第十一章 天下布武の遺産 ー織田家、緩やかに解体すー
天正十年(一五八二)六月。
山城国・伏見城
征夷大将軍・足利義輝の幕府再興を支えた両雄の一人である上杉謙信が亡くなってから四年の月日が経った。幕府再興の立役者として義輝を支えた謙信の存在は、その死に義輝が立ち会って采配を執ったとはいえ、上杉家は確実にその影響力を落とした。
謙信の跡目は存命中に養子の景勝が継いでおり、御家騒動が起こるようなことはなく、義輝も帰京次第に謙信が就いていた官職である左近衛中将へ景勝を推挙、名実ともに後継者としての地位を確立させた。
しかし、評定衆へ任じられていた謙信の後継に景勝は選ばれなかった。これは在京を常とする評定衆へ景勝を任じた場合、国元で異変が起こった際に対処を誤る懸念を考慮してのことである。代替わりは穏便に済んだとはいえ、暫くは国元で足固めをすべきと判断したのだ。
謙信は任期こそ短いが、義輝の信任第一と目されるほどの人物だった。その経歴から評定衆筆頭の土岐光秀すら格別の配慮を余儀なくされる相手であり、幕府内に多大な影響力を及ぼしていた。中には光秀と謙信の二人を指して“幕府の両頭”と称す者もいたくらいだ。当然、上杉家としては謙信を通じることで中央へ大きな繋がりを有することになり、東国に於ける存在感は関東管領の時分より根ざしていたこともあり、圧倒的だった。
それが謙信の死によって失われ、上杉家は東国の大大名の一人という地位に落ちた。
「御先代様と変わらぬ忠節を尽くす。これが上杉の流儀である」
とはいえ景勝も信奉する義父に倣って幕府への忠誠を誓い、領国を治めていった。一時、元関東管領の上杉憲政が実子を上野守護に任じてもらうべく幕府に掛け合ったことがあったが、上杉の混乱を懸念した光秀は、これを一蹴し、義輝も取り合わなかった。
「守護職は幕府が大名を任じるもの。ましてや上杉家を二つに割るようなことは混乱の元である」
と光秀は断じ、憲政の訴えを包み隠さず景勝に伝えた。
「大殿が亡くなられた途端にこれか。断じて許せぬ」
景勝は憲政の動きを重大事として捉え、その実子を林泉寺で出家させて三宝院と名乗らせ、今後は家督に関わらせることを禁じた。ここに来て憲政も己の有していた権威がまったく通じない現実を知って失意し、謙信の後を追うようにして天正七年(一五七九)十月に世を去った。
逆に関東で存在感を発揮し始めたのは、江戸を治める徳川家康である。
当初の家康は、北条氏が四公六民という低い税制を敷いていた事から統治に苦労すると思われた。年貢こそ北条の治世をそのままという訳にはいかなかったが、本拠とした江戸の拡張を大々的に行うことで人員を集めて商業を活性化し、税を還元することで領民の支持を得た。家康は用意周到に疑念を抱かれぬよう城の拡張は最小限に留めるという徹底振りで、神田山を削り、日比谷入江を埋め立て、城下を広げていった。もはや江戸は東国でも指折りの町であり、その賑わい振りが続くのなら、将来は東の都を名乗っても不思議ではないくらいだ。それくらい家康の手腕はずば抜けていた。
それに負けないのが、やはり京の都だろう。天下泰平が実現し、幕府が新たな政庁となった伏見城に移ると都は南側へ自然と拡張していき、人口も増え続けていった。地方も決して問題が起きていないわけではないが、代替わりが進み時代は乱世から泰平に落ち着きつつある。このまま義輝が家督を子に譲る頃には幕府は盤石となるだろう。義輝は先月に催した父・義晴の三十三回忌に於いて、足利の天下再興を改めて御霊に報告したところだ。
ところが、その安寧を打ち壊す、天下を震撼させる報告は急に齎された。
「申し上げます。織田前右府様が身罷ったとの由にございます」
唐突な報せは謙信に並ぶもう片方の英傑・織田信長の死を告げるものであった。
「……何があった」
予想だにもしない報知に義輝は耳を疑った。
確かに信長は在京することは殆どなく、九州平定で与えた肥前に赴いていることが多かった。毎年の正月ですら上洛せず、代わりに織田家を継いでいる織田信重が年賀の挨拶に出向いて謝罪をしているくらいだ。義輝も信長が既に当主の座にないこと、その性格をよく知る者として残念に思いながらも笑って許していた。
