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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第七章 ~鎮撫の大遠征・東国編~
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第十四幕 謙信仕置 -分かれた命運-

元亀四年(一五七三)三月中旬。

出羽国・米沢城


 米沢城は暦仁元年(一二三八)に出羽国置賜郡長井郷に地頭として赴任した長井時広によって築かれた。長井氏は鎌倉幕府別当として権勢を誇った大江広元を祖先とし、承久の乱以降は嫡流が没落したために大江氏の総領として備後守護職にも任じられ、大いに栄えた。それから南北朝の動乱期までの約百五十年間に亘り米沢は長井氏の支配するところとなったが、伊達氏八代当主・宗遠によって長井氏は滅ぼされ、以後は伊達氏の治める城となった。


 それから暫くは伊達氏の属城の一つに過ぎなかった米沢城であるが、伊達晴宗が父・稙宗と対立した天文の乱が収まると稙宗が陸奥守護職の国府としていた西山城から米沢へ本拠を移すことになった。この後、晴宗は奥州探題に任じられている。


 その晴宗は家督を譲った後も実権を握り続けていたものの元亀元年(一五七〇)に腹心である中野宗時が謀反の疑いで追放されると権勢は衰え、米沢城の南東に位置する杉目城に隠遁、家中の統制は子の輝宗が主導するようになった。


「そう思っていたのだがな。このところは父上の動きが激しい」


 そう室の前で愚痴をこぼすのは、米沢の主である左京大夫輝宗だ。


 隠遁後は静かにしていた晴宗が表舞台に復帰したのは、幕府の東国攻めが始まった以降だ。幕府は大方の予想を裏切って北条を瞬く間に滅ぼしてしまい、暫く模様眺めするつもりだった晴宗・輝宗親子を焦らせた。


「儂が上杉殿に会って幕府の内情を掴んでこよう。お前が出て行くのは、それからでよい」


 その方針には輝宗も賛成で、自身は病と偽って父の黒川行きを見送った。ただ晴宗は報せを寄越してはくれるものの一向に帰還せず、病と称してしまった事から城を離れられない輝宗は焦りを一層と募らせていた。


(あの父上が言葉通りとは思えぬ。必ず何か企んでおる)


 父の性格は自分が一番よく知っている。我が強く、何でも自分の思う通りにならないと気が済まない質で、その昔に岩城の姫で結城との縁談がまとまっていた母を強引に奪ったことは家中でも有名な話だ。また天文の乱では方針の違いから祖父と対立、奥羽全域を巻き込んだ武力衝突に発展した。子として輝宗も晴宗に反発しがちである。故に当時の父の気持ちは理解できなくもないが、流石に輝宗は大乱を引き起こしてまで我を通す気にはなれない。そんなことをしても喜ぶのは伊達以外の奥羽諸侯だ。だが父は違った。


 その晴宗が何やら企んでいる。黒川では上杉謙信と会って伊達の所領安堵を得たと報告してきたが、伊達の懸案事項である丸森城の帰属は明らかになっていないし、その他の奥州大名に対して幕府がどのように対処するつもりなのか不鮮明だった。つまるところ輝宗が欲しい情報が殆ど入ってきていないのだ。それでいて父の所在がはっきりとせず、判っている事は黒川から一度、杉目城に帰還したということくらいだった。それからの消息は明らかになっておらず、恐らくは奥羽に点在する大名小名のところを廻って暗躍しているものと思われる。


 だからこそ輝宗は、独自に奥羽状勢につき情報収集する必要があった。


「羽州でも幕府軍が動き始めたと聞きました」

「ほう。義兄殿から報せが入ったか」

「はい。幕府の大軍が山形に入り、兄上の家督を認めたとか。兄上は幕府を後ろ盾にして家中を一気に纏め上げるつもりでいるようです」


 それを聞き、輝宗の眼が一層と輝きを増す。


 輝宗の正室は最上義光の妹・義である。兄妹の仲は良く、両者は頻繁に文のやり取りをしている。かと言って輝宗と仲が悪いわけではなく、義も伊達の内情を最上に漏らすようなことはしていない。


「それで、義兄殿は何と?」

「御義父上が兄上に対し、父・栄林との和議仲介を申し出てきたそうにございます。この事は殿の御指図なのでございますか?」

「いや、儂は知らぬ」


 輝宗は肩をすくませ、やれやれといった様子で呆れ顔を浮かべる。


 義も夫が細かく家中にどのような指示を出しているかは知らない。ただ実家とのやり取りは伊達の方針を揺るがすことになるやもしれず、時折に知り得た情報を夫の耳に入れることがある。もちろん義光も安易に情報を流すことはなく、基本的に文の内容は体調を気遣ったりするものが大半だ。こうやって政治向きの話が含まれているのは、暗に義光が伊達の意向を知りたがっているからであり、義か輝宗に伝えることを前提としているからだ。


