第七章 天正三年 ー時代の移り変わりー
天正三年(一五七五)
征夷大将軍・足利義輝の天下一統から三年の月日が流れた。応仁の乱以後、麻の如く乱れた天下は義輝の登場によって急速に終息へと向かい、鎮撫の大遠征を以って世は再び足利の名の下に一つとなった。
もちろん天下が定まったとはいえ、争いが根絶された訳ではない。ここ数年で多くの大名が滅ぼされては消え、新たに国替えが行われたことによって混乱は生まれ、任地へと向かった守護と在地領主との軋轢は当たり前のように起こった。それに伴い大小の争いがあったものの戦国の世とは比べ物にならないくらい平和な時が多くなったのは、名もなき民草が感じていることだろう。
時代は確実に泰平の世へと向かっていたのだ。
この年、義輝は全国の武家に対して天正式目を発布した。鎌倉幕府第二代得宗・北条義時が定めた御成敗式目や義輝の祖先である初代・尊氏の定めた建武式目に則る新たな武家法であったが、その実情は過去と大きく異なった。
それが顕著に表れたのが、蘆名盛興の死去に対してである。
盛興は奥州会津地方を治める蘆名家の当主であった。父である止々斎の影に隠れがちだったが、盛興も知勇に優れて内憂外患を抱える家中を見事に治めていた。ところが盛興は大の酒好きで、飲み過ぎを懸念した止々斎が二度も領内での造酒を禁止する法令を出すほどの酒豪振りであったという。
その盛興が酒毒で死去したのは、天正式目が発布される前年の天正二年のこと。
盛興には継嗣はおらず、世継ぎを失った止々斎は以前に二階堂盛義から人質として預かっていた子の平四郎を跡継ぎに定め、盛隆と名乗らせて元服させて家督を継がせようとした。
盛隆の母は伊達晴宗の娘であり、伊達晴宗は蘆名十二代・盛高の外孫に当たる。確かに蘆名の血筋と言えなくはないが、堂々と家督を継げるほどの縁ではなかった。その為に盛隆の家督相続には蘆名家中から異論が続出し、止々斎が強権を以って事を進めようとしたが、数名の家臣が幕府へ直接に訴えを出した事で問題は大きくなった。
一、家督相続は嫡流、嫡男とすること。また幕府に届け出ること。
天正式目の発布前とはいえ、家督相続に明確な規定を草案として固めていた幕府は、この盛隆の家督相続に待ったをかけた。
「嫡流が跡を継ぐのならば良いが、他家から世継ぎを迎えるは御家騒動の源である。ましてや盛隆なる者は蘆名の血筋が薄いと聞く。そのような者に奥州で大領を任せる訳にはいかぬ」
幕府は盛隆の血の薄さを理由に、家臣側の言い分を是としたのである。
「名門・蘆名を継ぐに足る者が何れなのか吟味いたす故、速やかに系図を提出せよ」
そして幕府側が裁断した結果、家督に定められたのは蘆名一門の針生盛信であった。この針生氏は蘆名十四代・盛滋の直系であり、嫡流とも言える家柄であった。更には家中では他家との申し次役を任されており、幕府との折衝も盛信が担当、義輝も見知っている存在であったのは大きかった。
かつて盛滋は実弟・盛舜へ家督を譲ったが、隠居した後に子が出来た為に家中が割れることを懸念して盛舜の系統を優先させた。それ故に今の蘆名家があると言えるのだが、ここに来て他家から養子を迎えるのならば本来の血筋に回帰すべきではないかとなったのである。
「盛信が本流たる嫡流の出であるのなら、その血筋を元に戻すべきである」
これを義輝が認めた為に蘆名家中では盛信が家督簒奪を目論んで幕府を動かしたのではないかと噂が立った。奥羽では盛隆を推す隠居の止々斎と盛信の生母の後ろ盾となる伊達の存在があったが、その伊達家も幕府による奥羽征討後に当主・輝宗は幕府の意向に逆らうのを良しとせず、沈黙したままであったが故に、誰も幕府の裁定に異を唱えることが出来なかった。
斯くして家督は盛信に決まり、蘆名家の家督問題は一応の解決を迎えたが、蘆名の問題は家督が定まっただけではなかった。
「盛隆は二階堂へ差し戻し、相模国へ転封とする」
今まで蘆名の統制下にあった二階堂を物理的に引き離し、その土地を幕府が収公したのである。家中からは一部で抗議の声が上がりはしたが、家督相続で完膚なきまで自分の意見を否定された止々斎が幕府と敵対する行為を嫌い、家臣らを押し止めた。
そして盛隆も二階堂家へ戻り、幕命に従ったのである。
