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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第七章 ~鎮撫の大遠征・東国編~
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第九幕 関東平定戦 -淘汰される思惑-

十月二日。

相模国・鎌倉


先日の鎌倉軍議以来に奥羽へ進む大名たちは競って鎌倉を発ち、各々の主命を果たすべく北へと歩を進めていった。残されたのは関東平定を担う織田と徳川に武田の軍勢、北条方との連絡役として伊勢氏規の軍勢だ。


「左馬助殿、色好い返事は届いておろうか」

「これは権少将殿、ご案じ召されるな」


その氏規の陣地を徳川家康が訊ねた。


小田原城が落ち、北条家が事実上で滅んだ事により関東は騒然となっていた。北条に属していた者たちの大半が小田原に詰めていたことで、降伏と同時に幕府へ従う事になったのだが、降将の領地をそのまま安堵するほど信長は優しくない。


「概ね城を開けるという返答を寄越しておる。一部、頑なな阿呆はおるがな」

「時勢が見えておらぬのか。まぁ庇ってやる義理はないな」


家康は氏規が関東各地に点在している北条に従っていた者たちへ対する誘降工作の進捗を伺いに来たのだ。


北条が滅んだ事は、もはや既成事実として関東では知られ始めている。未だに真偽を疑う者も少なからずいるが、時間の経過と共に考えを改める者が大半だ。


関東に残留する幕府軍の指揮権を握る信長の方針は、まずは城を開けさせること。また城を開けぬ者については軍勢を差し向け、武威を用いて制圧することの二点にあった。当然、所領については没収が前提だ。


「して、何れかが拒んでおるのだ?」

「下総の小金、臼井など主に千葉の諸城だな。ただ城主ら千葉の被官どもは小田原で我らに降伏しておる。城主の命がない故に判断できぬだけであって、時間の問題であろう」

「江戸はどうじゃ?」

「江戸?江戸は遠山右衛門大夫が城代で治めておったはずだが、今のところ返答はないな」


武蔵国の拠点・江戸城は北条家の直轄領であり、長く遠山氏が城代として治めていた。現当主は政景であり、先の関宿合戦にも参陣している。城代という身分ではあるものの同国・比企郡野本、入西郡若林を所領に持ち、北条家でも動員できる兵の数は多い方である。


この江戸城は房総方面への重要拠点であったが、里見家の降伏により脅威は薄れて城主が氏政から北条綱成の子・孫二郎氏秀に代わっていた。これまでは北条当主が城主を務めていたことで在城することはなかったが、氏秀に代わってからは城主が在城することになり、城代だった政景は東の葛西城への移動を命じられている。


もちろん昨今の細かい事情など長く上方にいた氏規が知る由もない。


「明日、織田殿が江戸へ向かわれることになった。もし降伏がまだならば、急がせた方がよい」

「大納言殿が江戸に?」


信長は関東へ一切の興味がないと考えていた氏規は首を傾げて訝しがった。


「江戸は利根川や荒川など大河が流れ北関東からの水運が開け、海に面しておる。浅草や品川など湊も近く、西国や奥州との交易も盛ん。東国の中心となるべき土地と、織田殿は考えておるようだ」

「東国の中心は、鎌倉ではないのか?」

「鎌倉は狭すぎる、とのことだ」


源頼朝が鎌倉に拠点を置き、源頼義か鶴岡八幡宮を創建したことから鎌倉は源氏の聖地とも呼べる土地となった。平氏である北条得宗家も鎌倉を天下の中枢とし、京へ幕府を移した足利尊氏も鎌倉を府とし、武家の都として扱い続けた。かくいう北条も小田原に本拠を置いたものの鎌倉公方を戴き、重要拠点とするだけでなく鶴岡八幡宮の再建にも力を入れている。


その鎌倉を“狭すぎる”の一言で信長は一蹴した。


確かに江戸の重要性は氏規にも判る。だが鎌倉と比べれば、明らかに鎌倉が勝った。ましてや東国の中心になるとまでは思えない。


(一体なんなのだ!信長という男は!!)


