第二十二章 九州平定 ー静謐の兆しー
十月二十五日。
肥後国・隈本
九州に上陸して戸次道雪を降伏させ、博多にて松永久秀を捕らえた将軍・足利義輝は、実弟の大納言晴藤を肥前、阿波公方の権中納言義助を豊後へ派遣し、自らは西海道を南下して旧大友領の制圧にかかった。
その途上、筑後にあった大友方の諸城は大半が博多に出陣していて、既に城主が自ら降伏していたこともあり、先行する道雪の軍勢に次々と城を明け渡していった。唯一抵抗される懸念があったのは柳川城の蒲池鎮漣だったが、鎮漣は元々から幕府に恭順すべきという考えて、大友に義を貫かんとする父・宗雪と対立して博多の陣を抜けたという経緯がある。
「今になって抵抗しようとは思いませぬ」
よって博多合戦より戻ってから一月も経たず、幕府によって攻められた鎮漣は家中を纏める時間もなく、大軍を前にすると簡単に城を明け渡した。
「降伏を認めるとはいえ鎮漣を家中に残しては家督相続に禍根を残すだろう。鎮安の子を元服させて余の偏諱を与え、輝貞と名乗らせる。その輝貞が家督を継ぐことのみ許す。なお鎮漣は命まで獲らぬ故、潔く仏門に入れ」
義輝は蒲池家に対して自分の偏諱を授けることによって明確に家督を定め、主家に尽くした宗雪の忠義を評価、柳川周辺の所領を安堵した。これにより蒲池家は庶流も合わせて二十万石あった領地が五万石ほどまでに削減されるも、幕府から公式な大名として認められて幕臣に列することになった。これ以降、蒲池氏代々の当主は将軍から偏諱を賜り、名乗るようになっていく。
そして義輝は更に南下して肥後国へ入り、隈本へ到着する。隈本は肥後の国府に位置し、大友家臣の城親賢が治めている土地だ。
そして道雪は今、八代まで進んでいると聞く。このまま義輝も後を追って南下しても良かったが、肥前の南部で肥後の西部に当たる天草郡を平定する必要があった。もちろん天草の平定を道雪に命じても良かったが、島津と大友方が戦っている水俣への救援を急ぐため、天草は自身が平定する旨を伝えて道雪には南下を急ぐよう命じた。
その天草は主に八代海に浮かぶ諸島群で、所属は肥後国である。百以上の島々から成るが、大きいもので上島、下島、大矢野島、東仲島、長島などがあり、この五島に比べれば他の島はかなり小さくなる。よって大半が五島を占める豪族の統治下に入っていた。
現在、その天草で大勢力を築いているのは天草諸島の中でも一番に大きい下島の大半を治める天草氏である。これに同じ下島を領する志岐氏、上島の上津浦氏、栖本氏、大矢野島の大矢野島氏であり、彼らは総じて天草五人衆と呼ばれていた。とはいえ天草五人衆は互いに結束しているというよりは、逆に内訌が激しく、特に上津浦氏と栖本氏は周辺勢力の相良や有馬と結んでは争いを繰り返し、永禄九年(一五六六)に和睦するまで三十年近くに亘って闘い続けていた。
ところが相良義頼が大友親貞に敗れてから状況は一変する。
親貞は肥前を本拠としていたことにより、天草の北部・島原を領する有馬氏の影響力が強くなった。義頼は親貞と婚姻関係にあったが、内心では親貞を苦々しく思っており、親貞に逆らいこそしないものの極力は指示を仰がず、付かず離れずの状態を貫いていた為に天草には干渉しなくなった。
その為に彼らは肥前水軍に組み込まれて博多合戦にも参陣しているが、水軍のみの派兵だったので討たれた者は殆どおらず、全員が無事に逃げ帰っていた。それから速やかに降伏すれば良かったのだが、良くも悪くも五人衆であり、意思疎通を合わせようと談議している内に時間だけが過ぎていった。
道雪が隈本を通過した時点で降伏しておらず、道雪も彼らとの繋がりは皆無に近く、敵対していた以上は救ってやる義理もない。義輝が天草を制圧すると言った以上、手出しもしなかった。
