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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
最終章 ~天下泰平~
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第十章 軍神の乱世 ー一睡夢、一期栄華、一盃酒ー

天文七年(一五四八)十二月。

越後国・栃尾城


 雪国である越後に於いても寒さの厳しい季節、豪雪が降り注ぎ、辺り一面が白一色に染め上げられた日のことである。この日は特に天候が悪く、かなり冷え込んだ一日になったにも関わらず、胸を内を熱く焦がさんが如き決意で重臣たちの説得を跳ね除けている男がいた。


 後に軍神と呼ばれる上杉謙信こと、若き日の越後守護代・長尾左衛門尉晴景が実弟・長尾平三景虎である。


「平三様!どうにか我々の決意を分かって頂きたい!越後の将来の為でござる!」


 景虎と面を向かい合い、必死の形相で決断を迫っているのは、軍学の師でもあり、側近として景虎の素質を見抜いた本庄実乃である。


 両の手でグッと固く握りられた拳は力強く、床板にめり込むかのようで、その決意の強さが窺い知れる。


 他にもこの場には揚北衆の一人で鳥坂城主の中条藤資、景虎の叔父である中野城主・高梨政頼、母・虎御前の実家である栖吉城主・長尾景信、与板城主・直江実綱、三条城主・山吉行盛らが景虎の説得に参じていた。しかもその者たちですら、かなりの支持者を得てこの場に参集しており、既に越後では景虎派と呼ばれ、本人の意思とは裏腹に一大勢力を成していたのである。


「何度も申したはずだ!兄から家督を奪うなど筋道に外れておる!」

「この儀は守護様の御意向でもございます!」

「ならば儂のところに来るのではなく、守護様を説得せい!主君が道を誤りそうなら、それを正すのが家来の役目であろう」

「道を誤っているとは思いませぬ!このままでは越後は割れますぞ!」

「儂が今まで通りに兄上へ尽くせば割れぬ!それが何故に理解できぬ!!」


 重臣たちは凄んでみせるも景虎は動じず、真っ向から反発して見せた。この時で御年十九、その姿に若年の様子は既になく、もはや歴戦の将たる貫録を感じさせるものだった。


(何と御立派な姿か。やはり越後を率いて行くのは平三様しかおられぬ)


 と、この場にいる誰もが感じた事だろう。兄・晴景とは二十歳以上も年齢が離れていることもあって、それが余計に顕著に映った。景虎の心中に反して、その気概ある態度が増々と景虎擁立へ動いていくとは皮肉なものである。


 古来、越後は争いの多い土地である。越後は長く関東管領・上杉家の一族が守護を務めてきた土地で、越後上杉家六代・房定の時代に全盛期を迎えた。


 房定は当時の鎌倉公方・足利成氏が関東管領を討ち滅ぼしたのをきかっけに享徳の乱が勃発すると、幕命に従って関東へ攻め入り、実子を管領職に就けると上杉氏の惣領となり、その絶大な影響力で乱を戦い抜き、見事に終結させた。しかし、その後に今度は山内・扇谷の両上杉家の内乱が起こり、これにも介入したことで房定は長きに亘って国外を奔走することになる。この為、国内の統治が揺らいでおり、後継者の房能は景虎の祖父・能景と対立、その後に父・為景によって越後を追われ、最後には自刃して果てた。


 その為景も国内外の争乱に明け暮れていたことからも、越後国内は常に強者を求めていた。ただ景虎の兄・晴景は父祖とは違う融和政策を進めており、強者とは程遠かった。


「今、越後を保てているのは平三様の武でござる。今はそれでも宜しかろう。されど守護様の病もござる」

「……病は、それほど篤いのか?」

「すぐに命に関わることはなさそうですが、医師の見立てでは快癒は難しいとのこと」


 病の話となり、途端に場は一転して静かになった。


 確かに越後は争乱の絶えない国だ。為景のように武に優れた人物が国を治めるのが適しているように思えるが、ここ数年は上手くいっていたのだ。だからこそ景虎は歯痒く思う。


 そもそもここ暫くの越後は守護と守護代の内部争いが激しく、主導権の握り合いが続いていた。それが長尾の家督を晴景が継ぐと融和へ政策を転換した為に大きく変化が生じた。越後守護・上杉定実の猶子となって絆を深め、その娘を正室として迎えて猿千代なる男子にも恵まれた。この猿千代が元服して家督を継いだなら越後は守護と守護代の合一が成り、平和的に纏まったことだろう。


 しかし、猿千代は早世した。


 現在、守護の定実にも守護代の晴景にも後継者がいない状態であった。定実は縁戚関係のある伊達家から養子を迎えようとしていたが、伊達が野心を抱いて越後の掌握を謀った為に国人たちの反発は強くなり、晴景も越後を守るために反対派へ転じる事となった。


 この思わぬ外敵の出現に越後国内は晴景派が優勢となり、安定化しつつあった。この時、晴景の矛となって国内の敵を討ち平らげたのが景虎である。


 それも束の間、今度は定実は病を患って日に日に衰えを見せ始めた。本人からも政治的な野心が失われつつあり、後継ぎが不在、越後上杉家は諸家も多かったが、何れも没落しているか断絶しており、生き残っている家も長尾家に従っている側だった。


 そして外敵として存在した伊達家は天文の乱によって二つに割れ、今年になって将軍・足利義藤の仲介によって治まったものの奥羽に於ける伊達家の支配は崩れ、とても越後に干渉できる状態ではなくなった。