これが戦国の世であれば、一時的に幕命によって家督を継いだ側が有利になったとしても、相続に敗れた側は挙兵して泥沼の戦いに発展したはずであった。
かつての斯波家、畠山家、京極家なども、それで勢威を落とした。当然、将軍家もである。
ところが今回、蘆名止々斎は従順と幕命に従い、己の主張をすんなりと引っ込めたのである。その止々斎は天正九年に亡くなるまで幕府に従順な姿勢を貫いた。その甲斐もあって蘆名家は周囲の大名が改易や減封に処される中でも盛信の系統によって、奥州会津の雄として存続を続けたのであった。
この奥羽で百万石に近い蘆名家ですら、幕府の命令に口を挟めないという事実は戦国の世が終わり、新たな世が始まったことを告げていた。また幕府の強大さを天下に知らしめる機会となり、翌年に発布された天正式目の効力が以前とは比較にならないほど大きくなる事を物語っていた。
それ以外にも、この三年で全国で多くの変化があった。
まず幕府内では最高機関に定められた評定衆が天正元年に任期の四年を経過した為、新たに入れ替わった。
それまで筆頭職にあった三渕右京大夫藤英が退き、藤英は任国である備前国へ赴いて長らく放置せざるを得なかった仕置きを行っている。
他にも蜷川親長、上野清信、北条氏規も退任、半数の細川藤孝、一色藤長、朽木元綱、和田惟政が留任とされ、藤孝が筆頭職を兄から引き継いで義輝の天下を支えることになった。そして新たに土岐光秀、波多野秀治、吉川元資、柳沢元政の四名が加わったのである。
そして今年、二年ごとに半数が入れ替わる仕組みの評定衆は先に留任された四名が退任となると、諸大名の中から蒲生賢秀、三好義継、島津家久、そして上杉謙信が任じられたのである。一度、義輝の命すら狙った義継が選ばれたことに、諸将は大きく驚いた。
また長く幕府を支えてきた謙信がいよいよ中央の関わる時がやってきた。
上杉家は博多仕置きの際に武蔵国で八郡、下野国の一部を加増されたが、天正二年(一五七四)に領内の仕置きを終えると隠居を決意し、義輝へ相談の上で長尾景勝が上杉の養子に入って謙信の跡目を継ぐことに決まった。
ここに上杉と長尾が再び合一されたのである。
ただ義輝は隠居を許さず、また謙信も上洛して義輝へ直接へ仕えることを望んだために上洛、謙信には在京料として元々畠山義続に与えられていた山城国内一万石が宛がられた。
「上様へ直に御仕えできる喜びに勝るものない」
として上洛した謙信は膨大な家臣団と国人たちとの軋轢、諸事全般から解放されて、夢にまで見た義輝に仕える日々を送って常に上機嫌であった。官位も天正元年に従三位・参議から上洛後に権中納言まで昇り、義輝も謙信が傍近くに侍ることを喜んでは日頃から謙信の邸へ足を運ぶ“御成り”も頻繁に行われた。両者の親密ぶりは他の嫉妬を生むほどであったというが、ここで大きな議題となったのは、評定衆筆頭に誰を任じるかであった。
「やはり上杉殿を置いて他におるまい」
義輝との蜜月もあり、幕臣たちは揃って謙信を推す声が多かった。それは義輝が謙信の筆頭職就任を望んでいるからだと思えばこそである。
「されど上杉殿は大身、かつての管領のように大きな力を持たないであろうか」
ただ少なからず懸念の声を口にする者はおり、謙信の筆頭職就任を拒まんとする勢力は存在した。天下一統を果たしてより僅か三年余り、幕府内には既に政争が始まっていた。
「上杉殿は以前に自ら関東管領を辞すと申された御方、筆頭職に就任したところで権力を私物化することはあるまい」
「それに筆頭職は管領ほど大きな力を有してはおらぬ。それよりは上様の御意向に重きを置くべきであろう」
次第に謙信を推す声は大きくなり、もはや決定的かと思われた時である。
「評定衆筆頭は、土岐宰相とする」
誰もが謙信を選ぶと思っていた義輝が、光秀を筆頭職に任じたのである。
光秀は永禄の変での義輝の救出から始まる天下一統にどれ程、尽力してきたかは計り知れない。義輝の居城である伏見築城を成し遂げて三河・遠江二カ国を治める大名で、官位も従四位下・参議にまで昇っている。また評定衆を務めて三年目であり、幕政にも精通している。光秀を推す理由はいくつもある。当人も幕府に仕えたばかりの頃はやっかみも持たれていたが、その人柄と功績から今では将軍家の重臣と誰もが認めている。
「上様に言上仕る。天下一統を果たしたとはいえ、未だ泰平の世とは言い難し、まずは幕府の軍法を定めて然るべきでございます」
