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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
最終章 ~天下泰平~
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第十二章 新将軍誕生 ー新帝と十五代将軍ー  

 天正十二年(一五八四)


 征夷大将軍・足利義輝の全国統治にようやく天下万民が慣れてきた頃、天下の主たる帝が遂に退位を口にされた。


 最初に叡慮を承ったのは関白・近衛前久である。天下が落ち着き始めた天正五年(一五七七)、在位二十年を迎えた正親町帝は譲位の意向を受けた前久より義輝へ伝えられた。


「帝の譲位となれば、幕府で取り仕切らなければならぬ。中務大輔、手抜かりなく進めよ」

「承知仕りました」


 義輝は京都所司代・摂津中務大輔晴門へ命じ、坂東巡遊から帰洛後に速やかに行うことを命じた。


 帝の譲位は改元と同様で義輝にとって是が非でも自らの手で成し遂げたいという想いが強い。何故なら正親町帝が即位した弘治三年(一五五七)に義輝は三好勢に追われて在京しておらず、正親町帝も困窮から即位の礼を行えなかった苦い過去がある。先帝の崩御後、毛利元就より献金があって即位式を叶うまで二年を要した。先々代の御世は実際の即位から儀礼的な即位式を行うまで十年かかっている。その前は二十一年だ。


 こうした背景から当時、義輝ひいては幕府の無力さに何度となく嘆いたか分からず、帝の義輝へ対する印象は最悪だった。ところが永禄の変以降は一変する。義輝は前久を通じて征夷大将軍へ再任すると裏切った公家へは厳しい態度を崩さない一方で、朝廷への挨拶は欠かさなくなった。征夷大将軍という役職を一度は失い、その権威が帝あってものだと再認識したからである。

 

 その後、義輝は幕府再興へ向けて着実に成果を出し始め、京畿一帯で争いが起こることは少なくなっていく。義輝の天下一統が進むに当って、帝の義輝へ対する評価は徐々に良くなっていった。


 斯くように天下一統後も帝が譲位を口にされなかったのは、自ら譲位する際は滞りなくという強い想いがあっての思し召しではないかと考えられた。特に乱世では先代も先々代も譲位を実現しないまま崩御しており、譲位は念願だった。


 ところがである。その後に帝が体調を崩されることが度々あり、譲位は先延ばしになった。


 そして長く体調が思わしくなかった帝が持ち直し、改めて譲位の話が再び持ち上がったのは天正九年(一五八一)の春頃であった。義輝は譲位後の住まいとなる仙洞御所の普請や吉日選びなど様々な事情が整理されてようやく譲位が実現したのは天正十一年(一五八三)のことだった。話が持ち上がってから実に六年も経過していた。


 そして帝の一宮である誠仁親王が即位し、第百七代天皇となった。支度が整ってからの即位式は恙無く進み、第百二代後花園天皇以来の譲位に洛中では盛大なお祭り騒ぎとなった。ただ慶事はそれだけではない。


「帝が譲位なされたのであるなら、そろそろ余も家督を譲らねばな」


 として譲位の翌年、義輝は嫡男である千寿王を元服させることにした。とはいえ、ここで一つ問題が生じる。


「上様、御世継ぎの元服に際しては管領職にあった者が烏帽子親を務めるのが慣例にございましたが、既に管領職は廃止されております。此度は如何いたしましょう」

「……そうであったわ。それは余も失念しておった」


 天下を一統するに当たって、足利将軍家の慣例を義輝は変えてきており、この頃になると政事の仕組みも大きく変わっていたことから元服に管領が必要になることを忘れていた。多くの変革を行ってきた義輝であるも譲位を例とするように儀礼的なものに大きな変化もなく、実際に自身の元服に際しては父・義晴の意向であるも管領不在から已む無く六角定頼を管領代に任じるなどして慣例に準じる采配をしている。よって今さら管領に拘る必要もないようにも思えた。


「管領なしで元服を執り行いますか」


 その問いに義輝は暫く黙考してから口を開いた。

 

「いや、ここは敢えて管領職を復活させよう」

「よ……よろしいのですか?」

「勘違いするではない。従来の管領を復活させるのではないぞ。あくまでも元服の際のみの役職とし、実権は持たせぬ」


 管領は幕府の実験を握り、将軍を傀儡として天下人に君臨していた時代がある。よって廃止としたが、その歴史は覆らない。だからこそ義輝は自らの死後、悪用されないように名誉職として管領を復活させようと考えた。その方が管領の役割が明確となり、後の世に悪用されないと考えたからだ。


