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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第七章 ~鎮撫の大遠征・東国編~
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第十幕 泰平への布石 -関東鎮撫す-

十月二十日。

下野国・宇都宮城


 奥羽平定軍の総大将・上杉謙信は、最初の目的地である宇都宮城を攻めていた。既に取り囲んでから二十日以上が経過しており、城に籠もる皆川山城守俊宗ら謀反方の勢力は兵力をすり減らしながら滅亡の時を待っていた。


「こちらには下野守がおるのだぞ!何故に謙信は手を緩めぬ!降伏を認めぬ!」


 俊宗の様子は平静を失って方針を二転三転し、ちょっとした事で周囲を怒鳴り散らすなど狼狽という言葉そのものだった。


(北条を破った幕府に勝てる訳がないではないか!)


 それも俊宗自身が最初から敗北を受け入れていたからである。


 そもそも俊宗らの目的は主家である宇都宮家から独立または家中を独占し、自らの権益を大きくすることにある。ただ自主独立を目指すには敵対勢力と目される上杉は大きく、北条という大勢力の力に拠るしか術はなかった。幕府という存在を忘れていた訳ではないが、今まで幕府が軍事的に関東へ関わってきた事はなく、織田勢を始めとする十数万の大軍を送ってくることは、完全に想定外だった。


「ともかく防ぐしかない。敵を城内に入れるな!」


 俊宗にとって幸いだったのは、上杉勢の寄せ手が織田信長のような大筒を使用した城攻めとは違い、従来のものであったことだ。とはいえ用いる兵力に差が有り過ぎた為に少しずつ縄張りを攻め落とされていく宇都宮城の本丸で、俊宗は滅亡の時を迎えるのを待つしかなかった。あわよくば幽閉している広綱の身柄を引き渡す事で所領の安堵を勝ち取ろうと画策するも一向に攻め手が勢いを弱める傾向は見えない。


「上杉殿に何とか申し開きを!誤解が生じたのじゃ!」


 幾度となく事情を説明する使者を俊宗は上杉方に送ったが、その全てが一刀の下に斬り伏せられている。


 小田原の陥落を受けて考えた幕府方への鞍替えは認められず、広綱を幽閉したことも病に臥せっていた故に已む無く静養して頂いていると言い繕い、岡本宗慶らを殺害した事は謀反を企てていた為と言い切った。所詮は死人に口なし、こちらの言い分を否定は出来ない。共に北条方として行動している佐野や那須を見捨てる形になるが、自らが生き残る為には仕方のない犠牲と割り切った。


「信用に値せぬ」


 だが謙信は問答無用で城攻めを開始を宣言、容赦なく日夜の猛攻が続けられている。一応は何とか耐え続けているものの次々と曲輪が落とされている現状は看過できず、もはや猶予がなくなりつつあった。


「下総守殿、どうする?」


 進退が窮まった俊宗は、立場を同じくする壬生下総守綱雄に相談を持ちかけた。


「……聞き入れてくれるか判らぬが、ここに至っては叔父上を頼る他はないかと」

「おおっ!徳雪斎殿ならば、信頼できる。すぐに頼む。助命が許されるなら、少しくらい所領が減っても構わぬ」


 綱雄の叔父・周長(かねたけ)こと徳雪斎は、長く宇都宮の軍師として発展に力を尽くしてきた人物だ。よって綱雄が俊宗と謀って宇都宮城を乗っ取った事を快く思わず、孤立する下野国内にて幕府方を貫いており、いま謙信に従って攻囲軍の中にいる。同族であるが故に繋ぎを取ることは難しくなく、その夜に密使を派遣して綱雄は和議の仲介を申し出た。徳雪斎は可愛い甥の命を救えるならばと快諾し、一両日中には返答することを伝えると上杉の本陣へ向かった。


