第十四章 勇将の戦 ーそれぞれの闘いー
九月二十六日。
筑前国・博多
播磨公方・足利大納言晴藤の率いる幕府軍が九州に入ってより凡そ一ヵ月もの間、両軍は互いに大軍を擁しながらも決戦に至ることなかったが、ついに博多の地で朝敵となった大友軍と決戦の火蓋が切って落とされた。
多々良川が近くを流れる博多の地は、開祖・足利尊氏が上方より落ち延びて再起を図った地あり、足利氏にとって縁起の良い場所である。その場所で皮肉にも将軍・足利義輝を何度も苦しめてきた松永久秀が再起の大戦を仕掛けてきたのである。
「敵は逆賊・松永久秀!その首を上様に献上することこそ何よりのご奉公ぞ!」
因縁の地で迎え撃つのは実弟・晴藤。足利氏に連なる者として、久秀の挑戦に誰よりも吼えた。
「尼子、上野、吉川、島津勢ともに大友勢と交戦!全軍の士気は高く、一先ず御味方は優勢にございます!」
本陣の晴藤の許には続々と戦況が伝わってくる。
合戦序盤、博多まで攻めてきたのは大友側だったが、戦意は明らかに幕府軍が高く、初手から大友勢を押しつつあった。
「うむ、このまま勝てると良いが……」
「兵の数と質、士気、地の利、全てに於いて我らが敵を上回っております。それは敵も承知のはず、御油断を召されますな」
緒戦の優勢に思わず引き締まった顔を綻ばせようとした晴藤を傍に控える黒田官兵衛孝高は諫めた。
(そう敵は承知しているはず。であれば攻めて来た勢いで少しでもこちらの備えを崩そうとするのが常道のはず……、敵の狙いは何だ?)
孝高は西征前から幕府側に身を置いているが、晴藤の傍にいることが多く今まで久秀と戦って来たことはない。しかし、大坂で義輝に語って聞かせた如く久秀という存在を意識していたことはある。
(武士の常道とは“こうあるべきだ”という願望が含まれることが多い。されど久秀は違う。そのようなものは気にも止めぬ性分のはずだ)
足利幕府は今でこそ強大な力を有しているが、それに至るまでで最も義輝を苦しめた相手が久秀だった。もちろん管領・細川晴元や日ノ本の副王と称された三好長慶も散々に義輝を苦しめた。それ以前にも代々の管領細川当主など天下の権を握ってきた者たち全てが足利将軍を意のままに操り、対立すれば排除してきたのだ。
だが彼らの場合の排除とは追放であり、家臣は主君を殺めてはならないという武士の常道を犯さないやり方から逸脱はしなかった。しかし、久秀は義輝の命を狙ったきた。確実に殺しに来たのだ。これは過去の天下人と久秀が大きく異なる点だ。
その久秀には幕府として正式に討伐令が発布されており、討ち取れば多大な恩賞に与れることは想像に難くない。そして幕府側の諸将は一戦、二戦の敗戦は覚悟しても最終的に幕府方が負けるとは微塵も考えていない。この場に於ける兵力差だけでなく、まだ義輝の本隊という後詰を控えているからだ。
圧倒的な差は、将に兵を退くことを考えさせない。だが恩賞欲しさに戦へ挑む者と、敗れれば滅びる者の死力には大きな差がある。自分が敵の立場であったなら、敢えて慢心を捨て去せる為に兵力を減らし、死中に活を求める策を選ぶ。
ところが孝高の見る限りでは、久秀の策は自らの範疇の外にある気がしてならない。確かに味方には恩賞欲しさに闘っている者も少なくないが、敵から死力を感じるかと言えば、今のところそうではない。
(脳漿を絞り、読み解くのだ。今まで久秀がやってきた戦を思い出せ)
次第に周囲の声が遠くなる。皆が目の前の戦に捉われる中、孝高は久秀が思い描く戦について思慮を深めていった。
その一方で各地では始まった戦いに各々が対応を迫られていた。
「我らも運がないな。ここからでは敵の本陣まで遠い」
幕府側で高祖城に籠っている高橋勢を除いて最も西側に位置する尼子の陣では、当主・義久の嘆きに周囲は頷きを繰り返していた。
「前に上方へ赴いた際は、大した兵を送れなかった。此度こそは御恩返しをと思っていたが、なかなかに思い通りにいかぬものよ」
義久は今回の出陣に際して六三〇〇もの兵を率いてきた。
