第一章 天下仕置 ー諸大名に国替えを命ずー
元亀四年(一五七三)一月十六日
筑前国・箱崎八幡宮
九州を平定した将軍・足利義輝は、薩摩まで下向していたが暮れには博多へ戻り、九州各地の平定に向かっていた大名たちの報告を受けた。豊後から日向、大隅を平定した足利義助や肥前を制圧していた足利晴藤も大村一揆を鎮圧、何とか義輝帰還の前に博多へ戻ることが出来た。
義輝は博多からほど近い箱崎八幡宮に参拝して改めて正月を祝い、九州平定を宣言した。
ここからは戦後処理となる。
昨年に博多を出る前に出仕を求められた宗讃岐守義調・義純親子は、揃って義輝の前に参上して跪き、忠誠を誓うことで対馬一国の安堵と引き続き朝鮮との取次を命じられた。また肥前の東に位置する五島列島を治める宇久純尭も情勢を鑑みて出仕、明や朝鮮との交易復活の障害となる倭寇討伐に協力することを条件に所領の安堵を認められた。
博多には九州の平定が象徴されるように幕府勢だけでなく、島津薩摩守義久を始め、相良修理大夫義頼や戸次道雪、龍造寺隆信など敵味方に分かれて戦っていた者たちが概ね集結している。
それでも九州各地が完全に争乱が治まった訳ではなかった。勢力図が大きく変わったことから少なからず混乱があり、今後の領地替えでも小さな小競り合いは起こるだろうと思われるため、義輝はすぐさまに帰洛するか、それとも暫く九州に留まるかを決めかねていた。
正直に幕府の財政は回復の兆しにあると言えども鎮撫の大遠征は、前代未聞といえる大出費であるので、速やかな帰洛が望ましかった。ここで負担をかければ大名たちの本国で一揆が起こる可能性も懸念される。そうなれば九州で諍いが起こっても関われる余裕すらなくなってしまうだろう。
「余は今月の末には帰洛の途に着く。大納言と右京大夫は引き続き博多に留まり、九州の仕置きに専念せよ」
として義輝は帰洛する方針を決め、万が一の備えとして実弟の大納言晴藤と三渕右京大夫藤英に残留を命じた。彼らの兵力だけでも二万はあり、諸大名への命令権を有していれば九州の治安維持は能うと判断してのことだ。更に言えば、これから行う仕置きによって他にも現地に留まる大名もおり、晴藤らが動かせる兵力は、それ以上となる。
さて、その仕置きこそ諸侯の興味が最大限に注がれている案件である。
今のところ九州で領地が確定している者は少ない。
最大は薩摩と大隅を認められた島津義久であり、日向に所領のあった豊州島津氏と北郷氏は大隅に国替えとなり、降伏した肝付氏も島津の家臣として生きていく事となった。次に南肥後の領主・相良義頼は肥後三郡が安堵、、本拠である筑後柳川を安堵された蒲池輝久がいるが、他は肥前の領主の一部が所領削減の上で安堵されたのみだった。
だからこそ将兵たちの間では、かなりの出世が見込めると話題になっている。
この頃になると織田信長が商人たちを使って流してきた関東の情報以外にも、信長本人や上杉謙信から正式な報告が届いていた。
それによれば関東では昨年の十月にほぼ全域が平定され、幕府の威令に従わぬ者は滅ぼされたという。面従腹背とまでは行かないまでも勝ち馬に上手く乗ろうとした佐竹義重や結城晴朝、里見義尭などの動きも詳細に報告が上がり、同時に徳川家康や武田義信などが関東平定に一役を買った事も記されていた。
これらの広大な欠地をどのように差配していくかが今後の課題であり、先々の天下安寧へと繋がっていく。義輝も九州に地盤を築く必要もありながら、諸大名に恩賞も割かなければならない。具体的な配置をどうするか義輝は、三渕藤英を始め、同じく評定衆の細川参議藤孝、蜷川備中守親長、上野兵部大輔清信、一色修理大夫藤長を集め、仕置きについて論じた。
ここで主に九州と関東、広大な二つの地域をどう扱っていくかが決められるのである。
(やはり要は、岐阜大納言の扱いじゃな)
いま謙信が奥羽に出張り、信長が関東を鎮撫しているが、東国平定の功労者が信長であることは明白である。謙信はその生涯を懸けて幕府の威光が失われることを押し止めることに成功したが、関東の平定は果たせなかった。信長が出張り、初めて情勢が大きく動いたのだ。故にそれ相応の恩賞を信長に与える必要があるが、今の織田家ですら幕府直轄領と変わらぬ程の領地を治めており、これ以上の加増は幕府の権威を脅かすと誰もが懸念して、その扱いは慎重に成らざるを得ない。
