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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
最終章 ~天下泰平~
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第九章 坂東巡遊 ー天下草創の旅路ー

天正四年(一五七六)。


 天下一統が成されてより四年の月日が流れた。この前年に将軍・足利義輝は天正式目を制定して発布、これまで地方を平定してから小規模にしか行えなかった幕政改革が本格化していった。特に鎮撫の大遠征の舞台となった東国や九州では大名たちの国替えが多く起こり、その度に決して少なくない混乱が起きていたが、天下は少しずつ治まりを見せ、世は確実に泰平の世へと向かっていった。


 その最中に幕府内で一つの議論が巻き起こった。


「上様、そろそろ上方も落ち着いて参りました。是非とも関東へ下向いただきたく御願いに上がりました」


 前関東管領として東国平定に尽力した上杉権中納言謙信は、義輝が一度も訪れたことのない関東へ今こそ赴くべきだと進言したのである。もちろん下向には自身が付き従い、道案内をする心づもりでの上申あった。


「上様は西国にこそ何度も遠征され、幕府の威は轟いてございます。無論、東国も同じにございますが、些か西国に比べれば、東国は未だ心服とは言い難い土地もございます」

「うむ。余も一度は東国へ武威を示さねばならぬと思うておったところよ」


 謙信の上申に対し、義輝も同じ考えてあったが故に即座に受け入れた。鎮撫の大遠征から数年が経ち、幕府財政も持ち直していたことから幕臣からも賛同の声は少なくなく、早々に義輝の関東下向が決まったのである。


(関東は前右府が平定した故に幕府の威が靡かぬ土地も多い。ここは余が自ら赴いて東国の諸侯を跪ける必要があるとは思っていたが、良い機会だ。上杉中納言と共に赴けば、余の威を充分に示せるであろう)


 関東は長く鎌倉公方が治めていたが、その支配が廃れて久しく、関東管領と北条が争ってきた土地である。関東管領であり、軍神と称された謙信の威は浸透しており、共に関東に下向して蜜月振りを見せつけることにより、幕府の支配は進むと義輝は考えた。


 この頃、東国で幕府に心服している大名といえば、そう多くなかった。


 武田信玄の謀反によって甲斐国を引き継いだ武田義信はともかくとして、東国には幕府の軍勢を直接に差し向けた事はなく、一時的に義輝が北国遠征時に越後まで赴いた事があったくらいだ。東国平定はあくまでも前右大臣である織田信長や上杉謙信など幕府に従う大大名が主導で行ったことである。


 その織田信長や上杉謙信も齢四十も半ば。人生五十年と云われる今の世に於いて、その余命は長いとは言い難く、しかも信長は肥前国へ赴いたっきり殆ど上方へ帰ってくる素振りもない。謙信とて東国は継嗣に迎えた景勝に家督を譲り、上方に身を置いており、年々と影響力は低下している。いま関東で中心人物と呼べるのは、武蔵国江戸に国替えとなった徳川家康もしくは奥羽で一〇〇万石を領する蘆名止々斎くらいであるが、その家康と義輝は信長を通しての付き合いが強く、近しく存在とは言えない。また止々斎についても奥羽の実力者として認めてきたに過ぎず、幕府への献身が強い訳ではない。更に止々斎は大永元年(一五二一)生まれであることから、いつ亡くなっても不思議ではない事に加えて、先年に義輝は家督の問題に介入して止々斎の影響力を弱めたところだ。もし止々斎が亡くなりでもすれば、蘆名の影響力は格段に低下することは間違いなかった。


 その前に幕府として、東国に楔を打ち込んでおくことは必要不可欠である。謙信もそれが分かっているからこそ、己が道案内として将軍に付き従う姿を東国の諸大名に見せつけようというのだろう。


