第四幕 懸念 -討伐令、下る-
永禄九年(1566)四月。
ついに将軍・足利義輝の新城が完成した。
城は義輝の御所があった二条跡地に築かれた。二重の堀に天守を兼ね揃えており、真っ新な漆喰に金箔瓦と征夷大将軍に相応しき城郭となった。しかも驚くべきことに、織田信長は築城普請に二万人を動員し、僅か七十日という短期間で城を完成させてしまったのだ。
「もう城が完成したのか!?」
こんなにも早く城が出来るとは思っていなかった義輝は正直に驚いた。もちろん洛中での出来事であった故に普請の過程は見て知っていたが、普請中は危険があるとして現場には立ち入らなかったために報告を聞いている程度だった。
義輝はさっそく居を移し、この城を拠点に幕府の再興を図ることになった。また義輝は築城の恩賞として官位を奏請、信長は正四位下・弾正大弼に昇進した。併せて上杉輝虎も軍船建造の恩賞として正四位下・左近衛権中将へ任官された。
これはある意味で必要な沙汰であった。義輝政権下においては朝倉義景が従四位下と最高位であったのに対し、信長と輝虎はかなり下位にいた。最低限、義輝としては彼らを義景と同等もしくは上位へ引き上げたいと以前から考えていたのだ。ちなみに輝虎が任官された左中将は義輝の前職に当たるため、昇官の報せを受けた本人は感激の余り涙を流して喜んだという。
新城の落成に近隣の大名衆たちが相次いで祝いの使者を送ってくる。朝倉家からも一門の朝倉景恒が上洛してきた。景恒はまず雄琴城の明智光秀を訪ねた。
「御無沙汰しております」
光秀が挨拶をする。光秀も義輝に引き立てられ景恒と同じく一郡を預かる将にまで出世しているが、景恒は一門衆であり立場は上となる。
「上様の御城は大変立派とか」
「はっ。正直、七十日で築かれたとは信じられぬほどにございます」
「これで上様の…いや、織田殿の威信はますます高まるばかりか…」
「………」
景恒の言葉に静かに頷く光秀。実際、昨年暮れの入洛以来、都での信長の評判は上がる一方である。同時に信長の行いは義輝の意向と受け取られている為に、義輝の評判も上がっているので悪いことばかりではないのだが、関東管領の上杉輝虎が帰国し、信長一辺倒というのが光秀の心に不安を抱かせた。
「ところで景恒様。坂本での築城は如何なりましたでしょうか?」
光秀は今年の始めに己の危惧するところを義輝へ進言したが、一蹴された。だからといって何も手を打たなかったわけではない。義輝派である景恒を通じて、主・義景に築城費用を出して貰えるよう交渉していたのだ。
「ようやく殿も首を縦に振ってくれたわ。骨が折れたぞ」
当初、光秀の申し出に義景は拒否した。ただでさえ上洛で費用がかかっている上に大した恩賞にも与れず帰って来たのだから無理はない。ただ信長が二条城の築城、輝虎が軍船の建造と義輝への忠節が目立つ中で最初に義輝を保護した義景は何もせずに早々に帰国している。これでは京での義景の面目が保てない、として光秀と景恒は主の自尊心を刺激する策に出た。
「京と織田領の間に城を築くという利を説け、というそなたの助言が功を奏したわ」
近江滋賀郡はちょうど京と織田領の中間に位置する。しかし、そこに大軍を押さえられるほどの城郭はない。これは京に幕府が置かれている以上、致命的であると光秀は思っている。
「ならば費えは惜しまずとも?」
「うむ。信長の築く城に劣るようなことはあってはならぬ、と厳命を受けておる」
「ははは。織田様が築いておるのは上様の御城ですぞ」
将軍の城を凌駕しろなどと平気で言う義景の命令に光秀は、思わず苦笑いを浮かべた。朝倉家としても京に近い坂本に拠点を持つことは大きな意味を持つのだが、義景が築城を許した主な理由はあくまでも信長への対抗心からであり、戦略を意識してのことではなかった。その辺りが、義景という男の限界なのであろう。
「では内蔵助。城の普請はそなたに任せる」
「新参者の私が…ですか?」
突然の命令に、脇に控えていた斎藤内蔵助利三は呆気にとられた。
「そなたも知ってはいるだろうが、儂の家臣は領内の仕置きで忙しい。手が空いている者がおらぬのだ」
「ですが……」
「もちろん総普請は儂が執り仕切るが、陣頭指揮はそなたに任せる他はない。やっては貰えぬか」
「…分かりました。私も無理を言って仕官を申し出た身です。やれるだけのことはさせて頂きます」
そう言うと利三は部屋を退出した。
「光秀。あれは織田家の者でなかったか?」
「織田の稲葉家中に仕えていた者です。故あって稲葉家を致仕し、当家で召し抱えました」
この二ヶ月前のことである。
