第五幕 脅威の一端 ~日ノ本の防人誕生す~
九月八日。
相模国・小田原城
時節は秋となっていたが、未だ照りつける太陽は熱く、ここ小田原城は異常な熱気に包まれていた。まだ時折は残暑を感じる日がないわけではないのだが、それにしても暑すぎる。太陽の光も去ることながら、当たり一帯に広がる熱気が、その原因だった。
その立ち込める熱気の中で、伊勢氏規は焦っていた。
(このままでは小田原が落ちてしまう!何か手を打たねば北条が滅びてしまう……!!)
目の前に広がる光景を氏規は、十日ほど前まで想像すら出来なかった。
今月の朔日のことだ。
いきなり信長より全軍に城攻めの開始が通達された。
織田総軍に加えて伊勢、徳川の上方勢は城に仕寄るよう命じられ、諏訪と上杉、武田の遅れてきた面々は後詰めという名目で城攻めからは外された。とはいえ氏規は仕寄って敵の注意を引く事のみで充分とされ、家康も敵の抵抗が激しければ自己の判断で後退を許された。
(正気か!?信長は自分たちだけで小田原を落とすつもりなのか)
当初、織田軍の力を正確に知らなかった氏規は、信長の判断を無謀と断じた。小田原城の堅固さを知り抜いている者からすれば、それは当然の感情と言える。
「始めよ」
短い号令から始まった織田軍の攻撃に、城攻めに加わった全ての武将が目を疑った。
「放てッー!!」
城を包囲するように築かれた築山や井楼から夥しい数の大筒が猛威を奮った。攻撃は苛烈に極まり、立ち昇る硝煙は一帯に広がって周辺からは小田原城が燃えているのではないかと錯覚させるくらいの凄まじさだった。信長が用意したの大筒は一〇〇匁砲で六〇門、二〇〇匁砲が二十二門、五〇匁や三〇匁などの大鉄砲に分類されるものまで含めれば、二〇〇挺に近い火砲が小田原城に向けて放たれたことになる。
もちろん砲撃は通常の鉄砲が放つ間隔ほど短くはなく、一発を放てば銃身を冷やし、充分に間を空けてから次の砲撃を行っている。というのも大口径の大筒になればなるほど織田軍には代えがなく、現に最初の一日だけで二〇〇匁砲の銃身に亀裂が入り、織田軍は五門を失っている。それは未だ大筒の完成度が完璧ではない事に加えて小田原攻めの為に急造させた結果であった。
このような攻撃を信長が行ったのは何故か。
(小田原すら落とせば、関東は平定したも同然。奥羽平定が残っておるが、大筒を使う機会は少なかろう)
それは大筒の出番は小田原のみと想定していたからだ。
信長が重視したのは、小田原陥落という戦略的な波及効果にある。その為には小田原で大筒の大半を失っても余りある価値を見出していた。
そも小田原城は“軍神”上杉謙信の攻撃を二度も防いだ難攻不落の名城である。それを信長が僅かな期間で落とせば、北条に味方して幕府と潜在的に敵対している大名たちの戦意は一斉に挫かれるだろう。北条が長く関東を支配してきた大大名であること、北条自身が自らの居城の堅固さを喧伝していたことが全て裏目に出るのだ。
北条という大木が幹から倒れれば、千葉、佐野、那須、皆川などの枝葉は如何に青々と生い茂っていても共倒れするしかない。これらを個別に相手をしたならば、それこそ一年では足りず、これまで謙信がやって来たような苦難の道を歩むのが関の山だ。それを信長は判っているからこそ、かつて稲葉山城を落として東濃を手に入れ、観音寺城を攻めて江南の大半を手中に収めてきた。朝倉攻めでも一乗谷を陥落させることで越前一国を平定している。
それと同じやり方を信長は関東という地域で行っているに過ぎない。
これに気が付ける程の戦略眼を有す者は、十万を越える幕府軍の中で織田信長ただ一人であろう。いや気が付いていた者くらいは他にもいるかもしれないが、尚もそれを実行に移せる者は信長以外に存在しなかった。
「これが織田信長か。父上が将軍よりも敵視した意味がよう判った」
初めて信長が率いる織田軍を見る武田義信は、その様子に父・信玄が異常に信長を敵視していた理由を知った。明らかに信濃で相対した織田軍とは違う。義信が戦った柴田勝家は、良くも悪くも義信の知る戦国武将だった。