 すぐ幕府内では義輝の坂東巡遊が計画された。そこには義輝の希望が大きく反映されることになった。


「まずは岐阜へ立ち寄り、前右府の跡目を継いだ左少将が如何なる統治をしておるか、見届けておきたい。無論、左少将も東国へは同行させる」


 幕府御料地の西側には広大な織田領が広がっている。その土地を治めるのは、織田信長の嫡男として跡目を継ぎ、正四位下左近衛少将の地位にある織田信重である。義輝は織田と上杉の棟梁を引き連れ、東国を巡遊しようと考えていた。


「織田には二万の兵を出させよ。余も上方の兵五万を出す。土岐、一色、武田など合わせて十万を連れていく」

「十万!?されど今回は合戦が目的ではございませぬ!多く見積もっても二、三万程度で宜しいのではないでしょうか?」

「前回は前右府が十万近い兵を率いて関東へ雪崩れ込んだ。中納言も最初に小田原を攻めた時は十万を率いたと聞いておる。その数を下回っては、余が武威など示せまい」


 と義輝は多大な費えが生じることを理由に反対する幕臣たちを一蹴、己の方針を貫いた。


 四年前の鎮撫の大遠征では、織田信長が七万五〇〇〇を率い、徳川家康と北条氏規、今川氏真ら大名を引き連れて十万近い軍勢で関東へ攻め込んだ。如何に平時であれ、義輝がその数を下回るということは、将軍の沽券に関わった。


「費えならば惜しまずとも良い。確かに伏見の普請など恐ろしいほどの金銀を費やしておるが、飢饉も落ちつき年貢も増えておろう」


 と義輝は長年に苦楽を共にした幕臣たちを窘めた。


 天下一統後に西国から上方にかけて大きな飢饉が起こり、米価は七倍まで跳ね上がるという異常事態が起こった。しかし、幕府による天下一統が成し遂げられていたことにより、混乱は東国から米が運ばれて来るまでの一時的な現象に止まった。もし天下が一統されていなければ、もっと多くの餓死者が出たことは間違いないだろう。


 かつて慈照院こと八代将軍・足利義政は洛中が飢饉に苦しむ最中、花の御所の改築に勤しんで民衆を顧みず、民心が幕府から離れてしまったことがある。


「民草を見捨てた者が天下を保てた例はございませぬ。逆に民草から支持を得た者は、天下すらも治め得るものにございます」


 この飢饉に対して、いち早く動いたのは幕臣に列して政に寄与していた北条幻庵であった。


「天文九年(一五四〇)に起こった飢饉では、我が北条は山内・扇谷両上杉家と戦の最中でありましたが、即座に戦を止めて検地を行い、税を見直しております。また永禄二年(一五五九)の飢饉では徳政令を出して税を免除いたしました。結果、同時期に関東へ攻め入ってきた上杉殿は小田原にまで迫りこそしたものの民草の支持は得られず、帰国後に関東の悉くは北条に帰順しております」


 そう義輝に進言し、検地奉行であった伊勢河内守氏規と対策を講じ、飢饉の影響の少なかった東国から米を運ばせたのである。その甲斐もあってが餓死者は大きく減り、幕府は急速に求心力を高めていくことになった。まさに幾たびの飢饉を経ても関東で盤石な地位を築いてきた北条の知恵が幕府を支えた事案であった。


 これにより義輝は十万の大軍を率いて坂東巡遊を行うことが容易となり、一先ずの目的として東海道を進んで鶴岡八幡宮に参拝することとなった。


「後は東国と言っても上様が何処まで進まれるか……であるな」


 義輝の巡遊は東国諸侯を平伏させるものである。鶴岡八幡宮への参拝が決定していることから鎌倉への立ち寄りは必須であるが、何も東国津々浦々まで義輝が自ら向かう必要はない。義輝は将軍、武家の棟梁であるが故に、鎌倉へ諸大名を呼び出せばよい。事実、天下一統から四年が経ち、全国の大名たちは少なくとも数回は上洛をして義輝に挨拶へ出向いている。