畿内での戦闘が一段落した後、先陣を務めた西美濃衆は京に残る織田諸将に先んじて帰国を許された。利三も主・稲葉良通に従って帰国したのだが、帰国後に良通から上洛戦で光秀に荷担したことをきつく咎められた。ただ利三は“光秀の下知に従え”という信長の命令を忠実に遂行しただけであり、咎められたところで己に非があると思えなかった。それでも最初は黙して聞いていた利三だったが、事ある毎に咎められ続けると我慢は限界に達する。つい反論してしまい、それが元で口論に発展、致仕するに至った。
稲葉家を出た利三は、義輝に仕えている兄・石谷頼辰を頼って京を訪れた。幕府は常に人材不足であり、頼辰は実弟の来訪を渡りに船とばかりに幕臣へ迎えようとした。しかし利三は兄の手前、兄と同じ義輝の直臣となるのは気が引けた為に幕臣への仕官を拒んだ。そうしている内に、上洛戦で従った明智光秀が同じように人材を募集している事を知り、そちらへ仕官することにした。
一方の光秀も利三の能力を高く買っており、相応の待遇で召し抱えることとした。この斎藤内蔵助利三は、後に明智家の筆頭家老にまで出世することになる。
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六月になった。
この頃になると京に上っていた大名衆は全て帰国し、洛中は平静を取り戻していた。京での幕府の統治はようやく形を見せ始めていたが、同時に管領職の廃止、人材の枯渇から幕政は大きく改革せざるを得なくなった。
元々尊氏以来の幕府は管領を将軍の補佐とし、その下に行政と財政を司る政所、軍事を司る侍所、訴状を裁く問注所があった。このさらに下に、各奉行職がある。但し、これらは主に上方一帯でしか機能しておらず、地方は鎌倉府や探題、守護に任せきりであり、大きな案件が生じた場合のみ中央で処理していたのだ。
今のところ地方については義輝の力が完全に及ぶところではないために、従来と大して差はないのだが、全ての探題職は管領と同様に廃止するつもりだった。一地方圏全てに権限を持つ探題職は管領と同様に力を持ち過ぎるためだ。
中央については大きな変革があった。
まず軍事については将軍自らが司ることにした。かつては兵馬の権を管領に預けていたため諸大名の専横を許し、将軍家が弱体化した歴史を踏まえてのものだ。
そして義輝は政所、侍所、問注所を全て廃止し、各役職は全て将軍の下に置くこととした。また主な事柄に関しては将軍の同席の上で評定衆の合議により執り行うこととした。これまで評定衆の役職は名誉職化されていたが、これを実態のあるものに変える。また評定衆は譜代職とし、外様は一切任命しないこととした。これにより幕政が有力大名に牛耳られるのを防ぐ。最初の評定衆には細川藤孝や一色藤長、大覚寺義俊、和田惟政らが任命された。(後に大覚寺義俊は病床に伏し、死去。朽木元綱が後任となる)
この幕政改革は今までの構図をさらに単純化したものになる。率直に言えば、合議制であるが将軍と評定衆で全て決めてしまおうという訳だ。しかし、これは義輝の強い決断で行われた改革ではなく、永禄の変で奉公衆が壊滅した事による余波であった。少ない幕臣で七カ国も統治しなければならず、仕組みを単純化する以外に方法がなかったのだ。
しかし、これが幕府の中央集権化が進むきっかけになるだろうとは、誰も想像していなかった。
そのような改革が進む中、諸大名や寺社衆からの礼銭や各地からの関銭、津料、京での酒屋役など徴税が再開されて幕府の懐具合も暖まりつつあった。これでようやく様々な行動に移れるというものである。
やはり、いつの時代も先立つものは金であった。
「上様。またも近江の寺社衆が嘆願を申し出ております」
京の統治を預かる三淵左衛門尉藤英が沈痛な面持ちで報告する。
「またか」
義輝が深い溜息を吐く。寺社衆からの嘆願はこれで四度目になる。内容は近江国内における関所の設置を認めて欲しいということだった。
古来より寺社は関所を設けて通行税を徴収することが一般的であり、主な収入となっていた。しかし、南近江を領した織田信長は関所の廃止を実施した。これにより寺社衆は収入源を失うことになり、義輝へ訴えを出したのである。
「で、商人どもは反発しておるのだろう?」
「はっ。特に京の商人たちは上様の御料地で織田領と同様に関所が撤廃されることを求めております」
「……ふぅ」
再び義輝が溜息を吐く。寺社衆と商人は互いの己の利益を考えて訴えを出している。一方を立てれば一方が立たないのだが、問題は義輝が関所の設置を認めても信長が素直に従うかどうかである。聞けば織田の領内全域で関所の撤廃は行われており、信長はそれを新領でも実施したに過ぎないという。しかも商人のみならず領民が圧倒的にこれを支持しており、現に織田領を行き来する民の数は他に比べて多かった。
「ここは幕府の先例に従うべきかと存じます」
