第八章 西国に吹く嵐 ー信長台風ー
前回に引き続き、今回は西国...特に九州の話です。次回は関東へ話は移り、いよいよ義輝が初めて関東へ下向することになります。
なお撫辺の話は無辺の話と同様で、紹介させて頂きました。
天正三年(一五七五)
上方で大きく評定衆が入れ替わった頃、西国でも少なからず変化があった。
四国では長曾我部元親が嫡男・千雄丸が若年にて元服、将軍・足利義輝より“義”の偏諱が与えられて義親と名乗り、後継者の立場を確立させた。また中国地方では備後守護・吉川元春が隠居したことで、義輝の許に出仕していた元資が正式に家督を継ぐことになった。元資は家督相続を機に吉川氏に伝わる什宝と治部少輔の官職を引き継ぎ、これまでの功績として位階も従四位下となり、名を元長と改めた。
次いで九州では国替えが相次いだ事により、各国で混乱が起きている。
まず豊前国を幕府直轄地として大友旧臣の臼杵鑑速に任せていたものの、その鑑速が死去。後任を誰にするかで揉めに揉めた。
「幕府御料地である以上、幕臣を送るべきである」
「まだ九州は完全に治まったとは言い難い。いま暫くは大友旧臣に引き継がせるべきであろう」
という二つの意見で対立したのだ。
鑑速は大友家中で取次役を担っており、幕府との窓口も鑑速だったことから豊前の統治は意思疎通も出来ていて比較的に上手くいっていた。鑑速自身も家中での信頼は厚く、特に譜代の多かった豊前をよく纏めていた。その鑑速のように豊前を治められる人物が旧大友家中に残っているかといえば、吉岡長増や吉弘鑑理らかつての重鎮は既に亡く、残る大人物である戸次道雪も筑前の代官として赴任していて、鑑速の後任を務められそうな人物を幕府は見つけられなかった。
「とはいえ今の幕府とて九州に人を送っている余裕はない。あと数年、落ち着くまでは今の体制を維持出来ないものか」
なら幕臣をという意見が上がるも、かと言って幕府方にも適任と言える人材はいなかった。
天下一統へ至るまでに幕府の勢力は急激に拡大した。今まで放置せざるを得なかった諸問題にも手を付けいる最中であり、新たに所領を得た幕臣も多い。彼らは総じて幕政で重役を担ってるか、領地の仕置きで他に手が回らない状況なのだ。更には天正式目など新たな法令の発布などあり、諸大名が式目を守れているか監視する必要も生じ、知らず内に仕事が増えていく一方なのである。とてもじゃないが“幕臣を送るべき”と主張する側も“誰を送るか”となると口を閉ざす者ばかりであった。
「戸次殿、上様は今の豊前を纏められる器量を持つ者に心当たりはないかと仰せである。誰ぞ戸次殿が“この者ならば”と思い当たる人物はおるまいか」
そこで義輝は道雪へ使者を送り、後任の推挙を命じたのである。
「それであれば吉弘嘉兵衛という者がございます。加判衆であった吉弘鑑理の子で今の吉弘家当主、かつては筑前にて立花城の城督にあり、亡き御屋形様の側近として奉行も務めていた者故に豊前の国情にも明るうございます。某の眼から見ても文武に秀でた名将にて、臼杵殿の娘を妻にしている故、後任としても相応しかろうと存ずる」
道雪が推挙したのは、吉弘鎮信であった。
あの鬼・道雪に太鼓判を捺させた程の人物である。義輝も興味を抱いて調べさせたところ九州征伐に於ける宝満城の守将と知り、幕府の大軍を前に寡兵で闘えるような者ならば若くても物怖じしまいと考え、鎮信を鑑速の後任として豊前代官に命じるのだった。
鎮信は代官就任に合わせて従五位下・左近将監に任じられた。以後、豊前は義輝の想定以上に統治は穏やかに進み、その力量を認めた義輝によって、鎮信は幕臣として長く豊前の統治に携わることになる。
一方の筑前は道雪の統制によって混乱は皆無に等しく、着々と博多の復興が成されている。大きく混乱があったのは、肥前と肥後の二カ国であろう。
肥後は池田勝正が守護として入り、早速に検地を推し進めていた。検地自体は隈部氏など旧菊池家臣が博多合戦で敗れ、所領を失っていたことで抵抗も少なく進んでいったが、彼らは滅びたわけではなかった。
検地の結果として肥後国は五十万石ほどあったが、南部の十万石は相良氏に認められていることから差し引いた四十万石ほどが勝正の領分であるも、池田領は天草など離島が多く、東側は山地が中心で治め難い国であった。しかも勝正自身、元亀擾乱で池田家中が荒木村重によって二つに割れてしまっており、勝手知ったる摂津ならともかくとして、新地となった肥後を治めるには充分な家臣を持っている訳でもなかった。
