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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第七章 ~鎮撫の大遠征・東国編~
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第四幕 真意 -信長からの贈り物-

八月九日。

武蔵国・忍城


織田信長率いる幕府連合軍が小田原城へ向かっている頃、関東諸将を束ねる立場にある上杉謙信は、忍城にいた。


謙信は川越合戦で見事に勝利を収め、次に鉢形城にいる武田義信と合流して北条氏邦を倒そうとした。氏邦さえ倒せば武蔵に敵らしい敵は江戸城と小机城くらいで、忍、松山、滝山城の三つを落とした今となっては兵站の確保は十全だ。まもなく着くであろう鉢形城の勝敗次第で謙信は小田原へ向かえる。


「して、蘆名止々斎は如何しておる」


部屋の隅に控えさせている軒猿へ謙信は尋ねる。


「はい。蘆名勢は蘆野資泰を降伏させて南下、伊王野資信の伊王野城を包囲しておりましたが、大田原綱清が我々に味方することを宣言したために孤立、資信は那須資胤の烏山城へ逃げた由にございます。南の川崎城の塩谷義通も味方となったことから、徐々に宇都宮城へ迫っております」

「常陸介はどうか」

「佐竹殿は軍勢を催して結城城を包囲。調べたところによれば、結城晴朝は再度、北条方を離反して我らに付くつもりのようです。城内と外で、密かに文のやり取りがあることを確認しております」

「……常陸介め、このまま戦が終わるのを待つつもりだな」


報告を聞き、義重の賢しさを鼻で笑った謙信であるも、何処か頼もしげに思えた。


蘆名勢の南下は単に実力差が出た結果と思う。奥羽随一の実力者である蘆名止々斎に対抗したければ、下野の国衆が一丸となって立ち向かわなければ不可能だ。それにも関わらず下野は幕府方に属する宇都宮と北条に組する那須、佐野、皆川、壬生に分かれている。しかも蘆名が止々斎によって結束を保っているのに対し、北条方は目先の目的が一致しているだけの協力関係に過ぎなかった。自ずと結果は見えていると言っていい。


また常陸では国内に閉じ籠もっていた義重が動き、結城城を取り囲んだ。傍目には兵糧攻めに見えているが、恐らく晴朝と示し合わせた自演と思われる。義重の下には結城家臣だった水谷蟠龍斎(はんりゅうさい)がおり、繋ぎはいくらでも取れる。今のままでも幕府方として懸命に戦っていると義輝に報告できる。戦後、幕府が勝てば悪くても所領安堵、運が良ければ加増を見込める。それも大した損害も出さずにだ。反対に北条が勝つような事があっても戦力を失っていない佐竹は疲弊した北条に如何様にも対抗でき、幕府の再侵攻まで十二分に戦い抜けるだろう。


そういう点では義重は、どう戦局が動こうとも損をしない選択をしていると言える。そういうところを謙信は苦々しくも頼もしく思えてしまったのだ。


何故なら、それであっても謙信が小田原へ進むことに役立つからだ。


川越の合戦で里見義頼は離脱した。これは北条に降伏したはずの安房の大名・里見義尭が潜在的な敵対行動に移ったと考えていい。となれば、その里見から奪ったものの支配化が進んでいない下総の兵は、自ずと動かせなくなる。上総の千葉氏も結城晴朝が佐竹と通じている風聞は伝わっており、結城城が落ちれば次は自分が狙われると判っている状況で、謙信の妨害に出て来るほど愚かではあるまい。


ならば謙信は、鉢形城さえ攻略できれば先へ進めることになる。忍城へ戻ったのは、その確認とこちらの動向を味方に伝えるためであった。


そこへ“織田信長が十万の大軍を従えて駿河に入る”との報せが舞い込む。


つい先ほど受けた報せは、確実に東国を大きく揺るがす。北陸道を進む浅井長政からも朽木、蒲生、畠山ら北国勢三万二〇〇〇が今月の末には関東入りできるとの報せが届いている。西から都合十三万もの援軍が駆けつけるのだ。それでも北条の味方であり続けようと思う者など古くからの家来衆以外にいるはずもなかった。


