第八幕 謙信と信長 -孤独な英傑たち-
九月十九日。
相模国・鎌倉
武家の棟梁・足利将軍を扶け、武門としての正しき在り様を示そうとする上杉謙信。南蛮の脅威を感じ、日ノ本の統一を急ぐ織田信長。
戦国乱世を代表とする英傑二人に共通することは、この乱れた秩序を回復すること。ただ互いには決定的な違いがあった。謙信は日ノ本の頂きに足利将軍を奉じた天下を見据えており、信長は必ずしも頂きは足利将軍でなくてもよいと考えていることだ。
永禄二年(一五五九)、二人が将軍・足利義輝の下に馳せ参じてより十三年の月日が流れていたが、これまで二人が天下について語り合う機会は今までなく、このまま一統を迎えてしまえば、その決定的違いが再び乱世のきっかけになるかもしれなかった。もちろん謙信が義輝と道を違えることはないが、信長は違う。下手をすれば両者は信長とは矛を交える可能性は捨てきれない。彼らが共存共栄していくためには、両者の考えに隔たりがないか、もしくは許容し合えるのかを確認しなくてはならない。
その時が、いま訪れようとしている。
「織田殿とは肚を割って話したい」
開口一番、謙信は信長に本音で語り合いたい旨を告げ、状況整理から話を始める。
「先日、京より早馬が到着し、姫路中納言様が出陣なされたことを伝えてきた。恐らく阿波右中将様も出られておろう。如何に大友が強大であれ、上様が直々に手を下される必要はあるまい」
東国遠征が小田原城の攻略という一段落ついた頃、西でも大きな動きがあっていた。いよいよ東西同時派兵である“鎮撫の大遠征”が開始されたのだった。
八月に先導役を命じられた毛利勢が出陣、これに足利公方を大将とする中国勢、四国勢が続いた。島津など九州にいる味方を合わせれば、この時点で既に幕府軍は十万を越える規模となっている。これに後詰として出陣を控える義輝の本隊があるのだから、総勢は十五万以上にもなると予測されていた。その大軍を前にして大友が一枚岩でいられるはずもなく、謙信の予想では義輝が直に采配を揮わずとも九州は治まると踏んでいた。
そして東にも義輝は同規模の軍勢を送っている。幕府の力は、もはや往年の頃と比べ物にならない程まで強くなっていた。
「上様の悲願であった天下一統は、もう間もなくであろう」
感慨深く口にする謙信の瞳には、薄っすらと輝きが見え隠れする。
義輝の苦しい時代を知っている謙信からすれば、このような時が訪れるなど当時は想像も出来なかったことだった。この世に生を受けた頃より将軍の存在は有名無実、各地を治める守護も実権を失い、家臣が主君を追い落とすのが当たり前の時代だった。世の混乱は収まることを知らず、当時は泰平など夢のまた夢に思えた。
その天下がようやく治まろうとしている。ただ天下は治まって終わりではない。如何にして泰平を維持していくか、それが何よりも難しい。そして、その鍵を握るのは間違いなく織田信長という武将だった。
故にこそ、天下一統を成し遂げた後のことを話しておく必要がある。
「織田殿に確認しておきたいことがある」
謙信はいきなり確信を突く。信長にはぐらかせない様に無駄話は避けたい。
「織田殿が天下一統を急がれる理由、それは南蛮の脅威に備えるためであるな?」
天下一統だけを考えれば、今年の三月に京で行われた大評定で指摘のあったように九州征伐を終えてから東国へ兵を入れるのが妥当だ。幕府の力は往年すら凌ぎ、不穏分子は一掃されて足元も磐石、勝てる者など存在しない。ただここ数年で急成長した反動で財政状況は潤沢とは言い難く、今回の遠征も信長が東国は主導しているから成し得ているものだった。
信長は理由なしに行動はしない。そのような無茶をしなければならない理由が南蛮にあると謙信は予測する。
鉄砲と耶蘇教を伝えた南蛮人は、単なる交易相手ではない。日ノ本が及ばぬ武力を有し、飽くなき欲望に駆られた亡者たちは、遠く東の果てにまで手を伸ばそうとしている。その危険性にいち早く気が付いた信長は、天下一統を急ぐことで南蛮人に対抗する時間を得ようとした。それが謙信が辿り着いた答えだ。
「……であったのなら、如何いたす」
ところが信長は謙信の問いに問いで返してきた。謙信が何処までを想定しているかを試そうとしているのだろうか。それとも別の意図があってことか。
「大筒の力は正直、儂が考えていたよりも遥かに凄まじいものであった。まさか小田原城が、北条が成す術もなく滅びるとは思わなかった」
