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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
最終章 ~天下泰平~
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第十四章 義忠の疑問 ー副王と呼ばれた男ー  

天正十四年(一五八六)七月二十五日

京・二条城


 山の形は変わり、家屋は倒壊、寺社仏閣にも大きな損壊を及ぼし、多くの人命が失われた天正大地震の傷跡も色濃く残る中、天下を揺るがす事件が起こる。


 突如として急使が二条城へ飛び込んで来た。


「……開門ッ!開門ッッ!!」


 騎馬武者は大声を張り、土煙を巻き上げ、開門を促す。これほど慌ただしい様子は戦国乱世が終わって久しくなかった程で、十年近く前に上杉謙信が急死した時のことを彷彿とさせた。何事かと城内も釣られて慌ただしさを増していった。


 急使は京都所司代から発せられたものであった。それ故に洛中での出来事と想像は出来たものの、普段から在京して都の様子を報せられている義輝には見当が付かなかった。


「大御所様!一大事にございます!内裏にて昨夜、帝が崩御なされたとのこと……」

「……は?」


 予想だにしない急報に接し、大御所・足利義輝は事態を正確に理解できなかった。そもそも帝が病に臥せっているという情報すら入っておらず、健やかにつづがなくお過ごしだと思っていたからだ。また帝であるが故に武家とは違い、不慮のことで命を落とすことは考えられない。加えて父親である正親町上皇も健在で、今上の帝も齢三十五と若く、その死を理解できなかった。


「何があった?死因は何だ?」


 怪訝な表情ながら義輝の目つきは鋭い。帝が暗殺されるようなことは危惧していないが、何かしらの策謀は疑った。


「疱瘡あるいは麻疹の類であるとの話です」


 疱瘡とは飛鳥、奈良の時代より見られる病で“瘡かさ発いでて死みまかる者は身焼かれ、打たれ、摧くだかるるが如し”と日本書紀にも記述があり、発症すると完治する場合もあるが、死ぬことも多い難病の一つである。古くは敏達天皇も疱瘡が死因と伝わっているほどである。


 発症してから高熱を発し、そのまま亡くなることも多い疱瘡が死因であるなら、幕府が感知していなくとも不思議ではなかった。


「どうやら上皇様も把握されていなかったようで、内裏と仙洞御所は今や混乱の極みにございます」

「……已むを得まい。上皇様が帝の病を知れば、見舞いに赴かれようとされるだろうからな。それ故に伏しておられたのであろう」


 義輝は尤もだとして何度も頷きを繰り返した。


 疱瘡の怖いところが伝染するところである。もし見舞いにでも出かけて感染すれば天皇、上皇の同時崩御も有り得る。いま幕府と朝廷の関係は良好であるも、共倒れとなれば義輝と言えど皇統に口出しせざるを得なくなる。それは朝廷としては望んでいないだろう。そして、恐らくその判断をされたのは崩御された帝自身と思われた。


「上皇様の叡慮を賜らねばなるまいが、東宮である和仁親王殿下の御即位は確実だろう。よい機会だ、ここは大樹に任せるとするか」


 帝の突然の崩御は大きな混乱を生むものだが、義輝は至って冷静であった。


 報せを受けた瞬間こそ驚いたものの今上の帝には男子が多く、何より上皇が健在で幕府も安定している以上、これ以上の混乱はないと考えたのだ。ならば一時もすれば、すぐに代替わりの話は進む。


 今上の帝には嫡子・和仁親王の他、四人の男子と一人の女子がいる。嫡子が明確で上皇が健在な以上は次の帝は和仁親王以外は考えられなかった。逆にこれが揉めるようなら幕府として義輝が強権を持って道筋を付ける必要があるが、先が決まっているなら現将軍である義忠に差配させて箔を付けさせる方が良いと思った。その方が将軍と帝の関係が良好になり、より幕府の治世は盤石となる。


「この事、急ぎ伏見へ伝えよ」

「はっ!承知仕りました」


 斯くして義輝は御大喪から一連の儀礼式を義忠へ任せるようになると、義忠は禁裏に近い二条城へ足を運ぶ事が多くなり、自然と親子の会話は増えていった。親子の会話とはいえ大御所と将軍の会話であるから、もっぱら政治向きなことが大半となったが、それでも戦国乱世を生きてきた義輝の知識や経験は義忠にとって興味の湧く話題ばかりである。親子の会話が増えるのは必然であった。