尼子が出雲に復帰してから因幡と上方に二度の出兵をしたが、復帰直後の因幡派兵へは兵が揃わずに義輝の下で闘ってきた勝久を中心とした部隊を送ることしか出来ず、上方へは義久自らが出向いたものの降雪の影響で小勢しか率いることが出来なかった。
どちらも義輝への奉公を望む義久の本意ではない。しかし、今回の九州攻めは充分な時間を得ての出陣となった。その結果の六三〇〇である。出雲一国しか有さない尼子がこれ程の兵を率いることが出来たのは結果論にではあるが、山陰山陽八カ国の守護であった父・晴久の功績だった。
大大名となれば、所領が大きいだけ従える家臣が多い。八カ国を治めるほど大きかった尼子が、一度は滅びたとはいえ一カ国まで小さくなったのだ。常ならば出雲以外にいた家臣たちは新たな領主の家に仕えるだけの話で毛利に寝返った家臣も多かったが、それでも尼子は大身だ。一時は尼子に従属し、長年に亘って戦ってきた毛利に屈することを嫌った尼子の遺臣たちは、義久に対して再出仕を望む者も同時に多く、今では一国を治める大名とは比較にならないくらい家臣を抱えている。それが身の丈よりも兵を多く動員できた理由であった。
(故にこそ尼子は一国では立ち行かぬ。新たな所領を得らなければならんのだ)
そう方針を決めた尼子の家老・立原久綱は、甥の山中鹿之助幸盛に言い聞かせ、この九州攻めで戦功を上げることを求めていた。
「なら諦めますか?」
そういうこともあって嘆く義久に鹿之助が問いを投げたのは、ごく自然なことだった。
「道はあるか?」
「目下の敵は少なくはありませぬが、我らは最右翼に陣を敷いております。目の前の敵さえ討ち破れば、回り込んで敵本陣の退路を断つことも能うかと存じます」
「そうか……」
と聞いて義久は一人、莞爾に笑った。
「これは強き尼子を取り戻す絶好の機会、信玄の首を獲り損ねた以上は久秀の首くらい貰っておかねばならんな」
尼子は義久の代となった直後は、まだ八カ国の太守だった。それを全て自らの代で失ったのだ。だからこそ失った誇りを取り戻したいという想いは義久の中にはある。それも義輝への恩を返す形で実現するなら尚更だった。
(久秀の首を挙げれば、一カ国くらいは得られるはず。せめて二カ国の守護くらいにはなっておかねば、泉下の父上に会わせる顔がないな)
尼子を大きくしたのは間違いなく経久であるが、義久の知る“強き尼子”は父・晴久の方だった。
幼少期で経久を朧気ながらにしか知らない義久にとって、どうしても晴久の背中が大きく映ってしまう。晴久は大国・大内から石見銀山を奪い、播磨まで遠征して天下に名を轟かせ、経久の代では叶わなかった守護職への就任を果たしている。
強かった父の背中を追いたい。そう子の義久は願っていた。
「露払いは任せる」
「お任せください!」
力強い義久の下知に従い、鹿之助が新宮党を率いて最前線に飛び出すまで、差しで時間はかからなかった。前線に到着次第に引き連れた鉄砲隊で一撃すると騎馬武者を率いて敵陣を掻き回していく。
「尼子の名を再び轟かす!勇めッ!勇めッ!」
鹿之助は自らも槍を振るって足軽たちを薙ぎ倒していく。鋭い突きを繰り出し、一歩また一歩と敵陣へ歩を進める。
「突撃ッ!」
鹿之助が自ら斬り拓いた穴へ右手に握った槍の穂先を道しるべの様にして指し示す。勇将の活躍に奮い立った兵たちは、穴を広げんと殺到していく。俄然、勢いづいた尼子に蒲池勢は一時的な後退を余儀なくされるが、尼子に勇将がいるならば、蒲池勢にもいる。
そう蒲池勢の勇将こそ、この部隊を率いる大将・鑑盛こと宗雪であった。
動と静。
鹿之助が自ら動いて勇を示す大将ならば、宗雪は動かぬことで勇を示す大将であった。
「この宗雪、老いはしても武門の在りようは忘れてはおらぬ。手柄の欲しさに闘う者どもに負けるものか!」