(遅れる訳には行かぬ)


敬愛する主君から託された使命と責任が謙信にはある。全てを信長に委ねるような真似は出来ないのだ。鉢形城に手間取れば、もしかすると信長が小田原城を落としてしまうかもしれない。小田原城は堅城であるが、信長が如何にして挑むかも興味がある。そこに自分が間に合わないということは、あってはならない。


翌日、すぐに謙信は鉢形城へ向かった。


鉢形城は川越合戦後に上武連合の猛攻に三ヶ月間も堪えてきた。一万もの軍勢を擁す氏邦は兵を叱咤し、巧みな采配で連合軍の攻撃を次々と跳ね返していたが、遂には大手門近くに造られた大光寺曲輪を武田義信が奪取、これを機に現在は降伏交渉が進められている。


それでも交渉は難航した。


城方の兵糧も乏しかったが士気は旺盛、氏邦も主家への忠誠を重んじて頑なに開城を拒んだのだ。だが二十四日なって浅井勢が姿を現すと、連合軍は六万を超える大軍勢となった。


それが決め手となり、氏邦は降伏を承諾する。一先ずは身柄を義信が預かり、連合軍は小田原へ向かうことになった。


「このまま小田原へ向かっても我々は働き場がありませぬ。道中、いくつか北条方の城を奪って参りたいと存ずる」

「相判った。されど道案内は必要であろう。我が家中から幾人か同行させよう」

「それは有り難い。感謝いたす」


途上、長政の申し出により連合軍は二手に分かれて進む事になった。上杉と武田は西側に滝山城経由で相模平塚を目指し、海岸沿いに小田原へ至る道を進み、長政ら北国勢は武蔵国分寺を経由して小机、玉縄の二つの拠点を攻略してから小田原城に向かう道を行く。


かくして徐々に北条の領地は次々に幕府方へ奪われていったのである。


=====================================


八月三十日。

相模・早雲寺


織田軍が小田原へ着陣してから二十日が経過していた。十万に及ぶ大軍勢を指揮する大将である信長は、早々に小田原包囲の網を固めるよう指示を出していたが、各将より準備が整ったとの報せを八日前に受けたにも拘らず、未だに城攻めを開始しようとはしなかった。


早雲寺に本陣を置いた信長は、城の西側から早川沿いに丹羽長秀ら近江衆、稲葉良通ら美濃衆、堀秀政ら側近衆、池田恒興ら尾張衆が布陣、北側の山沿いに滝川一益、実弟・長野信良、羽柴秀吉、佐久間信盛、織田信重、柴田勝家など信長麾下で一軍を任されている面々を布陣させた。その隣、足柄街道を押さえる形で伊勢氏規が陣を敷き、その後ろ織田勢に遅れること数日でやってきた諏訪勝頼の姿がある。そして徳川家康は城の東側を担当、一部の兵を反転させて酒匂川沿いに布陣させることで、外側から来るかもしれない北条の別働隊に備える慎重ぶりを見せている。


前線では築山や井楼が城を包囲するようにいくつも築かれ、土塁や馬防柵が織田軍の前に延々と続いている。例えるなら織田と北条どちらが守る側か判らないくらいの構え、である。


「石垣山に城を築いては如何でしょう。あそこならば木々も高く生い茂っており、城を築いた後に伐り倒せば一夜で城が建ったように北条からは見えまする。敵の戦意を貶めるのに効果は絶大かと存じます」


陣城建設は織田軍の得意とする戦法である。これならば仮に同数であっても城攻めが可能となり、守る側は攻める側よりも多くの兵を用意しなければ打ち払う事は不可能になる。今回の場合、北条勢は織田単独よりも数で下回っており、十万を越える援軍を呼ぶ事も出来ない。北条が勝つためには夜陰に乗じて織田本陣を突き崩すような乾坤一擲の勝負を挑むか、我慢比べをして攻め手の兵糧が尽きるのを待つしかない。


(勝てぬかもしれないという思いは、確実の北条勢の中に燻っておる。こちらが城を築いてみせることで、必ずや表面化するはずだ)