故に勝正は所領を失った旧菊池家臣たちを改めて登用するしか人材を確保する術がなかったのである。問題は彼らに勝正が宛てた禄高だった。この時に勝正が彼らに与えた禄は、彼らが以前に所有していた土地の一割か二割ほどでしかなかったことから不満が相次いだ。
「このような微禄では死ねと言われているも同じ!」
そういう声に対し、幕府に属して勝者の立場である勝正は冷たかった。
「一度は全てを失ったのだ。捨扶持でも貰えるなら有り難いと思え」
と言い放ったのだ。
ただ彼らには自分たちがいなければ肥後の統治が立ち行かないことは判っており、勝正への抵抗を止めなかった。元より肥後は彼らの領地であり、旧領から兵を募ることも不可能ではなく、しかも九州征伐の後に義輝は暫く博多に二万程の軍勢を待機させていたが、この時は既に帰国した後だったので、幕府の圧力は弱くなっていたのだ。
旧菊池衆は主張を通すならば徒党を組んだ方がよいと考え、思いを同じくする者を集めては日夜、謀議を繰り返した。
「されど勝正が幕府に訴えて介入してくれば我らの方が危うい。出来るだけ速やかに勝正へ認めさせる必要がある。ここは知恵者である宗運殿を頼ろう」
として彼らは阿蘇氏の重臣・甲斐宗運に同心を呼び掛けた。阿蘇家も同様に所領の大半を失っていたことから当たり前のように自分たちの味方をするだろうと考えていたのだが、宗運は謀議を持ちかけられたことを勝正を通じて幕府へ密告、その功績を以って阿蘇氏の存続を求めた。
一つ、隣国で不穏あれば、直ちに幕府へ報せること。
まだ天正式目の発布前であったが、幕府内では法令を定める草案は出来上がっており、旧菊池家臣団の暗躍は問題となった。
そこで勝正は本拠としていた隈本城に“新たな知行を申し渡す”と称して彼らを誘い出し、その場で謀議を明るみにして粛正を図った。
隈部親永、和仁親実などを始めとする旧菊池衆は壊滅、生き残った者たちも勝正に屈するか討伐されるかのどちらかで、世の中から姿を消した。また宗運の密告によって阿蘇氏は旧領の回復こそ完全には果たせなかったが、阿蘇神社大宮司として存続は認められ、以後も肥後国内に一定の影響力を持ち続けることになる。斯くして肥後では幕府の支配が強まることになった。
そして九州一の混乱があったのが、織田信長が賜った肥前国である。
肥前を拝領した信長が、初めて入国したのは天正二年のことである。それまでは腹心の丹羽長秀を送り込んで国人たちとの調整を図り、一先ず日向国へ転封となった龍造寺の旧領を直轄地として整備し、本拠を佐嘉城と定めたに過ぎなかった。
義輝が驚いたのは、信長自身が肥前へ移ったことだ。
織田信長と言えば、天下一の大大名であり、天下一統後には東国平定の功績を以って義輝の奏上により正三位・内大臣に昇進、官職では公方の足利晴藤を抜いて将軍である義輝に次ぐ地位にあった大物である。義輝も当初、肥前には信長の家臣の何れかが入るものだと考えており、まさか誰も信長自身が肥前へ赴くとは想定していなかった。
しかも信長の入国が一時的なものではなく、数年は留まると聞いて、ますます慌てた。
「内府には国造りに力を揮って貰わねばならん。肥前は家来に任せよ」
として義輝は信長が肥前入りする直前に幕府要職を打診したが断られ、次に従二位・右大臣へ推挙して引き留めを行った。
「過分なる御引立て痛み入ります」
義輝が帝を巻き込んで再三再四に推挙した為、信長も一度は昇進を受け入れた。これに安堵したのも束の間のこと。
「関白殿下も遠国まで下向されたと聞き及びます。右大臣の職にあっても下向してはならないという決まりはございませぬ」
として信長は肥前入りの予定を変えなかった。
「天正式目には、大名は一定の周期にて帰国して任国の統治に疎かにしてはならないと定めてある。これは逆を申せば、京で政務に励むのも役目ということである」
そこで義輝は譲歩案として一時的に信長が肥前に赴くことを許すものの、暫くしたら戻って来るように命じようとした。
これに対して信長は先んじて家督を嫡男の信重に譲り、織田家当主という座を捨ててしまったのだった。しかも昇進したばかりの右大臣も辞任して、私物では茶道具一式だけを持って肥前へ移って行ってしまう徹底ぶりを見せた。