大将の宗雪が前線が押されようとも頑として動かずにいたことで、緒戦の勢いは次第に削がれていった。しかも蒲池勢も九州を代表する軍勢の一つで、それなりに鉄砲も有している。反撃とばかりに一斉射し、足を止めたところに槍衾を加えると形勢は振り出しに戻り、両軍は一進一退の攻防に突入していく。
「御屋形様が最も苦しい状況に追い詰められておる。この程度の苦境、何ということもあるまい」
宗雪は“その義心は鉄の如し”と称されるほどの人物。かつては国を追われた龍造寺家兼を支援し、また父を主君に誅されたものの非は父にありとして、主従の立場を貫いた。今も生死の境を彷徨う宗麟を想い、忠義を尽くそうとする。そんな主を見捨てられず、留まって闘おうとする家臣たちがいる。それは力となって尼子勢の進攻を防いでいた。
(あの道意という坊主、儂が寝返らぬことを判って左翼に宛がったのだろうな)
だが同時に宗雪は、この戦いに複雑な想いが孕んでいることを感じていた。
宗雪は決して短慮な人間ではない。それ故に自身の不器用さを一番に理解していた。だが今さら生き方を変えられない。そんな宗雪が率いる軍団だからこそ蒲池勢は強かった。兵の数も三八〇〇と尼子より少ないものの肥前衆という後詰めが控えている。これは海を背にして後詰めのいない尼子と大きな差だった。
「よいか!ここは敵を討ち払うだけで追い詰めようと考えてはならぬ。敵の背後は海、背水となった者は強い。付かず離れず、敵を疲れさせるのだ」
と宗雪は近臣に告げて徹底的に深追いを禁じた。
大友側の目的は敵を討ち破ることではなく、追い払うことだ。この二つは似ているようで大きく異なる。前者は力で撥ね退ける必要があるが、後者は諦めさせるだけでいい。幕府は遠征軍かつ大軍で、兵糧の消費は比較にならないくらい大きい。時間を稼ぐだけでも、大友側の目的達成には近づく。
「槍衾ッ!」
尼子が騎馬を出せば槍を組み、弓を射れば楯で防ぐ、それを鉄砲で挫き、膠着に陥れば足軽を繰り出して相手を押し返す。もちろん尼子とて義久が追加で兵を送り出しては前線を支えた。
どちらも決定打に欠ける闘いを続けるも互いに士気は衰えず、激しさが増していく。互いに退かず、兵たちのぶつかり合いは苛烈を極めていく。
変化があったのは合戦が中盤に差し掛かろうかどうかといった頃だ。尼子の猛攻に踏み止まっていた蒲池勢が不思議なことに裏崩れを起こしたのだ。
「もはや付き合いきれぬ。我らは城に戻って幕府に味方する!表向きは儂の病が悪化したと伝えよ」
そう告げて宗雪の嫡男・鎮漣が兵を返してしまったのだ。鎮漣には庶長子である鎮久が家老として付いていたこともあり、これに半数近い兵が従ってしまう。これに慌てたのが父・宗雪の傍で闘っていた三男の鎮安であった。
「兄上のたわけ者がッ!」
実の兄を大声で罵った後に持っていた槍を叩き折り、近くにいた尼子の足軽を力任せに斬り倒すとすかさず宗雪の許へ駆け寄り、次に控える肥前衆へ後詰の使者を送るよう進言した。
「果たして後詰に駆け付けて来るかな?」
「何を仰せられますか。我らは味方でございましょう!」
「鎮漣が寝返ったのだ。肥前の者どもからすれば、我らも同様よ」
「ならば我らも兵を退いて……」
「阿呆!我らまで兵を退けば、それこそ御屋形様へ顔向け出来ぬわ!儂が残った兵を率いて尼子の本陣を落とす。それしかあるまい」
固く口を真一文字に閉じ、暫くの間は宗雪が次の言葉を紡ぐことはなかった。鎮安は父の苦しみを一番に理解し、代わりに残った兵を纏め始める。幸いにも宗雪の周りには忠義心の篤い者たちが多く、思ったほど士気の低下は見られず、まだ闘えそうな気迫が感じられた。
「我が武、忠義を示さん」
その後、宗雪の苛烈な反転攻勢は尼子勢を三度も押し返すほど凄まじさがあった。鹿之助すら押し返され、鎮安は尼子勝久の陣に突入して討ち死に。宗雪も義久の本陣へあと一歩まで迫ったところを本田家吉の手勢に討ち取られた。
これにより蒲池勢は壊滅したものの尼子勢も態勢を立て直す時間を必要とし、続く肥前衆との戦いにはもう少し時間を要することになった。
