第二十一章 阿波公方の仕置 ー泰平の世を夢みてー
十月八日。
豊前国・松山城
将軍・足利義輝の渡海による戸次道雪の降伏を受けて四国勢を束ねる足利中納言義助は、博多にいる義輝より当初の予定通りに豊前と豊後の大友領の接収を行った後に日向から大隅へ入るように命じられた。
九州で七カ国まで版図を広げた大友家にとって豊州二カ国は長く支配してきた国であり、譜代領の多い地域が故に主家に心服している者も多い。道雪が義輝と同行した為に大友勢は幕府との取次を担当していた臼杵越中守鑑速が纏めており、義助は鑑速先導の下で四国勢と共に大友の本拠地である府内を目指すことになった。
豊後府内に到着したのは十日後の十八日の事であった。
「大友は宗麟の急死によって降伏したのであって、その領国の殆どは手付かずです。急な変化に未だ大友家臣たちは心服しているとは言い難く、厳しく警戒すべきでありましょう」
そう歴戦の雄・長曾我部侍従元親が、総大将である義助に諫言する。
如何に大友が降伏したとはいえ、先日までの敵対勢力で、幕府軍を奥地まで引き込んで騙し討ちにすることなど考えられる。宗麟の死は田原親宏の謀反が原因であるも、親宏を幕府が裏で操っていたという噂は少なからず存在する。主君の仇討ちを掲げて襲って来る可能性も捨てきれない。
「されど土佐侍従、上様は速やかに府内入りせよとの仰せだ」
「何日までにとは申されておりません。極端に遅れなければ問題ございませぬ」
と義助が義輝の意向を口にするも、元親は一歩も引かず己の主張を通した。
元親は幕府に逆らう気は毛頭ないが、唯々諾々と従うつもりもないのだ。その辺りの裁量は自分たちにあると考えており、成果さえ上げれば許されると思っている。天下一統が近づいているとはいえ、戦国大名の気風は未だに根強い。
「余計な城は幕府にとって不利益でしかありませぬ。途上の城は悉く接収し、必要あれば割ってしまいましょう」
とはいえ自軍の損害を恐れて勝手をするだけでは義輝の不興を買ってしまうのは目に見えている。確実に幕臣の誰かが義輝の耳に入れるだろう。それも元親の不利な形でだ。だからこそ元親は時間をかけるならかけるだけの理由を作り、余計な城を破却することで大友勢の抵抗力を削ぎ、戦後に於ける幕府の統治を円滑に出来る策も講じた。
(それに幕府領になろうが、誰が守護になろうが城を割っておいて損はないからな)
城を割ると言っても結局は実際の作業は降伏した大友勢が行うことになる。幕府勢は監視する側であり、負担は最小限に抑えられるために実損は少ない。仮に豊州の一部でも長曾我部に与えらようものなら、その時は儲けの方が大きくなる。
主義主張が入り混じる中で、己の思惑を上手く誘導するのが成り上がってきた戦国大名の本懐である。
これにより元親の方針を示し合わせた後に進軍となり、府内に到着するまで十日を要してしまったのである。とはいえ十日は早いとも言える。幕府も大軍かつ城は上方で時折に見られるような石垣があるような堅固なものは皆無で、割ると言っても打ち壊して城として機能しないようにすればよく、数万の兵が破却を始めればあっという間に城は崩されていった。
到着した府内で義助は、まず宗麟の死を確認した。
宗麟は身体に受けた傷こそ治っていたが、傷跡は生々しく残っており、最後は食事も満足に出来なかった所為か痩せ細った様子が見て取れた。
その無残な最期は、天下に名を轟かした戦国大名らしからぬものであった。
(これが九州で七カ国を支配した武士の最期か)
その姿を目撃した義助の心中は、複雑であった。
宗麟といえば朝敵であったものの戦国乱世を代表する人物であることは間違いない。
大友氏は鎌倉から続く名門で、宗麟は二十一代目の当主になる。先代・義鑑は父の代から続く内紛が治まり、守護職に就いていた豊後と筑後の版図更にを拡大せんとして次に肥後へ目を付けた。親貞の父であり、自身の弟でもある義武を送り込んで菊池氏を継がせ、後に敵対して打倒し、遂には肥後守護職を得る。菊池氏は古くから肥後国に土着する一族で、動乱に勢力を伸ばし、建武の新政では肥後守、後の幕府からは肥後守護を任じられていたが、近年は内紛で滅亡寸前であり、その血筋に目を付けた義鑑が大友の家督を狙う弟を追い出す形で菊池の名跡を奪ったのだ。
その後、多くの家臣たちに偏諱を与えて家中の統制を図って父の遺訓を基に分国法も制定し、大名統治の規範も創り上げた。
