第十章 将軍親征 ー天下統一の総仕上げー
九月十四日。
京・二条城
永禄八年(一五六五)五月に起こった永禄の変で、九死に一生を得た将軍・足利義輝の復権によって天下統一への動きは一気に加速した。三好家は打倒され、西国の雄・毛利家は恭順、義輝の実弟・義昭を奉じて一大勢力を誇っていた武田信玄は近江・余呉で果てた。畿内を中心に中国、四国、北陸、東海と制した幕府は、残された九州、関東の争乱を打開すべく日ノ本の中心たる京の都で大評定を開いて天下統一への道筋をつける。
「宰相よ、東国の平定を任せる」
義輝は自ら九州へ親征する決意を表した一方で、東国平定の指揮を織田信長に委ねた。その後、信長は出陣して北条家の牙城・小田原を包囲したとの報せが届いている。九州には先遣隊として毛利家が乗り込み、今月の初めには中国勢を率いた姫路大納言・足利晴藤と阿波中納言・足利義助が海を渡った。後は義輝が赴き、最後の総仕上げを行うだけであった。
そこへ急報が届けられる。筑前岩屋城陥落、太宰府を確保したとの報せが届いた矢先に毛利勢の敗北が齎されたのだった。
「出陣を早める。各々、仕度を急げ」
と将軍・足利義輝が下知を出したのは報せが届けられた僅か二刻後の事であった。
「されど上様、毛利が破れたとはいえ二千やそこらを失ったのみ。当初の予定通り博多と門司は維持しております。そう急がずとも良いのではありませぬか?」
と告げてくるのは今や評定衆の筆頭の地位まで昇り、備前守護も兼ねる三淵右京大夫藤英である。
「上様は将軍であらせられます。一敗戦など小事と捉え、ここは予定通りに出陣なさるのが宜しいかと存じます」
「右京大夫の申すことは判らんでもないが、余の出陣する日を公にしている訳でもあるまい。それに焦っているのではない。これは督戦ぞ」
「督戦?」
「うむ。不甲斐ない戦をした者どもに余は怒っておるのじゃ。故に出陣を早めはするが、すぐに余は九州へは渡るつもりはない」
とは言うものの義輝の表情には怒りの様子は微塵も感じられない。この督戦が義輝の感情から沸き起こったものではなく、諸大名への威圧であることが藤英には判った。
「此度は姫路大納言、阿波中納言にとって節目の戦よ。既に十万の軍勢は送った。後はその器量、余に頼らず九州を平定できるかで見定めるつもりじゃ。されど九州に余の威光は轟かせる必要はある」
「なるほど……、上様が出陣したとの報せが九州に届いただけで流れが変われば、それは上様の威光によるものとなる訳でありますな」
「うむ。なればこそ毛利が敗戦したという今の機会を逃すべきではない。今ならば戦後、毛利を御しやすくなるというものよ」
「畏まりました。兵はあらかた揃っております。すぐ出陣を命じます」
として藤英は退出していく。
既に義輝は戦後に思考を向けている。当たり前と言えば当たり前と藤英は思った。今の幕府と大友がまともに戦って負けるとは考えられない。ではどう勝つか、どう勝てば戦後の幕府を考えるに理想かに主は重点を置いている。そこに視点を向けられなかった自分はまだまだだと反省をしなければならないだろう。評定衆の筆頭として、自分は主のような視点で物事を考えるべきだった。
(与一郎、上様の理想を叶えるか否かはお主に懸かっているぞ)
藤英は既に九州に赴いている実弟に想いを馳せ、諸大名へ出陣を命じるのだった。
次に義輝から呼び出されたのは土岐左近衛少将光秀であった。
「左少将、伏見の普請はどうなっておる?」
義輝は光秀に対して新城普請の進捗について尋ねた。以前に坂本城に逗留したこと、石山本願寺にて光秀の家臣・黒田官兵衛孝高と邂逅した記憶から義輝は新城普請を任せるなら光秀と総普請奉行に任じていた。