「前右府の様子はどうか?あやつめ、余に報せすらたまにしか寄越さぬ」
「息災ではあるようです。某へも父から報せが届くことは殆どなく、家臣たちから様子を伺うことばかりですが……」
と今年の正月も父・信長の自由奔放ぶりに呆れ顔を浮かべた信重の顔を義輝はよく覚えている。
「そういえば、南蛮船を模した船がようやく完成するとのことです。今度、そちらで琉球へ渡るとか申しておりました」
「うむ。南蛮船が事は、前右府が建造を奏上してきたのを余が認め、命じたことである。完成したなら一度、大坂まで見せに来る手筈のはずだ」
肥前国・長崎で南蛮人と交流を深めた信長は、日ノ本初となる南蛮船の建造に着手していた。
そのことは義輝にも知らせてあり、許可も得ていた。そこから完成に至るまで二年弱かかり、お披露目の予定が来月のはずだった。それなのに信長が死ぬとは何か重大な事故が起こったというのか。
「前右府の死因は何だ?」
「病との話です。前右府様は南蛮船で琉球へ赴かれて暫く逗留しておりましたが、俄かに病に犯されて亡くなった由にございます」
「……琉球で亡くなったのか」
「はい、どうやらそのようでございます」
途端に不穏な空気が流れた。
信長は東国平定に際しても自ら蝦夷地へ乗り込んだことがある。南蛮船の建造に対しても陣頭指揮を執っており、それに乗り込もうとする姿は想像に難くない。家臣へ任せず自身が琉球へ渡ろうとするのも、信長ならやりかねんと思う。
だが義輝の知っている信長は至って健勝であり、病になったという話すら今まで聞いたことがない。確かに年齢こそ若くないが、信長は謙信と違って酒も大して飲まず、勤勉な性格でどちらかといえば健康体だ。そんなに人がすぐ死に至るような病に陥るだろうか。当然ながら義輝は琉球の策謀を疑った。
「琉球からは何か言ってきていないのか」
義輝は琉球から正式な国書は届いていないかどうかを問い質した。
信長は幕府の中枢にいないとはいえ、前右大臣である。将軍家を除けば日ノ本一の国力を持つ大大名の当主だった男であり、官職も現在は散位であれど義輝に次ぐ位階を持つ。その信長が琉球へ赴いたのは、非公式とはいえ幕府と琉球の交流を考えてのことである。
琉球とは当初、大内が明との貿易を琉球を介して行ってきたが、大内が滅ぶと島津が台頭してくる。島津は琉球と交易を続けていたが、義輝の天下一統により状況は一変、信長が肥前を賜ったことで、南蛮船が出入りしていた長崎を貿易の拠点とし、琉球との交易を幕府が直接に行い始める。島津は幕府と友好関係を築けていた事から九州遠征では、念願の薩摩・大隅・日向の三州統一こそ果たせなかったが、半ばしか実効支配できていなかった大隅を得ている。これに琉球との交易も独占させたなら、島津の力が強く成り過ぎてしまう。故に義輝は長崎で九州の貿易を統括する方針を示した。
今は朱印状を発行して、各大名や商人たちにも貿易の一部の担わせることで島津以外の者たちから支持を集めており、島津も本音では不満に思っても、表向きでは口を出し難くなっている。
その矢先に信長が死んだ。それも琉球という異国の地でだ。これを訝しく思わないのは無理な話だった。
「すぐに前右府の動向を調査させよ。肥前に赴いた家臣の中で、最後まで右府と共にあった者を上洛させよ。余が直に話を聞く。あと琉球からの使者が来ても、余は暫く会わぬ。余は怒っていることにしておけ」
と義輝は指示を出し、真相を調べさせた。
信長の死が自然なものであれば仕方がないが、そうでないのなら重大事だ。最悪、琉球への派兵が有り得る。琉球は独立した国であるが、明に従属している朝貢国家だ。明との関係を考慮すれば簡単に攻め入る訳にもいかないが、放置も出来ない難しい問題だった。下手に謁見を許し、言質を与えてはならない。どのような手段にも出られるようにしておく必要があった。
同時に義輝は織田家に対して詳細を尋ね、信長に近しい者へ上洛するように命じる。それから一月近く経つと信長の死について報告するために羽柴秀吉が上洛してきた。
