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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第二章 ~三好征伐~
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第五幕 渡海 -造反、安宅水軍-


永禄九年(1566)十月二十日。

紀伊国・住吉崎


昨年の上洛戦より一年近く経た今、義輝は軍勢と共に紀伊にいた。もちろんこの地より四国へ渡るためである。


義輝はこの十日前、上方にいる諸大名へ出陣を命じた。諸大名たちは一旦、京に集められて後に京街道を進み、途中で紀州街道へ入る。軍勢は、軍船が集結している住吉崎までゆっくりと移動した。


従う軍勢は、総大将の足利義輝の三〇〇〇(三淵藤英や柳生宗厳を含む)、明智光秀の一〇〇〇に朽木元綱の八〇〇、和田惟政ら池田勝正を含む摂津衆三七〇〇、細川藤孝の和泉衆一八〇〇、畠山高政の三〇〇〇、波多野秀治ら丹波衆三二〇〇である。この他、援兵として越前の朝倉家より朝倉景恒が二〇〇〇、北近江の浅井長政が三〇〇〇、大和の筒井家から島清興が二〇〇〇を率いて駆け付けている。


総勢二万三五〇〇であるが、本来であればこれに若狭守護・武田義統が加わるはずだった。しかし義統は先頃に病を患っており、これがただの病であれば代理を立てれば済んだのだが、義統はかなり重病で下手をしたら命を落としかねないほどだった。嫡子・孫八郎(後の元明)は未だ四歳に過ぎず、そのような中で出陣は危ぶまれた。報せを聞いた義輝も今回の軍役は免除する意向を伝えた。


ただいくら武田軍の参陣がなかったとはいえ、援兵七千を加えて二万数千というのは如何にも少ない。京畿七カ国の国力を考えれば通常はこの倍は動員できるはずなのだが、幕府の財政には余裕がなく、未だ領有化が完全に進んでいないことが兵力として如実に表れている。(それでも今回の出陣には金が足りず、かなりの借財を商人にしている)


それでも義輝はこれらを率いて淡路へ渡り、そのまま四国へ攻め入る気でいる。織田信長を始めとする諸大名の幕政への口出しを防ぐべく、いち早く三好・松永らを成敗し、幕府を盤石にしなければならない。内政に力を注ぐのは、それからでいいと思っていた。時間との勝負だった。


また播摂国境にも軍勢を配している。こちらには一色藤長や京極高吉の軍勢に播磨の国人衆ら八千がいるが、淡路へ渡る予定はない。一色藤長は京の留守居役を任されており、京極高吉は未だに甲賀に潜伏する六角承偵を見張る役目を帯びている。一時的に軍勢を摂津に進めている理由は、義輝の渡海を支援するためだ。


「されど明智殿の軍略は冴え渡っておりますな」

「手前の策など、金がかかるばかりの浅知恵にござる」


播摂国境にいる軍勢は八千だが、数だけで言えば二万を越える。足りない分は擬兵であり、多くが近隣の領民である。幟も多く仕立ててあり、船も明石水軍や近隣から徴発しており、敵方からはどちらが本隊か分からないようにしてある。


「どうせ勝たなければ次はないのだ。構わぬ」

「次はないなど、そのようなことを申してはなりませぬ」


次の遠征軍を起こす金はない。そういう意味で義輝は発言したが、その不用意な発言を光秀は諫めた。正直というのか、義輝は武人としての気質か、三好に縛られることのなくなった義輝はこのところ余りにも態度が堂々としており、将軍としてはよいことなのだろうが、時折こういう失言をしてしまうことが多かった。その都度、藤孝や光秀が気をつけるように言って聞かせている。


「それよりも四国だ。久秀めは余をどう迎え討つつもりでおる?」

「目下、探らせてはおりますが特に目立った動きはないようですな」

「動きがない?」

「安宅水軍はともかく、四国では勝瑞城に兵が集まっているだけのようです」


藤孝は堺の商人たちを使って三好の動きを探らせていた。三好家としても軍備を整えるためには堺の協力が不可欠であり、藤孝は最低限の取引のみ許すことで三好の情報を手に入れていた。その藤孝の報告だから、三好の動きは正確なのだろう。


最前線に位置する淡路は安宅信康の水軍が警戒活動に入っており、こちらの動きに合わせて岩屋城、由良城に兵を分散させているようだった。信康は、恐らく中央の洲本城にいると思われる。義輝は摂津の別働隊を渡海させるつもりはないので、概ねこちらの思惑通りに動いてくれているようだ。


