第七幕 鎌倉軍議 -過去からの教訓-
九月十一日
相模国・小田原城
戦国大名の先駆者・伊勢宗瑞が明応二年(一四九三)に伊豆に討ち入ってより約八十年、関東で長く覇者として君臨していた北条家が遂に幕府へ降伏した。幕府軍の圧倒的な軍事力の前に膝を屈したと言えば聞こえはいいが、織田信長の率いる七万五〇〇〇ほどの軍勢に敗れたというのが実際のところだ。
多くの諸将が南蛮から齎された大筒の力によって、天下に知られる大大名が成す術もなく敗れ去るのを目撃した。その反応は織田を、信長を危険視する者が多く、南蛮の脅威に気が付いた者は上杉謙信や徳川家康など極少数だった。
「……やはり信長は危険だ」
武田の主・義信も前者だった。
遠目に戦場を眺めていた義信は、父・信玄の見識が正しかったことを嫌でも痛感させられた。
あれだけの大軍を揃えることが如何に難しいかは大名である義信には判る。それだけ国力が高いことを窺わせ、関東まで遠征させられるのは将兵が優秀な証拠である。織田は鉄砲の多さも随一、大筒という最新武器まで兼ね揃えている。
味方である内は頼もしいが、敵となると勝てる気がしない。信濃守護職を辞任して和睦に持ち込んで正解だったと改めて思う。あのまま戦っていれば、間違いなく武田は滅んでいたことだろう。今回の北条のように。
(いや父上であっても、これほど信長の力が凄まじいとは予想してはおるまい)
それにしても大筒の力には驚いた。ただ非現実的な力を前にして、義信は意外にも冷静に織田の力を計れていた。
(大筒は当家でも揃えなければなるまい。かといって戦う方法がない訳ではない。北条が破れたのは、あくまで守勢に徹したからだ。故に織田に備えを築かせる暇を与え、大筒の力を最大限に活かせる環境が出来上がってしまった。もし最初から織田軍を野戦を挑む覚悟で北条が進んできたのなら、信長は北条の突撃を阻む土塁も馬防柵も用意できず、大筒は一、二度の砲撃を行っただけで役目を終えた事だろう)
それでも大筒の重要性を考えるのは、やはり城が武士にとって不可欠な存在であるからに他ならない。城を守るためにも、城を攻めるためにも大筒は効果的なのは疑う余地がない。
ただ義信は気が付いていない。海から砲撃を受けた場合、こちらは抗う術を持たないことを。もし南蛮という存在に気が付けていたならば、彼らが何処からやって来るのか想像がついたはずである。
その時、織田から意外にも使者が武田の陣へ訪れた。相手は二人で、うち一人は河尻秀隆と名乗った。
「織田からの使者とは珍しい。早々に北条を降した織田殿の手腕、御見事でござった」
開口一番、義信は心にもなく信長の戦勝を祝う言葉を口にする。
「天下に名高い武田の御当主からお褒めの言葉に与れるとは、我が主も喜びましょう」
そう秀隆は言いつつも主君が喜ぶ姿が想像できず、ただ愛想笑いを浮かべるだけであった。
「して用向きは如何に?」
「はっ、それについてはこちらの方より申し上げます」
として秀隆は後ろに控える若武者に座を譲り、脇に控えるようにして下がった。その様子から若武者は秀隆より身分が高いように思われた。
「御初に御目にかかります。織田大納言が嫡男・織田勘九郎信重にござる」
「なんと!?」
思わぬ人物の登場に、義信は驚きを露わにする。いったい織田の跡継ぎが、この時期に何の用があって自ら武田の陣を訪れたのか。
「此度、武田殿にかつての約定を果たして頂きたく参上いたしました」
「約定?いったい何でござろうか」
「某と松姫の縁組にございます」
縁組話と聞いて、義信は‟そんなものもあったな”と忘れていたことを思い出した。
