第四幕 九州征伐 ~戦端開く~
元亀三年(一五七二)六月十七日。
京・二条城
九州では大友宗麟が伊東義祐を滅ぼして凱旋を果たしている頃、征夷大将軍・足利義輝は迫る九州征伐の為の最終準備が進められていた。
「では帝は余の申し出を快く受けてくれたと申すのだな」
「はい。此度の儀につきましても関白殿下が直々に音頭を取り、綸旨を賜れるよう取り計らって頂いております」
義輝と話しているのは京都所司代を務める摂津中務大輔晴門で、春に行われた大評定の後に義輝から宗麟に対して朝廷が治罰綸旨を発給することを求めた結果について報告に訪れていた。
古来より足利幕府は叛乱勢力と戦うために朝廷へ治罰綸旨の発給を求めること慣例化されていた時期がある。特に三代・足利義満は多用しており、それが今回、久し振りに義輝の手によって行われようとしていた。これは天下の主が誰であるかを定める意味合いと幕府の力を地方に誇示する為のものでもあった。
「上様、御喜び下さいませ!関白殿下は更に上様を左大臣に推任したいと仰せでございます」
「左大臣といえば慈照院様以来だな」
嬉々とした晴門の喜びようほど義輝は感じるものはない。どちらかと言えばようやくといった心持ちだ。右大臣に就任した時より今より高位に昇ることは予測がついていた。時期が九州征伐後とズレはあるものの、それは東西同時遠征の成果と言ったところだろう。朝廷が幕府の力を大きく評価した証だ。
(左大臣では足りぬ。九州から戻ってきたのなら太政大臣に就けるよう朝廷に働きかけるか)
左大臣任官は確かに慶事だ。しかし、足利幕府に於ける最盛期は義満の太政大臣が最高位となる。八代の義政も左大臣まで昇っているが、応仁の乱が勃発して太政大臣には届かなかった。幕府の完全復活を世に示すには、少なくとも義輝は地位で義満に並ばなければならない。
そして今、太政大臣の位は義輝の母・慶寿院の兄で御台所の父・近衛稙家が天文十年(一五四一)に辞任して以来は空位となっている。何度か稙家の子で現・関白の前久が就任するという話が持ち上がったが、前久が関東下向など京を離れていたことで立ち消えとなった。
ならば義輝が太政大臣に昇ることに障害はなく、天下一統の功績を以って位人臣を極める。
「現左大臣の西園寺公朝殿はどうなる?」
「公朝公は高齢にて、そのまま散位となられるようにございます」
「なればよい」
と聞いて義輝は安堵の溜息をついた。
西園寺公朝は清華家としては異例の速さで昇進した公家界でも選りすぐりの人物である。左大臣に昇った後に十五年も務めて御正親町天皇の信頼も篤い。
公家の官職は奪い合いで、誰かの昇進に伴い誰かが昇進するということも珍しくないが、官職には限りがあり、上限もある。特に高位の公家は朝廷内で力を有しており、無碍には扱えないのだ。しかも西園寺氏は藤原氏の流れを汲み太政大臣を何度も輩出した家系で、義輝の左大臣任官と共に太政大臣に昇ることも予想できた。もし公朝が太政大臣となれば、義輝が太政大臣に任じられる日は遠のいてしまう。だからこそ義輝は公朝が左大臣を辞めた後にどうなるか憂慮していた。
その公朝は散位となる。散位となれば官職は失うが公朝が有する従二位という位階は残り、尊厳は保たれる。それならば西園寺は一条家の家礼でもあるので、義輝の昇進を推す有力な存在にも成り得る。
「ならば中務大輔、綸旨は月内には賜れるよう急がせるのだ。毛利の兵が九州に及ぶ前に宗麟の耳に届くよう差配せよ」
「御意」
これで仕度は調ったと義輝は満足げに頷いた。
今回、治罰綸旨は大友宗麟に対して発給されるも北条氏政には発給されない。これは宗麟が謀反方と繋がって叛逆の意図が明確となったのに比べて、氏政は直接に幕府へ牙を剥いた訳ではないという点の違いがある。加えて義輝が大友を滅ぼすつもりでいる事に対し、北条は伊勢氏規を通じて一部で赦すつもりである違いも関わっている。
後は大軍を擁して九州へ向かうのみ。いよいよ九州征伐が始まろうとしていた。
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七月十日。
肥前国・佐嘉城
義輝が朝廷に対して宗麟の治罰綸旨を求め、それが発給されて九州に届けられると流石に大友家中にも動揺が走った。
