第二十章 切支丹 ー行き過ぎた信仰ー
十月九日。
筑前国・大宰府
九州平定の総仕上げとして博多で軍議を催されて二日が経ち、肥前の制圧を命じられた足利大納言晴藤は博多を出立して南下、水城を越えて大宰府へ入り休息をしていた。既に先発した戸次道雪からは筑紫広門の勝尾城や鷹取城を接収したとの報せが届いており、順調に行軍が進んでいる事が窺える。明日は道雪が蒲池領へ入るために筑紫領の接収は晴藤が引継ぎ、明後日にはいよいよ旧龍造寺領である大友親貞の本領に入る予定である。
そこで晴藤は引き続き同道を許された黒田官兵衛孝高を呼び寄せ、拙速な九州制圧を命じた兄・義輝の真意を確認することにした。
「官兵衛、ここに来て上様が九州平定を急がれる理由を何と見る?」
当初は晴藤と義助に九州平定を任せる素振りを見せておきながらも博多軍議の場で義輝は、諸大名に発破をかけた。もはや九州内に幕府軍を阻めるような敵はおらず、余計な犠牲を払わず事を治めるべきと晴藤は考えており、急ぎ過ぎれば無茶な行軍、無理な城攻めが生まれ脱落者や死傷者が増えることは明確と思う。大友を倒したことで九州平定が確実視される中で余計な死傷者が出てしまうことに晴藤は懸念を感じていた。
故にそれをやれと言う兄の真意を確かめておく必要があった。
概ね義輝の意向としては、自身が博多へ帰還するまでに諸国に諸勢力を平らげろというものである。大友に与した勢力の大半は博多におり、既に降伏している為に大方はすんなりと事が運ぶだろうと推測できるが、少なからず抵抗はあるはずだ。
改めて言及するまでもなく義輝は幕府軍の中で一番の大軍を率いている。当然、いち早く成果を上げやすいのは義輝本隊となるが、その義輝の進行速度に遅れることを諸大名は許されていない。明日には博多を出陣するはずで、猶予は殆どないと言っていい。皆が義輝が迫る前に諸勢力を降しておく必要があり、あの道雪とて気が気ではないはずだ。
「大納言様の前では申し上げ難きことなれど、幕府と大友の戦いは一進一退でございました」
「うむ。毛利が先陣として上陸し、この太宰府まで進んだのは良いが、岩屋城を攻めあぐねて犠牲を払い、博多まで後退して睨み合いとなったものの博多は一度、奪われたからな」
「然様でございます。とはいえ大納言様が敗北されたとは上様も御考えにはなられていないでしょう」
「では何故だ」
「……某が推察する限りでは、一番の理由は小田原の陥落でありましょう」
「東国平定が順調であるのに、九州で手間取る訳にはいかぬということか」
と孝高の回答に晴藤は頷きを繰り返し、納得した表情を浮かべる。
(流石に上様が動かざるを得ない状況を作ったとは言えぬな)
水城への強行突破で幕府軍は兵糧不足に直面した。放置すれば周辺から徴発せざるを得ず、幕府軍の評判を貶めることは間違いない。永禄の変後に上洛した義輝は、徴発に及べば今後の統治に障りが生じると判っている。だからこそ孝高が策を実行したのであるのだが、それを晴藤に伝えるのは如何に晴藤と言えど心苦しい。
だからこそ義輝が方針転換した理由の一つであろう小田原の陥落を挙げた。
「そして上様が渡海されてからは、流れが変わりました」
「うむ。上様が渡海してより数日で道雪が降伏、すぐに博多も奪還され、そのまま首魁の松永久秀も捕縛した」
「瞬く間のことでございます。今や上様の前に敵はなく、これまでの幕府の遅滞は一挙に挽回されております。この事を上様は、九州全域ひいては天下に印象づけたいのだと思われます」
「それに犠牲を払うべき価値はあるのか」
「もちろんです。幕府の武威を天下に示すことは、天下百年の安寧に繋がりましょう」
「慈照院様らが幕府の武威を失墜させ、百年に及ぶ大乱を招いたのと逆か」
孝高の答えに晴藤は、改めて将軍家の振る舞いが天下の安寧を左右するのだと感じた。
慈照院と呼ばれる八代将軍・足利義政は、自らの継嗣問題で応仁の乱を引き起こした。それまで将軍家は諸国の大名を討伐することで幕府の武威を高めており、六代・義教までは直轄領こそ少ないまでも幕府の武威と権威は保たれていた。現に義教が暗殺された後も一時的な混乱はあれど、首謀者である赤松満祐は一致団結した守護大名たちに成敗されている。あの応仁の乱で敵味方と別れて骨肉の争いを興じた細川と山名も赤松征伐には、合力して事に当たっている事からも幕府の威光が着実に及んでいることが判る。