小田原での事といい、信長に振り回されっぱなしの氏規は表情には出さず、密かに心の中で憤慨する。


同時に、なるほど家康は信長の為に自分の許を訪れたのかと思った。これから江戸に向かう盟友の手を煩わせたくはないのだ。もし氏規の手で穏便に江戸が手には入るなら、その方がよい。


(ここは手を貸しておくか)


関東平定後、氏規の影響力を残すには手柄を立てるしかない。功第一は小田原を落とした信長に揺るぎないが、伝手を使って平定に貢献すれば、上杉謙信に続いて三番手には入れるかもしれない。


(せめて相模か伊豆の何れかは賜りたい)


氏規の所領が河内にある以上、二カ国の拝領は難しいだろう。しか北条に所縁のある相模か伊豆のどちらかであれば、与えられる可能性はある。自分の手にあれば、後々に国王丸が元服して御家再興が許されたなら、父祖代々の地に立たせてやることも叶うかもしれない。


それが北条という家に対して何も出来なかった氏規の償いとなる。実際に北条が滅び、その想いは一層と強くなった。


「右衛門大夫殿はおられるか」


家康と別れた後に鎌倉に留め置かれている遠山政景を訪ねた氏規は、江戸開城に力を尽くしてくれるよう頼んだ。


「江戸はいま孫二郎様が城主を務めておられます。某から頼むより左馬助様が動かれた方が早いかと存じますが」

「孫二郎が?それなら話しは早い」


氏秀が城主と聞き、氏規は喜んだ。実は氏規の室は綱成の娘であり、氏規と氏秀は義兄弟に当たる。さらに氏規の直接の身内となれば、降伏後に家臣として召し抱える事も許されるかもしれない。一人でも多くの身内を救いたい氏規にとって、願ったり叶ったりの状況であった。


その日の内に早馬を走らせ、信長へ同行を求めて許された氏規は、三日後に江戸表に到着すると開城の使者を城内に送り込んだ。


その使者を務めたのは、鉢形城で謙信に降伏した北条氏邦であった。


「どうしても降伏できないと申すのか」


ただ氏秀の反応は予想と違って拒否だった。


「何故に降伏せぬ。もう小田原は落ち、あにう……いや、御本城様も自害なされた。ここで意地を張っても意味はなかろう」

「意味はございます。それに地黄八幡の子として、父上の仇に頭を垂れることは出来ませぬ」


氏秀は口を真一文字に閉じ、頑なに説得を拒む。聞けば重臣ら一同が降伏を勧めても耳を貸さなかったらしく、一族の氏邦をもってしても説得は失敗に終わってしまう。


「降伏を受け入れぬのならば構わぬ。大筒の支度をせい」


報告を受けた信長は、即座に城攻めの支度を整えるよう全軍に命を下す。小田原城さえ落とした大筒の力を使えば、江戸城は瞬く間に落ちる。その前に何としても氏秀を翻意させる必要があった。


氏規は信長に黙って城内に自ら赴くことにした。それに伴って氏秀説得を兄の氏繁へ協力を呼びかけた。


「構わぬ。どうやら弟は勘違いをしておるようだ。任されよ」


そう言って氏繁は快諾、二人は翌朝に城攻めを控える江戸城へ共に乗り込んだ。


「見損なった。まさか兄上が父上の仇の走狗に成り果てるとは……」


開口一番、氏秀は対面した兄に対して侮蔑の言葉を吐いた。一方で氏繁は気にする様子もなく、溜息を一つつくと真っ直ぐに弟を見据えて言葉を発した。


「確かに父上は上杉と戦って死んだ。上杉に討たれたことに間違いはない」

「然様、父上は命を懸けて関宿合戦の勝利に貢献された。ここで幕府の軍門に降れば、泉下の父上に申し開きが出来ぬ。それを兄上は何とも思わぬのですか?」

「お前は勘違いしておる。父上が命を懸けて守ったのは北条という家だ。元々父上は、戦端を開くこと自体に反対であったのだ」

「何を莫迦なことを……」

「何度でも申すが、お前は勘違いをしておる。合戦に参加していないに故に知るまいが、御先代様は幕府に従われるつもりだったのだ。その意思を、父上と尾張守だけが知っておった。知った上で御本城様の意向に沿い、何とか合戦に勝利して和睦の道を探ろうとなされていた」