「天草を平定する」
そして義輝も、こちらから使者を出すような真似はしない。屈服せよというのは、そういうことである。
「天覚よ、働き次第では北畠の再興を認める故、励むがよい」
ここで義輝が大将に指名したのは、謀反方に加担していた北畠具教であった。具教は伊勢国司家の出身であるが故に和歌など芸道にも通じ、今でこそ解官されていたが、元は正三位権中納言と高い官位にあった。もちろん公家衆へ知己が多く、その繋がりもあって帝までもが“命までは奪わずともよいのではないか”と処分に介入してきた程である。義輝としても具教は新当流と同門であり、幕府との敵対した動機も信長憎しによるものであった事から蟄居処分とし、何処かで復権の機会は与えるつもりでいた。
ところが謀反方の敗北の後に武田信玄との戦い、京の復興、関東の動乱など難事が続き、これまで復権の機会を与える余裕はなかった。そこでの九州遠征となり、よい機会と思って義輝は具教を召し出したのだ。
この際、具教は心を入れ替えたことを表すために出家して天覚と名乗り、義輝の馬廻衆の一人として同陣した。交友関係が広かった甲斐もあって郎党を含め一〇〇を超える人数が集まっていたことからも、具教が復権に懸ける想いの強さが窺える。恐らく、借財や北畠家が保有していた名物など多くを質に入れて費用を捻出したのだろう。また多くの大名が義輝によって打倒されたことにより、市中にいる牢人の数も多く、銭で雇い入れるのも難しくなかった背景もあった。
ただ問題は具教の腕前は義輝に近い程の達人であったことから義輝の身に危険が及ぶと一部の幕臣から懸念の声は上がっており、義輝も彼らの忠義故の進言には耳を傾けるしかなく、傍にいる際に天覚の帯刀は許さなかった。それでも素手で一人や二人は殺せるほどの実力を天覚は有しているので、義輝護衛の任に差支えはない。
「有り難き御配慮、必ずや御期待に応えて御覧に入れまする」
天覚は城、志賀、名和など近隣豪族が持つ兵と水軍を付けられ、島左近清興が軍目付として天草に乗り込んだ。天草五人衆の水軍は博多合戦でも無傷に等しかった為に宇土から大矢島への上陸は難しいと思われていたが、博多敗戦の混乱は収まっておらず、天草五人衆も今後の去就をどうするかで揉めており、すんなりと上陸することが出来た。幕府軍の素早い動きに天草五人衆は人質を出して降伏することを告げるが、義輝から所領没収の意向を告げられると反発、最初に志岐鎮経が挙兵し、他の四氏が続いた。
しかし、大矢島氏だけは既に幕府軍の上陸を許しており、僅か二日で大矢島の全域を失ってしまう。続く上島も幕府軍に備える時間が乏しかった事で、初手から劣勢を強いられた。
「これは一気に押せば片が付くやもしれぬ」
そのように戦の流れを感じた天覚は、天草衆が上島に注意を向けている隙に密かに下島に上陸し、盟主となっている鎮経の居城・志岐城を落とす策を考える。所謂、中入りという策である。
「逸りは禁物にございます。こちらは大軍、後詰も求めれば叶いまする。まずは上島を平らげてから下島に臨むべきにござる」
これに清興が反対、方針の転換を求めた。清興にすれば九州攻めは勝ち戦が決まったも同然であり、天草衆も大矢島、上島が続けて陥落すれば下島は攻めずとも降伏すると考えており、天覚の行動は無駄に思えたのだ。
「逸ってなどおらぬ。敵が備えを満足に築けていないのは明らかじゃ。なればこそ、志岐城は必ず落とせよう」
ところが天覚は聞く耳を持たなかった。自身は国司家の出で元大名、清興は元筒井の被官という侮りがあったことは否めない。ただそれ以上に復権の機会を得たと逸っていたのだ。明確な手柄を欲していたのだ。