「余は奥州まで行くぞ。会津黒川にて止々斎と会う。さすれば余が蘆名を重く見ていると諸大名は捉えよう。それであればこそ奥羽は落ち着くというものだ」


 それを義輝に報告したところ、義輝は己の考えを伝えて修正を入れた。


 蘆名家は奥州で大身ながら後継者問題に揺れており、安定しているとは言い難い。義輝は止々斎の影響力を低下させたものの蘆名家を軽んじたつもりはなく、蘆名家には幕府に従順な大名家としての存続を求めたのだった。故に自身が赴いて梃入れをする必要がある。


 そこで義輝は蘆名領まで足を運ぶことで信頼を天下に表明し、奥羽を鎮めようと考えたのである。


(とはいえ蘆名に奥羽のことを全て任せるのは得策ではない。奥羽は割っておくのが一番良い。手始めに伊達を国替えとする。後は関東へ赴いてから、追々と決めればよい)


 義輝の狙いは、奥羽大名の国替えによる勢力の均衡。この坂東巡遊にて十万の大軍で威を示し、幕府の影響力を強める魂胆だ。もし今、この場にて国替えを決め、幕命を下せば謀反を生むかもしれない。しかし、十万を引き連れて諸大名を参集させ、その場で国替えを告げれば、誰であっても従うしかなくなる。


 関東は国替えによって新大名も生まれ、単独で幕府に逆らえる大名はいない。そして信長の東国平定で縁も絶たれている。楔を打ち込むとすれば、今しかない。後は、その選別をどうするかだ。


 目的地を二カ所に定める。そして、それのみを義輝は東国の大名に告げた。敢えて、挨拶に来いとは言わない。鎌倉まで出張ってくるのか、黒川城で良いと思うのか、諸大名の忠誠心を試すのだ。


 それから半年後、義輝は京に京畿七カ国に加えて伊勢公方・足利義氏、紀伊守護の和田惟政、若狭守護の柳沢元政ら五万の軍勢を集め、関東へ出立した。もはや時代は乱世ではなく、行軍は順調そのものだった。義輝一行は大津、佐和山と東海道から東山道へ進んで不破の関を越え、京を出立して三日後には、最初の目的地である天下随一の大名である織田家の本拠・岐阜城へ入った。


 岐阜では現織田家当主・織田左近衛少将信重の歓待を受けた。


「岐阜は一度、信玄を余呉で打ち破った帰りに前右府を訪ねたことがあったが、相も変わらず賑やかなことよ」

「御褒めに与り恐悦至極に存じ奉ります。されど二万の軍勢を集めているからこその賑わいであり、都の繁栄には遠く及びませぬ。再び上様を岐阜に御迎え出来たこと、嬉しく存じます」

「ほう、左少将は前右府には似つかぬ佇まいじゃな」


 と信重が丁重な物言いで義輝を出迎えたので、信長を知っている身としては驚きが先行してしまった。


 義輝の天下一統を支えたのは織田信長と上杉謙信である。


 その上杉の後継者である景勝は姉の子であり、謙信と直接に血の繋がりはない。だが養子とは思えぬほど親子のように立ち振る舞いが似ており、景勝が謙信に心酔しているのが判る。逆に織田の親子は血が繋がっているとは思えないほど、似ていなかった。信長が破天荒な分だけ、信重が常識人に映った。


(面白味に欠けると思ってしまう余は、やはり乱世の方が似合っておるのだろうな)


 ふと抱いた感情に義輝は思わず苦笑いを浮かべた。


 長く泰平を求めてきたつもりだが、何処か戦いのなくなった日々を寂しく思ってしまう自分がいたのだ。これが笑わずにいられるだろうか。


(されど、これで良い。泰平の世は、これで良いのだ)