羽柴という名に、義輝は懐かしさを覚えた。
「羽柴、久しいな。こうして会うのは信玄を討ち果たした余呉合戦以来か」
「はっ!上様も御健勝で何よりでございます」
猿顔は相変わらずであり、少し日に焼けて色黒になったように思える。
秀吉とは一度しか会ったことはない。十年以上も前の話になるが、秀吉とは余呉合戦で顔を合わせており、義輝を前にしても物怖じしない態度は良く覚えている。特に光秀が合戦序盤の報告をするに当って秀吉に対し、散々に愚痴をこぼしていたのは面白おかしく聞いたものだ。単純にそりが合わないのだろう。
「それにしても羽柴といえば織田の重臣にて北近江を治め、将軍家とも所領を接しておるが、この十年、よく会わなかったものだ」
と再会に心が弾んだのか、義輝は莞爾に笑い、秀吉も釣られて笑みを零す。もっぱら秀吉は元の身分が低い所為か、織田と将軍家との取次は別の者が務めていたので、義輝が秀吉と会うのは二度目であるも、戦場を共にした間柄な所為か、雰囲気は明るい。
「某、琉球にて我が主・前右府様と共にございました」
「うむ。して、前右府の死は琉球による謀ではあるまいな」
「……正直に申し上げて、その線は我らも疑っております。事実、琉球に辿り着いた頃は病の様子などまったく見られず、急に高い熱を出したと思えば、そのまま苦しみだしてすぐ身罷ってございます」
「急に熱を出したとなれば、瘧の類か」
瘧とは高熱が原因で死に至る病で、平清盛の死因としても有名である。日ノ本でも古くからある病で、頻繁にかかるものではないが、死因としては珍しくはない。
「瘧は琉球でもあるようで、特に南蛮人がやってきてからは数が増えたと申しておりました」
「琉球に南蛮人は多いのか?」
「かなりの数の南蛮船が寄港し、人も多うございます。前右府様も南蛮人から交趾や呂宋、暹羅などの品を検分されておりました」
話を聞く義輝も、琉球の地理上で要衝に位置し、南蛮人が多い理由には頷けるものがある。更に南の国々と交わり、交易を盛んにすることは信長のみならず、義輝も望むこと。恐らく信長も足掛かりを掴む為に南蛮人から話を伺っていたのだろう。
だが義輝には南蛮人が増えたからと言って瘧が多くなる理由は判らなかった。逆に琉球が責任を南蛮人へ押し付けていると捉えたのだ。
「それだけの国から品が集まるのだ。これを機に琉球は余に従って貰おう」
と義輝は信長の死をきっかけに琉球の支配を目論むようになった。信長が琉球で死んだ以上、真実はどうであれ、難癖を付けようと思えばどうにでもなる。
信長の死は謙信と違って最近は顔を合わせる機会がめっきり減っていた為に、余り実感はない。国内の統治に信長は大して関りを持っておらず、もっぱら信重が幕命には従っていたので、特に困るようなこともなかった。どちらかといえば、信長は国内の統治に専念せざるを得ない義輝の手が届かない範囲で力を振るっており、そういう面で助かっていたところはある。倭寇の討伐、南方諸国との航路の開拓、貿易制度の確立など成果は多い。その信長を、もはや頼れない。
そして同じ時代を生きた者として、寂しさはある。
(おぬしは最後まで余の掌に収まりきらぬ男であったわ。そなたは天下布武を志したというが。それが何であったのか未だに判らぬ。されど余と同じく天下泰平の世を強く望んでいた事だけは知っておる)
信長の判物には“天下布武”とある。かつて土岐光秀は天下布武について春秋左氏伝からの引用として、暴を禁じ、戦をやめ、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにする。この七徳の武を布くことだと本人の前で説いたと聞いたことがある。信長は“面白い”と称したのみで、南蛮人には気を許すなとだけ伝えたという。果たして信長は、何を求めて戦国乱世を戦っていたのであろうか。
信長という存在がいなくなって、義輝は強く興味を抱いた。
(信長が民草に重きを置いていたのは間違いない。余は北条の治世を真似たが、あやつは元から年貢を軽くしておった。幼き頃より民と交わることも多かったと聞く。国の根幹が民草であると知っていたからであろう)