 そのような事情から定実が生きている内は守護の下で晴景と景虎は生きていられるが、その死を契機にどちらが越後を率いるかで揉めるのは明白、そうなれば越後は二分する。故に景虎は自身が兄に従うことで権力を一本化する道を当たり前のように望んだ。弟が兄に従い、越後を経営していく。それの何がいけないのか理解できなかった。


「加えて殿には後継ぎがおられませぬ」


 だが重臣たちは既に晴景の死後にも視野を向けている。守護家断絶の後に守護代の家督が宙に浮けば、長尾家内部でも争いが起きる。景虎自身が家督に執着していないのなら、猶更である。越後が荒れれば、また外敵にも狙われるかもしれない。


 故に重臣たちは晴景が健在な内に長尾の家督を景虎に引き継がせたいと考えていた。


「儂にも子はおらぬ」

「殿と違って平三様は、まだ若うござる」

「嫁すらおらぬ男だぞ」

「これから迎えれば宜しかろう。良き縁を御用意いたします」

「無用だ。そんな暇はない。何度も言うようだが、儂は筋道を違えるようなことはせぬ。そのような事が当たり前のように罷り通るからこそ、乱世が終わらぬのだ」


 と言って景虎はその場を去った。これ以上、聞く耳を持たぬと告げたつもりだったのだ。まだ若い景虎は、自分にその気がなければ事態は変わらないと本気で思っていた。


 しかし、その甘い考えを戦国乱世は許さない。変化はその数日後に起こった。


「何ということをしてくれたのだ!」


 届いた報せに景虎は大いに頭を悩ませた。


 実乃ら重臣たちは景虎を説得できないと判断すると、晴景のところへ赴いて説得したのである。最初こそ抵抗を示した晴景であるも、景虎のように気概を持って撥ね退けることは出来ず、遂には重臣たちの言葉に屈してしまう。これにより主君である兄と守護の意向が同じとなり、景虎は後に引けなくなってしまったのだ。


「平三様、守護様の御意向によって殿は家督を譲られる御決断を為されました。表向きは殿が平三様を養子に迎える形を取ることになりますので、父が子に家督を譲ることになります。これで筋道を違える心配はなくなりました」

「詭弁を申すな!儂が家督を奪ったことに変わりはない」


 斯くして長尾家の家督を継いだ景虎が、乱世に立ち向かい軍神と呼ばれるようになっていくのである。


 景虎にとって幸いだったのが、家督を譲ることになった晴景は弟への情が無くなった訳ではなかった事だ。景虎が家督を望んでいないことは理解しており、望まぬ家督を譲らなければならない現状も理解していた。晴景は自ら幕引きをすることで一切に政務からは遠ざかり、越後を二分するのを防いだ。しかも景虎の求心力を高めるために定実の死去に乗じて幕府へ取り次ぎ、最後の仕事として長尾による越後守護代行を勝ち取ったのである。


「不義を成した償いはせねばならぬ」


 結果的に兄から家督を奪うことになった景虎は、自責の念に駆られて自らに一つの枷を嵌めた。それは自身の子に家督を継がせぬことだった。しかも万が一に子が出来てしまった場合、今回のように重臣たちの勝手で担ぎ出されることも有り得た為、景虎は正室すら迎えようとせずに生涯で不犯を貫くことになる。


 晴景の尽力によって景虎は守護代の地位から守護同格になったことにより、大きく天下に羽ばたいていったのである。


 そして景虎の活躍もあり、天下は泰平の世を迎えたのである。


=====================================


天正五年(一五七七)三月。

越後国・春日山城


 この日、坂東巡遊から会津黒川を経て、越後に入った将軍・足利義輝ら一行は、長きに亘って謙信が本拠としていた春日山城に入った。ここに至るまで景虎は自身が手を焼き、闘い抜いてきた坂東武者たちが揃って義輝へ頭を垂れる姿を見て、心より安堵した。


(ようやく乱れ切った秩序が定まった事を思い知らされる。無論、心服には至るまいが、諸大名の牙は折れた。このまま上様の世が続けば、次第に心から従うことになるであろう)


 そう思うのも、坂東で勇名を馳せて来た武田や佐竹、蘆名に伊達、南部などの者たちに加え、徳川などの新参組が揃って義輝の前に膝を屈した姿を見たからだ。自身が東国平定の際には、少なからず佐竹、蘆名、伊達、南部などには幕府の軍勢を利用して自身の領土を少しでも増やそうと裏工作に奔った様子があると軒猿からの報知が上がっている。


 今回、同様に調べさせているが、諸大名にそのような動きはないと各所から報告があった。恐らく幕府へ従順な姿勢を見せる方が良いと判断したのだろうが、乱世では面従腹背は当たり前、表向きそのような態度を見せていても、裏では策謀を張り巡らせるのが常だった。


 それが今回は見受けられない。故に謙信は戦国大名たちの牙は折れたとの結論に至った。


 その上、自身の跡継ぎである景勝を始め、諸大名の中には幕府を重視する跡継ぎが多いと聞いている。特に謙信がその立場を保全した石川信直は声高に幕府への忠誠を誓っており、率先して幕府に従う姿勢を奥羽の北端で見せている。その忠義に義輝も父・高信の名乗りでもあった従六位下・左衛門尉へ正式に任官して報いていることから、信直は義輝へ対する恩義を増々感じているようだった。


