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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第七章 ~鎮撫の大遠征・東国編~
159/199

第十一幕 黒川会談 ~奥州探題・伊達次郎晴宗見参!~

元亀四年(一五七三年)

一月


 前年、将軍・足利義輝の発した東西同時派兵“鎮撫の大遠征”により応永二十三年(一四一六)に起こった“上杉禅秀の乱”から続く関東の動乱は、ようやくの終息を迎えた。東国遠征軍を指揮する織田信長は関東に残って幕府の支配化を進め、前関東管領であった上杉謙信は、諸大名を引き連れて残る奥羽を平定する為に蘆名止々斎の居城・会津黒川城へと入った。


 この頃の奥羽は少しずつ上方の状勢に影響されつつあった。何故ならば、この奥羽地方は中央と切っても切れない関係にあったからだ。


 古くより奥羽は蝦夷の住まう土地であり、天皇を中心とした政権勢力と争っていた。この陣頭に立って軍を指揮していたが、旧来の呼び名は異なるも義輝が就いている征夷大将軍という役職である。


 蝦夷は征夷大将軍によって滅ぼされて奥羽は平定される。その後“前九年の役”と“後三年の役”と呼ばれる戦いを経て奥州藤原氏が誕生するも源平合戦で名高い“治承・寿永の乱”の余波を受け、藤原氏は源九郎義経と共に滅んだ。以後は武家政権が関東に置かれたことにより奥羽の状勢は安定、建武の新政を経て南北朝時代に突入すると奥羽も動乱に巻き込まれることになる。


 南北朝は足利幕府が支持する北朝勢力の勝利に終わり、奥羽にも足利氏の支配が及んだ。基本的に奥羽は鎌倉公方の統制下にあり、第二代鎌倉公方・足利氏満が実子を公方として送り込んでいた。しかし肝心の鎌倉公方自身が将軍と対立してしまい、東国全体が離反することを恐れた幕府は、鎌倉公方弱体化の為に奥羽の諸大名と直接に主従関係を結ぶ。これを京都扶持衆と呼ぶが、当然ながら扶持衆となった面々は己の正当性を主張すべく中央政権との係わり合いを深く持つようになっていった。


 そして義輝が将軍となった時代、奥羽は動乱の真っ最中だった。


 その頃の奥羽の中心は、伊達稙宗という男だった。伊達氏十四代目を継いだ稙宗は政略・軍略ともに優れた人物で、合戦に勝利しては身内を他家に送り込んで勢力を拡大していた。羽州探題を世襲する最上と戦って支配下に置き、時の権力者だった細川高国に取り入ってそれまで奥州探題を世襲してきた大崎氏に代わって新設された陸奥国守護に任じられ、代々大崎の当主が受領していた左京大夫へも就任する。その後、稙宗は大崎氏には実子を入嗣させて奥羽両探題を伊達氏の傘下に組み入れることに成功している。


 勢いに乗った稙宗は分国法“塵芥集”を制定して内部強化に努め、更なる勢力拡大に乗り出した。隣国・越後の守護であった上杉定実の継嗣問題に介入したのだ。但し、稙宗は思わぬところから足元を(すく)われる。


 稙宗と定実の思惑は一致し、一旦は上手く行きかけたものの嫡子・晴宗が反対の意向を示し、事もあろうか鷹狩りに赴いていた稙宗を急襲して幽閉してしまう。ところが稙宗派であった小梁川宗朝が稙宗を救出した事で、両者の対立は諸大名を巻き込んでの壮烈な争いに発展する。世に言う“天文の乱”である。


 乱は当初から伊達の家督に就き、諸大名を服従させてきた稙宗方が優勢であった。そのまま勝利するかと思いきや蘆名止々斎こと当時の盛氏が同じ稙宗方だった田村隆顕との間に不和が生じ、盛氏が晴宗方に転じた事で戦局は一変する。状勢の悪化から幕府の仲裁を受けることになった稙宗は家督を晴宗に譲って隠居し、奥羽は一応の平静を取り戻した。


