第七幕 太宰府攻防戦 ー叛徒逆襲すー
九月朔日
筑前国・宝満山城
三日前に岩屋城を落とした毛利勢は、そのまま大宰府を占領して凱歌を上げた。ついに始まった幕府と大友の戦いの緒戦は先手となった毛利の勝利に終わったのであるが、実のところ気分は良いものではない。
「まったく勝った気がせぬ」
と吉川元資が嘆くのも無理はなかった。
確かに岩屋城は落とした。しかし、犠牲者は負傷者を含めて三〇〇〇を優に越えており、立花鑑載を失った。軍勢の士気は御世辞にも高いとは言えず、しかも岩屋城を守備した敵将・高橋鎮種を取り逃がしている。次なる標的の宝満山城は岩屋よりも奥地にあり、城の規模も大きく、数も一〇〇〇以上と七〇〇だった岩屋より多いことに加えて勇将とも称される吉弘鎮信もいる。鎮信の采配は毛利の人間であれば多々良川や門司の合戦で何度も経験しており、先の戦いでも立花勢の隙を衝いて鑑載を討ち取ったのは鎮信が状勢を見極める力に長けていると判る。勇将との噂は真実だろう。同時に鎮種と鎮信が実の兄弟であることを考えると両者は上手く連携してくると思っていい。
何せ元資は父・吉川元春と叔父・小早川隆景が表向きは反目し合う事が多くとも、いざ毛利の為の合戦となれば足を引っ張り合うことはせず、巧みに連携し合う情景を何度も見せられて育ったきたのだ。名乗る姓は違えども、血の繋がった兄弟が御家の為にと闘う力は強い。毛利は誰よりもその力を理解していた。
「如何いたす。宝満山に寄せるか、この地に留まるか」
だからこそ、軍議の場で意見は分かれる事になった。
通常なら三〇〇〇を失ったところで一万七〇〇〇を誇る毛利勢がたかだか一〇〇〇そこらが籠もる城に寄せないという選択肢はない。だが多くの将がこれ以上の犠牲を払うのを嫌った。
「間もなく門司に姫路大納言様、阿波中納言様が御到着なされる。一先ず宝満山城へは抑えの兵を置いておくとして、大宰府の維持に努めては如何か」
「異論はない。博多の毛利殿から援軍を得られぬ以上、ここは現状の維持が上策であろう」
「某も同意いたす」
軍議の結果、城攻めは延期となった。大半の将が城攻めを躊躇った事と太宰府の占領自体が幕府より命令されていた博多の維持以上の成果だった事が主な理由となった。ここまで大勢を占められれば総大将の吉川元春も諸将の意見を尊重せざるを得ず、将軍・足利義輝の意を汲み取る元資も無理強いはさせられなかった。
なお宝満山城の包囲は損害の大きい九州勢に代わって毛利勢、具体的には吉川元資に一部の毛利兵を加えた五〇〇〇程が引き受ける事になった。
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九月二日。
筑前国・宝満山城
毛利の方針が決まり、宝満山城の包囲が始まった頃の城内はと言うと、鎮種と鎮信の兄弟が無事の再会を喜びあっていた。
「毛利に相当な打撃を与えた。流石は孫七郎じゃ!儂自慢の弟よ!」
城に戻った鎮信は弟の生還と活躍を肩を叩いて喜んで見せた。生還者一割は乱世であれ例に見られず、僅か七〇〇で二万を相手に三〇〇〇を超える損害を与えた。毛利は幕府の援軍があるからこそ、その場に留まっているが、常なら撤退しても不思議ではない規模の損害であるのだ。
(父上、見ておられますか。孫七郎が立派に大役を果たしましたぞ!)