その義鑑の嫡男として生まれたのが宗麟であったが、粗暴で優柔不断、数奇や酒色を好む性格は若い頃から健在で、世継ぎとして危ぶまれていた。義鑑は三男・塩市丸を後継者にせんと重臣と謀り、宗麟を推す家臣たちを次々と謀殺していくという暴挙に出た。
「このままでは若殿だけでなく、我らまで危うい」
主君が宗麟だけでなく、家臣たちを謀殺し始めた事に危機感を抱いた者たちが結集、宗麟を擁して逆襲に転じ、これが有名な二階崩れの変に繋がった。塩市丸とその一派の粛正され、義鑑自身も瀕死の重傷を負い、家督は宗麟が継いだ。
世間で変事は先代の義鑑を巻き込んだ家臣同士の争いであり、事態の収拾を宗麟が図ったとされているが、当時の宗麟の対応は不自然にも素早く、事前に変事が起こることを知っていたか、自身が首謀していた節がある。実際、その頃の大友氏は西国最大の大名で六カ国の守護を務める大内義隆と敵対しており、義隆は大友と敵対する九州勢力に対して幕府との仲介、斡旋を試みて偏諱を賜るなど積極的に外圧を加えていた。
そんな時に当主が変事で倒れたらどうなるか。乱世を生きてきた者ならば容易に想像がついた。だからこそ宗麟は前もって変事が速やかに収まるよう手を回していたのではないかと思われる。それでも影響は皆無とはならないも、大内は大内で当主の義隆と重臣の陶隆房との間で不和が深まっており、翌年に大寧寺の変が起こってことで弱体化、互いに傷を負った両家は優位性を失って安定を図る為に協和の道に至る。これにより大内という大敵があってなかなか安定しなかった国内状況が一変、肥後で復権を画策する菊池義武を成敗し、肥前にも兵を入れて守護職を得た。更には勢力を拡大した大友と違って毛利に敗れた大内は滅亡し、領主が不在となった北部九州の領土を獲得して豊前と筑前の守護職に加えて九州探題の地位をも宗麟は手に入れた。
その後も幕府との関係も良好で、毛利氏と戦いながらも九州の権益は守り、九州で随一の大名たる地位を堅持した。
宗麟の真骨頂は、合戦ではなく外交であった。巧みに人を操り、大義名分を手に入れては版図を拡大している。しかし、同時に宗麟は強欲でもあった。それを戸次道雪に諫められた事もあり、その強欲さがなければ大友は滅ばなかったかもしれない。
事実、宗麟は謀反方の誘いに乗って伊予を欲した。それを義輝に知られてから坂道を転がり落ちるように築き上げてきたものを失っていったのである。
もし宗麟が毛利元就のように拡大した版図を維持することに方針を変換できていれば、宗麟自身が何処かで挫折を経験していれば、大友家が残る道をあったはずだ。
「一代の栄達とはいえ、最後は儚いものだ」
義助は宗麟の亡骸を前にひっそりと呟いた。宗麟の周りには、出陣していて主の死を知らなかった者たちが集まっている。あの鑑速ですら、周囲に憚ることなく嗚咽を漏らしている。
朝敵となった宗麟であったが、大友という大勢力を築き上げた大人物であることに間違いはないのだ。その偉大なる主の死が、哀しくないはずはない。
哀しむことくらい許そうと思った。
「これが乱世なのでありましょう。その乱世も間もなく上様の手によって終わりが訪れます」
「然様よな。これからは、時代が変わる。泰平の時代となるのだな」
同じく宗麟の死を検分に同席していた蜷川大和守親長は、義助の嘆きにそっと言葉を添える。乱世が終われば、このような死に方はなくなるだろう。武士は戦場で散るが華と言うが、誰もが天寿を全うする時代となるだろう。
それが目の前に迫っている事に、義助も親長も未だ実感を抱けないでいる。乱世が長く続き過ぎた所為だ。
(私も父の決断に命を救われたのだろうな)
義助の父・義冬は勝瑞城攻めの際に和睦交渉の役目を引き受け、義輝と邂逅した。その際、義冬は嫡男・義栄が松永久秀に殺された事を知り、足利同士の対立を終わらせる決断をする。
当時、平島にいた義助は“幕府の命脈、義輝殿へ託す”という父の言葉を義輝本人から聞かされたが、最初は信じなかった。
「幕府は余が建て直さねばならぬ。余こそが正嫡であり、正当な将軍職の後継者なのだ」
そう父が何度も言葉にしていたのを知っていたからである。何故に父がそのような考えを持っていたかは義助にも想像がついている。十一代将軍・足利義澄の子として義冬は永正六年(一五〇九)の生まれであり、十二代将軍となった兄・義晴より二年も早く生まれている為だ。しかし、義冬は阿波守護・細川之持の下で育ち、義晴は播磨守護・赤松義村の下で育てられていた。