 それを輝宗も判っているからこそ妻を咎めたりはしない。政治には表立って動けないこともあるため、こういう立ち回り方も重要となってくる。それが出来るのも義が聡明であるが所以だ。義の存在は伊達と最上にとっては非常に大きかった。


「されど有り難い報せだ。義兄殿には、この儂が忝いと申していたと伝えてくれ」

「はい、畏まりました」


 と義は指先を丁寧に床に付けながら一礼し、部屋を去っていく。まったく良妻を娶ったものだと、つくづく輝宗は感じていた。


 義の望みは伊達と最上の安寧に他ならない。その為には夫であろうが意見してくるし、それは兄・義光に対しても同じだった。たまに女だからか男の面子すら無視してくる時があるのが悩みの種であるも、義が男であったなら一廉の将になっていただろうとも思う。もっともそれ以前に、ただ慎ましいより戦国大名の妻らしいと思う輝宗であるが。


「さて文七郎、父上の動きを如何に思う」


 輝宗は義と入れ代わりに入ってきた遠藤文七郎基信に尋ねた。


 基信は輝宗が追放した中野宗時の家臣であったが、謀反を直前に密告したことにより直臣に取り立てた。基信は若い頃に放浪していた経験から諸国の事情に精通し、人を見る目にも長けている。輝宗の嫡男・梵天丸の乳母に片倉景重の室・直子の子である喜多を抜擢、女の身で在りながら文武に優れて兵法書を嗜む喜多に育てられた梵天丸は、輝宗の期待通りに成長しており、近いうちに家中から有能な者を見繕って梵天丸に近侍させるつもりでいる。その人選も輝宗は基信に一任している程に信を置いている。


「機先を制すことこそ肝要とか。見たところ幕府は羽州では兵を動かしているものの奥州では逆に不気味なくらい不動を貫いております。これは此方側の動きを見極めているものかと存じます」


 基信の言う通り上杉謙信は羽州の平定を長尾景勝らに命じたにも関わらず、自身は黒川城から動いてはいなかった。積雪が理由と考えられなくもないが、羽州で兵を動かせている以上、奥州で動かせないのは説明が付かない。


「直接に上杉殿からは命じられてはおりませんが、蘆名殿より奥羽の諸大名は黒川城に出頭するよう伝えられております。どの大名が参じて来るかを見極めているものかと」

「今のところ黒川に出てきた大名は、我らを除けば二階堂、結城と岩城に石川のみか。他に動きはあるか」

「相馬は早晩、黒川に出向くかと思われます。大崎と葛西は互いに牽制し合い、恐らく使者を送るに留まるかと存じます」

「南部はどうか」

「大浦の謀反に揺るいでいる様子です。一方で九戸政実が和賀を攻める算段をしているとの噂もございますので、余裕がない訳ではないかと思われます」

「そう見えるように振舞っているだけではないのか?」

「確かに有り得ぬ話ではないかと。されど大膳亮殿も嫡子が生まれて以降は養子の田子九郎殿と折り合いが悪いらしく、一合戦して南部が衰えていないところを示したいはずです。その相手に和賀は頃合と存じます」


 この頃、奥羽の諸大名は依然として幕府の姿勢に戸惑っていたままで、動きを見せている者は少なかった。

 

 黒川に座す謙信の許には近隣の諸大名しか訪れておらず、まだまだ幕府の威令が及んでいるとは言い難い状態だった。結城白河については当主の晴綱が病で動けなかった為に一族の小峰義親が名代として参じており、また田村は蘆名止々斎に頭を下げることを良しとせず、出頭を躊躇っているが、幕府の大軍を間近にしているため時間の問題と思われた。岩城と石川についてはどちらも輝宗の兄弟が当主を務めているが、完全な伊達膝下ではなかった。ただ父・晴宗が出頭したことをきっかけに、どちらも黒川に姿を現して謙信と会談したと報知が上がっている。


 奥州の有力者である大崎義隆と葛西晴信は犬猿の仲であり、どちらも幕府との関係は良好であるものの一昨年に両者は激突している。今年に入って再び両者の間で緊張が高まっていることから当主が領地を離れられずにいた。


