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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第七章 ~鎮撫の大遠征・東国編~
151/199

第三幕 小田原征伐 ~信長東征~

八月七日。

駿河国・駿府城


この日、駿河守護・今川氏真の居城である駿府城に(おびただ)しい軍勢が集結していた。かつて海道一の弓取りと称された氏真の父・今川義元の全盛期に於いてすら、これほどの軍勢が駿府に集まったことはない。義元が生涯の大動員をかけた桶狭間の合戦ですら二万五〇〇〇という数だった。過去に氏真は七万もの大軍を見たことがあるものの、それは頼もしい味方としてではなく、掛川城で織田と武田に包囲された時という悪夢でしかなかった。


しかも今回は、その七万という数を織田勢は単独で超えているのだ。


「何なのだ……、これは」


氏真は絶句し、その光景を見ていることしか出来なかった。驚きを通り越し、恐怖さえ覚える。


東海道を北条征伐に向う軍勢は九万七〇〇〇にも及び、うち織田勢が七万五〇〇〇で、徳川勢が一万二〇〇〇、伊勢氏規の河内勢が四〇〇〇で、今川勢が六〇〇〇である。


何と言っても圧巻は織田勢の七万五〇〇〇である。本国の美濃を始め尾張、伊勢、近江、飛騨、信濃から集まった兵の数は、国主・氏真の十倍以上を数えた。他の軍勢は遠征軍ということを考慮しても若干ほど河内勢が少し多いくらいで、国力を考えれば妥当な数字といえる。しかし、織田勢は明らかに多過ぎた。


幕府が行っている検地の範囲は幕府領もしくは幕府に降伏した者たちの領地で、織田や毛利など大大名の確かな国力は推測でしかない。織田は織田で検地を行っているようだが、客観的に見ても織田勢が関東へ派遣できる軍勢は、多くても六万ほどというのが幕府の見立てだった。織田勢は、その数を大きく上回っている。


(織田殿は先の謀反の折、兵を残してきても有事の際には何ら役に立たぬと悟ったのであろう)


同陣し、十二年ぶりに駿河の地を踏む家康は、そのように信長の真意を量った。


(しかも織田殿は、幕臣の連中から在らぬ嫌疑をかけられておる。下手に兵を残して行くよりは連れて行き、本国を空にすることで謀反の疑いを晴らす狙いがあるのだろう)


いま確実に信長の領地は空の筈だ。周辺には幕府に属す者たちの所領しかなく、味方であるが故に備える必要はない。信長は先に信頼を示すことで、義輝の信用を買ったのだ。


実利を重んじる何とも信長らしい采配だった。


その信長はというと、先月に従三位権大納言まで昇った。上位には義輝の実弟・晴藤がいるにはいるが、それを省けば事実上、位の上でも幕府で二番手になったことになる。世が世なら管領か副将軍として幕政を思うがままに操ったであろうが、今のところ信長は軍事にこそ口を出しても政治に口を挟むようなことはしていない。


そして北条討伐の軍議が始まる。


城主であり国主である今川氏真を差し置き、総大将たる信長は当然の如くに上座へ座る。上段から諸将に睨みを利かせつつ主導権を握るかのようにして己が話を進めていった。


「刑部大輔、駿豆国境の様子は如何がなっておる」


長口上を嫌う信長らしく端的に仔細を報せよ、とばかりに氏真に促した。信長は氏真を受領名でこそ呼んでいるが、敬称は付けなかった。まるで家臣に命令するかの如き扱いに氏真はムッと表情を硬くさせる。


「……戸倉城には、左京大夫殿の弟である四郎氏光が詰めており、いくらか援軍が入ったことを確認している」


だが氏真は“無礼”と信長に食ってかかることはできず、あくまで対等に口を利くことしか出来なかった。


「葛山氏元は押さえておろうな」

「備中守は我が家臣にござる。何の心配がござろうか」

「代替わりして二カ国も失ったのだ。離反の懸念などいくらでもあろう」


氏真は家督を継いでより三河と遠江の二カ国を失っている。幕府にも一時は反目した形となっているために将軍の印象がよいとも思えない。そのような主君に如何ほどの求心力が残っているというのか。名門意識の高い氏真はそのところをよく理解しておらず、家臣は例外なく自分に付き従うものという認識が強い。