元々農民たちから搾取する側の存在である武士の階級にいて、民草の存在を軽く考えている者は多い。かつて八代・足利義政は困窮に喘ぐ民を余所目に東山殿の造営に勤しんだ挙句に“日本国は悉く以て以て御下知に応ぜざるなり”と称されるほど将軍権力の低下を招いた。
その点、信長は民を栄えさせ、国を栄えさせた。そのやり方が諸大名と大きく異なるを物語るのが、信長の肥前拝領である。
信長の肥前下向は九州に大きな影響を及ぼした。
乱世が終わったとはいえ、戦国の気風が未だに色濃く残る九州では、新地を賜った大名たちが相次いで入封する。肥前の信長を始め、豊後の今川氏真や日向には長宗我部元親の弟・吉良親貞、肥後は池田勝正などがそれに当たる。
ここで問題となったのは、諸大名の年貢である。
乱世では、多くの大名が二公一民や六公四民など生産量の半分以上を領主に納めるのが常であった。関東を支配した北条家は四公六民と年貢を低くして民の支持を集めていたのは良く知られた話で、義輝も北条流に幕政を改めた後に税率はこれに近い五公五民としている。諸大名と違って幕府内で一揆が起こらなかったのは、幕府の財政基盤が土地からの租税が少なかったからの他ならない。
旧態の幕府は直轄領が少なく、その大半も諸大名に横領されて細々と生きてきた。税収の多くは京都周辺の関所からの関銭に加えて勘合貿易などで商人に課せられた抽分銭、土倉や酒屋など高利貸しに課税していた。ただ京で将軍家の力が弱まれば関銭は少なくなり、明応の政変以後は貿易を諸大名が主導するようになって抽分銭も見込めなくなった。高利貸しに苦しめられた領民が一揆を起こし、止む無く幕府が徳政令を出した例は一度や二度ではない。この徳政を乱用して収入を得ていた幕府は次第に支持を失っていくが、財政基盤が崩れた幕府が北条流に税制を改めた結果、安定して年貢が入って来るようになったのだ。高い税を下げて収入が減る大名たちと違い、幕府は収入が殆どない中で安定財源を手に入れる側であった為に混乱することなく、今に至っている。
これにより政は徐々に安定し、かつては国一揆などに悩まされていた幕府も民の支持を得ることが出来ている。とはいえ多くの諸大名は旧態依然のままが存在しており、年貢は重い。
今回、信長は肥前に入るに当たって検地を試みたが、同時に年貢を軽くした。濃尾などの織田領で行ってきた街道の整備や関所の廃止なども肥前で同じように進め、寺社仏閣の荘園領も武力を背景に取り上げた。これにより重税に悩まされていた肥前の民は喝采で信長を迎えたと伝わっている。南蛮貿易で栄えていた長崎や平戸が街道で博多と繋がり、賑わいを見せているらしい。最初は難色を示していた肥前の国衆も信長の治世によって栄え始めると、一転して織田の統治を喜んだ。
また義輝の許で摂津代官として手腕を発揮していた勝正も上方の政に倣って統治を始めたので、年貢は織田領ほどではないにしても従来より軽く、大きく混乱することはなかった。
混乱が見られたのは、長宗我部元親の弟・吉良親貞に与えられた日向である。
そもそも長曾我部は二公一民と課している年貢は大名の中でも重い方である。重いとはいえ戦国大名の税率は何処も似たり寄ったりで、最初は特に気に留めなかった日向の民だったが、織田領の評判は数年もすれば日向にも伝わってきた。こうなってくると年貢を軽くして欲しいと訴えるのが下々にいる者たちである。特に天正四年(一五七六)に親貞が病で死去して子の親実が跡目を継ぐと訴えは頻繁となった。
ここで親実は判断を誤った。税を軽くすることを約束する前に検地を強行したのだ。理由は単純で、どれくらい年貢を軽くすれば自分たちの取り分を守れるかと考えたからだ。その上、悪手が続いた。検地によって隠田が多発、死罪、打ち首に処される者が多く出たのだ。
「隠田の罪は重い。死罪は当然であろう」
親実もその家臣たちも罰則については違和感なく実行している。
