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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第八章 ~鎮撫の大遠征・西国編~
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第十八章 将軍の武威 ー威令、九州に轟くー

十月七日。

筑前国・博多


 傀儡の征夷大将軍にまで身を落とした足利氏の凋落、それは日ノ本の歴史に百年にも及ぶ戦国乱世を生み出した。混迷の時代は終わることなく続くかと思われたが、永禄の変で歴史の流れはガラリと変わった。沈みゆく足利幕府を見事にまで復活させた十三代将軍・足利義輝。その宿敵として名を挙げられる道意こと松永久秀は、ここ九州の地で捕縛された。


 現時点で九州の大半、そして奥羽が幕府の支配下にないものの松永久秀の捕縛を以って戦国乱世は終わりを告げることになる。


 松永久秀の捕縛。


 その報せは博多に到着した幕府本隊の許へも届き、腹心の柳生兵庫助宗厳に捕縛の密命を下していた義輝自身が成功の報せにホッと一息と安堵の溜息を漏らし、自らの中で大きな区切りを着いた事を感じていた。


(余と久秀の戦いも、これで終わりか……)


 当初は三好長慶の影に隠れていた久秀であるが、頭角を現すのに差して時間はかからなかった。実際、長慶は義輝に対して一定の線引きや配慮が感じられたが、当の久秀は陪臣の立場にありながらも一切の遠慮がなかった。それでも義輝は久秀自身が長慶に従順であったことから、その振る舞いは長慶のさせている事として捉え、長きに亘って長慶を敵視していた。


 しかし、あれは久秀自身の考えでやっていたことだと、今になって思う。


(貴様は何故に余に抗った。何を求めて余と戦ったのか)


 その答えは義輝が考えても浮かんでは来なかった。


 久秀は今でこそ義輝の宿敵として名を残しているが、元は三好家臣である。永禄の変で義輝の暗殺を謀り、それに失敗しても三好家中で義栄を次の将軍に就けるべく画策、その中で権力争いが起こりはしたが、覇権を争いこそはすれ謀反を起こして三好家中を飛び出した訳ではなく、久秀が決断すれば早々に義輝へ降った義継の配下として生きていくことも出来たはずだ。久秀は義輝の暗殺に直接的に手は出しておらず、当時は諸大名に頼り切りだった義輝に平身低頭すれば陪臣の立場から命だけは長らえられただろう。


 これが久秀が元々大名というならまだ理解する。幕府政権下の守護大名は名目上は幕府の枠組みの中にこそあれ、実際は独立した存在であった。人の下に付きたくないとして、義輝が天下一統を進めるに当たって淘汰されてきた大名たちは多い。しかし、久秀は三好家臣であり、人に仕えることには慣れているはずだ。


(余は乱世を終わらせるべく戦ってきた。世を平らかにせんと想い、武家の棟梁たる征夷大将軍で在りながらも泥水を(すす)って傀儡に甘んじ、時には抗い、穏やかな世を求め続けた)


 その実現が目前にある。だからこそ義輝は、立場は違えど政争で混沌の都を見てきた久秀が何を理想に闘ってきたか、その理由が気になった。


 敵対するに至った足利義昭は古き足利幕府の再興を、武田信玄は正しき源氏の世を求め、三好長慶は理世安民を掲げた。彼らには彼らの目的があり、理想があり、その為に義輝と敵対しながらも戦い抜いた。


 では久秀はどうか。長く久秀と戦い、少なからず人となりも知っている義輝でさえ、その片鱗は見えてこない。幕府に、将軍に抗うのだ。それ相応の理由がないとは思えない。


(聚光院よ、お主は判っておったのか)


 果たして久秀の旧主・長慶はどうような想いを抱いて久秀を重用していたのだろうか。あの長慶のことであるから、大友親貞のように傀儡となっていた訳ではあるまい。だが長慶だけが唯一、久秀の手綱を握れていたことは間違いのない事実だ。


 そこで義輝の思考は終わった。考えても答えが出ないからだ。今は他にやるべき事がある。早速に大友勢の解体と再編成を命じて、九州地域の制圧を進めなければならない。

 後の問題は、残る九州地域をどう平定していくかである。大友家が九州の大半を制していたことで一応の平定こそ成ったように見えるが、実際は南部まで兵を派遣して幕府の威を示す必要はあるだろうし、降伏を認めない大友の家臣も一部でいるはずである。