また蒲池勢に異変がが生じた頃、尼子勢の東に位置する上野隆徳も赤星ら菊池旧臣らの軍勢を破れずに一進一退を繰り返していたが、鎮漣の離反は戦局に影響を与えるのに充分であり、徐々に上野勢が優勢となって敵を押し込み始めた。
そして中翼を担う吉川元春の部隊では、蒲池鑑広や筑紫広門ら筑紫衆をまとめて相手としていた。
元資が前衛の大将として布陣、補佐に元資の祖父・熊谷信直や麾下に山内隆通・元通父子を置いて戦陣を駆けるも、敵は攻めて来た側だというのに早くも守勢に転じ、元資は拍子抜けする。
「何だ?手緩い相手だな」
「若殿、油断は禁物ですぞ。どうやら蒲池勢の士気は高く、早々に討ち破れそうにはありませぬ」
「油断はしておらぬが、威勢のいいのは蒲池勢くらいなものではないか。他の輩はまともに闘う気があるかどうか疑わしいぞ」
共に前線に立つ信直にとって元資はいつまでもやんちゃな孫であり、どうも危なっかしく見えてしまう。
「筑紫衆の中には内応を約していた者も多く、もしや未だ未練のある者がいるのではないでしょうか?」
そう疑問を投げかけたのは元通だった。
元通の山内家は備後の国人領主で、毛利家臣・宍戸隆家を通じて元就に恭順した。備後の在地領主としては破格の毛氈鞍覆と白傘袋の免許を義輝から得ており、元就主要の合戦にも参陣して功績を上げていることから毛利からの信任も篤い。
「戦場で未練とは命が惜しくないらしい。ならばいっそのこと大友と心中させてやろうか。今の状況で迷いを持っている者が降ったところで上様が喜ばれるとは思わぬ」
「公方様とは、どのような御方なのですか」
「一言で申せば剛毅な御方じゃ。されど思慮深くもあられる。が、何よりも強い」
「強い?」
「ああ、腕っぷしだけでなく、心もな」
「それ程の御方なのですか。なれば拙者も一度はお目にかかりたいものです」
「山内家なら上様の覚えも目出度かろう。上様が九州へ渡られたなら、拝謁の機会はあろうさ」
「有り難き話にござる。なれば早々に戦を終わらせねばなりますまいな」
「ならば儂と競ってみるか」
「お許し頂けるならば、是非にも」
この少輔四郎元通と元資は妙に馬が合ったのか。この九州攻めの後に義兄弟の契りを結ぶことになる。
「何を仰せか!自身の立場を考えい!」
「お前も若殿を煽るでない」
そう信直と隆通は孫と息子を制止するが、二人の言うことなど聞こえなかったように元資と元通は馬上の人となり、戦場へ駆け出して行った。代わりに二人が前衛の指揮を執ることになったのは言うまでもない。
(我が儘をお許しあれ!されど此度は父上がおる故に儂が自ら指揮を執る必要はないのじゃ。ならば上様に鍛えられし我が腕を存分に揮ってみたい。もはや機会はないであろうからな)
この九州攻めが終われば幕府による天下が定まると元資も考えている。だからこそ若い元資は自身の腕を試してみたい気持ちに駆られたのだった。決して役目を疎かにしている訳ではない。ここで筑紫衆を討っておけば、それだけ九州に幕府の影響力を残すことが出来る。故にこうなった以上は筑紫衆を敵として討っておくべきだと元資は判断した。
その元資の勢いを止められる力は筑紫衆になく、後詰の吉弘鎮信と高橋鎮種が出て来たなら話は変わってくるが、今のところ気配がなく、一方的な展開を余儀なくされていった。
また打って変わって様子が違ったのは幕府軍左翼である。
「この合戦で島津の強さを示さん!我に続けッ!」
そう声高に龍造寺勢に向かっていった島津家久であったが、龍造寺隆信は二五〇〇と島津勢より一〇〇〇も多く、しかも犠牲を減らさんと巧みに攻撃を躱していたのである。一見すると島津が龍造寺を圧倒しているように見えるが、当の本人からすれば敵に打撃を与えられずにおり、もどかしさだけが募っていた。
(龍造寺が我らに味方するというのは本当なのか)
前の大宰府での戦いの後、自軍に龍造寺からの密使が紛れ込んでいたことが判った。その者が申すには“龍造寺は幕府への叛意なく、人質を獲られている為に表立って身動きが取れない”との事であった。