「…………ちっ」
そして諏訪勝頼も織田軍の圧倒的な火力に苦虫を噛み潰した表情を消せないでいた。それは敬愛する父がなぜ将軍よりも信長を倒すことを優先させたのかを知ってしまったからだ。
(父は信長が如何に危険か判っておったのだ)
勝頼は悔しかった。
武田信玄という武将は、勝頼にとって父という存在に止まらない。信玄は強さの象徴なのだ。それを越えることなどあってはならない。甲斐の虎が敗れたのでさえ、運の巡り会わせが悪かったと今でも自分に言い聞かせているくらいだ。
しかし、目の前の光景は嫌でも実力差を思い知らさせられてしまう。
まさに鎧袖一触とはこの事だ。
小田原城は大筒による砲撃で土塀は至るところで穴が開き、土塁や逆茂木は形を成さず、城門には亀裂が走った。各所に造られた障子掘は、銃撃の間隙を衝いて進出してきた丹羽長秀、稲葉良通、堀秀政らが総出で埋めていく。これには北条方も城内から弓矢を放って妨害してくるも織田方は千を越える鉄砲を押し並べて反撃、また大鉄砲を井楼から城内に向けて放つことで堀の埋め立てを支援した。
泥臭く、華々しくないものの着実に小田原城の備えは潰されていった。その中でも大筒の効果は絶大で、城攻めの開始から七日が経った頃には約半数の大筒が使用不可能に陥り、大筒の弾薬も半分ほど消費してしまったが、堅牢を誇った小田原城の縄張りを破壊するには充分だった。
一見すると見た目は大して変わらないまでも、あと一押しすれば崩れそうなところは随所に存在する。これまで織田は砲撃に集中するばかりで、一度たりとも城へは攻め寄せてはおらず、いま織田軍が襲いかかったなら北条がいつまで抵抗できるか判らない。
「防げて三日だな」
織田軍の力を一番よく知る徳川家康の見立てが、それだった。
「助五郎へ事の次第を問い質せ!」
この異常事態を危急存亡の秋と悟った北条氏政は、実弟・氏規の許へ再三に亘って織田の攻撃意図を問う密使を送ったが、氏規から明確な回答は得られずにいた。
(そのようなもの知るわけがなかろう!)
軍議すらまともに行われず、秘匿された信長の意図を氏規が知る由もなかった。氏規がやれることと言えば、城内の長老・北条幻庵と連絡を取り、早期の降伏に北条を導くことのみだ。
「城攻めが始まれば、織田本陣を突く御約束のはず!左馬助様はいつ動かれるのですか!」
「阿呆!儂が動いたところで何にもならぬことくらい城内からでも判るだろうがッ!城を守りたければ、兵を繰り出して織田の備えを崩して見せい!」
いつまでも他力本願な兄に氏規は苛立ちを募らせていた。
こうなってしまっては、北条が勝つ道は乾坤一擲の突出攻撃しかない。本来の備えを失ったも同然の小田原城では、十数万の幕府勢を相手に戦い抜くことは不可能だろう。しかし、突出には織田軍も備えている。四〇〇〇挺近い鉄砲隊が北条の反撃に備えて火種を絶やさず銃口を城内へ向けているのが、その証拠である。
「城内は今も徹底抗戦の構えなのか。幕府に降伏を説く者はおらぬのか」
もはや後がない氏規は、率直に和睦派の動きを風魔に尋ねた。
「幻庵様が御本城様に和睦を御進言されたと聞き及んでおります。自らの首を差し出すことを条件に、何とか北条の存続を図るべし、と説かれたとか」
「幻庵様の首を差し出す!?そのようなことが罷り通るはずがあるまい」
「御明察通り、家中からは反対の声ばかりが上がったとのこと」
一族の長老たる幻庵がその首を差し出す。その意図は判らぬでもないが、信長にすれば小田原は既に落ちたも同然のはずで、恐らく幻庵の皺首一つでは満足するまい。確実に欲するのは氏政の首、それを以ってしての和睦ならば、信長も応じると思われる。
(こうなっては兄上に覚悟を強いるしかない。幻庵様は反対されるかもしれぬが、已むを得ぬ)
急ぎ氏規は密書を認めて風魔に託す。一両日中に決断を受け容れねば、北条の滅亡は必至だ。
(儂も身命に懸けて信長を説得してみせる!)