それが義政の時代に失墜した。
応仁の乱は十年も長く続き、疲弊した守護大名たちは京の政に関わることに嫌気を差した。それまで守護は在京して幕政に関わり、所領は守護代に任せるという慣例があったにも関わらず、自ら領国へ引き籠るようになっていく。そして義政はせっかく収まった応仁の乱以後も九代・義尚とも方針で対立して幕府内の諍いは尽きず、あろうことか大御所と現将軍の奉公衆が武力衝突を起こすにまで至っている。義尚は落ち続ける幕府の武威を高めんとして六角高頼征伐を挙行するが、その途上で陣没してしまい、跡目を継いだ義稙も高頼征伐を継続して名目上の勝利こそ手に入れたが、肝心の高頼は取り逃がしてしまい、その間に自身が明応の政変で廃立されると十一代・義澄は、高頼を赦して近江守護に復帰させている。
その後の幕府は上方で幕政を巡る争いが絶えず、次第に地方の争いに介入する力を失っていった。これを一転させ、地方勢力の争いに介入していったのが義輝である。
「故にこそ、九州を瞬く間に平らげる必要があるか……」
義輝が既に天下一統後を見据えていることは晴藤も感じている。兄の意向がそうであるのなら、弟として兄の期待に応えるだけである。
晴藤は十二日に佐嘉城へ入り、十三日には鍋島信生の義父である千葉胤連の所領も接収して東肥前を押さえた。龍造寺隆信は諸城の開城に積極的であり、晴藤も改めて龍造寺の影響力を知ることになったが、その先にある後藤又八郎貴明の所領・武雄に入ると問題が生じた。
「これから先は大村の領地となりますが、大村純忠は耶蘇教に傾倒しており、寺社仏閣は破壊され、先祖の墓まで荒らされ、耶蘇教に改宗しない領民は殺される為に故郷を捨てて逃げるしかない有様でございます」
と博多で降伏している貴明が訴えてきたのである。
大村純忠は肥前の有力大名・有馬晴純の子であり、晴純は義輝の父・義晴の偏諱を賜っており、子の義貞も同じく相伴衆にも列されているほど幕府に近い大名だ。その血筋として世継ぎのいなかった大村氏を継いで独立していた。ただ先代の大村当主・純前に実子・又八郎が誕生してしまう。応仁の乱と同様の事例だが、純前は晴純に遠慮して又八郎を他家の養子とし、家督争いを未然に防いだ。
「流石にそこまで酷くはないでしょう。安易に貴明の口車に乗ってはなりませぬ」
「私も同じ考えだ。どの道、大村領にも進まねばならんのだ。まず大村家中の者に話を訊き、然る後に純忠に問い質せばよい」
この時、貴明は大友親貞に従って従軍していたが、大村勢は従軍こそあったものの当主の純忠本人は水軍を率いて博多湾にあり、船と共に自領へ逃げ帰っていた為に不在だった。
貴明の訴えの後、大村と後藤の間に遺恨はないかと調べた晴藤も孝高は、その事から貴明が幕府の力を頼って追い出された大村の家督を狙っているのだと考え、貴明の訴えに対して結論を出さずに有耶無耶にしていた。
ところが貴明の訴えは正しかったのである。
純忠は家督を継ぎ暫くは何事もなかったが、南蛮人が拠点としていた平戸で諍いが起こり、宣教師たちが新たな湊を欲すると率先して保護して南蛮貿易を推奨、自らの湊も開放して大村領は大いに賑わいを見せた。これだけであれば良かったのだが、純忠の耶蘇教傾倒は度が過ぎていた。
自ら洗礼を受けただけでなく、家臣や領民にも改宗を強要、従わない者は容赦なく罰せられ、場合によっては殺害された。仏教徒は異教徒とされ居住が許されず、寺社仏閣は破壊され、先祖の墓まで荒らされる始末で、大村家臣団は真っ二つに割れて純前の実子で後藤氏を継いでいた貴明と繋がったのだ。貴明は同じ肥前で有力者である松浦隆信から養子を迎えて後援を得ると、両者は激突する。両者の戦いは大友による今山の合戦まで続き、対龍造寺側として強制的に徴用されると共に大友陣営に属する事になり、表面上の対立は一応の終わりに見えた。
その大友が幕府に倒された事で、貴明に遠慮はなくなった。