南蛮の力は、まさに謙信の常識すら打ち砕いたと言ってよかった。
義輝の下で戦ってきた謙信の宿敵といえば、武田信玄と北条氏康である。越後の国主となってから、この二人を打倒するために奔走してきたことが謙信の生涯の大半を占めている。しかし打倒すること叶わず、信玄は義輝が、氏康もとい氏政は信長が倒してしまった。そして小田原城は、謙信が二度も攻略に失敗した城だ。それは己の無力さを痛感させるには充分な出来事であった。
ただそれで気落ちして仕舞いというほど上杉謙信という武将は呆けてはいない。己に足りないものを見出せたのなら、それを手に入れられればいいだけである。
「南蛮の脅威に備えるなら大名たちの力は限りなく小さく、そして幕府の力は限りなく大きくなくてはならない。故に北条は滅びなくてはならず、天下に二心ある者たちは排除されなくてはならなかった」
これまでの信長の行動を分析した結果を謙信は言葉にしていく。
北条を滅ぼした理由は、大大名の存在を認めないためである。関東にしか興味を持たない大名は、如何に有能であっても天下の政には邪魔な存在でしかない。かつて源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼしたように、信長は表向き幕府に恭順したところで真に幕府へ従おうとしない北条を滅ぼすしかなかったと考えた。
また元亀擾乱についても信長は謀反方の動きを察していた節がある。もちろん完全に把握していた訳ではないだろうが、謀反が起こる懸念は充分にあると思っていたはずだ。規模こそ小さいものの尾張統一の過程での信長の振る舞いを見る限りでは、それは間違いないことと思う。
信長が織田家の家督を継いだ頃、敵は美濃の斉藤家でも駿河の今川家でもなかった。彼らは織田家の敵ではあったものの信長の敵は、家中で信長の家督相続を認めない実弟・信勝の勢力だった。
まず信長は信勝と共通の敵である清洲織田氏・大和守家に矛先を向けた。恐らく最初に信勝と戦えば、確実に大和守家が信勝側に加担して不利になるという理由からだろう。同じ弾正忠家である信勝陣営にとって潜在的には大和守家は敵であり、大和守家を弾正忠家が滅ぼすなら信勝にしても願ってもないことだった。何せ信勝陣営は家中の支持は自分にあると思い込んでおり、信長が大和守家と争い、漁夫の利を得ることで尾張の支配権を手に入ると考えるのは、戦国大名なら当然の思考だ。
そして信長は大和守家を倒す。この時、目論見通りに信勝陣営は信長の動きを黙認する。そして信長は信勝との決戦を覚悟し、大義名分を得るため少ない供回りで信勝側に付いている林秀貞の城を訪れるなどして揺さぶり始めた。
あの信長が何も準備していなかったとは謙信は思わない。水面下で準備を整えてから敵の暴発を誘ったのであろう。その結果、信勝は信長の蔵入地である篠木三郷を横領しようとして兵を起こし、そして敗れ去った。
これは謙信の知らないことであるが、信長陣営には幼い頃から結束を保っていた股肱の臣が多く、その大半が武芸に秀でる者たちである且つ持ちうる戦力を一点に集中させていた。しかも大将の信長自身が陣頭に立ち、兵を鼓舞する傍らで敵兵を威圧したのだ。逆に信勝陣営は兵の数こそ多いものの兵力は分散し、大将の信勝は出陣せず家臣に合戦を任せていた。数の劣っていた信長陣営は兵の質と士気で圧倒的に勝り、最後には勝利を捥ぎ取った。
これが元亀擾乱にも当てはまると謙信は考えている。
主な方針は義輝が考えたことであるが、当時の情勢から考えて信長の協力なしに西征の実現は難しかった。上方を空にすることで謀反を誘発し、一挙に膿を出し切る。それが恐らく信長の考えていたものであろう。
信長の誤算は、信玄の参戦で伊丹・大物合戦に敗北したことだ。信長の想定では、あの合戦で勝利して謀反方の勢力を可能な限り潰し、武田とは帰国した後に戦力を整えて正面から戦うつもりであったはずだ。だからこそ、想定が崩れた際に信長は即座の撤退を強行した。この時、義輝を守ろうとしなかったのも信長が考える天下には義輝の存在が絶対ではなかったからだろうと思われる。
「儂は上様を支持しておる。幕府の在り様が理想であると信じておる。武士が武家の棟梁たる征夷大将軍を主君と仰ぎ、その命に従う。その理こそが秩序の根本、礎であると考えておる」
