第十三幕 羽州平定 -幕軍、無人の野を行くが如し-
元亀四年(一五七三)三月。
昨年の内に下野を制し、会津黒川城にて奥州平定を淡々と進める上杉謙信の命により羽州平定を命じられた長尾弾正少弼景勝は、いま庄内地方三郡を治める大宝寺義氏の居城・尾浦城にいた。
一昨年に幕府へ恭順した大宝寺氏は、当主の義氏が長尾家預かりとなって先代・義増が指揮を執っている。東国遠征に際しても義氏は人質の要素から帰国は許されず春日山に留まり、将軍・足利義輝は幕命として越後の守りを義増に命じていた。義増は時勢を読んで幕命を守り、空となった越後の守護を全うする。
「四郎三郎、よう戻った」
この度、羽州平定が始まろうとする頃に四郎三郎こと出羽守義氏は帰国を果たす。景勝の尾浦進出に合わせて春日山から呼び戻されたのだ。久し振りの再会に義氏の才気を感じて一時は家督を譲っていた義増の表情も思わず綻び生まれる。
「上様より尾浦に帰還し、羽州平定に尽力せよと御命令を受けております」
「儂のところにも同様の命が届いておる。案ずるな、下地は作ってある」
そう言い切った義増は、羽州平定軍の長尾景勝や浅井長政ら首脳陣を交えて義氏へ状況の説明する。
「まず由利十二頭は、悉く合力するとの返答を受けておる。仙北の小野寺殿も雪解けを迎え次第に合流する手筈にござる」
義増はどうだ、と言わんばかりに息子へ胸を張って語った。
由利十二頭は大宝寺領の北に位置する豪族の総称で、一つ一つは大した勢力ではなく、一番の大身である赤尾津氏でも五千石を越えないほどの国力しかない。そんな者たちが幕府に反抗できるはずなく、前年の暮れに幕府の大軍が関東平定を終えて尾浦に入ると時勢を読み取り、揃って膝を屈する決断を下す。
ただ由利十二頭が降ったことは羽州に大きな影響を及ぼした。仙北三郡(山本郡・平鹿郡・雄勝郡)を治める小野寺氏に属する矢島氏や大宝寺に属する仁賀保氏、安東氏と誼を通じる赤尾津氏など互いに対立しており、離合集散を繰り返していた歴史がありながら在地領主として独立性を保ってきた。
だからこそ由利十二頭の離反は羽州の有力者たちにとって揃って片腕を捥がれたに等しい。
「これはいち早く挨拶に出向く必要があるな」
大宝寺氏と婚姻関係にある小野寺輝道は、その伝手から義増に恭順を誓う旨を報せ、小野寺氏の去就を明らかにした。それを義増は自らの手柄のように報告し、大宝寺の地位を磐石にしようと画策している。
ともあれ大宝寺領が羽州平定を目指す幕府軍の橋頭堡となっているのは紛れもない事実であり、その重要性から立場も保障されている。
「これだけの大軍があれば、何でも出来そうだな」
これまで奥羽では見たことのない光景に義増は率直な感想を抱く。
現在、尾浦を初めとする大宝寺領には四万に近い軍勢が留まっている。一部、揚北衆など所領が近いものは自領に戻る事を許されているが、来月には再合流を果たす予定だ。最終的に大宝寺と小野寺などを加えた羽州平定軍は、五万を超える規模にまで拡大する。
「いち早く羽州を平らげねばならぬ」
これだけの軍勢を任されたからには成果を出さなければならない。養父・上杉謙信が奥羽平定軍の総大将を務める景勝は、一層と拳に力を込めた。
「まずは最上の問題から片付ける」
羽州平定軍の最初の目的地は最上氏の居城・山形であると謙信によって定められていた。そこへ幕府軍が総出で乗り込み、正式に家督相続を終えたにも関わらず、義光を認めない勢力へ武威を示して一挙に問題を解決する魂胆だ。
「小野寺中宮亮輝道にございます。以後お見知りおき下さいませ」
そして一月ほど経った三月の始め、小野寺輝道が合流してきた。
「こちらは我が次男にございます。幕府の方々には小野寺が忠義の証として御預かり頂きたく存じます」