信長は大名でなくなったことにより天正式目の条項に定められていても帰京を命じることが出来なくなってしまったのだ。義輝には隠居を許さないという手段もあったが、家督を譲った相手は嫡流嫡男であり、幕府へ正式に届け出を済ませていることから式目に則った形となり、織田領は信長の手によって検地や街道の整備、関所の廃止などいち早くから進められていて平穏そのもの、信長の隠居を認めない理由がなかったのだ。
さらに大胆にも信長は佐久間信盛や柴田勝家、羽柴秀吉など織田家の発展期を支えた重臣にも隠居を命じて無理やりに家督を次代に引き継がせ、当主となった信重には“与兵衛を父と思え”と言い残し、補佐役を河尻秀隆に命じて本拠・岐阜を去った。功績のある老臣に遠慮があっては統治も満足に出来ないとの信長の配慮である。
これは家督を譲る際の模範例となり、これまで天下で一番の脅威とも目された男が一転して天下には欲のない男として評判となった。
とはいえ、やはり織田信長は織田信長なのである。何も変わっていないということは、肥前に入ってからも判った。
一見、信長自身が茶道具しか持たなかっただけで天下に無欲な男として映っても、織田勢は国内で八〇〇〇の軍勢を従えて肥前に入っており、圧力は充分、しかも鉄砲隊二〇〇〇を含む精兵だった。何処から見ても戦に出向いているようにしか思えない。
これに肥前の国人たちが戦々恐々としたのは、語るまでもない。しかも率いる将は、天下で闘ってきた織田の重臣たちである。雑務を離れて身軽になった信長は、遠慮なしに改革を断行した。
「まず長崎を検分する」
そう告げて佐嘉入城の翌日には長崎へ向けて進発し、耶蘇教の布教がどうなっているか徹底的に調べ上げた。元より耶蘇教に好意的な信長である。宣教師ルイス・フロイスなどは“ようやく転機が訪れた”として長崎にて信長の来訪を歓迎、その検分に随行しては今後の庇護を求めるのは当然のことだった。
「耶蘇教への改宗を強いたことは許し難し、仏教への弾圧なども以ての外である」
ところが信長は一転して強硬姿勢で宣教師たちと相対した。
「全テハ旧領主ドン・バルトロメオ(大村純忠)殿ガ行ッタ事デゴザマス。我々ハ民ニデウスノ教エヲ伝エタダケデゴザイマス」
「詭弁を申すな。そのデウスとやらの教えを受けた者が一向衆のようになるというのであれば、同じことよ」
「誤解デゴザイマス!デウスは隣人ヲ愛シナサイト教エテイマス!弾圧ナド……」
「ほう……、ならばうぬらの教え方が間違っておると申すのだな」
「ソ……ソレハ……ッ!?」
「南蛮人によって外つ国へ売られた者たちも多いと聞く。それを手引きしたのも、うぬら宣教師たちらしいではないか」
「ソレモ誤解デゴザイマス!我々ヲ信ジテ下サイ!」
必死の形相で信長の追及に喰い縋るフロイスを横目に同席していたカフランシスコ・カブラルは、一転して憮然とした様子を貫いており、自国語で同じく同席するロレンソ了斎に何かしら呟いているのが信長から見えた。
この会見には、今までの伝手としてルイス・フロイスが主に話しているが、宣教師の中では現場責任者としてカブラルの方が上位だった。
「そこの者、カブラルとか言ったな。何か言いたそうではないか。了斎、訳して聞かせよ」
と信長が急に矛先をカブラルに向けると、フロイスも了斎も戸惑いを露わにした。
(言葉が判るまいと、儂に都合の悪いことでも申していたのであろう)
とその様子から信長は即座に見抜いた。
このカブラルという男は日ノ本の布教責任者であるにも関わらず、これまで宣教師がやってきた日ノ本の実情に合わせた布教を行うという“適応主義”を真っ向から否定し、自分の思うがままに布教活動を行ってきている人物であった。
こういう人物だからこそ、フロイスは義輝に会わせるのは拙いと考え、九州遠征に赴いた時には自ら挨拶に出向き、カブラルと引き合わせることはなかった。当時は大村切支丹一揆も起こり、結果として会わせなくて正解だったとフロイスは思っている。
しかし、今回は信長直々の長崎視察となり、引き合わせるしかなかったので連れて来ている。嫌な予感がしていたが、どうやら当たっていたようだ。それは了斎も同じ思いだった。
通訳の了斎が恐る恐るカブラルの言葉を信長に伝えていく。