お互いの立場に逆転が生じたのは永正十八年(一五二一)の事である。
管領・細川高国との対立によって当時の将軍・足利義稙は京を出奔、堺から淡路に逃れた事で、義冬のいる四国は義稙の勢力圏となった。故に高国は自身の勢力圏であった播磨にいる義晴を擁立、正統な後継者とするために嫡男と扱って将軍職に就けた。それ以来、義冬は弟として扱われることになった。
成長した義冬が納得できるはずもない。足利の、細川の争いに筋目を違えられた。その後、細川晴元と三好元長が義晴を近江へ追うと堺に入って事実上の将軍として五年間、幕政を担った。ただ一番の味方であった元長が晴元に殺されると立場は一転、晴元は義晴との繋がりを重視し、晴元を追放して実権を握った三好長慶も義輝を廃することなく、義冬に三千貫の領地を保全するに留まったことで、二度と義冬が表舞台に返り咲くことはなかった。
義冬も子・義栄が将軍職に任じられた時は、時代に一矢を報いられたと喜びを感じていたが、三好・松永らの専制が幕府の慣例を無視するものであった為に憤りを感じるのに差して時間はかからなかった。
その父が義輝と和解を決断し、義輝も自分を一門に遇し、足利家の家督と将軍職の継承権を与えられたことで、父の言葉が本当だったとようやく信じることが出来た。
そして義助は順調に昇進して従三位・権中納言となり、阿波一国を宛がわれた。阿波は義稙に義冬と足利公方が長く権威として存在した国であるが故に、その統治に大きな問題は生じていない。とはいえ義助自身で成したことは少なく、阿波公方として父たちの築いてきた土台の上に立っているだけであるという感覚は今も強かった。
天下に覇を唱えた戦国大名が無残な死を遂げ、血筋だけの男が生き残る。時代とは斯くも残酷なことかと思う。
「血筋だけの者に、いったい何が成せる」
「然様なことはございませぬ。某とて聚光院様の跡目を継ぎ、一時は上様と敵対したことはございますが、今は道理を重んじて上様に仕え、宛がわれた国を治めております。阿波が平穏なのは、中納言様の御力によるものである」
検分を終えた義助が三好左京大夫義継に内心を吐露すると、義継はそう返してきた。松永久秀に振り回されてきた者同士、互いに急な後継者に立てられた間柄、義継は義助が本音で語り合える相手であった。
「それも血筋だけではないか。阿波が平穏なのは、上様の御力だ」
「己を血筋のみと卑下にすることはございませぬ。血筋という力は持たない者には決して手に入れられぬ稀有なもの、例えば帝がそうです。古き歴史を持つ帝を皆もが敬い、帝を害そうとは誰も思いませぬ。そういう御方が阿波にいればこそ、泰平は叶いましょう」
「それが私しか成せぬこと……と申すのだな」
「力だけがあっても乱世は収まりませぬ。それで収まるなら、聚光院様が天下を治めておりましょう」
「聚光院は血筋が欲しかったのか?」
「……さて、どうでしょうか。されど聚光院様は血筋というものを重く考えられていたことは確かです。あれだけ版図を広げながらも、自身が守護となり、統治するということはございませんでしたので……」
「確かに……」
義助の脳裏に、朧気ながら覚えている三好長慶の姿が蘇る。
長慶は守護代の血筋ながら畿内に覇を唱えた人物で、当時は支配または影響を及ぼす国は十三カ国もに及び、武田や今川、毛利などが霞んで見えるほど大勢力を築いていたが、一度たりとも守護に就くことはなかった。あの国人領主から勢力を伸ばしたで毛利ですら守護に就けたのだから、幕政を牛耳る立場にあった長慶が就けなかったはずはない。つまり就かなかったのだ。
その真意は定かではないが、長慶の掲げた“理世安民”の言葉から自ら道理に背くことを嫌ったのだと考えても不思議はない。長慶は義輝を京から追放しながらも最後まで代わりを奉じる事がなかったからだ。
「一度、聚光院と語らい合いたかったな」
「もはや叶わぬ夢にございます。某とて、幾度となくそう思ったか判りませぬ」
互いに御家を継ぐ立場になったか者同士、偉大なる英雄の背中は大きく見えた。
「その聚光院様が持ち得なかったものを中納言様はお持ちです。必ず世を治める力がございます」