今から四年前の永禄十一年(一五六八)の正月。武田信玄は上洛して将軍・足利義輝と謁見、その場で織田、長尾両家との縁組を下命された。信重は松姫と結納まで交わしたものの、幼年を理由に輿入れは果たされておらず、両家の関係破綻により縁組は事実上で解消となっていた。信長を以前から敵視していた父の事だから、もしかすると形ばかりは将軍の命令に従うと見せかけていただけで、松を送るつもりなど端からなかったのかもしれない。
ところが、織田の嫡男は今を以って松姫との縁組を望むという。もちろん義信としても簡単に言葉のまま受け入れるわけにはいかない事案である。
「あれは破談になったはずだが」
よって判りやすい断り文句を告げた。たった今も大事な妹の一人を不幸にしてしまったばかりなのだ。これ以上、身内から犠牲を出さないために安易な婚姻は避けたい。縁組は戦いが終わり、落ち着いてからゆっくりと決めればいい。まだ松は十二歳であり、急ぐ必要はないと思っている。
とはいえ縁組をすることで織田陣営と目されることを避けたいのが本音である。大大名たる織田家との縁組は常ならば喜ぶべきなのだろうが、信長は強大な力を有していることから幕府に睨まれている。小田原が落ちた今、幕府による天下一統は既定路線と言えるだろう。よって今回の話は、義信が何処に重きを置くかによる。
織田と距離を置き、あくまで現在の所領を維持することに努めるか。もしくは織田と結び、正室となる松が子を産むことで武田の血を織田に入れ、外戚として再び伸し上がるか。
信玄であれば迷わず後者を選んだであろうが、今の義信は前者寄りの考えにある。
「正式に破談にはなっていないはずです。某と松は、今でも夫婦となるつもりでおります」
「…………」
信重は頑なに松との縁組を望んだ。何故か。
(武田を取り込む狙いか)
まず義信が考えたのが、それだ。信長は信濃を狙っており、甲斐まで侵攻しようとした。結果的に義信が信濃守護職を辞任したことにより織田は信濃半国を得るに止まる。ここで武田と縁組することは、織田家にとて大きな意味を持つ。
(儂が何らかの形で世継ぎを定めず死んだなら、織田は家督に口を挟める。松が二人めの男児でも産めば、その子に武田の継承権があると主張することも不可能ではない)
よって義信の回答は、やはり拒否である。
「なるほど、勘九郎殿の認識は承知した。されど松も同じように思っておるとは限るまい」
「然に非ず、松も某と同じ想いにございます」
「何故に言い切れる」
「未だ顔を合わせたことはございませぬが、文で何度もやり取りはしており、心は通じていると確信しております。故にこそ、誰に反対されようとも某は松を迎えるつもりでおります」
と言って信重は真っ直ぐに義信を見据えた。若い故か眼差しに淀みはなく、心根が表れているかのようだった。
「誰に反対されようともか。それは勘九郎殿のお父上が反対してもか?」
当然、今回の申し出は信長の意向によるものと義信は考えているが、敢えて当人の覚悟を問うために、このような聞き方をした。ところが返ってきた答えは意外なものだった。
「そう申されますと某も胃が痛くなります。実際、この事を父が認めてくれるかは話してみないことには判りませんので。ですが、必ずや父上を説き伏せて御覧に入れまする」
と聞いて義信は怪訝な顔つきになる。信重の言い方からは、此度の縁組に信長が関わっていないかのように聞こえるのだ。
「この一件、大納言殿は承知しておらぬのか」
まさかと思いつつも義信は確証を得るべく信重に問う。
「はい。流石に戦の最中に話すようなことではございませぬし、いつ武田殿が出立されるかも判りませぬので、先に確約を頂きに参りました」
義信の疑問を信重はあっさりと認めてしまった。この縁組が信長の意向でないとなると、先ほどの想定は全て邪推となる。
