第八幕 幕府軍到来 ー謀臣の影ー
九月三日。
豊前国・門司城
大宰府にて毛利と大友が激突したとの報せが舞い込んだのは昨夜未明のこと。この日、早朝より報せを受けた諸将が緊急に集められて軍議が催された。
だが軍議に参加した諸将の表情は悲観に染められてはいない。むしろ敗報に動じるものは一人としておらず、どちらかといえば大友が明確に敵対行動をとったことで内心はほくそ笑む連中が多かった程だ。
(これで大友領は切り取り次第よ。これだけの幕府軍が負ける訳はあるまい。所領拡大の好機よ)
その背景には遂に到来した幕府軍の姿があった。
この前日、門司城には中国勢を率いる播磨公方こと足利大納言晴藤と四国勢を束ねる阿波公方こと足利中納言義助が揃って着陣、主だった将は先んじて渡海を終えており、後は続々と赤間関を渡って来る手勢の到着を今か今かと待つのみだ。
「此度の敗戦、誠に申し訳なく存じます」
軍議では開口一番、博多に陣取っている毛利参議輝元に成り代わり、門司城を預かる小早川左衛門佐隆景が二人の公方を出迎えて謝意を口にした。
大宰府の戦いは吉川元春が組織的な撤退戦を指揮したことで、大きな損傷は出ていない。宝満山城を包囲していた吉川元資と毛利の諸将は無事に博多へ帰還し、殿軍を務めた者たちも少なからず兵を失ったが将は失わなかった。どちらかと言えば犠牲という点では岩屋城攻めの方が問題視するべきであった程だ。
「負けたとはいえ手勢の大半は残っているのだろう。所領を失った訳でもなし、どうという事はあるまい」
これに報告を聞いた晴藤は総大将らしく堂々とした振る舞いで接し、終始に於いて淡々とした表情であった。
(公方として一皮剥けられたか。藤景様とは大違いだ)
隆景はチラリと真横に平伏する継子に目を向ける。かつて古河公方の三男として生を受けながらも今や小早川家へ養子に入った藤景は、隆景の教育によって多少はマシになったものの隆景には甥の輝元のように厳格に接し、家臣の目がないところでは折檻するような真似は出来なかった。故に甘さの抜けない指導が続き、義輝の傍で激戦を潜り抜けてきた晴藤とは大きな差が出てしまっている。
(だがそれも、悲観することはないか)
足利の血を引きながら公方でない藤景は、少し暗愚なくらいで丁度よいと隆景は思っていた。もし才気に溢れて邪な野望に心を支配されたのなら、その血筋から何をしでかすか想像に難くない。小早川の当主ならば両川を束ねて五カ国半を領する大毛利を動かすことは不可能ではなく、毛利を動かせば幕府に影響を及ぼすことも可能となる。義輝が京畿一帯を直轄領とし、御一家の公方家に周辺国を一国ずつしか与えていないのは、かつて鎌倉公方の叛乱や元亀擾乱から学び、征夷大将軍を除く足利公方に一定以上の力を与えないためだ。しかし毛利を動かせる可能性のある藤景は、他の公方より力という面では優位に立てる。だからこそ一国の主として満足するくらいの暗愚で丁度よいのだ。家臣団さえしっかりしていれば、一国の切り盛りくらいできる。
敗報を聞いたばかりの隆景であったが、内心ではホッと安堵の溜息を洩らした。
「さて本題であるが、軍勢の渡海は七日の内には終わろう。されど大宰府が敵の手にあるなら博多が危うい。大納言様、ここは中国勢の渡海を優先して一足先に我らは博多へ向かいたいと存じますが、如何でしょうや」
今後の方針を中国勢の副将である細川参議藤孝が問う。
「うむ。豊前にも大友の姿はあるが、動きが活発なのは筑州だ。博多に毛利・吉川の軍勢がおればすぐに落ちることもあるまいが、急いだ方がよかろうな」
これに対して疑問を投げかけたのは、四国勢の一人・長曾我部侍従元親である。
「儂は豊後の宗麟が今になっても動かぬのが気にかかる。噂では府内で一騒動あったとか、ないとかいう話もある」