幕府が大友家を正式に敵と断じたのだ。交渉で落としどころを探っていた宗麟にすれば道は断たれなくとも限りなく閉ざされた形となった。
(やはり宗麟も甘いわ!義輝は信玄を倒して有頂天になっておる。交渉など簡単に応じる訳がなかろう)
道意は予測通りに事が進んでいる事に内心で喜びを感じつつも表情には一切ださず、不安を抱える主の下へ足を運んだ。
「おおっ!道意か、幕府が当家に対して朝敵とするよう治罰綸旨を朝廷に求めたという話は聞いたか」
「はい。されど肥前守様、事はもっと早う進んでおります。既に朝廷より治罰綸旨は発給されたと博多の商人を通じて報告が上がっております」
「何と!では既に当家は朝敵となったというのか!?」
情報源の差から得ているものに食い違いがあり、二度も驚く親貞は、道意の言葉に頭を抱えて思わず悲観を口にする。
「御屋形様の目論見は完全に断たれました。こうなっては肥前守様に覚悟を決めて頂く他はごさいません」
「か……覚悟?何を申しておるのだ?」
「順を追ってご説明いたします。まず肥前守様は、当家が幕府とどのような交渉を行っていたか御存知ですか?」
「いや……詳しくは知らぬ」
と話す親貞を見て、道意は一呼吸を置いた。
親貞は肥前国主という地位に満足して政務と軍事の大半を道意に委ねてきた。道意も慎重に慎重を重ねて親貞を尊重し、重要案件を独断で進めるようなことはせず、常に伺いを立てている。親貞が異論を挟むことなく、いつも任せるの言葉ばかりであるものの、そこを無視するかどうかが肝心だった。親貞は道意によって尊厳を保たれ、殆ど何もしていないにも関わらずに国政は自分で動かしているという感覚が強かった。
これが道意の目的を果たす上で重要だったのだ。
「当家は守護国の分割統治を幕府に認めて貰えるよう交渉を続けております」
道意は呆気に取られる主君を他所に語を繋いでいく。
「分割統治?どういうことじゃ?」
「端的に申せば、大友一族で今の所領を分かち合い、所領安堵を勝ち取ろうというでございます。今では毛利や上杉がこれに近いとなります」
「毛利を上位として、一門の吉川や小早川があるということか」
「流石は肥前守様、ご理解が早い」
所領が隣接し、敵でもある毛利の内情は大友家中では誰もが常識のように知っている。だとしても道意は親貞を持ち上げる事は忘れない。その上で“ただ”と言って親貞が無視できない一言を加えた。
「何ぞ気になることがあるのか」
「……実は、その交渉で肥前守様には菊池を名乗らせて大友家中から排除しようという動きがございました」
「な……!?それは真なのか!!」
「某としても認めたくないのですが、探らせたところ事実のようです。どうやら幕府との交渉を利用して重臣たちが肥前守様の排除に動いたものと思われます」
「阿呆め!儂がどれだけ家に尽くしてきたか、あの者どもには判らんのか!!」
排除と聞いて親貞はワナワナと震え、激昂する怒りの度合いを体現するかのように持っていた扇子を床に叩きつける。
「幕府の国割では豊後と豊前は安堵されておりました。重臣たちの所領はその二カ国に集中しており、交渉がどう転ぼうとも自分たちの土地を失うことはありませぬ。故に交渉を利用して功績著しい肥前守様を家中から追い出そうと画策したのでしょう」
まさに油に火を注ぐかの如く、道意は親貞の怒りを煽る。
「それが幕府との交渉に影響を及ぼし、今回の事態を招いたと推察いたします」
「何という愚かな!!」
だから親貞は、最後の道意が論理をすっ飛ばした結論を結び付けても疑うことなく信じてしまった。
そもそも道意は重臣と言ってもそれが誰なのか一切口にしていない。交渉の内容についても大して説明しておらず、単に親貞にとって都合の悪いことを告げただけなのだ。それなのに親貞は道意の言葉に何ら疑念を抱いていない。
「道意!どうしたらよい!もはやお主に頼るしかないぞ」
呆れた物言いと道意は心の中で笑った。
最初から道意に頼ってしかいない親貞が何を言い出したかと思えば、これである。いつ自分で考えて行動したというのか。今山の合戦でも肥前の統治でも相良攻めでも全て道意が差配してきた事に首を縦に振ってきただけのことだ。滑稽とは、まさにこの事を言うのだろう。
(されど、これでよい)