しかも輝道は羽州で優位に立つべく身内を質を連れてきた。近いうちに小野寺領にも立ち入ることになる手はずなので、その時でも良い気がするが、輝道はわざわざ実子を同行させて己の忠節が真であることを演出したのだ。
(これで小野寺が地位は安泰よ)
内心、輝道はほくそ笑んでいたに違いない。
輝道は名の通り義輝から偏諱を賜っている身であり、羽州の中では幕府との繋がりは強い方だとの自負がある。また大宝寺氏と縁戚関係にあることから義増からの口添えもあり、羽州平定軍の中でも早い内に合流してきた小野寺は所領安堵が妥当だろうとの結論に達しつつあった。
それを輝道も義増から聞いて知っている。その上で小野寺の版図をより拡大するために動いていた。
小野寺氏の敵といえば、戸沢と安東である。安東は羽州でも大身で手ごわいが、戸沢と小野寺を比べれば、小野寺に分がある。この二勢力の中間に位置に小野寺寄りの二階堂氏、戸沢寄りの本堂氏がおり、輝道は家中でも随一の智謀の持ち主と称される八柏大和守道為を重用して勢力を広げてきたものの後一歩のところで戸沢の牙城を崩すのには失敗している。一方で戸沢側も当主の盛重が病弱で心もとないながら後見役に就いている先代の道盛が手練手管を駆使して仙北一郡をほぼ纏め、今まで生き残ってきた。
「殊勝な心がけじゃ。これからも幕府に誠心誠意、尽くされよ」
「ははっ」
輝道は至誠至純を示すように仰々しく平伏して応えて見せた。
「また御許し頂けるならば、戸沢への恭順を薦めたく存じますが、宜しいでしょうか」
「小野寺と戸沢は不倶戴天の敵と聞いたが、可能なのか」
これに総大将格の浅井長政が疑問に思い、問いを投げる。
小野寺は外交を駆使して時には敵を滅ぼし、時には降伏させて縁戚を結び、内側に取り入れて勢力を拡大してきた。一時的に戸沢を追い詰めたこともあったが、この時は戸沢側が粘り通し、その後に輝道の父・稙道が家臣に暗殺されるという騒動が起きて滅亡を免れている。
「戸沢との因縁など幕命の前には些事に過ぎませぬ」
気持ちよく言い切って見せた輝道は、驚くべきことに戸沢の恭順を勝ち取っていた。幕軍来訪時には戸沢道盛が当主・盛重を連れて横手城を訪れるように約定を交わしており、諸将の前にその誓紙を差し出した。さらに道盛は盛重の弟で実子の路四郎を人質に差し出すことも誓せており、小野寺と同じく所領安堵が決定する。
なぜ小野寺が敵である戸沢を救うようなことをしたのか。
それは全て大和守道為の知恵であった。
「幕府の力を借りて戸沢を滅ぼしてしまおう」
当初、輝道が画策したのは幕府の大軍を利用して戸沢領を我が物にすることであった。
「畏れながら殿、戸沢とて幕府の力を頼りとしましょう。我らが言い分が認められるとは思えませぬ。下手を打てば幕府が我らの敵に回るやもしれませぬ」
「ならば戸沢の領地は諦めろと申すか」
「已む得ぬかと。されど小野寺が版図を広げることは出来まする」
その瞬間、輝道の眼がキラリと光る。強い興味を抱いている証だった。
「二階堂の所領を我らのものとして幕府に届け出ましょう。一度、我らのものと定められてしまえば幕府のことです。簡単に覆すことは出来ませぬ」
この助言があり、輝道は二階堂氏の土地を小野寺の所領として届け出たのである。
二階堂氏は奥州南部・須賀川を治める二階堂盛義と同族で、現当主・通行の曽祖父・晴泰の代には先代・義晴から偏諱を賜っているも所領は由利十二頭と大差なく五千石ほどに過ぎず、その存在をしっかりと把握している者が少なかった。
有体に言えば、この時の幕府軍は見落としていたのだ。それにより二階堂領は通行の知らぬまま小野寺領として扱われ、その家臣としての生きていくことになる。
「幕府の力を侮ってはならぬ。何よりもまずは幕府の後ろ盾を得ることこそ寛容ぞ」