この頃、流石に府内での変事は隠しきれるものではなくなり、幕府軍にも少なからず情報は伝わり始めていた。唯一、秋月種実だけは田原親宏と連絡が取れなくなった事からある程度の推察が出来ていたが、これも確証のないことであり、この場での発言は避けていた。
「長曾我部殿の懸念は尤もじゃ。探りを入れておれば、間もなく報知もあろう。なれど動いておらぬのであれば、我らの渡海を遮られることもあるまい。中国、四国勢が揃ってから動いても遅くはないのではないか」
「……ふむ。儂もこれといって確かな事がある訳ではない。宰相殿がそのように申されるなら、軍議の決定に従おう」
今回の出陣に際し、中国勢と四国勢だけでも相当な規模となる。
中国勢は総大将の足利晴藤に赤松政範らの播磨勢一万三六〇〇、副将たる細川藤孝の因幡・但馬の軍勢が凡そ九二〇〇、伯耆の与力勢が五〇〇〇に出雲守護・尼子義久は六三〇〇、上野隆徳ら備中勢四四〇〇、石谷頼辰の美作勢四二〇〇の総勢四万二七〇〇。
四国勢は総大将の足利義助の阿波勢六〇〇〇に蜷川親長の讃岐勢が三四〇〇、三好義継の伊予勢は西園寺勢など麾下に加えての八九〇〇で、副将の長曾我部元親は七〇〇〇を数え、総勢二万五三〇〇となる。
門司にいる小早川など毛利の手勢を含めれば七万を優に越え、現時点で幕府は博多も合わせると十万もの軍勢を九州に投入した計算となる。
一方で大友方はというと、門司城の南・松山城に戸次道雪が率いる軍勢一万余と麾下の兵がその西にある朽網城、長野城、宮山城らに分散して籠っており、いつでも博多に向かう軍勢を窺える状態にあった。また豊後府内には二万ほど軍勢を待機させているとの報せも届いていた。
「確かに豊後の宗麟がいつ後詰に動くかは判りませぬ。されど今は動いておらぬのであれば、博多へ向かう前に全軍で道雪を討ってしまうのは如何でしょうか」
と別の案を示したのは尼子の将・山中鹿之助幸盛である。
「道雪は大友家中では大物。討てずとも敗走せしめれば士気に大きく影響しよう」
「その策もあるな。こちらは七万、如何に道雪とはいえ勝利は疑いない」
と鹿之助の案に賛同を示す将が相次いだ。主に尼子の者たちや門司に残っている筑前衆、伊予の西園寺公広らが道雪討伐に賛成していた。
「それでは上様の申し付けとかなり異なる。やはり博多へ先行し、当初の予定通りに兵を進めるべきじゃ」
これに対し、中国と四国の幕臣たちは計画通りの進軍を主張した。彼らにとって大事なのは将軍・足利義輝の命令であって戦果ではない。ただでさえ大宰府に手を出して予定では豊後方面を先導するはずだった吉川元春が博多に留まってしまい、予定は狂ってしまっている。それを元に戻そうというのだ。
「それでは敵に時を与えるだけになろう。現状、採るべき道は先ほどに申し上げた通り大納言様の軍勢を博多に先行させるか、山中殿のご意見である全軍で道雪と戦うかの二択だ」
その幕臣たちの意見を否定したのは、同じ幕臣に名を連ねる藤孝であった。藤孝は兄・三渕藤英にこそ役職で抜かれているが、官位と所領の大きさでは幕臣随一である。何も付き合いの古さだけで、その地位にいる訳ではない。その才覚を義輝に認められたからこそ、地位を得たのだ。これにより誰も藤孝に反論できず、幕臣たちは意見を引っ込めるしかなくなった。
その藤孝が横目で晴藤を見る。いま決断を迫っているのだ。
「大納言が自ら正しい決断を下せばよし。さもなくば遠慮なく忠言・諫言をせよ。あやつの面子の為に万余の兵を死なす訳にはいかぬ」
そう主・義輝に釘を刺されている藤孝は、遠慮なく晴藤に決断を迫ることが出来る。副将という立場でありながら義輝の目付という側面も持ち合わせているのだ。
とはいえ義輝も晴藤が面子に拘って諸将の言葉に耳を傾けないとは思っていない。どちらかといえば晴藤は諸将の言葉に耳を傾けてきた結果、今の地位と実績を得ていると考えている。