一方で四国は不気味に静寂を保っていた。幕府軍が上陸しそうな場所で迎え討つような動きはなく、本拠地の勝瑞城に兵を集めたままでまったく動きを見せていない。淡路と連携している様子などもなかった。


(久秀め……、何を考えておる)


謀略家・松永久秀のことである。絶対に何かしら策謀を張り巡らせているはずだ。ここは警戒を怠らず、手堅く淡路から落として行くべきと義輝は考えた。


「よし!左京大夫(三好義継)を呼べ」


義輝の三好征伐が始まった。


=======================================


十月二一日。

淡路・洲本城


三好家当主・左京大夫義継は、安宅信康と会っていた。


「ようご無事でありましたな、義継様」


信康が義継に挨拶をする。使者としての体面であったが、義継は上座に座り、信康も義継に礼を取っている。この光景だけ見れば、単なる主従にしか見えない。実際、主従ではあるのだが今の三好家は二つに分かれていた。義輝に降伏した義継の三好家と、四国へ逃れた後に三好三人衆と松永久秀が擁立した三好長治の三好家である。


「信康…、まだ決心はつかぬか?」

「…私に、三好を裏切れと申すのですか」

「裏切るのではない。三好の当主は今も儂だ。その儂のところへ戻るだけではないか」


義継の言葉通り、三好の家督の正統は義継にあった。何より義継は先代の長慶が存命している頃に家督を継いでいるし、義輝も将軍としてそれを認めていた。ただ問題なのは、今の義継は根無し草も同然であり、“戻れ”と言っても信康一人を養うだけの領地もない。全て義輝に召し上げられているのだ。


「義継様…。この後、三好はどうなりましょうや?公方様の下で、果たして先はあるのでしょうか」


信康は率直な疑問を義継にぶつけた。


そもそも義継と同年、まだ一七歳の信康にとってここ数年の三好家の衰退はまるで夢を見ているかのようだった。かつては長慶の下で栄華を誇っていた三好家も、正統当主が領地も持たない身分にまで落ちぶれてしまっている。仮にここで義輝に与しても、三好に強い恨みを持っている義輝が再び義継を重用するとは思えなかった。


「正直、儂にも分からぬ」

「分からない?」

「そうだ。だが久秀の下におるよりはいい。長逸の下におるよりはいい。少なくとも、公方様は儂を三好の当主として扱ってくれる」


義継は単身で信康のところへ来ている。何故か目付役も付けられなかった。それ故にこのまま四国へ渡って三好の当主として義輝に対抗することも出来た。しかし、結局は戻ったところで久秀や長逸が実権を渡すとは考えられず、傀儡当主として扱われるだけだ。それよりは…


「公方様は信康を説得すれば、儂を大名に戻してくれると約束してくれた。恐らくは淡路を一旦召し上げた後に、儂に下さることになろう。されど信康、儂は貰った淡路を、そのままそなたに任せてもよいと思っている。仮に別の地であっても、信康に任せよう。今の儂には養うべき家臣がおらぬからな」


義継は本音を吐露した。信康の前だからこそ、である。


信康と義継は三好長慶の弟を父に持ち、松永久秀に殺され、若年にて家督を継いだ経験を持つ。似たような境遇で育った二人は、同年ということもあって気が合った。だからこそ、大名に復帰後の領地をそのまま任せてもいいと思った。少なくとも信康なら、自分を当主として扱ってくれるはずだ、と。


「頼む、信康。儂としても三好家を絶やしたくはない。聚光院(三好長慶)様の名に泥を塗るような真似はしたくないのじゃ」


如何に将軍に仇名したとはいえ、三好家にとって長慶の名は偉大だった。それに長慶に限って言えば、管領・細川家への復讐から上方の政変に巻き込まれたと言えなくもない。実際、長慶は久秀らと違い、将軍家との間に常に一線を保っており、義輝弑逆にも最後まで反対していた。また義輝も親政を目指して長慶の排除に動いてはいたが、今になっても義輝が長慶を(なじ)るようなことは誰も聞いたことがない。


その三好の命運は風前の灯火だ。今のままでは信康と共に四国で滅びる。それでは三好は“天下の大罪人”として歴史に名を残すことになる。しかし、もしここで信康が義輝への忠節を示せば、少なくとも義継は大名に復帰し、その後の活躍次第で長慶の名誉だけは守れる。


