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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
最終章 ~天下泰平~
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第三章 興亡盛衰 ー乱世の軌跡ー

二月十九日。

京・二条城


 九州平定を終えた将軍・足利義輝が帰京を果たしてより三日が経った。京では三万の軍勢が駐留していることに加えて、それらが九州での勝利を祝うようにして日夜、景気よく酒宴を繰り返していることもあって、洛中では百年もの乱世を経て訪れた泰平を祝うかのようなお祭り騒ぎが続いていた。


 そんな中、義輝は翌十八日には参内して九州と関東の平定を正親町帝へ報告。奥羽の平定も雪解けと共に完遂するだろうと告げた。


「左府殿の功績は、古今独歩の偉業である。天下が鎮まった暁には然るべき恩賞を与える故、今は天下静謐に注力せよ」


 と、その席で義輝は改めて関白・近衛前久の口添えにより太政大臣への昇進を約束させられたのであった。


 天下の大半を掌中に収めたとはいえ、義輝は休む暇もなく多忙な日々は続いた。京都所司代・摂津晴門に政務を任せていたものの半年近くも京を留守にしていた義輝へ直に決済を求められることは山ほどある。これを家臣に委ねてしまう事とも可能ではあるのだが、それを当たり前に行えばせっかく実現した将軍新政が夢幻と消え果ててしまうであろう。


 また義輝には引見を申し出て来る相手も事欠かない。公家衆や寺社仏閣を始めとし、戦勝の祝いを直に述べたいという者は多い。全てを相手にしていたら、それだけで日が暮れるだろう程の人数である。ただその中で、義輝がどうしても会っておかなければならない人物が、二人いた。こればかりは余人に任せる訳にはいかず、優先的に予定に組み込ませた。


 その二人の内の一人は、関東平定から先んじて帰還した今川刑部大輔氏真が連れてきた北条の長老・幻庵である。


 小田原での戦いを終えた後に幻庵は韮山城を攻めていた氏真に身柄を預けられた。氏真は幻庵の説得により韮山城を開城させ、伊豆半島を一回りして北条方の城を接収して回った後、暫くの間は小田原まで進んで関東平定を進める織田信長の代わりに相模と伊豆の鎮護に務めたが、年の暮れには完全な平定を迎えた事から、降伏した北条一門を引き連れて京に上っていった。


「とはいえ上様の留守中に大軍を上らせる訳にはいかぬ」


 その途上で氏真は在らぬ疑いを持たれないように本拠地の駿府へ立ち寄って、軍勢の一部を解散することにした。そこで元々六〇〇〇いた軍勢を二〇〇〇にまで減らし、年明けと共に上洛を果たした。そこで義輝の帰洛まで暫くかかるとの報告を得て、そのまま氏真は洛中の警護に協力、幻庵は自らの希望もあって近江国・三井寺にて蟄居、義輝の上洛を待ってから入洛する事とした。


 幻庵は若い頃に三井寺に入っていた時期があり、出家も三井寺で行っている。実に五十年振りの訪問に懐かしさを覚えつつも、諸国の変動ぶりに時代の移り変わりを如実に感じることになった。


 そして義輝の帰洛が報じられると三井寺を出立、大徳寺に入って呼び出しがかかるのを持った。この時、幻庵は罪人である事からも暫く待たされるものと覚悟していたが、義輝から声がかかるのに差して時間はかからなかった。


 幻庵は氏真と共に二条城へ登城し、義輝の登場を待った。


 襖が開き、途端に氏真は深く額を床に擦るかのようにして伏せた。その様子には、僅かにながら畏怖が感じられる。幕府の復権を成し遂げた義輝は、今や当代随一との呼び声も高く、北条家では何度か使者を遣わして、その器量を伺ったこともある。武芸を極めている事からも“将軍の中の将軍”や“武士の中の武士”とも市中では囁かれており、僅かに接した京の空気感からもそれは察することが出来た。