その裏で生き残ることになった戸沢道盛も版図を広げたいという野心は持ち合わせておらず、どんな理由であれ戸沢の土地が守れるなら望むところであった。当然、裏があるのではないかと疑いはしているが、事前に人質を預けるようなことはしなくてよいとして警戒を緩めた。
「これからは儂の時代よ」
後に輝道は得意満面の笑みを浮かべて家中の統制を図り、暫く小野寺領を盛り立てていくのだが、戸沢から人質として預けられた路四郎は義輝に気に入られ、元服後は近習に取り立てられることになる。その後に仙北で起こったある騒動をきっかけに小野寺と戸沢の勢力は逆転していくことになるのである。
そして幕府軍の羽州進軍が始まる。
先陣は羽州に根拠地を持つ大宝寺が務め、二陣に合流した小野寺勢、三陣に主力の長尾勢、その後ろを蒲生、畠山、朽木などが続き最後を浅井勢が進んだ。如何に景勝が謙信の養子とはいえ、軍の規模は浅井が上回り、年齢からしても総大将は自然と壮年の長政となった。
「浅井殿は初陣以来の負け知らずとか。是非とも合戦の心得というものを御教授いただきたい」
長政とて比較的に若い方だが、三十半ばと働き盛りでもある。当初から幕府に味方し、北近江三郡から今や越前と加賀半国を領する身であり、大身の部類に入る。西征や元亀擾乱での活躍で箔が付き始めている。体格も平均より二回りほど大きいのが、更に拍車をかけた。
だからこそ長政の周りには自然と人が集まってきた。
「ははは……、手前など皆様に比べればまだまだ若輩者にござる」
それを面倒と感じつつも人の好い長政は邪険にせず、一人一人を丁重に相手していた。
五万を越える幕府軍が山形城下を席巻する。事前に向かう事を伝えていたとはいえ、かつてない大軍を前に住民は元より最上の武将たちもどう対応していいものなのか判らずにいた。
そんな中で堂々とした振る舞いを見せたのが山形城の主でもある最上二郎太郎義光である。
「これは遥々、羽州の山奥までようこそ御出でに成られました。歓迎いたす」
義輝にも拝謁し、その家督の正当性を認められている義光は自らの劣勢など噯気にも出さず、味方を受け入れるかのように親しく幕府の将たちと接した。
(さて……、いよいよ動き出したな。さぞ伊達殿も焦っておられよう)
義光は幕府軍の動きの前に渋面を浮かべているだろう伊達晴宗の姿を想像する。
この冬に義光の下へ秘密裏に伊達晴宗から接触があった。
伊達といえば、最上の家督争いで父・栄林側の後ろ盾となる大名だ。義光は家中から何とか伊達の影響力を排除しようと考えており、最上を統制下に置いておきたい伊達とは反目する立場にある。
その伊達の御隠居から接触があったのは、幕府が奥羽に姿を現して以降だ。聞く話によれば、晴宗は黒川城に赴いて臣従を誓ったとのこと。そこから考えれば幕府の威に靡いて鞍替えしたとも考えられる。
(伊達と幕府の繋がりは強い。されど儂は堂々としておればよい)
だが義光の姿勢は揺るがない。権謀術数の奥羽で生き残ってきた晴宗であるが、若い義光にとっては既に過去の人である。その晴宗は義光に対して仲裁役を申し出てきたことに飛びつこうとせず、その慌て振りを笑ってやれるだけの度量は持っているつもりだ。
(とはいえ油断は出来ぬ)
それでも伊達と幕府の繋がりは強固と見るのが、義光の見立てだ。稙宗の時代は陸奥守護職を得て、当の晴宗は念願の奥州探題に就任している。今の輝宗になって探題職を解任されているが、これは伊達と幕府の繋がりが弱くなった所為とは思わない。最上も羽州探題を解任されており、その理由を以前の使者は幕府の職制が見直され、探題職が廃止されたと告げている。
逆に最上は幕府と疎遠だ。特に義光は家中のいざこざに日々追われていてとてもじゃないが幕府と接触する余裕はなかった。それに時間を割くぐらいなら、もっと身近な勢力の取り込みにかかっている。