肚を割って話をすると言った以上、まずは自分の内側を曝け出すのが人としての礼儀というものだ。故に謙信は信長の考えを聞く前に自分の信念を伝えることを選んだ。
武家が征夷大将軍に従う。この理が崩れない限り泰平は維持できる。
「織田殿が天下に上様が必ずしも必要だと考えておらぬことは察しておる。されど、代わりに国の頂きを担えるような人物はおるだろうか?」
そして謙信は信長の考えを引き出すべく、問いを重ねていく。
「南蛮の脅威が迫っておる中、帝に血生臭いことを担わせる訳には参らぬ。それこそ儂ら武士の存在を否定するも同じ。ならば武士を束ねる存在である征夷大将軍こそ、その役割を担うには相応しかろう。それとも織田殿は、自らこそがその立場に相応しいと思っておられるのか」
瞬間、謙信の眼光は注がれる先を全て貫かんが如く鋭くなる。信長に野心あるならば、自ら立ち塞がる覚悟で、この場所にいる。
対する信長は突き付けられる眼光に怯むことなく、正面から受け止めた。だが依然として自分から口を開こうとしない。まだ信長の考えを引き出すには足りないということか。
仕方なく謙信は、更に言葉を重ねることにした。
「上様により天下が一統されたなら、儂は長尾弾正に領国を任せて京に上るつもりでおる。上様の傍らで天下の軍勢を鍛え上げ、南蛮に劣らぬ、南蛮に負けぬ軍団を創り上げてみせる」
信長に示唆されたことでもあるが、天下の軍勢を鍛え上げるとは、幕府軍を強固にするのと同じである。力ある武家、つまり足利将軍家が絶大な力を有すれば、それ即ち泰平を維持する手段に成り得る。故にこそ謙信の手にも力が入る。
(儂の手で上様の夢を)
それこそが上杉謙信という人物が有する唯一の野心であったかもしれない。謙信ならば最強の軍団を創り上げる。寧ろ謙信でなければ与けられた軍事力を私物化する可能性があり、かつての管領専横時代再来を招きかねない。謙信だからこそ可能な役割であった。
軍神の並々ならぬ闘志は、乱世の終焉が近づいた今も潰えることなく燃え盛っていた。
「我らの事は、宣教師たちの口より奴らの王の耳に届こう。こちらに隙がないと判れば、手を出してくる事もあるまい」
そう謙信は語る。確かにそれは、戦国大名たちの常識では間違っていない。信長以外の誰が聞いても納得しただろう。
「……何を勘違いしておる」
突き放すような形で、ようやく信長が口を開く。
「確かに儂は、上様でなければならぬという考えは持っておらぬ。されど上様の力を認めておらぬ訳ではない。上様でなければ幕府を建て直すことなど不可能だったに違いない。恐らく尊氏や義満であっても上様のようにはいくまい」
これは謙信にとって意外な回答だった。
歴代の将軍二人を諱で呼称した無礼はこの際は聞き流すとしても、謙信は信長が義輝を認めていないと思っていた。だが正確には違う。信長は義輝の功績は認めているのだ。謙信と違う点は、足利将軍という存在の捉え方だった。
先ほど信長が二人の将軍を諱で呼称したことから推察できるように、信長は足利将軍の中でも傑出した二人を世間ほどに評価していない。奇しくもこれは、足利家の家督にある義輝と通じるところだった。
歴代の将軍に対する見方、捉え方の違いが義輝と義昭二人の兄弟が対立するに至ったと言っても過言ではない。だが多くの武家が、義昭に近い考え方である事も事実だ。
信長の捉え方は戦国乱世の時代の中で異質な感覚であった。古代より血脈を繋いでいる帝を誰しもが生まれながらにして日ノ本の主として認めており、それを否定する者はいない。武家の棟梁たる将軍も血筋が重んじられるのが世の常であり、大名とて例を外れない。この乱世に於いても稀有な才能を有しているからと言って大名や将軍、果てには帝にまで誰でも成れる訳ではないのだ。
義輝を認められても足利将軍は認めていないというのは、そもそも時代に合っていない考え方であり、謙信が理解できないのも無理はなかった。
(これまでの幕府では日ノ本は治まらぬ。されど征夷大将軍の存在意義を本来の形に戻すことが出来たならば、あるいは……)
ところが信長は足利将軍の存在を幕府の統治機構と同義と見ていた。将軍を認められないというのは、信長の中では幕府の統治機構へ対する疑問だったのだ。
“征夷”を目的とした武官の役割は、九州から奥羽まで朝廷の権威が知れ渡った戦国の世にとって意味を成さないものとなっている。武家の権威では朝廷の、帝の権威は越えられず、足利将軍が力を失ってからは権威の下に権威が存在する矛盾が生じていた。そもそも将軍権威とは、帝の権威を借りているだけで官位奏請など朝廷と武家の橋渡し役でしかない。