 その葛西領の北に位置する斯波詮真は、高水寺城を拠点としている。将軍家と血の繋がりを有する斯波氏の庶流に位置するも本貫地の斯波郡を領することから斯波御所と御所号で称されるほど奥州では高い家格を有していた。現当主・詮真の祖父・詮高の代には南部や戸沢の戦いを優位に進め、その威を奥羽北部に広めたが、父・経詮の頃に維持してきた領地も詮真の頃になると南部に脅かされつつあり、前年には国境で農民同士が諍いを起こして合戦の機運が高まっている。


 また隣接する稗貫輝時は、斯波氏擁護の立場から南部との対立に度々仲裁役を買って出ている。なお輝時は弘治元年(一五五五)に上洛して義輝に拝謁、偏諱を賜ると共に奥州での存在を認められている事から黒川に赴けば所領安堵は確実と思われるが、当主の動向は不明だ。


 その稗貫氏と関係の深い和賀氏は、元々が幕府に代官を出仕させる程の関係であり、近年は内訌が相次ぎ南部家との対立は激しく、永禄十二年(一五六九)にも合戦に発展している。近年ではとても上洛している余裕がなくなったために関係は疎遠となっていたが、これを機に幕府の後ろ盾を得るつもりでいると考えて間違いないだろう。後は当主の義次が南部の脅威が残る中で黒川へ赴けるかである。


 他、阿曽沼広郷も小身ながら阿曽沼氏が代々将軍家直参を声高に誇りとしていること、南部の脅威が斯波領に向いている事から黒川行きは確実と推測される。もしかすると既に広郷は本拠の横田城を発っているかもしれない。


 そして奥州北部の最有力大名である南部晴政は内外に大きな問題を抱えていた。


三日月が丸くなるまで南部領とその広大さを称される版図を実現した晴政も近年は老いが見られている。他国との合戦に勝利を重ね、奥州に南部ありと武名を高めたものの長年、男子に恵まれず後継者問題に悩まされてきた。そこで実弟で津軽郡代の石川高信の子を養子として迎え入れて信直と名乗らせていたのだが、元亀元年に齢五十を越えてから念願の嫡男に恵まれた。それにより信直を廃嫡して実子に家督を譲りたいと考えるようになる。ここから南部の家運に暗雲が立ち込め始めた。


立場の揺らぎ始めた信直に追い討ちをかけるようにして津軽地方で重臣・大浦為信が謀反を起こし、高信の石川城を攻めて自害に追い込むという事態を引き起こしている。実家の石川家が滅んだ事によって信直の立場は一層と孤立を深めている。


 このような事から謙信の奥州平定は会津一帯に威勢を示したのみで、諸大名を屈服させたとは言い難い状態にあった。


「大殿の狙いは間違いなく丸森の案件かと。最上殿への鞍替えも時勢を鑑みてのことで、後々に伊達の立場を危うくせぬためのものかと存じます」

「だが所領安堵にしても、何処までが伊達の領土として認められたか判ったものではない」

「丸森については当家の所領として届け出ておりましょう。大殿のことですから、留守や国分、黒川までも家臣の土地として伝えていても不思議ではありません」

「儂は葛西や大崎まで及んでいると考えておる」

「まさか……葛西はともかくとして、大崎は間違いなく幕府から独立した大名として目されておりましょう」


基信の語気には半ば呆れが感じられる。


大崎氏は元奥州探題である。その歴史は最近の奥羽事情に疎い幕府と言えども認知されているはずであり、それを家臣の一人として扱うのは強欲という以外の何者でもない。葛西氏とて幕府より重用されていないとはいえ、天文の乱の頃に葛西の養子となった稙宗の子・晴清が生存して当主となっていれば別かもしれないが、代々将軍家より偏諱を賜っていることから少なくとも独立した大名として認知されていると考えるのが自然だ。余りにも無理が有り過ぎる。


「無論、この儀は交渉事だ。最初に吹っ掛けて何処までを認めさせるか父上が推し量っていることと思うが、それが成り立つのはある程度、力が拮抗した相手もしくは、こちらの力が相手より上回っている場合に限る」

「ということは、殿は幕府とは交渉にならぬと御考えで?」

「父上もだが、羽州にまで兵を向けられるとは思っていなかった。上杉殿の四万が、奥羽に向けられた軍勢とばかり考えておったのだが……」


そう振り返り、輝宗は渋面を作る。


実際、奥羽の平定だけを考えるなら四万で充分だろう。ただその場合は奥羽に於ける有力大名の支援が不可欠となる。多くの諸大名が所領安堵され、現状を追認されるに留まったはずだ。それが八万五〇〇〇ともなれば、如何に変わるか。