「このような夜更けに徳雪斎殿が見えられたということは、ようやく動きがあったか」

「はい。先ほど甥の綱雄からの使者が訪れ、某に仲介を申し出て参りました」

「何もかも徳雪斎殿の申される通りとなったな」


 謙信は素直に徳雪斎の手並みを賞賛した。


 元から謙信は広綱の命を諦めていない。かといって謀反した者たちを許すほど寛容な心は、もう持ち合わせていない。そうなことをしなくても、既に関東での趨勢は決しているのだ。北条の脅威に晒されて已む無く寝返ったのならば一考の価値はあるが、野心という明らかな動機から行動を起こしたのならば手心を加えてやる必要もない。


「ここは某にお任せあれ」


 軍議の席で徳雪斎が述べた策は、謙信の意向に沿ったものであった。もちろん宇都宮家臣の申す事であるから重く受け止められ、徳雪斎の戦績が発言を後押ししていることはある。最終的には広綱の子・伊勢寿丸を保護する芳賀高定の合意を得て進められることになった。


 その策が上手くはまった。


「家中のこと故、合戦であれば上杉様には敵いませぬ」

「であってもだ。ここまで先が読める者は、そうおらぬ」


 合戦が始まる前に徳雪斎は、謀反人の一人に甥が含まれていることから追い詰められれば必ず自分を頼ってくると予測した。広綱の命は皆川方の生命線であるが故に殺されるようなことはなく、最悪の事態に陥っても子の伊勢寿丸の身柄は幕府方にあるのだから御家断絶の心配もない。であれば、まともな判断が出来なくなるくらいにまで追い詰め、藁に縋らせればよい。


 それが徳雪斎が謙信に進言した策である。


「では、後は手はず通りに。芳賀殿、同行を願えますかな?」

「無論のこと、ようやく殿を助け出せる時がやってきたのですな」


 高定は瞑想したように深く眼を閉じ、高鳴る呼吸を無理やり落ち着かせる。


 かつて広綱が幼少の頃、先代・尚綱の死を受けて幼君の補佐に徹し、御家を再興した高定にとって主は息子も同然。主従の境を越えた事はないが、病で苦しむ主を早く解放してやりたいという想いは誰よりも強かった。


「左中将様が降伏に同意なされ、城の引渡しは儂に任された。明日、山城守と共に儂のところへ出頭せよ。その後、儂の手勢が城へ入る」


 自陣へ戻った徳雪斎は、今後の段取りを城内へ伝えると謙信は策に従って包囲していた軍勢を遠ざけて囲みを解いた。その様子に徳雪斎を信じきった俊宗と綱雄は翌朝、指示通りに徳雪斎の陣中へ出頭してくる。


「此度は忝い。以後は叔父上の指図に従いとう存ずる」

「某も同じく、皆川のこと頼みまする」


 現れた二人は開口一番に謝意を延べ、丁重な姿勢で徳雪斎に頭を下げた。

 

「それは助かる。二人のことは上杉様からよくよく面倒を見るよう申し付けられておってな」


 そう言って笑みを浮かべる徳雪斎に安堵したのか、二人の強張った表情が少しずつ和らいでいった。昔話を交えてながら談笑し、緊張を解していく周到さは、まさに軍師の名に相応しいものだった。


「お主らの面倒は、冥土に送るまでしかと見届けねばならぬのだ」


 その時である。突然に陣幕が下ろされ、奥に隠れていた高定が完全武装された大勢の兵たちと共に現れた。既に抜き身の状態で握られた白刃には、驚愕する二人の顔が映し出されている。


「き……貴様は芳賀高定!」

「叔父上!これはどういうことでござるかッ!?」


 二人は揃って恐怖に声を上ずらせ、悲鳴を上げる。視線は右へ左へと慌しく移り、脱出の隙を窺うものの蟻の這い出る隙間もなく、逃げ道がまったくないことを思い知らされる。


「主家を蔑ろにしたこと、主君を足蹴にしたこと、罪のない岡本殿らを殺したこと、そなたらの罪を数えれば両の指では足りぬ。何故に助命が許されると思ったのか不思議でならぬ」