 義輝は自分に言い聞かせるようにして、この状況を納得させた。


 信長の後継者といえば、濃尾に加えて近江、伊勢、信濃、飛騨と六カ国を領し、間違いなく高い官位に就く。現に信重は家督を継いだ時に正式に叙任され、広大な領地を持つ大名に相応しく正四位下・左近衛少将にまで昇った。諸大名からすれば見劣りすることのない高い地位だが、右大臣まで昇った父親とは圧倒的な開きがある。信重は年齢も若く、まだまだ織田家の規模からすれば将来的に公卿に列するのは間違いない。もし信重が信長のような人物でありながら、乱世を殆ど経験せずにいたのであれば、分不相応な野心を抱くかもしれない。


(その時、幕府が揺らげば織田家が牙を剥くやもしれぬ)


 いつでも京に軍勢を上らせられる位置にある強大な織田家は、幕府にとって心強い味方にもなるし、恐ろしい敵にも成り得る。実際に信長が当主の時は、その影響力は常に幕府の方針を左右した程だ。信長が何も言わずとも、常に幕臣たちは信長の考えを知ろうと忖度を繰り返していた。


(前右府が肥前に赴いてからというもの、それも落ち着いたな)


 義輝は改めて信長が家督を譲って肥前へ赴いたのは、その為だったのではないかと思った。随分と信長との付き合いも長くなった。あの無駄を厭う性格は徹底しており、自身のことすら恐ろしいほど客観視できる鋭い眼は、義輝も真似できないものがある。


(あやつには欲というものがないのではないか)


 そう思えるほど、信長は個人の欲求というものが見えない。あるのは目的の為に、いま何をすべきかということのみ。


「昨年に武田から迎えた姫も息災かな?」

「はい。早速に子が出来ました」

「それは目出度い。子が生まれる頃には、余も祝いの品を送ろう」

「過分な御配慮、恐悦至極に存じます」


 この日の義輝は終始、上機嫌に過ごすことになった。


 昨年、家督相続や飢饉など様々な情勢が落ち着いた信重は義輝が取り決めた約定通り、武田家から松姫を迎えて正室とした。しかも織田家中からは仲睦まじい様子がいくつも義輝の耳に入っている。武田義信は一族想いの人間であることからして、松姫が大切に扱われていることに好感を抱くだろう。これを機に両家の関係は改善していくように思われる。


 その武田家からは松姫の妹である菊姫も上杉家へ嫁いでおり、こちらの関係も良好だと謙信から伝わっている。織田、武田、上杉の関係が良好ならば、一先ず東国は安泰だろう。


 義輝の東国経営は上手く進んでいる。後は義輝自身が坂東に赴き、征夷大将軍として影響力を及ぼすだけだ。


 義輝は三日、岐阜で滞在すると尾張清洲を経て東海道を東へ進み、三河で土岐参議光秀の出迎えを受けた後は駿河で一色式部大輔藤長と合流、元北条氏である伊勢氏規の案内で伊豆から相模へ至ると、北条氏の菩提寺である早雲寺に入り、かつて信長が圧倒的な力で攻め落とした小田原城を検分することになった。


 小田原城は大筒でボロボロになった三ノ丸は破却され、二ノ丸から内側は無傷なところが多く、修築されている。ただ二ノ丸までの状態でも小田原城は、上杉勢十万の攻撃を跳ね返した実績がある。故に周囲の堀は埋められて土塁は壊されたままだった。


 天正式目によって城を修理するときは届け出ること、新築は禁止することが定められているが、小田原城は数少ない幕府の徹底した管理下に置かれている城で、二ノ丸の内側でいくつかの建物が取り壊されて、その脅威は減じてしまった城だ。


「この城を殆ど無傷に近い形で落とした前右府殿は、流石でございました」


 と感想を述べるのは、自身も小田原攻めの経験を持つ上杉謙信である。


 関東諸将の中には謙信の小田原攻めと信長の小田原攻めの両方を知っている者も多い。全ての現場を大将として目撃している謙信は、特に自身が指揮を務めた一次、二次の戦いと信長主導の三次の戦いを比較し、義輝に伝えていく。しかもこの場には先の小田原攻めを行った織田の侍大将や北条方も多くおり、勝者と敗者、両方の目線で戦の推移を知ることが出来た。