 とはいえ余談の許さない事案も起きている。


「上皇様にとって帝の崩御は御心痛の極みの御様子、食事も喉を通らぬ有様とか」

「然も有りなん。余とて大樹を失えば、同じ想いとなろう」


 と初めはその報告に同情するだけであった義輝も、正親町上皇が本当に絶食しているらしく、そのまま餓死したとの噂が流れると関らざる得なくなった。義輝はすぐに参内して哀悼の意を示すと主に御大喪、践祚から即位、大嘗祭までの一連を幕府が差配することを奏上した。


 これに感激した正親町上皇が姿を見せたことで結局、噂は噂に過ぎなかったことが伝わると義輝は改めて義忠に将軍として主導するように伝え、自身は監督するに留まった。 


 そして新帝の即位は順調に進む。跡目は正親町上皇の叡慮によって周囲の予想通り和仁親王に決まり、今上の帝には陽光天皇の名が贈られた。陽光帝の喪が明けた翌年に御大典は行われ、幕府の威信に懸けて全国の大名を動員、式典は厳重かつ厳かに行われ、成功裏に終わった。その頃には天正地震からもかなり回復しており、禁裏は義忠の功績を讃え、正二位・右大臣にまで昇った。義輝は改めて義忠を直に呼んで褒め、将軍として立派に成長していることを喜んだ。


「実は父上に御伺いしたいことがございます」


 その席で義忠は予てから気になっていたと前置きをした上で訊ねてきた。


「父上にとって三好長慶という人物は、どのような武将だったのでしょうか」

「……長慶か」


 義輝は感慨深そうに呟いた。その瞳はどこか懐かしそうでもある。三好長慶は義輝の生涯に於いて語らずにはいられない人物だ。


 そもそも三好氏は現在でこそ伊予と淡路二カ国を治める大名であるも、最盛期は五畿内に覇を唱え、阿波と讃岐、淡路はもちろんのこと、四国では土佐に伊予、播磨や丹波、紀伊にもその影響力を及ぼしていた。一時は三好の動向に左右されていた大名家は多く、紛れもなく当時では並ぶものないほど日ノ本最大の勢力を誇っていた大名だったであろう。その興りは阿波三好庄を由来とした管領・細川の庶流である阿波細川家の被官で、長慶の父・元長や祖父・之長も名将として名高く、阿波細川家から澄元が本家の京兆家へ養子に迎えられたことから、之長は上方への戦にも駆り出されることとなり、本家と阿波守護家に両属する形となった。


 その之長が細川高国との戦いに敗れて死去するも、子の元長は阿波にて澄元の子である晴元を支え、高国の擁する十二代将軍・足利義晴に対抗して平島公方であった当時の義冬を擁立、高国と熾烈な争いの内に勝利した晴元は、政敵がいなくなったことで管領と京兆家の家督就任の為に義晴との和睦を模索し始めた。しかし、これに異を唱えた元長が晴元は邪魔になった。晴元は元長を排除すべく、同じ三好一族で家臣の三好政長と姦計に及び、元長は非業の最期を遂げる。長慶は若年という理由で助命され、細川家臣として生き残るも復讐の機会を忘れず、家中で力を蓄えると挙兵、江口の戦いで政長を討ち取って悲願を成就させた。


 この戦いに主君・晴元が政長の味方として介入したことで、長慶は主君とも対立することになった。これが長慶の転機となり、晴元すら追いやったことで必然的に長慶は幕府を掌握することになり、天下人の座に君臨することになる。


 当時の義輝は晴元に擁立されていた側であり、まだ先代の義晴も存命で長慶の挙兵は謀反にしか映らなかった。長慶は天下の簒奪者であり、そこから何度か和睦して帰京するも、長慶の生前は遂に実権を取り戻すことは出来ず、三好の天下は揺るがなかった。


「何故に聚光院が気になる?」

「三好長慶という人物は理世安民という言葉を掲げたと聞きました。謀反人の長慶が、何故にそのよう言葉を掲げたのか不思議でなりません。よく人が付いてきたと思いました」

「謀反人か......なるほど、そういうことか」


 理世安民とは三好長慶が掲げた理念である。道理を以て世の治め、民を安んじるという意味だが、義忠は長慶の振る舞いが理念にそぐわないと感じたのだろう。長慶を知らない人間からすれば、そう捉えられても仕方ないことだとは思う。


「先の地揺れで三好左京大夫の働きは格別のものがございました。その左京大夫が道理が通らなければ、世は鎮まらぬと申しており、某も尤もだと思いました」

「左京大夫の申す通りよ。されど左京大夫が尊敬する聚光院の理念がどうしても理解できぬと申すのだな」

「はっ。父上はその長慶に散々苦しめられたと聞き及びます。長慶が死に、将軍家は復権を果たしました。その父上を苦しめた長慶が如何なる武将だったかを父上の口から直に聞いてみたいと思った次第にて……」