これだけの事を弟が成した。まさに武門の誉れ、泉下の父も喜んでいる事だろうと鎮信は思った。城兵たちを挙げての労いは帰城後から数日と毛利の兵が姿を見せるまで続けられ、岩屋で戦った者たちは傷を癒した。
「……某は兄者のように喜べませぬ。死ねと命じながら自分は生き残ってしまった」
ところが岩屋を死に場所と覚悟していた鎮種の気は重く、表情も暗かった。
「岩屋だけが戦場ではない。我らが目的は御家を存続せしめる事じゃ。その為に戦い、死ぬならばよいが、決して自己満足に死ぬ事は許されぬ。まだお前は戦えるはずだ。ならば戦って戦って、戦い抜いてから死ね」
そんな弟に対し、鎮信は優しい言葉を投げかけはしなかった。そんなことをしても弟が喜ぶ事はないと知っているからだ。厳しい言葉をかける方が弟の気は保つのだ。
「そうよな。いや、済まぬ。もう大丈夫じゃ」
言葉の中に隠された兄の優しさに気が付いた鎮種は、両の手で自分の頬を二度、三度と叩き、気持ちを切り替えた。
その翌々日の事である。城を囲む毛利に攻めてくる様子が見られなかったものの警戒を怠らず、戦の緊張感が強まっていた頃にそれは起こった。
「懸かれぃ!!」
天を貫かんとばかり垂直に掲げられた朱色の軍配が勢いよく振り下ろされた。その号令に従って大地を揺るがす程の大軍勢が毛利に攻め懸かったのだ。
「申し上げます!南東より敵が現れました。その数一万……いや、二万は優に超えまする!」
「阿呆!何故に接近に気が付かなかった!!」
報せを受けた吉川元春は、怒りの余りに思わず立ち上がって報せを届けに来た者を蹴り飛ばす。
敵の正体は判っている。十中八九、佐嘉の大友親貞だろう。毛利としても親貞を警戒して物見を派遣しており、無警戒だった訳ではないのだ。
「広門め、裏切ったか!」
この瞬時に元春は筑後国勝尾城主・筑紫広門の離反を悟った。
筑紫氏は今や大友方であるが、以前は叛旗を翻して毛利に味方したこともある。幕府の西征が始まる頃、九州へ出兵していた毛利が勝尾城を落とし、広門を城主に据えた。
その広門は大友の南筑前進出に伴い再降伏、宗麟も対毛利戦を控えており、所領を安堵していた。
「やむを得ず大友に降伏を致しましたが、密かに反抗の機会を窺っておりました。毛利様の出馬は、まさに望んでいた機会に相違なく、然るべき時が参りましたなら我ら筑紫衆は毛利様に御味方いたします」
それが今回の九州征伐に当たって広門は毛利の誘いに乗ってきていた。もちろん幕府の後ろ盾を毛利が得ているからこその鞍替えであり、当時の立場を知る元春だからこそ広門の返り忠は充分に有り得る事として受け取っていた。
「我らは大宰府まで兵を進めるに至った。約定通り筑紫衆には御味方として我らに加わり、岩屋城攻めを手助けして頂きたい。また大友側の様子も報せて貰いたい」
大宰府の進出に伴って元春は広門に離反を求めた。筑紫衆が寝返ることで大宰府の南方・基山口を抑える事ができ、兵は安全を確保した上で城攻めに望めるからだ。
「佐嘉の親貞は兵を集めておりますが、中々に難儀しておる様子にてもう一時は動けぬかと。ここで毛利様に御味方する事は容易でありますが、暫くは大友方に留まって動きがあれば報せたく存じます」
ところが大友の様子を報せるだけで広門は動かなかった。
(岩屋城を落とすのに筑紫の兵が必要な訳ではない。大友の情報が手に入るなら、その方がよいか)
ただ元春は広門の言い分に利点があったことから疑念を抱かなかった。もちろん安易に広門を信用する真似はしておらず、物見は物見で派遣しており、広門も自領の通行を暗黙していた。それでも九州は大友の地盤であり、奥地まで物見が入れる隙はなく、手に入れられる情報は広門が報せてきたものと大差なかった。この大差がないことが逆に広門の信用を高めることに繋がってしまう。
そして大友が大軍で太宰府に現れた。想定はしていた事とはいえ、広門から報せがないと言うとは、筑紫衆が内応を反故にしたのは明白だった。