 そこで降将を含めて軍議が催された。大友が降伏したとはいえ、未だ戦地である。降将の処遇を含め、軍議の席でまとめて決めてしまろうというのだ。


 その席では実弟の晴藤が衆目の前で義輝へ謝意を示した。


「此度の御来援、誠に忝く存じます。また御役目を果たせず、申し訳ございません」

「我ら一同、大納言様をお支えする立場にありながら不甲斐なき結果となりましたこと重ねてお詫び申し上げます」


 晴藤に続いて毛利参議輝元、細川参議藤孝ら副将、そして中国勢の面々も晴藤に倣って揃って謝意を示し、許しを請うた。


「毛利、細川の両宰相がいながらも此度は不手際であったな。まあ大きく兵を失った訳でもない。示しが付かぬ故に咎めなしとはいかぬだろうが、大きく罰することもせぬ。今後の働きで挽回せよ」


 と義輝は先遣隊として九州に入っていた面々に慈悲を込めて応対した。まだまだ九州での戦いは終わった訳ではなく、今後の事を踏まえても士気を下げるのを嫌ったのだ。


「とはいえ大納言、武将として一皮剥けたようだな」

「そのようなことは……、官兵衛の助言があればこそにございます」

「だそうだぞ、左少将。やっぱりそなたの思惑通りではないか」


 と言って謙遜する弟を目の前に義輝はニヤリとほほを緩ませる。傍に侍る土岐左近衛少将光秀も罰の悪そうに苦笑いを浮べるしかなかった。


「さて、まだ戦は終わった訳ではない。二日ほど休息するが、その後は先へ進むぞ」

「上様が自ら赴かれますか」

「九州の南では余に忠義を尽くさんと闘っている者たちがいる。余が自ら労ってやらねばなるまい」


 どの道、将軍の威令を九州に轟かすには出馬は不可欠である。であれば、まだ合戦が終わっていない段階で進むのが一番いい。幸いにも晴藤は博多合戦で敵中突破を図って成功させている。これで晴藤を軽く扱う者は少なくなるはずだ。


(まさか敵中突破を図るとは思わなったが、余の目算以上に事が進む)


 義輝は晴藤に播磨公方として西国諸将から軽んじられぬよう九州平定を一手に担わせる予定であった。一大事業を成す以外に方法がないと考えたからだ。しかし、晴藤は合戦で公方として後ろに控えるだけでなく、前線で見事に闘って見せた。しかも西国諸将と轡を並べてだ。もはや晴藤を軽く見ようとする輩はいないだろう。それ故に義輝が前面に出ることが許される。


 後は将軍の武威を九州に広める。その為に軍議でもあった。


 大友勢は大友親貞と松永久秀の捕縛で幕府勢に抗うことは出来ず、降った。元々六万以上の幕府軍に包囲されていたところ義輝の本隊七万余が加わり、総大将と参謀を失ったのであるから無理もなかった。しかも内部から吉弘鎮信と高橋鎮種の兄弟が戸次道雪へ同調し、まともに合戦が出来る状態でなくなったことも大きな理由の一つだ。さらに阿蘇惟将、筑紫広門など合戦中に寝返られなかった者たちに戦意はなく、義輝の到着と同時に旧菊池家臣の赤星統家ら肥後衆を含めて揃って膝を屈し、義輝に対して降伏を申し出ては所領の安堵を求めてきた。


「今さら降伏してきても遅い。所領の安堵など認められるはずもなかろう」


 それらを義輝は冷たくあしらった。当たり前だが、理由はどうあれ敵対した彼らを庇う理由を義輝は持ち合わせてない。特に彼らが幕府に貢献した事実もなく、累代の忠孝を今になって持ち出して救ってやることも義輝はやらない。それをしてしまえば既に従っている大名たちから不満が出るからだ。今から新たに強き幕府を創ろうとしている義輝にとって、その方が拙い。命こそ獲らず、新たな守護の下で生かしてやるだけで充分だと義輝は考えている。


 そうまでしても彼らに歯向かう力は残されていない。生き残るには屈服するしか道は残されていないのだ。


「我が龍造寺は大友に人質を獲られ、已む無く従っていたまでにございます。幕府ひいては上様に弓を引く心算は毛頭なく、今後は如何なる御下知にでも従う所存にございます」


 その中で堂々たる振る舞いで歩み出たのが肥前の熊と呼ばれた龍造寺隆信である。背筋を伸ばし、その歩幅も大きいことからも自信の程を窺い知れる。傍には腹心の鍋島信生が控えさせ、事前に島津家久へ恭順の意思を伝えて博多合戦に於いても寝返って一定の戦果を上げていることから、敗者となった者たちとは違い、隆信は自らは所領安堵を勝ち取れると踏んでいた。その姿勢が振る舞いにも表れている。まさに“将軍など恐れるに及ばず”という態度である。