「その話は真でありましょうや」

「何故に儂がお主に偽りを申さねばならぬ」


氏秀は兄の言葉に大きく心を揺らした。端から幕府軍に勝てるとは思っていない。ならば徹底抗戦の後に華々しく散り、泉下の父に"ようやった"と褒められたい、その一心から抵抗を続けていた。


その心を兄が揺らす。


「いま北条という家は岐路に立っておる。左馬助殿が北条の今を背負っておられる。ここで一族の血を絶やすことを父上は求めておらぬ」


氏繁とて現状に満足している訳ではない。悔しい気持ちは弟と同じだった。違いは家督の重み。北条本家ほどではないが、氏繁も地黄八幡の家を背負っている。決して少なくない家臣たちを抱えている。弟のように感情を優先させられる立場にないのだ。


「もしお前が幕府に与した左馬助殿に仕えるのも嫌だと申すなら、儂を支えてはくれまいか。地黄八幡の家は、儂一人で背負うのは余りにも大きい」


偉大なる父を持つ重みを氏規同様に氏繁も感じている。そして氏秀もまた、父のように在りたいと思う一人であった。


「未熟な弟でございますが、兄上を支えさせて下され」


深く深く氏秀が頭を垂れた。


かくして地黄八幡の一族は氏規に従うことを決め、江戸は織田信長に明け渡されたのだった。


=====================================


十月十三日。

下総国・本佐倉城


織田軍が江戸へ向かった頃、関東各地にも幕府の兵が進んでいた。


織田信重を総大将とする軍勢三万は鎌倉に留まりつつ相模に残る北条方の城へ河尻秀隆など腹心を派遣、徳川家康は常陸へ進み、武田義信は信濃勢と共に下総から上総へ進んだ。


「北条が降ったというのは判るが、呆気なさ過ぎはせんか」


千葉の諸城は抵抗の意思あり、と伝え聞いていた義信はそれなりの犠牲を払う覚悟をしていたものの次々と落城する城に拍子抜けしていた。長く北条という大樹に寄ってきた千葉の者たちからすれば、関東の覇者であった北条が破れるとは夢にも思っていなかったのだろう。だからこそ城を守る兵が少なくとも抗戦の意思を示したのだ。


この辺り氏規の予測が正確であったのは、より事情に精通しているかどうかの違いだろう。


「まことに……、千葉の奴輩は意地も誇りも北条に売り払っていたということでしょう」


主の感想を受けて、山県昌景が頷いて同意を表した。


小田原が落ち、いざ進んで来る敵の大軍を前にすると嫌でも現実を突き付けられたのだと思われた。各地に籠っている兵は百や二百ばかりで、居城の本佐倉城ですら五百にも満たず、自分たちだけで守りきれると本気で考えていたとは思えなかった。


故に義信が下総を平定して上総に至るまで一月もかからなかった。余りにも呆気ないので果たして戦功として認められるのか陣中では疑問の声が上がったほどだ。とはいえ判断するのは義輝であるので、いま議論すべきではないと義信は捨て置いた。


「庁南との繋ぎはどうなっておる」


次なる目標地へ家臣たちの意識を向け、占領した本佐倉城にて軍議に入った。


下総を平定した武田軍の残る役目は上総の平定である。上総は里見氏が長らく支配していたが、義尭は第三次国府台合戦に敗れて安房まで後退している。上総に勢力を有する酒井や土岐、正木など諸勢力は全て北条に従い、当主の信高が討ち死にした真里谷領は没収された。


そんな中で義信と縁が深いのが庁南豊信であった。別名、武田豊信とも称する。


庁南氏は元を辿れば甲斐武田氏と同族で、武田を本流とすれば庁南は庶流に当たる。ちなみに真里谷氏は、この庁南氏の分家に該当し、第三次国府台合戦で討ち死にした信高がいる。


「つい先日に届けられた書状では、まだ粘っているようにござる」

「里見も強欲なことだ。説けば降る相手を攻め、その所領を奪い獲ろうとはな」


そう言って義信は鼻を鳴らし、不快感を示した。


北条方一色だった下総に比べ、上総は少々状勢が難しくなっている。


先年の三船山合戦の後に上総は大半が里見の支配するところとなっていたが、実状は直接支配しているというよりは、有力国人たちを従えている状態であり、故に彼らは揃って里見義尭が降伏した後に北条に属することになっていた。


