第二幕 脱出 -明智十兵衛登場-
五月十九日。
京・逢坂の関
二条御所より脱出した義輝ら一行は近江へ逃れるべく、是が非でも通らねばならない場所がある。古来より都のある山城と近江を繋ぐ古い関所である逢坂の関は、近江国大津に在する三井寺の支配下にあり、親足利氏の立場にあるのだが、三好・松永らが義輝を襲うのであれば、この地に兵を配していても不思議ではない。案の定、関所に三井寺の者は見えず、三好方と思われる兵士の姿が確認できる。数は三〇ほどだろうか、見えない位置にいる者も含まれば多くても倍の五、六〇といると考えた方がいい。
「むう……如何するか」
こちらは四人。義輝は物陰に隠れて様子を窺っているが、はっきりいって相当量の返り血を浴びている義輝たちの格好は異質であり、とてもすんなりと通れるとは思えない。かといっていずれは虚報で伏見辺りを彷徨っている三好・松永の追っ手も義輝の行方に気が付くはずであり、悠長に考えている時間はなかった。
「こうなれば強行突破しかないか……」
御所での壮絶な乱戦を思えば、この程度の戦いは容易に思えるも、それを師ら二人に伝えようとしたところで言葉が詰まった。
塚原卜伝と上泉信綱、この二人が肩で息をしていたのだ。特に卜伝の息切れが激しい。
(さも当然か……)
義輝は我に返った。
二人はかなり高齢である。信綱は六十手前、卜伝に至っては七十半ばである。その二人が危険を顧みずに御所へ討ち入り、挙げ句ここまで騎馬で疾走してきたのである。壮年である自分ですら多少は息を荒げているのだ。ここで強行突破をしようものなら自分は抜けれても師二人は力尽きて死ぬだろう。本来ならば将軍である義輝は、師を犠牲にしてでも生きるべきなのだろう。しかし、それが出来ないのが義輝という人間だった。
そこへ偵察に出ていた疋田豊五郎が戻ってきた。この男、信綱を叔父と呼んでいることからも一族の者なのだろうが、歳は若く義輝と同年に思えた。剣の腕も申し分なく、頼りとするならこの男だろう。
「叔父上、意伯が戻って参りました」
「おお、間に合ったか!」
サッと豊五郎の後ろから意伯と呼ばれた男が現れる。
「公方様、紹介が遅れて申し訳ござらぬ。こちらは我が甥の疋田豊五郎。そしてこの者は鈴木意伯と申し、二人とも我が門弟にござる」
「うむ、二人ともよき面構えじゃ。特に豊五郎とやら、剣武の才は叔父譲りと見える」
「その御言葉、この豊五郎にとって最高の褒め言葉にございます」
豊五郎が深く頭を垂れる。その下の表情は言葉通り嬉しそうである。若さ故か、正直に顔に出ることは悪いことではない。義輝もそのことで多少は緊張が解れてきた。
だが意伯が戻ってきたのは、ただ義輝に紹介するためではない。
「もう間もなく大和へ向かっていた明智殿がここへ参ります。合流後、関所を突破いたしましょう」
そう言うと近くから集団が近づいてくる足音が聞こえた。足音の聞こえた方へ視線をやると、身なりの悪い十人程度の集団がこちらへ近づいてくる。咄嗟に刀の柄に手をやる義輝だったが、集団は五間ほどの距離で止まると、先頭にいた一人だけが近づいて膝を付く。
「このような格好で公方様の御前に参上いたすこと、御許しを。某は明智十兵衛光秀と申します。後ろの者らは皆、公方様の御味方にございます」
明智光秀と名乗る者の格好は粗末だが、物腰は穏やかで高位の武家の出であることが判った。これが後に将軍家再興に大きな役割を果たすことになる光秀と義輝の初めての出会いであった。
「急ぎます故に概略のみ述べさせて頂きます。まず私が敵の注意を引き、疋田殿、鈴木殿を先頭に後ろの者らが関所へ乱入いたします。公方様は塚原様と伊勢守様らと共に関所を抜けて下さりませ。坂本まで行けば、細川兵部大輔様の兵がおりまする」
「兵部が?」