 だが義輝は武勇のみの人ではない。元は先代の義晴の御世に先触れはあるものの諸大名の係争を調停し、前例に倣わない幕府要職への任命など現実路線を走る事が多く、改革者でもあった。特に義輝が実権を取り戻してからの改革は、これまでの比にならないほど加速している。元亀擾乱で焼失した京洛を復興した義輝は、民からの支持も厚い。


(御本城様に似ておられる)


 それを幻庵は、北条氏康に重ねた。


 北条四代に仕えた幻庵は、歴代の当主いずれも稀有な才能を有していたと思っているが、その人となりや器量には当たり前のことだが個人差がある。


 幻庵の父であり、北条の祖でもある初代・宗瑞は良くも悪くも幕臣であった。北条の基礎を築いたとされるが、宗瑞自身は最後まで幕臣の立場を貫き、客将として甥の今川氏親を後見し、伊豆と相模の平定も氏親や、その今川家が支持する当時の将軍・義澄と協調しての行動だった。


 実質、北条として大名独立を果たしたのは幻庵の兄で二代の氏綱である。


 氏綱は印判状を始め、検地や安堵状の発給に加えて伝馬制を復活させて人と物の流れを促進させ、税制を整備して領国支配を確実なものにすると同時に、北条と姓を改めて古河公方へ娘を嫁がせて縁戚となり、鶴岡八幡宮を再興させて関東での地位を確立させた。氏綱は北条を大名として独立させた人物として知られるが、義に厚い人物であったと幻庵は振り返る。


 家臣との義を重んじ、民を慈しみ、媚び諂わずに分限を守り、質素倹約に努めて驕りや侮りを持たぬこと。但し、氏綱が民を慈しんだのは宗瑞の教育があったからだ。宗瑞は武門の争いで荒廃する都を経験している。まさに乱世の集約とも言える都の惨状を目の当たりにした父は、関東に平穏を求めたのかもしれない。


 その子である兄の残した訓戒は、しっかりと次代に根付き“相模の獅子”と称された傑物、三代・氏康を誕生させるに至る。


 氏康は父の遺業を引き継ぎ、見事に領地を発展させた。


 検地を推し進めて家臣らの領地を明確にした上で基礎となる領内の桝を遠江の榛原枡に定め、度量衡を統一して税率を定め、領民の負担を考えて飢饉が起こると年貢を減じたり、場合によっては免除も有り得た。これは北条家自体が豊かでないと出来ないことだ。もちろん善政を敷いたところで不満は出る。よって氏康は領内に目安箱を設置して民の声に耳を傾け、訴訟には評定衆で結論を出し、各所で不平不満を生まない仕組みを構築している。


 また本拠となる小田原は、まさに北条の中心であり、様々な職人が住み、文化人の来訪も多く、上水道を造り上げて城下は塵一つ落ちていないと言われる程の見事な町を造り上げた。


 氏康が優れていた理由は、上杉謙信と比較しても判る。謙信が如何に氏康の領国を犯そうとも、一時の寝返りはあっても結局は北条に靡いてしまっているのが、その証拠だ。これは北条の治世が他を圧倒していたのであって、合戦が強く毘沙門天の化身とも称される謙信がどれだけ武士の支持を集めたところで、民の支持が氏康から変わることはなかった。だからこそ関東諸侯は、いくら謙信へ靡こうとも最後には氏康に従うしか道はなかったのである。


 人は氏康の事を“相模の獅子”と呼び、また“文武に秀でた当代無双の覇王である”とも言った。


 その氏康を継ぐ四代・氏政は、確かに北条を滅ぼしたのかもしれない。だが決して無能な当主ではなく、家臣たちの意見をよく聞く一面も持ち合わせていた。身内にも優しく、慈愛の心も持ち合わせている。それは切腹となった最後の瞬間に見せた潔さからも窺える。不幸なのは、父・氏康が偉大すぎた事だ。もし氏政が当主を務めたのが平時ならば、氏康に続いて氏政も名君の一人として数えられたであろうと幻庵は思う。


(その北条が如何にして生き残れるか、この会見に懸かっておる)


