第三幕 関東再乱 -輝虎の帰国-
一月九日。
京・清水寺
正月に賊に襲われ、傷を負った義輝は新城が完成するまで清水寺へ移ることにした。そこでも義輝は休む間もなく幕府再建の策を次々と打ち続けていた。そして新たな役目を命じるべく、呼び出されたのは柳生宗厳である。
宗厳は柳生家の当主として松永家に仕えていたが、先の変事で密かに義輝救出に貢献していた。義輝はその恩を忘れておらず、召し出した宗厳に褒美を与えた。
「そなたの家臣たちが二条で余を救ってくれたこと、忘れてはおらぬ。そなたの御陰で余は生き長らえ、こうして三好・松永ら逆臣どもを畿内から一掃することが叶ったわ。礼を申すぞ」
「勿体のうございます」
義輝が小姓を呼び寄せ、太刀を一振り手にする。しかも太刀は小姓へ渡し、小姓が宗厳に渡すのが通常なのだが、義輝は直に宗厳に手渡した。
「三日月宗近だ。受け取ってくれ」
宗厳が思わず顔を上げた。
三日月宗近は義輝の持つ鬼丸国綱と同様に天下五剣の一つである。その名は天下に名刀として知られており、故に宗厳も驚いた。本来であれば三日月宗近は二条御所で失われていたはずであったが、戦利品として三好政康が手に入れていた。義輝が上洛した折りに接収した政康の屋敷から見つかり、義輝の許へ戻っていた。
「余を助けてくれた勢州(上泉信綱)にも五剣の一つを与えた。ならば、そなたにも与えねばなるまい」
宗厳は両の手で刀を受け取ると、長く、深々と礼をした。ただそれだけであったが、同じ剣豪として義輝は宗厳が感激していることが分かった。天下の名刀を得ることは、剣豪としては最高の誉れなのである。
「一つ、頼みがある」
唐突に義輝が話を始めた。
「余の馬廻衆を務めては貰えぬか」
「馬廻衆!?手前が……ですか?」
これが宗厳を呼び出した真の理由である。何も褒美を与えるために呼んだのではない。義輝の馬廻衆を務めていた奉公衆は先の変事で壊滅している為、これを再建させなくてはならなかった。だからといって将軍の馬廻であるから数だけいればいいというものではない。その点、宗厳を始めとする柳生一族は腕前からいって申し分なく、流派も義輝と同じく新陰流である。(義輝は新当流も学んでいる)
「柳生家はじまって以来の名誉にございます。謹んで、御受け致します」
「そうか。ならばさっそく余の警護を頼みたい。何名集められる?」
「はっ。手前を含めて十数名ほどかと。すぐに里へ立ち帰り、上様の許へ御送り致します」
「うむ。されど宗厳は無用じゃ」
「はっ…?」
一瞬、流石の宗厳も呆気にとられた。直に馬廻衆を命じられたにも関わらず、当主たる自分が不要と言われたのだから、首を傾げてしまうのも無理はない。その様子を見て、義輝は勘違いをされたと思い補足した。
「宗厳には最強の馬廻衆を揃えて貰わねばならぬ」
「最強の馬廻衆!?」
「新陰流、新当流に拘らぬ。諸国より武芸者を集め、そなたの下で鍛え上げるのじゃ。それら全てが余の馬廻衆となる。働き如何によっては誰でも大名に取り立てようぞ。どうじゃ、面白かろう?」
義輝の思わぬ提案に、宗厳は胸の内から熱いものが湧き上がってくるのを感じた。将軍の許で戦場を駆け巡る最強の武芸集団、それを率いる自分の姿を想像した。
「はっ!必ずや公方様を守護するに相応しき馬廻衆を創り上げて御覧に入れます!」
「うむ。ならば大和国内にて一万石を与える。足りなければ、いつでも申すがよい」
「なんと!?」
いきなりの加増に宗厳は驚いた。しかも一万石といえば大名であり、今の家禄の十倍以上に相当する。一方で義輝からすれば七カ国も領国が増えたために、与えることの出来る所領はいくらでもあった。