義輝はここまでの一連の出来事を思い返し、疑問に思った。突如、御所を襲われた義輝。そこへ諸国を放浪しているはずの師二人が現れ、明智と名乗る者が関所突破の支援に来た。さらには腹心の細川藤孝が兵を率いて坂本にいるという。これが何を意味するのか、義輝には判る。つまりは事前に三好・松永が暴挙に出ることが判っていたのだ。
ならば、なぜ自分に報せなかったのかと疑問は残る。それを察したのか、光秀が答える。
「実は此度の襲撃、公方様ではなく覚慶様と周蒿様を狙ったものでございました」
「何じゃと!?」
覚慶、周蒿とは義輝の弟たちのことだ。足利将軍家は継嗣以外は仏門に入るのが慣例で、覚慶は興福寺、周蒿は相国寺に入っている。
「兵部大輔様は初め、これは三好・松永の公方様へ対する恫喝と考えました」
「で、あろうな」
昨今、将軍職は義輝の祖父・義澄の血統が受け継いでいる。義輝の父・義晴には兄弟がいないため、その血を受け継いでいるのは義輝の他は弟二人と義輝の子たちとなる。しかし、将軍職を受け継げる血統はもう一つあった。
十代将軍・義稙の血統である。
義稙と義澄は将軍職を争いあった間柄。一度は将軍職を追われた義稙が西国最大の大名であった大内義興と細川高国の支援を受けて義澄を倒し、将軍職に再任されている。それをまた追い落としたのが義晴である。それから義輝に将軍職は引き継がれているが、義稙の血統は三好方の勢力圏で尚も生き続けている。もし義輝兄弟、親子に何かあれば将軍職を継ぐは義稙の血統となるのだ。
次第に三好・松永の企みが明るみになってくる。
「それを知ったのが二日前。公方様に仔細を御報せする間もなかった故、兵部大輔様は独断で我らを救出に差し向けました。その途上で襲撃の対象者に公方様が含まれていることを知り、周蒿様救出に向かっていた塚原様と上泉様、そして覚慶様救出に向かった我らが急遽、公方様の救出に向かった次第」
光秀の説明で概ね理解した義輝だったが、同時に弟たちの安否が気になった。
「ご安心あれ。覚慶様救出は和田伊賀守様が、周蒿様救出には一色式部少輔様が向かっております」
またしても光秀が義輝の心を察して答える。だが義輝の表情は晴れない。
和田惟政と一色藤長はどちらも義輝が信頼する家臣ではあるも天下の三好家を相手に何処まで出来るかは不安が残る。
「大樹公、時間が惜しい。積もる話は坂本に着いてからにしようぞ」
と、そこへ少しばかりの休憩で息を整えた卜伝が促すように義輝へ話しかけた。
「左様ですな。今は余計なことに割く時はない。して明智とやら、如何にして奴らの注意を引き付ける?」
「はっ!これにございます……」
光秀が後ろを向き、手招きで配下の者を呼び寄せる。配下の者は、細長い木箱を担いでおり、光秀の隣にその木箱を置くと、蓋を開けて中身を取り出した。
「これは……種子島ではないか!?」
木箱の中に入っていたのは鉄砲だった。それも三挺ある。
火薬、弾を込め、火薬を置き、火縄を付ける。射撃までの一連の動作を光秀は流れるように行う。
(こやつ……、かなり種子島を扱い慣れておる)
自身も献上された鉄砲を所持しており、その腕前には自信かある。だからこそ光秀の力量を見抜くのに時間はかからなかった。
そのような事を義輝か考えている内に光秀は三挺とも支度を整えてしまっていた。
「公方様、参ります。御仕度を……」
「うむ」
光秀は鉄砲を抱えると関所から半町(約55メートル)ほどの距離まで近づく。まだ敵には気づかれていない。
「よし、参れ」
配下が二挺を持って付いていく。まだ気づかれない。
(狙うは頭と思われる者のみ)
片膝をつき、狙いを定める。兵の一人がこちらの様子に気づいた。
(……奴が頭だな)
火蓋を切り、発射態勢に入る。気づいた兵が指揮官らしき男へ報せる。
(撃つからには必殺じゃ……、焦るな)
まだ撃たない。指揮官らしき男は周辺に指示を出している。
(……今ぞ!!)