「…私も聚光院様の血に繋がる者として、想いは義継様と同じにござる」

「ならば……」

「はっ。全ては義継様の下知に従います。それが、安宅本来の姿にござろう」


義継と信康。三好三人衆と松永久秀、戦国の梟雄に翻弄された若き二人の大将は、本音を語り合うことで忠節の道を取り戻した。


安宅水軍の離反は、瞬く間に四国へ知れ渡った。


=======================================


十月二六日。

阿波国・勝瑞城


安宅信康の離反の報は、すぐに松永久秀の許へ届けられた。三好一門であり制海権を握る安宅水軍の裏切りである。これが幕府軍侵攻の始まりであることは明らかであり、城内は戦慄した。しかし、多くの者とは対照的に報せを受け取った久秀の顔に驚きの色はなく、まるで初めから予定に入っていたかのように淡々と聞いていただけだった。


「父上?」


すぐに何かしらの指示が出るものと思っていた久通は、何も言葉を発しようとしない父の様子に戸惑った。


「一大事でございますぞ。これでは将軍が四国へ渡るのも時間の問題にござる」

「そうよのう」

「幸いにも先の上洛の時とは違い、将軍の軍勢は我らを僅かに上回る程度。されど味方の離反が続くやもしれませぬ。特に、西讃衆の動向が怪しゅうござる」

「よう見ておるではないか。香川之景あたりは、これを好機と見て裏切るじゃろうな」

「それが分かっていながら、何故に動かれませぬか!」


久通は苛立ちから言葉を荒げた。絶対的な信頼を父に置いてはいるものの昨今の勢力の衰退は久秀の失策によるものだ。その所為か、多くを語らない父がいつも以上に口が重くなっている。よって久通には迫り来る幕府軍へどう対処していいかわからないでいた。


かといって父が自暴自棄に陥っているわけではない、と久通は思っている。今年の初めに四国へ落ち延びた時より幕府軍の侵攻には備えてきている。兵は二万を整えた。伊予や土佐へ一時的に兵を向けて反三好勢力の機先も制してきた。今ならば、全軍を幕府軍へ向けることが出来る。


だが問題は、家中における久秀自身の発言力の低下にあった。


長慶の家宰としてここ数年は権勢を振るってきたが、相次ぐ上方での敗戦で久秀の方針へ疑問を抱く者が少なくない。特に協調路線を取っていたはずの三好三人衆ですら久秀を軽視し始めている。だが三人衆が久秀に代わって指示を出しているかといえば、そうではない。今の三好家は篠原右京進長房が動かしている。


(長房の阿呆が…)


蟄居同然といってもいいほど、久秀は城から動いていない。動かずに、長房の行動を注視していた。


長房は三好長慶の実弟・義賢の家老として主に四国で活動してきた。その義賢が永禄五年(1562)に久米田合戦で討ち死にすると跡目を継いだ長治を補佐してきた。長慶の死後に一度だけ上洛したが、これは久秀らと後事を相談するためであり軍事的な意味合いはなかった。その後、四国は長房が治めてきた。その長房のところへ、上方を追い出された久秀たちが転がり込んできた以上、長房の指示に従うしかなかった。


その長房は未だに義輝を甘く見ていた。


長慶の下で傀儡同然であった義輝しか知らない長房は、今回の敗戦もこれまでと同様に一時的に京を明け渡しただけで、再び挽回できると考えていた。現に長房は幕府軍の上陸が予想される鳴門に兵を回さず、木津城主である実弟の篠原自遁に警戒するよう命じただけに終わっている。


(だかそれでもよい。木津城は奪われたところで儂の策には何ら支障はない。いやむしろ奪われた方が都合がよいというものよ)


長房とは違い、久秀は今回の戦が最後であると腹を括っている。そして勝つ…いや、勝つだけでなく上方にて権勢を取り戻すには四国の地で義輝を殺すしかない。義輝さえ死ねば、京に残っている覚慶を誰が担ぐかで揉めるはずだ。その時であれば、畿内に再進出するのも不可能ではない。義栄に代わる玉も、まだある。


「申し上げます!幕府軍が鳴門海峡に現れました!」


早馬が、急報を告げた。


決戦の時は、近づきつつあった。




【続く】

さて安宅信康が裏切りました。この辺り、久秀にツケが回ってきた感を出しております。


次回は義輝と久秀の決戦…といきたいところですが、次回から東国編へ移ります。第一回が上杉、二回が織田、三回が武田編です。それが終わってから四国編へ戻り、第二章の終幕となります。


目標としては、今月中ですかね。頑張ります。

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