第一幕 三好邸の変 -久秀の執念、義輝を襲う-
永禄九年(1566)正月。
木津浦沖
世間では正月気分が漂い新年を祝う行事で浮かれている中、堺から出向した一艘の商船は沈んだ空気に包まれていた。
「まったく…、貴様の指図通りに動いた結果がこれじゃ。まさかたったの一月で上方を追われる羽目になるとは思わなかったぞ」
「……まだそのようなことを言っておるのか。よう飽きぬの」
相手を罵るような物言いをしているのは三好日向守長逸。対して澄まし顔に終始するは松永弾正久秀、三好の首脳二人である。
「貴様こそ、よく平然としていられるな。京を失ったんだぞ!もう終わりじゃ」
「…ふふ、何が終わりなものか」
「何じゃ、その笑いは?よもや策がまだ残っておるのか」
「残っておるも何も、京を失うことは可能性の一つとして考えてある」
そう言うと、久秀は不敵な笑みを浮かべた。その双眸には未だに強い光が宿っている。復権を諦めていない証拠だ。
「こちらは将軍を失ったんだぞ!将軍職にない義栄など何の役に立つものか。それでいて尚、貴様は反撃の策があると申すのか?」
「義栄か…そういえば、そんな奴もおったな」
「おった…だと?」
「義栄公の最後はご立派であった。家臣を、民草を救わんと逆賊の中へ果敢に斬り込んで行くとは……、やはり征夷大将軍たるものはああでなくてはな。そうは思わぬか、日向守よ」
「貴様……まさか義栄を」
途端に長逸は不快感を露わにする。長逸と久秀は意見の相違がありながらも二人三脚で長慶亡き後の三好家を切り盛りしてきた。独断専行の多い二人ではあるが、重要事項については取り決めた上で動いている。
それを今回、久秀は無視して足利公方を暗殺したという。
実はこれより十日ほど前、足利幕府十四代将軍・義栄は世を去っていた。表向きは義輝との合戦で受けた傷が元での死であるが、戦に出ていない義栄が傷を負うわけはなく、久秀による暗殺だった。将軍職の解任が確実視された足利公方など、無用の長物だったのだ。それよりは将軍在職中の名誉の戦死の方であった方が都合がいい。
故の、死であった。
「我らは亡き上様の弔い合戦を行わなければならぬ。阿波に戻ったら兵馬を整えねばな」
「義輝が攻めてくると?」
「こちらが攻めるのよ」
「莫迦な!?義輝の軍勢は七万だぞ!四国の兵を掻き集めても二万に届くかどうかだ。勝てるわけがない」
長逸は呆れ顔で言った。確かに四国は三好の本貫であり、周辺は小勢力ばかりで比較的に安定している。淡路も押さえているので制海権は未だ三好にあり、軍を渡海させることは可能である。しかし、絶対的に兵力不足であり、追い返されるのが目に見えている。
「ならば敵の数を減らせばよかろう」
「減らす?どうやってだ」
「奴らは所詮、烏合の衆よ。義輝がいるから纏まっているに過ぎん。ならば、義輝さえいなくなれば、奴らは次の公方を誰が担ぐかで大いに揉めよう。そこを衝くのよ」
「ふん!刺客でも送るつもりか?成功するわけがない」
「日向守よ。義輝が京で何処を宿舎にしたか知っておるか?」
「そんなことは知らぬ!」
長逸は不快そうに鼻を鳴らした。久秀のこういう謎かけが、自分を馬鹿しているようで嫌いなのだ。
「聚光院(三好長慶)様の御屋敷よ」
途端、長逸はハッと顔を上げた。
「……我らの勝手知ったる場所ではないか」
その表情は、先ほどの久秀と見間違うほどよく似ていた。
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一月五日。
京・旧三好長慶邸
義輝は疲れていた。
昨年末は将軍再任を祝う宴が数日に亘って催され、年が明ければ明けたで祝賀の宴が連日のように行われている。もちろん主役は義輝であるために欠席する訳には行かず、夜になると重度の眠気に襲われては朝を迎えるという日が続いていた。
今日も義輝は宴が終わるとすぐに床に就いたが、夜が深まり、辺りが静寂に包まれた頃に目が覚めた。
(まさか、余を狙ろうてくるとはな。五人……いや六人か)
普段ならいるはずの小姓の姿が見えない。変わりに複数の気配を微かな殺気と共に感じる。昨年に二条御所で襲われて以降、義輝は寝る際には常に刀を傍に置くことを心懸けていた。よって刀はある。
男が一人がそっと義輝に近づいてくる。刺客ならば、すぐに襲ってくることはない。間違えて騒ぎにでもなれば困るので、寝ているのが義輝かどうかは絶対に確認するはずだ。よって義輝は寝ている振りをしながら相手の接近を待つ。
義輝は男が傍まで近づくのを待つと、瞬時に飛び起きて布団を覆い被せた。刹那、抜刀すると布団越しに刀を突き刺す。
「ぎゃあぁ!!」
男が断末魔の声を上げ、絶命する。
「御台!起きよッ!!」
「…えっ」
義輝の呼びかけに目を覚ました御台所が目にしたのは、鮮血を散らして絶命する男と、義輝を包囲する刺客五人の姿であった。
「きゃああ!!だ、誰かぁ!誰かぁ!!」
御台所の悲鳴が屋敷中に響き渡る。恐らく義輝の寝所の周辺にいた者は全て始末されているだろうが、声は遠くまで聞こえているはずで、暫くすれば誰かしらが駆けつけてくるはずだ。
(問題はそれまで御台を守りきれるかどうかだが…)
御台所が動転する中、義輝は冷静に状況を捉えていた。
襲われたのが義輝一人なら、何も問題はなかった。刺客として送り込まれた以上は相手も相当な手練れなのだろうが、“相当な手練れ”程度では義輝の相手ではない。相対した以上、義輝に勝ちたければ上泉信綱級の腕前がなくては不可能。しかし、この場には御台所という弱点が存在しており、相手は真っ当な武士ではないので容赦なく弱点を衝いてくるはずだ。義輝は御台所を守りながら戦わなくてはならない。
案の定、刺客の一人から御台所へ向けて何かが放たれる。
カンッ!