肥前に入った晴藤の許に後藤貴明は即座に降伏、大村純忠の非を訴えて排除を試みたのだ。もちろん大友に属していた側として所領の放棄を申し出ており、殊勝な姿勢を見せていた。これも裏を返せば大村の領地が手に入るなら後藤の領地は惜しくないという目算からだった。
それを真に受ける晴藤と孝高ではなかったが、大村領へ近づくに連れて様々な情報が入って来る。
「後藤殿の申されることは真実でございます。某の許にも純忠の非道を訴えて逃れてくる者が多くおります。力及ばずに大友殿に従っておりましたが、これまでも純忠に虐げられた民草を救わんとして幾度となく戦いに及んだ事がございます」
と貴明に続いて伊佐早領主・西郷石見守純堯も純忠の所業を報告してきたのだ。純尭は純忠と逆で熱心な仏教徒であり、純忠によって非道な扱いを受けた僧、仏教徒たちを保護し、大村領を切支丹から解放するべく合戦に及んだ事もあった。
これが決め手となった。純尭は貴明と違い、大村領に対する野心はなかったのだ。だからこそ信用に値した。
その証拠に純尭は純忠が耶蘇教を保護するまでは有馬氏側の陣営であり、正室も有馬家から迎えている。しかも晴藤と孝高が好感を抱いたのは、純尭は同じく耶蘇教を保護して南蛮貿易を行っている有馬義貞とはあくまでも協調路線を貫いていたことだ。義貞は耶蘇教に興味こそ抱いたが、自身が切支丹になることは立場から避けていた。純忠と違うのは、耶蘇教に傾倒して他の宗門を脅かしたか否かである。
貴明と純尭から得た情報が真実であることは、大村領に入ると嫌でも判った。
「話には聞いていたが、これ程までとは思わなかったぞ」
「はい。しかも聞くところによりますれば、純忠は交易の為に領民を奴隷として南蛮人へ売り渡していたようにございます」
「何じゃと!?それが真なら危ういぞ」
古来より人の売り買いは戦場では当たり前のことであり、そのことに武士として歩んできた人生の短い晴藤であっても驚きはしない。だが、それはあくまでも同じ日ノ本の国の中での事であり、他国を攻めて行き場を失った人間を人手が必要な者が買うのだ。
自らの領民を他国ましてや外つ国へ売るなど聞いたことがない。義輝が心の内で耶蘇教を危惧していることを知っている晴藤は、この事実をどう伝えるべきか悩んだ。
「有りのままを伝えるべきかと。下手に事実を隠せば、大納言様が疑われかねません」
「兄上は耶蘇教をどう扱われると思う?」
「宣教師たちが分別を弁えるなら上様も他の宗門と同様に扱われましょう。南蛮人との交易で得られる利は簡単には捨てられませぬ。されど上様は、耶蘇教が本願寺のようになることを懸念されております」
大村領内に散見される寺社仏閣の破壊は、一向一揆を思い起こさせる。かつての法華宗一揆などにも見られるように、宗門同士の諍いは遠慮がない。武家同士なら何処かで折り合いを着けるものの、宗門は相手が滅亡するまで追い詰めようとするから厄介である。
ようやく本願寺との決着がついたというのに、今度は耶蘇教と対立しては意味がない。
「肥前には切支丹が多いと聞いておる。他の場所でも同じことが行われておらぬのか?」
「至急、調べさせまする」
どの道、晴藤は肥前の国中に軍勢を派遣することになっており、行く先々で徹底的に調べ上げることにした。この惨事が大村領だけのものであれば、まだ純忠が原因として耶蘇教を擁護できるが、他の領地でも同じことが起きているならば耶蘇教は危険として取り締まらなければならない。
これにより大村純忠は改易となったが、そこで問題は収まらなかった。純忠の振る舞いが結果として切支丹を更に追い詰めることになったのだ。
「大村純忠は改易とする。純忠は有馬修理大夫の預かりとし、大村の家督と所領の一部は後藤又八郎に与える。但し、後藤領である武雄は幕府が収公し、又八郎が養嗣子としている弥二郎惟明は松浦家に戻すようにせよ」
義輝が下した裁定は、純忠を改易に処した後に大村家の家督を正統に戻すということであった。松浦家から迎えていた養子の惟明も、貴明に実子がいることから御家騒動の火種となる懸念を考慮し、実家へ戻すようにした。これにより後藤家は断絶するも貴明は望む大村の家督を得られたことになる。