もちろん義輝の娘・藤と光秀の子と縁組が内定していることも理由の一つで、光秀の経歴に箔を付けさせる目的もある。ただ光秀にも九州遠征には同陣して貰わねばならず、その前に状況を把握しておく必要があった。
「はっ!縄張りは素案が固まり、既に資材の確保に入っております。勝竜寺、淀の両城も廃城とし、建材を利用します。また幸いにも京洛の復興に各地から物資は大量に集まっておりますので、優先して堀や堤を築いております。要の天守は石材の確保が済み次第に普請は始められます」
「人夫も揃うておるか?」
「こちらも京洛の復興で諸国より人が集まっており、一段落したところも多く、それらの人夫がかなりの数で集まっております。問題ございません」
「ならば急ぎ各奉行らに下知しておけ。先ほど右京大夫に出陣を早めるよう伝えた。二日の内には左少将にも出て貰う」
として義輝は光秀に対して理由を説明しようとするが、そこは光秀である。
「毛利の敗北を利用しない手はない……、ということですな」
「流石は左少将、話が早い」
なお幕府本隊となる軍勢の大半は既に京へ集結しており、いつでも出陣できる状態にはあった。
今の京には先陣を務める摂津の池田勝正は一万二〇〇〇に始まり、和泉勢五五〇〇、また波多野秀尚ら丹波勢は七四〇〇、土岐光秀の丹後勢は六〇〇〇、柳沢元政の若狭勢三二〇〇、一色藤長の大和勢六八〇〇には島清興を補佐に付けている。中軍を務める伊勢公方の足利義氏は八〇〇〇、後備えの近江勢を率いる山岡景隆の二六〇〇に伊賀の筒井順慶は三四〇〇だ。そして総大将・足利義輝の一万がいる。これに藤英の備前勢七七〇〇が遠征途上で加わり、総勢は七万二〇〇〇余となる予定だ。
先導役の毛利の三万を始め、中国、四国、畿内の軍勢を合わせて幕府が九州へ投入した数は十七万にも及ぶ。まさに天下統一を成し遂げるに相応しい陣容である。
つまり現時点で義輝の出陣命令に従える状態にあり、仮に不足しているものがあれば大坂や堺から送れば良かった。九州はともかくとして瀬戸内の制海権は幕府が完全に抑えており、同時に兵站は強固である。
「先ほど右京大夫にも伝えたが、余は暫く九州へは渡らぬ」
「……理由は理解いたしますが、ならば渡海は何時ごろと?」
「大友が降伏したのなら九州へ渡るつもりだ。それとも左少将は余が九州へ渡らねば乱は鎮まらぬとの考えか?」
「いえ上様の仰る通り、渡らずして鎮まるなら、それが一番にございます。もし上様の手によって直接に乱が治まれば、姫路大納言様、阿波中納言様を軽んじる気風が西国に立たぬとも限りません」
「然様だ。余が懸念するのはそこよ」
ここが難しいところだ。
義輝はかつての鎌倉公方との対立の歴史から御一家と整備した晴藤、義助、義氏ら三公方家に強大な権限を与えるつもりはないが、かといって足利公方が諸大名に軽視されるのはも好ましくない。
中国勢を指揮する晴藤、四国勢を指揮する義助は各々の管轄下に一定の影響力を保持する必要がある。毛利が破れた今、その土壌は出来つつあった。ここで二人が義輝の手を借りずに九州平定を成し遂げれば、中国、四国の大名たちは両公方家を軽視できなくなる。
「某が呼ばれた理由が判り申した」
と光秀の発言に義輝は表情をニンマリとさせた。
義輝の理想は自ら手を下さず九州が治まることだ。しかし、本当に治まるかどうかは判らない。実際に毛利は大友の一戦に及び、一敗地に塗れている。今後も合戦が続くと想定され、兵の数で勝るとはいえ九州は強兵揃い。一筋縄では行かないはずだ。
「出陣が早まること急ぎ早馬にて大納言様へお報せ致します。ただ我が陣中は城持ちになったばかりの者が多く、手が空いている者は少のうございます故……」
「それは困ったのう……」
もったいぶる光秀の発言をニヤニヤしながら義輝は待った。
「黒田を差し遣わすことお許し下さい」
「うむ。余も一人、使ってみたい者がおる。途中まで同行させよう」