「儂が前に出る。筑前衆は儂に続いて共に敵を防ぎ、宍戸と熊谷の両隊は街道を確保せよ。元資に遣いを走らせ、即時の撤退を厳命せよ。元資が退いた後に我らも撤退する」
元春の行動は素早かった。
宝満山に兵を割いている以上、こちらの数は間違いなく敵を下回る。その上で備えも満足ではなく、城方の突出も有り得る。いま一番に信用できないのは筑前衆である。元々が勝ち馬に乗ろうとしただけの者たちであり、先の岩屋城攻めで損害を出している。不意に大友の大軍と合戦に及べば我先にと逃げ出す可能性は捨てきらない。そうなれば吉川だけで敵を防ぐのは不可能となる。元春は敗れ、確実に元資は取り残される形となって討ち死にするか、虜とされるだろう。
それを防ぐには筑前衆を前に出し、逃げ出さないよう自分が監督するしかない。総大将が前に出れば兵は強くなり、不意打ちだろうが簡単には崩れない。その間に信頼できる腹心に街道を押さえさせ、元資を逃がす。後は味方の撤退が完了したのを見計らって自分が退くのが考えられる最上の策であった。
「私も前に出ましょう」
そこへ思わぬ声が上がる。行軍を共にしていた島津家久である。
「私とて付いてきただけではござらぬ。上様に頂いた御恩に報いねば、家名の名折れ」
家久の眼は、心中の勇みが伝わるほど力強く輝き、言葉にも熱が籠もっていた。
島津の力を元春は風聞でしか知らない。家久が抱えている兵も大半は自前ではなく幕府からの借り物である。だが命じられるままの者たちと比べて自ら名乗り出るだけ頼りに出来る。
「忝い。主に成り代わり礼を申す」
元春は総大将でありながらも真摯に頭を下げた。
「申し上げます!敵の先鋒が現れました。旗印から筑紫衆だと思われます」
ただ情勢は切迫しており、次々と大友方の動きが本陣に届けられてくる。
「やはりか。肥前、肥後の者らも確認できるか?」
「二陣に龍造寺、蒲池の旗印は確認しておりますが、今のところ阿蘇や相良の手勢は見ておりません」
そう物見の男は話すが、いないと断言するには早計だ。島津が幕府方である以上、相良はともかくとして阿蘇など北肥後の連中は動員されている可能性は高く、広門が報せてきた親貞が兵を集めているのに難儀しているとの内容も疑ってかかるべきだ。
(正念場かもしれんな)
時期的にまもなく中国・四国勢の渡海が始まる頃だ。さすれば幕府方が兵の数で大友を下回る事はなくなる。つまり逆を言えば、今回の戦いが兵の数で大友が有利に立てる最後の機会と考えられる。
故にここを凌げば負けはない、と元春は確信していた。
「攻めて攻めて攻めまくれ!」
そう元春が考えている事は、大友の陣に身を置いている道意も理解していた。故に道意は毛利が即座に撤退に入ることを想定して大軍による我攻めを初手から強行したのだ。
「龍造寺も蒲池も寄せ手に加われ!このまま太宰府を取り戻すぞ!」
親貞が大声を上げて叱咤する。合戦の機微は判らないが、攻めまくればよいという単純な役割なら親貞でも立派にこなせる。
(それでも親貞は自分の采配で毛利を、鬼吉川を退けたと思い込むはずだ。さすれば親貞は己しか宗麟の代わりは務まらぬと考えるようになり、合戦の実情を知らない豊後にいる譜代衆にも毛利を退けた功績を以て堂々と大友の陣代を名乗れる)
道意の思惑は旗頭である親貞に実績を積ませること。それも宿敵・毛利への勝利ともなれば、家中からの支持は集められる。親貞には龍造寺、相良、島津との戦いに勝利し、ここで毛利に勝てば大友の軍権を親貞が握り、道意が操るという構図が完成する。義輝に敗れて九州まで落ち延びた道意が大友を手に入れ、叛逆を再開させる。
その野望に立ち塞がる最初の壁は、謀神・謀聖とも称される毛利元就の子・元春。自身も余呉の合戦にて武田信玄を討ち、応仁の乱で武名を天下に知らしめた鬼吉川こと吉川経基に劣らぬ武勇を示した。鬼吉川を継ぐ者として天下の諸将に名を知られる名将である。
「簡単に抜けると思わぬことだ!」
陣頭で吼える元春を道意がどのように見ていたか知る者はいない。義輝への復讐が第一の道意にとって、元春が眼中になかったというのが大よその見方であるも、大宰府に於ける戦いは元春の鮮やかな撤退が武将としての質の高さを示す事になった。
