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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第二章 ~三好征伐~
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第六幕 東国戦役 -北条の攻勢、上杉大苦戦-

時間は少し遡り、永禄九年(1566)四月。


将軍・足利義輝の要請に応え、上洛していた上杉輝虎は久しぶりに居城・春日山へと戻っていた。長らく対武田戦や対北条戦で鬱憤の溜まっていた輝虎であったが、今回の上洛戦は大成功に終わり、義輝は畿内に七カ国を得て幕府は以前とは比べものにならないほど盤石となった。その爽快感はこれまでの人生において感じたことのないものだった。


「後は関東か…」


しかし、難題は残っている。


輝虎のいない関東では常陸国主・佐竹義昭の急死から小田氏治が旧領奪還へ動いており、混乱の極みにある。これを助けるべく来月には関東入りする手筈になっており、休む間は殆どなかった。


春日山へ戻った輝虎の許には、関東の状勢が詳しく伝えられていた。


それによれば、既に居城・小田城を奪い返した氏治は太田資正、梶原政景親子を追って常陸西部を回復しており、さらに北上を続けているという。また北条高広が謀叛、北条方に与した。


高広の謀叛は輝虎が関東の留守一切を任せていただけに衝撃だった。粗忽者で手に負えない相手ではあったが、戦に強く頼りになる将であった。上方で忠義の戦を行ってきたばかりの輝虎としては、この謀叛劇に愕然とするしかなかった。


だが一方で闘志を湧き上がらせていた。関東全域を巻き込んでの騒ぎとなれば、そんな芸当を出来る人物は北条相模守氏康に他ならない。現に北条の当主・左京大夫氏政(氏康は先代)が一万八〇〇〇を率いて下総に出陣、反北条の者共に睨みを利かせていたために氏治は常陸で好き勝手に暴れており、北条氏邦が輝虎の進出を阻むべく一万五〇〇〇で上野へ進出している。


「いざ出陣!」


五月七日。輝虎は関東へ向けて出陣した。兵は僅かに五〇〇〇。昨年から関東、上方、そしてまた関東と長い遠征続きで連れて行ける兵は格段と少なくなっていた。


=======================================


五月十八日。

上野国・藤岡


上州への進出を図った北条氏邦は“上杉輝虎、春日山を出陣”の報を受けると軍勢を反転、(からす)川一帯に布陣して迎え討つことにした。この地であれば、西岸に盟友・武田の倉賀野、木部の両城があり、支援が受けられるからだ。


「ようやく輝虎が姿を現したか…」


対岸に万余の兵が現れた。報告では、関東入りした上杉勢は五千前後というから、残りは上杉に味方する上野衆の軍勢なのであろう。


「どうやら輝虎は本陣を観音山古墳に置いたようですな」

「ふっ…よほど東が気になるようじゃのう」


物見から帰ってきた大道寺政繁の報告を淡々と受ける氏邦。越後の軍神・上杉輝虎を前にして氏邦がここまで余裕なのは訳がある。


観音山古墳は氏邦の本陣から東寄りにあり、輝虎は北条・武田と相手にしながら北条寄りに布陣したことになる。これは佐竹救援を考慮してのことであり、つまりは目の前の戦に重点を置いていないということになる。


また北条勢は鞍替えした一部の上野衆と倉賀野、木部の武田勢と合わせれば上杉勢の倍の兵力を有している。しかも輝虎には佐竹救援が急務であり、時間を掛ければかけるほど常陸の状勢は悪くなる。輝虎は早期決着を望んでいるはずで、こちらからは攻める気はないので、必ず上杉から烏川を越えて攻めなければならない。兵法では、川は先に渡った方が不利であると記されている。氏邦は、これを忠実に守って戦をするつもりだ。


「喜多条(北条方における高広の呼び名)殿。予定通り先手は任せましたぞ」

「応よ。輝虎めに儂を軽んじたことを後悔させてくれるわ」


高広は厩橋城を水没させられたことを恨んでいた。如何に上洛の為に急いでいたとは言え、高広には厩橋に拠って武田・北条を食い止めるだけの器量はある、と自負している。その自分を無視して上泉信綱の献策を受け入れた輝虎に落胆した。“所詮、儂の評価はその程度か”と。そんな時である。北条氏康から“上州を任せたい”と誘いの手が伸びてきたのは。