 冷徹な徳雪斎の言葉に二人は顔を引きつらせた。


「わ……、儂だけは助けてくれ!殿を幽閉したのも、岡本殿を殺したのも俊宗がやったことで儂ではない。今後は叔父上に従うし、家督も隠居して譲る!仏門にも入る故……」

「見苦しい!」


 瞬間、白刃が鮮血に染まる。


 涙声で徳雪斎の膝にすがり付く甥を徳雪斎は一瞥することなく刺し殺したのだ。


「貴様だけは楽に殺さぬぞ!殿の受けた苦しみを存分に味わうがいい」

「ひ……ひいッ!!」


 今度は後ずさりする俊宗に高定の白刃が迫る。その切っ先をゆっくりと俊宗の身体に沈め、苦しむ姿を眺めながら二度三度と突く。高定は声が聞こえなくなるまで俊宗を刺し続け、絶命するまで二十にも及ぶ刺し傷を付けた。


 まさに高定の怨念の深さ表しており、流石の徳雪斎も最後まで付き合い切れずに視線を外した程だった。


 その後、宇都宮城は幕府勢によって解放されて城内の奥深くに幽閉されていた広綱も救出された。ただ長い間に亘って不遇の生活を強いられた広綱の病状は悪化の一途を辿り、回復の兆しは見えずに伊勢寿丸への家督相続が行われることになる。その際に国綱と名前を変えて宇都宮氏二十二代目を継いだ幼君は、家臣らに支えられていくこととなった。


 また御家再興を果たした芳賀高定も謀反を防げなかった事を理由に隠居、家督は一族の高継に譲られて宇都宮の舵取りを担っていくことになる。


「さて、奥羽に進む前に足元から整えねばならぬな」


 宇都宮を取り戻した謙信は、早速に下野国内の平定にかかった。


 まず綱雄の子・義雄が籠もる壬生城を続けて攻めて陥落させて自害に追い込み、会津から南下する蘆名止々斎は那須資胤の烏山城を攻め、同じ那須七党の一角・大田原綱清の仲介で降伏させた。資胤は所領は没収となったが剃髪して隠居、資晴に家督を譲る条件にて、屋島の戦いで扇の的を射落とした那須与一の血族は家名の存続を許された。


 また唐沢山城の佐野昌綱も助命と引き換えに家督を息子に譲り、人質を差し出すことを条件に許された。ただ再びの謀反を警戒する謙信は“もはや泰平の世に堅城は必要なし”として城の破却を命じ、二度と昌綱が刃向かえなくなるよう処置を施すに至る。佐野家は唐沢山城という難攻不落の要害があればこそ許された存続であった。


 再び宇都宮城に戻って蘆名止々斎を迎えた謙信は、ここで佐竹義重らと合流、雪がチラつき始める中で止々斎の本拠がある会津黒川城へ進み、年を越すことになる。


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十月二十九日。

武蔵国・江戸城


 順調に関東を制し、自身が東国の中心とまで言い切った江戸城に織田信長は留まっていた。かの大田道灌が築城した重要拠点であるも現在の規模はさほど大きくなく、あちこちで荒廃も進んでいた。信長は周辺から材木や石材を集めて修築にかかり、本丸から二ノ丸、三ノ丸など他にも多数の曲輪を設ける徹底振りで、かつての二条城普請を思わせる突貫普請で城郭が造られていった。


「商人たちを集めよ」


 その最中、信長は突然に伊勢氏規を通じて関東の商人たちを集めさせた。しかも北条と懇意にしていた商人たちも構わずに集められ、彼らは驚きつつも新たな儲け話かと既にあった予定を断って江戸に籠を走らせた。


 彼らが集まるのに命を下してから三日とかからなかった。そして召集に動いた氏規にも信長は同席を命じる。


(商人たちを集めて何をしようというのだ。普請の資材集めか?それとも奥羽攻めの兵糧でも調達するつもりか?)