 供を二人ほど引き連れた現れた義輝を前に、幻庵の脳裏には今までのことが走馬灯のように駆け巡った。


 この会見で北条の道が決まる。何を聞かれるか分からないが、自分は北条を背負ってこの場にいる。一門の長老として四代に仕えながらも、一度となく当主の重みを味わうことのなかった自分は、今その重みを背負った。


(なんと重いものか……。これが真の意味で御家を背負うということか)


 幻庵の肩にかかる重圧は、想像を絶するものだった。だが逃げる訳にはいかない。この重みを自分が背負うのは、この一度きりのみ。この瞬間だけなのだ。この重みを少しでも軽くして、これからを担う氏規に繋いでいかなければならない。


「……面を上げよ」


 広間に姿を現した義輝が言葉をかけ、幻庵は上体を起こす。それを見て、たったそれだけで義輝は驚きを禁じ得なかった。


(京では田舎と呼ばれる坂東に、これほどまで所作の美しき者がおるのか)


 幻庵は齢八十にもなると聞いているが、まだまだ身体つきはしっかりしており、その物腰の柔らかさ、姿勢から気品さも漂っている。都暮らしの長い義輝だからこそ、幻庵の所作が洗練されたものだというのが一目見て判った。


 義輝はチラリと隣に侍る氏真を見た。氏真も他の大名に比べれば芸事に通じて所作にも長けているが、幻庵は氏真と比較にならないくらい完成されていた。


 だが、まず声をかけられたのは幻庵ではなく、氏真であった。


「刑部大輔、関東での働きは大義であった。伊豆平定と北条一族の護送での功績は、余の耳にも入っておる」

「有り難き仕合せに存じます。上様から賜った恩情の数々、これで少しは御返し出来たのであれば、嬉しゅうございます」

「一国の平定じゃ。もっと誇るがよい。余も然るべき恩賞を考えておる」

「某などに対して、格別なる御高配に存じます」


 義輝は氏真の功績を労い、氏真も恭しく礼を述べる。褒められることに慣れていないのか、氏真の語気には嬉しさが滲み出ている。


「然らば此度の恩賞として、駿河一国に替えて豊後国を与える」

「な……なんと……」


 国替えを告げられると、先ほどまで喜色に染まりつつあった氏真の表情は、一転して青ざめていった。


 実際の石高は掴めていないものの、義輝が大友家臣から聞いたところによれば、動員できる兵力からして同じ一国でも豊後は駿河に比較すれば倍ほどの石高があると推定している。領地が倍に広がるのであるから義輝にすれば思い切った加増であるが、故地である駿河を失うことは氏真にとっては父・義元から受け継いだものを全て失うという意味にしかならず、悪夢にしか思えなかったのだ。


 当然、その様子は義輝にも伝わっているが、これは決定事項である。氏真が拒んだところで変えられぬものだ。もし拒否を許せば、それこそ完成されつつある将軍権威に傷が付いてしまう。


「刑部大輔、不服か」

「……い、いえ」

「豊後は豊かな土地ぞ。駿河と遠江を合わせただけの石高がある。それに九州は、今川にとっても縁がない土地ではなかろう」

「それは無論、存じておりまするが……」


 氏真の冷や汗は止まらなかった。


 今川氏の祖先である貞世が九州探題として十カ国の守護を兼ねていた事は氏真も知っている。それが今川氏の最盛期であることも。ただ実のところ貞世は嫡流ではなく、氏真とも直接に血の繋がりはないために祖先の偉業を超える、並ぶというよりも氏真の想いは、亡き父の遺領を少しでも回復することに尽きたのだ。


 しかし、それは義輝も判っていたことだ。


 この二百年の間に今川は栄え、衰えた。如何に貞世の隆盛が眩しくとも、氏真には目の前で光り輝いてきた義元の煌めきには劣るのだ。


「位階も正四位下とし、左近衛少将にも任じる。いずれは中将を経て参議ともなれば、そなたは今川中興の祖と讃えられようぞ」


 故に義輝は氏真を昇叙させ、位階という分かりやすい形で義元を超えさせようとした。氏真は従四位下と既に位階では父に並んでいるも、昇進の機会は今までなかった。今回、正四位に昇れば今川氏の極官である氏真の祖父・氏親が賜った従四位上すら抜くことになる。