まあ、それを抜きにしたところで武田の家督問題は義信も考えなくてはならない事案であることは確かだ。義信には姫だけで嫡子がいないので、このままならば一族の者に娘を嫁がせて家督を継承させるしかない。候補者は多い者の武田を預けるとしたら吟味しなくてはならない。
まず思い浮かぶのが諏訪家を継いでいる勝頼である。ただ勝頼は他家の家督を継いでいることから反対の声が上がる可能性も捨てきれない。特に勝頼は我が強いので、味方が多い分だけ敵も多かった。よって家督を継がせるなら、勝頼の子である武王丸を養子として迎えて娘と縁組し、その後見に据えるのが妥当だろう。それでも事はすんなりと運ぶまい。
(とすれば六郎か大勝だが、まだ判断するのは早いな)
信玄の子で男児は七人おり、元服前の男児として六男の六郎と七男の大勝がいる。二人は他家に出ていないので、武田に残って世継ぎとなる可能性を秘めていた。
(さて、どうするか)
ここに来て義信は返答に困った。
縁組は破談となっていないという信重の言い分は正しく、両家は交戦状態に陥ったものの互いに手切りを通告した訳ではなかった。よって縁組を解消したというのは、単なる両者の思い込みに過ぎない。そして何よりも義信を迷わすのが、妹の松が信重の言う通り織田に嫁ぐことを望んでいるからであった。
もちろん若さ故のこととして反対を貫き、時間の経過と共に気持ちが薄れていくのを待つという選択肢もある。しかし、どうしても義信にはもう一人の妹・黄梅院の事が頭によぎった。
一度、武田と北条の関係が悪くなった時、実家に帰らされた黄梅院は食事を絶って死のうとしたことがある。幸いにも同時期に義信の蟄居が解け誠心誠意で介護に努め、妹を氏政の許へ戻すことで最悪の事態は避けられた。今回のことで妹は再び夫と離別することになるが、国王丸の存在が生きる力を与えてくれるはずた。
今回、氏政は切腹となるが黄梅院が武田家に戻らなくてはならない理由はない。故に義信は国王丸に同行して京に上ることを許そうと思っている。京には母方である三条家の伝手がなくはないし、いずれ上洛して将軍に謁見しなくてはならないことを考慮すれば、武田の京屋敷を設ける必要もある。妹が不自由なく暮らせるだけの支援は充分に可能だ。
だが松はどうなる。末妹の菊も同様に妹たちは揃って頑固なところがあり、それは弟の勝頼や盛信にも見られる。姉同様に信重へ嫁げないのなら一生未婚を貫くことも強ち有り得ないことではないよう思えた。
(まったく……、どうして当家の者たちは、こう頑固者ばかりなのだ)
そう義信は指先を額に当てて嘆くも自分自身にも似たようなところがあることを思い出し、思わず苦笑いを浮かべた。
(儂は、父上と同じことをしているのか)
家の繁栄を考えて縁組を行うことは武家にとって当たり前のことだ。たが自分は身内の幸福を願い、その道を外れてきた。
武田の誇りを、信義を守らんがためであったが、自分が父の駿河攻めを反対したのは、結果的に室の実家を守ることに繋がった。黄梅院を北条へ返したのも自分が三国同盟を再び結んだからだ。
(ここで松をやることが、本当に武田のためになるのかもう一度考えよう)
信重はかつての約定を果たして欲しいと願っている。ただそれは織田からの申し出ではなく、将軍が決めたものだった。
(ならば織田との婚姻を果たすことは、将軍の命令を果たしたことになる。上様の印象がよくなる一方で、菊の縁談も果たせば織田与党とは見なされまい)
義輝から見た武田の印象は決して良くはない。ここらで誠意を見せておくのは悪い手ではなかった。しかも上杉家と近い長尾との縁組も為れば織田陣営という一方的な見方はなくなり、武田は周辺国の大半と繋がることになる。戦国の世ならば勢力の拡大に障害となるが、これから始まる泰平の世には盤石な備えとなるだろう。