そもそも長曾我部の統治は厳罰主義である。重い税を課し、罰則を設け、生きるか死ぬかの瀬戸際で民を戦わせる。そうやって生きる糧を求めて戦う兵は、とことん強い。それが乱世なら通用したし、長曾我部の支配が長く続いている土佐なら領民も受け入れたのかもしれない。事実、貧しかった土佐の兵は強く、そこに一両具足という仕組みが加わって天下に名を轟かせた。
しかし、今は泰平の世になった。貧しいからと言って、税が重いからと言って他国に攻め入って略奪することは出来ない。長曾我部の支配も浅い日向国では、織田領の評判も重なって農民の逃散が相次いだ。しかも結果として天正六年(一五七八)に一揆まで起こった。
「これは堪らぬ。叔父上に援軍を請おう」
自国で解決できないと判断した親実は、実家の長宗我部元親に救援を求めた。すぐさま元親も応じて派兵の支度に入ったが、同じ日向国内に領地を持つ龍造寺隆信が飛び火を恐れて幕府へ先んじて訴えた為、元親の派兵に義輝が待ったをかけた。
「過度な税の取り立てが一揆を招いたのは明白だ。吉良家の日向守護職を解任し、改易に処す」
今川や島津など周辺国の大名へ鎮圧の為の派兵を命じた義輝は、重税を課して失政を招いた責任として吉良親実を改易に処分、その領地を幕府が収公した。その土地の一部は通報した龍造寺の功績として一万石を加増することに決めた。なお親実は元親の懇願により助命を許し、その身は若年を理由に元親へ預けるという寛大さを幕府として示すことで懐柔を図った。
正直、義輝にとって親実の命はどうでも良かった。大事なのは義輝の、将軍の命令一つで諸大名家があっという間に取り潰されることを天下に示すことだ。しかも今回は分家とはいえ、二カ国を持つ長曾我部から一国を返還させ、それを幕府が収公するというやり方を取ったことで、改めて幕府の武威を天下に示した。
これが以前までの幕府であれば、問題のあった国は周囲の守護大名が攻め込んでは切り取り、幕府の命にて新たに与えるという流れが主であり、将軍家の領地が増える事はなかった。それが今回のことで、所領は幕府が与えているものであり、それを取り上げる権限も当たり前のように幕府が有していて、更には抵抗すら無意味だと諸大名が悟っていることが日ノ本の津々浦々まで伝わったことになる。
これはいい。どちらにしろ天下を一統し、何処かの大名は失政を重ねて一揆が起こるだろうとは思っていた。それが長曾我部だっただけの話だ。譜代ではなく外様から出た分、より都合は良い。
これが影響し、諸大名の統治は少しずつ税を軽くするようになっていき、減った収入を増やすために新田開発などに勤しむようになった。ただ重税を課す大名が現れては幕府に処分されるというものは、時折に起こっていくことになる。
そういう意味では、信長の治世は幕府権力の強化に繋がったとも言えた。
「前右府に遺言はなかったのか?」
と義輝が問うと“口伝ではございますが……”と前置きをした後に秀吉は語り始めた。
「上様に織田家は一層の忠節を誓うことを改めて約すると共に庶子らに格別なお引き立てをお願いしたいと仰せでありました」
「庶子?それなら当主である左少将の役目であろう」
義輝の疑問は尤もであった。信長が嫡男で当主である信重を引き立てて欲しいというのは理解できるが、何故に庶子の引き立てを求めるのか、庶子ならば織田家中の話であり、問題が生じない限りは義輝が介入すべき話ではなく、いまいち理解できずにいた。
「畏れながら申し上げます。亡き主は神戸家、遠山家、羽柴家を引き立てて頂きたいとの考えにございます」
秀吉の説明によれば、信長は織田家の強大さを自覚しており、自分の死後は危うさを孕むと考えていたという。実子である信重の代は、まだ良い。信長の考えを踏襲しており、野心を抱いて大乱を起こそうなどと莫迦な考えを起こさないだろうが、その先は分からない。同時に幕府側もかつてのように力が弱まれば、隣国にある織田家の存在は無視できなくなる。一度、足利は弱ったのだ。二度目がないとは言えない。