「上様の覇気が溢れる御様子に、奥羽の諸大名も平伏しておりました。流石は上様にございます。上杉様が御信望なされるのも頷けるというもの」

「上様は天下に唯一無二の存在だ。その上様への忠義、決して違えるでないぞ」

「無論、奥羽にも上杉様に劣らぬ忠義者がいると上様に知って頂けるよう努めまする」


 と信直は謙信を真似て忠誠心を見せていた事からも窺い知れた。


 他にも蘆名を継いだ針生盛信が偏諱を願い出て許され、蘆名輝盛へ改名、己の思惑を捻じ曲げられて潜在的に幕府を嫌悪している止々斎と逆に追従姿勢を見せ、これに続く家も少なくはなかった。


「良い傾向だが、もう一押しといったところだな」


 これらの時勢に拍車をかけんと、謙信は自ら模範となるべきと考えた。忠義を示すとはどういうことか、上杉たる自分が天下に見せなければならない。


「これから帰洛する途上で上様が我が領国を訪れる事になるが、粗相があってはならぬ。天下に範を示すような持て成しをしたいが、御両人はどうすれば良いと思われるか」


 そこで謙信は義輝の歓待に関して、事前に関東にいる際に土岐参議光秀と徳川権右近衛少将家康の二人に相談していた。光秀には義輝に近く好みに精通しており、家康は江戸の仕置きが関東の諸大名と比べて一段と優れていたというのが人選の理由である。


「上様に御成り頂くに当たっての作法として、まずは行軍を円滑に進める事が肝要かと存じます」


 謙信の問いに対し、まず家康が答えた。


「早急に川へ新しい橋を架けさせ、街道を広げては如何でしょう。邪魔な石や岩を取り除いた後に掃き清め、警護の兵を随所に配置し、途上に厩や陣屋を設けて兵糧を蓄える事が肝要にござる」

「なるほど……、されど急な普請に民草は困らぬであろうか」

「しっかりと給金を弾めば、民は不満を抱きませぬ。越後の冬は厳しいと聞き及びますので、街道の整備は不可欠にございましょう。そこで銭も稼げるともなれば、自然と人夫も集まるものかと存じます」


 と家康は助言、更に橋や道が新しくなるのは民も喜ぶこと、一石二鳥であるとも告げた。


 事実、家康は織田信長を真似て三河岡崎から遠江浜松へ本拠を移した際、その街道を整備した経験がある。未だ三河の掌握も充分でない徳川にとって痛いほど銭はかかったが、街道の整備は物流の流れも増やし、途上で市場も立つ。民草も銭を持てば使うようになり、結果的に年貢も増えた。そして民心は徳川に靡いた。


 この時、家康は改めて信長の恐ろしさを知ったのだ。


 信長は自ら本拠を移すことで、この流れを強制的に作っていた節がある。誰しもが手に入れた銭を失いたくはないし、結果が出ると分かっていても出し渋るものだろう。それを信長は若い時より繰り返し、織田家を大きくしていった。


 そして泰平が訪れれば、最初にその国を大きくしていった者が優位に立つ。信長が本拠を置いた清州や岐阜は有数の城下町であり、人口も多い。近隣の国がそれを真似たところで、既に栄えた城下町がある以上、効果は限定的だろう。謙信が江戸を評価したのは、江戸を関東の中心となるよう家康が銭を集中投資したからである。銭があるところに人が集まり、人が集まるところに銭が生まれる。既に江戸は関東で有数の城下町に変貌しつつある。このままの勢いで栄えれば、上杉を含め佐竹や里見、北条だった伊勢氏など坂東武者は数多くが生き残っているが、保守的な者が多く、徳川が関東の中心に成るだろうと思われた。


「臣下が主君を持て成す訳でございますから、膳なども含めて豪奢なものでなければなりませぬ」


 続いて光秀が謙信を助言する。


「今回は人数も多うございますので、調度品などが間に合わねば近くの寺などから借り受ける手筈を調えるのが宜しかろうと存ずる」


 加えて光秀は義輝の食べ慣れている京料理ではなく、越後の珍味などを用意すべきとも伝え、これらの助言に従って謙信は越後を任せている景勝へ命じて義輝の故国来訪に備えさせた。


 今回の坂東巡遊で義輝の天下一統は、増々に強固なものとなった。特に会津黒川では改めて仕置きが行われ、奥羽諸大名が整理された。手始めに伊達が旧葛西・大崎領へと国替えを命じられている。葛西・大崎の旧領は奥羽平定時に幕府が預かることとなり、両者は蟄居・謹慎していたが、その間に幕府が検地をして石高を調べ上げ、それが一段落した今になって国替えを命じたのである。


 つまり今回の国替えで伊達家の国力が明るみになったことを意味する。石高は約三十万石と奥羽の大名らの中では大身だが、蘆名と比較すれば圧倒的に少なく、屈辱であろう。それに加えて葛西・大崎両氏と伊達は長く争っており、その旧領を治めるのは並大抵のことではない。一波乱あっても不思議ではなく思える。


「伊達は奥羽の旗頭であった。そうしてきたのは御先代様であり、余でもある。故にこそ余が改める。無論、伊達を軽くは扱わぬ。奥州で三十万石ともなれば、余が如何に伊達を重く見ているか誰の目にも明らかとなろう」


