表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第八章 ~鎮撫の大遠征・西国編~
179/200

第十六章 王者の戦 ー義輝の渡海と英傑の死ー 


九月二十七日。

安芸国・厳島


 将軍・足利義輝が京を発し、毛利領・厳島に到着して二日が過ぎた。島に到着した当初こそ風景を愛でていた義輝であったが、九州の情勢が伝えられ始めると軍議を催し、今後の方針について諸将の意見を諮ったが、義輝の意向で一先ず様子見に徹することで一応の決着をつけた。


 ところが義輝の許には博多で幕府軍と大友軍が激突したとの報せが舞い込むと状況は一変する。


「ほう、官兵衛がやりおったか」


 火蓋が切って落とされたのは義輝が黒田官兵衛孝高を派遣した直後のことであり、自身の一手が戦局を動かしたと手応えを感じた義輝であったが、寄せ手が大友側であったことから考えを改めるに至った。


(余の動きに怖気づいたか)


 既に十万の軍勢を九州に投入している幕府軍は、後詰を担う義輝の本隊だけでも七万を超える大軍勢である。流石に動向を隠すことは出来ず、本隊の動きは大友側にも伝わっていると考えるのが妥当だ。少しでも兵法をかじった者ならば、幕府軍が合流する前に叩くのが常道だと判るだろう。義輝の出陣は大友の待ちの姿勢を崩した可能性があると義輝は考える。


 実際に松永久秀は、義輝が動く時期に玄界灘の幕府水軍が数を減らすと予測して策謀を練り上げている。流石の策謀は久秀らしさがあったものの、あの久秀ですら他に手がなかったとも言えた。


「全ては大友が上様の威を恐れたが故に他なりませぬ」


 義輝の考えと同様に土岐左近衛少将光秀は、それらを含めて“義輝の威”と表現した。


 光秀は京より義輝の傍近くに仕え、その知恵袋として九州攻めの参謀を任されていた。もはや義輝は天下の誰であって無視できない存在となっている。義輝の歩みは、確実に敵の行動に影響を与えている。恐らくは誰もが心の底では“将軍が来れば勝てない”と考えていることは間違ない。


「早速に官兵衛が動いたぞ。そなたの思った通りになったな」


 状況が変化し、決して手放しして喜べるような結末ではないものの不思議と気分は悪くない。というのも実弟・晴藤が最後に行った敵方への突撃が孝高の策であると考えたからである。そして弟は公方という立場ながら我が身可愛さに撤退を選ばず、家臣たちと共に進むことを決断した。


 その気概、足利の名に相応しいと思う。


「買い被りにございます。官兵衛は恐らく姫路大納言様を退避させようとしたはずです。退かず、共に進んだのは大納言様の御覚悟があってのことかと」

「それは余も理解しておる。大納言も肝が据わってきた。されど官兵衛の叡智(えいち)があればこそでもある。あれは一介の将にしておくのは勿体ない」


 光秀が言うように公方という身に甘んじようとせず、晴藤が兵たちと共に進んだ気概は素直に評価できた。家臣たちからすれば、もっと自分の身を一番に考えるべきだと思うかもしれないが、その辺りは義輝にも通じるところなので、頭で理解できていても否定する気にはなれない。


 何だかんだ性格が違うと言っても晴藤は自分の弟なのだと、改めて感じてしまうと自然と笑いが込み上げてくる。


「されど敵に松永久秀がいたとは驚きました。しかも敵の大半が久秀の仕立てた軍勢とは……」


 確かに久秀の名が報告に上がった時は驚いたものだ。それも伊勢から船で逃亡したとの報せを受けた際、東国に逃げている可能性が高いと踏んでいたからだ。故に織田大納言や厩橋中将には東国平定と同時に久秀の捜索も行うよう固く命じている。


 まあ流石に松永久秀の名を聞けば一瞬だけ眉宇を曇らせた自分がいたのは痛快だった。久秀に対する苦手意識が心の奥底に眠っているのだろう。長きに亘って染みついてきたものは、そう簡単に拭い去れるものではないらしい。


 だが所詮はそれだけだった。それ以上の事は何も思わなかった。


「久秀め。相も変わらず人に取り入るのが上手い。次は大友の縁者に取り入り、性懲りもなく余への復讐を企んだか」


 と逆に興味を抱いた程だ。


 報告によれば久秀は大友親貞なる人物に接近し、合戦の主導権を得る立場に収まっているとか。よほど親貞が阿呆なのか、それとも宗麟が間抜けなのか。はたまた両方か。もちろん久秀自身が憎たらしくも有能だからなのだろうが、それにしても相も変らぬやり方に義輝は呆れて果てる。


 最初は三好長慶、その死後に義継と取り入り、元亀擾乱では畠山高政や朝倉義景、無人斎道有と立て続けにすり寄って武田信玄を謀反方の中枢から遠ざけ、いつの間にか首領にまで上り詰めていた。そして今度は大友親貞か。


「それ程までに余が憎いか。あるいは天下に余程の執着があるのか」


 せっかく元亀擾乱から生き延びた命なのだ。姿を見せなければ静かに余生を全う出来たかもしれない。それでも天下に執着するのは、どれほどの志があってのことなのだろうか。いっそ捕まえた際に聞いてみるのもよいかもしれない。