確かに龍造寺は積極的に攻め寄せては来ない。何か他に別の狙いがあるというのは家久にも判る。
「我らは敗れたように装って肥前まで取って返し、佐嘉城を押さえまするので、島津殿は我らの意向を公方様に御伝え頂きとうございます」
と密使は告げた。
(都合のいいことを……)
だが家久は正直に龍造寺の申し出を受け入れるかどうか迷っていた。
まず島津には龍造寺に付き合ってやる義理はなく、戦線を離脱して佐賀城を手に入れた隆信が手薄となった肥前を切り取り始めるのは自明の理だ。何せ肥前衆の殆どが博多まで出払っている、国は空になっていると言っても過言ではない。幕府に大軍を相手させ、自らは版図を拡大する。そんな都合のいい話に乗る理由が家久にはなかった。
「事情は承知したが、我らは龍造寺に味方して頂かなくとも敵を圧倒しておる。もし龍造寺殿に叛意がないとするならば、この場で矛を逆さまにして幕府へ忠義を示されよ」
故に手を緩めずに龍造寺を攻め続けているが、これまた敵は敵で上手くこちらの攻撃を避けている。時間が経過すれば勝ちは疑いないが、敵がこのままというのも考え難い。
そこに変化を与えたのは、家久の後方に備える細川参議藤孝であった。
「姫路大納言様には伝えてある。赤松殿に龍造寺の側面を衝かせよ」
九二〇〇を擁する細川勢が早くも島津勢の後詰に動き出したのだ。同時に晴藤の軍勢に含まれる赤松政範を動かし、龍造寺の側面へ回らせると自身も大軍を前に動かして龍造寺を圧迫しようというのだ。
「公方様の手は煩わせぬ。儂が戦を終わらせる」
そう決意する藤孝の拳は力強く握られていた。これに隆信も対応を迫られることになる。
「適度に闘ってから退くつもりが、細川まで出てきたら退くに退けなくなるぞ」
隆信の額に汗、表情に焦りの色が出始める。
いま優勢に事が運んでいるのは、あくまで島津に対して兵も将も多いからだ。一万近い細川が出てくれば、龍造寺の優位などあっという間に崩れてしまうのは明らかだった。
「こうなっては仕方ありませぬ。寝返りましょう」
側近の鍋島信生が先の方針と違うことを口にする。
「母上を見捨てよと申すか!そなたは動くのは道意の本陣が他に手が回らなくなってからと申したではないか!」
「申しました。されど現状では不可能なのです。ならば手が回らなくしてやればよいのです」
と言い隆信が次の言葉を発する前に信生は献策を続ける。
「大友方には道意が姑息にも人質を必要以上に獲ったことで幕府に寝返りたくても寝返られぬ者たちが多くおります」
「そんなことは判っておる!今の現状と何の変わりがある!」
「我らが後ろに控える阿蘇勢も幕府への内通を考えている者の一人にございます。我ら単独で寝返っても阿蘇勢の方が数も多く、その間に道意が手を打つのを止める手立てはございませんでした。されど細川が迫っているのなら話は変わります。我らの後ろには一万以上の味方が続いているとお考え下され!」
「……阿蘇勢は混乱、殺到する敵勢に道意も対応に追われるということか」
「用意してあった騎馬はすぐに佐嘉へ向かわせます。それくらいの余裕はございましょう。また事と次第によっては阿蘇勢もこちら側に取り込めます」
「よし!すぐに島津へ使者を走らせよ。誰ぞ島津家久に我が意を伝えられる者はおらぬか」
島津とは優位に戦いを進めているとはいえ、戦闘中の相手の陣へ向かうというのは困難を極める。その役目を担えるのは並大抵のことではなかったが、それを成さなければ龍造寺に明日はない。
「その役目、藤兵衛が相応しいかと」
信生が推薦したのは江里口藤兵衛信常という男で、龍造寺の中でも指折りの豪の者だ。以前は信生の父に付けられていた家臣だったが、今は信生の付けられて傍に控えていた。
「藤兵衛、やれるな?」
「無論にございます。それには頸を一つお借りできればと存じます」
「好きなのを持っていけ。そこら辺に転がっていよう」
いきなり難題を突き付けられても動じない様子に隆信も満足した様子で許可を出す。