「そのように心配なら、島殿は上島に残られればよい。儂は一手を率い、志岐城を落としてくる」
そう言って天覚は一方的に言い放つと、出陣の支度に取り掛かった。
(何事もなければよいが……)
と清興は一抹の不安を残しつつも天覚を引き留めず、自身は上島平定に専念することにした。正直に天覚が勝とうが負けようが大勢には影響がないのだ。仮に天覚が討ち死にしても幕府としての損失はなく、それよりは義輝に任された命令を確実に果たす事が大事として、清興は天覚の事を捨て置いた。
「よし、見つかっていないな。ならば明日の日の出と共に城へ攻め寄せる」
清興の理解を得られなかった天覚は、その日の内に夜陰に乗じて船を走らせて海岸沿いに進み、下島の北側にある富岡に上陸した。敵は上陸を阻んで来なかった事から気付かれてはいないと思い、これなら一日で城を落とせると油断した。
「かかれー!我らの意地を見せるのだ!!」
そこへ志岐勢が夜襲を仕掛けてきたのである。兵こそ少ないものの富岡と志岐城は指呼の間にあり、天覚も上陸したばっかりで翌日に城を攻めるつもりであったことから、敵に見つかるのを避ける為に僅かな備えしか築いていなかった。
しかし、城主の志岐鎮経は気が付いていたのだ。敢えて上陸を許し、油断を誘ったところで奇襲を仕掛け、討ち取る算段で兵を動かしていた。
用意周到な志岐勢にたちまち天覚は本陣まで攻め寄せられてしまう。船で上陸した所為で退却は出来ず、あっという間に乱戦となって陣中は混乱の極みにあった。このまま押し切れると鎮経は確信していた。
「おのれ……、儂を舐めるなッ!!」
ここで天覚が吼えた。
攻め寄せる足軽を自前の刀でバッタバッタと斬り倒し、刀が潰れれば敵や討たれた味方から奪って戦闘を継続した。志岐勢も敵わずと有利な槍で鋭く突いて対抗するも、天覚は素早く躱し、時には穂先を斬り落として無力化し、逆に柄を掴んでは押し返すなど孤立しながらも奮迅する。
乱戦であるが故に飛び道具は使えず、夜陰に乗じたからこそ気配を察知して闘うしか術がなく、だからこそ武芸を極めている天覚には圧倒的に有利な環境となっていた。
「何がどうなっておる?何故に敵陣を落とせぬ」
本来であれば大将を討ち取って終わると思われていた夜襲が中々に決着がつかない。傍から見れば、明らかに味方が有利にしか思えない状況で、夜襲の成功を信じて疑わない志岐勢側があと一歩のところで勝ちを得られないのが天覚の粘りが凄まじいからと知った時には、その天覚の周りに屍が累々と築かれ、志岐勢は二〇〇を超える死傷者が出てしまっていた。この内、約半数の一〇〇が天覚自身の手によるものとかよらないとか後世の逸話として伝わっている程の激戦であったという。
「已むを得まい。ここは城へ退くぞ」
思わぬ犠牲を払った鎮経は城へ退却を開始するも、この機を逃さぬと反撃に出た天覚に押し込まれ、そのまま城は落ちて鎮経は自害して果てた。
「逃げ帰れば御家再興が潰えたも同じ。なればと死力を尽くして闘ったのみにございます」
後に帰還した天覚は、襲われた際にどうして撤退をしなかったのかと義輝に問われ、そう答えたという。
「よう覚悟を決めた。余も似たような経験があるが、命を懸けねば成せぬが大事というものじゃ。北畠再興は、余が認めよう」
義輝は天覚の活躍を認め、御家再興を許した。
天覚は喜色を浮かべて伊勢で御家再興を望んだが、やはり目付の言葉に従わず勝手をした事は義輝も眉宇を曇らせる報告だった。故に伊勢での再興は見送り、後に奥羽で改易となった北畠顕村の所領を引き継がせた。伊勢での暮らしを知る天覚にとって、奥羽の果ては辺境であり、かつての蝦夷である。
「過分な御沙汰、今後は将軍家に二心なき忠節を誓い、励む所存にございます」