 その言葉の通り義輝は伊達輝宗を従四位上へ昇進させ、右近衛権中将へ推認するなど厚遇をし、更に義輝は晴宗から自領として申請の上がっていた黒川、留守、国分なども伊達領として認めてやるという寛大さを見せて自身の言葉の重みを示した。ただ一方で監視も怠らない。長く伊達と相馬の係争地であった伊具郡を葛西、宇多郡を大崎に与えることによって互いの対立を誘発させ、伊達の監視役として配置したのである。


 実際、伊達は隙を見せぬよう領内の撫育に努め、葛西と大崎は隙あらば旧領を取り戻さんと少しでも不手際があれば幕府に報せんと睨みを利かせ続けた。この対立は百年、二百年と続き、無断で越境した民を厳罰に処して幕府に訴え合うという騒動や当主が早死にした際は暗殺説が当たり前のように流れるなど険悪な関係は、この後に武士の世が終わるまで続くことになる。


 また今回の沙汰を蘆名家の本拠で行うことによって、奥羽第一は蘆名だと改めて告げることになったが、蘆名もほくそ笑んでばかりはいられない。かつては血の盟約で奥羽に覇を唱えてきた伊達家が将軍の一存で国替えさせられ事は、当主の家督が上意によって定められた事から蘆名も他人事には思えなかったのだ。いつ将軍より国替えを命じられるか、また命じられれば従う術しか持たないことが判っていた。


「米沢十万石は、奥羽平定の恩賞として上杉に与える」


 しかも伊達領があった場所の一部に上杉家が恩賞として与えられたことにより、奥州から越後、上野と蘆名領は上杉領に囲まれる事になり、一層と監視の目が厳しくなった。これは奥羽で争乱あれば、いつでも上杉家が介入できるという処置であり、蘆名こそ奥羽の総代と目していた止々斎の目論見を破綻させる出来事となった。義輝の信頼は、蘆名ではなく上杉にあると言われたも同然だったのだ。


 後に米沢十万石は、景勝の右腕として手腕を発揮した樋口兼続が街道整備など内政に力を注ぎ、大いに栄えることになる。


 次いで大胆な人事もあった。


 かつて陸奥守護の国府があった桑折西山城を義輝は、朝倉秋景という人物に与えたのだ。この秋景とは義昭の実子・如意丸のことで、朝倉家の家督を継ぐ形で元服させ入府させたのである。ちなみに朝倉本家は謀反に及んだ家であるために、再興されたのは分家で敦賀郡司だった故・朝倉景恒の朝倉家である。


 もちろん秋景は未だ八つと幼く、評定衆からは時期尚早との声もあったが、まとまった領地が手に入る機会を利用して義輝は朝倉家再興へ踏み切った。景恒の旧敦賀衆は揃って敦賀郡から移封となり、その補佐を命じられた。敦賀郡は物流の豊かな土地であり、そこを長く治めてきた敦賀衆の手腕を買ったのだ。謙信を通じて上杉家にも朝倉家を扶けるように伝えたのは、もはや語るまでもないだろう。


 こうして義昭の血筋は桑折西山の地で凡そ二十万石の領主として復活、以前に義輝が義昭へ与えた“秋”の字を受け継ぎ、奥州に長く忠義の家として栄えることになる。この事は遠く隠岐で配流生活を送る義昭の許にも知らされることになった。


「儂は兄上が憎くて謀反を起こした訳ではない。儂と兄上が共に抱いた幕府再興の志は、永久不変のものである。儂の不徳によって足利の名を捨てるに至ったが、足利の血に連なる者として幕府へ忠義を尽くすべし。足利の血族である誇りを忘れてはならぬ。むしろ足利に近い者として将軍家を守護すべしこと。もし将軍家の意に背くようなら我が子孫とは思わず、ただの謀反人である。家臣一同は決して従うべからずのこと、ここに申し付ける」


 後に秋景が十五歳を迎えた年に義昭は自身の想いを書き綴った書状を送り、家訓とさせたと後世へ伝わっている。足利幕府は義昭を死ぬまで謀反人として赦免こそしなかったが、実子に対して書状を出すことを禁止せず、丁重に扱った。これを秋景は父の遺言として受け止め、代々の当主に伝わる家訓とした。


 また欠地となった敦賀郡は幕府直轄領に組み込まれ、隣国・若狭守護の柳沢元政が代官として管理することになった。


 なお奥羽は大身の蘆名を筆頭に、伊達、最上、南部と朝倉家の五つを合わせて奥羽五守護家と呼ばれ、奥羽の秩序を守っていくことになる。


「次はいよいよ春日山だ。楽しみであるな」


 そして義輝は帰路につく。北国街道から春日山城を目指して出立した。


 前回、春日山城を訪れた時には謙信が不在で、また義輝も戦の最中と謙信が若き日を過ごした越後の土地を見回る余裕がなかったので、今回は良い機会として帰路を北国街道としたのだった。謙信にしても故地を義輝が訪れる事は大変に名誉なことであり、その案内役を務められることに無上の喜びを感じていた。


 謙信は、自らが生を受けた春日山へ義輝と共に帰還、城下は未曽有のお祭り騒ぎで、謙信も泰平の祝賀に酒を振舞い、その日は大いに賑わった。宴は三月四日から三日間も続けられ、日夜の祝宴と猿楽が催された。