ただ信長から意外な申し出があった。
「関東の要は小田原でも鎌倉でもございませぬ。これから関東を治めていくに当たっては、関東平野を睨む江戸こそ相応しく、いま江戸の城を改修して周囲の検地を奉行である伊勢左馬助殿に命じておるところでございます。その江戸を治める領主として、徳川権少将殿を推挙いたします」
その上で国替えに対して自分が責任を以って説得すると伝えてきたのである。多くの幕臣たちが信長が関東に所領を欲していると思い込んでいたところ、徳川を推してきた。
(権少将を関東に移すか。それは考えもしなかったな)
義輝とて今川を手玉に取り、義輝から遠江守護職を勝ち取った家康の器量を疑ってはいないが、織田と姻戚関係になる徳川の国替えまで考えてはいなかった。元々九州平定を優先させたのも、現地の事情もあったが信長与党である家康に手柄を立てさせないことも理由にあった。義輝にしたら織田家もだが、徳川家も今以上に所領が増えるのは好ましくない。
(だが悪くない手ではある)
今の織田領は本拠の美濃に加えて尾張、北伊勢半国、信濃と近江の大半、飛騨にまで及び、縁戚の浅井長政が越前に加賀半国、同じく徳川家康が三河と遠江の二カ国、これら全てが地続きで繋がっている。つまり京を押さえる幕府の東には、広大な織田勢力が存在していることになる。
その内の一人・家康が故地である三河から離れるということは、それだけ織田勢力ひいては徳川の地力を落とすことになる。更に北条の治世が優れていた事は、その統治を参考にした義輝が一番に理解しており、その跡地を経営する難しさは想像に難くない。何より欠地となる三河と遠江に信頼できる幕臣を送り込めば、両者を監視することも出来る。
だがこれに信長が気が付いていないはずもない。なら気が付いた上で義輝に求めているのだ。そして空き地となる三河を自分に与えて欲しいとは言ってきておらず、徳川の領地を奪い取ろうという姿勢は見えない。
上杉謙信が関東で信長と相対した際に抱いた疑問、大勢力として唯一残された織田家をどうするのか。その答えを信長は既に持っているのだろうと思われた。
(まだ疑っている者がおるが、大納言に余への叛心はない。ならば純粋に国を憂いての事で、関東を任せるに足る資質が権少将にあるのだろう)
諸大名の国替えを望む義輝であるが、特に力を持つ外様を国替えにすることは非常に難しい案件である。義輝の意に素直な謙信はともかくとして、織田や毛利など今の義輝を以てしても国替えを実現できるか怪しい。ただ今回、自分と信長から関東転封を告げられれば流石の家康とて“已むなし”として従うだろうと思われた。今後に天下が定まった時に別の手を打つことも考えられるが、関東平定を終えた今が絶好の機会であることは間違いなかった。
「皆も思うところがあろう。忌憚なく意見を述べよ」
義輝なりの考えはあるが、まずは評定衆の意見を聞くことにした。彼らも幕政を担っていく者たち、その考えを知っておく必要がある。
「ではまず、某から申し上げます」
手始めに意見を述べたのは上野清信だった。
「徳川権少将殿の関東移封は幕府にとって良き選択となりましょう。ここまで功績を上げてしまえば岐阜大納言殿へ恩賞を弾まねばなりませぬが、ここで意見を取り上げておけば、それも少しは減らせましょう」
元々信長の強大化は幕府内で危険視されている、それを唱える者の中に清信もいる。その清信を以てしても織田に恩賞は已む無しと思わせるほど、今回の関東平定は長年に亘って幕府の懸案を解決した無視できない功績であった。
故に清信は、外様であって幕政に関わる立場にない信長の意見を聞き入れる事で、与えるべき恩賞を少しでも減らすべきと主張する。同じく反織田の態度でいる細下藤孝、蜷川親長、一色藤長らもこれには賛同を示す。
「余の考えとも近い、関東は徳川の移封を前提に話を進めようぞ」