それでも義輝に対して深々と頭を垂れなければならない事に、天覚は時代が変わったことを感じたのだった。
これにより天草は幕府の統治するところとなったが、暫くすると天草には切支丹が多く、また協会が十数カ所も建てられているとの報告も入った。そして天草五人衆の一族の中には耶蘇教に帰依している者も少なくはなく、天草全域にまで耶蘇教信仰が広がっている事を義輝は重く受け止めた。
この時、義輝の許には肥前国の大村領で行き過ぎた耶蘇教信仰が起きている事が既に報告されている。その時はあくまで報告のみ受けて博多に戻るまでは経過を見守るつもりだったが、事態は急変し、義輝の隈本滞在中に大村領では一揆にまで発展してしまう。
「水軍を総動員して天草を取り囲め、池田民部大輔には二万の兵を預ける故、島に兵を送って民衆が一揆に加担せぬよう厳しく監視せよ」
「承知仕りました。一揆に加担する動きあれば、即座に鎮圧いたします」
と義輝は池田勝正に一揆の拡大防止を任せて暫く様子を見たところ加担する気配はなかった。先の天草攻めで降伏したばかりというのが幸いしたのだ。
ただ不安は残る為、そのまま池田勝正は監視の為に残して自身は宇土から八代へ向かって進軍した。
八代へ到着した頃は既に十一月に入っていたが、南九州は温暖で寒さは厳しくなく、こうも違うものかと感傷に浸る余裕が義輝の中に生まれていた。
「御待ち申し上げておりました」
その八代では島津義久を始めとする薩摩の郎党に戸次道雪、南肥後の大名・相良修理大夫義頼が義輝を待っていた。
義輝が隈本へ帯陣している最中、水俣城を巡る攻防は呆気ない幕切れを迎えていた。
当初は道薫が指揮を執り、島津勢の攻撃を一切寄せ付けないほど頑強に抵抗していた。島津側も八〇〇〇と六七〇〇に及ぶ大友勢の籠る城を落とすには数が不十分であり、焼き働きや挑発を行って何とか野戦に誘い込もうと画策、しかし道薫は不動を貫いて動かなかった。
「秋風に 水俣落つる木ノ葉哉」
「寄せては沈む 月の浦波」
ここでの挑発合戦の様子は後の世にも残っている。
島津方の武将・新納忠元が“秋風のように押し寄せた我らに水俣城は木の葉のように落ちるだろう”と矢文を送ると、深水頼延の跡を継いで城兵を纏めていた犬童頼安は“寄せ手は月が浦に沈むように負けるだろう”と対抗した。
武門が連歌も嗜み、教養豊かである事を示したのである。頼安としては死した頼延が島津に対して玉砕して降伏に導こうとしていた事を知っていたが、武門であるが故に挑発されて素知らぬ顔をするなど出来なかった。
それから暫くして博多で大友親貞が敗れ、道意と共に捕まった事が知れると城内は一変した。次第に道意が松永久秀であったと噂が飛び交い、相良家臣団の間では“道薫も謀反方の武将のはずだ”と確信するようになる。
「止めだ止め!やはり久秀と組むなど間違いの元でしかなかったわ!もう知らぬ!儂は数奇の道に生きるぞ」
その機先を制すようにして、ある日突然に道薫が姿を消したのだ。自ら率いてきた兵も捨て、持ち出したのは博多でいくつか仕入れ、籠城中も茶会を催した際に使用していた茶器だけだった。
頼安も道薫の行方を捜すには捜したが、障害のなくなった相良側としてはいち早い島津との和睦、そして主・義頼との合流が求められており、城内にいないと判った時点で捜索は打ち切られた。
その時に現れた戸次道雪が両者の仲介役を買って出た事で、和睦の道は開かれ、人吉の義頼とも連絡を取って八代にて義輝と謁見するようになったのである。
相良が大友に味方した経緯と理由は、道雪によって事前に義輝へ報告された。
「そなたが相良修理大夫か。度重なる幕府への献金、二条築城の折の忠節を余は忘れてはおらぬぞ」