「功ある者は大名に取り立てると申したはず。それを率いるそなたが大名でなくてどうする?」
「有り難き仰せ。身命を賭し、御奉公仕ります!」
宗厳の様子を見て、義輝はやはり自分と同じ部類の人間であることを感じ取った。剣豪と称される人物は、なまじ自分に自信が有り過ぎるために他人から正当な評価を受けていないと思い込む性質がある。家禄がそれを量るよい指針であるが、柳生家の家禄は宗厳にとって少な過ぎた。それが一気に一万石である。これで宗厳は余計な事に心を割かれず、抜群の働きを見せるであろう。
宗厳の漲る闘志は、そのまま義輝への忠心となった。
その宗厳が退出し、次に入って来たのは三好義継である。先ほどと違って義輝の眼光は鋭くなり、刺すような視線で義継を見つめた。
一方の義継はわなわなと震えて落ち着かず、座ってからは平伏したまま微動だにしなかった。その様はまるで蛇に睨まれた蛙のようである。
「義継ッ!」
「は…はっ!!」
義輝の呼びかけに、義継は悲鳴に似た声で答えた。
「余の命を狙ったこと、許すことは出来ぬ」
「も…申し訳ございませぬ!!」
義継が畳に額を擦りつけながら謝罪の言葉を口にする。その様は、天下の広く知られた三好家の当主とはほど遠い姿であった。
「二度と、二度と上様の御命を狙うようなことは致しませぬ故、どうか、どうか命ばかりは御助け下さいませ!!」
必死の命乞いである。義継は自分が呼ばれたのは切腹を命じられるものだと思っていた。しかし、義輝にそのつもりはない。
「左京大夫(義継)。余は助命を条件にうぬの降伏を認めた。覚えておるか?」
「はっ!」
「ならば、何故に命乞いなどする。将軍たる余は、偽りは申さぬぞ」
「し…しかし、ならば何故に私は呼ばれたのでしょうか……?」
「決まっておろう。三好三人衆と松永久秀を討つためよ」
「!?」
「うぬも奴らには含むところがあろう。ある意味、余と同じであった故な」
「それは……、はい」
義輝は当初、三好三人衆と松永久秀と同様に義継へも憤怒の念を抱いていた。しかし、義継の助命を決めて一月余り、次第に熱も冷めて考えてみると自分と同様の境遇に義継があったことに対し、多少の同情の念を持った。ただ、だからといって許した訳ではない。
「安宅信康を説け。見事やり遂げたならば、うぬの罪を許そう。大名としての復帰も許す」
安宅信康は三好家中で淡路水軍を率いる長である。彼が四国への制海権を握っており、次の戦では重要な役割を占めるのは分かりきっている。義輝はこの信康を離反させようというのである。“三好を割る”という信長の言葉をきっかけとした策である。
「しょ…承知いたしました!」
元より義継に拒否権はない。義継には成功しなければ先がないのは分かっている。だからこそ、命がけでやるだろうと義輝は思っている。そもそも信康が寝返る公算がないわけではない。信康の父・冬康は松永久秀の諫言により長慶に殺されている。信康も信康なりに今の三好家の体制に不満を抱いているはずだ。
義輝による三好征伐が、早くも動き出した。
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永禄九年(1566)は三月になった。
京では次々と諸大名の軍勢が帰国し、残っているのは北陸道が雪に閉ざされて帰国できない上杉輝虎を始めとする北陸の大名たちと新城造営を命じられた織田信長だけであった。しかし、その雪も溶け、ようやく帰国の目処が立った。というより、帰国せざるを得ない状況に至っている。