「新たな管領には斯波家の者がよかろう。三松軒を召し出せ」


 斯波家の惣領である三松軒(義銀)は、いま洛中で隠遁している。子の義康こそ斯波家の嫡流として義輝の偏諱を賜っているが、要職には就いておらずに所領すら持たない。捨扶持を与えられながら奉公しており、かつての名門は見る影もなかった。それがここに来て、ようやく日の目を見ることになった。


「もはや三松軒に野心は感じられぬ。斯波家の者は余に抗った訳でもないからな。累代の忠孝を重んじ、管領職を任せよう」


 そもそも管領に選ばれるのは細川、畠山、そして斯波の三家のみに限られる。内で細川家は因幡、伯耆、但馬と治め、畠山家も能登一国を治める守護として存続している。力を持つ者に管領を与えるのは危険であり、その点で言えば所領を持たない斯波家は適任と言えた。しかも一時は三管領筆頭と呼ばれたのが斯波という家である。将軍の元服を取り仕切る役職を任せるのに家格は充分だった。


「過分なる御配慮、身に余る栄誉と存じ奉ります」


 召し出された三松軒は管領職への復帰を命じられると祖先に対し、世間に対して大いに面目を施せるとして喜び、涙した。その後の管領職には細川、畠山家の者が一度たりとも就くことはなく、足利幕府の終焉まで斯波家の家職として続いていくこととなる。


 そして遂に千寿王元服の日を迎えた。


 未曾有の慶事に伏見城へは近隣の諸大名だけでなく、各地から駆け付けて式典へ参加する。義輝の名で十万の軍勢が上洛、かつてない規模で元服式が伏見城で行われた。


(余がひっそりと坂本で元服した時と大違いよ)


 義輝が元服して三十年近くが経過しようとしていた。日吉神社で行われた元服式では父・義晴らを始め当時の幕臣たち、そして六角定頼に被官たちが列席したが、大名と呼べるのは定頼ただ一人であった。それが今回、天下の諸大名が集っている。


「千寿王を改め、名を義忠とする」


 義輝の嫡子・千寿王は諱を将軍家の通じである“義”を踏襲して義輝からは“忠”の一字を与えられた。また朝廷からは元服に際して代々将軍家継子に任じられる従五位下・左馬頭に就いた。更に驚いたのは、その翌日に義忠が将軍家の家督を譲られ、征夷大将軍に任じられたことだ。


 それによって義輝は正式に隠居、大御所と呼ばれる存在となった。


「余は幾度となく死線を潜り抜け、天下を一統した。これを強運と呼ぶ者もあるが、それは違う。余は天運に恵まれたのだ。天が、余を生かしたのだ。そして新将軍も元亀擾乱時、火の海に包まれた京の都から逃れておる。まさに余の跡を継ぐに相応しい天運の持ち主である」


 段上から義輝は、征夷大将軍として最後の言葉を継げた。


「なお左馬頭は余の跡目であるが、将軍としては十五代目とする」


 その宣言に場は一時、騒然となった。


 義輝は知っての通り十三代目である。義忠が後継ぎなら十四代目に数えられるはずだが、義輝は十五代目と宣言した。それは永禄の変後、僅かな期間だが将軍職にあった義栄を認めるということになる。これは義輝が今まで口にして来なかったことであるが、義栄の弟・義助は阿波公方として将軍家の継承権を与えられている。義輝は義栄・義助親子の父・義冬との和解に際して“許すとはそういうことだ”と発言をしていた。


 つまり義栄を十四代目にすることを認めていたことになる。


「左馬頭よ、征夷大将軍は血筋だけで尊ばれるものではない。武門の棟梁に相応しき器量、振る舞いが必要ぞ。歴代将軍の中には己の立場に胡坐をかき、命を落とした者もおる。そなたも一人の武門として、日々の精進を怠るでないぞ」


 苦しい時代が長かった義輝の言葉だからこその重みがあった。義輝でさえ、征夷大将軍が往年の力を取り戻したのは元亀擾乱の半ば、松永久秀を追って京を取り戻した後のことである。それまでの義輝は将軍の力を利用する者たちと利害の一致を図り、懐柔していかなければならず、武威に靡く今の姿にはほど遠かった。