ところが北条家が滅びた事により足枷は解かれ、自然と独立した勢力へと変化していたのだ。


現在は東北部を酒井氏、中央から西部を庁南氏、東部を土岐氏、南部を正木氏の勢力が有している。義信が頼りとしているだけあって庁南氏の勢力は大きく、正木氏は里見の配下色が強かった。また酒井氏と正木氏は親北条、反北条と家中が二つに割れている。


いち早く動きを見せたのは里見義尭・義弘親子だ。


「この機会に上総を取り戻す!」


信長の関東出兵が伝わった時期を境に挙兵、北条の命令によって出兵させられていた義頼を川越合戦の戦線から離脱させた。また北条方に属して正木の実権を握っていた時忠が甥の憲時に追われ、時忠が掌握していた水軍を差配できるようになると状勢が一変、相模水軍を牽制できるようになり、小田原を攻める幕府軍を間接的に支援できるようになった。そこで義尭は本当の意味で上総を手に入れるべく、未だ去就を明らかにしていなかった庁南の所領へ兵を進めた。


「我らを謀った里見を許すでない!追い返せ!」


一方で豊信も里見の侵攻に反撃した。豊信からすれば、義尭は北条へ降伏する際に真里谷の城を奪い、それを手土産した盗人も同然の存在、反抗は当然だった。


「この期に及んで北条に味方するとは、これは上様にご報告を申し上げねばなるまい」


そんな豊信の反応を見て義尭はほくそ笑む。


豊信が反撃したのは北条に味方したからではなく、単に攻められたことに対する防衛反応に過ぎなかった。豊信にしても幕府に逆らう気は毛頭なく、時期が来ればこちらから使者を送ろうとまで考えていたほどだ。


しかし、外交に於いては義尭が一枚上手だった。完全に北条方として見做された豊信は、同じく義尭の正室の実家であり、旧美濃守護職に就いていた土岐頼芸を保護する土岐為頼、反北条の立場を明確にしていた酒井胤治を義尭が上手く巻き込んだ為に上総の大半を敵に回すことになった。


「くそッ!儂はどうすればよい……」


頼るべき北条は織田信長の軍勢に包囲され援軍は派遣できず、隣国・千葉も氏政の命令に従って小田原に籠もっていた。唯一、北条方であった酒井胤敏は同族の胤治の妨害にあって動けず、豊信は援軍を望めないままいつ終わるか分からない籠城戦を続けるしかなかった。


だが望みがないわけではなかった。同族で精強を誇り、関東でも一目を置かれている甲州軍団を率いる武田義信がいた。豊信は義信へ救援を求め、義信も応じたが時期が悪く小田原に寄せている最中で、勝手に陣を離れることは出来なかったのだ。


そこで義信は義尭に攻撃を止めるよう使者を遣わしたが、義尭はのらりくらりと言い訳をするばかりで、一向に止める気配はなかった。


「小田原が落ちただと?それは真か!?」

「はい。織田勢の猛攻に耐え切れず、降伏を決断したようにございます」

「よし!甲斐守殿に急いで繋ぎを取るのだ」


光明が見え始めたのは九月も半ばを過ぎた頃、小田原の落城にて希望が見えてきた。あの小田原が僅か一月の攻防で落ちるのは、いい意味で予想を裏切ってくれた。すぐに豊信は義信に来援を請う密使を二度、三度と相次いで急行させ、それまで耐えるよう味方を鼓舞する。


「急ぐのだ!せめて上総ぐらいは取り返さねば割りに合わぬぞ」


一方で里見勢の攻撃も激しくなる。義尭も小田原城がこんなにも早く落ちるとは思っていなかった。敗戦から安房一国への減封、手伝い戦に借り出されてからの挙兵と戦費はかさむばかりである。ここで庁南を潰しておけば、その分だけ実入りも増える。


「耐えよ!耐えよッ!」

「落とせ!何としても落とせッ!」


両軍の大将が吼える。互いに生き残りを懸け、指揮にも熱が入っていた。しかし、庁南側には里見に恨みを持つ者が多く戦意は旺盛、逆に里見側には度重なる合戦に狩り出されて不満が高まり、思ったほど士気は上がっていなかった。


