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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第八章 ~鎮撫の大遠征・西国編~
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第十一章 南九州情勢 ー生き残りを懸けた攻防ー

九月朔日。

薩摩国・内城


 九州北部に幕府勢が上陸し、筑前では毛利と大友が干戈を交えている頃、ここ薩摩でも次なる戦に向けて出陣が行われようとしていた。


 北部九州の大半が大友によって支配されているのと違い、ここ南部では大名家の勢力が割拠している。最大勢力を誇るのは薩摩統一を果たしている島津義久で、日向国南部に所領を持つ豊州島津氏、北郷時久は島津方として行動している。また西部の北原氏も島津方であったが、家臣らの出奔が相次いだ事を理由に永禄七年までに領地を捨てて島津へ臣従、旧領は木崎原合戦以降、大友に抑えられている。


 一方で大友は肥後南部の相良義頼を降して傘下に加え、先の木崎原合戦で日向国諸県郡の旧北原領を手に入れている。これに伊東氏を滅ぼして日向の大半を掌中に収め、幕府に無視された形となった大隅国南部に勢力を有する肝付氏を水面下で味方に引き入れた。


「では兄者、行って参る」

「うむ。仔細は又四郎に任せるが、逸るなよ」

「判っておる。安心せい」


 内城から出陣する一団を率いる将は島津又四郎義弘、当主・修理大夫義久の実弟である。木崎原合戦では伊東の大軍を相手に寡兵ながらも勇敢に戦い抜いたものの大友の介入で敗れた。その逆襲に燃えていた弟を義久は敢えて大隅方面に送った。逸る性格ではないが、念のために抑え役として智略に長けるもう一人の弟・又六郎歳久と老臣・新納忠元も付けて万全の布陣を整えた。


 大隅では大友の意を受けた肝付兼亮が伊東の遺臣たちを糾合して北進していた。兼亮は島津との国境に兵を出すとの約束を大友としていたが、その大友家と領地を接したことにより肝付へ満足に備えられない北原氏を倒すべく兵を動かしたのだった。


(島津と対峙しても勝ちを得るのは難しい。しかし、北原相手なら所領を得ることは不可能ではない)


 当主が相次いで死去し、求心力を失いつつある兼亮は勝利を貪欲に求めたことで、情勢は一気に移り変わっていく。


「申し上げます。北郷勢は住吉原に布陣、豊州島津の援軍も到着しているようです」

「数は判るか?」

「はっ!凡そ二千かと存じます」


 この瞬間、兼亮は勝利を確信した。恐らく背後の大友を警戒して兵を割いているのだろう。狙い通りの展開だ。


 こちらは麾下の伊地知、禰寝に伊東の遺臣たちを合わせて三四〇〇を数え、兵力で圧倒している。二倍近い差は野戦では大きく、城に籠られなかっただけ幸いだった。籠城を許せば、流石に落城させるのは難しくなる。


「この機を逃してはならぬ。徹底的に叩きのめし、城に籠られる前に数を減らす」


 そう言って兼亮は軍議を催さずに即座に合戦を始めようとした。ここが兼亮の若さたる所以であろう。目の前の勝利に逸ってしまったのだ。


「こちらの足元を見たな。我らを甘く見たことを後悔させてやる!」


 その様子に時久は激昂、赤ら顔で応戦を下知した。


 確かに数は少ないが、豊州島津氏の当主・朝久は時久の実弟である。数は少なくとも結束は強い。しかも島津本家より義弘の軍勢五〇〇〇が向かっているとの報せを受けており、士気は高かった。時久自身もいくつもの合戦に参加し、戦功のある猛者である。簡単には負けないという自信を持っていた。


 その両者が住吉原でぶつかる。


 最初の勢いこそ肝付にあったものの北郷勢の守りは固く、その粘りに備えを崩すことがなかなか出来なかった。何故なら数で上回る肝付勢が数で圧倒することが出来なかったからだ。


 実のところ肝付陣営はかなり複雑な事情を抱えていた。


 まず血気に逸る当主・兼亮は若く、合戦の経験も乏しい。今も数に勝るという理由で強気ではいるものの確固たる勝因を有しての判断ではない。そして中核を担う禰寝重長は島津とは和睦派であり、兵こそ出したものの戦意は低く、未だ合戦の行方を見守っており、兵を出し渋っていた。