 乱の終息によって伊達家の勢力は著しく減退した。晴宗方として勝利に貢献した蘆名や最上、相馬など有力大名は伊達家と肩を並べるまでに版図を拡大し、大崎や葛西に送り込まれていた稙宗の子らは動乱の最中に命を落とし、両家へ対する影響力は失われていった。更に晴宗は自身を支持してくれた家臣らに配慮する必要があり、守護不入権などの特権を認めざるを得なかった。


 そこから先の奥羽は、関東の北条や中国の毛利、九州の大友のような特出して大きな勢力が誕生することなく、群雄が割拠する時代が続いている。義輝が将軍に復帰して中央で大きく勢力を拡大していたものの纏まった勢力がないことから介入する者は出ず、互いの争いに終始するのみだった。


 その時代もようやく終わりが近づいてきた。庄内地方を治める大宝寺氏が義輝の北国遠征の余波で幕府に恭順すると、越後長尾氏と所領を接する蘆名止々斎は事態を重く捉えて、東国遠征に際して関東へ兵を入れたのである。止々斎は北条方であった那須氏を成敗して下野平定に貢献し、奥羽への水先案内人の立場を得たことで雪に埋もれて身動きの取れない奥羽諸大名の誰よりも先頭を走る事になった。


「奥羽の諸大名は直ちに矛を収め、黒川城に出頭せよ」


 止々斎の威勢は止まることを知らず、まるで自分が幕府の名代と云わんかの如く振舞い始めていた。かつて蘆名の上位に立っていた伊達晴宗は、その態度を苦々しく思い、対立関係にあり今では同盟関係にある田村隆顕も流石に止々斎に頭を下げるのには抵抗があった。もちろん他の大名たちも同様であるが、黒川城にいる幕府軍が四万という奥羽では極めて異例な大軍であることが止々斎の言葉を無視させなかった。


(あの軍勢を味方に付けることが出来れば……)


 目の前に抱えている問題を簡単に解決することが出来ると誰もが考えた。その代償が止々斎へ頭を下げること。それを良しとできるか否かであった。


「我が伊達家は蘆名殿と同様に京都扶持衆とし、上様の御意に従う意向にございます」


 均衡を破ったのは、伊達晴宗であった。京都扶持衆という立場を強調し、蘆名と同様の地位にあることを示しての参上だった。


「これは伊達殿、雪深き中の参上痛み入る。されど御当主たる左京大夫殿の御姿が見えぬが、如何なされた」

「左京大夫は生憎と体調が優れず、代わりに上様に大恩ある某が参上した次第にて」


 と晴宗は謙信の方を向いて深く頭を下げる。


 晴宗は天文の乱に於いて義輝の命に従い家督を継いでいる。つまりは義輝の命を遵守した立場であり、義輝の御蔭で家中の動乱が鎮まったことを“大恩”と称することで、忠心を強調した。また天文の乱は稙宗が越後上杉家の家督を得らんと画策したものを防いだという側面を持っており、その定実から越後の国主に擁立された謙信が今の立場に至るきっかけでもあるので、人事では済ませられない。


(さぁどう出る……、軍神よ)


 頭を下げたまま晴宗は注意だけを謙信へ向けた。


 晴宗は謙信を味方に取り込むことによって蘆名の傘下に組み込まれる事を避けよう考えていた。同時に当主の参上を避けることで、蘆名に伊達が頭を下げたという事実も有耶無耶に出来る狙いもある。後は謙信の出方を窺って、伊達が抱える懸案事項の解決に話を進めるだけだ。


「出頭せよと命じたのは、御当主に対してでござるぞ」


 それを見抜いた止々斎だからこそ謙信が言葉を発する前に再度、現当主・輝宗の出頭を強く求めた。そこからは何としても伊達の上位に立とうとする野心が見え隠れしていた。


「まぁ良いではないか。こうやって伊達殿がやって来てくれた事に儂は嬉しく思う」


 ただ止々斎の思惑など謙信は考慮する必要がなかった。止々斎の協力は有り難いが、今の幕府ひいては謙信には奥羽平定に止々斎の協力は絶対ではない。


 理由はどうあれ晴宗が恭順の意を示した事は、状勢に大きな影響を及ぼす。伊達という奥羽では大身の大名が真っ先に駆けつけた事は幸先の良い出来事なのだ。そもそも奥州南部は蘆名を盟主とする勢力と伊達を盟主とする連合が主である。しかも両者は対立関係にある訳ではないので、蘆名に続いて伊達が屈した事は大きな弾みになること間違いなかった。