 信長の意図を氏規は掴めずにいた。


 このような突貫普請は氏規も見たことがなく、規模からして資材が充分に足りているとは思えなかった。また兵糧についても幕府軍は大軍であるから維持だけでも相当量が必要となる。稲刈りが終わったばかりの関東では今は米が余っている状態で、調達しようとすれば出来る。ただ如何に豪商と呼ばれる者でも十数万ともなる幕府軍の兵糧を調達するのは難しく、故の召集かと氏規は思った。


「流石は利に聡い者どもよ」


 商人たちの素早さは何処も変わらないことに安心したのか、信長は開口一番に彼らを褒め称えた。


「集まって貰ったのは他でもない。お主らにやって貰いたい事がある」


 信長は前置きも一切なく、彼らが何処のどういった商人なのかすら尋ねることなく単刀直入に用件を切り出した。


「北条が滅び、先日に上杉が宇都宮を奪還した事で関東は全て平定された。このまま我らが東国全てを従えるのも然して時はかかるまい。この事、いち早く九州へ伝えられる者はおるか」


 信長の報せの後、商人たちからは“おおっー”という感嘆の息が漏れた。


 耳の早い商人たちも関東中に情報網は張り巡らせてある。武家や同業者と繋がり、利益を見逃さないための手段は講じているのだ。その網を以ってしても関東が平定されたことを知る者は少なく、長らく争乱が続いていた関東が幕府軍の介入で瞬く間に平定されるなど予測できなかった。ましてや東国の完全平定まで信長が視野に入れていると知っている者など皆無である。


「お……畏れながら、織田様が奥羽へ兵を入れられるのはいつ頃でありましょうや?教えて頂けたならば、この池谷肥前、全力を以って支援させて頂きます」


 一番に名乗りを上げたのは、旧上田家臣で江戸近くの新宿で問屋を営む池谷肥前とう商人であった。これから奥羽へ遠征する幕府軍は何かと物入りである。ここで名を売って一儲けしようとの魂胆であることは見え見えだった。


「他に誰かおらぬか」


 だが求めていた回答を成さなかった池谷肥前を信長は一瞥すると取り合うことなく、他に視線を向けた。その鋭い視線に池谷肥前はたじろぎ、この場にて二度と口を開くことはなかった。


「九州へでしたら、十日もあれば報せて見せましょう」

「そちは?」

「武蔵金沢で廻船問屋を営んでおります山口越後と申します」


 江戸湾の水運に強い力を持ち、流通業を営んで北条や里見など複数の勢力から利権を認められている豪商の一人である。また山口越後は自ら大名に歩み寄って利益をチラつかせることで商売の保護を勝ち取っていることから、情報の分析にも優れていた。


 故に信長が何故に九州へ東国の情報を伝えようとしているかまでは掴めないものの、この場にて信長に何を言わなければいけないかは判っていた。


 それを抜きにしても幕府支配域の拡大は、航路の拡大と安定に繋がる。大名同士の争いの中を生きてきた山口越後にとって、これほど楽なことはない。


「山口越後と申したか。廻船問屋ならば奥羽の品々も数多く取り扱っておるか?」

「もちろんにございます」

「ならば、それらも持って行け」

「畏まりました。して、九州の何処へ伝えれば宜しいのでしょう」

「何処へでも構わぬ。九州のあらゆる湊に荷を卸し、東国の実情を広めてくれればよい」


 情報を広めるだけで、信長の狙いは成立する。そこから先は信長の範疇ではない。後は九州へ赴いている義輝が上手く扱うであろう。


(なるほど……、東国は西国に比べて出陣が早かった分だけ成果が上がるのも早かった。恐らく九州は、いま合戦が始まったばかりであろう。そこで関東が平定されたと知ったなら、大友の士気は下がり、離反する者も多く出るであろうな)


 ようやく信長の狙いを理解した氏規は、東国の平定を担いながら遠く九州へまで視野を広げている信長の凄さを改めて感じた。そして義輝が何故に信長を自らの名代として遣わせたのかを知る事になった。


(伊勢公方様を総大将に据えるという方法もあったにも関わらず、そうされなかった。上様は信長ならば関東に居ながらも九州を支援できると思われていたのかもしれんな)


