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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
最終章 ~天下泰平~
191/201

第六章 天下一統 ー正統なる天下ー  

昨日更新の為、二日連続の投稿です。前話を見ていない方は、前話から御願いします。

元亀四年(一五七三)七月二十一日。

京・二条城


 この日、将軍・足利義輝は参内して正式に改元の奏請を行った。


 奥羽を攻める上杉謙信から津軽の制圧を残すのみと報せが届いた義輝は、本来であれば制圧完了を待ってから奏請を行う予定だった。ところが逸る気持ちを押さえられず、奏請から改元実行まで少なからず時間を要することから、報せを待たずに奏請を行ったのである。


(余とあろうものが、逸る気持ちを押さえられないとはな……)


 参内を終えて二条城へ戻った義輝は、己の起こした行動を振り返り、思わず苦笑した。


(……天正か。その言葉を聞けば、湧き上がる気持ちを押さえられるはずもあるまい)


 九州から帰国してより改元を求めていた義輝の許には、既にいくつもの元号案が届いていた。そこには貞正、安永、天正、延禄、文禄、明暦、永安、寛永と八つの候補があった。この中で義輝が最も心を惹かれたのが、天正である。実は前回の元亀改元の頃から候補に挙がっていたものの、義昭は天正を選ばなかった為に今回の候補にも入っていた。


 帰京して暫く経った頃、義輝は年号勘者として天正を候補に挙げた高辻権中納言長雅を召し出し、その由来を訊ねた。


「この天正の由来は如何なるものか」

「老子の洪徳第四十五に“清静なるは天下の正と為る”とございます。心清く静かにしていれば、天下の模範となるという意味で、まさに今の左府様に相応しき言葉かと存じ、候補に上げさせて頂きました」

「うむ、気に入った。此度の改元は正しき天下、正統なる天下が定まったことを示すものでもある。となれば、この天正以外に相応しき元号はあるまい。余の治世を表すに相応しき名だ」

 

 満足そうに義輝は頷きを繰り返すと、いつ改元の奏請を行ってもよいように支度を整える旨を伝えて長雅を下がらせた。


 そして改元が奏請され、ついに七月二十八日に元号は元亀から天正に改元された。


 義輝は改元が発布されたことを二条城で報せられた。表向き改元は戦乱などの災異の為とされていたが、義輝の意向が強く反映されていることは、誰の目にも明らかであった。


 その十五日後である。謙信より報せが早馬が到着し、津軽の制圧が完了して奥羽平定が終わったことが告げられた。津軽平定、つまり天下一統が成し遂げられた日は、奇しくも改元が発布された日と同じ七月二十八日となったのである。


(長かった……、ようやく乱世を終わらせられた)


 報せを聞いた義輝は感慨深く、何度も謙信からの書状を読み返した。


「与一郎、久しぶりに太刀稽古に付き合わぬか」


 ずっと政務ばかりで肩が凝り、身体を動かしたい気分となった義輝は、同門の細川藤孝を太刀稽古に誘った。


「されど、まだ上様の御裁可を得らなければならない儀がいくつも残っておりますれば……」

「今日くらい良いではないか。我らの悲願が成ったのだ。固いことを申すな」

「そうですな。まさか、本当に一統が成る日が訪れるなど、夢の様にござる」

「夢ではない。そう夢ではないのだ」


 そして二人の打ち合いは、日が暮れるまで続いた。


「どうした与一郎、少し鈍ったのではないか?」

「上様こそ、先ほどの一撃は少々踏み込みが甘うございましたぞ」


 義輝が鋭く袈裟斬りを仕掛ければ、藤孝は巧みにいなしては反撃に移る。それが何度も続いた。


「ふふふ、ほれ見たことか。与一郎、そろそろ息が上がっておるぞ」

「ははは、何のこれしき!これでも上様より戦場に出ておるのです。ここからが本番!」


 二人は元服まもない頃に近江坂本で朝から晩まで稽古に明け暮れた時のように、互いに軽口を叩き合った。だが、あの頃と明確に違うところがある。


 征夷大将軍を受け継いで以降、義輝は剣術の腕を磨いた。子供ながらに分かりやすい武門の棟梁の姿を求めたからだ。それでも宿老たちばかりの中で義輝が決意が揺らがなかったのは、共に切磋琢磨してくれた藤孝の存在が大きいかった。