当然、謙信も義輝に異を唱えることはなく、己が上洛の目的としていた軍制改革を評定衆就任と共に上奏したのだ。
「上杉殿の申されることいちいち御尤もにございます。今や幕府は支配地の大半で検地を推し進めております。諸大名からも検地の提出が相次いでおります故、ここは明確に石高に見合った軍役を定めるべきでございましょう」
「うむ。ならば権中納言が主となり、纏めてみせよ。土岐宰相は筆頭職として監督し、余の報せよ」
かくして幕府の軍制改革が実施させることになり、謙信は連日に亘って光秀と語り軍役を如何にするか話し合った。
「これまでは諸大名に任せていた軍役を明確に定める必要があるが、土岐殿は如何に思われる」
「まずは石高に応じて兵何人、鉄砲何挺と賦課の基準を定めるべきでござろう。それ以外にも各大名家で違っている軍法を統一し、いざ戦となった時に混乱が生じず、また論功を公正明大に行えるようにしべきである」
「うむ。それに加えて儂は、南蛮と戦うことを想定して大筒を増やし、水軍を整える必要があるとも考えておる」
「……南蛮への懸念は上様も感じているところ、早急に草案を固めましょうぞ」
謙信は大名として、また光秀も根っから軍法に明るく、二人の話は深夜まで及ぶことも珍しくはなかった。よって草案が固まるまでは然程に時間もかからず、陣地での決まりや罰則、兵糧の帰順と石高による軍役が定められる。
その上で光秀は、草案を提出する際に筆頭職として自らの想いを口上で伝えた。
「件の如く軍役、軍法を定めおきはしましたが、戦を経験してきた者からすれば、今さら言われる程のものではない事でありましょう。されど泰平の世に於いては初陣を飾らぬ者、戦を経験せぬ者は増えていくことかと存じます。この軍法をよく心に思い巡らせて忠義の範とすべしであり、大名、旗本、御家人に至るまで主君から莫大な軍勢を預けられているのならば、軍律を正さなければ国家の殻つぶしであり、公務を掠め取るに等しく、皆に嘲られて苦労を重ねるでありましょう。群を抜き粉骨砕身し忠節を励むことで、速やかに主君の耳に届きますれば、主君は報いて下さる。これ即ち武門の道かと心得まする」
「見事ぞ!余も今一度、武門とは何たるか、忠義とは如何なるものかを天下に示さねばならぬと思うておったところだ。天正式目では足りぬ、この軍法が武士道を補完し、その道を示すであろう」
義輝は光秀の想いに感じ入り、幕府の軍役はこの草案を基に定められることになった。加えて大筒や鉄砲の増産を泉州の堺、紀州の根来、江州の国友に依頼して幕府に納めさせることを決め、話題は水軍の事へ移った。
「幕府として各地の水軍を纏めたく存じます」
これについては謙信が主に案を出している。それには各地の水軍は幕府の直轄もしくは諸大名に属することとして他の大名家と同様に扱うこと、今後は一切の通行や護衛の税である警固料を無断で得ることを禁じて海賊行為を停止させること、無断で朝鮮や明と交易を行わない事の三点である。
これまで幕府も都度、水軍を束ねる者たちを傘下に加えていったが、陸地を治める大名と違って特に九州は島々が多く、完全に把握、統制をし切れていない状態が続いていた。天下一統から三年が経ち、ようやく彼らへ圧力を加えられるようになったのである。
「うむ。朝鮮は交易再開を巡って倭寇の討伐を求めて来ておる故、取り締まりは厳しく致せ」
と裁断を下した。
もちろん細部で詰めなければいけない事柄は多分に残されていたが、大枠が決まったことで幕府の軍制は新たな局面に移った。
「上様、出来ますれば御人払いの上で、少々お耳に入れておきたいことがございます」
途端、光秀が義輝に対して、謙信すらも外した上で相談があると言った。
「何事ぞ」
急に改まる光秀を義輝は怪訝そうに見つめた。
「上杉殿の事にございます。某は連日、上杉殿と軍役、軍法を纏めんと夜が明けるまで語り合う事は珍しくありませんでした。その際、上杉殿は必ずと言ってよい程に酒を飲まれるのですが、飲まれる量が尋常ではございませぬ。あれでは早死に致します」
謙信は過去に卒中で倒れ、その後遺症が少なからず残っている。とはいえ基本的には健康であり、日常で何か困ることがある訳ではなく、上洛してからも日夜、登城して忠勤に励んでおり、評定衆の一人として日々を過ごしている。