 その二日目のことである。


「今宵ばかりは余もそなたと酌み交わしたいと思うが、よいか」

「おおっ!無論、御相伴仕ります」


 義輝から禁酒を命じられている謙信であったが、この日ばかりは許しが出て大いに盛り上がりを見せた。上杉家臣らは主に杯を注ごうとやってきては、共に盃を空ける。


「大殿!久方ぶりの酒の味は如何にございますか?」

「旨いッ!これほどに旨い酒は初めてだ!」


 と酒好きの謙信にとって、故国で敬愛する主と苦楽を共にした家臣たちと飲む酒は格別に旨かった。祝宴は続き、何処も彼処も飲めや歌えの大騒ぎとなっていた。


 その様子に義輝も上機嫌であったが、この二人が席を共にすれば、酒の席とは言え時に真面目な話にもなる。


「中納言、先年に幕府として軍役を定め置きはしたが、やはり身を鍛えることこそ肝要、余も新当流や新陰流を学んだが、天下は広い。此度の巡遊で、改めてそれが判った。今でこそ様々な流派が興り、競い合っておるが、泰平が長く続けば剣術がいつ衰退するか判らぬ」

「確かに……上方では茶道が流行つつあり、茶器を法外な値で求める者も少なくないと聞きます」

「それよ。余も芸道の一つとして茶道を嗜みはする。されど公家の中で流行るならまだしも、武家の中で流行るのは感心せぬ」


 と義輝が指摘し、大きく溜息を吐いた。


 謙信も大名であり、最近では京暮らしを送っていることから猿楽の席に呼ばれ、茶道を嗜むこともある。流石に公家の催す連歌会には参加する気になれず、いつも欠席と返事をしているが、天下が一統されて京に滞在する大名らも多くなり、こういった芸道に傾倒する武士が多くなったのは確かである。


 義輝の憂いは、八代・義政が芸道に傾倒して幕府を傾かせた例があるからに他ならない。将軍であれ大名であれ、芸道を嗜むくらいなら構わぬと思っているが、武芸を疎かにしてまでやることとは考えていなかった。


「異論はございませぬ。されば幕府として、名を挙げる機会を与えられては如何でございましょう」

「名を挙げる?……ほう、何やら面白そうじゃな」


 そこで謙信は、一つ提案した。義輝は瞳を輝かせ、興味津々と上体を前に乗り出す。


「御前試合を催すのです。そこで勝った者は天下に名を挙げることも叶い、幕府としても腕の立つ者を召し抱えられる機会となりましょう」

「面白い!良き案じゃ。帰洛したら早速に進めるとしよう」


 謙信の提案に義輝は即断した。


 酒の席の雑談から生み出された御前試合は、この二年後に第一回目が行われることになる。その一回目の勝者は戸田一刀斎と名乗る人物で、鐘巻流であった。決勝で激しく争った柳生宗厳との激闘は評判で、多くの人に知られる事となり、武士の時代の終焉まで人々に美談として語り継がれていった。


 その後、御前試合は将軍の代替わり行事として開催されることとなった。この催しが剣術の隆盛を大きく支えていくことになるが、天正七年(一五七九)の第一回目の開催のみ優勝者と将軍が闘うという異例の試合があったのは、永禄の変事で語られる義輝の腕前を天下に知らしめる機会となった。


「上様、今宵は飲み明かしましょうぞ!」


 謙信は上機嫌に酔い、周りが酔いつぶれて静かになるまで杯を傾け続けた。禁酒をしていたとはいえ無類の酒好き、その強さは圧倒的で、義輝も付き合いきれぬとして先に音を上げた。


「中納言、流石に余も限界じゃ。今宵は許したが、酒は程ほどにせいよ」

「はっ、有難う存じます」


 として義輝も遂に席を立った。その足取りは重く、小姓に肩を担がれるほど酔いが回っていた。


 義輝が去った後も謙信は飲み続けたが、一人また一人と潰れていき、謙信に付いて来られる者は一人もいなかった。


「たまには一人で飲む酒も良いものだ」


 静かになった広間で、笑みを浮かべながら独り言を呟いた。


 このまま主に倣って謙信も就寝しようかとも考えたが、明日から飲めなくなると思うともう少しだけ飲みたい気持ちになった。


 月は明るく輝き、辺りは静かで、虫の音すらない。まさに静寂そのもの、謙信の心も乱世から解き放たれ、穏やかだった。


「……なんだか兄上に会いたくなったな」


 寂寥感から急に肉親に会いたくなった謙信は、長尾の菩提寺である林泉寺へ向かった。


 今宵は無礼講で城兵にも酒を振舞っており、起きている者は少なかった。もちろん警護の兵は置いていたが、謙信に物を申せる者はおらず、林泉寺は春日山城に隣接していることから城内と言っても過言ではなく、宴の会場となった三ノ丸から城内を下って春日山神社を抜け、林泉寺へ歩く。


「流石に酔っての夜道はキツイな」


 夜更けであったが移動はほぼ城内である。下り道に謙信も己の年齢を感じたが、懐かしき城内を眺めながらゆっくり歩くと、いつのまにか林泉寺に到着しており、この頃にはだいぶ酔いも醒めていた。