最後の交渉に望みを託し、氏規は早雲寺へ向かった。
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同時刻。
小田原城外・上杉謙信ノ陣
かつて自らが攻めた小田原城が、大筒の力であっという間に崩れていく様子は上杉謙信にとって青天の霹靂だった。
小田原は鉄壁、そういう認識が自分の中のなかったとは言えない。二回目の小田原攻めを当初から力攻めを諦めたのは、その術を見出だすことが出来なかったからだ。しかし、織田信長はやってのけた。もはや小田原が風前の灯であることは誰の目にも明らかだ。まず間違いなく小田原は落ちるだろう。
(小田原を落とすのは、織田殿の力ではない。あの大筒が小田原を落とすのだ)
謙信は小田原陥落の本質を正しく理解していた。と同時に鉄砲というものの認識を改めなくてはならない現実を突きつけられている。
元来から戦場に於ける主役は槍でも刀でも騎馬でもなく、弓矢である。実に死傷者の七割が弓矢によるものである事実がそれを物語っており、鉄砲は、弓矢の代替え品というのが大名たちが当初に抱いた認識だった。
ただ鉄砲は高価で玉薬も銭がかかる。それでいて雨に弱く弓矢に比べて連射も効かず、音に慣らさなければ馬も驚いてしまうから厄介だ。鉄砲が弓矢に比べて優れている点といえば、その必中距離だろう。弓矢の方が最大射程は長いが、遠くまで飛んだところで的を射れなければ意味はない。そうなってくると弓矢は半町先に当てることすら相当な練度を要する。普段は農作業に従事している農兵らに訓練を施すのは、中々に難儀で膂力に優れた武士のみが、その域までに達しているだけだった。逆に鉄砲は、弓矢に比べてさほど練度は高くなくてもよく、少々器用であれば農兵であれ半町先の的に当てられる者はいる。農機具という道具を扱って生きている彼らの中には、そういった器用な者はそれなりに存在していた。
それでも鉄砲は選ばれなかったのは、非常に高価であることに加えて生産地が限られるために稀少で、手には入り難かったのが最大の理由だ。
もちろん鉄砲の有用性に気が付いた大名は信長以外にも多くいる。島津貴久、大友宗麟、大内義隆、毛利元就、三好長慶、今川義元、武田信玄、北条氏康、佐竹義重などが該当する。また幕府の長たる将軍・足利義輝もその一人である。
だが鉄砲の弱点を克服できるだけ大量に揃えられたのは、織田信長だけだった。信長は東海道と東山道の二つを押さえ、幕府に協力することで京、堺への道を確保し、街道を整備して治安を回復し、関所を廃止して商人たちの評判を買った。その立場を利用して浅井との係争に勝利し、生産拠点である国友村をも掌中に収めている。
その信長が次に着目したのは、大筒である。
この大筒とて信長の発案ではない。鉄砲と同じく南蛮人が持っているもので、その事は謙信も承知している。
(鉄砲や大筒は南蛮人が造り出したもの。彼の地には、まだ儂らの知らぬ武具があるやも知れぬ)
そう考えると途端に謙信は戦が恐ろしくなった。あの“軍神”上杉謙信がである。
南蛮人は日ノ本の民より身体が大きく、力も強い。それでいて鉄砲や大筒を数多所持していると同時に、それらを運んでくる造船技術がある。先日、信長より贈られた宇内球が彼らの恐ろしさを如実に表していた。
(織田殿が何故に天下一統を急がれるのかが判ったわ!このまま我らが内輪揉めを続けておれば、南蛮人の脅威に晒されぬとも限らぬ。だからこそ上様の下で天下を一統し、備えを固めねばならぬのだ)
よい意味で宣教師に対して先入観を持たない謙信は、そのように答えを導きだしたが、同時に疑問も浮かんでくる。
(であれば何故に織田殿は、それを上様に進言せぬのだ。上様とて、話を聞かされれば納得はされよう。その上で諸大名に呼び掛ければ、天下一統は武力で纏め上げるよりも簡単に成るはず)
諸大名が武門の棟梁たる征夷大将軍の率いる幕府に反発するのは、明確な所領安堵がないためだ。諸大名の権益を幕府が脅かす限り反発はなくならないだろう。いま攻められている北条とて、その権益を幕府が認めれば、従う公算は高かった。現に志半ばで世を去った北条氏康は、幕府の総代として関東を治める戦略で事を進めていた。