 藤孝は義輝と共に強くなった。強くなってくれたからこそ、義輝も強くなれた。そして強さを手に入れた義輝は永禄の変を生き延び、天下一統を実現した。


 あの頃は幕府再興を実現するという野心を滾らせ、恐らく自分は相当にギラついた目をしていたと思う。しかし、今は違う。心は清らかで、穏やかだ。純粋な気持ちで刀を振れる。


(心清く静かにしていれば、天下の模範となる……か。斯様に穏やかな心で政が出来れば、きっと麒麟は訪れよう)


 思う存分に身体を動かして汗をかき、飯を食らう。至るところに擦り傷はあるが、痛みなど感じなかった。これほど爽快な一日は、いつ以来だろうか。恐らく、一度もなかったかに思う。


「明日、父に天下一統を報告する。与一郎も着いて参れ」

「承知仕りました。大御所様も手を叩いて御喜びになりましょう」

「うむ。前から父上に申し上げたかったことがあったのだ。父が世に生まれた事は、確かに意味がありましたぞ、とな」

「思えば大御所様が将軍職を阿波公方家に渡さず、守り通したからこその今があるのですな」

「然様だ。その答えを父上は知る前に、無念の内に亡くなられた。故に報せねばならぬ」


 そして義輝は相国寺に詣でて、父・義晴を始めとする歴代の将軍に天下一統を報告した。


 ここで義輝が何を思い、何を語ったかは記録に残されてはいない。義輝の姿勢は歴代の将軍を模範するものは少なく、本人の口からも尊敬の念は余り感じられなかった。ただ父に対してだけは、しっかりと愛情を持っていた事は確かだ。


 それが判るのは十年後の天正十年(一五八二)のことである。


 義輝は義晴の三十三回忌を相国寺で大々的に執り行ったのである。通常は七回忌を過ぎれば法要の規模は小さくするのが通例である。それが例え将軍経験者であっても例には漏れず、三十三回忌を大規模に催すことは異例の出来事だ。


 それでも義輝は強行した。周りに反対まではいかずとも難色を示す者も少なくはなかったが、義輝としては天下一統を実現した者として自分の名の影に義晴の業績が隠れてしまうことを嫌ったのかもしれない。


 この三十三回法要を経て、義晴は追贈正一位を賜ることが決まった。義晴は死後に贈従一位となっていることから、追贈は異例である。これは義輝が如何に義晴を歴代の将軍と違って特別視しているかが判る逸話として語り継がれることとなった。


 さて義輝が天下一統の報知を受けた約一月後の九月十三日、織田信長より数日後には岐阜へ帰国する旨を報せてきた。そこには土岐光秀を岐阜に派遣して欲しいとの要望が含まれており、突然の申し出に義輝も怪訝な顔つきで、信長の真意を諮りかねた。


 どちらにしろ義輝への報告もあり、信長は近く上洛する予定である。九州で義輝が諸大名を引き連れたように、いま信長も岐阜へ上杉や武田を始め、関東や奥羽の諸大名を引き連れて来ているという。それらが入洛する前の調整かと思うが、それであれば光秀を指名する必要はない。


「大納言の考えは常人では窺い知れぬ。されど黒田がおれば、伏見の普請は問題あるまい」

「承知いたしました。ともかく行って参ります」


 と言って光秀は岐阜に赴いたが、既に信長は帰国していて軍勢を解散させており、関東と奥羽の諸大名も各自が多くても数百を引き連れて来ているに過ぎず、岐阜には一万を少し超える程度の軍勢しかいなかった。とはいえ大名衆の数だけでも三十以上を数え、西国に注力していた光秀としては挨拶するだけで一苦労だ。


「これは明智殿か……、いや今は土岐殿か!久しいのう!」


 ただ光秀も上杉謙信との再会は胸を躍らされた。


 天下一統の最後の詰めを担い、見事に達成させた謙信の表情は憑き物が落ちたかのように豊かで、血色も良い。病の所為で身体の芯こそ以前より細くなって心配したが、具合は良さそうで安心した。

  

「御無沙汰しておりまする。左中将様のは此度の関東、奥羽の平定おめでとうございます。上様も左中将様の御活躍を殊の外お喜びで、今か今かと上洛を待っておるところにございます」