「久秀は如何にしておる」

「大友勢は博多に留まったままのようにございます。小競り合いも起こってはいないとか」


 博多合戦は晴藤の敵中突破により終結を迎えていた。


 幕府軍は晴藤に毛利、吉川、細川など後続が続き、敵を討ち破るのではなく、遮二無二に南下を目指した為に博多へ上陸した肥前・壱岐の水軍は背後から急襲をしたにも関わらずに大した戦果も挙げられず合戦は終わることになった。傍目から見れば大友方が博多を奪還したように映るが、その実は西の高祖城、南の水城、北の立花山、東は山々が連なり幕府軍に包囲された形で、閉じ込められたというのが正しい。また晴藤が水城を奪取して備えを固めたことで肥前から続く兵站を断つことにも成功している。


(されど危ういのは大納言も同じ)


 正直に有利かどうか定かではない状態だった。敵の兵站を断ったと同時に晴藤も兵站を失っているのだ。立花山にいる者どもには陸路でも海路からでも兵糧は運べる。高祖城は抑えの名和行直を尼子勢が撃破しており、籠城予定の城内にも兵糧はそれなりに備蓄されている。


 ただ水城には僅かながら大友方が残した兵糧があっても晴藤が連れた四万もの軍勢を食わせていくには圧倒的に足りていない。周辺から狩り働きなどで集めなければ、半月も保てないだろう。だが九州が新たに幕府の支配を受けるようになることを考えると徴発は避けたいのが本音だ。となれば米価がいくら高くなろうとも借財してまで賄った上で、龍造寺などに鞍替えしてきた物たちにギリギリまで捻出させる。幸いにも時節は秋であり、市中に米は多い。


 反面、大友方は博多を手にしたことに加えて幕府軍が残した兵糧があるので、兵糧の問題は直面していないと考えられる。大友方の問題は八方塞がりな点だ。


 一万ほどいる立花山を攻めるには最低限三万は必要で、責めれば晴藤らが後巻きに出る。これは高祖城を攻めても同じだ。もちろん水城を攻めるにしろ寄せ手と守り手がほぼ同数である以上は味方が有利で、かつ立花山城や高祖城から背後を襲うことが出来る。今回は何処を向いても陸地での合戦となるために、博多合戦で決定打に成り得た水軍の出る幕はない。


 大友方が勝利するには、援軍が不可欠。だが援軍と成り得る軍勢は門司の四国勢を無視しては動けず、肥後にいる軍勢は島津の相手をしなければならない。つまりは自力でなんとかしなければならない状況で、打つ手がないのだ。


 久秀は博多合戦で中国勢を確実に撃破しなくてはならなかった。その機会を失った以上、もう勝ち目はない。ここから先の問題は、どう終わらせるかだ。


「ほう。して姫路大納言は如何にするつもりだと?」

「大納言様というよりは、官兵衛でしょうな」

「ふっふっふ。余に動けと、そう申しているのだな」

「動けなどと、畏れ多いことでございます」

「よい。僅か一手にて全てのお膳立てをしたのだ。褒美を与えたいくらいぞ」


 恭しく頭を下げる光秀を前に義輝は込み上げる笑いを抑えずにはいられなかった。


 大した兵糧がないことは、博多を失ったことから想像に難くない。となれば救援が不可欠となり、それは門司を動けない四国勢ではなく、義輝の本隊でなければ担えない役割だ。水城の奪取、博多の放棄が兵糧不足を生むことを孝高が理解していなかったとは思えない。


 確実に孝高は、どうなるかを理解して策を実行している。


 孝高は光秀の傍らにいたことから、九州平定を晴藤に任せるという義輝の方針を知っている。暫くの渡海は控える方針を知っていながら義輝が動かなければいけない状態を作り上げたことから、先の会話が生まれている。ただ義輝が孝高を憎めないのは、この策が諸大名の強大化を望まないという基本姿勢をきちんと反映しているからだ。


「何であれ中国勢は、上様の御命令である博多の維持という主命が果たせなかったことになります。これでは叱責を受けることはあれど、恩賞を与る訳にはいかなくなりました」


 光秀の言う通り、晴藤は大友方を封じたとはいえ博多を放棄した。そして尻拭いを自分が行うのだ。主命を達成できなかった事で、中国勢は恩賞を手にする機会を失ったのである。それは九州での権益を幕府がより多く手に入れられる土台を孝高が作り上げたことになる。


 それを義輝は“お膳立て”と称した。


(今までの上様であったなら、久秀の所在が明らかになったなら必ずや自ら手を下しに征かれると思っておったが……)


 逆に光秀は義輝は状況を楽しむばかりで、その言葉から方針を変える素振りを見せないことを不思議がった。


 言わずもながら義輝の宿敵と言えば誰もが松永久秀の名を口にする。何度も何度も煮え湯を飲まされながらも成敗するには至っていない怨敵を目の前にして、義輝はどこ吹く風の様子だ。動かなければいけない状態であるものの、傍目から見て映る義輝は、あまり久秀に捉われていないように思える。


「上様、あの久秀が博多におりまする。ここは御自ら成敗に向かわれては如何でしょう」


 そこで光秀は久秀を餌に義輝へ出陣を促した。一度は晴藤に任せた以上、軽々に自身が動く訳にはいかないと主は考えているはずだ。仮に中国勢が自力で大友勢を討ち破った場合でも主命を守れなかったとして処罰こそせず、恩賞を与える必要もなくなっている。仮に与えるとしても、僅かでいい。