その上で羽柴秀吉は、主の策を完璧にするべく早雲寺の傍にある石垣山への築城を進言した。敵の戦意を打ち崩し、降伏に持ち込む。それならば味方の犠牲を抑えることが出来る。


「無用だ」


ところが信長は秀吉の献策を一蹴した。


城を築くのには多くの費えが必要なおかつ普請に小さな城でも一月や二月はかかる。信長は短気だが待てない性分ではなく、必要と思うことならば何年でも辛抱できる性格だ。また吝嗇ではないので、献策を否定したならば否定したなりの理由が必ずある。


(小田原は兵糧攻めにするのではないのか?では御屋形様はどうやって小田原を落とすおつもりなのだ)


秀吉は信長の戦術を計りかねた。


小田原は上杉謙信が十万の大軍で攻めても落ちなかった城だ。故にてっきり秀吉は主が兵糧攻めを考えているものだとばかり思い込んでいたのだ。


織田軍は戦国大名の中でも特に兵站を重要視しており、今回も熱田や津島といった織田領内の湊に加えて伊勢の大湊、和泉国の堺などからも兵糧を調達している。特に熱田や津島は長く織田家の支配を受けており、重商主義路線の信長への信頼は厚く、今回の遠征に伴って二つの湊は織田家の為に一万五〇〇〇石ずつを拠出していた。


兵站に於いて織田軍に抜かりはなかった。畿内から七万石を調達し、小田原周辺で二万石を買い集めた。更に刈り入れ前に小田原を包囲することによって北条が納めるべき年貢米すら手に入れる。しかも刈り入れすら終われば、市中に米が流れるので、追加で買い入れることも可能だった。


十数万石の兵糧は、優に織田軍を一年遠征させるだけの量がある。もちろん織田家としてもそれなりに無理はしているだろう。ただ少しすれば織田領でも年貢米が手に入る他、信濃を領したことで東山道の整備に着手したことによる物流の促進で織田家はますます潤っている。


だが信長は沈黙を貫いた。伊勢氏規、諏訪勝頼は三度に亘って信長へ城攻めの開始はいつなのか問い合わせたが“時期尚早”との返答を送るばかりで、軍議すらまともに開かれなかった。


「織田殿のことである。何か考えがあってのことであろう」


一方で徳川家康は信長の指示を待つ姿勢を崩さず、いつ命令が届いてもいいように自陣に控えている。


そして信長の許に“上杉軍来る”の報せが届いた。


(ようやくか……)


ついに信長が重い腰を上げる。


毎日、朝駆けと称して自ら小田原城の物見へ出るという勤勉さを見せつつも一兵すら動かさなかった信長である。主の様子に配下の者どもは揃って“御屋形様は上杉の到着を待たれている”と感じていたことが正解だったと思った。東国で勇名を轟かす上杉軍の力を得て、万全の状態で小田原城を攻めるつもりだと。そう主の考えを忖度していたのだ。


確かに信長は上杉軍の到着を待っていた。だが、それは彼らの憶測とはまるっきり違っていた。


「織田殿!」


到着した謙信は、すぐさま信長のいる早雲寺を訪ねた。京で最後に顔を合わせてから三年半、二人は再会し、謙信は両手を上げて喜びを表現した。


「此度の来援まことに感謝いたす!」


開口一番、謙信は率直に己の使命であった関東平定の手助けに信長が来てくれた事への礼を述べた。永禄八年の上洛の時から共に義輝を支える同志と信長を捉えている謙信の表情は、喜びに満ち溢れていた。


(……老いたか、謙信)


その謙信と変わって信長の表情は、どこか鬱屈としている。


謙信は以前に会った頃よりも二回りほど痩せて見えた。噂では卒中を患ったとか聞いたが、姿を見るだけなら真実であったと確信するくらいの変わり様だ。ただ現在は肌の色もよく体調は持ち直しているように見える。


「我が不明を恥じるばかりである。儂が早々に関東を平らげておれば、織田殿にご足労いただくこともなかったのだ」


そのようなことを信長が思っているなど露とも思わぬ謙信は、再会の喜びからつい饒舌になっていた。普段の謙信ならば、こよなく愛する酒を飲んでもこのように舌は回らない。相手が唯一、自らの同志と呼べる存在の信長であるからこそ、であった。