 しかし、義忠は今の強い将軍の姿しか知らない。勘違いをしたまま将軍となれば、乱世を引き起こす可能性もある。


「これにて若様も元服、ますます幕府は安泰でございましょう」

「然様。翌年にはうえさ……、いや大御所様に倣って禁裏から参議、左近衛中将に叙任される予定にござれば、ますます安泰……」


 苦楽を共にした幕臣たちからは安堵の声が相次いだ。祝宴は三日三晩に亘って続けられ、諸将は泰平を謳歌しているように思えた。


 しかし、当の義忠と言えば祝宴が楽しいはずがない。まだ若年にも関わらずに家督ばかりか将軍職まで譲られたのだ。義輝が大御所として幕府の舵取りを続けはするが、矢面に立っていくのは己である。宴席でも父と並んで祝辞を受けているが、主役は父であって自分ではない。元服したての若造に払う敬意はなく、上辺だけだ。全ては義輝を恐れてのことである。


「此度、父上は何故に将軍職まで譲られたのか」


 首座に着きながら、ぼそっと疑問を呟く。


 天下という重い荷は、まだ十代半ばの義忠には重すぎるように思えた。まずは家督、評定に参加しながら経験を積んだ後に将軍職を継承するのでは駄目だったのかと考えてしまう。


「早すぎると思われるのは御察し致しますが、大御所様は十一歳で家督と将軍職を御継ぎになられました。あの頃は乱世も真っただ中で、我々も京を追われていた中での元服であったのです」


 その疑問に答えたのは、義輝の腹心で古くからの朋友とも呼べる細川藤孝だった。


「泰平の世ともなれば、充分に経験を積んでから家督を継ぐことも出来ましょう。されど将軍家は一度、滅びかけました。若くして家督と将軍職を継ぐのは、艱難辛苦の日々を忘れぬ為の戒めでございましょう」

「戒め……」

「然様、大御所様もすぐに政務を全て任せられることはございませぬ。されど一廉の武士として、武門の棟梁として大御所様から多くを学ばれると良いかと存じます」


 不安に駆られる義忠に対し、藤孝は言葉を繋いでいく。


「上様が与えられた忠の字は、諸大名に忠義の心を忘れさせぬためにございます。将軍ともなれば、偏諱を授ける機会も多く、これからの大名たちは揃って忠の字を自ら諱に持つことになるでしょう。それでいて何よりも上様に忠義を向けられる将軍になって欲しいと大御所様は願っております。仕える価値のある主君でなければ、家臣は付いて来ませぬからな」


 斯く言う藤孝の“藤”も、かつて主君から賜った名だ。今では“輝”の字を賜った者が多い中、藤孝が早い段階で偏諱を受けたことを物語っている。その名に恥じぬよう忠義を貫いてきたつもりだ。


「されど宰相、家来が主君を選ぶなど道理に反しておらぬか」

「もちろん反しております。されど乱世を生き抜いてきた者たちの多く生きる今、その現実から目を背けられませぬ。そもそも、その道理が通じようなら乱世など起こってはおらぬからな」


 戦国乱世では下剋上は当たり前、主君を変えるなど数え切れないほど例がある。綺麗事を言ったところで、その事実が覆る訳ではないのだ。そう言って笑う藤孝であったが、釣られて笑える余裕が義忠にはない。


「上様の役割は、その道理が正しくなる世を創ることにございます。天正式目がございますが、より主従の関係を明確にする必要がありましょう。その在り様を上様の代で如何に築けるかが肝要にございます」

「そのようなことを言われても、父上のようにやれる自信はない」

「最初は誰しもが不安に感じるものです。故に家臣たちを束ね、大事を成すのです。まずは腹心となる家臣を御創り下さいませ」

「父上の傍に宰相がいたようにか?」

「然様でございます。なればこそ我が子に上様の偏諱を一番に頂きとうございます。某の藤の字も大御所様から頂いたもの。我が子に偏諱を与えれば、諸大名は我も我もと相次いで偏諱を求めて来ましょう。その中に、必ずや上様の力となる者がいるはずです」

「うむ、宰相の言葉を肝に銘じよう」


 藤孝の言葉に、義忠はこの日で初めて笑みをこぼした。父・義輝であったらこのように優しく言葉をかけなかったはずだ。厳しい時代を生き抜いてきた義輝だからこそ、義輝は我が子の教育には厳しい。厳しくなければ、この時期に将軍職を譲ったりはしない。