その差が命運を分けた。


「武田勢、来ます!」


遂に義信が間に合ったのだ。仕方なく義尭は義弘共々、義信を出迎えて労をねぎらうことにした。


「これは甲州殿、遠路はるばるご苦労に存ずる。行軍の疲れがございましょう。いま少しで城が落ちるところ故、このまま我らにお任せあれ」

「刑部殿は異なことを申される。庁南殿からは再三に亘って儂に仲立ちを請う、と使者を寄越してござる。その旨は刑部殿にもお伝えしているはずだが?」

「はて?儂には何の事かさっぱり……、何かの間違いではござらんか。この通り城は包囲しており、庁南から使者があれば判るはずでござるが」


義尭は最後の最後まで惚け通した。義信にすれば、このやり取りすら馬鹿らしく、付き合いきれぬとして強権を発動させる。


「ここからは儂が指揮を執る故、勝手な真似は慎まれよ」


義信が率いてきた軍勢の数は、麾下の甲州軍団と織田と諏訪以外の信濃勢と合わせて一万二〇〇〇を数える。里見勢は四〇〇〇ほどしかおらず、義信は無理やりに指揮権を奪い取った。


「後の事は任されよ。所領を増やす事は出来ぬが、せめて安堵されるよう取り計らろうではないか」

「全て甲斐守様に御任せいたします。庁南家のこと宜しく頼みます」


豊信は義信の降伏勧告へ即座に従い、城を開けた。義尭も正面から幕府へ逆らう気はなく、元々里見方が多かった上総の者たちは武田の武威を前に揃って従った。明確に北条方として動いていた酒井胤敏のみ討伐の対象とされ、義信は東金城を攻めて息子の政ともども成敗することになった。


「呆気なさ過ぎるな」


結局、最後まで合戦らしい合戦には恵まれず、下総と上総の二カ国を平定した武田軍は、江戸にいる信長に報告すべく里見勢と共に帰路に着くのであった。


=====================================


十月十六日。

下総国・結城城


東国平定に当たって脇役に徹し続けている徳川家康は、信長の求めに応じて佐竹義重が攻める結城城へ援軍として赴くことになった。


既に結城晴朝と謀って城攻めを演じ続ける義重は、織田軍が小田原を包囲したと報せが届き、情勢を確認したところで晴朝に城を開けさせ、下総や上総、下野など手薄な土地に攻め入って領土を広げるつもりでいた。


いざ行動を移そうかという時、予想外に信長から待ったがかかった。


「北条に味方する結城の降伏は認めぬ。結城の城は全て落とせ」


その命令に義重は晴朝が降伏する意向だと伝えた。ここで結城を滅ぼすことは不可能ではないが、佐竹勢は常陸の豪族たちの連合軍であり、晴朝と密約があることを伝えている。彼らが義重に同調しているのは、損害なく安全に恩賞が得られるからだ。もちろん直接に領地を奪うより得られるものは少ないが、義重の采配により恩賞が宛がわれれば、佐竹の影響力を強めることが出来る。義重の狙いはまさにそれであり、ここで彼らの信用を失う訳にはいかなかった。


「主家が窮地に陥れば寝返るような輩は信用できぬ。もし命令に従わぬのなら、軍令違反と見なして厳罰に処す」


更に信長は既に関東での仕置きは自分に任されているとして、頑として結城の降伏を認めなかった。


完全に予定を狂わされた義重は何とか降伏が認められるよう晴朝が北条に降った経緯、結城家の成り立ちから関東に於ける重要性を語ったが、何れも聞く耳を持たれず、挙げ句の果てには門前払いされるようになった。


そして小田原が落ちるまで身動きが取れなかった義重に対し、信長は追い討ちをかける。


「まだ結城を落とせぬのか。ならば援兵に徳川を遣わす故に、後は権少将殿の指図に従われよ」


主導権を奪いにかかる信長に義重は“徳川来援の必要なし”として断ったが、信長の強い意向が働いて受けざるを得なくなった。


「徳川が来るまで城を攻めることも降伏を受けることも許さぬとはどういうことだ?しかも命令を無視すれば厳罰に処すとは解せぬ、織田信長という男は何を考えておる」


織田の言い分に首を傾げるしかない義重は、徳川の到着を待つしか選択肢がなくなった。


「織田信長という男は流石に一筋縄ではいかぬようだ。こうなれば徳川を言いくるめるしかあるまい。信長が直接の相手でなくなったのは幸いか」


この判断が佐竹の命運を大きく左右するなど、この時の義重は予想だにしなかった。


そもそも佐竹と織田に主従関係はなく、命令を聞く必要はなかったが、織田が率いてきた数が数だけに老獪な義重も強気に出られなかった。また徳川という存在も義重からすれば北条に於ける千葉のような存在でしかなく、織田の同盟者といえば聞こえはいいが、単に膝下の大名という感覚でしかなかった。