一閃、刀を振ってそれを叩き落とす。床に目をやると、棒手裏剣が一つ落ちていた。
「御台、心配はいらぬ。余の傍におれば、案ずることはない」
義輝は震えて怯える御台所へ向けて優しく声を掛けた。それに幾分か安堵した御台所であるが、一方で義輝の眼光は鋭く刺客たちを突き刺している。
(ここでは不利か……)
室内は暗く相手の動きすらよく掴めない上に周囲全てを警戒しなければならず、圧倒的に不利だった。義輝は落ちている棒手裏剣を拾い、出入口近くにいた刺客へ向けて打ち放つ。
それを男は避けた。流石に手裏剣は投げ慣れておらず、夜目に優れている相手に分があった。しかし、次の瞬間、男はバッサリと首筋を斬られた。
男が義輝の投げた棒手裏剣に視線を逸らした一瞬の隙に義輝が斬ったのだ。
「行くぞ!」
義輝は御台所の手を引っ張り、襖を蹴破って庭先へ出る。月光が、相手の姿を映し出す。これで多少はマシになった。
刺客四人の内の一人が、他の三人に手を振って指示する。恐らくは奴が頭目と思われたが、御台所を置いて斬りかかる訳にはいかない。先ほどは隙を衝いて一人斬ったが、二度と同じ手は通じないと思った方がいい。
四人が一斉に棒手裏剣を御台所へ向けて投げた。一応は刀らしいものは持っているが、斬りかかれば返り討ちにされることは知っているのだろう。寝込みに仕留められなかった以上、あくまでも飛び道具で攻撃するつもりらしい。
「おのれ小癪な真似をッ!」
義輝は刀と鞘で二つは叩き落としたものの後は身体で受け止めるしかなかった。左肩と右太股に手裏剣が食い込む。激痛が走った。
「きゃあ!上様ッ!?」
「慌てるでない!かすり傷よ!」
御台所は声を上げて心配する御台所を、声を張って宥める義輝。状況に変わりはない。いや、傷を負った以上は不利になりつつある。
義輝は己に食い込んだ手裏剣を抜いては相手に投げつけるが、やはり上手く行かない。
「ちっ!」
第二撃が放たれる。これも二つは落とすが残りは身体で受け止めるしかない。また左肩に一撃、左足に一撃を食らう。余りの激痛に義輝は思わず膝を着く。
「くっ……」
「上様!上様!!しっかりなさって下さいませ!」
「危険じゃ!後ろに隠れておれ!」
前に出て義輝の傷を看ようとする御台所を無事な右腕で押し戻す。が、やはり力が入らなくなりつつあるのが分かる。万事休すか。
「上様!」
そう思われた時、救援が駆けつけた。細川藤孝である。
藤孝は元日に義輝へ年賀の挨拶に訪れた後、藤孝と同じように年賀の挨拶にやってくる諸大名や公家衆への饗応役として義輝の屋敷に寝泊まりをしていたのである。この日も、夜遅くまで明日の仕度を整えるために起きており、異変を感じて駆け付けてきたのだ。
「おのれ曲者!上様を狙うとは不届きな奴らめ!我らが相手ぞ」
藤孝は引き連れた配下二人と同時に刺客へ斬りかかった。藤孝の斬撃を刺客も受け止めるが、返す二撃目で胴を薙ぎ払われた。藤孝は義輝と共に塚原卜伝の師事を受けており、義輝ほどではないがそれに近い実力を持っていた。
しかし、斬られた刺客は後退っただけで大した怪我は無いようだった。変わりに藤孝の刀に刃こぼれが生じた。
「鎖帷子か」
刺客たちは鎖帷子を着込んでおり、腕には手甲も仕込んでいる。寝具や平服である義輝たちよりも有利であった。それに藤孝は焦った。主君たる義輝が傷を負っているのが見えている。早く敵を倒して駆け付けなければならない。
「兵部!目の前の敵に集中せよ!」
「…承知!」
藤孝の焦りが見て取れた義輝は、声をかけると体中を走る痛みに堪えながら目の前の刺客へ斬り込んだ。相手は残り四人のため、一人が一人を相手していれば御台所に手を出すことは出来ないからだ。
「御台!今のうちに逃げよ!」
「で…ですが!上様を置いては……」
「戦いの邪魔じゃ!余はこのような輩に負けはせぬ!」
と、して思いっきり斬り込んで相手の注意を誘う。その間に、御台所は奥へと走る。
「貴様…、誰の差し金じゃ?」
「…………」
「ふっ、言わずともよい。どうせこのような手を使うのは久秀であろうて」
義輝が刀を横に払う。刺客は後ろに飛び退いて避ける。これを義輝が追うことはない。というより、追えないのだ。
