第五幕 宝満岩屋合戦 ~壮絶!究意の要害、無双の大将~
八月十二日。
筑前国・岩屋城
九州と壱岐・対馬の行政、外交を司る大宰府の歴史は古い。大宝元年(七〇一)に制定された行政府は軍事的な役割を果たす防人を有し、朝鮮半島や中華政権との外交を一手に担ってきた。その後、時代を経て大宰大弐に平清盛が任官されると平家の基盤となり、日宋貿易が盛んに行われることになった。平家と共に隆盛を極めた大宰府であるが、源平合戦で名高い治承・寿永の乱で平家が滅ぶと源氏は鎌倉に居を構えて東国が繁栄し、西国は衰退していく。
その後、武藤資頼が鎮西奉行として肥前、筑前、豊前、壱岐、対馬と北部九州の守護に任じられて太宰少弐に任じられると少弐氏を名乗り、以後は大宰府の統治を兼ねることになる。
政治的役割を失いつつあった大宰府であるが、この地を治める意味合いは強く、西国最大の大名と称された大内義隆は再三に亘って朝廷へ太宰大弐への任官を要請し、これを叶えたという逸話が残っているほどだ。
「さて、幕府の軍勢が如何なるものか楽しみであるな」
その大宰府を南に望む岩屋城では、城主・高橋孫七郎鎮種が来る毛利勢二万の姿を嬉々として眺めていた。
「どうして孫七郎は、そう楽観的なのだ。この岩屋城、あの数を相手に長くは持ち堪えられぬぞ」
対して心穏やかでないのは、その鎮種の兄・吉弘嘉兵衛鎮信だ。
二人の父・鑑理は元亀二年(一五七一)に病で死去している。宗麟に“治療、加持祈祷を尽くしたのだが”と死を悔やまれた事は家中でも有名な話で、二人は偉大なる父を誇りに思っていた。
その鎮信は父の跡目を継いで筑前国宝満城督の地位を任されており、実弟・鎮種の属城である宝満城に在していたが、毛利勢の接近に伴って支城の岩屋城に視察を兼ねて訪れたというわけだ。
「敵の数は二万に対し、こちらは二千でしかない。何れ御屋形様が援軍を差し向けて下さるとはいえ、気張らねばなるまいぞ」
眼下の大軍を見据え、鎮信は口を真一文字に閉じて緊張感を露わにした。
「で、ございましょうな。とりあえず私が岩屋を支えます。その間、兄者は妻子を伴って宝満にて備えを固めて下さいませ」
「何を申すか!岩屋は然して堅固な城ではない。早々に退いて、宝満城にて御屋形様の到来を待つべきじゃ」
「御考えは御尤もにて。されど敵方には元城主・鑑種がおり、城の縄張りは知られております。なればこそ、岩屋で少しでも時を稼ぐ必要がござる」
「孫七郎、まさか死ぬ気ではあるまいな」
万が一の懸念を口にして、いつも無茶が過ぎる弟を鎮信は制止した。
南下する毛利勢を押さえて大宰府を守るには、岩屋城で粘らなければならないのは鎮信にも判っている。宝満城は堅固だが、街道から離れすぎており、その気になれば毛利は無視を決め込んで更に深く大友領を脅かすことは不可能ではない。特に大宰府より南を領する筑紫広門は先年まで毛利方に味方しており、幕府による調停で毛利と和睦した事により大友の膝下に属した経緯がある。いま毛利に南下を許せば、再び広門が毛利に寝返ることは想像に難くない。だからこそ大友が簡単に負けぬことを、ここで知らしめておく必要があった。
それが父より、主君より城督という立場を引き継いだ鎮信の覚悟であった。
「某が死んだところで何になりましょう。兄上さえ健在なら、当家は安泰です」
と鎮種は莞爾に笑ってみせた。
鎮種にとって兄は憧れの存在だった。名跡とはいえ継いだばかりの高橋の家には何の執着もない。願わくば五歳になる嫡子と冬には生まれてくる我が子さえ無事なら、この命すら惜しくないと思っている。
毛利勢二万が恐ろしくないのではない。充分に脅威を感じている。だが一月、一月さえ凌げば主君が率いる大軍がやってくる。それまで持ち堪えられれば、充分に幕府と伍して行けるはずだ。
「肥前守様は、無理せずに退くべしと仰せぞ」