単独での奥羽平定。幕府の意に従う者だけが生き残り、そうでない者は問答無用に淘汰される。それが可能なだけの力がある。しかも幕府には後詰として織田信長の十万が関東に控えているというではないか。


「場合によっては丸森すら諦める必要があるやもしれん」

「何と!?」


主君の決断に基信は驚きを露わにする。


丸森城は相馬に奪われているとはいえ、元は伊達の城であり、陸奥守護職だった稙宗の隠居城だったことから伊達に帰属が認められる可能性は高い。少なくとも晴宗や基信は、そう考えていた。


「考えが甘かった。ここは父上が面倒を起こす前に動いておいた方が良いのかもしれん」

「では某は急ぎ大殿の所在を探します」

「うむ。儂が黒川に向かったとなれは、父上とて安易な行動を取れまい。頼むぞ」

「畏まりました」

「されど国分や留守、亘理については、儂が出向く故に挨拶は不要と伝えい」


 とはいえ輝宗も乱世を生きる大名の一人である。勝ち目のない戦いは徹底的に避け、得るものを得られるところでは確実に拾いに行くつもりでいたのだ。これを機に伊達の服属下にある国人衆を取り込もうという算段である。


かくして輝宗は病が快癒したとして黒川城に向かうことになった。


=====================================


五月下旬。

陸奥国・黒川城


 その黒川城では上杉謙信が新たに将軍の名代として正式に奥州諸大名へ通告を出していた。


「直ちに矛を納めて黒川へ出頭せよ」


 まさに最後通告であり、その報せが奥州に出される直前に黒川へ到着した輝宗は後に首の皮一枚で大名としての存続が保たれたと後に回帰することとなる。


「このままでは伊達の後塵を拝することになるやもしれぬ。


 輝宗の到着を知った相馬義胤も急いで黒川へ参上し、蘆名止々斎へ頭を下げる事を拒んでいた田村隆顕は隠居を決意、家督を子の清顕に譲って黒川へ赴かせることで頭を垂れるという屈辱を回避した上で大名としての存続を保った。

 

 他に出頭してきた大名は稗貫輝時、阿曽沼広郷である。もちろ彼らの所領は安堵された。


 問題となったのは、やはり大崎と葛西だ。両者は近年も激しい戦を繰り越しており、とてもじゃないが当主が領地を離れられる状況ではなかった。それ故に宿老を派遣して自らの立場を説明、釈明したのである。同様の理由で斯波詮真、和賀義次も出頭せず、黒川晴氏も大崎に属している立場から遠慮して出頭を控えていた。津軽に版図を有する北畠顕村も出頭しなかった。


「儂は矛を納めてと申し伝えたはずだ。儂の言葉は上様の言葉も同然、それを軽んじることは許さぬ」


だが謙信は激怒、彼らの言い分に聞く耳を持たなかった。権力を笠に着るつもりはないが、“幕府の奥羽に示す”ために謙信は敢えてそのように宣言した。


(上様、これで宜しいのですね) 


 大軍を派遣するだけでは幕府の武威を示すには足りない。関東には北条という分かりやすい存在があったが、奥羽にはない。だからこそ争乱の元となっているものを力で無理矢理にでも解決して見せる必要があった。


 謙信が奥州の情勢を鑑みた時、その対象となったのは三つ。


 一つは伊達と相馬が争う丸森城の帰属問題。


 こちらは伊達の言い分が正しいと謙信は考えていたものの幕府の立場としては、係争地である亘理、伊具の二郡を幕府がそっくり預かる方針を決めた。ただその方針は未だ明らかにしておらず、大崎と葛西の争いを片付けてから伝えるつもりでいる。


 二つは目の前の大崎と葛西、南部と斯波、和賀の調停。


 調停と言えば聞こえはいいが、謙信がやろうとしているのは喧嘩両成敗である。その家も幕府に直接に弓を引いた訳ではないので改易にまでするつもりはない。しかし、幕府の方針に従わなかった代償は払わせる。厳しいと思われるかも知れないが、交渉の余地があると思われることは、つまり幕府が軽視されているということだ。


(そのような事はあってはならないことだ)


 かつての幕府の面影は、未だに内外に色濃く残っている。もはや北条という存在すら鎧袖一触で滅ぼせる力を有しながらも幕臣の中には大大名を恐れる風潮があり、大名の中には幕府の力を利用して自らの所領を拡大しようとの動きが見え隠れする。