そして何より二人は想い合っている。松が喜ぶなら、兄として認めてやりたいと思った。
自然と口元が綻びが生じる。
「相判った。正式な返答は戦の後となるが、そなたと松の望みが叶うよう取り計らおう。故にそれまで勘九郎殿も御父上の同意を得られておくがよい」
「あ…………ありがとうございます!」
反対の姿勢を見せていた義信が一転して縁組を認めたことで、ようやく信重は年相応に愛らしい笑みを溢した。
義信自身も己の変心を意外に思っていた。松に願わられるならまだしも、会ったことのない織田の嫡男に首を縦に振るなど正気とは思えなかった。もしかすると単に羨ましかったのかも知れない。天下一の大大名を継ぐ身ながら自由に振る舞える若人を。
「松によい土産が出来たな」
満面の笑みを浮かべる妹の姿を想像しながら、義信は呟いた。
戦国大名の次代は、少しずつ泰平の風に当てられつつあった。
=====================================
同日。
北条の降伏を受け、今回の戦いの決着を傍観者として行方を見守っていた上杉謙信が織田信長のいる早雲寺を訪れたが、多忙を理由に面会を断られた。
「わざわざ上杉様にはお越し頂いたにも関わらず申し出ございません。小田原城の接収が終わり次第に我らは鎌倉へと向かいますので、今後の東国攻めについて軍議を催したいと主は仰せです。こちらへ向かっているはずの浅井左衛門佐様にも鎌倉へ集うよう使者を送っておりまして、宜しければ上杉様も鎌倉までご足労頂きたく存じます」
入口で応対した掘という男は、そう言って謙信に鎌倉行きを促した。
「残念であるが、仕方あるまい。承知した」
いま小田原には十万を越える大軍勢が集結しているが、東国平定を考えたなら一ヶ所に止めて置く必要はない。同じことを思って信長を訪ねた謙信であったので、その申し出をあっさりと了承した。
それに未だ合流していない北陸の大名たちの不在の中で色々と決めてしまっては何処で不平不満が出るか判ったものではないし、意志疎通をはっきりさせるために一度は全大名を集める必要があった。その地として、幕府創建の地・鎌倉は相応しい。
もちろん長政らを小田原へ呼べば早いとも思うが、どちらにしろ東へ向かうのだから鎌倉で集まった方が都合がよいという合理性を尊ぶ信長らしい方針だった。
よって上杉勢を始めとする軍勢は順次、鎌倉を目指して出立し、織田勢の他は伊勢勢だけが残された。
その五日後のことである。
殆どの軍勢から鎌倉入りを果たしたとの使いが参り、織田勢も半数が進発した小田原に於いて、北条氏政が切腹の時が訪れようとしていた。
ちなみに助命された幻庵宗哲は、韮山城の開城を目的に伊豆にいる今川氏真の許へと送られた。氏真は韮山城を開けた後に伊豆の平定を任されることとなり、役目を終えた後は幻庵を京へ護送するよう命じられたので、今川勢のみ鎌倉入りを見送られている。
なお小田原の地に氏規が残ったのは、兄・氏政の介錯役を自ら望んだためであった。信長が簡単に認めたのは、氏規にとって意外でしかなかった。
そして氏規は、数年振りに兄との最後の再会を果たす。
「兄上、此度は…………」
「何も申すな、助五郎。お主は北条が為を想い、出来うる限りの事を成したのだ。故に北条という家はなくなったものの、血は残った」
久しぶりに会った兄・氏政は不思議と表情から悲壮感は見られず、何処か清々しさを漂わせていた。その表情を氏規は幼き頃に見た記憶がある。
(あれは、まだ新九郎兄者が生きておられた頃だ)
まだ氏政も氏規も若かった頃、長兄たる新九郎を前に氏政はいつも晴れやかな表情を絶やさなかったことが朧気ながら記憶に残っている。それは氏政が大大名の家督という重石を背負っていなかったからだと、今になって思う。
