに裏切られたとなれば、織田が出てくるのでは?」


秋山信友が懸念を口にする。三河一国しか有しない松平家康だけならば敵に回ってもどうということはないと思っているが、織田信長は濃尾二カ国を治める大名であり、国力で既に武田を上回っている。これに加え、松平と北条を敵にするのだから武田は四面楚歌に陥るといっても過言ではない。


「信長の目は西に向いておる。三河にすら手を出さなければ、出てくることはないと儂は読んでおる」


この信長とも武田は同盟を結んでおり、信長の養女を四男の勝頼に娶らせている。この時のやりとりで、信玄は信長の眼が西へ向いていることを知った。


ただそれも憶測と言えば憶測でしかない。珍しく信玄は賭けに出たと言っていい。歳も四十五となり、身体の衰えも増すばかり。嫡男の義信は優秀であったが反りが合わず、跡目を継がせるとしたら勝頼しかいないが、若さ故か血気に逸る気質で危なっかしい。自分の目の黒いうちに武田を他国に劣らぬほど強くしなければならない。それには駿河、遠江の二カ国が不可欠であり、上杉と不毛の戦を続けている時間はなかった。


「来秋、状勢を見極めた上で駿河へ兵を入れる。左様に心得ておけ」

「はっ」


この後、武田軍は凡そ一年間の沈黙を保つことになる。


そして永禄九年(1566)十一月六日。上杉輝虎、北条氏康、そして織田信長が兵を動かしたことを確認した信玄は、躑躅ヶ崎館を出陣した。


=======================================


永禄九年(1566)十一月七日。

駿河国・今川館


突然の報に、今川刑部大輔氏真は目を丸くしていた。


「武田が攻めてきたじゃと?」


武田と言えば、氏真の妹を嫁がせているあの甲斐・武田である。盟友であるはずの武田が何故に攻めてくるのか氏真はまったく理解できなかった。


「と…ともかく兵を出さねば……」


氏真は庵原忠胤に兵を預けて先発させた。忠胤は薩埵(さった)峠に布陣し、武田を迎え討つ策に出た。薩埵峠は難所であるが、駿府を狙うのであればここを通るしかない。


遅れて氏真が到着し、清見寺に入った。ここで氏真は己の策を披露した。


「小田原の義父(氏康)殿に使いを出した。ここを固めておれば、武田を挟み撃ちに出来る」


氏真は得意満面に語ったが、重臣たちは揃って絶句した。


北条はいま上野で上杉と戦い、下総で佐竹と里見と戦っている。都合四万を越える兵力を小田原から離れた地に送っているとなれば、援兵に駆け付けてくれるか疑問であり、来たとしてもいつになるか分かったものではない。しかも氏真は使いを送ったというだけで“援軍を送る”という返答を得たわけではなかった。


ただそれでも今川の家臣たちはよく峠を守った。日付にして十日。あの精強な武田軍をよく防いだと思う。しかし、その成果は“徳川勢、遠州へ乱入す”の報知により無に帰した。


=======================================


十一月二十三日。

駿河国・薩埵峠


「どうやらまつだい…いや、徳川が動いたようにございますな」

「そのようだな」


信玄は信君の報告を不満げに聞いていた。本陣からは、今川の混乱ぶりが手に取るように分かった。これが徳川勢によるものだと信玄は知っている。結果的に上手くは行ったが、それが自軍の働きによるものでないことに不満なのだ。


松平家康こと徳川家康は、信玄からの同盟要請を即座に受諾した。家康にとって織田との同盟がある以上は領地を広げるには東へ進む他はない。家康としては対今川戦に関しては何の不安要素も抱いていなかったが、唯一武田と北条が動くことを懸念していた。


上洛戦に参加し、三河守護となり官職も得た。(この時に徳川へ改姓している)つまり氏真がどう騒ごうと三河一国の統治権は名実共に家康に移ることになった。家康は上方から帰国後、最後の仕上げとして奥三河へ侵攻して三河の完全統一を果たし、亡き祖父・清康の悲願を達成した。


ただここから先はどうなるか分からなかった。遠州はともかく駿河に手を掛けようものなら、今川の援軍として武田や北条が動く可能性があった。信長が武田と同盟している以上、家康は単独で三大名と戦わなければならない。それは流石に不可能であり、その矢先の同盟要請だった。


「後は家康がどこまで遠州へ入り込むかだな」

「天竜川までならよし。それを越えるようなら同盟は破棄する」

「では、我らも急いで駿府を奪ってしまわなければなりませぬな」


既に信玄の許には不利を悟った三浦義鎮より寝返りの申し出が伝えられている。義鎮は氏真の側近中の側近で家中からは“奸臣”と陰口を叩かれている者だ。実際そうなのだが、それ故に今川の内情を知り尽くしており利用できる相手だった。


その義鎮の導きにより氏真を遠州に追う。氏真が遠州へ入ってさえしまえば、今川勢は武田よりも徳川への対処を必然的に優先させることになる。そうなってしまえば駿河一国は手に入ったも同然である。


その時、敵の一角が崩れるのが見えた。


「馬場殿の部隊ですな」

「これでようやく抜けられるか。信春にはそのまま駿府へ進めと伝えい」

「ははっ」


薩埵峠の戦いは今川勢の奮戦も虚しく武田方の勝利となった。信玄はそのまま駿府を占領した。氏真は賤機(しずはた)山城に籠もって抗戦しようとしたが、義鎮の裏切りによりこの城をいち早く武田軍に抑えられてしまい、遠州・掛川城への避難を余儀なくされた。


一方で氏真が退避したことで駿府を手に入れた信玄は唖然としていた。さして大きな戦いがなかったにも関わらず、今川館が灰燼に帰していたからだ。今川氏は今川範国(のりくに)が駿河守護に任じられてから凡そ二百三十年余り支配していたこともあり、館には数々の宝物が蓄えられていた。信玄はこれらを今後の軍事金として当てにしており、諸将に押さえるよう命令を下していたのだ。


「信春…、これは如何なる事じゃ」

「はて?仰っている意味が分かりませぬが?」

「惚けるでない!儂の命は伝えておったはずじゃ」

「ああ…あれですか」


信春はさも忘れていたように話す。その態度が信玄の感に障った。


「逃げた手柄(氏真のこと)よりも敵の財宝を奪う。甲斐源氏の惣領ともあろう御人が、左様に貪欲な真似を致しては後世の笑い者となりましょう」


これを聞いて信玄は我に返り、カラカラと笑った。


「流石は鬼美濃じゃ。やはり年長者の言うことは聞かねばのう」


信玄は信春の命令違反を不問にしただけではなく、その忠節を見習うよう諸将に伝えたのだった。


今川の本拠・駿府が陥落したとの報は東海道を揺るがした。これより前に今川氏の衰退が始まっていたことから瀬名信輝、朝比奈信置、葛山氏元、伊丹康直らが“もはや主家に先はない”と考え、武田への降伏を願い出た。


こうして周辺国の間隙を衝いた信玄の駿河侵攻は、成功裏に終わった。




【続く】

今回で東国編が終了です。次回からまた義輝の話へと戻ります。


さて、信玄の駿河侵攻が二年も早まりました。二年後だった史実と国力の差もそれほどないので一応は史実通りに展開していますが、とりあえずまだ今川家は滅びていない、と言及だけさせて頂きます。義輝の存在と二年早くなった結果……、それを書くのは次章となります。


次回からは一気に本章を終了まで行きたいと思います。


※尚、家康の徳川改姓を前章最後で触れるのを忘れており、今回で表記しました。また上杉だの長尾だの謙信のことが分かりづらくて申し訳ありません。



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