 主は義輝を除く足利公方を軽んじる気風が西国に立つことを懸念している。ただそれも今回、晴藤が先頭を切って敵陣の中央突破を図ったことから諸大名の信任を得たはずだ。もちろん阿波中納言様はどうなのかという問題はあるが、義助は平島公方の系譜として四国に長く権威を根付かせている。その事から四国の諸大名は自然と阿波公方家を敬っている。


 問題は晴藤の方なのだ。中国地方で所領を得る毛利や吉川、小早川に尼子などは義輝に屈したか恩義を感じている者たちだ。彼らにとって義輝が重く、晴藤が軽い。もちろん義輝が将軍である以上はその関係で問題はないのだが、今は晴藤が軽すぎる。それを今回の遠征で是正しようというのが目的の一つである。


 それは半ば解消されたと光秀は見ているが、それでも主が自ら動き出す理由には弱い。何せ、ここで動かずとも孝高なら別の策を導き出す可能性は高く、また義輝には全てに於いて孝高の意思に沿ってやる必要もないからだ。


 だからこそ義輝が自ら動こうとする理由が必要だと光秀は考えた。本音では義輝自身に九州平定を成し遂げさせたい光秀にすれば、久秀が大友にいたことは僥倖としか言いようがなかった。久秀なら主が動く理由としては充分だろうと思った。


「捨て置け。今さら奴が何を企てようとも余の天下一統を阻むことは出来ぬ」


 ところが義輝は動かなかった。もはや久秀など歯牙にもかけていない様子だった。


 既に天下一統は間近に迫っている。かつての西征と違い、今の幕府は盤石だ。九州でどんな事が起ころうとも義輝に不安なく、歩を進めれば進めるだけ幕府の支配域は広がる。その余裕が今の義輝にはあった。これは決して、油断ではない。


 その義輝を動かしたのは久秀ではなく、遠く関東で闘っている織田信長であった。翌日、京から派遣された早馬が急報を告げたのだ。


「小田原城、陥落!」


 開口一番、使いの者は端的に用件を報告した。


 激震が走ったというのは、まさにこの事であろう。報告は博多での合戦の報せを受けて催された軍議の席で告げられ、義輝も含めて本隊に属していた誰もが小田原城の落城に驚いた。


「あの小田原が、斯様にも早く落ちたと申すのか?」


 まるで落城して欲しくないような口ぶりだが、それも仕方がない。誰もが小田原城が落ちるのには随分と時間がかかるものと思っていたのだ。あの上杉謙信が十万の大軍で攻めても一郭すら落とせなかった難攻不落の小田原城である。義輝は早くて三カ月、長ければ一年以上はかかるのではないかと予測していた程だ。それを信長は僅かな日数で落とした。


「小田原城は包囲から凡そ一月。されど織田大納言様が城攻めを決断されてより僅か九日で落城した由にございます」

「九日だと!?そのような短期間で、大納言はどうやって小田原を落としたのだ?」

「はい。小田原は織田勢の持つ大筒によって曲輪の殆どが破壊され、北条勢は成す術もなく降伏いたしました」


 十日もかからず落城させた事実は驚愕の一言である。しかも報告をよく聞けば、信長は上杉ら関東勢の力は借りずに徳川、伊勢の軍勢が北条の注意を引いた程度で、殆ど織田勢単独で城を陥落させたという。


「一年で東国を平らげると言った自信、真であったようじゃな」


 京での大評定で信長が放った言葉を誰もが大言壮語と思った。義輝すら“もしかして”という思いこそあったものの一年で平定は難しいと考えていたのが本音だ。


 その信長が早々に小田原を落とした。となれば十数万の軍勢は関東平野に雪崩れ込み、一気に勢力図を塗り替えてしまうだろう。


「余に発破をかけるとは……。大納言め、好かぬことをする」


 信長の物言わぬ諫言に、義輝は苦笑する。


 義輝にすれば、九州平定は晴藤に任せる方針だ。晴藤の成長や今後の将軍家の事を考えれば、それが一番だと思っての采配だった。しかし信長にすれば、そのようなことは些事に過ぎない。それよりも大事なのは天下一統を急ぐこと。このままでは信長が主導する東国攻めは順調で、義輝が主導する九州攻めが遅延していると大名たちの眼には映る。


(それはそのまま余へ対する侮りを生むことになる。それは避けなければならないが、大納言め!それ程までに南蛮は恐ろしいと申すか)


 だが義輝は信長の真意に気が付いている。


 小田原城が落ちるに至った様子は報告に含まれていた。大筒を使った戦術が如何に脅威かを物語っており、博多から使者を走らせてきた石谷頼辰も石火矢の砲撃で陣中に大きな混乱が広がったと聞いている。義輝自身、諸大名と比較しても早くから鉄砲の存在に着目していたことからも、南蛮の技術が優れていることは理解している。そして大筒も信長から献上されているものを確認しており、南蛮船には大筒を超える砲があることも知っている。


 そして今回の九州攻めにも南蛮が深く関与していると義輝は見ていた。


 元々九州は大内と大友が争ってきた地域だ。両者は共に耶蘇教を手厚く保護していたが、大内が倒れて毛利が台頭してくると、元就が耶蘇教を嫌った為に南蛮人は自然と大友寄りになった。、また九州の多くの大名が南蛮人と手を組み、貿易によって利益も得ていることから耶蘇教の広がりに拍車をかけた。