「申し上げます!敵勢が動き出しました!」

「なにッ!?」


飛び込んできた急報に、氏邦は思わず声を荒げてしまった。


「輝虎が動き出すとしたら明日以降かと思っておりましたが…」


政繁が己の予想を口にする。しかし、それは氏邦の抱いていたものと寸分も違わぬものだった。何せ上杉勢は先ほど布陣を終えたばかりであり、時刻も既に正午を回り日暮れまで二刻(四時間)とない。如何に急いでいたとしても、合戦は明日以降と考えるのが常識であった。


「慌てるでない。これは好機ぞ。敵は焦って軍勢を動かしたが、これを討ち破れば上州は我が北条のものとなろう。励めッ!恩賞は望みのままぞ!」

「おおっ!!」


上杉勢の動きに驚きはしたが、それで冷静さを失う氏邦ではない。こちらの優位は揺るがないのだ。落ち着いて対処すれば、勝利を手にするのは自分たちであるのは間違いない。


だが、その思い込みは甘かった。


=======================================


五月二十一日。

相模国・小田原城


小田原城の主殿で氏康は烏川合戦の報告を受けていた。


「…輝虎め、上方の次は関東か。あの戦好きはじっとしておれんのか」


氏邦よりの報せによれば、戦は上杉勢が布陣した直後に始まったらしい。上杉の狙いは一点突破であり、先手を任せた喜多条高広の部隊を集中的に攻撃した。喜多条勢は高広の影響で勇将揃いではあるが、上杉からすれば高広の陣立てが如何なるものか知り尽くしている。故に敵を探るようなことは必要なかった。


この高広の軍勢が意外と脆かった。確かに高広は輝虎に対して憤怒の念を抱いていた。それを上手く利用して離反させたのであるが、裏切られた上杉方も同様の念を抱いていたらしい。先手の柿崎勢の勢いは凄まじかったという。しかも間の悪いことに高広が本陣に詰めていたこともあってか対応が遅れ、自陣に戻った頃には手遅れなほど部隊は混乱していた。


壊走した高広を追うように輝虎は二陣、三陣を繰り出した。輝虎は武田勢が加わる前に合戦を終わらせる気だったようで、全軍を北条に当てた。それで兵力差が格段に縮まってしまった。


「何故に武田は援護に出ぬ!」


同時に武田の動きも鈍かった。上杉の攻撃を堪えれば側面から武田の支援が得られると踏んでいた氏邦だったが、いつになっても武田は動かなかった。これに憤慨した氏邦は援兵を請う使者を送ろうとしたが、もうその時には余裕がなかった。立て続けに部隊が敗走し、氏邦自身も撤退を余儀なくされた。


「やはり上総介(北条綱成)様を遣わすべきでございましたな」


家老の松田憲秀が徒労感の混じった口調で話す。


「綱成をか?あれには氏政を補佐して貰わねばならぬと申したであろう」

「されど、せっかく上州を手に入れる好機でございましたものを…」


この戦の重要性は氏康も憲秀も理解している。上手く行けば、上杉、佐竹を叩いて関東の形勢を一気に北条へ傾かせることが出来た。だからこそ綱成の出番だった。輝虎の采配は際立っており、これに対抗できるのは家中においては氏康か綱成かしかいない。氏康が小田原で総指揮を執るとなれば、輝虎に当たるのは必然的に綱成になる。しかし、氏康は氏邦へ出陣を命じた。御陰で氏治の挙兵という第一手こそ成功したが、二手目で躓いてしまった。


ある意味で憲秀は氏康を批判していることになるが、北条家の勢力拡大だけを考えれば憲秀の言うことが正しいことは氏康も認めており、故に咎めるようなことはしなかった。それでも氏邦に任せたのは、氏邦に経験を積ませる為である。それも家長の役目であると氏康は心得ている。