「畏まりました」
そして話は恩賞を与える主要な大名たちに移っていく。
まず話題に上ったのは、やはり上杉謙信である。関東平定のもう一人の功労者である上杉家には相応の恩賞が与えられることが予想されたが、上野一国の上で武蔵国から北部の賀美、幡羅、男衾、那珂、大里、横見、榛沢、比企など凡そ八郡と下野国の旧佐野領などを加増とした。これは上野を領する上杉に武蔵や下野に足掛かりを与えておくことで、いざ関東で有事にあった際に幕府の名代として介入できる手段を持たせておく狙いが含まれている。そこには足利氏発祥の足利郡も含まれており、今回で関東の中心は徳川となるとしても幕府にとって信に値するのは、やはり上杉であると公的に示した形だ。
その上杉が話題となれば、次に話に上るのはやはり武田だろう。武田義信は幕府に恭順後、信濃を失って関東を転戦し、長きに亘って軍役を負担している。元々甲斐は貧しい国で、父・信玄が戦ばかりしていた事から財政も厳しい中での遠征で、本人は心から幕府に従ってはいないはずだが、守護の役割を果たそうとする義理堅いところは好感を持てた。事実、義信からは信玄の頃に受諾した織田との婚姻を戦が落ち着いたら履行したいと申し出があっていることから、義輝は義信の評価を改めつつある。
元より義信は甲斐の守護としての使命感が強く、国替えすれば大きく覇気を損なう可能性があった。故に義輝は義信を甲斐守護のまま武蔵国の西側にある児玉、秩父郡に加えて多摩郡西半分を加増することにした。地続きでの加増は大名にとって一番の旨味であろうし、武田が関東に領地を得ることで、有事の際はいつでも介入できることにもなり、それは今回の働きを義輝が評価している証にもなった。石高にしても検地中で正確には判らないが、十万石以上は確実であり、そして肥沃な関東平野に領地があれば、貧しき甲斐も少しは潤うだろう。
更に話は進み、関東諸大名の配置は次の様に決まっていった。
信長より推挙された徳川家には三河と遠江の二カ国から国替え、武蔵の大半と下総国から葛飾、猿島、結城、豊田、相馬、印旛、千葉の七郡を与えて武蔵守護職に加えて下総半国守護として転封、結城晴朝は徳川家臣となることで下総の所領を安堵、但し常陸に及ぶ領土は佐竹に引き渡しされて家康より養子を迎えることも条件とした。
これは結城晴朝は降伏時に家康より継嗣を織田から貰うよう条件を付けられていたが、信長自身が辞退して代わりに家康から養子を迎えるよう提案、その申請が信長より義輝にあったものを叶えた形だ。これは関東の支配を円滑に進めることに加えて信長の要望を呑むことで、所領という恩賞を減らせると判断して受け入れた。
そして北条一族を配下に加えた伊勢氏規には、今の領地である河内十万石は据え置いたまま北条という家が関東で興るきっかけとなった伊豆一国を宛がう。これにより氏規は伊勢氏系の家臣を河内で、北条系を伊豆で起用していくこととなるが、それでも関東一円を支配していた北条の家臣を養うことは不可能で、大半の者は後に幕府に出仕することになった北条幻庵を通じて幕臣に組み込まれていくようになる。
また佐竹義重には常陸一国を所領として認める代わりに国外の所領は収公とする。常陸にあった結城領が実質の加増分となり、国内に勢力を有する大掾家と明確な上下関係が築かれたことで、その勢威は増すことになるだろう。これは関東平定に於ける消極的な動きはあったものの、長く幕府方として反北条の姿勢を貫いてきたことを評価してのことだった。但し、鹿島氏だけは義輝の剣の師である塚原卜伝が仕えた家でもあることから、京都扶持衆として独立した立場を認められる形となった。次いで里見義尭は安房一国を安堵するに留まり、下野は宇都宮家の所領を安堵して、旧那須領を蘆名止々斎へ与えることで、有事の際に蘆名が関東へ介入できるようにした。