当初は、それも仕方がないことだと思う。幕府の力は有名無実で、義輝は自ら足利将軍家の力を高める必要があった。故に強すぎる諸大名の力を削減し、幕府の力を高めていった。だがそれも今となっては幕府の力を抜きん出る者はおらず、あの北条とて幕府が本腰を入れた途端に追い詰められた。誰も敵わぬ力を得た以上、諸大名の所領を安堵してしまえば即座に天下一統は実現すると謙信は考える。
(まだ足りないということか)
信長の真意がそこにあると見ていいだろう。幕府が本腰を入れたとて、実質は織田軍のみの力に北条は屈しようとしている。結局は、その程度なのだ。南蛮の武具を模造した織田軍の力程度に日ノ本でも一目を置かれるほどの大大名たる北条ですら敵わない。単純な国力で比較すれば、織田家と北条家に極端な差はないはずだ。それでも結果は目の前にある。
今のまま中途半端な力を諸大名が持ったまま一統が成れば、南蛮に攻められた時に大名たちは幕府を頼らず、まず自らの力で反撃を試みる。そして試みている間に、その大名家は滅びる。それは日ノ本の力の一部が削ぎ落とされることと同じ意味だ。
それほどまでに南蛮の力は日ノ本を突き放している。
ならば諸大名の力を限りなく小さくし、最初から幕府を頼るようにすればいい。そうすれば日ノ本は一つの塊となり、南蛮に対抗し得る。信長が目指しているものがそれだとすれば、その行動に一つの矛盾を除いて説明がつく。 管領の廃止に敵対勢力の徹底的な打破など全て日ノ本の力を幕府に集約させるものだと考えられるからだ。
(織田家はどうするつもりなのだ?)
一つの矛盾、それは当の信長が当主を務める織田家だった。
このまま天下一統が成れば、織田家という大大名のみが幕府という枠の中に残ることになる。織田家を解体しない限り、その矛盾はなくならない。仮に織田家が上杉のように関東管領家と長尾家と二つの家から成り立っていたならば、自ら分割して力を削ぎ落とすことは出来るが、織田家にそのような経歴があるとは聞いたことがない。
(織田殿の真意を儂が問わねばなるまい)
そう覚悟を決めたと同時に、謙信は強い寂寥感が襲った。
これまで謙信は信長を同志と考えていた。永禄二年に義輝の命に従って上洛し、同八年には共に兵を率いて義輝を助けた。奇妙な巡り合わせとも思うが、それは己が宿命と思うのが性分である。そして謙信は東で、信長は西で戦い義輝を支え続けた。
信長を忠義の士と謙信が思い込むのも無理はなかった。自らと同じ忠節を義輝へ向けているのだと錯覚した。多少、義輝と意見が分かれることはあれど、敢えて諫言をするのが真の忠臣と謙信は思うので、信長の行動に理解を示してきた。
だが信長は主君たる義輝の意を無視して日ノ本の在り様に手を付けようとしていた。不遜も甚だしく、そこに忠義の欠片もない。絶対に自分では歩めない道だ。しかし、不思議と謙信は心の内に怒りが湧いて来なかった。昔の自分ならば主君が蔑ろにされれば憤慨し、刀を手に怒鳴り込んでいたことだろう。
(日ノ本を憂う……、その心に偽りはあるまい)
怒りが湧いて来ないのは、単純に信長が義輝を排除しようとしている訳ではないからだと思う。その理由は定かではないが、日ノ本を守らんとした時、南蛮に対抗し得る強い存在が必要なのは判る。合戦とて大将がいなければ成り立たず、日ノ本の大将は武門の棟梁である征夷大将軍が相応しい。義輝はその地位にあって広く武家に存在を認められており、自らも武芸に秀でるなど棟梁に能う力と素養を持っている。
これを敢えて排除しようとするのは、それこそ合理性を重んじる信長のやり方に合わない。無用な争いを生み、新たな棟梁の誕生まで南蛮に大きな隙を晒してしまうだけだ。
もしかすると信長は自分ではなく義輝の同志なのかもしれない。義輝は日ノ本を憂い、信長も憂いている。そう思うと信長が羨ましくもあった。自分は義輝を上様と仰ぎ、主君と家臣という立場を踏み越える真似は出来ない。それでも一人の武士として日ノ本を憂う気持ちは謙信にもある。贈られた宇内球から感じられる信長からの信頼には、同志ではないが友として是が非でも応えたくなった。