バンッ、と銃声がし、指揮官らしき男が倒れた。
「次ッ!」
光秀が配下から鉄砲を受け取ると、素早く射撃体勢に移る。
バンッ、と再びの銃声。先ほどとは違い、即座に撃った。一人が倒れる。
(あと一人……)
最後の鉄砲を受け取り、構える、撃つ。もう一人が倒れた。
「突撃ッ!!」
光秀は鉄砲を放り投げると、抜刀、配下に合図を出す。後方に控えていた残る八人が一斉に弓を構え、放った。八本の矢が飛ぶ。どれも三好兵を仕留めるには至らないが、兵たちの動揺を誘うには充分な一撃だった。
「うぉぉぉぉ!!」
大きな喚声を上げ、豊五郎と意伯を先頭に武者たちが関所へ乗り込む。動揺している雑兵など豊五郎の敵ではない。即座に一人斬り伏せる、二人、三人と斬りつけた。それに負けずと意伯も二人を斬りつける。中には反撃してきた兵もいたが、力の入っていない斬撃は簡単に防がれ、返す刀で冥土へ送られた。
「お見事!我らも負けるな!」
二人に続いて光秀配下の男たちも大いに暴れる。だが、こちらはそれなりの腕は立つとはいえ屈強の者ではない。反撃を受けて負傷する者もおり、うち一人が手槍で肩を貫かれた。
そこへ義輝が騎馬で乗り込んできた。
横から割り込んで馬腹をそのまま三好兵にぶつけ、吹っ飛ばしたのだ。そして男の肩に刺さっている槍を刀で斬り落とした。
「か……忝のうございます……」
「よい。それよりも先へ行け。その怪我ではまともに闘えまい」
「さ、されど……」
「構わぬ」
その言葉に男は躊躇する。男の使命は義輝を守ることであって、護衛の対象である義輝を置いて先へ行くことなど出来ないのだ。
「大樹公の護衛は我らに任せよ」
同じく騎馬で関所に乗り込んできた卜伝が義輝と同じように男へ先行を促す。だがそれでも男はこの場を離れようとしなかった。残った片腕で刀を構え、義輝を守ろうとしていた。
「何故にそこまでする」
「十兵衛様の御命令です。守らぬ訳には参りません」
「……明智か。よい主従じゃ」
裏切りが当たり前な乱世では、命を懸けてまで尽くそうとする者は少ない。皆が"命に代えて"と口を揃えるも実際は危険が迫ると逃げ出す者は多いのが現実だ。
その上で尽くそうとする、される者にはそれだけの魅力、徳がなくては難しい。
(明智には、それがあるのだろう)
そして、それは自らにも言えること。
御所で多くの者が自分の為に死んだ。それも苦難を共にしてきた忠臣たちが多く。そして名も知らぬ目の前の男の命も消えかけている。これ以上、自分のために他人を死なせたくない、という想いが込み上げてくる。
「ならば余から離れるな。余と共にあれば、死なせはせぬ」
と言って義輝は騎馬から降りた。
「大樹公!?」
この行動に卜伝と男は驚く。しかし、義輝は自ら敵兵に近づき、斬撃を振るう。やむ得ず卜伝と信綱も馬から降りて義輝を追いかける。
「あれはもしや将軍か!いかん!あれを逃がせば咎めを受けるだけでは済まぬぞ!」
義輝の存在に気づいた三好兵が一斉に近づいて来る。相手は四人だ。
「公方様!!」
義輝の下へ向かう敵兵に気づいた光秀も慌ててその場を離れる。