故に信長は織田家を少しずつ緩やかに解体する必要性を感じていたのだという。その模範となったのが、両川を守護化している毛利家である。つまり三男の三七郎信孝が家督を継いでいる神戸家を伊勢で独立させ、同じく北伊勢で所領を持つ滝川一益を与力としてその範囲に加える。また東濃に影響を持つ遠山家へ入っていた五男・御坊丸は、岩村城陥落の際に武田へ引き渡され、一時的に武田の猶子となっていたことがある。これを信濃へ移して独立させ、信濃に所領を持つ者たちを配下とする。武田の猶子となっていたなら、織田の一族とはいえ武田の影響が強い信濃で上手くやっていけるだろうという狙いだ。同様に北近江は秀吉が継嗣がないのを理由に四男・秀勝を養子に迎えており、秀吉が肥前へ赴いてからは羽柴家の家臣たちが秀勝を盛り立てて統治していた。これも独立させる。
こうすることによって、織田家の所領は尾張と美濃、飛騨の三カ国と南近江となる。飛び地として肥前一国は残るが、間違いなく織田家の力は削ぎ落される。
「この事、そなたの一存ではあるまいな」
義輝は厳しい口調で秀吉を問い質した。
口伝であるというのなら、秀吉の捏造とも捉えられた。何せ羽柴家の独立が含まれているのだ。それを隠すために伊勢や信濃でも信長の庶子を独立させようと考えていたとしても不思議ではない。信長が死んだ今、幕府の命令があれば確かに難色を示しても信重は従うだろう。
「神明に誓って、違います。口伝とは申せ、某の他にも重臣が数名、同じ場所で遺言を聞いております。本来なら書状に認めるところですが、花押が書けず断念した次第でございます」
として秀吉は平伏して己の潔白を誓った。
訝しさはあるも、信長らしい合理的な遺言であるとも言えるのは確かなのだ。当然、織田家の力は大きく幕府が危険視するのは避けては通れない道である。かといって自ら所領を手放すことを織田家中の者が認めるとは思えない。織田の所領は、肥前を除いては織田が独力で切り取ってきた土地であり、幕府から与えられたものではないからだ。いくら信長の遺言とはいえ、死後にまで命令が順守されるか分からない。信長も子孫が野心を抱いた末に織田が滅びる事は望んでいないはずで、だからこその庶子引き立てなのだ。
信長の庶子となれば毛利に吉川、小早川という事例があり、後継者の信重としても波風を立たせることなく、織田家を縮小できる。信重にしても広大な織田領を一手に治めるのは苦慮するだろう。そこを弟たちが担ってくれるのなら有難いと思うはずだ。それに信重の代までは独立したとはいえ血の繋がりは濃く、信重の命令権は働くと考えられるので、事実上は織田家の力は信長時代と大差はない。そして時代と共に血が薄まり、織田は小さくなっていったとしても肥沃な濃尾平野と京までの道を有する南近江、鉱山の豊富な飛騨、貿易の要たる肥前を織田は有しており、天下一の大名から転落することはない。それだけ織田は大きい。
「加えて一昨年に御誕生された輝姫様と左少将様の御嫡男、三法師様を夫婦と出来れば幸いにございます」
「なるほど……、余が織田家を粗略に扱わぬという証が欲しいのだな」
義輝はニヤリと笑みを浮かべ、平身低頭する秀吉の姿を信長に重ねた。
一昨年、義輝には輝と名付けた姫が生まれている。永禄の変で子供たちを失った義輝には嫡男の千寿王と藤姫の二人しかいなかった。御台所も子を産める年齢ではなくなり、天下統一後は流石に義輝に側室をという話が出た。義輝も必要性を感じて側室を迎えることになり、その側室に誕生したのが、娘の輝である。
また信重には正室の松姫との間に嫡男が誕生しており、信長の幼名に因んで三法師と名付けられた。二人に年の差は殆どなく、似合いと言えば似合いであり、天下大乱を防ぐには将軍家と織田家の間で縁を結ぶのは悪い話ではない。また庶子を独立させるなら当主である信重の面目も慮ってやる必要はあるだろう。
「よかろう。将軍家と織田家が固い契りで結ばれるなら、泰平の世は長く続くはずだ。ならば左少将の昇進も考えてやらねばならぬな。追って、沙汰を下す」
「はっ!願いを聞き届けて下さり恐悦至極に存じます」