(厄介なことにならねばよいが……)


 それを見て心配したのが細川藤孝である。長年の付き合いから主の性格を知り尽くしており、隆信を“井の中の蛙”として見ていた。


「つきましては我が居城・村中城が未だ大友の手にございます。我らを先陣として遣わし、奪還の許可を頂きたく存じます」


 隆信が仰々しく頭を垂れる。正面の義輝からは見えないが、脇にいる藤孝からは隆信が笑みを浮かべているのが判る。自分の望みが叶うと思っているのだろう。


 だが隆信の予想に反して義輝は隆信にも情けはかけなかった。


「奪還と申すが、既に奪われて久しいかろう」

「お恥ずかしき事でございます。故に我ら龍造寺勢、上様の御為に先陣を切って尽力いたしたく存じます」

「殊勝な心掛けよ。なれば村中城を取り戻した暁には、余へ献上してくれるのであろうな」

「そ……それは……」


 言葉では何とでも言えるが、要は隆信は自分の城を取り戻したいだけなのだ。その為に幕府の軍勢を利用する。既に死に体の大友を相手に、旧領の奪還を図ろうとしている。


 それを見透かせぬ義輝ではない。


「如何なる下知にでも従うと申したばかりではないか。まさか余の前で偽りを申したのではあるまいな」


 途端に義輝の眼光が鷹のように鋭くなり、声も低い。漲る覇気を隠さずに全身に漂わせ、一切の容赦なく隆信を威圧した。咄嗟に“拙い”と本能で悟った隆信は、先ほどまでの態度を翻して縮こまり、額を床に付けて謝罪した。


「い……偽りはございませぬ。如何なる御下知にも従いまする!」


 信生も主に倣い、頭を垂れる。必要なら助言をと思い控えていたが、義輝の前では口を噤む他はなかった。


(今の公方様には何を言っても無駄だ。ここは素直に服従するしかない)


 それが信生の率直な感想だった。隣で冷や汗を掻くしかない自分を恥じる。


(あの久秀に敗れた我らが、勝った公方様から言質を引き出すなど元から不可能だったのだ)


 結局は一地域で争ってきた自分たちだ。天下を相手にしてきた義輝とは何もかもが違った。この際は夢を見ず、ただただ忠勤に励んで功績を積み上げるのが遠いようで近道であろうと信生は思った。


「この際に申し渡しておく。余は九州の如何なる者たちを余の命で闘った細川や毛利などの大名より重く用いる気はない。改易にはせぬ故に心置きなく、余への忠勤に励むがよい。さすれば働きに応じて、余が報いてやろう」


 結局は後から従った者たちだ。いま幕府に味方するのも己の事情が最優先してのことで、心から忠節を向けてのことではないことくらい義輝には判っている。


 だからこそ、その程度の忠節にかける恩情は相応のものにでしかない。


「蒲池宗雪なる者は最後の最後まで主家に忠節を尽くしたと聞いた。敵ながら天晴である」


 一方で逆に最後まで抵抗した蒲池鑑盛については“敵ながら天晴”と戦いぶりを賞賛した。これに降った道雪も“宗雪殿の義心は鉄のごとし”と称した為に、義輝は宗雪と共に壮絶な討ち死にを遂げた三男・鎮安の遺児に家督相続を認め、所領の削減を告げるも本拠たる柳川城は安堵とし、敗者ながら最大限の賛辞を表した。


 これは義輝が自身が対象でなくとも、忠義を尽くした者に寛大であることを天下に示すことになった。事実、御家第一に降伏した道雪も相応の立場を得ており、具体的な所領を得ているわけではないが、降将の中では厚遇されている。


 九州征伐を機に義輝は改めて御恩と奉公の関係を世に示さんとしたのだ。それ故に寝返りを主張するも父を見捨てた形となった鎮漣の恭順は認めず、今後の討伐対象とされた。


「三渕右京大夫は博多に留まり、その復興に尽力せよ。同時に対馬に使者を出し、宗讃岐守を出仕させよ」


 義輝は評定衆の筆頭である藤英に博多の留守居役として対馬の宗氏との取次を命じた。


 宗氏は鎌倉時代からの地頭で、足利幕府では九州探題の対馬国守護代として領国を治め、その後に守護に昇格した武家だ。現在は義純という者が早世した兄の跡目を継いで当主にあったが、父・讃岐守義調が健在な為に実権は義調にあった。