だが義重は安易な判断を後に後悔することになる。


徳川は常陸よりも石高はないにしろ二カ国の守護大名であり、あの義輝を謀って今川氏真を殺そうとした人物である。海道一の弓取りと称された今川義元の薫陶を受け、今では日ノ本最大の大名となった織田信長が盟友と頼りにする人物である。


織田が大き過ぎるが故に、義重は家康という人物を見誤ったのだ。


「流石は織田殿よ。こうも敏感に戦場の空気を感じ取るとは……」


一方で到着した家康は佐竹の様子を見て、兵たちの気の緩みから城内と密約が交わされていると予測した。城側とやりあった痕跡も乏しく、元より信長からそのような可能性があることを示唆されていただけあって、すぐに気が付いた。


それにしても驚くべきことは信長の勘の鋭さである。子細な報告があったにせよ、よくも小田原にいながら佐竹と結城が繋がっていることに気が付いたものだ。確かに関東に於いて佐竹はこれまで犠牲らしい犠牲を払っていない。上手く立ち回っていると言えば聞こえはいいが、訝しさは否めない。もちろん信長とて確信にまでは至っていないだろうが、目星を付けてから佐竹とのやり取りで確信を深めていったに違いない。


怠慢を許さぬ信長らしい采配だった。


「長陣ご苦労に存ずる。佐竹の方々は、さぞ御疲れであろうから後は我らに任されよ」

「気遣い痛み入る。されど徳川殿こそ遠国からの遠征で戦続き、お疲れでありましょう」


二人は合流すると軽く挨拶を済ませ、すぐに軍議に入った。


「状況は如何でござるか?随分と手こずっているようでござるが」

「お恥ずかしい限りにござる。されど結城も万策が尽きた様子にて、いま一歩かと」


それから義重は兵糧攻めの末に結城は弱っている、一押しした後に所領安堵を条件とすれば、確実に結城を降すことが出来ると詳しく伝えた。


まさか裏で結城と繋がっているとは公に答えられず、引き続き合戦は佐竹が請け負うとして隠蔽を図る。


「坂東のことは坂東の者が担うのが役目、ゆるりと佐竹の戦ぶりをご覧下され」


これには忍耐強い家康も腹が立った。


「戦場でゆるりとするなど油断大敵もいいところにござる。かの今川義元も海道一の弓取りと称されながらも桶狭間で油断して討たれ、一夜にして今川の栄華は崩れてござる」


家康は信長の依頼で佐竹を思惑を阻みに来たが、徳川が舐められるのは気に食わない。是が非でも義重に立場というものを判らせたい気になった。


桶狭間を敗者の立場として体験した側として、その言葉には重みがあった。織田の同盟者として、幕府の守護大名として、ほぼ勝利が約束されたような状況での出陣であったが、あの日以来、家康は戦場で油断した事はない。そもそも桶狭間とて、今川の中に負けると思っていた者は皆無だった。


「ここで結城を許しては示しが付かぬ」


信長の意向であったが、それは家康の言葉も同然であった。苦労を美徳とする家康からすれば楽して恩賞を得ようなど笑止千万、かつて家康も今川氏真を追い詰めて駿河を我が物にしようと画策したことはあったが、あれは独力で今川を破り、当然の結果を得ようとしたに過ぎない。いま義重がやろうとしていることは、他者が汗と血を流して手に入れたものを、まるで自分も同じ苦労をしたと偽って奪おうとしている。


(許されることではない。ここは少々懲らしめてやるとするか)


現実を理解できていない義重に対し、家康は立場を判らせることに決めた。


「既に北条は滅び、大勢は決した。ここで敗者の結城に所領をくれてやるのは勿体ない。それよりは長く関東で戦った諸侯らが治めるべきであろう。ここで諸侯らの活躍を見せてくれたのならば、下総半国に及ぶ結城の所領を諸侯らに宛がうよう儂から織田殿へ具申してもよい」