「ドン・バルトロメオ殿が謀反や他の宗教を弾圧するに及んだのは、バルトロメオ殿がデウスの教えを理解できなかっただけであり、デウスの教えや我々の教え方が悪かったのではありません。また人買いを行うのも、売る者が後を絶たぬからであり、我々が率先して行った訳ではございませぬ」
と自らに落ち度はないと飄々とするカブラルに対し、了斎は信長の言葉を恐れながら待った。逆鱗に触れると感じたのである。
「で、あるか」
しかしながら、会見は信長の一言で幕を下ろした。
会見後、日本語の判らないカブラルは“自分の言い分を信長が認めた”としてフロイスや了斎に話していたが、言葉を理解できる二人は今後がどうなることかと不安で眠れぬ日々を送ることになる。
その数日後、不安は的中する。
信長より耶蘇教の布教こそ禁止はされなかったものの、領地を持つ自身の配下が入信することは許可制とし、入信したとしても領民に改宗を強いることは固く禁じた。これは事実上の禁教である。また年貢をしっかりと納めることを改めて厳命、人の売買を禁止、既に売られた者を買い戻すこと、牛馬を食すこと禁じることを纏め、宣教師が土地を所有することも禁じられた。
これを聞いたフロイスと了斎は絶句、激怒するカブラルが信長の許へ抗議しに行こうとするのを必死に止めた。信長と何度か対面している二人は、最後の言葉から信長の怒りの度合いを推し量り、カブラルが抗議に赴けば火に油を注ぐだけと考えたのだ。
フロイスはカブラルが日ノ本に留まれば布教の道が遠のくと断じ、密かに本国へカブラルと共に来日して畿内の布教責任者となっているグネッキ・ソルディ・オルガンティノに九州の責任者を兼務して貰えるよう打診、この願いは数年後に受理されてカブラルは帰国、オルガンティノが九州での布教も引き継ぐことになる。
オルガンティノは自らを日ノ本の民と比較すると野蛮であり、日本人の聡明さを褒め称える書簡を残す程まで好意的な態度を崩さなかった。その姿勢が義輝の印象にもよく残り、義輝の治世で耶蘇教の布教が首の皮一枚で繋がったのは、オルガンティノの成果であると後世には伝わっている。
しかし、耶蘇教の危うさは改善できず、後の十六代将軍の時代に耶蘇教は正式に禁教となり、その際には信長の布告が禁止令の基礎となったのである。
とはいえ信長も南蛮人に利点も感じていた。
耶蘇教に厳しい態度を取りつつも自ら南蛮船にも足を運び、取引する品物を検分するなどし、遂には南蛮人の有するがガレオン船をも建造するよう命じているのだ。後に琉球や澳門、呂宋へ羽柴秀吉を送って南蛮貿易を活性化させるなど積極的な姿勢を見せたのである。
あくまで信長の施政は、対等に扱うということに終始していた。実際、肥前の仏教徒で撫辺なる坊主が民を誑かして金品を巻き上げているとの噂を聞きつけ、自ら検分した後に嘘を暴いて処断していることからも、耶蘇教に対してだけ厳しい訳ではなかった。
その上で織田領内でやっていたように関所を廃止、海上では幕府の法令に従って警固料を取り立てることも禁止し、街道を整備して佐嘉城下に楽市を制定、検地も国人領内に遠慮なく踏み込んで強行、推し進めていった。
義輝の上洛時、随行した信長が一銭を盗んだだけで兵を処刑するほど規律に厳しいことは、織田家臣のみならず畿内の大名たちなら嫌という程に知っている。しかし、肥前の国侍は戦国の気風が未だに抜けず、何処か甘く考えているところがあった。
その見せしめとなったのが、南蛮船より警固料の取り立てを止めなかった深堀純賢が改易、滅ぼされたことである。陸地を治める国人たちと違って、水軍を束ねる海賊衆は強固な主従関係にないことが多い。布告を受けて多少は手を緩めても、己が利権である税の徴収を止めることはなかった。それが仇となり、滅亡したのである。
これをきっかけに信長の改革は嵐のように進んでいく、関所の廃止など渋っていた勢力は領主自ら兵を出して関所を打ち崩しに行くほど性急なものとなった。遅延が少しでもあれば、処罰の対象となると恐れたのである。
斯くして信長の統治によって肥前の国情は大きく変わっていった。しかし、それは肥前に限った事ではなく、九州ひいては日ノ本の全域で例外なく加速していく事であった。
そして足利義輝が天下一統を成し遂げてからの慌ただしい三年間は、あっという間に過ぎ去っていったのである。
【続く】