「して伊達殿にお伺いしたい。まず我らが解決しなければならぬものは、何であるかな?」


 いま奥羽で抱えている問題が何かを率直に謙信は晴宗に尋ねた。


「それは最上の家督問題かと存じます」


 謙信の質問に対して、晴宗は間髪いれずに即答する。


 ここで本当なら別に切り出したい案件があるのだが、伊達が直接に関わることなので、余りにも露骨すぎる。そこで晴宗は黒川城からほど近い地域で、幕府から見た目線で問題になるだろう最上の家督問題を取り上げた。


「最上といえば二郎太郎殿が家督を継いだばかりと聞いているが、何か問題があるのか?」


 晴宗の回答に謙信は首をかしげた。何故ならば最上の家督問題は、謙信の中では終わっているという認識だったからだ。


 元亀元年(一五七〇)頃、確かに当時の当主だった最上義守と二郎太郎こと義光親子の間には諍いがあった。しかし家臣の氏家定直が仲介する事によって家督は無事に義光へ引き継がれることになり、翌年には義守が隠居して栄林と号して出家、正式に隠居した。


 謙信の認識は、そこで終わっている。


「家督相続は無事に行われております。されど家督を継いだ二郎太郎殿が家臣らに高圧的な態度で臨み、家中の支持を失っているのです。そこで前当主である栄林殿に助けを求める声が相次ぎ、一触即発ならぬ様相を呈しております」

「一触即発とは穏やかではないな。詳しく聞かせて頂きたい」


 謙信の求めに応じ、晴宗は最上を取り巻く情勢について語り始めた。どんな複雑な問題があるかと懸念したが、何て事はない。家督を引き継いだ義光が当主の権限を強めようと家中の引き締めを行った事で、今まで義守を中心に上手くやって来た者たちが反発しているとのことだ。


(よくある話よ)


 最上の現状は乱世では特に珍しくはなかった。単に規模が大きいか小さいかの差だ。


 晴宗の予想通り確かに放置すれば、誰かが決起して合戦に発展すると謙信も思う。晴宗の話を聞く限りでは先代の栄林方が優勢のように捉えられるし、大義も栄林方にあるように感じる。ただそれは、伊達が栄林方に肩入れしているからと推測も出来た。


(何よりも肝要なのは、二郎太郎殿が栄林殿と共に上洛し、上様に謁見したという事実。偏諱も二郎太郎殿に与えられているならば、家督は二郎太郎殿以外には有り得ん)


 義光は義輝に公認された存在で、それを否定するような結論を謙信が出せるはずもない。これからの世の在り方は、道理を以て治めていかなくてはならないのだ。ならば大義名分を義光に与え、力を貸してやればいい。さすれば義光は義輝の力で家督を守ったことになり、今後は意に服すだろう。


「相判った。最上は長く羽州探題として幕府を支えてきた。放ってはおけぬ。されば雪解けと共に兵を入れ、事を収めようではないか」

「何という有り難い御言葉か。流石は天下に武勇名高き左中将殿でござる」


 と言って大仰に平伏する晴宗。内心では上手く事が運んだとほくそ笑んでいることだろう。だが謙信は敢えて味方するとは明言をせず、曖昧な表現に留めた。


「ならば伊達が最上まで先導仕る故、伊達の武者振りを上様にお伝えあれ」


 言質を得られなかった晴宗は、揚々と胸を張って嬉々と宣言することで強引に事を進めようとする。


「御気遣い痛み入るが、それには及ばぬ」


 ところが晴宗の想定と違い、謙信からの回答は明確な拒否だった。


「確かに儂は上様の名代として奥羽を進む軍勢を指揮しておるが、羽州には別の者を向かわせるつもりだ」

「別の者?蘆名殿もしくは佐竹殿でござるか?」


 黒川城にいる上杉麾下の大身と言えば蘆名と佐竹である。他にも晴宗が名を聞いたことのある大名はいるが、役目を果たせそうなほど人数を引き連れている者はいない。


「浅井、蒲生、長尾ら四万五千ほどを越後に待機させてある。羽州は彼らに任せるつもりだ」

「四万……五千……!?」


 余りの衝撃に晴宗は不覚にも固まってしまった。


 素直に驚くべき数だった。黒川城にすら既に四万もの軍勢がいるのだ。つまり幕府は八万五〇〇〇もの軍勢を奥羽に投入したことになる。もちろん晴宗には幕府と対立する気はなく、同じように考える連中は決して少なくないが、仮に幕府と何らかの理由で敵対してしまった場合、その者は十万を超える大軍と戦わなければならなくなる。