(…………重いな。こんなものを兄上は抱えておられたのか)
急に襲って来る重圧に氏規は目眩のような錯覚に襲われた。今まさに北条という家の重石が氏規へ圧し掛かって来たのだ。家督というものの認識が想像以上のものであったことを氏規は嫌でも理解させられた。
「気負うな、助五郎。そなたが背負うものは、儂のよりもずっと軽いはずだ」
弟の心中を察し、氏政が優しく声をかけた。
「関八州の制覇という父祖代々の悲願、北条の所領を狙う群雄たち、家中の期待、それら全てそなたにはないのだ」
氏政は家督を担った時から目指す先を決められていた。そして武田信玄や上杉謙信、佐竹義重に里見義尭・義弘親子など周囲を難敵に囲まれ、北条の当主たる理想像を押し付けられた。極めつけは父祖から引き継いだものを守るために幕府という日ノ本を統べる存在と戦わなくてはならなくなり、最終的には氏政の手に余って北条は終焉を迎える。
それに比べ氏規の役目は子々孫々まで血を絶やさぬこと。それも簡単でないことは氏政も自覚しているが、氏規には氏政から引き継ぐ有能な北条家臣団と将軍という後ろ楯がある。大きな野心さえ持たなければ、恐らく役目は果たせるはずだ。
「よいか助五郎。北条を無理に再興しようとせずともよい。お主がお主のまま奉公に務め、公方様が御許しになられた時に初めて国王丸の身を立つようにしてくれればよい」
下手に欲を掻けば、必ず足を引っ張られることになる。そうなれば北条の再興など水泡に帰してしまうだろう。そのようなことをせずとも、弟の働きならば国王丸の心配など必要はないと思う。
「畏まりました。なれば兄上、一つだけ…………」
「なんじゃ?」
「国王丸が元服した際の名を伺いとうございます」
せめて国王丸には父の存在を感じさせたい。その願いから氏規は兄へ名を問うた。
氏政は暫く悩んだ後、納得したように一度だけ小さく頷いて弟の想いに応える。
「……氏直と。将来、心に深い負い目を抱くであろう我が子がまっすぐ育つように、氏直と名付ける」
「畏まりました。元服の折には、必ずや氏直と名付けます」
「助五郎、すまぬ」
そして氏政は、その言葉を最後に短刀を自らの腹部に押し立て、一気に突き刺した。北条の主に相応しく、武門に恥じぬよう腹を十字に掻っ捌いていく。
「ぐっ…………」
余りの傷みに言葉を発せない氏政は、横目で氏規を見上げて介錯を促した。
「おさら……ばで、ござい……ますッ!!」
眼に涙を溜め、嗚咽を漏らしながら氏規は力の限り握った刀を兄の首へ目掛けて振り下した。
北条家四代目当主・左京大夫氏政、波乱に満ちた享年・三十五の早すぎる死であった。
=======================================
九月十九日。
相模国・鎌倉
武家政権の始祖とも云われる源頼朝が幕府を開いた鎌倉の地は、まさに武家にとって聖地そのものであり、特に初めて鎌倉を訪れる上方武者には感慨深くあった。連日に亘って鶴岡八幡宮へ参拝する者が後を絶たず、坂東武者へ案内を求めたので両者の交流は自然と深まっていった。
「ここが天下の中枢であった頃は、いったいどれ程の武者たちが大路を往来していたことであろうか」
彼らは伝記でしか語られていない過去の栄華に想いを馳せながら、八幡宮まで一直線に伸びている若宮大路を闊歩した。
そこへ小田原を接収した織田軍が到着する。
「御待ち申しておりました」
信長を出迎えたのは、北陸勢一の大軍を引き連れた浅井左衛門佐長政であった。
「左衛門佐か。随分と活躍したと聞いておるぞ。玉縄、小机などいくつも城を落としたらしいではないか」
「いやいや、小田原を落とした義兄上ほどではありませぬよ」
まさか信長から褒められるとは思っていなかった長政は、恥ずかしそうに頬を緩ませた。