「畏れ多いことにございます。されど此度、公方様が直々に親征されたというのに、相良は何の働きも出来ぬばかりは弓を引いてしまう始末、平に御容赦くださりませ」
義頼は深々と頭を垂れ、床に額を擦り付けて謝罪した。何とか相良が生き残らんと必死の様子が窺えた。
「余へ直接に逆らった訳ではあるまい。罪は罪として処分せねばなるまいが、これまでの功績を以って不問と致す」
「……忝のう存じます。今後、相良の家は総出で公方様に忠義を尽くさせて頂きます。何なりと御命じ下さりませ」
そうして義輝は八代郡にある徳淵津は直轄地としたものの、球磨郡と葦北郡、それに八代郡の一部を安堵して相良家は約十万石の大名として存続を許される事となった。
一方で島津義久に対しては、国割に従って薩摩と大隅二カ国を安堵することを改めて義輝の口から伝えられた。
「阿波中納言様の合力を得て、間もなく大隅も鎮まると報せが入っておりまする」
「島津一手でも成し得ようがな。余計なことをしたかな?」
「とんでもございません!上様の御威光に縋らせて頂かねば、悪戯に兵を失うばかりであったでしょう。改めて御礼を申し上げます」
として義久は素直に謝意を述べた。
一見して和やかに謁見は進み、義輝は義助より上申があった豊州島津家と北郷家の大隅転封と肝付へ降伏を認める旨を告げたが、義久は一切の表情を変えず、異論も交えずに粛々と受諾していく。
(ここで拒んでは我らの印象は悪くなる。又七郎の助言に従って正解だったわ)
それも家久が事前に義久に文を送り、博多での一件を伝えていたからである。義輝の命令は絶対であり、欲を出してはならないと家久は“確実に順守して貰いたい”と強く求めていた。故に義久は何を言われても義輝の命令に従うつもりで謁見に臨んでいた。
「されど島津も二カ国を領する立場ともなれば、それなりの拍も付けねばなるまい。年が明ければ帰洛する故に、そなたも共に参るがよい」
「何分と田舎者にて不作法とは存じますが、何卒お引き立てのほど宜しくお願い存じ奉ります」
拍とは官位の事である。
戦国乱世では官位は僭称が殆どで、正式な任官は家格を表す上でも充分な意味を持つ。その点に目を付けた相良は義輝の奏上で従四位下・修理大夫に任官しているが、義久も同時期に修理大夫を名乗っている。義久は父・貴久から家督を譲られる前に官途を引き継ぎ、世継ぎであることを明確にされた。そもそも修理大夫は島津宗家が就いていた官職であり、分家の出身ながら宗家を継いだ貴久が己の正当性を内外に示すために手に入れたものであった。
それが義久が家督を継ぐ寸前の永禄七年(一五六四)に相良へ与えられたのである。この時は流石に島津家として幕府に抗議しているが、当時の義輝は献金という形で忠勤を務めていた相良を重視して取り合わなかった。
今回の官位奏上は、島津の不満解消の一つである。
現状、十万石ほどに収まった相良が従四位下・修理大夫を名乗っているのに対し、島津は代々従五位下である。明らかに島津の方が大きな勢力かつ正式な守護にも関わらず、官位が逆転してしまっている。この辺り、天下を一統したなら整理する必要があると以前から考えていた義輝は、大大名には相応の官位を奏上し、国主には可能な限り国司職を任ずるようにしていた。
「一先ずは今より薩摩守を名乗るがよい。京にて参内した折には、正式に叙任を取り計らった上で更なる昇進を約束しよう」
と官位奏上を告げた。
翌年に上洛した義久は従四位下に昇り、左近衛権少将兼薩摩守へ正式に叙任され、三年後に従四位上と一つ上がり、左近衛権中将となったのである。