 その動きが顕著なのが伊達である。


 伊達は丸森城だけでなく、国分や留守、亘理を始め、黒川や大崎に葛西などの版図を伊達に服属する地域として届け出てきた。確かに天文の乱以前の稙宗の時代には、彼らが伊達に服属していた時代はあったことからまったく根拠のない話ではないのだが、これを謙信が認める訳にはいかない。


 謙信が認めたのは、輝宗の弟が当主を務めていた留守領のみ。先代の顕宗には男子が別にいたが、既に別家を継いでいることに加え、留守氏は何度か伊達から養子を迎え入れて当主としていることから伊達に属するとして輝宗の主張を認めることになった。


「何か行き違いがあったようにございます。この後の伊達は、全て幕府の意に従う所存」


 この時、葛西や大崎領まで伊達領と届け出た真意を輝宗に訊ねた謙信であったが、晴宗の策謀を輝宗があっさりと否定したことにより、謙信は幕府、義輝の力が想像以上に大きくなっていることを実感することになる。


(流石は上様だ。幕府の力を正しく理解されておる)


 正直、ここまで強硬な態度で臨めば反発は必死と謙信は考えていた。それが伊達という奥羽で第一の存在が一切の抵抗を示さずに、唯々諾々と幕命に従う姿勢を見せている。もちろん心から従っているとは謙信も思わない。それでも奥羽の隅々まで屈服させるだけの力を幕府が有していることを義輝は知っていたことになる。


 その証拠に義輝は東西同時派兵という大事業に踏み切った。本来、兵を二つに分けるのは愚策であることは兵法書を読み漁っている者の中では常識、それを敢えて行うのは、それでも充分に争乱を鎮められる力が幕府にあると義輝が理解しているからだ。


 そして織田信長の力が増大すると判っていて東国遠征を任せるのは、そうなったところで幕府は揺るがないと義輝が考えているからに他ならない。


 ならば名代としての責任を謙信は果たすだけでいい。そのために大崎、葛西を贄として幕府の武威を奥羽に示す。


 そして3つ目は南部晴政の所領問題である。


 奥州北部に版図を持つ南部晴政は、未だに出頭していない。大崎や葛西のように使者を送って来ているに留まっており、その理由は領内で起こっている大浦為信の謀反が原因と伝えて来ている。これだけなら謙信は謀反の鎮圧を決めて南部領に兵を入れるだけで済むのだが、実は晴政の養子で、嫡男誕生までは継嗣だった信直だけは単独で黒川に出頭して来ていたのだ。


「南部は幕府に逆らう気は毛頭ございませぬ。ただ大浦の謀反は津軽一帯を巻き込むほど大きなものであり、南部の統治を揺るがしております。某の実の父である石川左衛門尉も為信の騙まし討ちに遭って命を落としておりまする。是非とも厩橋中将様の御力で、某に兵を御貸し下さいませ」


 その信直は謀反鎮圧を謙信に願い出た。涙を交えて父の仇討ちを訴える姿は謙信の胸を熱くした。


「相判った。儂が自ら津軽へ赴き、大浦の謀反を鎮めてやろうぞ」


 即座に援兵を約束した謙信によって大浦為信は窮地に陥ることになる。


 後で判ることであるが、信直の出頭は晴政に無断でのことであった。しかし、継嗣であった信直が出頭したことにより南部家は処罰を免れることになるとは、何とも皮肉な話であった。


 そして六月に入り、幕府軍が遂に黒川を出陣する。


(……上様、間もなく東国は治まりますぞ)


 念願の天下一統が現実を帯びてきたことを感じながら馬に揺られる軍神が大崎と葛西領の諸城を全て接収したのは、黒川を発してから一月も経たない頃だった。




【続く】

お待たせしました。


今回は奥州側がメインです。輝宗と義姫も登場しております。特に義姫は鬼と呼ばれるエピソードは、時間軸としてはもう少し後の話でありますので、頭が回り、実家と嫁ぎ先の安寧を願う聡明な女性として描いております。


また今回は史実の豊臣と違い、相手が幕府、そして小田原征伐の頃と当主が違ってと反応が一部で変わっております。なお今回は謙信の仕置であって後々の義輝の仕置とは若干だけ異なることになります。とはいえ今回で生き残った大名は、概ね存続することになります。


次回で東国編は終わり、西国(九州)編へと移ります。ようやくの義輝登場です。その西国編が終わりましたら、終章として統一編でその後の東国のことは触れて参ります。

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