しかし、元来から謙信は大酒飲みである。そして人並外れて酒に強い。
義輝に仕える喜びから、毎夜に飲む酒の量が増えていっていた。御成りで上杉邸を訪れていた義輝も、謙信が異常な程に酒を飲むところは目撃しており、光秀の話を重く受け止めた。
「某から何度か控えるように伝えたのですが、昔から酒には強いからと申して一向に聞き入れて頂けませぬ。上様から一言、酒を断つように伝えては貰えませぬか」
「その事は余も懸念しておったこと、いま権中納言に倒れられては天下にとって大いなる損失である。余から権中納言へきつく申し伝えよう」
として義輝は近く上杉邸を訪れて、謙信へ禁酒を告げた。
「権中納言は幕府の重鎮である。志半ばで倒れることは許さぬと思え」
更には上杉家中の者にも“邸内に酒を置くことを禁じる。余が参った際も酒は無用じゃ”として厳命した。しかし、大酒飲みがいきなり酒を止められるはずもなく、謙信は邸内での禁酒を守りはしていたが、少し出かけた際には飲んで帰って来ることはあった。
無論、それは何れ義輝の耳にも入る。
「厩橋弾正に遣いを送り、権中納言に諫言できる老臣を送らせよ。あやつが酒を飲まぬよう見張れる者がいる」
呆れた顔をして義輝は、今や上杉と姓を変えて厩橋に本拠を移した上杉弾正少弼景勝に遣いを出し、謙信へ諫言できる老臣を送るように命じた。景勝は当初、本庄実乃を送ろうとしたが、実乃は帰国後に戦がなくなったことで疲れが出たのか、一気に老け込んでしまっていた。
「そういうことであれば、老骨に鞭を打って大殿の許へ馳せ参じましょう」
それでも実乃は己が役目として上洛する気でいたのだが、子の秀綱より後日、改めて辞退の申し出があった。
「恐らく父の身体は上洛には堪えられないかと存じます。御家の迷惑になることは父も本意ではありますまい。此度は辞退させて頂きければと存じます」
急に白紙となり、人選のやり直しとなった。事実、実乃はかなり身体が弱っており、今年の内に死去することになる。
「大殿に諫言できる者となれば限られよう。ここは大和守しかおるまい」
そこで直江大和守景綱に白羽の矢が立った。
景綱は謙信より景勝付きの家老として選ばれ、景勝が長尾家を継いだ頃より春日山に詰めて腹心となり、御家の舵取りを担っていた。今も必要不可欠な存在であるものの、景勝は叔父・謙信に重きを置いて決断した。実乃と同じく景綱も高齢であったものの、こちらも謙信の為ならと奮起し、上洛を快諾してくれた。
「拙者がやってきたからには、必ずや大殿に酒を断たせて御覧に入れます」
景綱の上洛を義輝は手放しで喜んだ。景綱は長く幕府との取次を任されており、義輝も信頼する陪臣であるからだ。
「大和守ならば安心して任せられる。権中納言は幕府になくてはならぬ故、頼むぞ」
「御意、御任せ下さいませ」
こうして景綱は再び謙信へ仕えることになった。
「儂が来たからには一滴の酒すら大殿には飲ませぬ。改めて邸に酒の類いを置くことを禁じる故、今あるものは全て売り払え」
として景綱は厳しく取り締まった。小姓の中には謙信に命じられて酒を戸棚の奥に隠している者もいたが、景綱によって詮議に詮議を重ねられて次々と白状させられていった。
これ以後、謙信は宴の場ですら一人だけ白湯を用意されて酒を飲めなくなったという。後年、天正式目に酒の飲み過ぎを厳禁とする決まりが追加されたのは、上杉謙信が原因であると逸話として後の時代まで語られるようになったという。
このような話が生まれることこそ、泰平の時代が訪れた証であった。
【続く】
新年明けてから投稿も出来ず、申し訳ございません。
今回からは天下一統後のエピローグ的な話となってきます。触れられていない東国や西国地域に関しては次回以降に描写を入れ、準レギュラーとして描いてきた光秀、謙信、信長の三人、そして主役の義輝を大きく取り上げて拙作は完結する予定でございます。
外伝を描くのはその後となりますが、完結後にすぐ描くのか、暫く経ってからたまに描くのかは決めていません。一応、次回作は書こうと思っているのですが、処女作の反省を踏まえて更新頻度を高められるような書き方(例えば一人称で書き続けるや、多少のご都合主義を取り入れてライトに書くなど)にしたいと思っています。
今後ともお付き合い願えれば幸いです。