 信長は独断専行という危険性も孕んでいる。それでも義輝が信長を重用しているのは、己と近い視点を持っているからに他ならない。確実に信長は任せた以上のことをやってくれる。これが義氏ならば、成果が上がらないとまでは言わないまでも、唯々諾々と主命を果すことだけに終始するだろう。


 明確に何をどうするかなどまで判っていた訳ではないだろうが、東国という広大な地域の平定を任せるのは、織田信長という武将以外に適任者がいなかったのは事実だ。


 織田信長という男は、総大将を任せた方がより能力を発揮する。縛り付けておくのは、宝の持ち腐れ。この一連の戦いで、氏規はそれを嫌でも知ることになった。


「時に左馬助殿」


 商人たちを下がらせ、氏規と二人になった信長が唐突に話しかけてきた。


「北条は風魔という忍びを飼っていたと聞く」

「…如何にも。相模国足柄下郡の風魔谷を根拠とした一党だ」

「無論、今も飼い馴らしておろうな」


 信長の鋭い視線が氏規を突き刺す。


 確かに風魔は北条の傘下にあり、今後は不明ながらも一時的に風魔は氏規の下に付いていた。これは別に野心あってのことではなく、風魔に限らず北条に仕えていた者が自然と氏規を頼りとしてきただけである。


 氏規は内心、ひやりとしていた。


「そのように身を硬くするな。別に咎めようという訳ではない」

「ではどういうつもりか?風魔の事を知って、どうするつもりなのだ?」

「儂は関東に伝手がない。ならば現地の者を頼る他はあるまいて。人を探して貰いたいのだ」

「人?誰を探せと言うのだ」

「松永久秀よ」


 その名を聞き、先程までの態度を改めて氏規は唾を飲み込んだ。


 天下の逆賊・松永久秀は将軍・足利義輝の宿敵と言っても過言ではない。三好長慶の家宰として長く義輝を苦しめ、その暗殺までを計画、実行した張本人で、元亀擾乱では武田信玄の計画に便乗して謀反方を掌握したほど知略と謀略に長けた人物だ。


 現時点で久秀の消息は、伊勢の大湊から船に乗ったという情報のみを最後に絶たれている。地理的に東国へ逃れた可能性が高く、信長は義輝の命令で北条と戦う傍らで行方を追っていたものの手掛かり一つなく、追跡に限界が生じ始めていた。ならばと関東で情報網を張り巡らしている風魔を頼ろうと考えたのである。


「見つかればすぐに上様へご報告を申し上げられるよう段取りは整えた。奥羽へ逃れている懸念も捨てきれぬが、まずは関東におるのかおらぬのかをはっきりとさせたい。奥羽は、上杉殿が血眼になって探すだろうて」


 そう言われて氏規はハッと気が付いた。


 先程の商人とのやり取りは、何も東国平定の報せを九州に送って義輝を援けるだけに終わるものでなかった。久秀の情報を送り、東国と九州のどちらかに潜伏していると思われる久秀を追い詰める思惑もあったのである。


「あやつの性格は、余がよく知っておる。このまま黙って世間から身を隠し、ひっそりと余生を過ごすような輩ではない。確実に余へ復讐を企んでおる。ならば先の戦いで目下にあった謀反の芽を摘んだ今、間違いなく東国か九州に逃げているはずだ」


 久秀が義輝の性格をよく知るように、義輝も久秀を熟知している。だからこそ幕府の影響力が及ぶ範囲で隠れていることはないと断言し、信長が東国へ出陣する前に捜索を命じたのである。


「奴の首に上様は甚く執着されておる。討ち取れば北条の再興、叶うやも知れんぞ?」


 信長は氏規を誘うようにして口角を緩めた。それを苦々しく思いながらも氏規は、信長の誘いに乗るしかはなかった。別段、拒否する理由もなかったのもある。


「小太郎に命じよう。風魔の力を使えば、関東に潜伏していれば間違いなく見付けられるはずだ」


 その自信が風魔の力を知る氏規にはあった。


 如何に久秀が有能であっても、ここは畿内ではなく関東である。そこでは長く根を生やしている者の方が有利だ。しかも北条は一時的とはいえ、関八州全てに対して所領を得ていたほど広大な地域に根を下ろしており、敵情を調べていた風魔の活動範囲は、もっと広い。


