第五章 統一前夜 ー泰平への課題ー
元亀四年(一五七三)五月十日。
京・二条城
今年の三月初め、天下を騒がした松永久秀が六条河原で斬首された。久秀は将軍・足利義輝の発案により騒乱の首謀者として天下に広く流布されることとなり、禁裏に対してもそのように報せられた。武家の細かな内情を知らない公家たちは、知らされた久秀の悪行に恐れ慄いては宮中で噂話を繰り返し、その様子を日記に書き綴った。
久秀の首は三日三晩に亘って栗田口に晒され、乱世の梟雄の最期を一目見たさに京中の民衆が集まった程である。
将軍・足利義輝は久秀の始末を着けた後に九州から引き連れた諸大名を参内させ、帝に九州と関東平定の報告を行うと従一位・太政大臣へ昇進を内示された。手続き上で正式な昇進はもう暫く後となるが、従一位と太政大臣を兼ねえるのは過去にも三代・足利義満のみの栄誉であり、義満ですら太政大臣となったのは征夷大将軍を辞した後であることを考えれば、将軍職に在りながらも従一位・太政大臣を務めるのは歴史上で義輝が初となる。
それだけ義輝の力が歴代の将軍を凌駕したことを天下に示す出来事であった。
この参内で九州の諸大名にも正式な叙任が行われた。義輝によって権威を拍付けされた大名たちは己の栄進を喜びはしたが、これは同時に幕府権威の強化にも繋がった。
ところが諸大名の叙任は、同時に別の問題を生じさせることになった。武家伝奏・勧修寺晴豊が二条城へ遣わされ、その問題を口にする。
「此度は特例として諸大名の叙任に応じさせて頂きましたが、このままでは公家の官職が不足いたしまする。以後は何分と控えて頂きますよう御願い仕りまする」
晴豊は胃の辺りがキリキリと痛むかのような錯覚を抱きつつ、義輝へ伝える。
その晴豊の姿勢はもはや天下に無二の存在となった義輝に対し、禁裏と言えども遜って懇願するしかないことを物語っていた。
今回、九州の大名の叙任で多くの者が正式な官職に就くことになった。大名格の者は従五位や正五位に相当する官職が与えられ、その為に公家衆が就く官位が大量に不足したのだ。今まで多くの大名、武将たち僭称を常にしており、物理的に都と距離を置く大名にはそれが多かった。もちろん一部の大大名や名門と呼ばれる者たちが正式に官途状を賜り、叙任を受けてきたが、それは合戦の大義名分に必要となっての叙任であって数も少なく、禁裏も叙任の礼にと多額の金子を受け取っては困窮していた財政を一時的に潤し、互いの利益になっていた。
そして義輝が幕府を再興するに連れて禁裏の財政は少なからず好転した。義輝は幕府の長として己の権威を有していたが、三好長慶との対立期は険悪な関係に至ったものの、永禄の変以後は一度、将軍職を失ったこともあり、征夷大将軍の職を任命する権限を持つ禁裏に一定の配慮をしてきた。まだまだ豊かとはいえない禁裏であるが、乱世の真っただ中に比べれば非常に安定しており、大きな催事を執り行う時には幕府を頼れた。
幕府の版図が拡大するに伴い正式に叙任を受ける大名が増え、大大名で公卿に列する者も現れ始めると公家の官位に不足が見られ始める。つい先日まで表面化しなかった問題が、九州平定によって幕府に帰順した大名たちが一斉に叙任されたことによって、公家たちが不満の声を上げ始めたのである。
「今後、関東や奥羽の大名たちを叙任させるとすれば、いよいよ官職が足りなくなる」
多くの公家たちが、いま幕府が行っている東国平定の完遂を不安視するようになった。これまで武士は当たり前のように僭称してきたが、帝に直接に仕える公家がまさか僭称する訳にはいかず、また空いている官職があっても先例を重んじる以上は、通例を無視して空席の官職へ就く訳にもいかなかった。
「されど功ある大名たちを無位無官とする訳にはいくまい。国を治めているのは大名たちで、任国の統治にも官職は有用なものだ。ましてや禁裏ならば、その意味は重々に理解しておろう」
晴豊を帰し、京都所司代である摂津中務大輔晴門と諮る義輝は、己の意見をそっけなく答えた。
もちろん晴豊も理屈を理解していない訳ではない。武士という身分が曖昧だった平清盛の時代なら、それも良かったのかもしれない。事実、清盛も国司職に任じられて安芸や肥後、播磨や大宰府の統治を行っている。しかし、今や大半の官職が有名無実化しており、官職は公家が寡占状態にあり、その一部に武家が就いている程度だ。それが幕府の再興で崩れつつある。