 その中で義輝が懸念を感じたのは、謙信を除く多くの者が南蛮の脅威に敗れたのだということに気が付いていない事だった。


(あれだけの勢威を誇った北条が一矢も報いられずに負けた事は、我ら武士の力が南蛮には通じぬということだ。前右府が肥前から動かぬのも、それに備えてのことであろう)


 今回、織田信長は坂東巡遊には参加していない。信重を通じて参加を呼び掛けてみたのだが、体よく断られたのだ。つまり信長の興味は既に東国にはないと義輝は見ていた。


(とは申せ、南蛮との交わりを断つわけにはいかぬ。油断できぬ相手だからこそ、交わりを強めていかねがならぬ)


 外交の基本は遠交近攻である。戦国乱世が続いた日ノ本では、その考えが常識であり、現に義輝も畿内を掌握する三好家を打倒する為に長く遠国の大名と誼を通じて力を借りようとした過去がある。それが外つ国であっても、根本は変わらないのだ。


 今でこそ義輝は天下一統を果たして国内に敵なしという状態であるが、とてもじゃないが南蛮を攻めることは不可能だ。そもそも距離が有りすぎる。遠国というより遥か彼方と言った方が良いほど日ノ本と南蛮は遠い隔たりがある。


 しかし、それは義輝側の味方であって、奴ら側は違う。日ノ本の南方に位置する呂宋が元亀年間に南蛮によって征服された事を義輝は商人を通じて知っていた。呂宋から先がどうなっているか分からないが、南蛮人がやって来れている事から鑑みて、向こうは兵を送って来るだけの手段を持ち合わせている可能性を考えておくべきと思っている。


 その為にも義輝は海の彼方へ眼を光らせておく必要があると断じていた。その想いを一層と強くしたのは、翌日に小田原を経って源氏の聖地とも云える鎌倉へと入った時のことだった。


 早速に義輝は鶴岡八幡宮へ詣で、源頼朝が葬られた白旗神社へ参拝した。


「……鎌倉は狭いか」


 源氏の聖地に赴いて、以前に信長が関東の中心を江戸へ移したことを義輝は思い出した。


 鎌倉は源頼朝が父・義朝が亀ヶ谷に居を構え、治承四年(一一八〇)の挙兵以来に頼朝が幕府の根拠地として定めた。東、西、北の三方を山で囲まれ、南は海と要害であり、七口と呼ばれる切通しに兵を配して守ることができる。云わば鎌倉全体が城であり、堀なのだ。


「その守りの姿勢が、視野を狭くしたのかもしれぬな」


 頼朝が鎌倉に入った時、まだ天下の権は平清盛が握っていた。


 翌年に清盛は死去するも、平家が滅びるまでは四年を要し、さらに奥州藤原氏や後白河法皇など頼朝の敵となる者は少なくなく、目下の坂東武者ですら獅子身中の虫である野心家は多かった。


 事実、頼朝は征夷大将軍に就任して武家政権を樹立、多くの武門に尊ばれる存在であるも、何を成したのかと言えば、そう多くはない。その生前には実弟の源義経、範頼、信濃源氏の木曽義仲、甲斐源氏の安田義定など同族を多く滅ぼしており、頼朝は権力に群がる身内を信用できなかった事が如実に伝わって来る。この内輪の争いに終止符を打てなかった頼朝は、権力争いは加熱、頼朝の天下草創を築いた重臣たちが相次いで追放や謀反の嫌疑をかけられて自害、討ち死にしている。その中に頼家や実朝など頼朝の子たちも含まれているのは、自身が招いた種とも言えよう。


 大敵である平家を打倒するまでは良かったが、その猜疑心から意識が内に向き、外への意識は散漫になった。逆に平治の乱で源義朝を打倒して権勢を欲しいままにしていた清盛は、後白河法皇という潜在的な強敵が存在していても自身の権謀術数で成し得た政権に揺るがぬ自信を持っていた事は言うまでもない。故に清盛の意識は内を向かず、外つ国を向いており、頼朝とは相反した。