 確かに義輝の言う通り今川家中興の祖というのも過言ではなく聞こえる。


「御一つだけ御訪ねしてもよろしゅうございますか」

「構わぬ」

「駿河は……、駿河は誰に与えられるのでありますか」


 氏真は懇願するような瞳で訴えてくる。その悔しそうな言葉には“家康だけには与えて欲しくない”という想いが籠っていた。領国を奪われ続けた宿敵と言っていい相手だ。氏真の気持ちは幻庵も痛いほどよく判る。三河と遠江を治める徳川家康も、関東では著しい戦果を挙げている。韮山城を囲み、北条の克服後に伊豆を平定した自分ですら加増となったのだ。家康に恩賞がないとは思えなかった。


 自分の国替えは家康に恩賞を与える為ではないか。そう氏真が勘ぐるのも無理はなく、氏真が国替えを躊躇する主な理由でもあった。


「一色修理大夫に守護を任せる予定である」

「修理大夫殿に?ではいえや……いえ、権少将殿は何処に?」


 駿河を与えられなければ、家康に加増できる土地は周囲にはない。では家康は何処を与えられるのか、率直に気になった。


「徳川は関東へ移す。三河と遠江は、土岐左少将へ引き継がせる」


 この言葉に氏真は胸に(つか)えていたものが取れるような感覚を得た。


 あの家康が死力を尽くして今川から奪ったものを、こんなにも簡単に失うことに痛快さも禁じ得なかった。自分も駿河を失うが、領地は倍増して官位では父祖を超える。だが家康は、今まで築いてきたものを全て失うのだ。確かに失ってきたものを取り戻せないのは辛いが、奪ってきたものを失うよりは、気は楽だろう。


 先ほどまでの暗い気持ちが嘘のように、氏真の胸中は晴れていく。


「……承知仕りました。御無礼の数々、平に御容赦くださりませ。御下命は謹んで御受け致します」


 と改めて氏真は義輝に対して、深く頭を垂れて謝意を伝える。


 氏真が知っている義輝は、ここまで明確に理由を告げることはない。天下の大半を治める征夷大将軍なのだ。力関係で言えば、命令すれば事足りる。即座に受け入れられなかった自分が思うのもおかしいが、拒否は出来ないのだ。恐らく拒めば改易、充分に有り得ただろう。それが判っていて躊躇を見せたのは、やはり駿河を家康に渡したくなかった事に尽きた。


「よい。されど刑部大輔、これだけは告げておく。土地への執着は争乱の火種となる。故の国替えぞ。乱世を繰り返さぬ為には、過去の遺恨は全て、泰平の世では忘れて貰う」

「はっ、肝に銘じまする」

「なればよい」


 そう告げて僅かに義輝の口角が緩む。視線も先ほど少し柔らかいものになった。


(これが義輝公か……)


 一連のやり取りを傍で見ることになった幻庵は、義輝をやはり氏康に重ねた。何故ならば、どちらも泰平という世を切に望んでいたからだ。


 北条が関東で自立を目論んだのは、外部に築いた平和を脅かされんが為だった。だからこそ関八州の統一を悲願としたのだ。それが現実のものとなりかけたのは氏康の代のことで、幕府の力が増大してからは幕府総代として関東の和平を目論んだ。決して野心があったからではない。


 義輝も同じだ。征夷大将軍という立場に就き、泰平を望んだ。二人の違いは、関東か日ノ本かという範囲の違いでしかない。


(いや、似ているのではないな。民が御本所様を、上様を求めたのだ。御二人が似ているのは、国を繋ぎ富ませたところよ)