「これ以上、織田殿に迷惑は掛けれらぬ。小田原攻めは我が軍勢が主力となって引き受けいたす故に、織田殿は我らが働きぶりを上様に報告して頂きたい」


だからこそ謙信は、暗に信長へ陣替えを申し出た。


上杉勢は織田軍よりも後に到着したこともあって、織田軍が小田原を包囲する網の外側に陣を敷くことになった。織田勢の数は多く、今のままでは城攻めが始まっても入り込む隙はない。


ただ見ていることしか出来ないのは性に合わない。


「……儂は上様より一年の内に東国を平らげよ、と主命を受けておる」


一方、信長は謙信の申し出を正面から断るような真似はせず、義輝から自らが受けた命令を口にした。義輝の名前を出せば、謙信は引き下がるしかないことを判っていたからだ。


ということは、信長は小田原攻略に謙信の力を必要としていないことになる。これは家来たちの予想に反する。


そして謙信自身も信長の物言いには困惑の色を隠し切れなかった。


「織田殿は如何にして小田原を攻められるおつもりか。見たところ築山、井楼を築かれているようだが……」


それを受けて謙信は、自分が落とせなかった城を信長が如何にして攻めるつもりであるかに興味がいった。


過去に謙信が小田原城を攻めたのは二度。一度目は信長と同じく十万の兵を擁して果敢に城へ攻め寄せたものの城門を突破すること敵わず、城下に放火して挑発に及んで誘引を試したが、当時の総大将だった氏康は固く門を閉じたまま出て来なかった。結果として上杉軍は城攻めを諦めて鎌倉へ移動し、そこで謙信は関東管領就任式を強行、戦略的勝利を手に入れた。


二度目は一度目より兵力が少なかったこともあって最初から力攻めを諦めており、義輝の思惑もあって和睦へ持ち込んだ。北条を幕府に恭順させることに成功し、氏規が幕府に出仕するきっかけとなり、もたらされた検地の技術は幕府復活の支柱となった。そういう意味では謙信が上げた成果は義輝の役に立っている事になるのだが、それを謙信が誇った様子はない。


「築山と井楼の上にかなりの鉄砲と大筒を備えておるな。まさか、あれで小田原城を攻めるつもりか」


謙信の言葉に、信長の眼は鋭さを増す。


軍神と称され、合戦の天才である謙信は、その眼で織田の陣容を確認することで信長の戦術の一端を見抜いた。ここで敢えて指摘をしたのは、信長の表情から確認を取るためである。


「単純なことだ。城が堅いならば、土塁も塀も門も櫓も大筒で吹き飛ばしてしまえばよい。堀が邪魔ならば、埋めてしまえばよい」


これを聞き、謙信は胸が高鳴った。


大筒というのは馴染みの薄い言葉だが、どういったものかは謙信も知っている。上杉軍にも大筒はあるが、それは十から三十匁砲が数挺といったところで、全てが大鉄砲に分類されるものだ。織田軍が持っているような一〇〇匁砲を越える大きなものはなかった。


(流石は織田殿よ。儂が思いつかないことを平然とやってのける。上様が重用なさるのも頷けるというもの)


謙信が信長が考える戦術を思い浮かばないのは無理もないことだった。


東国は地理的条件から西国に比べて鉄砲の調達が難しい。上杉を始めとする武田や北条という東国を代表する大名ですら、一〇〇〇挺ほど持っていればよい方である。


何故なら鉄砲の生産地はもっぱら堺か根来、国友と限られており、うち二つが幕府、一つが織田領に位置している。両者は共に鉄砲を重視しており、故に謙信が鉄砲を欲しいと思っても簡単に手に入る代物ではなかった。更に言えば鉄砲の調達には輸送の問題もさることながら、莫大な銭がかかる。ましてや大筒となると購入することすら難しく、産地を押さえて製造させるしか術はないのだ。これが西国ならば、南蛮貿易に頼るという選択肢が残るために、まだ調達の術がある。