(そんなものは不可能だ)


 晴宗にも奥羽で戦い抜いてきたとい自負がある。四万ほどの軍勢が相手なら、まだ取り込んで自らの思惑に導くことも不可能ではないと考えていた。この場に参上したことさえ、その目算があったからに他ならないのだ。その為に輝宗にも隠居した先代という自分の立場を利用するよう諭して出てきている。


 だが認識が甘かった。

 

 大軍を背景とした謙信の余裕は絶対的なもので、有象無象が如何に策を弄しても大勢に影響しない。かつて謙信が小田原を攻めた際とは違うのだ。同じ規模の軍勢を采配していても、その時の謙信の力は関東管領・上杉憲政の後継者という盟主的な存在でしかなく、今は関東から北部九州まで版図を広げた幕府の名代という絶対的な力に拠っている。皆が謙信の発した命令を不服と思えど従うしかない立場におり、絶対者として君臨した謙信は誰にも遠慮することなく義輝の命令を遂行できる。


 そうなれば謙信は己の強みを活かせる。そも謙信は上杉家中では毘沙門天の化身とし、独裁的な立場を有している。家中と同様に振る舞えるとなれば、後は結果を出すことに専念すればいい。


(蘆名殿が相手にされない訳だ)


 隣で不満げに口許を歪ませている止々斎を見て、晴宗は思った。


 止々斎の目論見も自分と大差ないのだろう。いち早く幕府に取り入り、奥羽を総代できる立場を得ようとしたものの手に入れたのは奥羽で有力な大名という何とも言えない立場のみ。


 ただそれもこの場に参上しない限り知り得ないことだ。奥羽の諸大名相手に尊大に振る舞っている止々斎の目論みは、今のところ伊達以外には通じているからだ。


(これは上杉殿を利用するより蘆名殿を利用した方がよいかもしれんな)


 と晴宗は即座に方針の転換を思案した。


 謙信の力を利用するとしたら、謙信の考えと自分の思惑が一致した時以外は不可能だ。しかし止々斎ならば、その野心に付け入ることは不可能ではない。伊達と今の蘆名が組めば、奥羽では第一の存在となる。


(これに二郎太郎殿も巻き込めば面白くなるな)


 晴宗は義光を詳しく知らないが、動きを見ている限り相当に野心が溢れる人物に思える。それでいて若く、このまま最上の発展が失われることは望んでいないはずだ。


(ならば儂が機会をくれてやろうて)


 伊達、蘆名、最上を連合して奥羽では最後の一花を咲かせる。かつて天文の乱にて諸大名の思惑を巧みに利用し、奥羽が産み出した傑物・稙宗に勝利したのは、紛れもなく自分なのだ。父が陸奥守護職という曖昧な立場で奥州での地位を手に入れたのと違い、自分は正式に奥州探題の地位に任じられている。父を越えたという認識は、確かにある。ならば今回の難局も乗り切って大きく伊達を発展させてやろうではないか。


「大義であった」


 晴宗の燃え滾らせる闘志を他所に会談は終わった。

 前言撤回です。


 前回、あと二話程度で東国編を終えると書きましたが、最近の更新頻度の悪化はどう考えても読者目線ではなかったと思いました。そこで初心に帰るわけではありませんが、現在の平均だった一万字弱という一話のペースを当初の五千字程度に戻し、複数の場面をいくつか描いて一話としていた構成を変更します。


 よって話数は増えますが、更新頻度を少し緩和するという事に切り替えます。極端に短くならない限り場面ごとに書いていきますので、残り何話になるかは判りませんが、投稿ペースは早めていこうかと思います。


 次回はまた謙信側を描き、区切りがついたら景勝&長政側も描きます。奥羽の武将たちは徐々に登場する予定です。

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