「左京大夫は前向きだな」
「ははは。某は一度、全てを失いましたからな」
と義継は莞爾に笑う。その笑みに義助は力を貰った気がした。その眼は遠く明日を力強く見据え、義輝が築く天下泰平の一翼を担わんと大友領の接収に取り掛かる。
「宗麟が死んだとなれば、誰と誓詞を交わせばよい」
早速に鑑速を呼び出し、誓詞の取り交わしについて話し合った。
「嫡男・五郎様を元服させ、誓詞を交わさせて頂きます」
「已むを得まいが、それしかないか」
大友家の断絶は決定事項だが、こういう形に捉われるのも武士である。その翌日に義助は五郎を元服させ、親統と名乗らせた上で誓詞を交わした。
「謀反方との交渉役を務めていた田原親賢は宗麟に謀反方へ味方するよう嗾けた疑いがある。以前より幕府へ引き渡すよう求めておるが、異存はないな」
「ございませぬ」
「また所領も全て没収とする。一先ずは幕府が収公し、改めて論功行賞を行った後に新たな守護からの沙汰を待て」
「承知しました。速やかにお引き渡し致します」
これにより大友の降伏は受け入れられ、蟄居させられていた田原親賢は幕府方に引き渡された。後に幕府内で詮議が行われ、親賢は当然なように首謀者として斬首となった。
それから数日、府内にて豊後国内の制圧を待っていた義助の下に伊東義祐がやってきた。
「これから先、日向は我らが土地にございます。兵を御貸し下されば、中納言様の御手を煩わす前に平定して見せましょう」
として兵の貸与を求めてきた。それが再起を図ってのことだとは義助にも判る。
「なりませぬ。もはや三位入道殿の力を借りる必要は幕府にはございませぬ」
しかし、義輝の意を受けている親長がこれに反対、義助も申し出を却下した。事実、幕府は大友勢を合わせれば五万に近い大軍勢である。これが大友の降伏した日向に雪崩れ込むのであるから、義祐が出しゃばって調略を行う必要はない。逆らうのであれば、滅ぼせばよいのだ。
「兵を借りずとも国衆への伝手はあろう。復権の機会を得たいのであれば、まず自らの手で行うことだ」
よって義助は冷たくあしらった。
当初の国割から義輝は伊東に日向を任せる気はさらさらない。確かに伊東は相伴衆に列されているが、義輝の命を拒み、無視した過去がある。天下泰平を目の前にして、信頼できぬ者に一国を任せるなど出来ない話である。
当然、義助が日向に赴いても敵対する勢力はほぼなく、いつくかの城で接収時に一悶着あったと報告が上がってきた程度である。
問題は肝付という勢力が依然として残る大隅である。
「どうやら住吉原というところで一戦あったようです。寄せ手は肝付方だったようですが、島津方に敗れて今は居城の高山城に押し込まれているとのこと」
ところが大隅では島津の勢いが凄まじく、島津義弘・歳久兄弟は伊地知重興の小浜城を落として降伏させ、禰寝重長を調略、あっという間に形勢を逆転させていた。
「では私の役目は決着をつけることだな」
「左様でございます。島津に決着をつけさせれば、それだけ島津に所領を認めねばなりません。中納言様が出張ることによって、幕府の力に屈したことになります」
「それは肝付がか?それとも島津かな?」
と義助が問うと、親長は“何れもでありましょう”と答えた。
義輝は先の国割で島津に対して薩摩と大隅の二カ国を安堵している。これは既に島津の所領が大隅に及んでいたからであり、島津が幕府と良好な関係であったからだ。ただ島津の悲願は薩摩、大隅、日向三州の回復である。攻勢を強め、功績を挙げて伊東が滅びて欠地となる日向で復帰を目論んでいることは義輝の予測の範疇だ。
「我らが押し寄せれば、肝付は降伏するはずだ。上様は大隅を島津に与えられる予定であったな」
「然様にございます」
「豊州島津家と北郷家は如何にする?あれらの領地は大隅でなく、日向に位置しておるが?」
「細かいところは未だ決まっておりませぬ。されど上様は大名として認めず、島津家臣として扱われるはずです」
豊州家も北郷氏も日向に所領を有するが、両社とも列記とした島津一族であり、畠山や一色などの例からして、義輝は宗家にまとめて差配させる意向にあると思われた。だが大隅を島津に認め、両家の所領を安堵すれば、日向に島津の影響力が及ぶことになってしまう事は避けたいのが本音だ。日向に纏まった勢力がない以上、その影響力は無視できないものとなるだろう。