同時に有馬義貞にも所領を半減するとの沙汰が下されたが、御家の存続は保たれることになった。これも有馬家が貴重な水軍を擁していることと相伴衆に列していたことに起因している。
だが純忠が所領の明け渡しを拒んだことから事態は急速に悪化していく。
「デウス様の信仰が失われてはならぬ。儂がデウス様を御守りせねば……!!」
純忠は耶蘇教を敵視している貴明や純尭の主張が認められたことから義輝が切支丹の弾圧に乗り出したと考え、信仰を守らんとして領民を巻き込み、挙兵したのだ。歴史上で最初の切支丹一揆である。
純忠は手勢に領民を加えて居城である三城城へ立て籠った。
三城城は本丸、二ノ丸、三ノ丸と主要な曲輪に深い空堀を張り巡らしており、純忠自身は難攻不落と豪語する堅城で、大村の兵自体は僅か一二〇〇と大した事はなかったが、近隣の切支丹が集まり総勢二万もの数に膨れ上がったことから、一揆は大規模化した。
とはいえ幕府も二万が少なく見える程の大軍である。純忠側も大友親貞に従って多くの兵と水軍を出して敗北したばかりであり、突発的な挙兵だったことから肝心の兵糧の蓄えは少なく、それでいて数だけは想定以上に集まった為に一揆は半月ほどで鎮まることになった。
最初の二、三度こそ頑強に抵抗して幕府軍の攻撃を跳ね返していたが、十日ほどで兵糧が尽き、勝ち目のない戦いに離反する者が相次ぎ、大軍による総攻めで多くの犠牲を払いつつも純忠は着実に本丸へ押し込められて、最後は実兄である有馬義貞の呼びかけで開城した。
「これだけ大それたことを仕出かしても自らは自害せず、生きて城を開けたと申すか!」
ただ首謀者の純忠が開城を選んだことに義輝の怒りを更に増すことになった。
「切支丹は自害を禁じております。故に純忠は自害することなく城を開ける事となった次第にございます」
「たわけッ!切支丹である前に純忠も武士であろう!武士ならば潔く自害して果てるか、最後の一兵になるまで闘って討ち死にするか二つに一つじゃ!信仰の為に武士としての生き方を忘れるなら、武士など辞めてしまえッ!!」
として義輝は純忠を即刻、斬首にするように命じたが、九州にいる宣教師たちが純忠の助命を求めてきた事で、事態は輪をかけて悪化した。
「純忠は余に逆らっただけでなく、悪戯に領民を巻き込み、命を奪ったのだ。貴様らの申すデウスとやらは、そのような悪行を成した者の命すら救えと言うのか!」
と激昂、それ以後は九州にいる間に宣教師たちは誰も義輝と会うことは出来ず、切支丹となっていた者たちも処罰を恐れて義輝へ近づかなかったという。
唯一、純忠の行いで救われた者たちがいるとするならば、それは肥前の国衆たちであろう。彼らは所領こそ削減されたものの、大村一揆を赦免を勝ち取る絶好の機会として捉え、総力を挙げて幕府軍に協力、三城城攻めでも競って先鋒を争い、莫大な犠牲を払った代償として御家存続を勝ち取ったのだ。
最終的に義輝は、大村領での惨状が他の地域に見られなかった事から純忠の行き過ぎた耶蘇教信仰が一揆の原因と判断した為に禁教令こそ出しはしなかったが、場合によっては耶蘇教が一向一揆のような発展を見せることを知ることになった。
これを機に切支丹になる武士たちは確実に減り、宣教師たちの布教活動も鳴りを潜めていくことになる。
確実に切支丹たちの未来に暗い陰を落とすことになった。
【続く】
今年最後の投稿です。
さてさて早くも切支丹一揆が起こりました。史実で秀吉の九州征伐に従っている純忠でありますが、死の直前だったこともあり、一揆には至りませんでした。しかし、純忠の切支丹保護は度が過ぎていたのは史実でも明らかで、拙作ではまだ元気な純忠は信仰を守るために挙兵するに至った次第です。また秀吉に高圧的であったコエリョが来日したばかりということもあり、伴天連追放令にまで至っておりません。
とはいえ切支丹の危険性は強まっています。
さて九州平定がまもなくとなり、来年は拙作も執筆開始から10年を迎えます。こんなに長くなるとは思っていませんでしたが、まあ私の更新頻度が落ちているので仕方なく、来年こそは完結に向けて書いていきたいと思っています。
それでは皆さま良いお年を!