とはいえ下野の那須領は奥羽への玄関口にある。そこを奥羽随一の大名である蘆名に押さえられるのは幕府として面白くない。故に義輝は那須領の全てを蘆名には与えず、その一部を直轄地とすることに決め、この土地の代官に義輝は小弓公方の一族である足利頼純を選んだ。頼純は既に一門としての立場は失って細々と生きているだけであり、今回の関東平定にも加わることはなかった。ただ一門として扱わないにしても、その身体に流れる血は紛れもない足利の血である。故に義輝は奥羽の玄関口を任せることとした。
これにより頼純は大名としての立場を有することになったものの、一門でない証として姓を変える事が命じられ、領地となった喜連川を正式に姓とした。
さて、ここまでである程度の構想が定まったものの目下の悩みは織田にどのような恩賞を与えるかであった。関東平定の功績を認めるならば、北条の本拠であった相模一国を宛がうのが順当なところだ。もう一つの選択肢としては、旧徳川領となる三河と遠江から恩賞を割くというのもある。こちらは尾張と地続きとなる為に信長にとって旨味は大きい。評定衆の大半も信長の徳川転封の狙いは自身が三河と遠江を得ることがと思っていたし、自分が徳川を説得すると言い出したと思った。
(大納言の言葉に従って転封した徳川の領地を織田が得れば、徳川の連中は織田に故地を奪われたと思うだろう。確実に織田と徳川の関係に亀裂は生じる)
そう考えて、反織田の評定衆たちも徳川転封に賛成したのだ。
ところが信長の狙いはまったく違ったのである。信長からの報せには次のように書いてあった。
「九州攻めは如何でございましょうや。大友如きに後れを取る上様ではございませぬでしょうが、もし九州の平定が成った暁には、当家にもご領地を賜れれば幸いに存じます」
予てより南蛮に危惧を抱いている信長のことであるから、東国よりは南蛮と接点を持てる西国に所領が欲しいのだと思った。いま九州では特に切支丹の一揆が記憶に新しい。大村一揆は大半が切支丹であったが、彼らの勢力は突発的なものであり、尚且つ農民が多く鉄砲などは余り持っていなかったからこそ、鎮圧には差して時間はかからなかった。もし彼らが南蛮の武具である鉄砲や石火矢で武装を固めていたらと思うとゾッとする。
(大納言に肥前を任せてみるのも面白いかもしれぬな)
南蛮への備えや肥前の領主たちを監視、倭寇討伐の為にも南蛮に精通している織田信長という男は最適であるに思える。そして信長自身も己の役割を知ってか関東より九州を欲しがっている。
幕府にとって、信長の申し出は大きな転機となる。
今まで信長の治める領地は、信長が独力で切り取ったものを義輝が追認したに過ぎない。義輝から与えたものは限りなく少なく、未だ信長は臣下というより同盟者に近い立場にいる。仮に相模一国を与えるにしろ、そこは織田が自ら切り取った土地だ。有難みはないし、幕府との関係も今までと何ら変わらない。しかし今回、信長の申し出は、その立場を一変させる。九州は信長が関わっていない土地、それを与えることは両者に明確な主従関係が存在することを意味している。それを天下に示せるのだ。
(それが判っていて、余に望んだか)
信長にしても天下が定まる前に幕府と織田家の関係を明確にしておく必要があると考えたのだろう。奥羽が平定されれば織田に与えられる土地はなくなり、関係を明確にする手段がなくなる。かつて今川義元が自国の法度を定めた今川仮名目録を追加した際、守護使不入を否定していることからも判る。事実、今の織田家は唯一、幕府の支配を離れている戦国大名だと言えるからだ。やはり武士にとって所領というものは、関係性を示す分かりやすい基準なのだ。
それを義輝は、九州に土地を与えることで覆す。信長も、それを求めている。
「大納言には、関東ではなく九州にて肥前一国を与えることとする」
義輝は肥前一国を恩賞として織田家に与えることを決めた。本貫の尾張と美濃からも遠く離れて脅威にもなり難く、南蛮の監視も担える。ただ信長の功績を思えば一国加増くらいでは少なく思える。
「右京大夫、帰洛次第に余の昇進があるだろうが、諸大名も合わせて昇進させる。中でも織田大納言は大臣に就いて貰うぞ」
故に義輝は、更に信長を昇進させて厚遇する意向を固めた。
「されど上様、臣下の身で大臣に就くなど前例がございませぬ」