いま足利将軍の権威が復活しているのは、義輝によって権力という絶対の力を有していたからだ。力がなければ、将軍という仮初の権威は時代の権力者によって淘汰されることになる。
だが時代の流れか、今まさに新たな夷狄が日ノ本という国を脅かしつつあった。
(義輝公ならば、南蛮の脅威に気が付いておるはずだ)
直接に義輝と南蛮について話をした事はないが、宣教師たちは布教の許しを請いに将軍職に在る者への謁見を求めている。それなりに南蛮人との付き合いがある義輝が、海の彼方にある外つ国に対して馬鹿正直に好意的な感情を持つとは思えない。武士ならば、武家ならば南蛮人の持つ鉄砲や大筒、南蛮船に恐れを感じ、力なき権威の存在を知る義輝ならば、備えを怠るとは思えない。
信長も謙信もそうだった。過去に鉄砲の有用性に気が付いた大名たちは、揃って南蛮人の武器を恐れたが故に自らの軍団に導入したのだ。
義輝が南蛮の脅威に気が付いているのであれば、その義輝が征夷大将軍の地位にあるのであれば、自然と征夷大将軍の存在意義に変化が生じるはず。そうなれば信長が思い描く形へ自らが手を下さずとも時代は変わっていく。
明確ではないが、謙信も征夷大将軍の役割が今までと異なる事に気が付いている。でなければ、南蛮への備えを征夷大将軍が担うという発言は出てこないはずだ。
その点さえ一致していれば、二人が義輝の許で生きていくことが出来る。
「そなたと価値観を同じにする気はない。恐らくだが、幾度となく言葉を交わしたところで同じ志を持つことは出来まい」
但し、それは目的が一致するというだけであり、目的に至った経緯の違いは、大きな溝として存在する。馴れ合いは信長の好むところではなく、遠慮なしに謙信を突き放した。
信長は生来、物事をを理屈で考えるところがある。辻褄が合わないことを認めることはなく、謙信のように無条件で帝や将軍の存在を敬うこともない。敬うなら敬うで、敬う理由を求めてしまう性分だ。
例えば信長が帝に対して一定の礼節を以て当たるのは、その成り立ちがあるからだ。将軍に対して恭順しているのも、相手が義輝だということが理由の大半を占めている。武士ならば将軍を支えるべきという考えは、信長には通じない。
そも信長は立場には責任が伴うと考えている。生まれもったものではあるが、義輝は将軍としての責務を果たすべく戦ってきた。そして自らも大名として、民を統べる存在としての責任を果たしてきたつもりだ。
ところがこの世には、責任を果たさずに権利ばかりを主張する輩が多い。その所為で命を落とし、迷惑してきた民がどれ程いたことか。武士だけではない。公家も僧も商人も誰のお蔭で今の立場でいられると思っているのか。
そのような者たちに対し、信長は強い憤りを抱く。度が過ぎれば憎悪の対象ともなる。
そういう意味では民を慈しむことに主軸を置いた北条の施政は、先進性があった。それを滅ぼさなければならなかった時代の残酷さに、信長は乱世の終焉を強く求めていた。
「故にだ。故に上様が御健在な内に南蛮への備えを固め、改めるべきところは改め、道筋を付けておく必要がある」
人間五十年と言われる時代に、義輝も自分もまもなく四十になろうかとしている。泰平の十年などあっという間に過ぎてしまうはずだ。
やるべき事は山積している。今でこそ南蛮の脅威という日ノ本の外に視点が向けられているが、内側にも問題は山積しているのだ。
街道や湊の整備、度量衡の統一による検地、全国規模で襟銭令を布告し、銭貨の鋳造を以って貨幣の安定も行わなくてはならない。武家や公家の役割を明確化にし、民と武士の線引きも急務だ。諸大名が各地で、この戦国乱世で勝手に発布した法度も天下が一統されたなら無用な長物となる。如何に優れた法も国ごとに決まり事が違えば民にとっては悪影響でしかない。各地で違う暦も統一の必要がある。
それらに手付けるだけでも、途方もない年月を要するだろう。
「左様か。織田殿がそのような存念ならば致し方ない」
幾度となく感じた寂寥感に謙信は再び苛まれる。信長と己の違い。それは決して埋まることのない堀の如く大きなものだった。
二人が共に同じ天下を戴けるのは、偏に義輝という存在があるからであって、もし義輝の存在なくば恐らく己と信長には互いに信ずる理想の為に戦うという道しか残らなかっただろう。それほどまでに二人の価値観には決定的な違いがあった。