「それは面目ない!上様にご報告するべく上洛を急がねばならぬのは判っていたが、織田殿の思い付きが面白くてな。その相談にこちらまで来てもらったという訳よ」


 謙信の様子は、まるで心を躍らせる少年のようだった。まるで岐阜が自分の城の如く光秀を手招きして案内すると、信長はビロードのマントを羽織った洋装姿で光秀を出迎えた。


「左少将殿、遅かったではないか」

「これは織田様……、その姿は一体?」

「南蛮人の恰好じゃ。上洛する折に身に付けようと思うてな」


 とあどけなく笑って見せる信長であったが、光秀には信長がそのようなことを冗談で言うとは思っていない。口に出す以上、本気で身に着けて上洛するはずだ。


「それは此度、手前を呼んだ事と関係があるのでしょうや?」

「大いにある。そなたにもこれを着て随行して貰いたくてな、呼んだのだ」

「は……はい?それはいったいどういう……」


 急な展開に光秀の思考が追い付かない。信長はいつも自分の予測の範疇を超えてくるし、その言葉からも何を考えているか分からなくなる。恐らく突拍子もないことを考えているのは間違いないだろうし、それは明確に意味のあるものであるのだろう。しかし、先が読めない。


「織田殿、土岐殿をからかうのはそこまでになされ」


 助け舟を出したのは、合戦以外では常識人の謙信であった。


「我々は上洛の際、馬揃えを催したいと考えておる。それは我ら東国武者だけでなく、その武者たちを上様が率いるという形で行いたいのだ」

「馬揃え……」


 馬揃えとは、騎馬武者を行進させて美しさや優劣を競うものであり、その威容を喧伝する催し物である。源義経が駿河国浮島原で行ったとされる馬揃えが有名であるが、それを信長は都で行おうというのである。


「東国、特に奥羽は名馬の産地である。馬揃えを大々的に行い、それを駆る東国の大名どもを上様が率いれば、天下一統が現実のものであることを都の者たちは、嫌でも知るはずだ」

「それは確かに……」

「そこで、京に近いそなたの坂本まで上様にお越し頂きたいのだ。そこで上様に率いられた我らが上洛し、馬揃えを行う。天下一統を祝う馬揃えとなる。間に合うなら日取り定め、帝の叡覧も賜りたいところだ」

「み…帝に!?」


 いきなりなんてことを言うのだ、と光秀は内心で思った。


 信長の言わんとすることは判る。その狙いも正しく、主君も首を縦に振るだろう。急場だが、武者たちは騎馬に乗り慣れており、数こそ多くなければ実行は可能だろう。だが帝を招待するとなると話は変わって来る。都合を付けなければいかないところは数多く、今からでは間に合うとは到底、思えない。

 

 実際、光秀が慌てて帰京して義輝へ報告したところ、開催自体には即座に許されたが、帝の叡覧は現実的に間に合わぬとして断念となった。


「されど面白きことを考える男よ。よし、左少将はすぐに坂本へ戻り、段取りを整えよ。余も近い内に坂本へ参る。但し、余が坂本へ下ることは内密にせよ。その方が面白かろう」


 と義輝は悪戯っぽく笑い、頬を緩ませた。


 そして密かに京を抜け出して九月二十八日に義輝は、坂本に集まった東国大名たちを引き連れて上洛した。京にいると思った義輝が、いきなり外から現れたのだから、誰もが驚いた。


「おおッ!あれが武田の騎馬隊か!強そうじゃ!」


 進む騎馬武者たちに熱狂した都の人々は、即座に群衆となって見物に集まった。


 一番手は甲斐武田の当主・武田甲斐守義信が務め、騎馬軍団の呼び声の高い甲州の駿馬を都の民衆に見せつけると、信濃衆が続いたが、柴田勝家などの織田勢が過半を占めた事でかつての木曽義仲を思い起こすような荒々しさはなく、整然と行進を続けた。次に越前国主の浅井長政、加賀の朽木元綱、能登の畠山義続に越中の蒲生賢秀・賦秀親子ら北陸衆、急遽の参加となった土岐光秀の近江坂本衆、さらに徳川家康の三河衆、その後に上杉謙信が長尾景勝、最上義光に蘆名止々斎、伊達輝宗、大宝寺や小野寺、安東、南部など他の奥羽諸大名を率い、これに伊勢氏規や佐竹義重、里見義尭など関東勢が続いた。


 そして織田信長は驚くべきことに蝦夷地代官職を担う蠣崎季広の子・慶広を伴って馬揃えに参加したのだ。蠣崎は安東配下に属しているが、信長はこれを無視した形で馬揃えへの参加を許した。蝦夷という未開の地を安東という家に任せるつもりは毛頭なかったのである。