 石火矢や硝煙など毛利が属する幕府を警戒して、南蛮人が大友家を牛耳る久秀に手を貸していたとしても不思議ではない。かつて毛利との戦いに於いて、南蛮船が大友軍を支援した例もある。ただ南蛮人の狙いは大友家の存続であって、幕府との敵対を望んではいない。幕府には上方での布教を保護して貰っており、謀反方との戦いに於いても幕府に協力している。仮にここで南蛮人に対して大友へ手を貸したと問い質しても、商売しただけと主張するだろう。この国の者ではない南蛮人に対して、それ以上の追及は不可能だ。


「ドウカ矛ヲ収メル事ハ出来マセヌカ」


 その証拠に宣教師を代表して幕府と折衝を行うルイス・フロイスは、大友との和睦を求めてきた。


 フロイスは元就の死後、義輝の許可を得たことで毛利領での布教に力を注いでおり、義輝が安芸に到着すると聞くと謁見を申し出て、自分が和議の仲介役になる事を望んだ。


(宣教師らは明らかに大友へ加担しておる)


 フロイスの態度に、義輝は大友と南蛮勢力が繋がっているという疑いを深める。


 そもそもやむを得ない状況であることは義輝も理解している。宣教師たちに寛大な宗麟が薩摩と大隅以外の七カ国まで勢力を広げたのだ。宣教師らにすれば、このまま大友家が九州を支配してくれる方が都合がよいのは理解できる。理解できるが、それに付き合ってやる義理は義輝にはない。そして幕府の敵を支援する者を義輝は、如何なる理由があっても認めることは出来ない。


「……フロイス。宗麟は余に逆心を抱いた。これを許すことは出来ぬ」


 だからこそ義輝は冷たくフロイスをあしらった。今まで好意的であった義輝の態度にフロイスは戸惑ったことだろう。


 久秀の思惑があろうとも、既に大友家はもはや後戻りは出来ないところまで来てしまっている。天下一統の総仕上げとして、明確に幕府の敵として滅びることだけが大友に残された最後の役割だ。


 そして信長のこともある。


(余が九州で手間取れば、大納言が先に帰洛してしまう。それは避けねばならぬ)


 信長が率いている軍勢は、義輝と大差ない程の大軍である。東国平定という役目さえ終えれば、諸大名を引き連れて上洛できる大義名分が手に入る。義輝不在の中で、それは好ましいとは言えない。


(そう以前の余なら考えていただろうな)


 と義輝は脳裏に浮かんだ考えを自ら一笑に付した。


(余の許には十七万もの軍勢がおる。仮に大納言が諸大名を扇動して謀反を起こしたとて、東国全てが大納言に味方するはずもない。余と余に味方する東国の大名たちに挟まれ、滅亡するのが明らか。それが判らぬ大納言ではない)


 信長は油断のならない人物であるが、謀反を企てるような者ではないと義輝は考えている。散々にその懸念を抱き続けてきたものの、今の今まで信長は謀反を起こすには至らなかった。義輝の予想だが、信長は忠臣なのではなく、臆病なのでもなく必要とあれば謀反を起こすだろう。起こさなかったのは、単純に必要がなかったからだ。信長が望む世に、その目的に謀反が適していないのだ。


 それは義輝の目指す世と信長の目指す世が相反するものではないということ。


(されど大納言よ。そなたが目指す世すら、余は超越してみせようぞ)


 とはいえ今のままでは信長から下に見られているようで気持ちの良いものではない。面従腹背とまでは言わないが、義輝に心服していないのは明らかである。もし自分が苦労もせず将軍職に就き、征夷大将軍という実像を知らぬまま妄想に捉われていたなら、信長という男との関係はすぐに破綻していただろう。立場は上でも、信長の視線は常に相手を下に見ている節がある。それに堪えられなくなるからだ。現に細川、大内、三好など天下の権を握ってきた大名たちに対して、将軍という立場の危うさを理解していない歴代の足利公方は、大大名に縋るだけで全て失敗している。


(かつては余も同じだった故に笑うことは出来ぬ。されど大納言、余が辛酸を舐め続けて生きてきたことを幸運に思うがよいぞ)


 天下泰平の世を一番に望んでいたのは、天下広しといえど自分であると義輝は自信を持って言える。将軍家に生まれ、武家の棟梁として生きてきた義輝は己の無力さを誰よりも知り、誰よりも力を渇望した。征夷大将軍という地位に在りながら強者の存在を認めてきた。そして強者がいれば、それを乗り越えんとしてきた。並の忍耐力ではない。


 これが歴代の足利公方なら、大大名を潰し合うことに終始させただろう。そしていつか自らも追放される。自分の足で立つことをしなかった報いだ。もちろん義輝も当初は同じように考えてきた。しかし、永禄の変を生き延びた事で考えを変えるに至った。強い将軍家を創ることで、名実ともに武門の棟梁に成る道を選んだのだ。


(その道は長く険しいものであった。その道すがらで余は多くの身内を、家臣を失った。もはや止まらぬ、止まれぬのだ。確かに大納言の勢力は大きい、志も高かろう。されど余は将軍である。そのようなものは乗り越えればよいだけのこと)