外交戦で義光は負けていた。ただ悲観はしない。ここで伊達を頼れば最上は永遠と膝下に甘んじることになる。それが嫌で義光は父と決別した道を歩もうとしているのだ。
「二郎太郎殿、何やら家中が騒がしいと聞き及んでおるが?」
景勝ら首脳陣と会談した義光は、いきなり確信に触れられ内心ドキリとした。
「何のことやら。昨今は我が最上領は至って平穏でございますが……」
御家騒動は重大な過失であり、改易処分の免れない。幕府の力は強大であり、家督が揺らぎ最上一郡の支配すら覚束ない今の義光では、どう足掻いても勝てる相手ではなかったため、平静を装って惚けた。ここで隙を見せては、後でどうなることか判ったものではない。
実際、元亀元年には家督を巡って一騒動あったが、忠臣・氏家定直の活躍により家督相続は無事に行われている。それから現在まで父と反目は続いているが、大きな武力衝突には発展していない。故に義光は平穏と告げた。
「そう警戒することもあるまい。今は乱世、諍いの一つや二つ珍しいことはない。大事なのは、如何にして治めるか。幕府としては二郎太郎殿を軸に羽州が纏まることを望んでおる」
「某が軸でありますか?」
意外な幕府の態度に義光は驚きを露わにする。てっきり最上の御家騒動をきっかけに厳しい処分を言い渡されることも想定していたのだが、まさか自分を立てて来るとは想像していなかった。
「幕府が何よりも重きを置くのは、筋目にござる。次郎太郎殿は最上の正統、これが揺らぐことがあってはならぬ。無論、これは他家にとっても同じじゃ。もし万が一に正統が途絶えるようなことがあれば、その時は幕府が預かって吟味し、沙汰を下す。然様に心がけられよ」
と景勝が義光だけでなく、この場の全員に言い聞かせるかの如く宣言した。義を重んじる上杉謙信の後継者として目される景勝だからこそ、その言葉には若いながらも重みがあった。
乱世であれば、有能な者が跡目を継ぐことも御家存続を果たす手段として用いられても不思議ではない。実際に謙信とて嫡男ではなく、兄・晴景から家督を譲渡される形で長尾家を継いでいる。ただ泰平となれば話は変わり、筋目を重んじなければ秩序は成り立たない。将軍家だけでなく、諸大名の治世が安定してこそ泰平は実現する。その為には幕府として義光を軸にするのが一番だった。
「幕府が後ろ盾となるが故に次郎太郎殿の名で家臣一同を参集させよ。応じぬ者は全て我らに任せるがよい」
「は……ははっ!」
その言葉に義光は頭を垂れて応じるしかなかった。義光にとって悪い話ではないし、むしろ都合が良すぎる。上手く行けば反目する最上八楯を屈服することすら叶うかもしれない。
最上八楯。
義光が治める最上領の北側に版図を持つ天童氏を盟主とした連合体で、最上の一族も多く含まれており、表面上は最上氏に属している。ただ八楯全てを合わせた勢力は最上氏を凌いでおり、義光が当主と言えども好きに命令できる存在ではない。実際、最上八楯は協調性を重んじる先代・栄林側に付いており、これに伊達が後ろ盾となって義光と反目している。上山氏や寒河江氏など義光を支持する勢力がない訳ではないが、劣勢なのは否めず、間違いなく勝てるという保障はなかった。
だが幕府の姿勢は違った。無人の野を行くが如く武力で物事を解決してしまうつもりだった。
「奥羽には幕府の威を示すことを第一とせよ」
将軍・足利義輝の命令を遵守するには、武威を以って物事を解決するのが一番である。その上で筋目を重んじることで、秩序の芽を奥羽に植えつける。それが奥羽の平定を任された上杉謙信が辿り着いた結論であった。無論、担ぎ上げられた義光は幕府の命を絶対遵守しなくてはならなくなる。その見返りとして最上の当主の立場を確立することが出来る。
(望むところよ。幕府が如何なることを要求してきたとて、乗り切ってくれるわ!)