だからといって義輝も公家の自己満足に付き合ってやる気はない。表向きの付き合いはともかく、内心では永禄の変や元亀擾乱から続く公家衆の身の代わりの早さを義輝は快く思っていないのだ。御台所が近衛家の出身であることから五摂家とは親しく付き合い、帝を敬っているものの、その他大勢の公家も同様といえば、そうではなかった。
戦国乱世では官職は幕府の役職と同様に戦の大義名分に利用されてきた。今川義元が三河統治の為に三河守を求めたことや、大内義隆が少弐氏を攻める為に大宰大弐に任じられたことからも、それは窺い知ることが出来る。
だからこそ余人に官職を利用される訳にはいかず、義輝も浅井長政の越前守や上野隆徳の備中守など同国を治める大名に国司職を奏上することが多かった。今回も薩摩を治める島津家に対しても正式に薩摩守へ任じさせている。また地方の大名は、以前より上方の武家より幕府を敬う姿勢を有しており、それは禁裏に対しても同様であった。古臭いと言われればそれまでかもしれないが、古臭いからこそ禁裏や幕府の権威を敬う心を持っていた。
その大名たちを統制するのに、官職は効果覿面だったのだ。それを身をもって知った義輝が、関東や奥羽の大名たちの叙任に制限をかける訳にはいかない。泰平を実現するには、官職は不可欠と考えている。
「されど公家衆に騒がれたら面倒ではあるな。ここは禁裏御料を整理し、相応の御料地を進献するとしよう。中務大輔、禁裏御料が今どうなっておるか調べて報せよ」
「はっ、承知しました」
として義輝は禁裏御料地の調査を晴門へ命じた。
義輝は帝や五摂家とは懇意に付き合っている。その帝へ所領を献上することで幕府の味方とし、末端の公家が騒ごうとも上が取り合わないように仕向けたのだ。その後、翌年に禁裏御料地は晴門の調査によって五千石に満たないことが判明、大半が横領によって失われており、実態は幕府や大名からの献金で生き永らえているといったところだ。それでも十一代将軍・足利義澄の時代、明応九年(一五〇〇)に崩御した後土御門天皇の遺体が四十日間も埋葬できなかった当時に比べれば、かなり改善している方ではある。
とはいえ財政難を理由に取り止めとなっている催事も多く、往時に比べれば禁裏財政は破綻していると言っても過言ではなかった。
調査の結果を知った義輝は、これまでの禁裏御料地を整理、改めて山城国山科一帯六千五百石を献進、後日に小栗栖・高野・岩倉・下三栖村一帯と合わせて一万石が禁裏御料地と正式に定められた。
これにより禁裏の財政は上向きを見せたが、同時に幕府に財政を完全に掌握されたことによって義輝の意向を余計に無視できなくなった。五摂家も近衛、一条と幕府寄りの家が高禄によって家礼を従えており、表立って幕府に意見を言える者は少ないのが現状だ。
この件は禁裏御料地が定められたことによって、一時は成りを潜めるも官職が不足している問題は依然として残り、解決に至らなかった。その生涯で公家への嫌悪感を拭い去れなかった義輝は終始、存命中にその姿勢を崩さなかったことから、この問題は義輝の死後に解決に至ることになる。十五代将軍の時代に武家の官位は、公家のものとは別であると禁中諸法度として定められたのだ。官途奉行の職務を京都所司代が担い、評定衆麾下の組織として将軍の奏上を請け負うこととなり、この際に奏上する官位によって献金する額が変わり、禁裏の貴重な収入減の一部として残ることになったのである。
さて久秀の死から二ヶ月が経過した京では、九州の大名たちも帰国して軍役も解かれ、ようやく平静を取り戻しつつあった。伏見での普請も大規模に続けられており、都の復興も完全ではないことから人夫たちは多く、都は泰平を謳歌するかのように躍動的で、活気に満ち溢れていた。
その中で義輝は、泰平の世を長く実現する為に法整備に追われていた。
決めなければならないことは、山ほどある。武家、公家、寺社をまとめる法はさることながら、貨幣のことなど問題は山積しており、一つずつ手を付けていくしかない状況だ。
「天下一統を目前に控えた今、まずは諸大名より改めて誓詞を差し出させるのが宜しいかと存じます」
「いま一度、余への忠誠を誓わせるか」