だが道意が腹を立てることはない。むしろ望んでやったことなのだ。このままで良い訳がないことは親貞に判って貰えばよく、策はこちらが主導する。旗頭になってさえくれれば、道意の大望は果たせるのだ。
「お任せあれ。故に肥前守様に覚悟を決めて頂くしかない、と申し上げた次第にございます」
「然様であったか。何なりと申せ。お主が申すことであれば、何でもするぞ」
「さればこの道意、御屋形様に成り代わり肥前守様に大友を率いて頂きたく言上仕ります!」
決め台詞の如くピシャリと言い切った道意は、真に迫るようにして親貞を見据えた。
「ちょ……ちょっと待て!意味が判らぬぞ!お主は儂に謀反をせよと申すのか!」
これには親貞も完全に時間が止まってしまったと感じるほど硬直してしまった。
自分が宗麟に代わる。何を言っているのだ、と親貞は思った。自分の存在は宗麟あってのものであり、肥前国主の地位に引き上げて貰った恩義を感じている。自分は“大友”なのだ。故に宗麟に弓を引くことなぞ出来るはずもない。
「謀反ではございませぬ。御存知かと思いますが、治罰綸旨は大友家ではなく、御屋形様に対して出されております」
「も……もちろん知っておる」
実のところまったく理解していなかった親貞であるが、元より虚栄心だけは強い性格である道意から知っているはずと言われれば、知らないとは言えない性格だ。
治罰綸旨つまり朝敵とされるのは、古来より勢力ではなく個人である。
古くは藤原仲麻呂や“新皇”を称した平将門、近年では嘉吉の乱で六代・義教を暗殺した赤松満祐や十代・義稙を奉じて上洛を画策した大内義興が朝敵とされている。何れの場合も全て個人に対して綸旨は発給されていることからも今回が宗麟を対象としていることは考えるに易い。
「故に御屋形様が当主で在り続ける事は幕府との交渉を行き詰まらせるのみで、何ら利点はございません。幕府もまた御屋形様を御許しになることはないでしょう」
「だから儂なのか?」
「いま大友を名乗れる一門で事態を打開できる人物は肥前守様しかおられません。龍造寺を倒して肥前を制し、相良を取り込んで肥後を従え、島津と伊東を手玉に取った肥前守様の武略は天下に轟いております。その肥前守様だからこそ幕府も一目を置き、交渉の席に着くというものにございます」
「そなたの理屈は判る。儂も御家の危機に力を尽くすつもりではおる。されど……」
道意のいつもの手段であり、持ち上げられて親貞も悪い気はしない。全て道意の言葉通りにやってきた事でしかなくとも、道意は筋目を通すべく行動前にはきちんと親貞の許可を得ていた。だから親貞には己が成したことであるとの自覚を持っている。
それでも宗麟に成り代わる事に抵抗がある。今の地位があるのは道意の存在も大きいが何よりも宗麟がいるからこそなのだ。それを親貞は忘れた事はない。
「御懸念はご尤も。何も御屋形様を隠居に追いやろうという訳ではございません。幕府と交渉する間、表に出らずにいて頂くだけで、事が治まれば再び御屋形様には御家の舵取りを取って頂かねばなりませぬ」
「それであればよいが……」
「されど急がねばなりませぬ。重臣たちも御屋形様では幕府と交渉できぬ事には気付いておりましょう。肥前守様を排除しようとした事を鑑みるに五郎様を担ぎ出すかもしれませぬ。されど五郎様は元服したばかりの若年で重臣たちの意のままになる公算が高うございます」
「それはならぬ!先々はともかく五郎に今の大友は荷が重すぎる!それに奴らの意のままとなれば、どのような結論を招くか判ったものではない」
家中の上層部に対してよい感情を抱いていない親貞は、道意の言葉に乗って焦りを露わにする。どのような結論という中身に、自分の排除があると信じて疑わなかった。
もう親貞は完全に道意の傀儡だった。
少し前の親貞なら、例え道意を信頼していても宗麟に成り代わるような陰謀に首を縦に振るはずはなかった。しかし、今の親貞は戸惑いこそ見せるものの否定はせず、これを了承してしまう。
「全ての段取りは、肥前守様の名に傷が付かぬよう私がつけますので、お任せ下さいませ」
「うむ。頼むぞ」
親貞の言葉に道意は深く深く頭を下げた。ただそれは主君の威に平伏したのではなく、感情を抑えきれず漏れ出た笑みを隠すためのものだった。
かくして道意は肥前守親貞の名で、肥前、肥後、筑後に対して号令を下すのだった。