そんな弟を翻意させるべく、鎮信は言葉を重ねていく。
大友家中では、特に筑前の防衛は肥前国主・親貞に委ねられている。親貞は肥前、肥後、筑後の軍権を与えられて筑前衆を援護する立場にあり、宗麟は日向、豊前、豊後の兵を率いて門司を脅かす算段である。
その親貞は鎮信に対し、先日に使者を送ってきていた。
「国人衆の裏切りは確かに懸念される。されど心配は無用。肥前の国衆は元より筑後、肥後共に佐嘉城へ人質を送るよう申し付けた」
と使者は平然と言ってのけたのである。
「先日、佐嘉城にて対・伊東戦勝の宴を催してござる。親戚縁者を伴っての大宴会にて、国人たちの縁者にはそのまま城内に留まって頂いておる」
まさか国人たちも宴に出席してそのまま人質が取られるとは思っておらず、大半の者が親貞に縁者を差し出した形となってしまった。
(八郎様のやり方は、どうも好かぬ)
譜代出身の家臣と外様とは扱いが異なるのは鎮種も理解するところだが、親貞のやり様は露骨すぎて目に余った。確かに国人たちを繋ぎ止めておくには人質が常道であるも、いざとなれば御家存続の為に裏切るのが乱世を生きる者の考え方だ。そもそも大半の者は府内に人質を送っており、更に取られた形となった。しかも今回のように騙すようなやり方は反発が強くなる。これでは繋ぎ止めていられるのも一時の事だろう。
(それを八郎様は判っておられぬ)
と溜息を吐くも親貞には多大なる功績があり、諫言できる人物が限られてくる。実際に鎮種も使者に対して人質を余計に取らないよう伝えはしたが、必要な事として拒否されている。
まさか道意なる人物が裏で糸を引いているなど鎮種は知る由もない。
鎮種は限られた条件で成果を出さなくてはならなくなった。
「古来より親と子、兄と弟は同じ場所で戦わぬものです。幸いにも某と共に闘ってくれるというものが数多おります。これならば勇気百倍、毛利などあっという間に蹴散らして見せましょうぞ」
「何が数多だ!たった七百そこらではないか!始まったばかりの戦で、何故に玉砕せねばならん!」
今回の合戦に於いて鎮種は玉砕覚悟で共に籠城してくれる者たちを募った。その中には鎮種が吉弘の姓であった頃から仕える者も多かったが、高橋になってからの者も少なくなかった。それだけ鎮種の武将という器量、人徳が優れている証であった。
家来たちの覚悟を受けて、鎮種が退く訳にはいかない。
「……緒戦だからでござるよ。奴らは幕府の大軍を後ろ盾に我らを侮っております。兄者も降伏勧告に訪れた奴らの口上を聞かれたでありましょう」
「それは……」
これより少し前、毛利より降伏を進める使者が訪れていた。ただ使者は毛利の家人ではなく、旧岩屋城主・高橋宗仙の配下の者であった。
「毛利勢だけではなく、幕府の大軍も間もなく到着する。我らは城の縄張りも熟知しておれば、貴殿らに勝ち目は万が一もない。早々に降られるのが賢明ぞ。今なら命だけは助けてやろう」
とまさに幕府の威を笠に着た物言いで、礼儀もあったものではなかった。自分たちだけで大友に敵わないのを知っていながら、強者に拠って驕り高ぶり、流石の鎮種も怒りを通り越して呆れるほどだった。
「毛利二万に対して我が手勢七百が甚大なる被害を与えることで、“大友侮り難し”と奴らの目を覚ませること能います。御屋形様が朝敵とされた以上、大友の強さを示すことのみが和睦への道にございます」
「判っておる!退けば、それだけで離反を招くと言いたいのだろう!」
「兄者……、それならば……」
「簡単に割り切れるかッ!!」
声を張り上げる鎮信の表情は、悲痛で歪んでいた。兄と弟で今まで幾度となく喧嘩もしてきたが、鎮信は良き兄で在らんと研鑽を積んできた。鎮種は兄に追い付かんと切磋琢磨してきた。共に父の背中を見て、大友の力にならんと生きてきたのだ。
(何故に孫七郎が犠牲にならねばならん!何故に孫七郎を助けてやれんのだ!)