「禰寝は何故に動かぬ!あと一手あれば敵を崩せるというのに!」


 そういきり立つ兼亮がいくら使者を送ったところで重長は“合戦には機というものがある。今は辛抱の時であり、焦るべからず”と頑なに出撃することを承知しなかった。


「儂が若いからと言って、合戦を知らぬ若輩者だからとして軽んじてるのか!」


 そう兼亮が受け取るのも無理もないが、その間も合戦は続いている。


 また伊東の遺臣たちは凡そ一〇〇〇とあったが、その伊東自体を滅ぼしたのは大友であって島津ではなく、どちらかといえば大友と盟約を交わしている肝付に対して良い感情を抱いていなかった。とはいえ敵対していた島津を頼る訳にもいかず、伊東の同盟者であった肝付を頼ったというわけだ。この戦いが旧領回復や主君の仇討ちなら違ったであろうが、ただの手伝い戦なら戦意が上がるはずもない。


 故に最初の勢いだけで、すぐ戦況は一進一退の膠着状態に陥った。


「申し上げます!島津の軍勢が伊地知様の小浜城へ迫っているとの由!」


 そこへ急報が入る。義久が送り出した義弘・歳久の軍勢が伊地知重興の属城・小浜城に迫ったのだ。


「此度は守る戦ではない。攻める戦よ!」


 そう内城の広間で義久が宣言したのは二カ月も前のことだ。


 昨年に木崎原で敗北を喫してより逆襲の機会を狙っており、約一年もの間で力を蓄えてきた。その成果が遂に実を結ぶ。


「禰寝殿の軍勢が撤退していきます!」

「何だとッ!?」


 島津迫るの報に接した直後、重長が無断で戦列を離れ始めたのだ。しかもこれは敗北を悟ったからではなく、島津の調略が禰寝に及んでいた故にだった。


「もはや肝付は終わりだ。早々に我らは島津に付かせて貰う。背中から襲わぬのはせめてもの情けだ。せいぜい踏ん張るといい」


 そう呟いて重長は戦場を離脱した。


 こうなると決着はあっけないものである。自分の城が攻められている重興は犠牲を抑えたいとして守勢に回り、伊東の遺臣たちは兼亮の為に命を捨てる義理はないので、敗走を始める。それを見た北郷勢が一気呵成に追撃に入る。


「く……くそッ!!」


 結果、肝付勢は四三〇もの犠牲を出し、兼亮は這う這うの体で高山城に戻ったが、その後の島津の圧迫を防ぐ術はなく、じわじわと追い詰められていくことになる。


 その頃、兄であり当主の義久は何をしていたかというと、本隊を率いて北上して相良氏の水俣城に攻め寄せていた。


 率いる軍勢は八〇〇〇、陣営には島津累代の老臣や若手が揃い、堂々たる布陣で水俣城を遠目にしていた。


「ふん!薩摩の田舎ものが何ほどのものか!」


 対する相良陣営は当主・義頼の姿はなく、代わりに道薫が相良勢二〇〇〇を預かって指揮を執っていた。また八代郡を拝領した島津勝久の軍勢一八〇〇、道意から道薫に与えられた三〇〇〇の兵と合わせて六八〇〇と僅かに島津を下回っていたが、かつて三〇〇〇の兵で二万を相手に戦い抜いた道薫にすれば、この程度の差は大した差に感じられなかった。


 なお勝久は病で出陣できず、子の忠康が代わりに兵を率いている。


「さて、如何なさるおつもりか?」


 その口調には若干の棘があった。 


 水俣城主・深水下総守頼延は相良の城に堂々と居座る道薫に良い感情を抱いていない。また得体も知れない人間が総大将となっている事実に疑念しか抱いておらず、茶坊主を名乗ってはいるが、その風貌と身体つきから察するに、この道薫という男を明らかに武士と思っている。身分を偽っている人間をどうして信じられるであろうか。


「水俣川を天然の堀とするこの城なら充分に敵を引き付けられよう。その間に修理大夫殿の軍勢が島津領に雪崩れ込めば、敵は退かざるを得まい」


 と語る道薫に頼延ら相良の家臣たちは憤りを募らせる。


(外道め!貴様らは更に殿を苦しめようというのか!)