 その義調は義輝から偏諱を賜っており、元の関係は悪くない。今回の遠征に於いても事前に連絡を取っており、宗氏は幕府に従うことを改めて誓っている。故に今回、義輝は博多に召し出して分かりやすい形で屈服させる気でいる。


「讃岐守の忠誠を疑ってはおらぬが、壱岐の者どもを自由にさせたのは失態だ。親子揃って出仕させよ」

「畏まりました。壱岐については如何されますか」


 博多合戦の様子は義輝にも伝わっている。大友に味方した壱岐などの水軍を許すつもりはない。


「毛利宰相に挽回の機会を与える。水軍を出し、壱岐を始めとした諸島を押さえよ」

「承知仕りました。早速に水軍を赤間ヶ関より呼び寄せます」


 大友の降伏により周防灘に張り付けていた水軍を縛るものがなくなった。これにより幕府水軍の一部となっていた毛利水軍は自由に日本海へ出られる事になり、その圧倒的な船数で一挙に海を制してしまおうというのだ。


「余は筑後から肥後、薩摩へと進む。道雪は道案内として先行し、余の進む道を清めておけ。一手では兵が足りまい。筑後、肥後の国衆は道雪に従わせるが、歯向かう者はおれば容赦なく攻め滅ぼして構わぬ」

「過分なご配慮、痛み入ります。必ずや上様の御期待に添えて御覧に入れまする」


 道雪はヒヤリと汗をかきながら、自分に課せられた難題と向き合った。


 大友の配下であった筑後や肥後の国衆を任せられて道雪は、一見して信任された形に見えるが実情は逆だ。まだまだ大友降伏の報せは九州に広まっておらず、抵抗勢力は存在する。如何に道雪が赴いて開城を告げたとしても、人は感情の生き物だ。いきなりの事で受け入れるのに時間もかかるし、現実を否定して反発に奔る人間もいる。そう言った輩がいないとも限らないのだ。


(条件次第で皆を降伏させることは出来るであろう。されど時をかける事が許されぬなら、無条件で屈服させるか、攻め滅ぼすしかない)


 道雪が冷や汗をかいた理由は、ここにある。


 義輝は“進む道を清めておけ”と言った。これはつまり、義輝が到着した時点で抵抗勢力が残っていれば、処罰される可能性があるということだ。所領安堵さえ認められるなら、それも可能だろうが、それは保証されていない。そして筑後と肥後の国衆を付けるという事は、道雪には彼らを滅ぼせるだけの兵力を与えるということだ。


(降伏した者に平然と兵を貸し与える。もし儂が裏切っても痛くも痒くもないということか)


 筑後と肥後の国衆に道雪の兵を合わせれば、その数は一万数千に及ぶ。常ならば大兵力であり、筑後と肥後に残っている兵は多くないことから、それこそ城の切り取りも自由になるだけの数だ。だが義輝には一万数千を切り離しても十数万以上もの軍勢が手元に残る。別行動をしている四国勢を呼び寄せれば、その数は二十万にも届く。


 元から大友家の存続を願う道雪は裏切る気もないのだが、容赦なく難題と共に突きつけてくる改めて将軍の恐ろしさを感じることになった。


(つい先年まで諸大名を頼っていた方とは思えぬ。……いや、有名無実と化していた幕府を再建なされたのだ。義輝公は稀代の英雄であろうさ)


 ならば命に従い、尽くす他はなしと道雪の心は定まった。


「大納言は肥前へ進み、隅々まで制するのだ。余は薩摩まで赴くが、余が博多へ戻るまでには国衆をまとめておけ」

「しかと承りました」


 次に義輝は実弟に対して命令を下し、晴藤が深々と頭を下げる。その中で晴藤は兄と自分の違いをまざまざと見せつけられた気がしていた。


(流石は兄上だ。私にまで容赦がない。されど、これが将軍の器ということなのだろう)


 かつて平家は天下無双を誇りながらも一門を重用しし過ぎた故に反発を生み、滅びた。逆に平家を滅ぼした源氏は一門を軽んじ、北条得宗家の専横を許した。その北条得宗家も一族と縁者で栄華を極めるも多くの武家から敵視され、盟主として立ち上がった足利尊氏が新たな幕府を開くに至った。