かくして織田家の庶子たちは幕府から守護に任じられて独立、信重は正四位下・参議を経て将来は従三位権大納言まで昇ることになる。これは御一家の播磨公方家と同等の地位であり、右大臣となった信長に及ばないまでも外戚として破格の地位だった。幕府が織田を重視していると、天下の誰もが思っただろう。
「ところで羽柴に一つ訊ねたい」
「はて?何でございましょうか?」
「前右府が目指していた天下布武とはいったい何だ?」
予てよりの疑問。信長が目指していた天下布武、それは信長しか知り得ない。織田の隆盛を共に築き、身近にいた秀吉なら知っているのではないかと思い、義輝は聞いた。
秀吉は少し考える素振りを見せると、徐に口を開いた。
「亡き殿が天下を志したことは、織田家中の者ならば誰でも知っておりまする。されどそれは、上様に取って代わろうという野心からではございませぬ。正直、裏切ろうと思えば裏切れる機会は山ほどありました故に……」
最初の上洛の時、次は義輝が三好を討伐する為に四国へ渡った時、伊丹・大物の合戦や山崎の合戦、余呉合戦、東国遠征と裏切る機会は片手の指では収まらないほどあった。それでも信長は不遜な態度は取りつつも義輝を最後まで裏切らなかった。
「某は難しいことは分かりませぬ。そして亡き殿も小難しいことや回りくどいことは嫌っておりました。天下に武を布く、単純にそういう意味かと存じます」
「ならば武とは、春秋左氏伝にある七徳の武のことか?」
「申し訳ございませぬが、某は春秋左氏伝を読んだことがありませぬので判りかねます。ただ先ほども申し上げた通りに亡き殿は回りくどいことを嫌われますので、某は違うと思います。ただ天下布武を掲げる殿の御姿は眩しかった。この御方ならと思って付き従った。その途方もない御考えは、亡き殿にしか語れませぬ」
それを語る秀吉の視線には、寂寥感が漂っていた。それだけ秀吉にとって信長という主君は大きい存在だったのだろう。それ以上、秀吉が天下布武について語ることはなかった。
帰り際、秀吉がふと足を止めて振り返り、再び平伏した。
「予てより上様には御礼を申し上げたいと思っておりました」
「礼?余が羽柴に何かしたことがあったか?」
急に礼と言われても、正直に義輝には思い当たる節はなかった。羽柴家の独立のことを指すなら、御門違いだ。遺言は口伝の為に意向は理解しても、その確証が得られていない現状では了承はしていない。空手形すら渡していないのだ。
「某の配下に竹中半兵衛と申す者がおりまする。……いえ、正確にはおりました」
そう話す秀吉の視線は、何処か遠くを見つめるようなものだった。先ほど信長の事を語っていた時と同じ瞳だ。つまり竹中という人物は、既に故人なのだろうと義輝は思った。
「名は聞いたことがある。確か斎藤が美濃を治めていた頃、僅かな手勢で稲葉山を乗っ取ったという男の名が、竹中半兵衛ではなかったか」
というのも半兵衛が稲葉山城を乗っ取ったのは永禄七年(一五六四)のことであり、義輝が一族の相次ぐ死去で弱体化していく三好家からの脱却を図っていた時期である。その当時、僅か十七名で堅牢な稲葉山城を陥落させた半兵衛の武略は、幕府内でも大きな話題となった。斎藤の力を頼りとしていた幕府にとって美濃の内乱は必ずしも喜べない出来事だったが、兵の少ない幕府にとって半兵衛のような知恵者は是が非でも幕閣に迎えたい逸材であった故に、義輝も名を覚えている。ただその当時、半兵衛の行いは謀反に該当したので、義輝も表向き認めて使者を遣わすことは出来なかった。
「然様にございます。半兵衛は今より三年前、天正七年に亡くなりました」
「その竹中が如何した」
「今の某があるのは半兵衛の知恵によるところが大きゅうございます。余呉の合戦でも半兵衛がいなければ結果は変わっていたかもしれませぬ」
我武者羅に突き進み、信玄を破った余呉合戦。光秀から仔細を聞いてはいるものの織田方の事情までは義輝も把握していない。あの合戦の当事者であり、最後の最後で信玄の本陣に兵を進めた秀吉の言う事であるから、間違いはないのだろう。
「半兵衛は労咳でございました。軍略を練れば右に出る者はいない半兵衛でございましたが、誰よりも泰平の世を求めていたのは、半兵衛でございました」