(されど、果たして織田殿は儂に何をさせたいのだ)
しかし、そうなって来るともう一つ疑問が浮かび上がる。信長が“上杉謙信”に期待していることは何なのか、ということに思考を向ける。
政略、軍略両面を含めた戦略については、謙信から見ても信長の方が優れていると思う。特に政略面で信長は随一だろう。幕府と同じく検地を行って中間層の搾取を徹底して排除、また幕府に先駆けて一部で石高制に移行した地域もあり、年貢を米納にしたことでも実質で農民の負担を減らしている。関所を廃止して街道を整備したことで織田領内に於ける物価が下落し、さらに民は豊かになった。同時に信長は合戦に必要な物も安く手に入れる事が出来る。銭は津島や熱田から安定的に入り、儲かった商人からは冥加金として徴税する。これにより織田は莫大な富を抱え、他の追随を許さない国力を有すことになった。
では軍略面はどうか。こちらにかけては負けているつもりはないが、織田の鉄砲隊は強力だ。しかも大筒を備えた織田の部隊を蹴散らすのは相当に難儀する事だろう。無論、対等な条件であれば確実に勝てるという自信はある。合戦に於ける駆け引きについては、自分の右に出る者はいない。
上杉と織田は共に拙速を得意とする軍団であるが、上杉勢は謙信の手足の如く動くのに対して織田勢は信長に無理矢理に引っ張られている感が強い。これは信長が家来に一定の裁量権を与えて半ば自立させている所以だろう。その範囲内ならば主君に伺いを立てなくていいので、素早く動けるのだ。だが家来は信長のように有能な者ばかりではないために意思の疎通が出来ていない場合、どうしても動きが鈍る。それは戦場に於いて大きな隙となった。
その隙を見抜くのが、謙信の一番得意とするところである。
では上杉は何故に謙信が手足のように部隊を動かせるのかといえば、ある種の信仰心の賜物であろう。謙信自身を信仰の対象とし、発せられる命令を神の御告げと等しく信じ、誰も疑いを持たない。だから部隊は素早く動く。
何も謙信は最初からそうだった訳ではない。兄・晴景の下で戦っていた頃は言うことの聞かない家臣が多く、正式に家督を継いでも苦難の連続だった。それを謙信は勝利という結果で塗り替えてきた。いつしか人は謙信の事を“毘沙門天の化身”と呼ぶようになり、自らも毘の旗を掲げるに至る。
軍神・上杉謙信の誕生だ。
もし武田信玄が“軍神”となる前の謙信と対峙したのならば、勝つのはそう難しくなかっただろう。軍略は互角でも政略で信玄は謙信に勝っている。最終的な勝利を信玄が手にする事は想像に難くない。だが信玄は謙信に最後まで勝てず、川中島一帯を維持したに止まった。それほどまでに信仰というものは侮れない。
本願寺一向一揆が各地で武門を苦しめたのがよい例だ。一向一揆に加わった者の中には、普段は合戦へ狩り出される農民兵以外にも農作業にしか従事しない者たちも含まれている。それですら武士が手を焼く程の力を発揮するのだ。そして当の武士が信仰心を抱いた結果が上杉軍団だった。その凄まじい力川中島の信玄や関宿の氏政のように上杉よりも多くの兵を用意し、策を講じ、一族や重臣らの多くを犠牲にして初めて退けられる。
しかし、それは果たして勝利と呼べるものなのか。
「……儂は織田殿に敵わぬな」
思わず本音が口から漏れる。
信長は上杉と戦えば間違いなくこちらの三倍以上の兵を用意する。それに加えて数千挺の鉄砲に大筒がある。更に言えば信長は絶対に自分から攻めては来ないだろう。攻め手に回った時点で鉄砲の優位性を失うからだ。織田が攻め手に回るとすれば、こちらに大打撃を与えた後だ。
となれば両軍は長陣が続く。その際の兵糧は、織田軍の方が数が多いので消耗が激しいが、信長は恐ろしく兵站に気を使う。能力を織田が優れており、追い込まれるのは上杉の方だ。そうなった時、謙信には砲煙弾雨の中へ無謀な突撃を敢行するか、戦略的撤退という敗北を受け容れるかのどちらかを選択しなければならない。