 林泉寺は謙信が幼き頃に入り、生涯の師とも云える天室光育から学んだ寺でもあり、ここはに兄・晴景の御霊も眠っている。また剃髪した際に諱を頂いた師・益翁宗謙も既に世を去っており、往時を知る者は少ない。


「ここも静かなものだ」


 謙信は兄の墓の前に鎮座し、杯を一つ置いて酒を注いだ。


「兄上、御報告が遅れて申し訳ございません。遂に天下が一統され、乱れた秩序を回復する事が能いました。これも兄上が国内の争乱を鎮めてくれた御蔭にございます」


 謙信は墓を前に、語りかけた。


 林泉寺を訪れた目的は、そこに眠る兄・晴景に天下一統を報せることだった。春日山への帰還後、義輝の饗応もあって立ち寄れずにいたのだ。


「兄上が亡くなってからというもの、小笠原に続いて村上が国を武田に追われ、これを支援、上洛。関東越山からの関東管領への就任、再びの上洛とあれから様々なことがございました……」


 謙信の一生を振り返れば、苦難の連続であった。兄に仕え、その兄の力となって世の為に働くのが謙信が幼き頃に思い描いていた姿である。しかし、それを乱世は許さなかった。


 守護は力を落とし、無理やりに家督を継ぐ形となった景虎は、乱世に敗れた大名たちや関東管領を庇護し、秩序の回復を目指して戦った。しかし、その庇護した者たちや家臣たちは景虎の力を背景に好き勝手に動き、己が主張を曲げようとしない。乱れた秩序を取り戻しても、また足元で秩序が乱れていく。


「そのように勝手を申すなら、儂も勝手にする、そう言って春日山を飛び出しました」


 だからこそ一時は全てを捨てて、高野山で出家しようとした。この時は謙信の力なしにやっていけないことを悟った家臣たち総出で説得され、一同は心から臣従することになった。


「儂を追いかけてきた家臣どもの顔を兄上にも見せたかったですぞ。勝手きままを申す者が多く、兄上の苦労がどれ程ものであったか、身に沁みてございます」


 それからの謙信は、今度は武田信玄や北条氏康という外敵との長い戦いが続いた。その傍らで上洛、三好の専横に苦しむ主君の姿に心を痛め、何とか力になろうと軍勢を率いて再度の上洛を試みるも、僅か五〇〇〇程度の軍勢では何かを成すというのは不可能だった。


「余は将軍家の力を取り戻し、必ずや天下に泰平を実現させてみせる。越後一国を統べるそなたからすれば、軍勢を持たぬ余など心許なく思うだろうが、共に乱世を鎮める担い手になってはくれまいか」


 そう義輝に声をかけられた時、謙信は生涯の主君を得た気持ちになった。謙信の理想とする秩序を体現しようと想いを同じくする人間に、初めて出会ったのだ。


「上様は儂の思い描いた通りの方でございました。あの時、終わりの見えない乱世に光明が差した気がしたのです」


 そして数年後、義輝が命を落としかけた永禄の変が発生する。


「されど上様は三好に襲われ、命を落としかけました。あれほど自らの無力さを感じた事はありませんでした」


 もし大軍勢を率いて上洛できていれば、と後に織田信長が三万五〇〇〇もの軍勢を率いて上洛してきたことを振り返り、そう強く思った。


「上様を御支えするのが儂ではなかったことは、正直に悔しゅうございました。織田殿を心底、羨ましく思ったものです」


 確かに謙信の上洛を義輝は歓迎してくれた。しかし、信長が大軍を率いて来ると知った時、義輝は謙信よりも信長を頼りにするようになった。それが堪らなく悔しかった。


「仕方ないのは分かっております。織田殿は京に近い美濃、儂は越後と遠かった」


 何故に越後に生まれたのか、そう思わずにはいられなかった。主に己の存在を示さんと躍起になって天下一統に尽力したのは、そうした想いからだった。


 結果的に謙信が担当した東国は信長の遠征が行われるまで平定できなかったが、武田や北条の拡大を押し留めたこと、義輝の窮地に朝倉や一向一揆の力を削いだことは、決して無駄ではなかった。義輝が将軍職に再任された上洛戦も、確かに信長の力は大きかったが、きっかけを作ったのは紛れもない謙信の上洛だ。その義輝も謙信の功績に報いるよう越後、上野と武蔵の一部に米沢十万石を与え、かつ従三位・権中納言へ推認、軍制全般の改革を委ねた。


「この平三が幕府の宿老、中納言ですぞ!立派になったと、ようやったと褒めてくだされ」


 いつしか謙信は、子供のように語りかけていた。幼き日、戦ばかりで会えない父に代わり、兄こそが父親も同然だった。晴景も腕白な景虎を我が子のように慈しんだ。ここ林泉寺で遊んだこともある。その時の情景が、脳裏にはっきりと焼き付いている。


 しかし、ある時から越後の軍神として、毘沙門天の化身として乱世に挑まなくてはならなくなった。そうでなくては、国を保てなかったのだ。こうして一人の人間として語るのは、本当に久しぶりの気がする。


「土産話はここまでにしましょう。また参ります故、その時は平三の話を聞いてくだされ」


 随分と長く話していた気がする。空がほんのりと明るくなっており、日の出を過ぎていた。不思議と疲れもなく、晴れやかだった。


 軍神の心が、初めて乱世を忘れたのだ。


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 三月八日のこと。


 春日山の宴は終わりって丸一日を休息に充てた義輝は、八日の早朝に帰洛の途に就いた。義輝は謙信の饗応に大いに満足し、この事は後に将軍の御成りを受ける際、諸大名の模範ともなった。