振り返れば、余呉で己の立身出世を天秤にかけて勝敗を迷う秀吉に対し、幕府の勝利を見据えて動くことを求めたのは半兵衛だった。その決意に動かされるようにして、秀吉は動いた。
その当時は、その時の決断を是と出来なかった秀吉であるも、半兵衛は義輝の実現した泰平の世を見て世を去った。死の間際に浮かべた最後の笑みは、今でも秀吉の記憶として鮮明に残っている。
「上様、泰平の世はようございますな。某も元は百姓でございました故、戦ばかりの乱世は明日をも知れず、暗い顔ばかりする者をたくさん見て参りました。今は戦がなくなり、皆がそれぞれ明るい表情をしております」
そう言って秀吉も笑った。一国一城の主になりたいと思い馳せ、自分も多くの人を殺してきた。それも百姓として苦しく生きてきた幼少期があったればこそである。
「その半兵衛が上様の築いた泰平の世で、心穏やかに逝けました。もし上様が永禄の変で御倒れになられていたら、乱世はもっと長く続いたでありましょう。半兵衛も泰平の世を知ることなく、逝ったはずです。故に感謝しております」
秀吉の立身出世を陰で支えてきた腹心は、秀吉に似つかぬほど無欲な男であった。その無欲な男が唯一に求めたのが、平和な世の中であった。秀吉は信長に仕えて義輝の泰平の世の実現を支えることで、半兵衛に報いたのだ。
「もし余が倒れておれば、足利の世は潰えたかもしれぬ。その時、天下を一統していたのは前右府かもしれぬな」
と義輝は冗談で口にするも、実際に永禄の変で自分が死んでいれば、足利の世は終わったと思う。一応は義栄や義昭が将軍職に就くかもしれないが、自分のように将軍新政は不可能だろう。現に義昭は誤った。そして足利の権威は回復できない程にまで失墜する。その時、天下を一統するだけの志を有しているのは織田信長だけのはずだ。その信長のは徳川家康や浅井長政が付いていた。信玄を打ち破って京を支配、恐らく元就を欠いた毛利は信長に敵わなかっただろう。唯一、謙信だけは織田と五分に戦えたかもしれないが、勝敗はどうなっていたか分からない。謙信の寿命まで信長が粘れば、織田の勝ちだ。
「ははは、もしかすると某かもしれませぬぞ?」
「ほう!その方が天下人か!面白いのう!」
義輝が冗談を口にしたのを見て、秀吉も戯れを言ってお道化て見せた。天性の人たらしと言うのか、他人ならば無礼に思えてしまうものも秀吉が言うと怒れない。笑って許してしまう人懐っこさがあった。
秀吉はその後、肥前にて織田家に仕え続け、琉球や朝鮮などの交易で大きな功績を遺すことになる。羽柴家は四年後に秀勝が死去、代わりに信長の八男・信吉を迎えて後継とした。その後も北近江の守護家として長く繁栄したと伝わる。
織田信長の天下布武の志が何であったかは最期まで明らかにならなかったが、信長が築いた遺産は脈々と後継者たちに受け継がれていったのである。
【続く】
さていきなりの信長退場です。しかも信長の出演なし!
史実の信長は病死ではありませんので、史実以上に長生きしてもシナリオ上は問題ありませんでしたが、次回作以降の構想から、史実と同じタイミングでの死去としました。拙作では意図的に信長の考えを隠す、描かずにいることが多く、ようやく一端を描いたのは小田原攻めの頃です。しかし、完全に描くことは避け、拙作でも天下布武について周囲の人間が考えることはあっても、信長自身がそれを語る描写はありません。それだけに信長の考えは異質で、だからこそ天下平定の礎を作ることが出来たのだと筆者は考えています。いろいろとご意見はあるかと存じますが、拙作での信長はこういう形で生涯を終えさせて頂きます。
琉球がどうなのるのかなどは、また先で描きます。次はいよいよ主人公です。ただ主人公の最期は一話で描けませんので、二話か三話に分割すると思います。一通り描けたらなるべく連続して投稿できるようにしますが、年末年始は殆ど休みがないので、もう暫くお時間を頂戴します。なお主人公の最期を描くにあたって、ようやく義輝にとって不可欠となる本作に名前だけで未登場の人物も描きます。
それでは皆様よいお年を!