 そうやって三好・松永を倒し、元就を降し、信玄を討ってきた。今では誰しもが認める将軍として天下に君臨している。その総仕上げが、この戦なのだ。


 求めていた天下一統が目の前に迫っている。だからこそ臣下が順調に東国を平定している以上、主君たる義輝が九州で手間取る訳にはいかない。誰が天下人なのかを知らしめる必要がある。


「やはり余が決着をつけるべきなのかもしれんな」


 そう呟いた言葉を誰一人とて聞き逃さなかった。


「上様の御決断、お待ちしておりました」


 三渕右京大夫藤英が幕臣を代表して義輝の言葉に反応する。


「待っていたと?」

「はい。姫路大納言様に大役を任せたいとの上様の御心は存じておりますが、やはり我ら家臣一同としては、天下一統は上様自身の手で成し遂げて頂きたいという想いが強うございます」

「然様か。お前たちにも苦労をかけたしのう」

「何の。家来の役目を果たしただけにございます」


 と同時に幕臣たちは一斉に頭を下げる。


 苦楽を共にした月日は長く、生きてこの場にいない者も少なくはない。義輝が将軍職を父・義晴より引き継ぎ、天下を憂い、その一統を夢見てきた事は誰もが知るところ。その大望を主に成し遂げさせることこそ、藤英たち幕臣にとっての悲願であった。


 ここに至るまで忠義を尽くしながらも死んだ者たちに報いるには、天下を一統するしかない。彼らが守った義輝という存在が泰平の世を築く。そうすることで、彼らの死は無駄ではなくなる。


「……ならば共に往こうぞ」


 義輝が立ち上がり、それに幕臣一同が続く。その後ろに、ふと義輝は永禄の変で散った者たちの姿を見た気がした。


 そして……


「おおっ!!」


 という歓声が厳島に鳴り響いた。


 それから義輝の動きは早かった。二日の後には赤間ヶ関に到着し、翌日に渡海する報せを門司城に送る。当然ながら大友勢の妨害が考えられる為、同時に牽制も命じた。


「どうすればよい」


 これに戸次道雪を相手に手出しが出来なかった面々は、義輝の命令に慌てた。


 門司に残る幕府勢は四国勢を中心に三万を数えたが、これを道雪は一万ばかりで防いでいた。確かに本格的な攻めは行わなかったものの、小競り合いは何度か行って敵の様子は窺っている。その全てが“道雪に隙なし”であった。


 その道雪も今は豊後からの後詰を得て二万五〇〇〇程まで数を増やしている。戸次勢は大友本隊と言っても過言ではなく、譜代衆を中心に結束が高まっていた。数を増やした戸次勢に幕府勢は睨み合いを続けるしかなく、しかも博多合戦で大友は博多の奪還を成功させた事から、自軍の勝利と喧伝しており、士気は高いままだった。


 軍議に参謀役として立ち回る小早川左衛門佐隆景も“門司の維持が兵站の維持”として安易な突出を控えるよう総大将の足利義助に具申している。義助も門司の維持という幕命を順守できている以上、一定の成果は得られていると判断できる。


 ただ一万しかいなかった道雪に手出し出来なかったという事実は残る。そして義輝の渡海が迫れば、流石の道雪も動きを見せるだろう。その道雪が数を増やしている以上、更に厄介だった。


「某に任せて頂ければ、敵の妨害を防いでご覧に入れる」


 その中で一人、自信満々に告げたのは先日に黒田孝高と海を渡ってきた真田左衛門尉昌幸である。


 そして昌幸が献策した相手は義助ではなく、小早川隆景であった。門司にいる幕府軍の将領の中で、隆景こそ一番に話が通じる相手だと昌幸は考えたからだ。


 二人は初対面であったが、昌幸は奉公衆に名を連ねた際に兄・信綱が名乗っていた左衛門尉へ正式に任官されており、左衛門佐である隆景とは、朝廷の衛門府の中では上司と部下という関係になる。その伝手を頼った。


「五百ほどの手勢があれば、敵を撹乱することなど造作もございませぬ。左衛門佐様より某に手勢を貸して頂けるよう上申しては頂けませぬか」


 紀州攻めで実績を示したとはいえ、武田信玄の腹心として謀反方であった昌幸を隆景は最初から信用はしなかった。しかし、門司にいる将軍直属の奉公衆でもあり、面会を求められれば会わない訳にも行かず、話を聞くだけ聞いてみることにした。


「敵は山間に布陣し、数も多いことから正面から注意を引くことは難しゅうございます」

「かと申して海も同じぞ。道雪が拠る松山城は海上の見渡し良く、すぐにも我らの動きは察知されよう」

「はい。故に敵の背後の城を一つ、奪ってしまいましょう」


 昌幸の説明はこうだ。


 敵は二万五〇〇〇を数えども幕府軍の方が多い。その幕府軍は義輝本隊の渡海で数を増やそうとしていることから、当たり前だが敵勢の大半は前線の城に拠っている。そして幕府方には秋月種実がおり、その配下はここら一帯の地理に関して詳しい。


「確かに手薄になっている後方の城を奪うのは容易いかもしれぬ。されど維持は不可能ぞ」


 昌幸の言わんとするところは隆景にも判る。僅か五〇〇でも後方の城なら奪えるだろう。ただ敵は二〇〇〇も割けば簡単に奪い返すことは可能で、残る数で前線を守ることも容易い。これを繰り返すことで敵の兵を減らすことは出来るが、そんな時間は今回ない。