義光の覇気が、幕府の進軍に拍車をかけた。もし栄林が当主であったなら、一度や二度くらい出頭に難色を示した者は庇ったことだろう。だが義光は書状を送って三日を過ぎて返事がなかった場合、即座に攻め込む方針を固めたのだ。
「参集に応じぬならばやむを得ぬ。こちらから出向いてやろうではないか」
そして最上八楯はあっという間に降伏に追い込まれる。最上勢を道案内役として幕府軍は総出で北上し、天童城に迫ったのだ。
「どうか弁明の機会を御与え下さいませ。我らは決して幕府に弓を引くつもりなどありませぬ」
もはや八楯が頼るべきは反義光側の盟主・栄林しかいなかった。栄林は八楯の未来を背負い、義光の許へ出向いて釈明した。
「これは栄林殿、よく御出で下さった」
幕府諸将と相対した栄林は自分の立場を説明、如何に義光が横暴な事をやってきたかを説き、自らの行いを義挙と語った。もし幕府の方針を栄林が事前に知っていたならば、もう少し言い方も変わっただろう。しかし義光は参集を呼びかける際に具体的な事は何一つ報せておらず、栄林は単に幕府は騒動の仲裁役として出向いて来たという認識でしかなかった。
「されど栄林殿のやっていることは、幕府の決定を踏みにじるもの。これを上様は御許しになりますまい。最上の家督は二郎太郎殿以外に幕府が認めることはありませぬ」
栄林の釈明は全て無意味に終わる。どう栄林が騒ごうが決定が覆ることはなく、幕府の、義輝の決定が全て。後は従って生き永らえるか、抗って滅びるかの二択だ。
結果、栄林は金輪際と最上の施政に口を出すことを禁じられ、正真正銘の隠居に追い込まれた。また騒動の責任は隠居している栄林が取れない為に八楯の中心であった天童頼貞が取ることとなり、改易処分とされた。延沢満延も連座とされたものの、満延の武勇を惜しんで蟄居処分に減刑、後に幕府に接近して最上からの独立を画策した白鳥長久が処分された領地の一部を与えられて復帰することになる。他、八楯の同盟者だった細川直元も所領を召し上げられて、同族の細川藤孝が預かることとなった。
後に最上騒動と呼ばれる一連の出来事は、幕府が介入して一月も経たない内に解決した。幕府は改易した天童、延沢、細川の領地を一先ず蔵入地として義光に与るよう沙汰を下す。
「このまま羽州を鎮める」
そう宣言して景勝は北上、そのまま小野寺領内に入り、 輝道の属城・横手城に入った。そこに訪れた戸沢道盛が恭順を近い、仙北地方をも平定する。
かくして羽州平定軍は、瞬く間に過半を押さえてしまい、残すところは湊騒動を解決したばかりの安東氏だが、この解決手段に対して幕府は強硬姿勢に出る。
安東氏は鎌倉後期に檜山郡を治める檜山安東家と秋田郡に拠り出羽湊を治める湊安東家の二つに分裂していた。総領家は檜山家の方で、下国家とも称し、当主は愛季という人物だ。また湊家は上国家と言い、愛季の実弟・茂季が当主に就任している。事実上、安東家は愛季の下で統一されていると言っていいだろう。
それならば幕府が異を挟むことがないのではないかと思われるが、問題は分家筋だった湊安東家が京都扶持衆に名を連ね、檜山安東家は羽州探題に属する大名の一人に過ぎないということだった。つまり幕府ひいては将軍家から見た場合、総領家が陪臣なのに対し、分家は直臣に当たった。
これには出羽湊を領していた湊安東家の方が上方との繋がりが強かったという背景がある。湊騒動は檜山安東家と湊安東家の対立ではなく、愛季の意を受けた茂季が豊島郡の交易を制限したことに起因する。愛季の命により豊島郡を治める豊島玄蕃は対立、謀反を起こすことになった。対応に苦慮した茂季は自身だけでは対処できず、兄の手を借りて謀反を鎮圧したが、湊騒動自体は愛季の悪手によるものだと言えた。
「湊氏は京都扶持衆、その所領で起きた謀反を自力で治めることが敵わなかった。故に改易とし、その所領は幕府が没収する」
だからこそ幕府の方針は湊家の改易だった。謀反の原因が愛季にあるために騒動鎮圧の功績は認められず、茂季は京にて蟄居処分とし、愛季が陪臣から直臣に取り立てられることで事実上の安東家統一となったのである。
愛季もせっかく手に入れた土地を手放すことは不本意ではあったが、幕府の大軍の前には逆らえず、幕命を受諾することで所領安堵される道を選ばざるを得なかった。
これにより羽州は幕府軍の圧倒的な武威の前に僅か二ヶ月とかからず平定を迎えるのであった。短期間での平定は、まさに時代の変化を表しているかのようだった。
【続く】
明けましておめでとうございます。
更新を早くすると言いながら遅れに遅れてしまって申し訳ありません。仕事で店舗異動が重なり重なり、有り難い事に一段階出世をしたことでなかなか執筆の機会が得られませんでした。しかも今年に限って例年お休みだった元日も仕事という...
さてさて、そんな私事より本編です。
これにて羽州は平定されまして、幕府領となったのは最上八楯領の一部と湊安東氏領です。ちなみに安東領の北・津軽地方は奥州に分類されるために後1~2話ほど先で描く予定です。