昨年の十一月に反北条の筆頭であった常陸の佐竹義昭が急死したのである。それを輝虎が知ったのが今年に入ってからである。情報の伝達が遅れたのは、佐竹が義昭の死を秘匿していたからに他ならない。跡目は嫡男の義重が継いだ。
しかし、北条方には早くから漏れていたようで、義昭と常陸で争っていた小田氏治が果敢に佐竹領に攻め入っているという。当然のことながら、義重からは関東管領である輝虎の許へ救援を請う使者が相次いでおり、輝虎は雪解けと共に北陸道を駆け抜けてそのまま関東入りする手筈になっている。幸い、畿内を義輝で固めることの出来た輝虎に後顧の憂いはない。
「北条め…好き勝手できるは儂が戻るまでの間だけぞ!」
その輝虎がいざ帰国の挨拶に行こうと清水寺へ向かおうとしていた矢先、義輝が上杉の本陣となっている東寺を訪れた。
「上様!?かようなところまでお越し下さるとは、こちらから伺いましたものを…」
「たまにはな。それよりも輝虎に土産を持ってきたぞ」
「土産?」
輝虎は義輝から受け取った二つの書状を開けて見た。
「これは……」
「義重の家督相続を認めると共に常陸守護に任じる旨、書き留めておいた。また朝廷より義重を常陸介へ任じるとの沙汰が下りておる」
佐竹家は源氏の名家として代々常陸守護を務めており、親王任国である常陸は常陸介が最高位となる。この両方を認められたということは、常陸は佐竹の領国であるということになる。昨年までならこのような処置は形骸化するだけだったが、上方において七カ国を直轄領とした義輝の命令は関東においても無視できないものとなっているはずだ。しかも、その沙汰を関東管領が直接将軍より受けて関東へ下向するのだから、尚更だ。
「北条へも余から命じておく。常陸から手を引けとな」
「有り難き御沙汰、恐悦至極にございます。このような形で京を去ることになりましたこと、御許し下さいませ」
「なに、気にすることはない」
「上様に命じられた軍船の建造も果たせず……」
「それは帰国までの間でよいと申したはずだ」
「されど……」
義輝はそう言うが、輝虎としてはやはり無念であった。ただそれでも関船十二艘に小早は三十五艘が完成している。建造途中のものも含めれば、この倍になる。義輝は輝虎の後任に細川藤孝を定めた。
「必ずや、関東の兵乱を鎮めて参ります」
「うむ。また京で会える日を楽しみにしておるぞ」
輝虎は義輝に別れを告げると、大宮大路を北上した。若狭街道を抜けて帰国するつもりだった。途中、大路の東方では義輝の新城普請の様子が見て取れた。既に四町(約400メートル)四方の外堀が総石垣で張り巡らされており、その中にはさらに内堀が設けられ、多聞山城の大櫓を模した天守が建造途中の姿が確認できる。しかも総普請奉行は信長自らが務めており、信長は日夜陣頭指揮を執っては汗を流していた。
何処からどう見ても、信長は将軍家の忠臣であった。
(織田殿……、上様を頼みましたぞ)
遙か遠くに見える信長の姿を一瞥しながら、輝虎は京を去る。一方で信長からも上杉軍の行軍する様が見えている。
「帰る…か」
ただそれだけを呟くと、信長はすぐに作業に戻った。城は今月中にも完成する予定である。
義輝の再上洛を支えた越後の軍神・上杉左近衛権少将輝虎が、新たなる戦地へ赴くべく京を去った。三月二日のことである。
暖かな風が上杉勢を送り出す。季節は、春になっていた。
【続く】
やはり将軍といえば柳生ですよね。…時代は違いますが(笑)なんと宗矩よりも70年も早く大名に列しました。
さて上洛軍の一角を成した輝虎も帰国です。史実では既に関東入りしている輝虎が数ヶ月遅れての関東越山となり、多少の影響が出ます。ただ主人公は義輝なので何処まで触れるかは模索中です。