長政は鉢形城にて上杉勢と合流をした後に途中まで同行、そのまま小田原へは向かわず小机城を陥落せしめて玉縄城を目指した。北陸勢を伴っての行軍であり、その戦果は全て浅井勢だけのものではなかったものの主力を担ったのは間違いなく浅井の軍勢である。
玉縄城が落ちたのは小田原城が陥落した二日後であり、余波を受けたことは間違いなかった。故に長政は自分の功績として誇る気にはなれなかったのだ。
「聞きましたぞ。あの上杉殿すら落とせなかった小田原城を僅かな期間で落城せしめたとか。いや某も小田原へ行くべきでござった」
「そなたが来たところで働く場はなかったぞ」
「そうでしょうな。後でその時の話を聞かせて下され」
長政は率直に小田原城がどのようにして落ちたかを知りたがった。
浅井家と織田家は領地争いで一悶着あったものの現在は長政の態度が幾分か軟化している。それは長政が純粋に信長という武将を尊敬していることに加えて、越前と加賀二郡を領したことで、浅井が長政の想像よりも遥かに実入りが増えたことが大きな理由だった。北近江を領していた当時に比べ、浅井の国力は三倍近くまで急成長していた。
(流石は義兄上だ。これからも義兄上のやり方を真似ていけば間違いはあるまい)
それが長政の率直な考えであった。
かつて野良田の戦いで自軍を上回る六角勢を前に劇的な初陣を飾った長政だが、それも桶狭間で今川義元を打ち破った信長を見倣ってのことだ。その信長が軍神と称された上杉謙信ですら落とせなかった小田原城をいとも簡単に陥落させたことは、同じ戦国大名として尊敬に値し、心が躍った。
「皆、白旗神社へ詣でておりますが、義兄上も行かれますか」
白旗神社には源頼朝像が安置されており、頼朝の武功にあやかるべくほぼ全員と言っていいほど大名衆は訪れていた。だから信長も行くものと思い、尋ねた。
「そのような暇はない。すぐに軍議を開く」
ところが信長は特に興味なさ気に境内へ入っていく。困惑しながらも長政は家来の一人を手元に呼び寄せて、諸大名へ軍議の開催を通達するよう命じる。
(頼朝の二の舞にはなれぬ)
実は信長の中で源頼朝の評価は他者が思うほど高くはなかった。
頼朝は建久三年(一一九二)に征夷大将軍へと就任し、鎌倉に幕府を開いた。それより以前から組織固めは行っていたが、大天狗と称された後白河法皇が存命中は将軍職に就くことは出来なかった。
そして将軍宣下より七年後に頼朝は死ぬ。
余りにも早すぎる死であった。天下の権は即座に執権・北条氏に奪われて政は民のものではなくなった。御家人たちは権力闘争に明け暮れ、要の北条得宗家は自らの地位を保身するばかりに幕府創建の立役者たちの多くを闇に葬っていく。次第に私腹を肥やす役人たちが横行し、彼らを取り締まるべき鎌倉は政争に終始するばかりで地方を顧みることはなかった。その結果、各地では凶作が続いて疫病が流行り、その真っただ中に元の襲来を招いてしまう。
元の襲来に日ノ本は震撼した。しかし、源平合戦を語り草に生きてきた鎌倉武者たちは、武名を上げる好機とばかりに勇んで戦った。
ところが元軍は“てつはう”という火薬を用いた新兵器を使って幕府軍を圧倒、運よく神風が吹かなければ日ノ本がどうなっていたことか想像に難くない。武家は心構えこそ立派であったが、誰も元のことを知らず、奴らとどう戦うかなど考えていなかったのだ。
元はモンゴル帝国の中心国である。大陸を席巻した力は侮れず、滅ぼされた国は数知れない。その一国に日ノ本が名を連ねていたとしても不思議ではなかった。力こそ正義だった彼らには日ノ本の民が伝統としてきた権威というものは一切通じず、中華皇帝の如く誰でも力を持てば卑しい身分でさえ国の頂きに立つことが出来た。そういった価値観を持つ者たちが日ノ本を支配した場合、果たして帝が生き残れたかは保証できない。仮に叛乱が成功して日ノ本が建て直せたとして、果たして帝の血脈なくして復興と言えるだろうか。