「そのままじゃろうな」

「そのままとは?」

「道理について、一番に頭を悩ましたのは聚光院であろう。道理の通らぬ世で、道理を通せぬ自らに苦しんだ、それが三好長慶という武士だ」


 長慶は主君・晴元に反旗を翻した。これだけを見れば謀反に映るが、それは上からの見方であり、晴元は長慶の仇で晴元自身が主君である足利将軍を変えていることから、長慶だけを責めることは出来ない。長慶に晴元を討つ大義があったのは間違いなく、そもそも晴元が節操のない人間であったことは義輝が一番に知っている。それでいても長慶は晴元の首までは求めず、高国の養子であった細川氏綱を京兆家の家督に据え、主君として扱って自らは実権を握った。


 名門を傀儡当主として扱うやり口は戦国乱世に多く見受けられたが、実のところ長慶は氏綱をしっかり立てており、長慶は必要な場面で氏綱の許可や認可は受けている。


「長慶には野心があったのではありませぬか」

「あやつに野心があったのなら、手っ取り早く将軍を挿げ替えておろう。実際、高国や晴元は将軍を己の都合よく扱っておったからな。だが聚光院は余を将軍に戴き続けた。阿波公方の将軍就任が父・元長の悲願でもあったにも関わらずだ。聚光院の父・元長は阿波公方の将軍就任に拘り、晴元と対立して殺されたのだ。それを聚光院は良く知っておる。それでも阿波公方を将軍にしなかったのは、如何に父の悲願とは言え道理が通らないと聚光院が考えたからに他あるまい」

「しかし、長慶は改元にすら将軍家を飛び越えて口を出したと聞きました」

「うわっはっはっは!確かに永禄という元号は聚光院の手によるものだ。されどな、父に金がなかったのがそもそもの原因だ。その当時は帝の即位や改元すら将軍家は金を出せず、父は大いに面目を失った。あの当時は朝廷に出す金があるなら三好討伐に使うつもりであった。その上、余を飛び越えて改元しないと浅はかに考えた。故に朝廷の要請に仕方なく聚光院は金を出したのが実情よ。聚光院にすれば朝廷の意向を無視しようとした余こそ道理に反していると捉えたはずだ。もっとも今のそなたには幕府がそのような状況であったなどど想像もできないだろうがな」


 そう笑って答える義輝であったが、事実として三好家中に将軍権威を貶める意図がなかったとは思わない。策謀はあったが、改元の話が先に来たのは将軍家へである。朝廷は幕府を上回る権威であり、それで改元を止める訳はなく、金を出せなかった将軍家の代わりに京を支配していた三好へ話を持って行くのは自然な流れだった。それをとやかく言うのは敗者の弁でしかない。そして三好に金を出してもらうことを許容できなかったのが、当時の義輝だ。事実、義輝は三好憎しの感情を抱いており、朝廷の意向よりも自身の感情を優先させた。若かったと思う。今ならば別の判断をしただろうが、結局は後の祭りだ。


(余は天下の重さを理解していなかったのだ。聚光院と話が合わぬのも道理よ)


 最終的に勝者となった義輝だからこそ、あの当時の長慶の気持ちは理解できる。戦国乱世は、そんなに甘い世の中ではないのだ。もし今の義輝が当時の自分なら、三好を巻き込む形で改元を実現しただろう。三好と敵対するのではなく、その強大な力を利用して幕府を建て直し、復権を果たすはずだ。


「それにな、聚光院が死んだから父の復権が果たされたのではないぞ」


 そう、違うのだと自らに言い聞かせながら、義輝は過去を振り返って語る。


「そもそも足利の政は世を治めるのに適していなかったのだ。それを父が変えた。それが復権が成った……、いや正確には違うな。幕府を再興したと申した方が良かろう。今の幕府は、かつてのものと違う」


 足利幕府は大名間の調停機関である要素が強かった。だからこそ軍事力を保持せず、執事や管領が権力を握り、あくまで武家の棟梁として権威の象徴として存在していた。だが将軍権威は朝廷から与えられた仮初の権威にしか過ぎず、朝廷が存在する限り、真の権威には足り得なかった。