その手始めとして、細川藤孝が私案を提示する。
「まず鎌倉以来の法令を改めて遵守すること。互いに争うことを禁じ、幕府の命令に従うこと。幕府の命に背いた者を匿わないこと。大名同士が誓詞を交わさぬこと。不義の申し立ては双方を召し出して糾明すること、の五カ条を誓わせましょう」
初代・足利尊氏が建武式目にて北条泰時の定めた御成敗式目を遵守する立場を表明した以上、その系譜を継ぐ義輝も否定を口にすることは出来ない。とはいえ建武式目は質素倹約に努めることや荒々しい振る舞いをしなこと、貧しき者に慈悲を持つこと、守護は政務の長けた者から選び、怠けたり賄賂を受け取ることを禁止すること、礼節を重んじることなど基本的な事柄が多く、特に否定するものはないのは事実だった。問題は、それが守られなかったことであり、守らせるだけの力が幕府になかったことである。
そして戦国乱世の時代に成り上がった者たちと足利将軍は、正式な主従関係にあるとは言い難いので、改めて誓詞によって明確化させるというのが藤孝の考えである。ここで思い切った手を打っているのが、大名同士の誓詞禁止というものだ。
戦国乱世に於いて、諸大名は盟約は不可欠であった。
主だったところでは甲相駿の三國同盟や織田信長と徳川家康の清州同盟などがある。乱世を生き残る為に離合集散を繰り返した彼らだったが、大名同士が同盟を組むことは幕府にとって脅威でしかない。諸大名は幕府にさえ忠誠を誓っていればよく、藤孝は天下一統を契機に織田と徳川、浅井の同盟を事実上で解消しようと画策したのだ。
「天下泰平の実現には、諸大名の統制が不可欠です。誓詞を出させた後に法度を定め、諸大名に守らせましょう」
と藤孝は語気を強めて言う。これは形骸化されていた幕府時代を経験した藤孝だからこそ、その言葉に熱が入っていた。
この誓詞が諸大名から差し出された後、義輝の考えも含まれて三年後に諸大名へ発布された式目で定められたのは、上記の五カ条に加えて次の通りである。
一、文武弓馬の道を疎かにせず、特に剣術は武門として励むこと。
一、隣国で不穏あれば、直ちに幕府へ報せること。
一、家督相続は嫡流、嫡男とすること。また幕府に届け出ること。
一、如何なる理由があっても謀反は認めないこと。
一、大名が婚姻を結ぶ場合は幕府の許可を得ること。
一、大名は妻子を京に住まわせること。
一、大名は一定の周期にて帰国し、任国の統治に疎かにしてはならない。
一、大名が下の身分のものに一部の宗門を押し付けてはならないこと。
一、城を修理するときは届け出ること、新築は禁止すること。
一、輿に乗ることは幕府の許可を必要とすること。
ここには戦国乱世に於いて、足利将軍家が悩まされた事柄に対する方策が多く含まれている。
特に義輝らしいのが、剣術に励むことという項目だ。永禄の変で九死に一生を得た義輝は、剣術に励むことで武士は活路を見出せると信じており、武門に剣術を奨励した。後に将軍の代替わりには将軍職就任を祝う御前試合が伏見で開催されることとなり、剣術は天下に広く流派が生まれるきっかけにもなり、刀匠も栄えた。
また嫡子相続を定めることで将軍家ならびに大名家などに於ける御家騒動を抑制する。これは将軍家だけでなく、足利将軍が自らに都合の良い者に家督を認めてきた前例を制限するものである。かつて斯波や畠山、大内などの家督問題に介入し、その正当性に公正明大さを求めるのではなく、自己の都合としてきたことが、乱世を引き起こす一因となっている。
また義輝以前の守護は在京を常としていた。これにより守護代など国許で力を蓄えて下剋上を生んだ実情を重く捉え、守護には定期的に帰国することを盛り込んだ。ただ守護の謀反を防ぐため、妻子は幕府の御膝元に置くこととしたのだった。更には先に起こった大村一揆や一向一揆を鑑みて、改宗を強制されることを防ぐ。
解決しなければならない課題は、まだある。
「幕府では撰銭令を布告しておりますが、明や朝鮮との交易にも限度があり、永楽銭の輸入も途絶えております。検地が進み、米による取り引きが能うとはいえ、万全ではございませぬ。一度、飢饉が起これば立ちどころに米価は跳ね上がり、貨幣が不足いたします」
「それならば関所の廃止を急がねばならぬ。上方はともかくとして東国、西国と関所は依然として多く、今のまま関銭を取られていては値は上がっても下がりはするまい」