「そう気落ちすることもあるまい。氏邦が鉢形城へ退いたとはいえ、軍勢は健在だ」


氏邦は居城の鉢形城まで撤退していたが、軍勢は一万近くを保持しており、反撃する力は未だに有している。これも木部城の武田勢が最後になって上杉勢の横っ腹を衝く姿勢を見せたために損害を抑えられたからだ。


(信玄め。恩を売ったつもりだろうが、貴様が我らと上杉の共倒れを狙ったことなど百も承知ぞ)


北条と武田は同盟関係にあるが、潜在的には敵だ。隙あらば信玄が上野全土を奪おうとしていることなど氏康は早くから見抜いていた。氏康としては、信玄が上野を手に入れる前に手中に収めなければならない。そういう意味では、常陸よりも競争相手がいる分だけ上野の優先度は高い。


「上杉勢は下野に向かったとか。氏邦様に追撃を命じますか?」


輝虎は合戦後、上野の守備を箕輪衆へ任せて佐竹救援に向かっている。いま上野へ進出すれば上杉の背後を脅かすことになり、東西から挟撃することも可能だ。しかし、確実性を増すには氏邦へ援軍を送る必要がある。


「そうしたいところだが…」

「何か問題でも?」


憲秀は主君の煮え切らない態度が気になった。上野や下総に兵を送っているとはいえ、援兵が必要な兵力は未だ小田原にあり、一万やそこらは軽く動かせた。これは東国随一の大兵力を持つ北条家の強みと言えよう。なのに、何を遠慮する必要があろうか。


「将軍から御教書が届いた。常陸から手を引けと言っている」

「懲りませぬな。いい加減に輝虎の肩ばかり持つのは止めて欲しいものですな」

「その通りなのだが、今度は強気だ。無視すれば討伐軍を送るとまで言ってきている」

「討伐軍ですと!?何かの冗談ですか?」


憲秀が義輝の書状を本気と受け止めないのは仕方のないことだった。今までも義輝は北条と上杉の調停を行っているが、それを無視したところで義輝には何も出来なかった。将軍権力は有名無実。それが関東に於ける常識だった。それでも氏康が将軍を顔を立ててきたのは、(ひとえ)に関東平定の大義名分を鎌倉公方(現在の古河公方)に求めてきたからだ。将軍を軽んじれば、鎌倉公方の権威も低下する。ただそれだけだった。


しかし、今回は違った。氏康は討伐軍も場合によっては有り得ると考えていた。氏康は上方にこそ興味は薄いが、あらゆる方法でその状勢をつぶさに報せていた。それによれば、天下の権を握っていた三好家は畿内から完全に駆逐され、上方は将軍の下で固まっているという。周囲に大きな敵もいないとなれば、軍勢を催すことは可能だ。仮に義輝が討伐軍を発する場合、陣容は先年の上洛戦と変わりないと思われた。となれば、上杉の他、織田、朝倉、浅井、松平を相手にしなければならない。しかも将軍方は松平家の三河までは難なく進めるということになる。


(義元殿が健在であれば何の心配もなく出陣できたのであろうが、氏真殿では心許ない)


氏真の器量は父・義元に遙かに及ばない。東海三国を領しながら麾下にあった松平家康を御しきれずに裏切られた挙げ句、三河を奪われてしまっている。さらに氏真は家臣たちを疑ってばかりで、家中の混乱は義元が死んで六年余り経つが未だに収まっていない。


その氏真のことだ。北条の同盟者として防波堤の役割を務めるのではなく、今川家は足利家の親族衆であるが故に、最悪の場合は幕府軍に加わって北条を裏切る可能性もある。


「様子を見る。氏政には常陸へは入るなと伝えよ」


ともかく氏康は将軍の意向を尊重することにしたが、その間に上杉勢が反撃に出ることは明白だった。


一ヶ月ほど経つと、孤立無援となった小田氏治は奪った城を(ことごと)く奪還され、佐竹義重も旧領の大半を取り戻していた。氏治は来るはずもない援兵だけを頼りに小田城に籠もるしかなくなった。