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八月一日。
豊前国・門司城
鎮撫の大評定が行われて五ヶ月余りが過ぎ、ついに九州征伐が始まった。先導役の毛利勢が続々と門司城へと集結し、その数を増やしている。
総大将は毛利の総帥・参議輝元が率いる安芸、周防、長門の軍勢一万三〇〇〇と備後を治める吉川治部少輔の五五〇〇、石見守護・小早川左衞門佐隆景と継子の藤景ら三四〇〇、これに高橋鑑種こと宗仙や秋月などの筑前国北部の在地領主ら四八〇〇、当人の申し出により先導役に組み込まれた島津家久と顔ぶれは揃っている。更には人質の意味合いから義輝の傍近くに仕える事になっていた元春の嫡子・元資も今回に限っては毛利勢に加勢して九州へ赴くことを許されており、自ら一五〇〇を率いて参陣している。
また他の在地領主である立花鑑載や宗像氏貞など一部は門司には集められておらず、博多の守護として役割を果たしており、後々の合流となる予定で総勢は三万を超え、幕府から求められた二万五〇〇〇を大きく上回った。
「至誠至純の忠義で上様に御仕えせよ」
臨終の際に大毛利を生み出した英雄・元就の遺言を輝元が守った形だ。
元就は“毛利の安泰のみに力を尽くせ”と言い残し、輝元は上洛して義輝へ忠誠を誓った。かつては幕府と抗して中国で八カ国の安堵を狙っていた頃とは違う。征夷大将軍の力は一地方大名がどう逆立ちしても敵わない存在と変貌しており、それを死の間際に悟った元就は、ただただ幕府に忠勤することが毛利安泰への道と定めたのだ。
「上様は門司の確保を求めた。されど門司一帯を押さえておくだけで上様は満足されようか」
故に輝元は主命以上の成果を求めた。もちろん自身でその術を持ってはいない。偉大なる祖父の素質を引き継ぐ二人の叔父に期待してのことだ。
「我らの数は三万を超える。我らだけでも大友と戦うのは不可能ではない」
と意気込むのは鬼吉川こと元春である。
元より幕府の命令ではあるが、毛利と大友は因縁がある。多々良川の合戦で戸次道雪と激闘を演じた元春にすれば、再戦して勝利する気で出陣してきている。最初から幕府の大軍を頼りとはしていない。
「されど大友は日向を制したとか。もはや九州に大友を脅かせる存在はおらず、安易に進むのには賛成しかねる」
これに対して慎重論を口にするのは小早川左衞門佐隆景だ。
実は輝元にとって、二人の意見が対立することは珍しくない。むしろ意見が分かれる事の方が当たり前で、だからこそ毛利は塩梅が取れていると言っても過言ではない。
「畏れながら申し上げる。九州にはまだ兄・修理大夫義久がござる。兄ならば、こちらの動きを見越して大いに大友を揺さぶってくれるはずです」
そこへ家久が意見を唱えてくる。家久にすれば島津か軽く見られることを良しとは出来ず、口を開いたに過ぎないが、あながち空論というわけではない。
「島津殿を頼りにしておらぬというのではない。されど大友の勢いは本物じゃ!特にここ一、二年ほどは活発に版図を広げておる。まずは現状を維持し、大納言様の御到着を待つべきじゃ。中国、四国の軍勢が来れば我らは十万ほどとなる。動くのは、それからでよい」
今は無理をするべきではないというのが隆景の主張であった。
「ならばお主は何もせず待つというのか」
慎重な弟を元春はキッと睨み付けた。余人なら恐れ戦く鬼吉川の威圧も弟にすれば慣れている。涼しい顔で受け流し、更に自分の主張を強めていく。
「我らが九州へ赴いた事で、敵方には幕府が本腰を入れて攻めてくると伝わったはずでござる。ならば調略が活きてくる。この一月の間に下地を作りあげ、大納言様の御到着と共に一気に攻める。これが上策にござる」
そして隆景は龍造寺、蒲池、筑紫、阿蘇など寝返りが期待できる大友方の大名たちの名を次々と挙げていった。これには多くの諸将が賛同し、軍議は隆景の意見で決まるかに思えた。
「概ね左衞門佐様の策で宜しいかと思われますが、上様は我らが如何なる忠義を示すか御覧になられております」
それが、この元資の言葉で全てが翻った。
「上様は我らの忠義を疑っておられるのか」
これに対して隆景は甥の横槍に鋭い視線を送る。一族であるが故に遠慮はなく、温厚で知られる隆景からは想像できない怒気が言葉に混じっていた。