 

 また慶広も安東よりの独立を画策していたことから信長の思惑に乗る形で参加、直接に義輝に会って所領安堵を勝ち取る為に上洛した。後に所領を安堵された慶広は家督を相続し、蠣崎は幕府へ直接に仕えることとなった。


 行進の最後を飾ったのは、もちろん将軍・足利義輝である。


 義輝が率いるのは、柳生宗厳ら奉公衆の中でも屈強な実力者たちばかりである。それらが奥羽、関東の諸大名から幕府へ贈られた名馬たちを駆り、力強く悠々と行進していく。これを群衆は歓喜して行進を見物し、強く天下安泰を実感したことだろう。


 そして馬揃えを聞きつけた帝から勅使が下される。


「帝は群衆の歓声を内裏にて聞きつけ、是非ともこの面白き遊興を御覧になりたいとの仰せにございます」


 急な催しで間に合わなかったものの、強行したのが功を奏したのか、帝から馬揃えを再度開催して、次は見物したいと言ってきたのである。


「無論、帝の叡覧を賜れる名誉を断れる訳がございませぬ。急ぎ支度を整えましょう。次は西国の武者どもも加え、天下の諸侯を帝に御覧いただきましょう」


 と義輝は返答した。


 翌月の十二日に二回目が実施されることとなり、上京内裏の東の北から南八町に馬場を設けて周囲に柵を結いまわし、また禁中東門築地の外に仮殿でありながらも金銀を散りばめた行宮を建てさせて席を作った。


 二回目の馬揃えには、細川藤孝など幕臣たちに加えて吉川元資や毛利元清、島津家久など都に残っている西国諸将に波多野秀治や和田惟政、安宅信康など近隣の大名も可能な限り参加して挙行された。


 今回も最後を義輝が進み、馬揃えが終わると馬首を返して太刀を高らかに掲げた。金色の太陽が、眩く義輝を照らす。


 そして帝や公家、諸大名、群衆ら全てに対して大音声で宣言する。


「ここに余は、乱れた秩序を回復して正統なる天下が定まったことを宣言する。天下万民よ、天下一統は成った!余と共に泰平の世を謳歌しようぞ!」


 沸き起こる歓声は、天を貫かんとする如く、今日一番のものとなった。群衆の喝采の下、世は乱世から泰平の時代へと移っていったのである。


 後に戦国と呼ばれる混沌の世は、室町幕府十三代征夷大将軍・足利義輝の手によって終わりを告げた。そして新たな時代、後に近世と呼ばれる時代の幕が開けた。




【続く】

本日で丸十年となりました。皆さま御付き合いありがとうございます。


十年の節目のタイトルが天下一統となるのは、タイミング的にバッチリではないかと思います。まあ最初のペースを維持できていれば、とっくに完結できていたのですけどね。申し訳ないです。


十年もあれば、私個人の取り巻く環境も随分と変わりました。もちろん世の中も。最後は少しドラマ的な展開とさせて頂きましたが、そこは小説というジャンルなので、大目に見てください。元号も史実と変わらず、天正とさせて頂いています。この辺り実は、こっちの都合で変えると読者目線で時代の感覚にズレが生じる可能性があり、永禄から元亀、天正までの時代は史実とまったく変わっていません。(名称だけでなく、実は日付も)その上、個人的に天正という元号が好きだというのも理由の一つです。信長が天正を選んじゃうのも、分かる気がしますね。


また何度か言及させて頂いておりますが、元々からシナリオは出来上がっての執筆開始なので、元号変化に当てはまるよう逆算してシナリオは構築されています。それであれば、この時期にはこういう武将がいたな、とか皆さんも把握しやすいと思っての設定です。


さてようやくの天下一統となりました。これから諸大名の後日談を描いて、最後は義輝の生涯の結末で本作は完結となります。年内完結は難しいかもしれませんが、もう少しだけ御付き合いをお願いします。


この十年に感謝を!ありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
[一言] 10周年おめでとうございます。読み始めたのがいつか覚えてない程ですが、毎回楽しく読ませて頂いてます。お仕事や身の回りなどご多忙な中ですので、マイペースに完結まで完走頂ければ何よりです。
[気になる点] 最上と蘆名止々斎が混ざってます。
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