「維持など必要でしょうか」

「なに?」


 必要なのは敵を疑心暗鬼に陥らせること。少しでも前線への意識を鈍らせれば充分なのだ。昌幸の凄さは、その目的に特化した策を練り、実行に移せるところだ。


「後方の城は空き家も同然、奪うのに時はかかりませぬ。城を奪ったなら、すぐに捨てて次の城を奪います。それらを繰り返して行けば……」

「敵は目の前のことを気にしてはいられなくなるな」


 昌幸が策士とはいえ、隆景も劣らぬ程の策士だ。そこまで言えば隆景にも昌幸の狙いが判った。


 大勢力を誇る大友とはいえ、今は幕府軍が十万もの兵で攻めて来ている状態だ。これに義輝の本隊七万が加わろうとしている。如何に大友とはいえ後方の城には多くても一〇〇かそこら、下手すれば数十しかいなくても不思議ではない。昌幸の言う通り五〇〇もあれば、城一つは落とせるだろう。


 ただそれも、城一つならである。


 当然だが、城を奪えば維持が必要になる。だからこそ連続しての城攻めには大きな兵力を伴うものだが、昌幸の策は城を維持せず奪い続けることだ。維持しなければ兵を割く必要はなく、そのままの兵力で次の城を奪える。


 城を奪えば、当然ながら留守居の兵は抵抗すること敵わず逃げ出して、道雪に救援を求めるだろう。道雪がどれほどの兵を割くかは判らないが、神出鬼没に城を奪い続ければこちらの数を正確に読まれることはない。常識的に大軍とは考えないだろうから数千もの軍勢を減らせるとは思わないが、確実に一〇〇〇かそこらを割いて奪還に動くのは間違いない。しかし、派遣された兵が城に辿り着いた時に昌幸はおらず、あるのは打ち捨てられた城のみ。そこへ別の城が奪われたと報せが入る。流石に二度、三度と重なれば道雪とてこちらの狙いに勘付くだろうが、報告と確認には時間差が必ず生じる。如何に道雪が名将であれ、そこは埋めることの出来ないものだ。そして、その間に義輝が渡海する。


「たかだか五百の我らです。その気になれば鎧兜を捨てて逃げればよく、敵中深くに攻め入ったところで何ということはござらぬ」


 隆景は豪胆な男だと思った。昌幸が敵中で孤立することに恐れを感じていなかったからだ。


「上様さえ渡海すれば、構ってもいられなくなるか」

「はい。もちろん中納言様には出張って頂く必要はございますが、守勢を貫いて頂ければ問題ございませぬ。守りに徹し、吉報をお待ちくだされ」


 義輝の渡海さえ終われば、門司の幕府勢は十万となり、道雪の四倍に相当する。しかも後詰とはいえ義輝の本隊であり、そこには畿内の精鋭たちが含まれている。その状況下で後方に不安を抱えたまま道雪であっても戦えるとは思えない。


 その時、道雪が採れる手段は放置である。奪還に向かわせた兵を容赦なく戻すだろう。相手が五〇〇だからこそ無視できるのであり、また五〇〇という小勢だからこそ昌幸も山間を巡って空き城を奪える。


 恐れを知らぬ大胆不敵な策であった。


「ならば儂から秋月殿には頼んでおこう。上様の渡海に対し、手柄となるなら喜んで首を縦に振るであろう」


 隆景は秋月種実に断られるとは微塵も感じていなかった。長く秋月を支援していたのは毛利だ。その重鎮たる隆景の依頼に首を横に触れるとは思えない。


 斯くして秋月種実は隆景の依頼により実弟で、宝満城を追われた高橋宗仙の養子にしていた高橋種冬ら五〇〇を貸し与えることを約束し、表向きは昌幸が軍監として同行する形で密かに出陣した。


「さて我らも動かぬ訳にはいくまい」


 隆景は義助に呼び掛けて、義輝渡海の援護を全軍で行うよう求めた。その総指揮を執ったのは隆景である。四国勢の中で大軍を率いたことのある将は限られており、その経験から隆景に一任された。


「永禄四年(一五六一)に大友は三方から門司に攻め寄せた。門司に寄せるとしたら……」


 義助も同意を得て、隆景は三好と長曾我部勢を中心に門司の南・横代や曽根にまで進出させる。前回の大友は松山城から小倉表まで進出し、一帯を山間に進ませて、海からも押し寄せた。門司は半島の先端に位置しており、城を攻めるとしたら他に方法がないことを隆景は知っている。


 知っているからこそ、それに対処することは容易い。容易いが、相手はあの道雪である。正面からこちらの思惑を打ち砕いてくることも考えられる。


「油断は出来ぬ」


 そうして隆景は逆にこちらから松山城攻めをする構えを見せながらも、陣地に落とし穴や逆茂木、土塁などを築きにかかった。これに気が付いた道雪も妨害に兵を出してくるが、長曾我部や三好勢も精兵揃い。激しく抵抗を見せて道雪と伍する戦いを演じた。意外にも道雪の攻撃は激しく、両軍にかなりの犠牲者が出ることになった。


 更に隆景は村上水軍も動かして壇ノ浦に堅陣を構え、道雪も水軍を繰り出し、まるで源平合戦の最後を思い起こすほどの戦船で海は埋め尽くされた。こちらも睨み合いにならず、船戦が始まる。