元春は自ら兵を率いて出陣、二日市まで兵を進めると中央に筑前衆を配して防波堤とし、吉川は後詰として彼らを支えた。
「狙いを外すな!……放てッ!」
宗像、麻生、立花などの筑前衆は迫る筑紫衆に鉄砲隊た弓隊による一斉射して動きを鈍らせにかかった。対する筑紫衆も楯を構えて接近するが、少なからず犠牲は生じている。寄せ手の接近を許すまで、後方で陣形を整える。
「島津殿、左手を進み宮地岳を押さえて頂きたい。あそこには隣の笹尾山との間に間道があると聞いておる。抜けられれば拙い」
「承った。任せられよ」
同時に兵の多寡で上回る大友勢に対して先手を取るべく、島津家久へ迂回する部隊への備えを依頼する。今のところ街道を封鎖できているが、大宰府周辺には山が多く、その合間に多くの間道があることは古来より伝わっている。小さなものは別として、大きなものは水城を始めとする土塁で防衛網が敷かれてはいても小さい道までは押さえていない。そこを抜かれると戦線が一気に瓦解する可能性があった。
当然なように大宰府を長く支配していた大友は、その間道を知っている。
「ここを抜ければ敵の背後に出るが、敵が潜んでいる可能性は捨てきれぬ。慎重に進め」
その間道を進むよう命じられたのが、親貞が有する軍団で最強に位置する龍造寺隆信の部隊だった。先手は小河大炊助信俊で、隆信の腹心・信生の実弟であった。勇猛果敢な武将だが、兄に似て慎重な一面も持ち合わせている。草木を掻き分けつつ部隊を進め、時折に物見を放って警戒を怠らなかった。
「山の中には敵がおらぬようだな。ということは、間道を進んでおるということか」
一方で家久も間道に近づきつつあったが、こちらは道が不案内で先に山中へ兵を進めていた。
龍造寺は道を知っているが故に間道を進み、島津側は道を知らぬが故に山中を進んだ。結果、先に敵を見つけたのは家久の方だった。
「このようなところに味方がいるはずもない。一斉に懸かれぃ!!」
家久は合図と共に矢弾を浴びせると、自らは槍を取って兵たちと共に斜面を駆け下りる。
「敵だ!備えよ!備えよッ!!」
信俊は冷静さを失わず、対処しようと試みたものの部隊は縦列で横っ腹を突かれる形に変わりなく、島津の一撃に耐えられるはずもなかった。やった事と言えば、信俊が自慢の槍で身近な敵兵を数人ほど屠っただけだ。
「くそッ!一時、退くぞ」
耐え切らぬと信俊の判断は早く脱兎の如く逃げに徹し始める。だが細い間道ではすぐに反転は出来ず、互いの距離は一気に詰められてしまった。
「こうなったら味方だけでも逃がすしかない!」
そう言って反転、自らが殿軍となって島津勢を食い止めんと立ち塞がった。島津側も敵の進軍を防ぐことを目的とはしていたが、布陣もままならない遭遇戦である。一度でも勢いが削がれれば、兵の数で劣る以上は不利は否めない。
「突っ込めッッーー!!」
故に家久は常の冷静沈着さからは窺い知れないほど雷鳴のような大音声で号令を下す。兵は叱咤され、家久に続いて龍造寺勢へ雪崩れ込んだ。
「ええい!鬱陶しいッ!」
数人の敵を討ち倒し、肩で息をする信俊に更に島津兵が襲い懸かる。槍を扱いて血糊を飛ばしながら闘い続けるも穂先の切れ味は落ち、遂には足軽風情の胴丸すら貫けなくなった。
「くそッ!」
仕方なく信俊は槍を捨てて太刀を引き抜くが、槍と太刀では間合いが違いすぎる。しかも家久の率いる兵は純粋な島津兵ではなく、あくまでも借り物の上方の兵であったことから槍の長さが九州で一般的に使われている槍より僅かに長かった。
「これまでか……」
太刀に切り替えてから四人を討ったところで右太腿に深手を負った信俊は踏ん張りが利かなくなり、己の命運を悟った。
「何処の誰ぞに討たれなかったのだけは救いか。島津の者よ、儂の首を手柄とするよい」
命を落とす覚悟を決めていたわけではないが、死ぬなら武士として名のある武士に討たれたいという思いは当然のように信俊にもあった。途中、殺到する兵の旗印が轡紋であったことから敵は島津と認識、命の灯が消えようとしているにも関わらず、安堵していた。