答えは否である。
元寇は、下手をすれば日ノ本の根幹を根こそぎ変えてしまう事態へと発展した可能性があった。
(ここで舵取りを誤れば、この国は元寇の再来を招く)
民を重んじる信長にとって、頼朝の失態は見過ごせないものであった。特に将軍職へ就いてからの頼朝は敵らしい敵がいなくなった所為か政治的な動きが極端に弱くなる。ある意味、鎌倉幕府は滅ぶべくして滅んだと信長は思っている。
今も南蛮の脅威が迫っており、デウスこそが唯一の神を信じる南蛮人が帝を生かしておくとは考えられない。明国とて荒れていると聞くが、その詳細を正確に知る者は皆無だ。誰もが攻めてくるはずがないと勝手に思い込んでいるだけでしかなかった。
日ノ本に生まれた者として、信長にも帝を敬う気持ちは少なからずある。それ以前に日ノ本の人間でない者が、日ノ本の在り様を決めることに我慢がならない。
「此度は奥羽までの平定を視野に入れておる。故に軍を三つに分かつ」
軍議が始まると同時に信長が方針を告げた。
ここで彼らの意向を擦り合わせる気は信長にはない。平等に武功を挙げる機会を与えればそれでよいと思っており、大まかな方針は予め決めてあった。
「詳しく聞こう」
大名の中で信長と唯一の同格である上杉謙信が、皆を代表して質問をした。
「関東諸城を押さえるのが一つ、奥州と羽州の平定へ一つずつ向かわせる」
「我らは大軍ゆえ、固まって動く必要はないということか」
「左様だ」
「うむ、異論はない」
謙信が納得した様子を見せたため、誰も異論を挟まずに信長の方針が全体の方針として決定された。
「して、織田殿は如何なる役割を」
「儂は関東へ残る」
途端にどよめきが起こった。
関東の平定は、北条が滅んだ以上は大した戦果にはならない。故に織田勢が奥羽に攻め込めば、東国平定の功績を殆ど織田家に持っていかれることになる。それは諸将にとって大きな懸念材料だった。
何せ東国が平定されれば、西国を攻めている将軍・足利義輝の帰還と共に天下は一統される。そうなれば領地を得る機会など滅多に出てくるはずもなく、関東諸将にとって今回が最後の機会となるのは明白だった。そして一番の旨みである北条討伐を信長が一人で持って行ってしまったのだから、奥羽攻めの動向は誰もが注視していた。
中には信長に擦り寄ろうとして、一番近い徳川家康へ便宜を図って貰おうと接近した者もいたが、それらは全て”そのようなことは織田殿が尤も嫌われること。悪いことは言わぬから自重なされた方がよかろう”という家康の助言に従った。
そして、その信長当人が自分の功績は関東だけでよいと言ったのだ。沸き起こる気持ちを抑えられぬ者もさぞ多いことだろう。
だが、誰も信長が関東に残る理由に気が付いた者はいない。
「ならば儂は奥羽に進まねばなるまい」
続いて発言したのは謙信である。
この中で将軍の名代を命じられているのは信長と謙信である。その一方である信長が関東に残るなら、奥羽で指揮を執るものが必要となる。謙信はどんな事情があろうとも奥羽に進む必要があった。
「まずは宇都宮だな。ようやく下野守殿を救い出せる」
安堵の表情を浮かべる謙信に続いて感慨深く何度も首を縦に振るのは、宇都宮家の名代として軍議への参加を許されている芳賀高定である。
現在、宇都宮家は皆川俊宗と壬生綱雄に乗っ取られた状態にあり、当主・下野守広綱は城内の何処かに幽閉されていると推測されている。高定が広綱の嫡子・伊勢寿丸を連れていることから最悪の場合、広綱が死去したところで何の問題もないが、謙信としては高定の忠義には報いてやりたいという気持ちが強い。