三好兵の一人が手槍を義輝に突き出す。身体を捻ってこれを避け、右手で槍を掴む。そのまま力任せに槍を引っ張ると、左手の刀で三好兵の喉元を斬り裂いた。血飛沫が飛び、義輝の身体を覆う。それに一瞬戸惑いを見せた兵たちを義輝はギロリと睨み付けた。
赤く染まった義輝の姿を見て、兵たちは怯えた。為す術もなく一人が斬られ、二人は駆けつけた信綱と光秀に斬られた。
「公方様ッ!御自身の立場を理解なされませ!」
まるで親が子を怒るかのように、信綱が義輝を叱責する。将軍に対し、このような物言いが許されるのは天下広しと言えど剣の師である信綱と卜伝くらいだろう。
二人とも義輝の実力は知っている。このような雑兵にやられはしないと判っている上での叱責だ。義輝が先に逃げようとしなければ、義輝以外の命が失われる可能性が出てくる。
「皆の者、円陣を組め!」
光秀が指示を出し、全員が義輝のいる場所へ一斉に集まる。
「このまま一斉に東へ抜けます」
「……それでよい」
光秀は敵に聞こえないよう周囲に小声で指示を出す。その様子を義輝は隣で見つめていた。
(この男……、鉄砲が得手だけでなく剣術も達者ときた。しかもこの状況で適格に指揮を執るなど、一廉の将と見たが……何者だ?兵部の家臣ではあるまい)
この時点で光秀は四人ほど自らの手で三好兵を倒していた。その様子を窺うだけの余裕と実力が義輝にはあった。
義輝は光秀に対し、強い興味を持った。光秀が藤孝の家臣ならば、何かしらの折に見かけたことがあるはずだったが、その記憶はない。何処かの家中の者が藤孝に協力しているのだろうと思ったが、何処の家中か想像つかなかった。
義輝がそんなことを考えているなど露とも知らない光秀は、指示を出し終わると配下に合図を出した。
「行けッ!」
全員が一斉に東へ駆け出す。そうはさせまいと三好兵も立ち塞がるが、数こそ三好方が多かったが、その強さは義輝方が圧倒的だった。そもそもこの襲撃の指揮を執っている三好長逸は最初の襲撃で片が付くと考えており、この地に配していた兵は言わば形だけの存在であり、数を集めただけだった。名実ともに"剣豪"である義輝らとまともに戦える者はいない。まさに圧倒的だった。このまま戦い続ければ三好兵を全滅させてしまうのではないかというほどに。しかし、義輝たちの目的は関所の突破であって敵の殲滅ではない。最初の一撃で包囲網が破られると、堰を切ったように義輝方が囲みを抜け出た。それを追う余裕は、三好方にはなかった。
負傷四名。義輝たちは一人の死者も出すことなく逢坂の関を突破した。この先は江南に勢力を持つ六角氏の勢力圏であるために容易に追っ手を差し向けることは出来ないと思われる。義輝は突然の襲撃から生還したのだ。
この日を境として、日ノ本の歴史は大きく動くことになる。
【続く】
第二回、投稿です。
いや、文章を書くって難しいですね。戦闘シーンとかもう大変です。
さて、早くも明智光秀登場です。本文中では何処かの家中と書いていますが、まぁすぐに明らかになりますし、想像通りです。特に特別な設定はありません。(ただ早く登場させたかっただけ)
また更新頻度ですが、ある程度の構想は出来上がっているので上手く行けば1週間に1回(目標は2回)出来ればと思っています。良ければ続けて見て頂ければ嬉しいです。