「その潔さ感服仕った。私は島津修理大夫が弟・又七郎家久にござる。宜しければ、名をお伺いしたい」
「龍造寺が家臣・小河大炊助信俊である。島津殿の弟君か、確か上洛していると噂を聞いておったが、まさか毛利に加わっているとはな。さぁ、長話は無用。早う首を討たれよ」
「……御免!」
一閃、信俊は家久によって首を撥ねられた。大将の死によって手勢は混乱、撤退が壊走に変化し、家久は追撃を重ねて次々と戦果を挙げていく。
「いつまでも好き勝手できると思ったら間違いぞ」
それを阻んだのは龍造寺隆信の右腕で信俊の兄・鍋島信生の軍勢だった。
龍造寺は山間にある間道を進んでいた。家久も間道を進む敵を阻む形で進軍していたが、信生は進みすぎれば逃げてくる味方を塞ぐ形になると考え、前方で異変があった途端に兵を開けた地点までに後退させていたのだ。そこで追い打ちをかける島津を待ち受けていた。
「止まれッ!進軍停止!」
家久は号令をかけ、兵たちに追撃を止めさせる。
「どう致しますか?」
家久の軍に同行していた目付の一人が進退を訪ねてくる。
「退くしかあるまい。進めば不利なのは我らぞ」
「されど無事に引き上げられますか?」
「間道に入ってしまえば敵の優位は途端に崩れる。あのように布陣している将が、それが判らぬはずがあるまい」
家久は信生の考えを読んだ上で撤退を選択した。こちらは指揮系統を失っておらず、組織立って間道を後退すれば、敵は進んで来られない。何せ間道を抜けてしまえば、次はこちらが龍造寺を待ち受けることが出来るのだ。攻守が逆転するような愚を目の前の敵が犯すとは思えなかった。
「ふむ……、出て来ないとはな。やはり幕府を敵に回すべきではないな」
撤退していく島津勢を見て、信生はこれから採るべき選択を悟った。
幕府の先陣というべき毛利勢に上洛した島津の四男がいる。岩屋では城は失ったものの毛利に大打撃を与えたと聞いているが、一時の戦勝に惑わされて御家を滅亡に向かわせる訳にはいかない。
「肥前守様へ島津勢を撃退した、と早馬を遣わせ」
裏切るギリギリのところまで信用を買う。でなければ、あの老将は出し抜けない。
(されど、この好機は見過ごせぬ。この混乱に乗じで密偵を島津に遣わせ。我ら龍造寺は幕府の味方であると伝えるのは今しかない)
背を向ける島津へ対し、信生は追撃を命じた。しかし、島津勢が間道の奥深くに入ったところで追撃は早々に打ち切られる。ただ数名、鍋島勢の中から戻らぬ者がいたことは信生しか知り得ぬことだった。
【続く】
長らく投稿ができず、皆様に謝罪を致します。
主に仕事面での事情が大きいのですが、これまでのように2カ月、3カ月と間隔が空くのもどうかなぁ……といろいろ考えさせられました。その間にもメッセージをくれた方にも返信ができず、申し訳ございません。次の投稿をお約束できない状態での返信は流石に心苦しく、今に至る訳であります。すみません。
で、今回の投稿となる訳ですが、皆様には当然なように次の投稿はいつ?と思われるかと。実はこの約十カ月間もの間(主に九月以降なのですが…)に微調整は残しつつストックを作成しておりまして、年内は不定期とはなりますが、十日に一話のペースで投稿が可能な目途が立ちました故の投稿になります。
本当は毎週〇曜日と出来ればよいのですが、私の休みが不定期なので、そのところは申し訳ありません。しかし、年内は必ず十日に一度は投稿いたします。そのペースを維持できれば、年明けくらいには鎮撫の大遠征・西国編は完結し、終章に突入できるかと思います。ただストックは年内分しかないので、その辺りは執筆の時間を私が繁忙期に作れるか否かに懸かっておりますが、長らく応援いただきつつ続いている拙作の完結に向けて頑張りたいと思います。
長期間の休載で皆様には大変にお待ち頂いたと存じますが、お待たせいたしました。本日より剣聖将軍記は再開とさせて頂きます。