(私に兄上ほどの才覚はない)
という認識が、素直に諸将の力を用いるという晴藤の今を形成していた。
「我らは博多へ向かう。聞けば大宰府に現れた大友の数は四万と毛利よりも多いとか。立花山に籠れば負けることはあるまいが、それは博多を捨てるも同然だ。確かに道雪と戦うもよいが、岩屋城の例もある。二万の軍勢が七百そこらに半月も粘られたのだ。七万に対して一万で同じ事が出来ぬとなぜ言えるか。ならば博多に先行して毛利を援けた方がよい」
として晴藤は幕臣たちに視線を向ける。博多の維持という義輝の命を守れなくなる事実を突き付け、積極的に協力させようというのだ。
「もっと判りやすく申せば、我らは中国勢が博多へ向かったところで門司には三万が残る。三万ならば、道雪に勝てなくとも積極的に攻勢に出なければ負けもするまい。いずれ上様の後詰が到着されてから道雪は攻めてもよかろう。されど博多は兵力で劣っている。攻めなければ、負ける」
と晴藤は丁寧に理由まで述べた。これは義輝ならやらないことだ。
義輝の采配に疑問を持つ者は殆どいない。将軍が有する強権に加えて当人の武威、覇気もあり命じられたままに従うだけだ。
「負けは幕府として許されぬ。天下に上様の恥を晒す訳にはいかぬ」
だが晴藤の場合、自分自身に対して絶対的な自信がある訳ではないからこそ、決定の理由を告げて諸将を動かそうとしている。
(随分とご成長なされた)
それを見て藤孝は素直に評した。
無知だった頃の晴藤を知っている藤孝としては感慨深いものがある。聡明な主君は何の心配もいらないが、その主君には支える身内が皆無と言ってよかった。才気の片鱗を見せていた義昭が謀反を起こした今、義輝を支えることの出来るのは晴藤しかいない。その晴藤がいつまでも独り立ちできなければ、幕府の未来は暗雲が立ち込めるだろう。
(これでよい。私まで尊大に振る舞う必要はない。前線で己を通そうとすればするほど諸将の不満は溜まる。私が兄上の目が届かぬ足元を見ておかねば、義昭の兄上に叱られてしまう)
天下泰平の総仕上げを前に、晴藤は隠岐にいる義昭へ想いを馳せる。それだけ晴藤自身がこの戦いに臨む決意があるということだった。
「出陣!」
その後、赤間関へ下知が飛び、中国勢が先に渡海することになった。晴藤は二万を越えたところで博多への進軍を命じ、九月七日には無事に博多入りを果たすことになった。そこで晴藤は驚愕の事実を知る。
「宗麟が暗殺されかけた!?奴らめ、それを我らがやったと申しておるのか!」
「はっ!敵は声高に我らの非を叫んでおります。秋月種実を通じ、下手人たる田原親宏を唆した……と。また大友親貞なる者が今は大友を束ねているとのこと」
「宗麟が指揮を執っているのではないのか?」
「詳しくは何とも。判っていることは宗麟が命を狙われたが、一命は取り留めていること。少なくとも眼前の大友は親貞という者が指揮していることにございます」
「……因幡宰相はどう思う?」
事態の急変に晴藤は思考が付いていかなくなった。
「解せませぬな。我らは確かに宗麟を敵としておりますが、暗殺という姑息な手段を用いずともよい立場にあります。無論、諸将の何れか……、この場合は秋月殿が先走った事は考えられますが、今は何とも……」
確証を得られない藤孝としては、そう答えるしかなかった。
そもそも宗麟暗殺は大友方に利がまったくなく、逆に苦境に立つ大友側が晴藤や義助の暗殺を狙って来るのなら理解はする。であるにも関わらず、ただでさえ朝敵となり結束に綻びが生じる事態に陥っている最中、大黒柱となる宗麟を欠いた大友が幕府の大軍と戦えるはずもないのだ。
「ともかく秋月殿には確認を取りましょう。早馬を飛ばせば、二日の内には報せが届きましょう」