現実的に無理な話であるから、謙信に鉄砲や大筒で小田原城を打ち壊すという戦術を思い付くはずがない。そのような類の話を謙信が普段からするような武将なら、軍神と呼ばれることもなく何処かの戦場で早くに討ち死にを遂げているだろう。


「小田原はすぐに落ちる。そなたが知らねばならぬものは、そこではない」


意味深な台詞を、信長は吐いた。


(謙信よ、儂はそなたと同じ十万の軍勢で小田原を攻め、そして落とす。儂とそなたで何が違うのか、そなたなら判るはずだ。判らねば、この先の天下には付いて行けぬ。悪いが儂の勝手にさせて貰うぞ)


刀が武士の証ならば、城は武家の象徴と云えるだろうか。その象徴を信長は“ある物”を使って破壊する。その事に何も思わぬ男なら、如何に自分が言葉を尽くしても無駄であろう。はっきり言ってただの徒労だ。自ら気づき、自ら動けぬ者などこの先に用はない。しかし天下を一統した後を考えた時、どうしても“上杉謙信”という男を必要に信長は感じるのだ。


だからこそ、信長はらしくもなく敢えてこのような回りくどい方法を選んでいる。


昔から勘はよい方だという自覚はある。戦略を緻密に練り上げ、いくつもの戦術を駆使して道を切り拓いていった。それでも信長も人間である。正直なところ何が正しいのか迷う時もあれば、追い詰められて他人に縋りたい時もあった。それでもここぞという正念場で、いつも信長は己の勘に従っていたのだ。それは自分を信じたという事と同じだ。


(もう我々には時がない。このように小さな国が馬鹿げた争いを繰り返している訳には行かぬのだ)


自分は機会があったからこそ気付けた。謙信は間違いなく、まだ気が付いていない。


(機会がなかったのだ。故に罪ではない)


信長に機会を与えたのは義輝であった。義輝も数少なき一統の後を見据えている人物だ。一統された天下を如何にして差配していくか完全に一致している訳ではないが、相対するものがあるかといえば、否である。ならば無用な対立を引き起こして日ノ本を疲弊させるのは得策ではない。むしろ無駄だろう。


(幕府という仕組みが果たして日ノ本に合っておるのか未だに判らぬ。されど義輝公が天運に見放されておらぬのは確かなこと。なれば天命に従うことこそ、我が往く道であろう)


信長は神仏を信じない。ただ天の意思のようなものは感じている。それでなければ説明つかない事が世の中にはあるからだ。


永禄の変を義輝は生き延び、幕府は蘇った。この大逆転劇は前漢末期に王氏の専横を許し、遂には天下を奪われたものの漢王朝を再興させた光武帝を髣髴とさせる。誰もが想像もしないことを成す。それは天に愛されていなければ不可能だろう。だから信長は義輝を支えるという選択をしたのだ。もし義輝が永禄の変で死んでいれば、間違いなく自分は違う選択をしたはずだ。義輝の弟の何れかが跡目を継ごうとも将軍として天下を担っていく器ではない。せいぜい上洛の為の大義名分として利用し、何処かで袂を分かったはずだ。


(足利将軍であれば誰でもよいという訳ではない。武家の棟梁に相応しき者でなければ、誰も従わぬ)


迫る脅威の前には、強い大将が必要だ。それに義輝は能う。


その義輝が天下一統の後に日ノ本を統べ、謙信が守護者として備えを固め、自分が海へ征く。そうすることによって日ノ本という国は、まだ姿を見せぬ脅威に対して僅かな光を見出せる。


(万が一の場合は、竹千代にやらせる)


謙信が能わぬなら、家康を代わりに据える。あれは小心者だが、備えを怠るような阿呆ではない。やり方次第では、謙信以上に化ける可能性を秘めている。家康は謙信に比べ若い。東国のみならず日ノ本すら背負える力を持つかもしれないと信長は思う。


「上杉殿に贈りたい物がある」


唐突に信長が言い出した。


目配りをした主の合図に合わせて、小姓の一人が球体に絵図が刻まれたものを担いでくる。興味深く観察する謙信であるが、その絵図が何処を描いたものであるか見当が付かなかった。