 主君・義頼は大半の軍勢を人質に獲られて居城・人吉に僅かな兵と共にいる。もし義頼が家臣らを見捨てられたなら大友に叛旗を翻すには絶好の機会であるが、頼延の知る主君は義理堅い性格で、それを絶対に行わないだろう。だからこそ無性に目の前の男に腹が立った。


「なんと弱気な!敵を誘い込んだ今が好機、こちらから討って出るべきだ」


 故に頼延は玉砕覚悟で出撃し、自ら主君の足枷を外さんと画策、相良家臣団と図って合意に達していた。


(殿の為に死のう)


 そう思う家臣が多いのも主君の慈愛が深い所以であろう。幸いにも出撃している家臣らの殆どには妻子を人吉に置いてくるよう事前に伝えられている。後はここで相良家臣団が壊滅すれば、義頼は堂々と幕府方として行動できる。妻子は必ず主が面倒を診てくれるはずだ。


「筑前でも戦が始まっている。勝った味方が援軍として駆けつけてくるか、修理大夫殿が敵を退かせるか、そう急がずとも我らの勝利は約束されておる」

「幕府を相手にして絶対に勝てるとは言い切れまい。もし筑前で負けて幕府の大軍がやってきたらどうするのだ」

「勝つさ。必勝の策が肥前守様にはあるからな」


 そう大言する道薫が語る策とは何か。そこには歴戦の将が語るような凄味があり、俄かに否定は出来なかった。


(幕府が負けるようなことが有り得るのか?)


 そう思ってしまう程に。


「万が一に負けても兵さえ失っていなければ、和睦の一つも結べよう。さすれば所領は減るかもしれぬが家名は存続できる。いま出撃して全てを失うよりは良い」

「それが弱気だと申すのだ。出撃して勝つということもあろう。その上で筑前に赴き、味方を援護するという策もある」

「無謀じゃ。確かに眼前の島津を討ち破ることは不可能ではないが、破ったところで息の根までは止められぬ。止めるためには島津領へ攻め込む必要があり、島津の全てを奪うほどの兵が我らにはない。やれてせいぜい城二つ、三つ奪えれば良いところよ。ならば我らが北へ向かえば、島津は息を吹き返してくる。故に我らは島津を抑えることは出来ても、それ以上は望めぬからこそ、籠城が上策なのだ」


 そう語る道薫を見て頼延は改めて出自が武士であると確信する。もちろん茶坊主にここまで語れるかという思いもあったが、道薫は物事を正確に掴んで判断を下している。頼延も自身の目的さえなければ同じ判断をしていただろう。


「そのような考えは好かぬ!目の前に敵がいて、我らの所領を掠め獲っておるのだ!武士の面目に懸けて隙あれば出陣させて頂く!御免!」


 と敢えて頼延は意固地に振る舞って見せてその場を出た。


 どちらにしろ相良勢さえ壊滅すれば目的は達せられる。道薫が相良の軍勢を預かっていても実質的な指揮を執るのは相良の人間だ。もし出撃となれば止められるはずもなく、仮に城内で同士討ちになろうとも構わない。だが理想は城外に討って出ることだ。城外なら万が一にも人吉へ落ち延びられる者もいるかもしれない。全滅させるとしても、全員が無理に付き合う必要はない。生き残れるなら生き延びて、主君の下で働くべきである。


(何としても出撃せねば……)


 そう思い頼延は家臣団と繋ぎを取り、三日後の出撃で話を進めた。しかし、自らの城であることを理由に油断が生じ、事が道薫に露見してしまう。


 そして出撃を明日に迎えた時、頼延は急死したと発表された。翌日、相良勢は喪に服したように静かだったという。




【続く】

早いもので、令和元年もあと半月となってしまいました。皆様は年末をどうお過ごしですか?


今回は島津...中心の話ではありませんでしたが、情勢は若干に島津が優勢。道薫と相良家の面々にどう決着がつくのか。


次回は年内最後の更新となります。では再び十日後に!

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― 新着の感想 ―
[良い点] 頼延と道薫(というか荒木村重)との会話というか、話し合いにもなりませんね。道薫が話の筋を通して、籠城しようとしてるのたいして、頼延は家臣としてすじを遠そうとしてますし。 [気になる点] 頼…
2019/12/19 13:33 ジェイカー
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