先例に従うとは、寺社衆の権益を認めるということである。藤英は何食わぬ顔でそのように言ったが、今までの幕府行政は先例主義であり、藤英がそう考えるのもごく自然なことだった。
(本当にそれでよいのか…)
義輝は自問自答を繰り返した。確かに先例に則ることは何も悪いことではない。寺社衆と商人の対立は今に始まったことではないし、これに裁断を下すのは自分の役目である。しかし、今回は商人側に領民の支持があった。
「京の七口は無理だが、上方でも関所は撤廃することに致す」
やむを得ない処置だった。もし義輝が関所の設置を認め、信長が従わなかった場合は織田領において将軍権力が及ばないことを世に知らしめてしまうことになる。それは余りにも拙い。であれば、織田領と同様に関所を撤廃してしまうしかない。そうすれば少なくとも将軍の命令の下で、関所の撤廃が実行されていることになる。
但し、問題はこれで終わらなかった。
義輝が関所の撤廃を領内へ布告すると、今度は信長が京で撰銭令を出すよう求めてきたのである。撰銭とは悪銭を排除することであり、撰銭令とはその撰銭行為を禁止、または抑制することである。
そもそも日本国内において鎌倉期より宋銭が多く流通していたが、その多くは欠けていたり字が潰れていたりと誰かしらが勝手に鋳造した私鋳銭と見間違うくらいに出来が悪いものが混ざっており、悪銭として嫌われていた。故に銭貨であっても悪銭での決済は拒否されることもしばしばあった。これが円滑な商売の妨げとなっているのは昔から知られている。
これについては義輝は即決した。幕府として過去に同様の法度を布告した例があったためである。ただ織田信長に振り回されている現状に、義輝は危機感を募らせていく。
(……いかんな)
今は信長も大人しくしているが、それは美濃平定後わずか三ヶ月後に上洛、半年近い遠征をしていたために領内の仕置きが不十分になっており、加えて南近江の領有化も進めているためだ。それが終わった暁には、信長は更なる動きを見せてくるだろう。
「やはり三好征伐を急がなければならぬ…か」
三好・松永を成敗し、淡路、阿波、讃岐の三カ国を直轄地に加えた上で四国の諸大名を従える。そうすれば将軍家の力は強まり、信長であっても簡単に幕政へ口出し出来なくなるはずだ。後はそれでも将軍家に反発するか、従順に従うかは信長次第である。
そう考えるのも義輝が信長という男を量りかねているからだ。
信長は大軍による上洛、三好勢の駆逐、領土の返上、新城の造営など忠義心を見せる一方で南近江の領有化や矢銭の徴収など勝手な振る舞いも多い。信長の心中が何処にあるのか、まだ義輝は確信が持てずにいる。なまじ織田家が大きいだけに、警戒心を解くわけにはいかなかった。しかし、信長の器量は義輝も認めている。武略もそうだが、今回の一件も先例の捉われない政策は見習うところが多い。義輝の本音としては、このまま信長には幕府に尽くして欲しいと思っている。
「左衛門尉(藤英)。この御教書を諸大名へ届けよ」
「はっ。これは…、討伐令ではございませぬか」
「四国へ逃げた三好・松永らを放っておけぬ。前に申した通り、これを討つ」
「では、いよいよでございますな」
藤英はらしくもなく鼻息を荒くした。藤英も永禄の変で同僚の多くを殺されている。先の上洛戦では自ら兵を率いることがなかったので復仇は果たせずにいたが、今回は違う。山城一国を任されているために、兵を率いて出陣することになる。
「予定を早める。時節は十月半ばと合わせて伝えい」
将軍・足利義輝はついに三好・松永へ対し、討伐令が発した。また討伐令を下したと同時に三好三人衆と松永久秀の解官を朝廷に奏請、認められた。
六月十六日のことである。
【続く】
次話投稿です。
上杉輝虎が帰国したことで信長の影響が強まっています。本文中で触れましたが、幕府の仕組みも信長に影響されて変わっていくことになりますが、今のところ室町幕府と江戸幕府の中間あたりの組織になっています。人が増えてくれば、もう少し変わる予定です。
またほぼ同じ状況ながら史実の義昭と違いが出てくるのは、あくまで義輝が“将軍親政”を目指していることと、上杉、朝倉が協力したことにより上方の諸大名へ信長の影響力が史実ほどない、というのを主な理由としています。他にも、永禄の変での義輝の脱出劇がかなり広まっており、武芸達者な義輝を武家の棟梁として認める者が多い、というのもあります。(史実の義昭は足利一門というだけで無名でしたしね)
最近は義輝周辺の地盤固めの話ばかりが続きましたが、討伐令も下った次からは合戦へと話を書いていきます。
最後に書くかどうか迷っていた輝虎の関東編ですが、書くことにしました。合わせて信長編、そして次章登場予定だったのを早め信玄編と三回に分けて書きます。(でも次話はまだ上方の話です)