「上様は諸大名が必要以上に力を持つことを嫌われる。肝付を赦し、豊州島津も北郷も大隅に国替えさせれば、島津の強大化は防げるのではないか」
それは義助の思い付きであったが、妙案でもあった。義助は義助で義輝の手法を見て学んでおり、そこから導き出した考えが、これだった。似たようなやり方で、北国街道への出兵で義輝は能登守護職への復帰を畠山義続に認めたが、畿内に版図を得る畠山尾州家を転封としての戸に封じ、畠山氏の力を能登一国に封じる沙汰を下している。
つまり島津単体で回復できぬ大隅を幕府が認めてやる代わりに、そこで一族の面倒を纏めて見ろということである。
義輝の政策によって転封は珍しくなくなっており、如何に島津本家の後ろ盾があろうとも幕府の命令を拒むことは出来るはずもない。問題があるとすれば、肝付を赦すという点だ。
「島津の敵とはいえ、肝付は幕府と敵対している訳ではなかろう。当主を隠居させれば、赦免のきっかけにはなるのではないか」
「……確かに。しかも幕府が赦免すれば、遺恨があれど島津は肝付を潰すことが出来なくなります。潜在的な敵である肝付が家中に残れば、島津の力は削がれることになりましょう」」
想定していた訳ではないが、先に発布された九州国割で肝付に関しては言及がないことが功を奏した。表向き肝付は幕府の敵でも味方でもなく、今回は仲裁という形で間に入る事が出来る。そもそも問注所があった通り、諸大名の仲裁は幕府の役割であり、それを預かって沙汰する役割が幕府にはある。そして決定に従わせる力が、今の幕府にはあった。
「確か先々代の兼続に兼護という子がおり、他家に養子へ出ているはずです。これを肝付へ戻し、島津の配下としましょう」
島津にすれば、幕府が肝付という家を残す方針なら取り潰すのは困難だ。所領を最小限に抑えるとしても高山城のみなるだろう。また島津が伊地知は降伏させ、禰寝も調略したなら家は残さなければならない。それは領地を認めるのと同じだ。これに功ある豊州島津、北郷の二家が日向より移って来るとなれば、島津が得る大隅の領地は皆無と言ってよくなる。それを島津が不満に思ったところで幕府には勝てず、逆らえば大友の二の舞になることは、この九州遠征が物語っている。
一貫して幕府方であった島津相手に気が進まないと思わない義助であったが、これから迎える泰平の世を想えば已むを得ぬ仕置きであろう。
確かに島津がおらずとも九州平定は成ったと義助も思うが、見方を変えるなら島津とて勝ち馬に乗ったとは言える。それでも直轄領にならずとも大隅が認められ、争いのない泰平の世が訪れるなら御恩と奉公の関係は成り立つだろう。島津の奉公に対して、幕府が領地の保全という支配権の保障するからである。
「泰平の世を謳歌することで、島津には納得して貰おう」
そう口にした義助自身の心中は、不思議と晴れやかであった。父・義冬が夢みた世を自ら楽しみになっていたからである。
阿波公方・足利義助の仕置きは後に義輝が承認し、肝付は降伏して島津の臣下へ降り、豊州家と北郷家は大隅に転封となった。
「有り難き御配慮に厚く御礼を申し上げまする」
高山城で義助と対面した島津義弘は、兄であり当主である義久の代わりとして礼を述べた。
この沙汰に内心で島津がどのように感じたかは定かではないが、表向き叛意が伝わって来ることはなかったという。
【続く】
今回は今まで影の薄かった義助にスポットの当てております。
阿波公方として御一家の一角を担う義助でありますが、史実でも活動は殆ど記録されていません。義栄が死に、義昭が将軍職を継いで京を追放されると本来なら出番が来るのが室町時代なのですが、時代は戦国織豊期に突入してしまいます。
その義助は当時ですら平島公方として一定の権威を阿波国内に有していたと見られますので、幕府の力が強い拙作では以前より阿波の統治者として義輝から任される存在となっております。しかし、武将としての器量は不明で、晴藤同様に半分は架空の人物のように扱っております。
その義助が大きな存在として見て、平島公方に大きな影響を与えていたであろう三好長慶、そして長慶のように大国を有しながらも無残な死を迎えた宗麟を見て、義助はどう感じたか。それが今回の内容です。
次回で九州の平定は成り、遂に終章を迎えることになります。今年で十年目を迎える剣聖将軍記、節目の年に完結と行きたいと考えております!