そんな時である。義輝が三好・松永への討伐令を発したのは。


「好機じゃ!出るぞ!」


氏康は全軍に出陣命令を下した。憲秀ら重臣は、主の急な心変わりに一同に首を傾げた。


「よいのですか?出陣いたせば将軍の勘気を被るのではありませぬか」

「義輝公の目は西を向いておる。三好・松永を退治するまでは関東へ関わる気はないと見た。今のうちに関東を平らげるぞ」


六月下旬。氏康は兵八〇〇〇を率いて上野へ向かった。


=======================================


七月四日。

常陸国・小田城


上杉輝虎の許に、北条氏康が上野へ向かっているという報せが届いた。


「氏康め…、上様の命令を無視するつもりか!」


氏康の狙いが上州の支配と上杉勢の退路を断つことであるのは明白だ。しかし、それよりも輝虎の感に障ったのが義輝の命令を無視したことである。もっとも義輝の命令は“常陸から手を引け”ということなので、氏康としても命令違反を犯していないという逃げ道は作ってある。ただそれが通じる輝虎ではない。関東のことは、関東管領たる自分に任されていると自任している。


「されど管領様。これで氏治めは援軍を失ったのです。降伏を促してみては如何でしょうか?」


一方で佐竹を継いだばかりの若き大将・義重は冷静に戦局を見つめていた。氏治は自身の父親の死を好機と捉えて攻めてきたというのに、淡泊なものである。本来であれば氏治は是が非でも滅ぼしたい相手だろう。しかし、義重は何処までも冷静だった。


この状況下において、上杉勢の撤退は時間の問題である。北条は上野だけでなく下総にいた氏政が上総へ兵を進めており、安房の里見からも援兵を請う使者が日を跨がずに訪れている。これを義に篤い輝虎が無視できるわけがない。ならば、上杉勢がいる内に和議を結んでおく必要がある。佐竹としても、まだ家中は揺れているのだ。


「止むを得んな」


七月九日。佐竹と小田で和睦が成った。小田城はそのままで氏治が奪った佐竹の諸城は全て返すことになり、両軍とも撤収した。


その後、輝虎は里見を救援すべく宇都宮広綱、結城晴朝らと共に下総へ侵攻、北条に従属する千葉氏の属城・臼井城を攻めた。


「こんな小城など一揉みにしてしまえ」


城内には僅か二〇〇〇程度しかおらず、時間のない輝虎は城を我攻めにした。しかし敵勢は城門を開け放って反撃、逆落としを仕掛けて上杉勢を散々に追い回した。さらには攻め寄せる上杉勢に城壁を崩して下敷きにするなど城全体を武器にして抵抗した。思わぬ犠牲を出した輝虎は、これ以上の損害は関東平定に支障を来すと判断、撤退を始めた。しかし、その撤退戦でも城兵の果敢な追撃に遭い、大きな損害を出してしまった。


野戦とは違い、城攻めは苦手な輝虎であった。


結局、輝虎は里見氏を満足に救援することが敵わずに箕輪城支援に向かうことになるが、それも途上の和田城で阻まれてしまい、九月二十九日に箕輪城は北条氏康に攻められて落城してしまう。輝虎は沼田城まで後退し、越後との連絡路を確保するしかなかった。


「こうなれば越後より兵を呼び寄せ、反撃に出るしかあるまい」


今の上杉勢の問題は兵力不足にあった。しかし間もなく農閑期であり、越後に残してきた兵たちを呼ぶことが可能な時期となる。彼らの到着を待って、逆襲に打って出る。その為にも沼田城は確保して置かなければならない。


そんなときである。北条勢が関東に配していた全軍を撤退させたという報せが届いた。


“武田信玄、駿河へ侵攻”の報と共に……




【続く】

さて、上方編から変わって東国編第一回です。輝虎、緒戦以外はいいとこなしでした。


史実では北条高広の謀叛は臼井城攻めの後ですが、本編では厩橋城がなくなったので前倒しになっています。また詳しくは次々回の武田編で触れますが、信玄の目がいち早く南へ向いたために箕輪城は北条家が落とすこととなりました。城主には喜多條高広を据えております。


次回は織田編です。


※追記

臼井城を白井城と表記してしまいました。ご指摘があり、修正しています。

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