 平家の敵は源氏であり、同じ武家だった。得宗家の敵は御家人であり、同じく鎌倉殿を主に戴く同僚たちである。そして尊氏も盟主であるとはいえ三管領など足利氏の庶流に位置する者以外、他の武家にすれば主従関係はあっても、あくまで名目上の緩いものだった。


 また足利氏は初代・尊氏と直義兄弟の関係から身内にも甘く、鎌倉公方など強大な権限を付与、後継者以外は仏門に入れるなど処置を施していたが、跡目争いは絶えなかった。


 その負の遺産を清算する狙いが義輝にはある。


(兄上は屈服を求めることで、強固な主従関係を結ぶつもりだ。全ての武家の頂点に、名実ともに立とうとされておる)


 朧気ながら晴藤にも義輝が目指している先が見えてきた気がした。将軍家の一強時代を築くつもりなのだ。その為に京畿七カ国を直轄地とし、周辺国に公方領三カ国を据えたのだ。


 後は九州を平定し、そこへ新たな地盤を作れば、地方で力を付ける大名もいなくなる。


 その布石として、義輝は諸大名に幕府の強大さをまざまざに見せつける事実を告げる。


「それとだ。つい先日のことだが、小田原は落ちた」


 その言葉に衆議はざわついた。


 如何に九州の者とはいえ、小田原の名は知っている。関東の雄たる北条氏の本拠地として、天下に轟く名将・上杉謙信の攻撃を跳ね返した堅城として有名を馳せている。


 流石に具体的な城の概要など知る者は九州にはいないが、大大名である北条の居城が落ちたというのは衝撃が大きい。しかもこれには毛利など幕府に従っている大名たちからも驚きの声が上がっている。それだけに北条という存在は大きかった。


 その家が倒れたのである。


「う……上様は東国にも軍勢を出されていたのでありますか」


 将の何れかが誰も疑問に思っていた事を口にした。


「天下万民の為、一刻も早い乱世の終焉が必要であろう。東国には織田大納言や上杉左中将を始め、二十万ほどを向かわせておる。直に東国も治まるであろう」


 愕然とした者は多い。九州への遠征ですら大兵力を送り込んできたにも関わらず、同じだけの兵力を東に送っているとは誰も思わなかった。


(抜かったわ。それを最初に知っておれば、殿にあのような真似はさせなかったものを……)


 事実を知って、信生は心底で悔しがった。幕府の力を正しく見極めることが出来ず、将軍の印象を悪くしてしまった。


 その信生と同じように誰もが“勝てない”と心から感じただろう。いや感じされられたというべきか。


(上様の武威、ここに極まれりと言ったところか。これは兄上にも重々に言い聞かせておかねばなるまいな)


 一連のやり取りを傍目から見ていた島津家久は、薩摩で闘う兄との間もなくな再会に備え、その立ち回りに充分に気を付けるよう伝えねばと心に固く決めた。島津とて幕府に従うのは自らの都合である。武門らしく殊勝に振る舞わなければ義輝の不興を買うことになりかねない。義輝が号令を下せば、強兵の揃う薩摩兵であっても一月と持たないだろう。


 その圧倒的な武力を背景に、義輝の武威は九州へ浸透していくことになる。九州の平定ひいては天下一統が目の前にまで迫っていた。




【続く】

約二カ月間、お待たせして申し訳ございません。


義輝ロスを感じている方も多いのではないでしょうか?私もその一人であり、こんなにも義輝が大河いや時代劇で取り上げられたのは初めてではないでしょうか。拙作は、あの永禄の変で義輝が生き延びた先のお話です。長谷川十兵衛が「義輝様に御仕えしたかった」との言葉を聞いた時は感慨深いものがありました。


今回、かなり影響を受けて加筆と修正を繰り返しました。流石にタイトルだけは作中に入れるのは割けましたが、少しは大河では描かれなかった義輝の雄姿、将軍としての姿を描けられたかと存じます。義輝という存在にもっと皆さんが興味を抱いて頂けたなら幸いです。


いよいよ大河も光秀の時代が到来しますね。楽しみです。

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― 新着の感想 ―
[一言] 薩摩入り目前の義輝ですが、その南方にある琉球については何か考えているのでしょうか? 史実においてペリー提督が5回も琉球を訪れた(彼は武力占領も視野に入れていた)ように、西洋勢力からすれば琉球…
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