 それが鎌倉幕府との違いだ。鎌倉の幕府は将軍が皇族であったために、権威が権威に足り得た。もちろん公家に虐げられてきた武家の権威として必要とされたこともある。その象徴として源氏将軍が生まれた。その源氏将軍が絶えた後、武家の府を消滅させる訳にはいかないとして摂家、次いで宮将軍を招き、云わば小さな地方朝廷として変貌、その地方朝廷を与る北条得宗家が権力を掌握、幕政を欲しいままにしていた。結果として得宗家も身内の権力争いが原因で次第に形骸化していき、家宰であった内管領にその実を奪われていく。これは管領が力を失い、大内や六角など管領代が実質の天下人として君臨していた事に似ているが、鎌倉と足利幕府とは成り立ちが大きく違う。


 足利幕府は鎌倉と違い、武家の府として誕生した訳ではなく、あくまで建武新政に不満を抱いたものたちの寄りどころに過ぎない。足利幕府成立時は南朝勢力があり、皇統の正統が南朝にあることを一時とはいえ、初代尊氏が正平一統で認めてしまっているのだ。その後、正平一統は破棄されるも一度、認めた事実は覆らない。この過程で南北朝の争いは激しさを増し、次第に足利幕府は調停機関としての要素を強めていった。

 

「確かに足利は諸大名を調停した。しかし、将軍家が兵を持たない所為で力ある大名を打倒したとて、また別の大名が力を持つ。その繰り返した」

「されど、それを父上が変えられた」

「そうだ。とはいえ父とて最初からそうであった訳ではない。父は何度も聚光院の首を狙い、将軍職を失った後に上洛を果たした際、上方の所領を恩賞として諸大名に分け与えようともした」


 御恩と奉公という関係は今でも変わらないが、復職した義輝には諸大名へ所領を分け与える必要があったのは確かだ。実際、義輝を含め幕臣たちは諸大名の厄介になっているだけで、将軍復職に対して何が出来たという訳ではない。働いたのは全て大名たちで、その大名たちが勝ち取った土地を大名たちが得るのは当然という考え方があった。現に織田信長は自身で制圧した土地を幕府から与えられるという形を取らずして自身で治めた。


 ところがである。勲功第一であった信長が幕府の統制下に入ることを懸念して恩賞を辞退し、第二位であった上杉謙信が本心は別として、その形に倣った。故に第三位の朝倉義景に恩賞を与える必要がなくなり、空白地を将軍家が得ることが出来たのだ。自ら力を持つということを知った。


「そうやって手に入れた京畿七カ国すら幕臣たちでは手が足りず、綱渡りのような統治で兵を集め、四国に渡って三好を成敗できたのも、三好が内々で争って力を落としていたからだ。まともに戦ったなら勝てなかったであろう」

「では父上が復け……いや、幕府の再興が成されたというのは?」

「検地よ。諸大名が争い、互いに勢力を削り合う中で検地が進んだのが僥倖であった。河内守がおらねば、こうもいかなかったであろう」


 今や河内一国を任され、河内守を名乗るようになった北条氏規は今も検地奉行として役目を担っている。そも検地というのは将軍家より地方を統制していた戦国大名すら実現が不可能だった事柄なのだ。


「父が河内守を重用する理由だ。そして北条の遺臣たちを登用するのも、その統治の有用性を認めたからに他ならぬ」

「検地はそれほど重要ですか」

「重要だ。検地があればこそ、父は自ら大軍を率いて西征へ赴けたのだ。毛利を降し、一敗地に塗れたものの謀反方を打破し、信玄を討ち取った。検地がなければ成し得なかったことよ」


 義輝は息子を前に昔語りをしつつ当時を振り返る。


 激闘の時代であったと懐かしむほど、義輝の心は泰平に染まっていない。既に十年以上もの月日が過ぎ去っていてもなお、戦い続けた日々が長過ぎた。そう語る義輝であったが、理世安民の言葉を聞いた時には憤ったものだ。その道理を歪めている男が何を申すのか、と。


「元亀の頃くらいだ。諸大名が謀反を起こし、京に戻ったくらいから聚光院については考えが変わった。次第に憎いと思っていた感情は薄れていった」

「それは何故にでございましょうや」

「父は征夷大将軍は絶対なものだと思っておった。だかかつての聚光院を凌ぐ力を持ってしても、諸大名は余の命に従わず、謀反に及んだ」


 当時の義輝は京畿七カ国を平定し、四国を傘下に治めて織田や徳川、上杉などが恭順を誓っていた。武田信玄でさえ、表向きでは上洛して義輝に平伏したのだ。しかし、それは表向きのものでしなかった。