「今でも充分すぎる厚遇かと存じます」
「然様でございます。今より上に昇れば、姫路大納言様より上位となってしまいます。幕府の序列に問題が生じます」
「どうかお考え直し下さいませ」
これに義輝を補佐する藤英を始め、有職故実に通じる藤孝や清信、親長が続けて驚き、反対の声が相次いだ。
藤英の言う通り古今で例を見ても時の天下人の下で大臣位に就いた者はいない。仮にいたとしても平清盛の嫡子・重盛など一門かつ後継者が任じられる場合のみだ。足利幕府内に於いても大臣に就いたにのは足利将軍のみで、これも先代の死後や隠居後の話である。今の大納言という地位ですら臣下としては異例であるにも関わらず、義輝は信長を更に昇進させるつもりだった。
「それだけ余が大納言を頼りとしておることが天下に伝わるというもの。安心せい、余が太政大臣となれば、それであっても余の権威は揺るがぬ」
そう言い切るのは絶対的な自信、己の立場を確信しているからだ。もはや脆弱な足利将軍は消え去り、強き幕府を統率する征夷大将軍の姿に疑いはない。天下一統を目の前にし、義輝は天下泰平という新たな段階へと進む。
結果、関東で幕府直轄地となるのは相模と上総の二カ国に下総半国となった。相模は伊豆を賜った伊勢氏規に、上総と下総は長く関東との取次を担った大舘藤安に管理を任せることとした。藤安には上総より所領も与えられることになる。
次に話が九州に移る前に義輝が触れたのは、今川家のことだった。
「余は今川刑部をも国替えしようと思うておる。それについては如何に思うか?」
「今川を?されど刑部殿をどちらへ?」
「九州じゃ。欠地も多く、今川に所縁がある土地でもある」
駿河を治める今川刑部大輔氏真も伊豆攻めでは少なからず功績を挙げている。今まで罪を重ねてきたことを考慮すれば、恩賞を与えずとも良いとも思えるが、これを機に国替えさせるのも手である。何せ駿河は今川の治世が長く、本貫とも呼べる地になっている。
(あれは父の治部大輔の影響が強い。駿河から放してやれば、案外と化けるやもしれぬ)
何度か対面したことのある氏真であるが、剣術に於いても実は新当流と義輝と同門であり、打ち合ったこともある。そこから義輝は氏真が意外と気骨のある人物と思っているが、いざ話してみると言葉の端々に“海道一の弓取り”と称された父・義元と自分を比較して自嘲するところがあり、どうにも腑に落ちなかった。駿河に居座れば、どうしても義元の影がチラつく。ならばいっその事、九州辺りに国替えさせるのも良い。九州は今川氏にとっても縁が深く、祖先の貞世が九州探題として十カ国の守護を兼ねていた時代もある。もちろん氏真を探題とする気はないが、欠地の多い九州は転封させるには相応しい土地だ。
義輝は九州の地図を睨み、豊後国に氏真の名を刻む。豊後を治めてきた大友家は鎌倉より続く名門だ。土着する者たちの気位は高く、乱世に於いて成り上がった大名では統治に難儀することが予想される。故に名門である今川家を守護に据える。豊後は長く大友家の本拠として栄え、瀬戸内にも面した豊かな国だ。故地を離れても加増となれば、氏真の溜飲も下がるだろう。そして駿河から離れることで義元の背中を追う必要もなくなる。もちろん豊後国内には幕府の直轄地も置き、今川を監視することは忘れない。
「これで東海三カ国が空く。うち旧徳川領の三河と遠江は丹後に替えて土岐左少将に与えたいと思う。左少将の器量ならば、濃尾の織田に加えて関東の徳川にも睨みを利かせられよう」
「良き思案かと存じますが、左少将殿は九州攻めにて後詰を担っております。何の功績を以って御取り立て致しますか?」
恩賞を与えるには功績がいる。公明正大な幕府でなくては諸大名は納得しない。事実、九代将軍・義尚は側近を寵愛して幕政を混乱させ、周囲から批判を食らった。それを繰り返す訳にはいかないのだ。
「左少将は謀反方との戦の折に余からの恩賞を辞退した故、まだ恩賞を与えておらぬ。その功に加えて此度の九州遠征でも大軍を遺漏なく動員できたのは、左少将が整えた手筈が大きい。伏見の築城も任せておる。充分な功績と思うが?」