 日ノ本は乱世が続いたことで、群雄が割拠して無数に分裂した。その境界線で争いが起こり、物流が停滞し、その所為で飢えた民は他国から糧を奪う選択を採った。その混沌を正したのが氏康と義輝である。氏康は関東の国々や郷を繋ぎ、大きくした。御陰で民は栄え、その支持を集めた。これを全国規模で行ったのが義輝である。


「待たせたな。そなたが北条幻庵か」


 氏真が一礼して僅かに引き下がると、義輝の視線は再び幻庵へ向く。


「はい。上様の御尊顔を拝する栄誉、敗軍の将には格別の御慈悲を賜りましたこと恐悦の極みに存じ奉ります」

「確かに北条が余に逆らった事は許し難い。されど最早、北条は滅んだ。織田大納言との約定も余が承認しておる」

「はっ!有り難き仕合せに存じます」

「その上で、大納言からそなたを政に寄与させるべきと忠言が届いておる。つまり、そなたを許せと言ってきておるのだ」

「それは……」


 この言葉を聞いて、幻庵は正直に驚いた。


 確かに和議の現場で信長より“政に寄与させるべき”との発言があったと聞いているが、まさかそのまま将軍が受け入れるとは思わなかったのだ。戦国の世であるからこそ、和議の場での発言が守られるという保証はなく、その場しのぎの発言に終わる事が当たり前であった。


 しかも相手は織田信長という北条を滅ぼした張本人である。その信長は、ここに来て北条を生かそうとしている真意が理解できなかった。


「そなたが何処まで存じているかは知らぬが、幕府の政は北条のものを模範しておる。以前と比べ、随分と風通しが良くなった。そなたは伊勢宗瑞の子であり、その代より仕えていると聞いた。此度、召し出したのは何故に北条の政は、このような仕組みになっておるのかを聞かせて貰いたいが為だ」

「……はっ、少し話が長うなりますが、宜しゅうございますか」

「無論だ。これからの幕府の先を決める話に、嫌など申すはずがあるまい」


 と義輝が当たり前のように告げる。これも幻庵には驚きだった。


 聞く話によれば、幕府は九州をも平定したとか。その幕府の長たる将軍が将来を決めるものとして、自分の話を聞きたがっている。本当に北条の政が、天下泰平の礎になるかもしれない。


 幻庵は最後の当主・氏政との別れで“いま幕府の政は我ら北条のものが基礎となっておりまする。幕府が脈々と続く限り、我ら北条の名も必ずや後世に残ります”と語った。それが真の言葉に成りつつある可能性に、心から安堵した。


「それではまず、北条の政の基礎は、我が兄・氏綱が定めております。禄寿応穏と申しまして、領民の禄と寿は応に穏やかなるべし、という意味にございます」


 だからこそ幻庵は語り始める。北条四代に仕え、全ての北条を唯一知る者として、それを後世に残さんと自分の見てきたことを全て、将軍へ語り聞かせた。それがどれくらいの時がかかったのか幻庵ですら分からないほど長くに及んだ。


「……以上が、某の見てきた北条という家にございます」


 話が終わった時、中天にあった陽は既に落ちて随分と肌寒い風が入って来ていた。つい先ほどまで辺りの様子をまったく感じられなかったほど、自分は熱弁していた事だろう。それを将軍は、時折に質問を返しながら、ずっと聞き入っていた。


「大義であった。北条の施政が如何に優れておるが、何故に謀反や一揆が起こらぬのか、世の中で家督争いが頻発しておる中で身内の諍いがないのか、全て理解した。そのような明瞭な仕組みこそ、泰平の世には必要であろう」


 と義輝は己が感じたものを正直に語った。


 このように優れた仕組みを持つ家ですら滅びねばならないのが戦国の世である。何故に信長が北条を滅ぼし、幻庵を送り込んで来たのかも判る。幕政が軌道に乗り始めたのは北条流に政を転換したからであるが、動乱期であったが故にまだまだ古い体質は残っている。それを清算しなければ、恐らく泰平の世は築けない。


 その為には北条という家を幕府に取り込む必要があった。古い体質に染まり切っている幕臣では、思うように改革は進まないからだ。故に信長は北条を滅ぼし、幻庵を送ってきたのだ。