その後、信常は拾った頸を一つ抱えると前線に赴いて敵から旗指物を奪い、味方に扮して家久に近づいた。
「我が主の言葉を伝えます」
いきなり目の前で正体を明かした信常に家久の陣では瞬時にどよめきが広がるが、その度胸と振る舞いに家久は感じ入り、一転して今まで疑っていた龍造寺の言葉を信じることにした。
「そなたこそ無双の剛の者である。そなた自身は無理でも、一族の者を誰ぞ儂に仕えさせぬか」
そうまで言わしめた家久の誘いを信常は断り、家久は相当に残念がったとも信常の堂々さに負けぬようきっぱりと諦めたとも伝わる。しかし、どちらにしろ龍造寺の寝返りが確定となったのである。
「何故に出撃が許されぬ。いま手を加えねば押し返すことが出来なくなるぞ」
前線の大友勢が揃って劣勢に立たされている頃、吉弘鎮信と高橋鎮種兄弟は未だに下されない出撃命令に憤りを募らせていた。
二人からは前線が何処も押されているように見える。実際、押されているのだからその認識に間違いはなく、梃入れの必要があると判断していた。だからこそ本陣に出撃の許可を求めて使者を走らせたのだが、返ってきた答えは否だった。
「再三に亘り申し伝えますが、出撃は戦機が充分に熟してからと肥前守様は仰せです」
「見て判らぬか!戦機が熟す前に我らが負けるぞ!」
「ですから未だ機にあらずと仰せなのです」
「いつ機会が訪れると申すのだ!」
「某に言わないで下され!某は肥前守様のお言葉を伝えているに過ぎませぬ!」
「くそッ!」
瞑想するかのように鎮座する鎮信の隣で、鎮種は使者に対して吐き捨てるように言って地面を蹴った。二人が抱える兵は多くはないが、それでも闘えば敵の一、二部隊は破る自信はある。攻めるにしろ退くにしろ構わない。しかし、このままジッとしている事だけは堪えられなかった。
大友軍の左翼では蒲池勢が敗れ、肥前衆と尼子勢が戦闘に突入した。旧菊池家臣の北肥後衆も上野勢に押されており、筑紫衆も吉川元春の前に成す術もなく後退を繰り返し、右翼では細川藤孝の圧迫により龍造寺の寝返りが発生、今から懸命に闘ったところで敗戦を免れられるかすら怪しい状況である。それを“未だ戦機が熟していない”と本陣は言う。
(道意め、何を考えておる)
鎮座する鎮信の脳裏には総大将の大友肥前守親貞の姿ではなく、傍に侍る道意の姿が映っていた。全てのお膳立ては道意の仕業だと判っている。かと言って道意が敵と通じて味方を陥れようとしているとは思わない。もし道意が幕府側の間者なら、大友を大きくした理由が説明つかないのだ。ならば道意には勝つ手段が未だに残されているということだ。
「相判った。機が熟すまで我々は待機する」
鎮信が決断を下した後、大きな狼煙が本陣から上がったのだった。
【続く】
お待たせして大変に申し訳ございません。年末の順調な投稿から一転、かなり時間が空いてしまいました。
状況を説明すると私の職業は飲食業です。特定警戒地域にも指定された県であり、この数カ月は世間で言われるステイホームなんて経験できないほど家にいられず、生活に苦慮する毎日でした。加えて雇われに立場でありますが、店を任されている立場でもあります。自身が率先して店を守る必要があり、とても小説を書いている場合ではありませんでした。
一先ず本日で緊急事態宣言は解かれました。かといって飲食業にはこれからも厳しい日が続くと予測しておりますが、まあ区切りは一つ付いたとして、執筆を再開して更新をさせて頂きました。順調に執筆できれば完結までそう遠くないところまで来ていながらの更新途絶は、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。お許しください。
これからも更新は続けますが、明日からの変化次第では更新が大幅に遅れることも考えられます。しかし、状況は好転したとも捉えています。私事で申し訳ございませんが、引き続きお付き合い頂ければ有難いです。