「この場にて誓おう。上様が在る限り、儂は幕府を裏切るまい」
「織田殿……」
「そなたが懸念しているのは儂の裏切りだろう?案ずるな、武門の争いで民を困らせるような真似はせぬ」
幕府、将軍、武家の在り方など信長の思うところは多い。しかし、ここで我を通すことが民の為になると信長にはどうしても思えなかった。義輝が倒れ、再び乱世の兆しが見えるのであれば、その時こそ足利“将軍”に世を治める力がないと示すことになるだろう。信長が起ち上がる時があるとすれば、その時となる。
「ならば儂は、上様の世が続くことを示すことで織田殿の懸念を払拭してみせよう」
想いを同じくできなかったことは哀しむべきことだが、謙信は幕府という存在を絶対視している。義輝が天下を一統しようとしている時期に、信長の懸念は杞憂に思えてしまう。南蛮に脅威こそ感じても、それが即統治機構としての幕府を否定するには至らない。逆に南蛮の脅威が在るからこそ、幕府の存在が重要になっていくと思っている。
それはある意味で間違っていない。今の世を生きる武士にとって、幕府の在り様に疑問を抱く者などいなくなりつつある。十年前まで形骸化していた統治機構が義輝という存在により力を有してしまった所為だ。幕府というものの仕組みは、当時とそれほど変わっていないというのにだ。
それでも将軍家が版図を持ち、力を持ったという点は大きい。再び力を失う前に、変革を成すことが叶えば武士の世が続く事は充分に有り得る話だ。
(結局は儂と志を同じくしてくれる者はおらぬということか。織田殿であれば、あるいはと思っていたのだがな……)
立身出世、己の栄達を求めてきた戦国武将たちに幕府への忠誠を心から誓わせるのは難しい。上杉謙信という武将は幕府から見れば理想だが、謙信のような考えを持つ者は異質である。誰しもが欲を持って生きており、欲の為に生きている。それが戦国という時代の常識であった。
だからこそ上杉謙信という武将は英傑と呼ばれるのだろう。
(誰も民を見ておらぬ)
そして武門が相争った世の中にて、その存在に信長は疑問を持った。だが己が間違っているとは思わない。時代の先駆者であった伊勢宗瑞の治世は、その民を重んじるものであり、北条の統制は一揆とは無縁だったからだ。
遠い未来を望むもう一人の英傑は、歩むべき道を全て過去から学んだ。それもまた、この時代には理解されない異質なものだった。
偉大なる英傑二人の心は、常に孤独だった。
【続く】
凡そ三ヶ月ぶりの投稿です。本当に申し訳ありません。
執筆を怠った訳ではなく、単に忙しすぎて時間がなかったのです。会社が勤務負担軽減を言い出してから帰宅時間が遅くなった....何故だ?
まあそんな心境でありまして、何とか改善していこうと努力中であります。
さて上杉謙信と織田信長という二人が語り合った訳ですが、美談のように都合よく意気投合するわけでもなく、かといって仲違いもするわけでもなく終わりました。ただ義輝の下では互いに力を尽くすことだけは約束した訳ですから、幕府にとっては大きな前進となります。
こういう展開になったのは、筆者の謙信観、信長観が大きく影響しています。
謙信はよく言えば“理想の武士”です。強く、信念は固く、私欲を捨て義を重んじる。とても素晴らしい人に見えますが、まあこういう聖人みたいな人は中々いませんよね。ただ常識人でもあり、他国へ遠征中は他の大名と同じように乱捕りを許したりしています。自国の民には優しくも、他には厳しい。この例に外れません。言わば謙信は“武士の世の中の為に戦っている”と思われます。そして泰平も“武士のための泰平”を望んでいると筆者は考えました。
そして信長は他の大名と違う点として、民の営みを重視していると考えています。逸話も民との交わりが多いですし、乱捕りの禁止など民に視点を置いた政策が多いです。一方で一向一揆の弾圧なども行っていますが、織田政権下で一向宗が禁教とされていないこと、領民を騙していた無辺の話などを見る限りでは、民をたぶらかす存在への怒りを窺えます。戦国武将の代表にも関わらず、筆者には武士らしくないように思えるのです。
そんな二人が意気投合するようなIFは筆者は想像が出来ませんでした。故の今回の話となります。まだまだ信長を取り巻く問題は残されておりますが、それは後に触れていくことになります。