(とはいえ、すぐに幻庵を許しては示しが付かぬ)


 北条が優れているとはいえ、幕府の敵であり罪人であることに間違いはない。これを将軍とはいえ無視してしまえば、法というものは飾りでしかなくなる。


 故に義輝は、一つ策を講じることにした。


「幻庵、そなたに子はおるのか?」

「はい。嫡男は失っておりますが、次男と三男がおりまする」

「そうか。そういえば以前に掛川城に籠っていたのが、そなたの子であったな」

「然様でございます。その際、三男の長順も共に在陣しております」

「であれば、幕府に敵対したとして許すことは出来ぬ。確か以前に幕府に人質として預かっていた三郎と申す相模守の子がおったはずだ。その三郎を養子として迎え、家督を継がせよ。その後見としてそなたは、その命が尽きるまで幕政の改革に尽力せよ」

「……重ね重ねの有り難き御配慮、身命を賭して尽くさせて頂きます」


 それを幻庵としては受け入れるしかない術がなく、深々と頭を垂れた。何にせよ北条という家が、生きていく望みが繋がったのだ。もはや枯れたと思っていた涙が、床を濡らした。


 だが幻庵の思う以上に、北条家の復活は早く実現することになる。後の話となるが、幻庵の家督を継いだ三郎は再び畿内に戻って長虎と名乗り、氏規の伊勢家とは別家を立てる事となった。氏規が抱えきらなかった北条遺臣は、長虎を通じて幕臣に組み込まれていき、義輝の改革を足元から支える原動力となった。三郎も幻庵の後見もあって内政面で功績を上げていくことになる。


 その長虎自身の功績に輪をかけて着目されたのが、後見の幻庵である。幻庵は有職故実に優れ、あらゆる芸道にも通じており、公家や京の文化人などと親しくなるのに差して時間はかからなかった。博識でありながら物腰は穏やかで礼儀を重んじ、和を乱さない。その人柄も含めて帝の耳にも入るほどで、晩年には帝も出席する連歌の会に招かれる程の声望を手にしている。


 その功績もあって幻庵北条家は後に関東で一万石を与えられ大名に復帰、幻庵の死後には数回の加増を経て三万石を与えられる身分にまでになったのである。  


 同様に今川家は豊後に国替えとなり、七年後には左近衛中将を経て従三位参議に任じられた。この頃は各地の大名たちの昇進も相次ぎ、格のある国持大名なら公卿に列られることも珍しくはなかったが、それでも高位の武家には変わりなく、氏真の次の代からは元の通り従四位下・左近衛少将が極位極官となったことから名実ともに氏真は中興の祖と称されるようになった。


「過去の遺恨は全て忘れよ……、か。余も乱世が統一される前に、捨てねばならぬな」


 そして義輝は、いよいよ宿敵との最後の対面を迎えるのであった。




【続く】

前回の後書きで久秀を描くと言いましたが、申し訳ないです。長くなりそうだったので、分割することになりました。次回はもう少し早く投稿できると思います。


さて最終章では各大名のその後に触れていくことも多くなると思います。今回が今川家と北条(幻庵)家です。史実の豊臣政権の如く乱世を生き抜いた大名たちは官位が高くなりがちです。よって氏真も血統から高位となり、義元より上位となりました。これと豊後への転封で父へのこだわりは薄まり、豊後で善政を敷きました。今川家は史実でも明治まで続いていますので、御家騒動もなく、今後も豊後を治めることになります。


また幻庵の養子には史実通りに三郎(北条氏秀またの名を上杉景虎)が継ぐことになり、史実ではすぐに上杉家に行った三郎ですが、今回は幻庵家の当主として幕臣として続いたということにしています。


次回はいよいよ因縁への決着です。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 更新お疲れ様です。色々と大変な日々の中更新ありがとうございます。お待ちしていました。 [気になる点] 誤字かな? 特に義輝が実権を取り戻してからの改革は、これまでの日にならないほど加速して…
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