隆景としては、大友に負けると考えていないものの毛利単独で挑めば相当な被害を出すと予測している。それは毛利としても、小早川としても望むことではなく、それを理解していないと思われる元資へ語気を強めたのだ。
「叔父上、そうではございませぬ。元亀擾乱や武田信玄との戦いで幕府に尽くしてきた我ら毛利はともかく、九州の者たちは直接に上様へ奉公したことはございませぬ。されど九州での戦を終えれば、その機会も失われます。故に上様は最後の機会として、我らに先陣を委ねられたのです」
ところが意も返さずに、元資は堂々と反論した。そして今回は親しみを込めて、受領名ではなく叔父上と隆景を呼んだ。
(ほう。元資め、小賢しい真似をするようになった)
これを見て父・元春は息子の成長に満更でもない笑みを浮かべた。
元資は毛利の態度を是としながら、それに九州の大名たちが倣うのを非としたのである。これにより小競り合いが起こったとしても犠牲を払うのは高橋や秋月など九州の大名たちとなり、毛利は高見の見物として戦力の温存を図れるようになる。
(それだけ幕府の、上様の名は重いか)
幕府の中枢にて義輝と共にあった元資だからこそ思いつく戦略であった。
毛利の重鎮たちや元資は、今回の九州征伐で幕府が動員する規模を知っている。だからこそ義輝の勝利を疑っておらず、元資は諸大名が勝ち馬に乗ることを嫌悪した。彼らが所領を得るには、それなりの代償を払うべきなのだ。
毛利は吉田庄の領主であった頃から、そうやってきたのだから。
「ならば如何にする。当然、案があるのだろう?」
我が子の成長を嬉しく思いながら、それでいて甘さを見せることなく、元春は息子に責任を求めた。
吉川の世継ぎなら幕府の、義輝の威を借るだけの存在であってはならない。口を挟んだからには最後まで自分の考えを述べてもらう。それで皆を納得させる責任が元資にはある。
「門司の確保に一部を割き、残る全軍で宝満山、岩屋の城を落とします」
「宝満山城と岩屋城を?」
「はい。両城の城主は大友が重臣・吉弘鑑理の子である高橋鎮種で、彼の者は多々良川の合戦でも父上の攻撃を一手に引き受ける程の勇将にござる。されど大友は先の伊東攻めから戻ったばかりにて。中納言様が到着させる頃には態勢を整えましょうが、今なら宝満山と岩屋は手薄。鎮種が水を得た魚になる前に落としておくべきにございましょう。幸いにも元城主の宗仙殿も我らが帷幕におれば、必ずや勝利は能いましょう」
それを聞いて、この場にいる全員が唸った。
城攻めに於ける基本は相手よりも可能な限り多くの兵で攻めることにある。その点で言えば毛利は条件を満たしている。また宝満と岩屋は大宰府支配の重要拠点で、かつて手放す際も毛利は再三に亘って幕府へ訴え、渋ったものである。しかも今回は後詰が期待できるとはいえ、大友は日向に大軍を遣わしていたばかりで即座に援軍を出してくることは考え難い。大軍を揃える苦労を知っている毛利だからこそ、早くても一月はかかると踏んでいる。なら今、宝満山城と岩屋城にいる数だけが相手となり、それだけなら正直に筑前の者どもだけで足りる。懸念材料は重臣の子であるも鎮種は勇猛で、それなりの抵抗を示してくると思われることだ。それはかつて多々良川の合戦で相見えた元資がよく知るところ。だがこちらには両城の城主だった宗仙がおり、縄張りは熟知している。大友方に一方的な地の利がない以上、勝算は充分すぎるほどあった。
「よう見抜いた。儂に異存はない」
納得といった表情で、元春が首を縦に振る。これが結論となった。
かくして始まった九州征伐の最初の戦いは、筑前国・宝満山、岩屋城で戦端は開かれることとなった。
【続く】
戦端開くと言いながらも戦いが始まらないタイトル詐欺...次回のスタートからは始まります。
さていよいよです。既に戦後のことを考えている義輝に対し、最後の仕上げを目の前にする道意。義輝の意向を示す元資と毛利の立ち位置の違いなど様々です。史実では島津に攻められた岩屋城ですが、今回は毛利に攻められることになります。若干の環境の違いが戦局にどう影響するかは次回以降の話となります。
ある程度、次回以降の話は書き始めていますので、少しは早めに投稿できると思います。