「されば久秀の捜索は風魔に任せるとして、左馬助殿には別の役割を担って頂きたい」


 と話はいきなり打ち切られた。決を下した話は長々としない。この辺り信長の合理的な性格が、よく表れていた。


「北条では代替わりの度に検地を行っていたと聞いているが、最後に行ったのは何年のことになる?」

「兄の左京大夫が家督を継いだ際であるから、永禄二年(一五五九)のことだ」

「ふむ。ならば十年以上も前になるな」


 と信長は思案に耽り始めた。


 乱世と呼ばれる如く、この百年は特に大名間の争いが全国で絶えなかった。農民の多くも狩り出され、各地の田畑は荒らされた。ただ同時に他国に負けないよう諸大名は新田開発を奨励していた。故に乱世でありながらも田畑の獲高は飛躍的に向上している。


 ただ国力を正確に把握している大名は意外に少ない。それは多くの大名が守護として在地領主つまりは国人と呼ばれる層を統括する立場であった為だ。守護は国人層を被官化し、領民を間接的に統治しているも本来は徴税する立場の守護と利権を直接に握る国人の権益は対立する関係にある。故に守護は国人の権益を一定範囲の下に認める代わりに軍事力を供与させて利害関係を結んでいた。これが破綻に至る場合もあり、時に国人層は守護に反発して敵対行動を採った。その中で力を付けた一部の者が守護を倒して一国を得てしまう事例も少なからず存在し、その代表的な例としては西国の毛利や四国の長宗我部などが挙げられる。


 そして検地とは、彼ら国人層の利権がどれほどの物であるかを測る行為なのである。誰もが懐事情は晒したくない。故に反発が強く、場合によっては他国に隙を見せることにもなる。それが多くの大名が検地をやりたくてもやれない理由であった。では何故に幕府は検地を行えているのかと言えば、圧倒的な軍事力が背景にあるからだ。


 国人は云わば在地領主に過ぎず、国人単体での力では大名に敵わない。ただ検地を行えば他の国人も次は自分の番ではないかと恐れるために国人層は周囲と諮って連合してしまう。そうなってしまうと大名側も自分の身が危うくなり、安易に検地を行えない。しかし、幕府は京畿七カ国を支配した頃より軍事力が増大し、国人層が連合した程度では敵わない存在になってしまったので、検地を行えるに至っているのだ。


 また織田家や北条家は逆に新たな土地を切り取り、在地領主が存在しないか入れ替わるか力を弱めている時を狙って検地を試みているために、国力を正確に把握することが出来ていた。


「関東が平定された今、検地を行うには頃合であろう」


 信長が発言する通りに今がまさにその時であった。


 関東の在地領主たちは幕府軍によって一掃され、その上で十万の軍事力を有する織田が検地を行うとあっては逆らえる者はおらず、速やかに測量することが可能と予測される。


 問題があるとすれば、行うのが幕府ではなく織田信長だということだ。幕府に従っているとはいえ、織田は外様である。石高の流出は可能ならば避けたい。


「確かに検地を行う必要はあろう。されど上様からの命は下っておらぬ」


 故に氏規は義輝の名を出すことで、信長に制止を促した。これを受けて信長は大きく溜息を一つ吐くと“やれやれ”と呟いて何かを決意したように氏規へ問いかけた。


「そなたが儂を警戒するのは判るが、もう少し肩の力を抜け。そなたは北条の出であろう」


 北条の出、それが何の関係があるというのか。いつも端的な信長の言葉に氏規の思考は付いていけていなかった。もちろん信長の氏規の反応を直に受けて、更なる言葉の必要性を感じていた。


「我ら武家の役割は、民草に安心を与えることであろう。いま幕府という新たな支配者に民草は不安を抱いておる。何故か判るか。それは北条の政が民草を慈しむものであったが故ぞ」