なお島津には薩州家という分家が存在する。代々薩摩守を名乗っていた事から薩州家と呼ばれているが、正式に叙任されている訳ではなく、その事情を知る訳もない義輝によって無視された形となった。以後、薩州家は本家に憚って一段格下の薩摩介を名乗っていくことになる。
「それと又七郎には随分と働いて貰った。もし薩摩守が許すのであれば、そのまま幕臣として余の傍に仕えて欲しいと思うが、良いか?」
「お引き立て頂けるなら、又七郎としても無上の喜びにございましょう」
不満解消のもう一つが、家久の起用である。
僅かな期間の付き合いであるが、義輝から見ても家久は有能であり、度胸もある。島津で四男という立場なら、家中での立場も重くはないだろうと思われた。事実、島津家中で家久は四兄弟の一番下なだけでなく、薩州家の義虎よりも序列は下だった。故にこそ家久が島津を離れることに、大きな混乱はないと義輝は考えていた。
(又七郎がおらぬようになるのは惜しいが、島津を今以上に大きくするには、上様の御意に従う他はあるまい)
幕府に派遣して今でこそ家中を離れている家久も、既に一武将として頭角を表している。その有能さを知っている義久としては、手元から放したくないという考えもあった。ただ家久の幕臣化は薩摩と大隅に限定された島津が、今以上の発展を見込める希望にも成り得る。義輝の提案は島津にとって好ましいものだった。
そして義輝は義久と共に薩摩へ入り、大隅で高山城を降伏させた義助と合流し、久しぶりに顔を合わせた島津四兄弟から内城にて歓待を受ける。未だ九州では小競り合いや心服していない者などおり、平定まで時間を要すかと思われた矢先に“関東平定される”との報せが商人を通じて入ってきた。この報せは九州中の湊に関東からの船が入ってきており、伝播したものである。
「……大納言め」
それを聞いた義輝は、思わず口角を緩ませた。関東からの早過ぎる報せは、織田信長が手を回したことだと推測したからである。
「これで九州は鎮まろうな」
関東が平定されたということは、幕府の支配が及んでいない地域は奥羽だけとなる。誰が九州から関東にかけて平定した幕府に奥羽の勢力が勝てると思うだろうか。以前の幕府とは違い、義輝は全国の大名たちを力で屈服させてきた。間違いなく幕府による天下一統は間もなくと悟り、残された者はどう足掻いても現状で満足するしかなくなる。抵抗の意志は、確実に削がれる。人の心から、争いの芽が摘まれていくのだ。
そうやって穏やかな世が築かれていくのだと義輝は思う。
そして大村の一揆が鎮まった十二月二日、義輝は戻っていた博多にて九州平定を宣言した。世を平らかにせんと願った義輝の悲願である泰平の世は、すぐそこまで迫っていた。
【続く】
今回は少し早めの投稿かできました。
史実では叛乱でも生き残った天草衆は全滅、室町幕府へ献金を続けていた相良義頼は史実よりも少し広い所領で落ち着き、島津は日向へ所領を得られなかったものの家久の出世が見込める発展の余地を残した形です。
村重に関しては、今後は茶人としての復活はありません。信長の頃と違って明確に幕府へ叛乱しておいて、出て来られる訳はありませんからね。行方については皆さまの想像にお任せします。
さて今回で九州平定となり、次回も義輝は九州にいる予定ではありますが、鎮撫の大遠征編は今回で終了、次回より終章へ入ります。長く続いた剣聖将軍記も完結編となります。
時間軸ではまだですが、物語としては今回で天下一統が成し遂げられた形です。永禄の変で散るはずだった義輝が悲願成就となりました。完結はもう少し先ですが、皆さまの応援があってこそ、ここまで書いてこられたと思っております。ありがとうございます。
是非とも、この物語を悲運にも散った向井義輝へ捧げたく思います。穏やかで、平らかな世を義輝が築きましたよ、と。