家康は軍議の席で堂々と甘い言葉を並べ、義重以外の常陸豪族を懐柔し始める。


「それは真でありましょうや。例え織田殿が認めても、公方様によって決定が覆る可能性もあるのでは?」


常陸の豪族が一人・大掾貞国が疑問を呈す。明らかに心が揺れている証拠だ。


(どうやら思った以上に常陸の者共は結束を保ってはおらぬようだな)


貞国の言葉に"儂も同じ事を思っておった"などと続く者が数人おり、興味を抱いている様子が見て取れた。なるほど、だからこそ義重は恩賞という明確なものを以て彼らの上位に立とうとしたのか。


「まずは当家より使者を遣わして潔く城を開けるよう結城方に伝えることとする。もし拒むようであれば城攻めを行うが宜しいか?」


と家康は周囲を見回してから問いかけた。内心で異を唱える者はいるにはいただろうが、この場で一番に多い兵を持つのは家康であり、義重が意見しないのであれば、誰も口を挟めなかった。


翌日、家康は家臣の石川数正を城内に送り込む、晴朝と交渉に入った。


「佐竹殿らはすぐにでも城を攻めようと息巻いてござる。されど我が殿は関東で結城と云えば名門、北条と命運を共にするのは惜しいとお考えにござる」


交渉の場で数正は、軍議とは逆のことを述べた。


「何かの間違いでござろう。元より儂は幕府に弓を引くつもりはない。これは常陸介殿から幕府に伝えられており、所領を安堵するとの約束をされておる」


当然、晴朝は数正の言葉を信じなかった。義重との段取りに大きな差がたったからだ。


「はて?そのようなことは初めて耳にしましたぞ」

「そのようなことはあるまい。常陸介殿に確認すれば済むことだ。その方が承知しておらぬだけであろう」

「いえ、左様なことはありませぬ。関東での仕置きは織田様と上杉様に委ねられており、その他に許されるとしたら伊勢左馬助様を頼って降った方に限定されております。そう京の評定で公方様が御決めになられておりますし、先日に織田様と上杉様が同席された鎌倉の軍議では、結城家は明確に討伐の対象とされております」

「そんな馬鹿な話があるか!」


晴朝は思わず立ち上がり、数正に怒声を浴びせた。


所領安堵は確実と思っていた矢先に窮地に立たされていた。自分が何をしたと言うのだ。幕府、上杉に従い結城は北条と戦ってきた。確かに北条に属した時期もあるが、それは家名を保つためのもの。あの時に援軍を派遣してくれなかった方に責任があると思っている。


「では申し上げます。幕府に弓を引くつもりがないのなら、何故に今まで降らなかったのでしょうや?」


感情を昂らせる晴朝を目の前に数正は涼しげに、そして冷ややかに問い詰めていく。


「機会はいくらでもあったはずですぞ。北条の大軍の中に身を置いていた頃はともかくとして、城に戻ってからは佐竹殿と共に北条の背後を脅かすことや、我らが攻める小田原へ赴いたり、下野で蘆名殿を支援するなど出来たはず」

「それは……、我々にも理由があったのだ」


急に晴朝の語気が弱まる。


戦の勝敗が決してから勝ち馬に乗ろうとしたなど、損害を嫌って降伏の機会を窺っていたなど言えるはずもなかった。また結城が動けないよう信長の命令があったことなど知らない晴朝がごまかしに奔ることなど、数正には想定済みだ。


「この際でござる。どのような理由があったかなどは問い質しは致しますまい。概ね結城殿が主導した訳ではあるまいし……」


そう言葉にしながら数正は晴朝から視線を外した。


(まさか、徳川は儂と常陸介殿の密約を存じておるのか……)


既に事は露見している様子を窺わせる数正に、晴朝は心の臓を一段と早くさせた。知られているならば、最初から判っていたのなら、徳川が使者を送ってきた意味が変わってくる。