弟は死を覚悟して御家の役に立とうとしている。だが吉弘家を背負う者として、弟に殉じる事は許されない。天は何故に過酷な運命を弟に背負わせるのか。呪ってやりたくなる。
「妻と彌七郎を頼みます」
「……任せておけ。されど簡単に諦めるでないぞ」
それだけを伝え、兄弟は別れた。
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八月十四日。
筑前国・大宰府
毛利の軍勢が岩屋城を取り囲んでから二日が経ち、夏の天候らしく雨が続いている。普段なら鬱屈した空気が蔓延するのだが、毛利方は立花鑑載、宗像氏貞、麻生元重、原田隆種こと了栄ら筑前衆六七〇〇に吉川元春・元資親子七〇〇〇と島津家久一三〇〇と毛利の手勢五〇〇〇の総勢二万と陣容は厚く、天候に反して兵たちの表情も明るい。
また毛利輝元は六〇〇〇を率いて博多に入っており、幕府の命令を守って兵站の維持に専念していた。もしもの場合、後詰に駆けつけることも出来る位置にある。
「今日も動きはないかもしれぬな」
降りしきる雨が続き、毛利方としては雨中の城攻めは難儀することから攻撃は見合わせていた。城方も数は多くないことから動きはないと予想し、先陣を務める筑前の国人たちは揃って油断していた。
その時である。
一斉に空から無数の矢が飛んできたのである。
「大友の奇襲じゃー!者ども、備えい!備えい!」
大軍が故に油断していた毛利方は、一斉に大混乱に陥った。ただ矢雨は四度、五度と続いたが城方が攻めて来る気配がなかったので、すぐに治まりが見え始めた。そうなると今度は逆に怒りが込み上げてくる。
「卑怯な手しか使えない奴らめ!目に物を見せてくれる!!」
と最初に攻撃に転じたのは高橋宗仙が軍勢だった。
この戦いで宗仙は旧領を取り戻すという想いが強く、自然と兵たちの叱咤にも熱が籠もった。しかも宗仙は岩屋城は堅い城ではない事を知っているし、縄張りも熟知していた。故にその声に押されて兵たちもあれやあれやと山道を登っていく。ところが泥濘が激しく思うように進まない。
「……攻めてくるか、もう少し時間を稼ぎたかったのだがな」
その様子を見て鎮種は覚悟を決める。
「狼狽えるでないぞ!敵は泥に足を取られて格好の的じゃ!よう狙え!」
その号令と共に城方の抵抗が始まる。
弓を得手とする者は弓矢で応戦し、力自慢の者は予め山林から伐採して集めた巨木や巨石を落として高橋勢を一網打尽にしていく。この一丸となった抵抗に次々と犠牲は増えていき、宗仙は堪らず撤退命令を出した。
「何故に勝手に攻めたのだ!敵の思う壺ではないか!」
戻った宗仙に岩屋城攻めの総大将である元春は厳しい叱責をした。
「申し訳ございませぬ。岩屋城の防備は弱く、すぐに敵は宝満山へ退くものを思うておりました」
「だとしても敵は少なからず抵抗は示す。武門とはそういうものだ。何故に今朝方の奇襲が敵の誘いだと気付かぬのだ」
敵わぬと判っていても闘わずにはいられないのが武士だ。降伏するにせよ闘った後の話であり、闘わず屈するは恥と元春は考えている。
ましてや敵は二万を前にして開城を拒否したような武将だ。元春と同じとまでは言わなくとも、恥も外聞もないような態度を取る男ではあるまい。ならば抵抗があると考えるのが自然だ
「少輔次郎。明日はそなたが使者として赴け。今日の戦振りを称え、降伏開城を促すのだ」
「畏まりました」
元春は贔屓することなく、息子に厳しい役目を突きつけた。使者は殺されても仕方のない立場でありながら、人質に取られる可能性もある。一大将が担うような役目ではない。だから宗仙も使者は送っても配下に任せ、自分が赴いたりはしていない。しかし元春は鎮種という人物なら、そういう卑怯な真似はして来ないという確信があった。
「昨日の采配は見事でござった。多々良川での事といい、高橋殿は名将の器であられるな」
開口一番、鎮種と会した直後に元資は賞賛で称えた。
「いやいや某など父や兄に比べればまだまだにござる。吉川殿とて多々良川での勇ましさは某の眼に焼きついてござるぞ」
「まさか、覚えておられたとは驚いた」
元資が覚えている多々良川での合戦は、父・元春が吉弘勢を攻め立てて壊滅寸前に追いやったものの当時は鎮理と名乗っていた鎮種に抵抗されて遂には撃破には至らず、退いた記憶だ。