「そう急いで戻らぬとも良い。乱世は終わったのだ。暫し故郷を懐かしむがよい」

「有難き仰せなれど、上様の御傍を離れる訳には参りませぬ」

「余は童ではないぞ。三万もの軍勢が共におるのだ。何の不安がある?よいから休め、これは主命ぞ」


 義輝は頑なに同行を求める謙信に暇を与えた。苦労をかけてきた忠臣への褒美のつもりだった。一度は謙信も食い下がるが、義輝は同行を認めず、春日山へ残るよう命令として言い渡した。


(やれやれ、あやつの頑固さは変わらぬな)


 まるで童のように駄々をこねる時がある忠臣を可愛げに思ったものだ。あのような家臣には二度と出会えないだろう。我が子にも謙信のような家臣を持たせなくてはならぬと思い、帰京の途に着いた。


 それから一日が経ち、義輝が春日山から五里ほど進んだところで異変が起こった。


「ご……御注進!御注進ッ!!」


 慌ただしい様子で早馬が近づいてくる。天下が一統されてからというもの、このように忙しく早馬が送られて来ることはなく、周囲も驚いている様子だった。使番は連絡役として残していた幕臣の一人で、必死の形相から良くない報せだということが判る。


「何事だ」


 駕籠から顔を出し、義輝が声を荒げて問い質すと思わぬ回答が飛び込んできた。


「う……上杉、上杉中納言様が御倒れになられました!」


 衝撃の急報に、周囲がざわつき始める。義輝も平静ではいられず、怒声に近い声で問い質す。


「なん……じゃと?いつのことだ!」

「今朝方の事にございます。起きて厠へ向かわれたところ戻って来ない故に心配した小姓が、厠で倒れている上杉様を見つけた次第にて」

「中納言の様子はどうじゃ?まさか死んではおらぬだろうな」

「呼吸はございますが、意識が戻りませぬ。以前に御倒れになった時と似ている……と、上杉の者たちは申しております」

「以前となると、元亀の頃か」

「はい、つまり卒中かと存じます」

「ええい!」


 歯噛みして悔しそうな表情を浮かべる義輝は、蹴破るようにして駕籠を出た。


「退け、馬を貸せ!」


 と傍にいる騎馬武者から馬を強引に奪い取ると、手綱を握って馬首を返すと力強く幕府を蹴り、一目散に春日山へ急いだ。


「上様、御待ちを!……何をしておる!お…追え!上様を一人で行かせてはならぬ!」


 慌てた幕臣たちが、それぞれ義輝の後を次々と追う。義輝が軍列をかき乱して突っ走っている為になかなかに追い付けず、結局はそのまま踏破して春日山城へ戻ることになった。


(死ぬな…、余の許しなく死ぬなど許さぬぞ!!)


 義輝は馬上で必死に忠臣の無事を祈り続けた。このように家臣の無事を祈るのは、鳥取城で土岐光秀が行方不明になった時くらいだろう。付き合いの長さを考えれば、この時の方が強いように思う。


 ようやく義輝が春日山に辿り着いた時は、陽が暮れ始めていた。


「義輝じゃ!中納言の許に案内せい!」

「は……ははッ!!」


 ところどころ泥に塗れ、甲冑も乱れた姿の義輝が現れた事に上杉兵は驚きつつ、その命令に従って奥へと案内される。既に謙信のことが伝わっているのか、城内は先日までと変わって慌ただしい様子だった。


 義輝は寝かされている謙信の許へ辿り着くと、すぐさま駆け寄った。


「中納言!死ぬなッ!死ぬでないぞ!おぬしにはまだ働いて貰わねばならぬのだ!」


 部屋に入ると義輝は謙信の手をグッと掴み、懇願する様子で思いの丈を訴えかけた。その必死の様子は家臣たちの胸を打ち、中には泣き出す者までいた。


「泣くとは何事か!まだ中納言は死んでおらぬ。こやつは軍神ぞ!毘沙門天の化身ぞ!このようなところで死にはせぬ!」


 そう言って周囲を勇気づけるが、万が一はあると脳裏によぎる自分がいるのは確かだ。上杉の当主が亡くなる。天下に名高き謙信の死は、上杉家中だけに影響しない。下手をすれば争乱の火種となる。それを防ぐには、義輝の命令が必要だった。


(家督が事は既に上杉弾正が継いでおる故に騒動は起きまいが、中納言が就いておった左中将に昇進させよう。それで家中は纏まるはずだ)


 上杉家は謙信の隠居に際して、長尾家から養子となった景勝が家督を継いで三年目となる。ようやく家中は景勝に纏まってきたものの、謙信の後ろ盾があった求心力を得られたという背景はある。その後ろ盾がなくなる訳だからこそ、義輝が自ら後ろ盾になることを名乗り出なければならない。それを天下に示すのが、謙信が中納言に就くまでに任じられていた左近衛中将への昇進だろう。これを義輝が推認することで、天下に示す。


(そのまま弾正を評定衆の後任に就けるのは下策だな。評定衆ともなれば、在京する機会も多くなる。いま弾正を領国から引き離すべきではない)