「儂は何をすればよい」


率直に、晴朝は数正へ助けを請うた。


徳川が結城を潰す気なら使者など送って来るはずもない。ならば、何かしらの条件を呑むことで結城の存続は保てる。


「先程も申し上げましたが、北条に与した者たちが許されるとしたら、織田様か上杉様の許可もしくは伊勢殿を頼る必要がござる。佐竹殿は一度たりとも北条方に付いてはおりませんので、佐竹家がどうこうなることはございませぬが、佐竹殿には何の権限もございませぬ」


そう前置きをしつつ、数正が条件を突き付ける。


「北条が滅びた後の降伏は所領没収が確実にござる。それを避けるには、人質を出すという手段だけでは厳しいかと。幸いにも織田殿は子沢山にて、結城家には嫡子がおりますまい。跡取りを織田様に求めなさいませ」

「結城の家督を売れと?」

「どのみち今のままでは結城は滅亡でござる。ならば家名だけでも後の世に続くよう図るのが武家の務めではありますまいか」


晴朝は苦渋の決断を迫られていた。


苦虫を噛み潰したように表情を歪ませ、思考を巡らしていくも余りの急展開に頭が追い付いていない。よい案など浮かぶ訳がなかった。


「猶予は……猶予は頂けないのか?」


故に晴朝は決断を渋った。


この反応は当然のことだった。さっきまではいつ降伏をし、幕府に帰順するか考えていたのだ。それが一転して滅亡寸前に追い込まれている。しかも目の前にいる人間は、初めて相対する家の家臣で、情を求めることも出来ない。まともな反応が出来るはずもなかった。


「御言葉ではありますが、今の結城に選べるほど手段は残されてはございません。来るべき奥羽遠征には兵を出して頂く必要はございますが、公方様が一目を置く織田殿の身内となられれば、流石に所領安堵は間違いないでしょう」


よって数正は所領安堵をちらつかせて晴朝の心を揺れ動かした。


「誠に所領の安堵は約束して頂けるのだな」

「もちろんにござる」


数正は満面の笑みを浮かべ、大きく頷いた。


だが数正も信長や当然ながら幕府に確約を貰っている訳ではない。信長のことであるから、結城が奥羽に兵を出すと言えば断りはしないだろう。そう数正の主・家康は判断している。同時に九州へ赴いている義輝の沙汰が正式に下るのは早くても年が明けてからのことなので、結城の所領がどうなろうが徳川の知ったことではなかった。血縁関係のある家でもないし、所領を接してある訳でもないのだ。後で反故になったと騒がれたところで天下一統を成した幕府の決定に異を唱えるのは、結城の存亡を賭ける必要がある。そんな度胸が晴朝にあるだろうか。


(……有り得ぬ)


それが家康の見立てであった。


ここで家康が出しゃばることも出来るが、敢えて行わないのは律儀な一面を見せるためである。欲を掻いたところで益は少なく、それよりは結城家を織田家に取り込ませることで、恩を売った方がいい。


そして結城晴朝は開城を決断、上杉と合流し奥羽平定に尽くすこととなった。


「この事を上様に明かされたくなければ、佐竹殿も身を粉にして幕府に尽くされることだ」


また家康は佐竹に釘を刺すことを忘れなかった。


義重の思惑は崩れさり、佐竹も奥羽に赴くことを命じられる。安全策に終止し、漁夫の利を得らんとした詰めを過った。鎌倉軍議で決定した内容を義重の一存で覆すには、相手の存在が大き過ぎた。


「畏まりました」


関東平定で反北条の立場を貫いた義重であったが、最後の最後で詰めを過った。殊勝に頭を垂れる方々しか義重には残されておらず、舞台は関東から奥羽へ移ることになる。


応永二十三年(一四一六)の上杉禅秀の乱から始まった関東の動乱は、足利義輝の鎮撫の大遠征によって、まもなく収まりを迎えるのだった。




【続く】

お待たせいたしました。


関東諸侯が反撃といったところですが、各々が描いた思惑を幕府側が潰していく話となりました。そうすることによって、幕府側が差配できる土地が増えるということです。また信長の江戸に対する着目は、地勢から導き出したものになります。元々信長は利便性のある土地に拘るという筆者の印象があり、それが関東では江戸に当たり、大坂と似て非なる土地と分析しています。その江戸に於いて信長は何をするのかは二、三回ほど後に描く予定です。


また関東平定は、残すところ下野のみとなります。そちらは謙信が向かっているところですので、次回に描く予定にしております。

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