この時、鎮理を討ち取ろうと躍起になっていた元資は一騎打ちすら拒まれて歯牙にもかけられなかった。だから元資側は鎮種の事を覚えていても、鎮種は元資を覚えていないと思っていた。
「あの時はようござった。互いに武門の意地を賭けて戦うのみで、他に何も考える必要がなかった」
そう昔語りを始める鎮種の瞳は何処か寂しげだ。ただ元資も不思議と同様の思いを感じていた。
「然様ですな。拙者は常に強者を求めて闘っておりました」
「某は己の力量が毛利に何処まで通用するか試してみたかった」
元資は吉川の嫡男であったが、吉川家は父は壮年と働き盛りかつ家は毛利の為に存在しているようなもので、吉川を大きくするようなことは考えなくてよかった。そして鎮種は吉弘家の次男で主家は大国、父は名将、兄は勇将と将来は明るい環境で育まれていた。
互いに自分の事だけで良かった時代は、ほんの四年ほど前のことでしかない。その間に天下の情勢は大きく変わったものである。元資は毛利を出て将軍の下で吉川の家を背負い、鎮種は別家を起てて憧れた兄と主家を支える柱の一つとなった。
「ここで高橋殿を死なすには惜しい。ぜひ我らに降ってはくれまいか」
そう元資が懇願するのも自然なことだった。
「そこまで某を買って頂けるとは武士冥利に尽きると申すもの。されど主家が盛んなる時は忠誠を誓い、主家が衰えた時は平気で裏切る。そのような輩が多い乱世にて、某は大恩を忘れて鞍替えすることは出来ぬ。恩を忘れることは鳥獣以下でござろう」
だが鎮種は頑として首を縦には振らなかった。
「高橋殿は武士の鑑のような男じゃ!死なすには惜しいが、手心を加えるのも無礼に当たる。治部少輔様に御願い仕ります。是非とも総攻めの下知を!」
本陣へと戻った元資は父に対して、一武将として総攻めを願い出た。ここは全力で応えるのが礼儀と思ったのだ。
「少輔次郎殿が申すなら間違いはなかろう。されば明日、総攻めと致す」
元々から元春と元資の気質は近い。これを元春が許した事で、いよいよ合戦は激しさを増すことになる。
とはいえ元春も兵の犠牲を省みなかったのではない。鎮種という武人が秀でているのであれば、全方位からの一斉攻撃という総攻めが手段としても相応しいからである。
「如何に岩屋城が堅い城でないとはいえ、勇将が籠もれば防備は鉄壁となる。南から攻めるのは難儀、北の大城山、東の水瓶山から寄せるべし」
元春は宗仙の助言を受けて攻め口を変えることにした。
岩屋城の北には大城山という岩屋城よりも標高が高い山がある。かつて白村江の戦の後に当時の朝廷が唐・新羅の反撃に備えて築いた山城で、現在は遺構が残るのみとなっている。また東には水瓶山があり、標高は岩屋山に比べて少し低いくらいで、傾斜は緩やかと南から攻めるよりは随分と楽に寄せられる。
と同時に南からも寄せ、敵を圧迫するのが毛利側の方針となった。
「敵が縄張りを熟知しているならば、弱点を突いてくるはずだ。判っているのなら備えるのは容易い」
ところが鎮種は東に“てのくぼり”という畝状竪堀を十二本も配しており、敵が一挙に寄せてくることを阻んでいた。さらに竪堀を抜けた先には大堀切があって、竪堀を抜けてきた敵が立ち往生するようになっている。ここは二ノ丸、三ノ丸の兵からの攻撃を集約できる位置にあり、まさに死地だった。
「落ち着いてやれば恐れる事はない。たんと矢玉を馳走してやるのじゃ」
鎮種は少ない兵で岩屋城を守りきれるとは思っていない。目的は敵に多くの被害を与えること。だから城内にある矢玉を遠慮なく使い、駆け上がる敵勢を散々に打ちのめした後に自ら兵を繰り出して追い討ちをかけた。
毛利も大軍の利を活かして南からも寄せるが慈悲門寺砦など複数の砦が行く手を阻み、しかも鎮種が城内を縦横無尽に移動して直接に指示を下して回っていたことで、どの場所でも城は堅牢で、十日を経ても大手門に辿り着けない状態が続いた。被害は甚大で、毛利勢は一〇〇〇近い死傷者を出していながら、岩屋城は健在だった。
「まだまだやれる。敵は我らよりも弱いぞ!」
鎮種は声を張り上げて兵たちを鼓舞する。十日も経っても鎮種は元気だった。
恐るべき体力である。岩屋山とて低い山ではない。毛利が攻めるのに難儀する急峻な地形もある山城なのだ。まだ若いとはいえ鎮種が十日も駈けずり回れば疲れを見せるはずである。もちろん鎮種に疲労がない訳ではなかった。
「殿、後は某に任せてお休み下され」
「……すまぬ」