 その後、守護大名たちは義輝を追い落とすべく策謀を練り、足利義昭を奉じて元亀擾乱を起こした。


「道理を貫くには力がいる。絶対的な力にこそ、畏怖され忠義が集まるのだ」


 その諸大名の態度が翻ったのは、義輝の帰京後である。軍役を免除した大名たちが揃って参陣し、毛利元就ですら心から膝を屈した。皮肉にもそのきっかけを作ったのは、義輝の命を狙った三好義継であった。


「力のない余には、聚光院は大きく見えた。しかし聚光院にすれば、まだ畿内の一部を治めたに過ぎず、内部には面従腹背の徒が跋扈しておった。家格も低く、聚光院は実力を認められつつも侮蔑の対象でもあった。畿内は平静に見えていても聚光院の寝首を斯こうという輩は多く存在した。そんな状態では外征に赴くなど不可能、三好は版図を拡大できなかった。聚光院には先が見えたのだ。天下大乱は終わりの見えぬものと感じたであろうさ。だから恐らく、聚光院は半ば諦めたのだろう」

「諦めた?」

「期待していた嫡男が死んだ。自分の死後に後を託せる弟たちも死んだ。死に際の聚光院には会っておらぬが、次第に覇気が抜けて行っておったのは覚えておる。それを当時の余は好機と考えたのは滑稽だがな」


 と自身の過去を自分から鼻で笑った。当時の長慶の立場を考えれば、周りの連中は相当に身勝手だと映ったに違いない。元亀擾乱が起こり、謀反を起こした敵方にも無断で撤退した織田信長や自領の拡大を優先させる諸大名を同じように義輝も感じていた。


(恐らく聚光院も同じ思いを抱いておったのであろうさ)


 幕政を与るべき管領は権力闘争に明け暮れて民を顧みず、将軍家も地方の調停を行ってはいたものの、その目的は畿内に兵を上洛させるための手段だった。長慶からすれば、将軍家の動きを見過ごせばせっかく安定させようとしている上方に新たな争乱を呼び起こしてしまう。はっきり言って迷惑極まりないことだったはずだ。


 力を持っているのは三好、治安を維持し、民を安んじることの出来るのは三好のみ。しかし一方で三好の家格は低く‟成り上がり”として諸国の大名は常に三好へ反発した。一度、都を実効支配した長慶は自身の力だけで世の中を治めることに限界を感じた事であろう。朝廷は常に幕府を重視し、諸大名も幕府の動向を気にしていたし、当然ながら三好を主君とは思わず、上位に立つことを認めなかった。故に和睦し、長慶は義輝を都へと呼び戻した。だが義輝の中で三好は常に潜在的な敵方であり、いつかは打倒すべき相手なのは変わらなかった。故に長慶は苦慮したことだろう。八方塞がりだったはずだ。


(余が聚光院を受け入れていたならば、今ごろ余の跡を継いでいたのは輝若であったやもしれぬ。許せ、輝若よ)


 かつては抱かなかった選択を、いま思い描く。


 世が細川や畠山など三管四職では治まらぬと考えていたのは義輝も長慶も同じだった。だからこそ長尾景虎に上杉家の家督と関東管領職を引き継がせ、大友や伊達に探題職を任じ、毛利に守護職を歴任させ力ある者に地方を治めさせた。これまでの将軍と違うことを義輝がやってきたのだ。それは上方で実権を取り戻すためであったが、今までのままでは世が治まらないと思ったからでもある。地方で起こった新しい力に賭けたのだ。


(聚光院よ、今の世をどう思っておる。一度、本音で語り合いたかったものだ)


 かつて義輝の前に大きく立ち塞がった男の姿を、今の鮮明に覚えている。一時代を築き、日ノ本の副王とも称された男が、もし自身の片腕として戦国乱世を生きたならどうなっていたのか。


 泰平の世を築いた今だからこそ、その尊ぶべき理想を知りたいと義輝は思った。しかし、それは叶わぬ願いであった。




【続く】

明けましておめでとうございます。


1年以上明けての投稿となります。暫く更新がなかったことお許しください。昨年の春先より仕事が上手くいかず、後は後日談だというタイミングでかなり時間が空く結果となってしまいました。申し訳ございません。


仕事の現状は好転してはいないのですが、少しずつ書き足してはいたので後1話分のストックは実はあったりしますが、最終話まで数話というところなので、その後の話を描く際に書き終わっているところも表現に変化を加えるかもしれません。


今年は完結までは必ず書きますので、長い目でお付き合いくださいませ。

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― 新着の感想 ―
当時の義輝は長慶がいて事自分が生きていられるってわかっていなかっただろうし、そういう評価になりますよね。
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