「それであれば、充分かと存じます。して駿河はどうされますか?」
「一色修理大夫を守護とする。駿河は長く今川の領地であったが故、一色のそなたでなければ治めるのは難しかろう。左少将と共に東海を鎮護せよ」
「承知仕りました」
義輝は更に九州の大名配置替えを進めていく。
筑前の高橋鑑種は日向国にて旧本郷領、龍造寺隆信には旧豊州島津領が与えられ、残る地域を長曾我部元親の弟である吉良親貞に与えて日向守護とし、長曾我部は一族で二カ国を領する立場となった。次いで尼子義久も南条元清を丹後に転封し、その旧領を加増して伯耆半国守護となった。更に九州攻めの主力であったものの博多を死守するという主命を果たせなかった毛利に対し、義輝は豊前国門司を没収という処置を採ったが、一族で義輝に近侍する毛利元清にこれまでの功績を称えて、筑後国久留米に所領を与えて事実上の加増とした。また毛利に与して大友と戦った秋月や宗像などは直臣として扱われず毛利の被官に組み込まれ、その統制下に入ることとなり、毛利の支配は強まることになる。次いで相良領を除く肥後は池田勝正に与えて守護とした。
これにより幕府の直轄領は豊前一国と筑前半国、筑後の一部となる。とはいえここ十年近くで急速に拡大した幕府に九州へ送る人材は乏しく、豊前国を臼杵鑑速、筑前国は戸次道雪を起用し、行先のない大友家臣団を纏めさせることにした。残る筑後の一部は島津家久を代官に抜擢し、取り立てることで薩摩と大隅二カ国となった島津から家久は独立する形となった。
他、筑後の国人が肥後に、肥後の国人が筑前になど細かな転封が命じられ、義輝は大名や小名問わずに国替えの意向を示した。
これで関東と九州は鎮まった。残るは奥羽だけである。奥羽には北条や大友のような大勢力はおらず、既に一度、義輝が勢威を轟かせている事もあり、平定を確実視している。
(天下一統は成ったも同然、奥羽にも大きく梃入れをせねばなるまい)
関東と九州で大規模な国替えを実施する以上、奥羽も例外ではないのだ。故に義輝は謙信に対して一切の容赦をしないよう伝える。
「奥羽には幕府の威を示すことを第一とせよ。余が大名と認めたのは蘆名と伊達のみ、最上や大宝寺の所領は安堵でよいが、大名同士の争いは一方に明らかな非がない場合を除いて片方に加担してはならぬ。係争地を幕府で預り、余の沙汰を待つがよい」
奥羽の誰が抗おうとも今の幕府に敵はいないが、かつての奥州藤原氏や鎮守府将軍・北畠顕家など中央政権に大きな影響を及ぼす者が生まれている地域でもある。
「もし左中将の決定に不服を申す者がおれば、余の名代として成敗せよ。但し、謀反は許してはならぬ。これからの世は道理を正していくことが肝要、如何なる理由があれ謀反を許すようでは主従の関係は成り立たぬ」
故にこそ幕府の支配をしっかりと根付かせる必要がある。幕府として奥羽の問題に介入し、裁定を下し、誰が支配者なのか知らしめるのだ。そうすることで、泰平の世は訪れる。
(京に戻ったら、やることが山積みだな)
天下一統の戦いは終わる。これからは泰平を築くための法度など制度を次々と作っていかなくてはならない。幕府を生まれ変わらせ、戦国の世を過去のものにする。恐らくそれは、乱世を鎮めるよりも過酷な戦いとなるかもしれない。
(余すらいなくなっても崩れぬ泰平を築く……と、義昭に誓ったのだ。まだまだ隠居は出来ぬな)
共に乱世の終焉を夢みた弟に恥じぬ戦はしてきたつもりだ。それでもあの時の誓いを真にするには、まだ遠い。
そして義輝は、帰洛の途に着いた。
【続く】
お待たせしました。
緊急事態宣言中から四月に新店舗の準備を任され、忙殺される毎日でありました。少し仕事も落ち着きましたので、ようやく最終章のスタートです。
国替えを命ずと題しておりますが、実際の国替えはまだ始まっていません。あくまで計画のみです。今後、義輝が帰洛してから徐々に国替えが始まります。
幕府と織田との関係も少しずつスッキリしてきていますが、まだまだ解決すべき事案は多いです。義輝と久秀の対面も残しており、見るべき場面の多い最終章となるかと思います。お楽しみください。