日が沈むと本丸で鎮種は死んだように眠りにつく。その間、岩屋城代である屋山中務少輔種速が全軍の指揮を執るが、流石の山城とあって敵が夜襲してくる事はなかった。
「よし!今日も気張るぞ!」
そして朝にはいつもの表情を取り戻した鎮種が現れ、城内を見回って歩くのだ。皆が“殿様は不死身だ”と噂して自然と士気が上がる。こうなると兵は強い。
「武士に弱い者はおらぬ。もし弱い者がおれば、その者が悪いのではなく、励まさない大将に罪がある。我が配下の武士は申すに及ばず。下部に至っても武功の無い者はおらぬ。他家にあって後れをとる武士があらば、我が方に来て仕えるがよい。見違えるような優れ者にしてやろう」
武将として敬愛する戸次道雪の言葉である。父と親交の深かった道雪と鎮種は交流があり、一人の武士として道雪の言葉を非常に大切にしていた。
それが今、戦いの中で活きている。
「弱点に敵将が備えるのは当然のこと。されど限界はある。ここで手を緩めぬのが肝要ぞ」
ただその中には多勢に無勢という言葉は同時に存在する。日が経つに連れて次第に雨も止み、地面も乾いてきて視界も晴れてくる。寄せ手は数が多いので繰り引きをさせて兵を休ませることが出来るが、城方は毎日が総力戦である。
「敵に休む暇を与えるな。攻めて攻めて攻めまくれ」
合戦の根本は人である。人の心か身体が尽きれば終わることを知っている元春は、犠牲が増えていく中でも勢いを止めなかった。兵が疲れ、矢玉が尽きれば抵抗は薄れていくことは判っている。ここで敵に休息を与えることは、既に犠牲を払った以上は不可能なのだ。
そして大城山にも部隊を送り込むと山頂から城の様子が少しは判る様になった。元春自身も大城山に足を運んで様子を窺うと、高橋鎮種という武将が如何に有能か理解することになった。
(少ない兵を巧みに動かしておる。儂であっても同じことが出来るかどうか。兵たちに信頼されておらねば、ああは行くまい)
指示が優れているだけでは合戦には勝てない。心という絆が主従にあってこそ、人も城も強くなる。
「儂の存在を城方に示すのだ」
大城山に兵を集中させた場合、城方がどのような手段を講じなければならなくなるか元春には判っていた。確実に本丸に兵を集めてくる。そうなれば各所の守りが手薄となり、城の一郭が落とせると踏んだ。
父・元就ほどではないが、鬼吉川の名にどれだけの力があるのかを元春は知っている。
楔を打ち込めば、そこから瓦解は始まるものである。実際、城方は本丸に兵を集めた結果、三ノ丸が落ちた。
「寄せ手は拙者にお任せください」
「構わぬが、敵を侮るなよ。あの武将、追い詰められても易々と城は渡すまい」
「心得ております」
そう言って元資は軍勢を率いて山を駆け降りる。
激戦の最中、火中に飛び込むようにして本丸に雪崩れ込んだ。次第に味方の兵が辺りを充満していくも敵に逃げる兵なく、一人一人が討たれるまで闘い続ける。死兵とはよく聞くが、元資も本当の死兵は見たことがない。主君に殉じるまで闘い続ける者など、そういるはずもないのだ。
「だが、これは何だ!」
かつて多々良川で目撃した采配が更に洗練されている。高橋勢は曲輪のいくつかが落ちても組織的な抵抗を止めないのだ。通常なら、曲輪の陥落と共に少なからず敵に投降する兵が出てくるものが、一切いない。全ての者が命尽きるまで闘うか、生き延びて次の曲輪で戦闘に参加するかのどちらかだった。
どうやったらこうまでなるのか。鎮種と同年だからこそ、元資には理解が及ばない。そして本丸が落ち、鎮種が二ノ丸へ退去すると元資は一息いれることが出来たが、勝っているという実感は湧かなかった。こんなに劣等感に支配された戦場は初めてのことだ。
「明日の戦いは、もっと厳しいかも知れぬ」
そのように元資が思うのも無理はなかった。
かつて多々良川の戦いで元資は鎮種の采配を知っている。役割に重きを置いた采配は、きっと岩屋城を一日でも長く支える為に揮われている。未だ一兵も降伏する者はおらず、最後の一兵まで闘い抜く覚悟を元資は感じている。そのような兵を相手に何処まで闘い続ければよいのだろうか。
まさに無双の大将、究極の要害がそこにはあった。そして岩屋城は、まだ落ちない。
【続く】
さて岩屋城の戦いです。史実さながらの展開ですが、いくつか違いがあります。それが結末にどう影響していくのか。とうとう戦いが始まった九州征伐を是非お楽しみ下さい。