 余りにも以外な言葉だった。北条を滅ぼした張本人から、北条を認めるような言葉を聞くとは思わなかった。北条が民草を慈しんだから、いま民草は不安に駆られていると信長は指摘する。


 唖然とする氏規に構わず信長は話を続ける。


「検地は云わば税を定めるものじゃ。逆に申せば、武家が民草にこれ以上の税は取らぬと約することでもある。今ならば北条をよく知るそなたが検地を仕切れよう。その上で税を定めれば、それは即ち幕府の決定に他ならぬ。如何に上様であれ、幕府の決定は易々と覆せぬ」


 大胆な物言いだった。しかし、主君を軽んじる行いに氏規は自然と腹が立たなかった。やはり自分は幕臣たる伊勢ではなく関東で覇を唱えた北条の人間なのだと改めて実感する。


“民草に安心を与えること”そう信長は言い切った。


 確かに信長の言う通り民草は幕府の統治に不安を抱えている。北条の統治は民の支持されており、古河公方や山内上杉、佐竹や里見など諸勢力が大義を得て数で勝りながらも北条に勝てなかったのは、圧倒的に民の支持が北条にあったからだ。


 結局、何処の歴史を振り返っても最終的に勝利者となる者は民草の支持を得ていた。民草を軽んじた者は、一時の栄華を誇れたとしても必ず潰えている。だからこそ、それを知っていた伊勢宗瑞は民草を慈しんだ。そのように宗瑞が思うようになったのも応仁の乱が民草を無視した権力闘争だったからに違いない。あの時代、民草は飢饉で困窮に喘いでいたにも関わらず、武家は争いを止めなかった。その後、宗瑞は奉公衆に名を連ねるも駿河に下向し、その地に留まることになる。


 それこそが北条の成り立ち。まさか信長に思い起こされることになるとは思わなかった。


 そして北条が定める税は幕府の定めるものに比べて軽い。とはいえ幕府が重税を課しているということはなく、あくまで北条と比較した場合の話だ。それでも民草にとっては負担に感じるだろう。その上、いま幕府は関東と奥羽を含む東国と九州を攻めている。幕府の方針に従えば検地を行うことは既定路線であるも、該当地域が広大であり、検地奉行の氏規と言えど全てを担当するのは不可能である。必ず余人の手を借りる必要がある。 


 ただ簡単に首を縦に振るわけにはいかない。義輝の意向に逆らう事にはならないにしても独断専行であるのは間違いないのだ。


「……生まれた家が滅びたというのに見上げた忠義よ。案ずるな、これは総大将としての命である」


 暫しの睨み合いが続いた後、黙ったままの氏規の心中を察して信長は責任の所在を明確にした。


「狐に摘ままれたような顔だな。不安ならば、書き付けも用意するが?」


 と、信長は氏規へ決断を迫る。そこまで言われれば氏規も断る理由はない。北条を愛し、関東の民を慈しんできた心は今も変わりないのだから。


「相判った。どちらにしろ早かれ遅かれ検地は行うのだ。ならば今の方がやり易かろう」


 結局は信長の思い通りに事が進むことになったが、氏規は悪い気はしていなかった。信長も氏規の回答に珍しく満足そうに頷くと“思案すべきことがある”と言って氏規すら下がらせた。


(さて、後は家康をどのように納得させるかだが……)


 一人、広間に残った信長は虚空に視線を向けて思慮に耽る。


 関東が平定され、奥羽も近いうちに幕府の支配域に組み込まれる。九州の状勢は不明だが、義輝の抱える軍勢に大友が太刀打ち出来るとは思えない。ならば信長による天下平定に於ける戦いの役割は、もう終えたと言っていい。


 この先に織田信長が見据えるものは、南蛮との戦い。直接に矛を交えるかどうかは別として、備えを怠る訳にはいかない。幸いにも上杉謙信は、南蛮の脅威を感じ取ることが出来た。天下一統後は上洛して役目に励むだろう。自分も西に眼を向けなくてはならない。ならば、東国は誰が維持するのか。