「どちらが正しいか、何が正しいのかなど今になっては何の意味を為さぬ。されど彼の者らが武家の天下を築いてきたことだけは、間違いない」


 朝廷ひいては公家に虐げられてきた武士の世を平清盛が切り拓いた。そして源頼朝が征夷大将軍となり、武家の在り様を天下に示した。そして、その世を法で定めてきたのは幕府を受け継いだ北条得宗家であった。今の世の仕組みが御成敗式目に即していることを鑑みれば、礎を築いたのは北条と言っても過言ではないだろう。


 では、足利は何を成すのか。


 天下の政を取り戻そうとした後醍醐帝から離反した等持院こと足利尊氏は武家の世を存続せしめた。しかし、足利が天下に何を成したのかと問われれば、それに答える術を義輝は持たない。まだ何も成していないからだ。少なくとも義輝自身は、そう思っている。


 成し得るのは、これからなのだ。


 その歴史を、今度は自分が辿る。後世を生きる者たちは、足利義輝という人物をどのように評価するであろうか、それは分からない。これから自分が、何を成すかによるだろう。


「余は、余の天下草創を成し遂げる。もはや鎌倉には二度と参ることはあるまい」


 そう告げて義輝は、その生涯でたった一度だけ訪れる事になった鎌倉を去った。


 鎌倉は過去であり、未来ではない。ここで義輝が得られるものは、何一つとしてないと感じた。鎌倉に入って、見て知って、それがよく分かった。


 義輝の天下草創の旅路は、まだ始まったばかりである。




【続く】

 大変にお待たせしました。仕事で人手不足が続き、休日も仕事をしている事が多く、執筆の時間がかかってしまったことお詫び申し上げます。


 さて大河ドラマも中盤、恐らく来週以降から権力争いが激化していくことだと思います。どんどんと人が犠牲になっていく鎌倉幕府創世記は、やはり見応えありますね。それでも足利幕府ほど酷くないと感じてしまうのは、義時や泰時の力なのでしょうか?実際、ドラマだけではく、人物のスケールからして頼朝より清盛の方が大きく感じてしまうのは私だけではないでしょう。十年前の「平清盛」では、清盛があってこその武家の世だと語られておりました。云わば清盛は戦国における信長ポジであり、頼朝は秀吉、義時は家康なのでしょうね。清盛がつき、頼朝がこねし天下餅、それを食らうは北条義時...ですね。


 さて天下一統後の各地の情勢について触れていった訳ですが、東国については細かな描写は少ないです。次回以降が主要人物毎のエピローグを兼ねつつ、その辺りを描いていく予定です。予定通りなら次回から上杉謙信、織田信長、足利義輝と本作を巡って活躍してきた三巨頭が主役の話を順に描き、最後の後日談の四話で完結となります。まだまだ執筆は進んでいませんので、話が長くなれば分割して五話、六話と増える可能性は大きいですが、話の筋としては、その四回が主です。年代も一気に進むと思いますし、細かい部分は描き切れませんので、そこはこれまで長く拙作に付き合って頂いた読者様の想像にお任せしたいと思っております。


 IF小説は、その想像があるから面白い。私はそう考えております。では次回、上杉謙信編を御待ちください。

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― 新着の感想 ―
[良い点] あの破天荒で扱いづらい信長を信用できるようになったのは成長したなと思いました。 [気になる点] ただまだ「忠誠心の有無」ことに関しては仕方ないと思います。前にも書きましたが、多くの大名や寺…
2022/06/27 14:11 ジェイカー
[良い点] 源氏嫡流とされる足利氏による天下統一、毎回楽しく拝見しております。 [一言] まだ蝦夷地、千島、樺太、沖縄や台湾が残っております。 いかにして中世日本がこのような地を征討し、統治するか興…
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