それも現状であればという条件下での話だ。もし謙信が鉄砲や大筒を同様に所持していれば、結果は変わってくる。それに謙信と信長は敵ではなく味方だ。このまま天下一統されれば謙信が鉄砲や大筒を手に入れることは難しくなく、謙信が幕府の守護神として軍制を改革に着手すれば、それこそ南蛮に対抗し得る軍団を創り上げるのも夢ではない。
「見つけたぞ、儂の役割を」
その瞬間、謙信の瞳は晴れたように澄み切った。
天下を治めていくには人一人では不可能だ。義輝であれ信長であれ余人を頼りとせねばならず、それを当人たちも判っている。だからこそ義輝は信長を排除せず毛利元就を許し、北条氏規を引き入れ、土岐光秀や長宗我部元親、浅井長政など才能ある者に働く場を与えているのだ。
「そういえば昔、上様に隠居を申し出たら酷く叱られたことがあったな」
謙信は輝虎から名乗りを変えた時の事を思い出し、苦笑した。
思えば自分こそ天下が一統された後を見ていなかった気がする。人一倍、秩序ある世の為にと働いてきたが、肝心なのは一統された後なのだ。領地は攻め獲るよりも、維持する方が難しい。それは謙信にも経験があるから判る。
日ノ本とて同じだ。一統した後に治めていくことは相当に難儀するだろう。再び乱世に返ることなく、南蛮の脅威を退けられる強固な政権を創らねばならない。それは長きに亘った乱世に於いて、終焉を迎えた者の役目だ。
「よし、やるか」
決意を新たに、謙信は陣幕を出る。いま自らがやらなければならないことは、この戦いを見届ける事だ。鉄砲、大筒を駆使した戦いを記憶し、自分の物としなければ一統後に謙信の出る幕はない。
後に日ノ本の防人と呼ばれることになる上杉謙信、人生最後の節目であった。
小田原の陥落は、もう間近まで迫っていた。
【続く】
今回は上杉謙信が主役ですが、信長の戦術を見ての各将の反応も描写しています。
さて小田原城攻めですが、まるで近代戦のような砲術戦でびっくりされた方もいらっしゃるのではないでしょうか?しかし、史実でも織田勢は播磨国神吉城攻めで同じ事をやっています。神吉城攻めでは信忠が総大将で指揮を執りましたが、丹羽長秀や滝川一益が築山や井楼から大筒を使って城を砲撃、備えを打ち崩したと信長公記にあります。堀も藁で埋めたとあり、当時は織田軍特有の戦術であったと考えられ、今回は信長自らが出陣ということに加えて織田家の周辺に敵対勢力がいない以上は総力戦で挑める背景から規模を大きくしています。
それを見た謙信が如何に思ったか。
既に乱世は終焉に向かっています。幕府は日ノ本の過半を抑えており、謙信は史実以上に幕府というものを軸に物事を考えるようになっています。
人間関係は会社勤めをしていても思いますが、会社に属しているからといって帰属意識が高い訳でも社長に心酔している訳でもありません。これは当時でも大して変わらないのではないかと筆者は思っています。あの藤堂高虎とて“七度、主君を変えねば武士とはいえぬ”など言っています。故に忠義心がないからといって、謙信は信長を責めることは出来ないと考えました。もちろん主君に刃を向ければ大罪ですが、信長はそのようなことはしていない。むしろ気高い志を有している。
作中で不遜などという言葉を使いはしましたが、この時代の武士は江戸と違い主君に対しても結構いいたいことを言っていたのではないかと思っています。そして謙信は戦の天才、南蛮の脅威を即座に見抜いたとて不思議ではないとも思います。史実では東国にいて宣教師など南蛮人に対してどのような感情、考えを抱いていたか知る由もありませんが、会ったことがあっても一度か二度のはずです。故に好印象は抱いていないと思いますし、毘沙門天を信仰していた謙信がキリスト教に興味を示すとも思いませんので、こういう展開とさせて頂きました。
一応、信長と違いはあれども南蛮に対する脅威のほどは義輝も気が付いています。ただ描写をしてしまうと信長のときに書き難くなりましたので、まったく描いておりません。その辺りは次の西国編で描くことになります。
次回、ついに小田原城が陥落です。北条方最後の活躍をご期待ください。