宇都宮は奥羽への玄関口である白河に通じる道の途上にある。また奥羽攻めの拠点にするに相応しい場所なために宇都宮奪還は関東に残る織田軍ではなく、奥羽攻めを行う謙信の役目となる。
「ならば儂も行こう。せっかく越前から出て来たというのに、まだ働いたと言えるほどの戦功は上げておらぬからな」
謙信に続いて長政が発言し、その後も諸将が続いたことで奥羽平定軍の大枠が決まった。
関東平定は上方からやって来ている織田と徳川軍が務め、主に武蔵と下総の鎮定を担う。また武田義信も関東に残ることを希望し、上総の平定を再び幕府側に転じた里見義尭と共に行うことになった。ちなみに信濃諸大名は、諏訪勝頼を除いて義信に従うことを希望している。
次に奥州には上杉謙信が赴くことになった。従うのは佐竹、結城、宇都宮など北関東に版図を持ちながら小田原へ参陣しなかった者たちと現在、下野を攻めている蘆名勢へ道案内を命じる予定だ。当面の目標は宇都宮城だが、積雪で動けなくなるまでに伊達領までは進みたいと思っている。
羽州には帰路も考えて浅井長政ら北陸勢、そして諏訪勝頼に越後守護・長尾景勝が道案内を買って出た。こちらも積雪の関係で、宇都宮経由ではなく越後から入る道を選ぶ。当面の目標は大宝寺領から最上領へ入り、羽州の切り崩しを行うことにある。
数で言えば、今後参陣してくる主に奥羽大名にもよるが、関東平定軍が約十万で奥州平定軍が四万、羽州平定軍が四万五〇〇〇程の規模となる。もっと軍勢を割いても良い気がするが、奥羽は基本的に幕府と敵対するような大勢力がいる訳ではないので、これでも多いくらいだった。恐らく武威を示して諸大名の境界線を幕命として定めるのが奥羽平定軍の主な役割となるはずだ。
但し、義輝からは内々に厳しい線引きをするように命じられている。単に本領安堵だけでは抗議の声が様々なところから上がることは容易に予想される。その場合、義輝の方針はどちらかの肩を持つのではなく、係争地を幕府が預かってしまい、極力は戦わずして幕府領を増やす。無論、明らかに言い分が酷く片側に筋が通るような内容であれば考慮はする。それでも納得をしないものが武力に訴えて来ることも考えられるので、その時こそ平定軍が武力を以って成敗することになる。
一方の関東平定軍は、千葉や佐野、皆川、壬生、那須など北条に通じた連中を相手にすることになる。彼らは直接に幕府と敵対した訳ではないが、もう言い分を聞く必要もない。今後、彼らの幕府へ対する忠義は期待できないのだから、所領を得られることになる大名からすれば、彼らは滅ぼしてしまいたい存在だった。
関東軍を指揮する信長も彼らの意向など真っ向から跳ね付けるつもりである。
「織田殿、出立する前に話しておきたいことがある」
軍議が終了し、皆が退席する最中に謙信が信長を引き止めた。
「何の話だ」
「天下が一統された後のことだ」
端的に聞き返した信長に対し、謙信も端的に答える。
「相判った。今宵、我が陣へ参られよ」
そう言って信長は自陣へ戻っていく。夜に来いということは、長くなる話を受け入れる旨を暗に告げているのだろう。
信長と膝を付き合わせて話は、これが初めてだ。その結果次第では、今日の軍儀を覆すことも考えられる。
諸将が如何にして戦功を上げるかに意識を捉われている中、両雄が天下について語り合う時が近づきつつあった。
【続く】
今年二発目の投稿です。
さて話が大きく進んだ訳ではありませんが、今回にて北条が本当に滅んでしまいました。次回は信長と謙信の話となり、次に東国のことについてようやく触れていくことになります。
またこれは個人的な歴史観が強く出ているところなのですが、信長は頼朝よりも清盛の方を評価しているのではないかと思っています。様々なご意見あると思いますが、ご容赦くださいませ。