「なら水軍らの警固料も同様でしょう。九州の三渕右京大夫殿からは、倭寇の討伐に乗り出す許可を頂きたいと書状が参っております。倭寇のみならず、国内の海賊どもを一掃し、海路を整えましょう」
「大幅な国替えは各国の石高を把握する好機でございます。直ちに検地を九州でも実施し、奥羽の平定が終わり次第、そちらでも検地を進めましょう」
「その為にも一揆を未然に防ぐ必要がございます。諸国で刀狩を行い、幕府に歯向かう力を削がねばなりますまい」
「それを申すなら耶蘇教とて取り締まらねばならぬ。九州での一揆はまさに一向宗が如きものであった。今のまま放置という訳にはいくまい」
各方面から次々と異見が上げられていった。
これまでは一国または数カ国と徐々に版図が広がるもしくは、諸大名が恭順してきたのを受け入れてきた為に、大幅に仕組みを整えるようなことは出来なかったが、天下一統ともなれば話は変わってくる。天下を差配する幕府、将軍として諸大名に強く号令出来るのだ。しかも今回は九州、関東、奥羽と今の版図が倍に増えたにも等しく、やるべきことが山積していた。
これらの中でいち早く進んだのが、関所や警固料の廃止、新貨幣の導入である。
この翌年に九州や四国で干ばつが起こり、翌々年にかけて米価が数倍に跳ね上がったからである。特に東西への大遠征によって幕府も諸大名も兵糧を蔵から放出し、今年の収穫分を大きく宛てにして買い占めを行ったことも、米価上昇を牽引した。
特に九州では幕府の支配が始まったばかりであることから一揆が散発、大村と天草の討伐によって大規模化することだけは避けられたが、概ね幕府の支配が浸透するまで時間を要することになってしまった。とはいえ九州にとって幕府が東国を支配したことは、飢饉を救済するのに大いに役立ち、肥沃な関東平野で獲れる米を義輝は上意を発して九州や四国へ移送し、僅か二年で米価を基の価格まで戻すことに成功したのである。これを機に前もって多くの関所が廃されたのは、語るまでもないだろう。
この時、諸大名や民草は統一政権の有難みを初めて身に染みて実感することになった。
天下泰平への道のりは、今まさに始まったばかりなのだ。そして、天下一統の日がようやくに訪れる。
元亀四年七月、奥羽平定に赴いていた上杉謙信より、奥羽のほぼ全域を平定し、これから残る津軽地方の制圧に乗り出すとの報せが届いた。攻める幕府軍は凡そ十万、対する大浦勢は僅か数千と一万にも満たないという。それであれば、数日で決着がつくものと義輝は思う。自分が書状を受け取っている頃には、天下は一統されていても不思議ではない。
「今こそ改元を実行し、広く天下一統を宣言する!」
報せを受けた義輝はすぐに参内し、以前より進められていた改元の実行を求めたのである。
【続く】
更新が遅れて申し訳ありません。
さて今回は政治向けの話ばかりですので、詳しい方からはご批判もあるのではないかと思います。あくまで私の稚拙な歴史観も含めての話と割り切って頂けると有難いです。
私としては、結局は大きく歴史は変わることがないと思っています。鎌倉幕府の仕組みを室町幕府が引き継ぎ、その室町の一部を信長が、信長の施政を秀吉が継承し、江戸幕府に至っています。その江戸幕府には、関東を本拠としただけあって北条家の名残が見えます。今回の幕府も室町幕府と北条家の施政が合わさった内容であり、当時が抱えていた貨幣や寺社への問題に対しては、住まう人が大きく変わらない以上は大きな変化には至らないと考えているからです。
義輝らしさといえば、茶道ではなく、剣術が栄え、今後は史実以上の剣豪が誕生してくるという
ものでしょうか。それこそ宮本武蔵が霞むかもしれません笑
政治的な話を描く機会はまだ残っていますが、今回の様に後の世でどうなっていったかという話を少し入れながら描く最終章となります。
さて実は明日の2021年11月11日で拙作は十年を迎えます。まさか十年も完結できないとは恥ずかしい限りですが、長い間に亘って楽しみに待ってくれた方に、読み続けてくれた方に感謝を申し上げます。その記念として、明日も更新をさせて頂きます。
タイトルは「天下一統」、十年の節目に相応しい表題でお送りします。