「それはようございます。某も上様に助命を願った甲斐があったというもの」
「それにしても左少将は良き拾いものをする。九州でも誰ぞ拾って来てくれまいか」
「ははは……、それは某も望むところ。拾いものは多い方が宜しゅうございます」
斯くして黒田孝高と真田昌幸。二人の軍師が幕府の使者として先んじて九州へ向かうことになったのだった。
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九月二十五日。
安芸国・厳島
この日、義輝は毛利領にある厳島神社にいた。
厳島神社は瀬戸内西部、安芸国南部に位置している。島内には荘厳な厳島神社が建立されており、創建は推古元年(五九三年)と一千年に近い歴史を持つ。安芸守となった平清盛によって大規模な社殿が整えられたのは有名で、平家の氏神としてその隆盛を支えた。その後、平氏や源氏を問わず畏敬されるものの世情の不安定から荒廃し、厳島合戦で大勝利を収めた毛利元就によって手厚く保護され、社殿は大掛かりな修復を受けている。
「見事な景色よ。具足を着けていなければ、大戦を控えていることを忘れてしまいそうだ」
眼前に広がる情景を前に義輝は満足げに頷きつつ、暫し鑑賞に耽る。
京で毛利敗北の報せを受け取ってより諸大名に出陣を命じた義輝は、この二日前に大坂から安宅船に乗り、陸路を進む軍勢を追い抜いて厳島へ降り立っていた。厳島に立ち寄ったのは戦勝祈願をすることが目的であったが、将軍である義輝がわざわざ大変な陸路を兵たちに付き合って進む必要もなく、かといって周防灘には少なからず大友水軍の影響があり、毛利の本拠にも近くて船でも立ち寄れて安全、かつ街道に面していることから兵を待つにも最適な場所だったことから厳島が選ばれた。この中には義輝が厳島を見てみたかったという理由も少なからず含まれている。
「公方様、近々能を催しては如何でしょう。永禄十一年に日頼様が参詣された折には海上に能舞台を設け、観世太夫に演じさせたことがございます。それはもう見事なもので、必ずや公方様も御満足いただけるものかと存じます」
と進言するのは厳島神社大宮の宝蔵を管理する棚守職を世襲する野坂房顕である。その職名から棚守房顕とも呼ばれている。
「ほう……、陸奥守めも粋なこと考えおるわ」
たった一度だけの邂逅、乱世の終焉を見ることなく没した英傑の姿を義輝は鮮明に覚えている。
「上様…どうか善い世を御創り下さいませ」
元就から託された願いは義輝の願いでもある。大国に翻弄されながら乱世を生きてきた二人にとって泰平の世は望むべき世界。それを叶えるべく義輝は最後の合戦に臨む。
(陸奥守よ、もう間もなくぞ)
まるで古き戦友と語らうが如く、義輝は絶景を眺めながら天に仰いだ。
「今も戦塵にまみれる家来どもがおるのじゃ。将軍たる余が能にかまける訳にはいかぬ」
「こ……これは失礼いたしました」
「されど良き案ではある。帰路には諸大名を引き連れ、総出にて盛大に戦勝を祝う能を催すとしよう。仕度は調えておけ」
「はっ!畏まりました」
そして夕焼けは暮れていく。この日、二人の軍師が九州へ渡ったという。
【続く】
またまた久しぶりに主人公の登場です。主人公が主人公らしかった当初が懐かしくもあります。笑
さて気になるところの二人が九州に送られました。義輝は渡海を暫く行わない方針で、幕府軍は現有の戦力のみで大友(道意)と戦わなければなりません。戦力の分散は兵法では愚策ではありますが、実際の秀吉も先遣隊を送って自身は後方にいます。これは当時の九州が街道もまともに整備されておらず、山地が多いために大軍が行軍するに不向きな地形だったのだと考えております。
義輝抜きで幕府は道意に勝てるのか。次回は一度視点を南九州へ向けてから博多の戦いを描きたいと思っています。