「これは宣教師より献上された宇内球というものだ。餞別に貰ってくれ」

「宇内?これが宇内だと申すのか」


謙信はさっぱり理解できなかった。


宇内とは世界のことを指す。余りにも漠然としたものであり、その世界が如何なる土地で形成されているかを知っているものは少ない。日ノ本の者ならば、三国つまり日ノ本に加えて唐、天竺を含めた地域を世界と考える。しかし、そんなものは南蛮人からもたらされた宇内球を見れば、ごく一部に過ぎないことが判る。


その世界が余りにも広いこと、そして球体であること。何よりも日ノ本が自分たちの想像より遥かに小さい国であることに謙信の思考が追いついていない。


「その宇内球に記されておるほぼ全ての土地に南蛮人は、足を踏み入れたことがあるという」


そう言って信長は、かつてガスパル・ヴィレラから受けた説明と同様のことを謙信に伝えていく。


「明日には城攻めに取りかかる。上杉殿は我ら織田の力を存分にご覧いただきたい」


説明を終えると信長は、お主の力は必要ない。ただ見ていろと謙信に告げた。


「……ん?あ、ああ。まずは織田殿の手並みを拝見させて貰うとしよう」


宇内球を前に半ば思考が停止していた謙信は、信長の言葉をありのままで受け容れた。自分が攻めても落ちなかった城だ。如何に信長であれ苦戦すると思う。その時こそ、二人が力を合わせればよいと考えていた。


だが謙信は信長の力を甘く見ていた。いや大筒という南蛮からもたらされた兵器とも云える武器の力を正しく理解していなかったのだ。


この日から十日後、小田原城は陥落した。




【続く】

またまた一ヶ月ぶりですが、本当に久しぶりに祝日にお休みを頂けたので、かなり執筆が進みました。よって13日12時に第五幕も続けて投稿します。


今回は初めて信長の内情を描写しています。始めに申し上げておきますが、今幕以降から特に信長の考え方に関連する動きについて読者の方々にはご納得いただけないところがあるかと存じます。まあ単純にこんなのは信長じゃなくない?って思われる方がいると思ってます。故の後書きです。


拙作での信長は史実と違ってあるターニングポイントを経ていません。それが拙作に於ける信長像に起因します。


史実の信長は、実は永禄の変の後に花押を変更しています。麒麟の字を崩したもので、それまでは父・信秀に似た花押を用いていました。麒麟は平和の象徴であり、将軍弑逆の後に花押を変更するという意味は、平和を求めていたからだと推察します。現代でいえば総理大臣が暗殺されて政権が乗っ取られるような話ですからね。世も末だと嘆き、その世の中に平和を求めても不思議ではありません。もう足利幕府では秩序は保てないと悟っても無理はないと思います。


しかし、拙作では義輝は間一髪で生き延びました。これに信長は天意を感じたというのが今回の流れです。正直なところ筆者自身は信長を他の大名と同列には見ていません。何故なら戦国乱世を終わらせるきっかけを作った人物ですから、如何に信玄や謙信が英傑であれ信長が勝ると思っています。地の利があったところで天賦の才がなければ三好長慶のように幕府を牛耳って終わったはずです。そうならなかったのは、信長が他の戦国大名と違っていたからでしょう。


何が違うのか、どう違ったのか、それは凡人たる筆者では判りません。


人一倍に平和を求める信長、民と交わる逸話が伝わっている信長、地球儀にまるわるエピソード、官職辞任という立場に対する希薄さ、おねや平手爺を想っての逸話や合理主義など至るところで知ることの出来る信長像を元にして拙作の信長像は出来上がりました。賛否はあるでしょうが、これが拙作に於ける信長です。


次回はこれを受けての謙信がメインです。小田原が本当に落ちてしまうのは次々回となります。最近は遅れがちですが、ご感想への返信は次回の投稿を待ってからにしたいと思っています。


長くなりましたが、信長については指摘しておかなければならない多くあり、ご理解いただければと存じます。

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