 間違いなく足利公方ではない。鎌倉公方の反発の歴史を義輝は知っており、東国へ公方を据えることは日ノ本を東西二つに分け隔てる事になると考えている。ならば直接統治できるかといえば、それほど幕府の人材は豊富ではなく、せいぜい京畿一帯を直轄領として維持するのが精一杯であろうし、有能な者は一国の主として京畿に通じる要衝を任せなければならない。ということは、他に東国を委ねられる人物に託すしかないのだ。


 論功行賞で間違いなく上杉は関東で所領を得る事になるだろうが、謙信は在国して統治をすることはないだろう。ならば上杉を継ぐであろうと目されている景勝となるが、若年の景勝に東国の采配を託すほど信長は短絡的ではない。


 そうした時に信長が信じるに足る男は、乱世の中で一人・徳川家康を於いて他にいなかった。


 家康の力量は、当人が思っているより信長は買っているつもりだ。現に“坂東太郎”と称される佐竹義重とて家康は容易く御しており、その力量を示している。徳川が関東に相応の所領を得られれば、その影響力は少なからず出る。家康は若く、まだ先があるので、時間をかけて行けば東国を差配する立場になるのも不可能ではない。


 宇内球を所持していた信長は知っている。日ノ本の東には広大な海が広がっており、南蛮の脅威が及ぶとしたら西国となることを。ならば東国は日ノ本の兵糧庫となり、兵站を担う役割を自然と持つようになる。そして兵站は、軍の肝である。家康ならば、十二分に成果を出すだろう。


 残る問題は家康が転封を承知するかどうかだ。東国に影響力を持つ程の所領を得るには、現在の三河と遠江二カ国を返上した方が得られる土地は大きくなる。それこそ信長は、この江戸を家康に任せたいと考えている。


(されど家康は土地に縛られ過ぎる)


 人質時代が長かった所為か、家康は故地である三河に執着する傾向がある。ずっと三河を思い続けて青年期を生きてきたのだから無理もないのだが、あの類稀なる才能は、そのままにしておくには惜しいものがある。家康が日ノ本という単位で国を考えられるようになったのなら、この国は大きく発展するでだろう。


 もちろん良い兆候もある。


 家康の良いところは、実学を好み、様々な書物から学んでいるだけに止まらずに良いと思ったものを素直に模範できるところである。三河武士の矜持を軸としながらも織田信長や武田信玄に倣っている。これは実際、他家の領地で検証されて実用性の高いと判断したものを取り入れているので、当然ながら徳川領でも一定の成果を得ている。


 そして家康は、信長に倣って本拠を岡崎から浜松へ移した。これは信長からの視点で大きな進歩であった。


(じっくり家康と話をする必要があるな)


 この東国を如何にして維持していくか。それこそ泰平を現実のものとする大きな柱となるだろう。 


 織田信長の中で、天下平定が新たな局面に移行した瞬間だった。




【続く】

 大変にお待たせいたしました。仕事が忙しすぎて、このていたらくでございます。申し訳ありません。


 今回も特に信長の私見が垣間見られた場面が多くありました。これも筆者の信長観となりまして、特に江戸を家康に任せるという決断も史実を知ってのこじつけに映るかとは思いますが、信長視点で本当に家康以外に任せられる人物がいないという理由からです。もちろん話を受けるかどうかは家康次第となってきますが....


 今回で関東の話は終了となり、部隊を奥羽へ移して参ります。ただ奥羽の決着は軍勢の規模から早いです。時期的に九州での話も相当に進んでいる時間軸ではなりますが、その辺りは殆ど触れずに東国編を終わらせるまで書こうと考えています。と言っても後二話程度で東国編は終わる予定なのですが。


 せめて年内までには東国編を終わらせ、来年こそ剣聖将軍記を完結させたく考えています。更新を気長に待って頂いた方々には感謝を申し上げ、次話更新に全力を注ぎたいと思います。

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