この時、秋月種実は門司に残っていてすぐに確認は出来なかったので、話題は親貞の事へ移った。
「大友親貞という人物は、如何なる者ぞ。名前からして宗麟の縁者なのだろう?」
「父は宗麟の叔父・菊池義武で、先年に大友が龍造寺を降伏させた今山の合戦や相良攻めで指揮を執っていたと聞き及びます。手並みは鮮やかと評判で、いま大友家中では確かに宗麟に代わり、采配を振るうとしたらこの男しかいないというのは納得です」
「ただ不可解なのは、今山の合戦までは親貞の評判はまったく聞いたことはありませんでした」
「それは儂も同じだ。宗麟が名代を遣わす際は必ず戸次や吉弘など加判衆の者たちで、連枝衆の者が務めることはなかったぞ」
と口を揃えるのは筑前衆である。彼らはかつて大友に属していた事もあり、内情に詳しかった。事実、宗麟の叔父である菊池義武は謀反で自害、実弟の義長は大内家を継いだが、毛利元就に攻められて自刃、三男の塩市丸は二階崩れの変で殺害されている事から、現時点で大友姓を名乗っている者は宗麟を除けば親貞のみとなる。今山の合戦を思い出しても確かに宗麟が動けないとしたら、御家を背負えるのは親貞しかいないに思えた。
「今山の合戦では、戦の最中に酒盛りをして龍造寺の油断を誘い、夜襲を待ち受けて重臣を虜にしたとか」
「相良攻めでは一気呵成に攻め込んで八代城を抑え、短期間で義頼殿を降伏させたと聞くぞ」
「島津と伊東の戦いに介入し、漁夫の利を得て飫肥を抑えたのも親貞の采配によるものと言います」
「左様、されど先ほども申したように今山合戦以前の実績は不明です」
「実績が不明とは解せんな。親貞の歳はいくつなのだ?まだ若いのか」
「いえ、確か三十半ばかと存じます」
相次ぐ親貞の評判に一筋縄では行かぬ相手と諸将が認識し始めた頃、晴藤は引っかかるものを感じ、疑問を呈した。
有能な者であれば、少なからず若い頃から実績があるはずで、多少は名が知れているのが普通だ。それがないということは、どういうことなのか。誰もが首を傾げる中で、それに近しい人物を晴藤はよく知っていた。
(私と同じだ)
そう晴藤は親貞を自身と重ねたのだった。
親貞の年齢は晴藤と大差はなく、その晴藤も播磨を攻め取り、元亀擾乱では宇喜多の討伐や丹波を平定し、紀州攻めでも短期間で雑賀衆を降伏させたという輝かしい実績がある。しかし若い頃は僧籍にあって何ら成果を上げた事はなかった。
(むしろ初陣などは何をして良いのかすら判らなかった。黒田がいなければ、私が兄上の期待に応えられる事はなかったであろう)
三年半前の初陣で晴藤は智将・黒田官兵衛孝高に出会った。官兵衛は一度として会った事のない義輝の考えを当時の情勢だけで読み取り、的確に晴藤へ助言した官兵衛が晴藤が将として花咲くきっかけとなっている。その後、晴藤の活躍の裏には常に官兵衛の姿があり、その官兵衛なくして今の晴藤はないと言っても過言ではないだろう。
だが親貞は僧籍にあった訳ではない。武士の身分に有りながらも実績がないのは、無能だからだ。無能な者がいきなり他者を圧倒するような有能になることはない。
その晴藤だからこそ、気が付いた。晴藤でなければ気が付けなかったはずだ。その危険な存在に。
「今山の合戦の直前に親貞の側近となった者を洗い出せ。その者が親貞に助言している可能性がある。確証はないが、親貞自身を警戒することはせずともよい。真に危険なのは、その側近だ」
幕府側が道意の影を掴んだ瞬間だった。
【続く】
さて御約束通りの投稿ができました。
いよいよ道意の正体に迫ってきました!その糸口を掴むのが義輝の弟・周暠!史実の人物ですが、永禄の変で死んでいるので完全にオリジナル化しています。その晴藤が道意に迫る。成長を感じますね。
さて、また十日後にお会いしましょう!