 門司城を巡る戦いで一進一退が続く中、作戦は昌幸の思惑通りに進んだ。


 昌幸は種冬の案内で一旦は小倉から西に進んで直方に至ると、山間に入って東に進み、大した兵のいなかった赤松、高畑山、木下城を立て続けに陥落させた。その北に位置する前線の宮山城の兵が気が付いて南下を始めるも、到着時にはもぬけの殻であり、その頃には昌幸は南に進んで岩熊城を落としていた。


「思ったよりも容易いな。御屋形様も大友なぞを頼りにされたのが間違いだったのやもしれぬ」


 とその様子に昌幸は密かに呟いたとかいないとか。


 昌幸の進路はそのまま進めば日向街道に至り、確実に大友勢の兵站を断ちにきているように思わせた。それこそが昌幸の狙いで、道雪は一二〇〇の兵を割いて妨害に出るも、兵が二分されたことで正面の幕府勢にも対処が遅れ、昌幸の狙いに気が付いた時には既に義輝の渡海は終わっていた。


「……最早これしかあるまい」


 大きく肩を落とし、道雪は全軍に撤退命令を出す。


 道雪は城の門を固く閉じることを告げ、幕府軍に対して鉄壁の構えを見せ始めた。幕府軍も義輝の渡海を終えたとはいえ後詰の数は七万を超える。全てが渡海を終えるまで大友勢に対して優位に立ったとは言い難く、数日は義輝も門司に滞在を余儀なくされた。


 その事は道雪も容易に想像がつく。だからこそ決心を固め、行動に出るしかなかった。もはや大友は決断すべき時がやってきている。最後の機会を失ったのだ。道は一つしか残されていなかった。それを選択するのは、多くの大友家臣の中で自分しかいないと自負している。


「公方様へ御目通りを願いたい」


 義輝が渡海して数日後、道雪は義輝への謁見を申し出たのだ。輿に乗って松山城を出り、悠々と、そして堂々と幕府方の陣を訪れて用件を伝えた。


「よい、会おうではないか」

「上様ッ!?」


 これに義輝は周囲の反対を押し切って、道雪の謁見を許した。道雪といえば大友家の筆頭として義輝自身が御内書を下したこともある相手だ。その武勇の誉れ高く、信頼できる相手と義輝は思った。


 但し条件として道雪に単身で門司城へ赴く事を求める。ただ道雪は足が不自由なことから輿を担ぐ者のみを伴うことだけ許され、十月五日に謁見となった。


「して、用向きは如何に?」


 憮然と構える義輝に代わり、藤英が道雪へ問いを投げる。


「降伏を御許し頂きたい」


 と道雪は簡潔に用件を述べると謝罪するかのように深々と頭を下げた。天下に名高い勇将が降伏の二文字を口にするのだ。並の決断ではないと義輝は感じた。


「それは大友殿が申し出か?」

「いえ、拙者の一存にございます」

「ほう、ならば戸次殿が我らに降るということか?」

「拙者が大友家を離れる事は生涯ございませぬ。大友家を許して頂きたいのです」


 道雪は更に深く、床に頭を擦り付けるように下げたまま許しを請うた。


「話にならぬ」

「今さら遅いわ」


 その様子に周りには道雪を嘲笑する者が少なからずいたが、道雪は嘲笑に押し黙ったままグッと堪え忍び、その額を床から放そうとしなかった。


 武門の誉れ高い勇将が恥辱に堪え忍ぶ姿は、その覚悟の強さを窺い知るには充分だった。


「帝から朝敵とされた宗麟を許すことは出来ぬ」


 故に義輝は、直答を許す形で道雪へ言葉をかけた。その覚悟の強さが如何ほどのものか直に確かめる必要があったからだ。


「大友家を許して頂きたいと申し上げております」

「親貞なる者も余に弓を引いた。これも許せぬぞ」

「已む無きことかと。大友が残れば、結構にございます」

「こうまで罪を重ねたのだ。名は残せぬが、血は残してやろう。跡目を告げる子はおるか?」

「主には元服前の子が三人おります」

「然様か。ならば追手、沙汰する故に三人とも余の許へ送れ」

「御意。有り難き仕合せに存じます」

「それと余が追討する松永久秀が道意と名乗り、親貞なる者の傍近くに仕えているという。差し出せ」

「あの松永久秀が?」


 突然のことに道雪は思わず顔を上げる。


 その様子から本当に道意が久秀であるとは知らなかったようだ。また道雪も今山の合戦で初めて顔を合わせた道意を思い起こす。道意が久秀であれば、親貞が急に武功を重ね始めたのも頷ける。


「……畏まりました。如何なる手段を用いても公方様の許へ連れて参ります」

「所領も全て没収する。何処を誰に宛がうかは決めておらぬが、宗麟の子にも少なからず禄は与えてやろう。譜代の者が付き従うも、新たな領主に従うも好きにせよ」

「有り難き御配慮、痛み入りまする」

「但し、信玄めと繋がっておった田原なる者は斬首とする。その一族も謀反を起こしたと聞く。連座とする」

「全て仰せに従いまする」


 矢継ぎ早に条件を提示する義輝に対し、道雪は淀みなく答え続けた。事前に様々な想定をしていたのだろうが、こうまで低姿勢だと全面降伏に等しい。未だ大友は表立って大きく軍勢を損なっている訳ではない中で、何故に敗北を受け入れるのか。