(くっ…。思ったより傷が深い……致命傷ではないが、このままでは拙いな)
先ほど傷を負った場所からは、血が未だに止まらずにいる。流石の義輝とはいえ、このままだと危ない。
「いかん!」
主君の不利を悟った藤孝は咄嗟に身体をぶつけて刺客を押し倒すと、倒れた刺客には目も呉れず、一直線に義輝の救援に向かう。対する刺客も目の前に手負いとはいえ剣豪たる義輝を相手しながら新当流の藤孝をも相手にする技量はなかった。
ピィー、と刺客の一人が笛を吹く。すると、藤孝の配下二人を相手にしていた刺客が一斉に義輝へ向けて駆けだした。何としても義輝だけは討ち取ろうとしたのである。
笛を吹いた男は突然に義輝へ組み付いてきた。義輝はこれを刺し殺したが、絶命した男の身体が覆い被さり、傷ついた身体では撥ね除けることが出来ずにいた。
そこへ二人の刺客が向かってくる。つまり藤孝は一人で二人を相手にしなければならない。
「おおッ!!」
藤孝が吼える。脇差しを抜き、二刀にて相手をしようというのだ。もちろんそれを分かっている刺客は正面からではなく左右から迫ってくる。合わせて藤孝も刀を左右に構える。
(右か…左か……)
藤孝の額に汗が滴る。第一撃をどちらに放とうか迷っているのだ。
次の瞬間、刺客二人が刀を振るう。一人は上段から、もう一人は下段からである。藤孝は下段の攻撃を大刀で受け止め、上段の攻撃を脇差しで受け流すと蹴りを食らわせて吹っ飛ばした。さらに体重を掛けて刺客の動きを押さえ込むと、そのまま大刀を首筋に当てて引いた。
月夜に鮮血が舞い、男は絶命する。倒れたもう一人の刺客には、藤孝の配下が駆け付けて止めを刺す。
「兵部……見事ぞ」
義輝は藤孝の流れるような剣捌きを褒め称えた。
「いえ、これくらいは……それよりもまだ」
藤孝は最初に自分が相手にしていた刺客の方へ視線を移す。まだ刺客は一人残っている。
「安心せい。先ほど、そやつが毒を食らうところが見えたわ」
最後の一人は勝ち目がなくなったと悟ったのか、自決を図っていた。
「申し訳ございませぬ。賊の潜入に気付かぬとは……」
藤孝が義輝へ駆け寄り、組み付いて絶命している男の身体を退かしながら謝罪する。
「よい。何にせよ助かったのだ」
「されど……いや、まずは傷の手当てを」
藤孝の指示で、配下二人が義輝の傷を看る。義輝は庭石に腰掛けながら、話を続けた。
「それよりもだ、兵部。こやつらは恐らく、松永の手の者であろう」
コクリと頷き、同意を表す藤孝。この期に及んで義輝の命を狙おうとするものなど一人しか考えられない。
「ここが三好修理(長慶)の屋敷であったことを忘れておったわ。彼奴らは屋敷の造りがどうなっておるか知り尽くしておろう」
「そうですな。それに気付かぬとは、不覚でございました」
「それは余とて同じよ」
「すぐに別の御座所を手配いたします」
「いや、それには及ばぬ」
「と、申されますと?」
「帰洛した折より考えておったが、城を築こうと思う」
義輝は二条御所で襲われた事から、今までのような御所では身を守れないと考えていた。それに代わるものと言えば、城しかない。
「それは分かりますが……」
藤孝とて、城については考えなかったわけではない。しかし、元より城を築くだけの金が将軍家にはないのだ。あれば、最初から二条で義輝が簡単に襲われることはなかった。
「兵部の懸念は余も承知しておる。それについては余に考えがある。それと、今後のことも話しておきたい。皆を集めてくれ」
「承知いたしました」
義輝は天を仰ぎ見た。
夜が明ける。
【続く】
明けましておめでとうございます。
新年一発目です。今年も宜しく御願いします。
今回から本編も年が変わり新章がスタートしました。第一回は史実の“本國寺の変”をモデルとしています。ただ史実と違って、京には織田や上杉の軍勢が未だに留まっているためにこういう扱いになりました。
また珍しく剣豪として細川藤孝にちらっとだけ活躍して貰いました。藤孝は義輝の腹心ですが、今まであまり活躍の場があまりなかったので。今後はもっと登場する予定です。