 とすれば後任をどうするかも定めなければならないが、殆どの評定衆は義輝の不在もあって京に残してきているので、この場で即時に判断は出来ない。それをやってしまえば、将軍の独断で政が行えるようになる。義輝は将軍新政こそ求めてきたが、それは独断で政を行うことではない。それが可能となれば、かつての義教のように諸大名を好き勝手に潰して反感を育てたり、逆に政を放棄することも可能となってしまう。


 あくまで法を整備し、法に則って将軍が裁きを決するというように成らねばならない。


(されど…、まだ幕府は固まっておらぬ。そなたの力が必要ぞ)


 義輝の苦悩は、夜が明けるまで続いた。


 没後のことを定めなければならないことは頭で理解している。だが心では謙信の生還を望んでいるのだ。死んで欲しくない。その葛藤が表情を歪ませ、曇らせている。


「う……え………ざま……」


 それに変化が訪れたのは、夜明けのことだった。沈黙する謙信の傍らで、その無事を祈りつつ思案を巡らせていた義輝の耳に、僅かに聞き取れるくらいか細い声が聞こえたのだ。


「お……おおッ!!」


 僅かだが謙信の瞼が開き、こちらを見ていたのだ。口元もほんの少し開いており、先ほどの声の主が謙信であることを物語っていた。


「目を覚ましたか!安堵いたしたぞ」


 心の中を支配していた暗闇が一気に晴れた気がした。格子から差し込む一条の光が、眩く辺りを照らしていた。


 謙信の目覚めに薬師はもちろんのこと、共に控えていた景勝など近習たちも歓喜の言葉を口にする。


「ご…れま……でにご…ざい……まず……」


 しかし、謙信が力なく絞り出したのは、別れの言葉だった。瞳にはキラリと光るものが見える。もはや涙すらまともに出せないほど、天下に覇を轟かせた軍神は弱っていた。僅かな希望が断たれた瞬間だった。


 目覚めたのは奇跡、言葉を交わせたのは長く謙信が信仰してきた毘沙門天の加護によるものに思えた。義輝に握られた手すら、握り返す力の残っておらず、最後の力で主君に別れを告げた。


(余は果報者だ。これほどまでに忠義を尽くしてくれる家臣がいたであろうか)


 遠く越後から永久不変の忠義を尽くしてくれる家臣がいることは、京で悪戦苦闘する義輝にとって大きな支えとなった。自分は一人ではない。諦めなくてよいと征夷大将軍の職務を全うすると言い聞かせ続けられたのは、偏に謙信の忠義があったからだ。義輝も人だ。もし心から話せる家臣が一人もいなければ、早々に夢を諦めて現世に別れを告げていたことだろう。


(共に乱世を鎮める担い手になってはくれまいか。そう弱音を吐けたのは、そなたの前だけであった)


 謙信が心からの同士を得たと感じた言葉は、実は義輝にとっても大きな意味を持っていた。強く気高くなければならない征夷大将軍が心中を吐露したのだ。弱音を口にしても謙信は変わらぬ忠義を貫いた。だから信じられたのだ。その忠節に報いるのは、将軍としての務めである。故に義輝は


「……もう休むがよい。長きに亘っての忠節、大儀であった」


 義輝は充分に尽くしてくれた忠臣へ別れと労いの言葉をかける。短い言葉であったが、それを聞いた謙信はゆっくりと目を閉じた。その表情は安らかなものだった。


 そして再び目が覚めることはなく、三月十三日に息を引き取った。葬儀は後継者たる景勝を喪主として行われ、将軍・義輝の手によって春日山城内の不識院へ葬られた。


 享年四十九、乱世を戦い抜いた軍神の最期は、敬愛する主君に見守られての旅立ちであった。




【続く】

 御無沙汰しております。投稿が遅くなり申し訳ございません。


 さて本日は11年目となり、今回で準主役として描いてきた上杉謙信の退場です。拙作は何度も記載しているように病死の場合は死ぬ時期は変わらぬようにしておりますので、謙信の場合も同じ扱いとしております。とはいえ死の間際の三年間ほどは義輝の命によって禁酒をさせられているので、史実と違う点は一瞬だけ目覚めるというものにさせて頂きました。


 拙作の謙信は多くの方のイメージにある通り忠臣として描いております。もっとも大名が忠臣であっても素直に従わない家臣たちがおり、苦労することになる謙信でありましたが、拙作での謙信は天下一統を見届けられたことにより、その生涯を全う出来たのかと思います。最後は謙信個人としての場面を描くことも多く、軍神としてではなく、一人の人間としての上杉謙信こと平三を描いております。


 史実の謙信が何を求めて戦ったかは私にも分かりません。あくまで一つの謙信像として受け入れてくれたらと存じます。


 他にも義昭の子が大名として復活、奥羽の国替えの様子も描いております。史実と似たようなところもあれば、違うところもあります。何だかんだで古い家が残っているのは室町幕府であるが所以と思って頂ければと存じます。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 久々の更新ありがとうございます。おそらくあと数話で完結でしょうか。寂しくなります。 さて、内容ですが、謙信との酒の雑談から生まれたような御前試合。ある意味謙信の置き土産でしょうか。 栄えあ…
[一言] 軍神が死んだかぁ。年代はあまり気にしてなかったんですが、謙信病死ということは、史実では織田が越後に攻め込む直前くらいですか。改めて考えると戦国終了が随分早まってますね。 あとどうでもいいけ…
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