「宗麟が死んだか」


 その答えに義輝は、自然と辿り着いた。


「薬師が最善を尽くしましたが、公方様が渡海される前日に身罷ってございます」

「そうか」


 暫しの沈黙が続いた。


 最終的に宗麟は義輝と敵対したとはいえ、幕府を支援していた時期も長い。南蛮渡来の品々や鉄砲、火薬の調合法など稀少なものを献上し、義輝も九州各地の守護職や探題という重職を任せて報いもした。


 謀反人と後世に語り継がれるであろう宗麟であるが、九州全域に影響力を及ぼした事実はまさに乱世を代表する英傑の一人であろう。その死は義輝にとっても感慨深いものがある。


 そして宗麟の死は、朝敵の消滅を意味する。


 元々朝敵は個人を相手に下されるものであり、大友家そのものを敵としていた訳ではない。故に正面から敵対してきた親貞と道意は許せないが、軍勢を纏めて服従してきた道雪には情状酌量の余地がある。


「主を諫められなかったのは家臣の責任、道意の正体を見抜けなかったのも家臣の責任でございます。その咎は受けるつもりでおります」


 と道雪は殊勝に告げた。


 道雪は戸次家の存続は、もう諦めている。家臣として主を守れなかったのだ。ならば共に殉じようと思う。だが死ぬ前に道筋だけは付けなくてはならない。それが加判衆を任された者の責務だと道雪は考えている。


「そなたの覚悟と忠義は見事である」


 そう義輝が評したのは、理由がある。


 恐らく道雪は玉砕する覚悟を決めている。道雪は義輝の渡海を阻むべく激しい抵抗を行ったと聞いている。それも主家に対する道雪の忠節の表れであろう。


 将軍である以上、使者として赴いた道雪を斬ることは外聞が悪く、降伏を認めずに道雪を返せば、死力を尽くして戦いを挑んで来るだろう。だが道雪は義輝の渡海を阻むことを阻止できなかった。だからこそ余力がある内の降伏を決断した。今ならば主家を残せる可能性があり、その為に恥辱を厭わぬ覚悟が道雪にはある。その覚悟に将軍として応える義務が義輝にはあった。


「そなたの責任を以ってして必ずや家中を纏めよ」

「お任せ下さいませ」


 降伏を決断したとはいえ、大友家は大きい。必ず降伏を良しとしない者どもが現れるはずである。その最たる例が、大友親貞と道意だ。これを排除する事が道雪が成さねばならぬ事である。


「某が先陣を務めます故に、上様はゆるりと進まれませ」


 翌日、道雪は誾千代(ぎんちよ)と名付けた娘を門司城に人質として送ると、自ら義輝を先導して博多への道を進む。


 同時に道雪は臼杵鑑速に軍勢を解散させることを任せ、こちらは義助率いる四国勢が中心となって、豊前と豊後の諸城を接収にかかる。そのまま四国勢は府内まで進み、九州の東側を押さえにかかる予定だ。同時に宗麟の遺体を確認すること並びに遺児を門司に送ることが義務付けられた。


 幕府は博多という一都市を直轄領としていただけに過ぎない。幕府に従う毛利が筑前と豊前の一部を領し、橋頭保を築けていた程度で九州の大半は大友の勢力下にあった。決して九州平定という事業は簡単なものではなかったはずだ。


(それなのに、起こること全てが余にとってそよ風の如きものに過ぎぬ)


 義輝が歩を進める度に問題は解決されていく。確かに幕府と大友の間には何度も戦いが繰り返されている。だが義輝自身は、一度として直接に大友と戦うことなく歩みを進めている。


 まさに乱世を平定する王者の如き前進であった。王者に血は似合わず、その威に自然と周りはひれ伏していく。王の歩んだ地域に泰平が広がっていく。乱世の終焉は、間近にまで迫っていた。


 そして義輝が久秀のいる博多に到着する。全ての決着をつける瞬間が刻々と迫っていた。

 



【続く】

お待たせしました。


今回は義輝をメインで描く回となりました。もはや主人公はどこいった?と言われかねないほど義輝を描く機会が減っているという自覚があります。笑


さてさて宗麟が死んでしまいました。この辺りは宗麟の父・義鑑を参考にしております。史実を含めて大友の最後とは無残なものです。今回の宗麟は今山でも耳川でも敗戦をしていないので、初めから強気の姿勢を崩しませんでした。この辺り秀吉に救援を頼んだ我々の知る史実の宗麟とは違うイメージを持って頂ければと存じます。


地方で負け知らずな宗麟の態度が義輝の反感を買った結果、幕府軍を目の前にして家臣の一部から見放され、結果的に死に至るといった道を辿りました。戦国の雄として最後の最後まで戦えなかったのは不憫と思わずにはいられませんが、ある意味で宗麟らしさもあるのかと思ってたりもします。


さて次回はいよいよ義輝と久秀の決着回となります。ここに至るまでは本当に長く感じました。実際に長かったですし…笑


次回は後書きが長そうです。楽しみにお待ちください。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点]  道雪、切ないですね。  負けぬまま降伏せざるを得ないあたり、名将の悲哀を感じました。 [気になる点]  誤字です。 ×決して九州平定という事業は簡単なものではなあったはずだ。 →決して…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