 この後、義忠は藤孝の子・熊千代にも忠の字を与えて元服、忠興と名乗せて近習に加えた。そして藤孝も義輝に倣って隠居、名を幽斎と改めた。


 そして翌月、義輝は義忠を伴って参内し、新帝に新将軍が拝謁する運びとなった。新将軍の御披露目とも呼べる出来事であったが、これを機会に多くの諸大名が世代交代を行っている。実弟・藤孝に倣って兄の三淵藤英も隠居、大大名では浅井長政や徳川家康、他にも伊達輝宗や長曾我部元親、三好義継などが子に家督を譲っていった。


 さらに翌年、新帝を新将軍が伏見城に招く“伏見行幸”が行われる。


 伏見行幸は五日間に亘って行われ、全国から諸大名が上洛、豪華絢爛な大行列は多くの見物客を創り、新帝を招いた義忠は幕府の威信を懸けて饗応に臨んだ。ここまで贅の限りを尽くした例は過去になく、帝や公家たちは度肝を抜かれたという。


 この行幸で義輝は隠居の身分を利用して、自らの力を天下に誇示した。


「余は帝よりも後に伏見へ入ることとする」


 従来、行幸では屋敷の主は当然、屋敷にて賓客を待ち受けるものである。本来であれば義輝も伏見城へいるべきであるが、今の伏見の主は新将軍の義忠であり、義輝ではなかった。義輝は隠居を機に伏見城を義忠に明け渡すと、自らはかつての本拠であった二条城を改築、そこへ住んだ。伏見城は広すぎて、隠居の身には二条城くらいの広さがちょうど良かったのだ。故に義輝は天皇よりも後に伏見入りを果たし、己の力が日ノ本で第一であると天下に示そうとしたのだ。


 諸大名を引き連れたこと、贅を尽くしたこと、帝が義輝が武家の力を朝廷に知らしめる為に行ったことであり、行幸を機に義忠を始め、多くの大名が昇進、叙任されている。


 しかも義輝は用意周到で、帝がいる中で諸大名は新将軍・義忠に義輝に対してと変わらぬ忠義を尽くすよう誓詞を差し出させ、義忠には天下の諸侯が帝に尽くすことを武門の棟梁として報告させた。


 まさに足利幕府の隆盛、ここに極まるという出来事であった。


 それから二年ほどは平穏な時代が続いた。義忠も義輝が実権を握り続けるも少しずつ将軍として政務を務め、慣れていった。このまま順調に時が過ぎていくと思われた天正十三年十一月二十九日、世にいう天正大地震が起こるのである。




【続く】

ご無沙汰しております。


長いこと更新ができず申し訳ありません。活動報告にも書かせて頂きましたが、仕事の問題で執筆活動がほぼ出来ず、半年もの停滞を生んでしまいました。少しずつ改善をしており、書き足していっている現在でありますので、話を区切って投稿させて頂きます。


さて今回、史実と違って誠仁親王が即位しております。誠仁親王につきましては歴代の親王の中でも別格扱いされている方であり、事実上の天皇であったという扱いまであります。拙作では史実よりも早い天下一統が成されており、即位に至っています。


そして遂に義輝の隠居と千寿王の即位です。


義忠の名前についてですが、足利一門では義視の子にも義忠という僧籍に入った者もいますが、他にも斯波義忠や今川義忠、畠山義忠などおり、珍しくない名前です。そして私自身が徳川幕府の礎は二代秀忠の功績が高いと考えていることから、忠の字を使わせて頂きました。藤孝の子・忠興にも都合がよかったものもありますが…(なお織田信忠については忠の字を下につけることになるので、拙作では初名の信重のまま通します)


そして最後は不吉な予感で終わっておりますが、史実ではここから大地震のオンパレードが続きます。少しずつ執筆しており、会社の状態も改善しつつあるので、今回のように長くはかからないと思います。


お待たせして申し訳ありませんが、次回もよろしくお願いします。

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[良い点] ようやくひとつの時代が終わりを迎えそうです。辛抱強く待ったかいがありました。 [気になる点] まず忠義を求めるなら、「力」より「人格」を重視すべきだと思いました。正史で義輝が殺された(…
[気になる点] 久々の更新お待ちしておりました。 大地震は久秀の置き土産ですかねぇ?笑 ところで義忠公大丈夫?忠の偏諱第一号の忠興さん、家臣ぶった斬りまくって愛刀に歌仙兼定とか名付けるサイコパスです…
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