かつて寿慶尼の遺言に従い、京で諸大名に頭を下げた氏真とは思えない対応だった。


(儂は凡愚よ。何をやっても上手くは行かぬ)


天竜川の敗戦が成長の兆しを見せた氏真の足を止めたのは間違いないだろう。偉大なる父に憧れ、その背中を目指したが、遂には手が届かず遠江を失った。名家の立場も失い、将軍の親族衆を名乗ることも許されなくなった。


それらの出来事が、氏真をかつての自分に戻してしまっていたのだ。


その氏真を見て、信長は見切りをつけた。役に立たぬと断じたのだ。氏真を一瞥し、興味を失ったように徳川家康の方へ視線を向ける。


「徳川殿、葛山氏元の調略を御願いしたい」

「御任せあれ。備中守は今川、武田、北条の国境で生き残ってきた猛者にござる。時勢を見る眼は持ち合わせておりましょう」

「ならば足柄城もそのまま御願いできますかな」

「無論」


小さい胸で虚勢を張る氏真と違い、家康は堂々としながらも深く頭を下げて従順に信長に従う姿勢を見せていた。


まず連合軍が向うのは駿豆国境にある戸倉城である。国境を守る城として、それなりに防備を調えているだろうが、こちらは十万に届かんとする数である。小城一つで押さえられるはずもなく、戸倉城にいくら兵がおろうとも早々に落城もしくは開城するのは規定路線だった。


その後、連合軍は三手に分かれなくてはならない。何故なら整備された東海道ならいざ知らず、箱根の関を越えるには連合軍は数が多過ぎるのだ。


一手は真っ直ぐに小田原城を目指す部隊。こちらは主力となる織田勢が相応しい。途中に山中城があるが、箱根峠を越えれば最短距離で小田原へ辿り着く。


また迂回組は足柄峠を越える難路を通る。こちらには今川の属将・葛山備中守氏元が城主を務める葛山城と足柄城がある。氏元は国境に領地を食む国衆らしく、今川、武田、北条のどの勢力とも懇意にしている。故に裏切る可能性が高く、警戒する必要のある男だった。


それでも氏元は立場上は今川に属しているため、氏真なら懐柔する余地は多分にある。しかし、先のやり取りを見る限りでは、事前に氏元をこちら側に繋ぎとめておくような方策は採っていないようだった。故に信長は一番の難所である迂回路を親密な徳川勢に御願いしたのだ。


となれば、後は伊豆の北条勢を誰が押さえるかである。


伊豆は北条の本貫とも言える土地で、韮山城を拠点に初代・早雲が勢力を拡大したところである。こちらの兵站を脅かせる位置に韮山城はあり、当然ながら攻略対象となる。ただ数の多い連合軍は、一部の兵さえ割けば小田原へは向かえる


「韮山は某に任せて頂きたい」


韮山城攻略に北条氏規改め伊勢氏規が名乗りを上げた。


義輝から拝領した河内以外に北条一門として相模国三浦郡に所領を持つ氏規であったが、韮山城の守将を務めていた時期もあった。それ故に韮山城の縄張りは知り尽くしている。ただ氏規としては、初代・早雲が韮山を拠点に今の北条を創ったことを重んじ、他人に韮山を好きにさせたくはなかった。自分であれば、韮山を無傷で開城させることが出来ると思っている。さすれば故地・韮山は荒らされずに済む。


「伊勢殿には小田原までの道案内をお願いしたく存ずる。韮山は、刑部大輔に任せるのが相応しかろう」


しかし、これを信長は認めなかった。


氏規が持つ北条領の情報を貴重であり、韮山城の攻略を任せでもすれば同地に留まることになり情報を織田軍は頼りもなしに敵地を進まなければならない。それでも北条を打ち崩す自信が信長にはあるも、無駄なことは厭う性分である。


「刑部大輔、異論はあるまいな」

「……構わぬ」


故に信長は氏規の意向を無視し、話を進めてしまう。白羽の矢を立てられた氏真とすれば韮山城を囲んでいれば小田原攻めに動員させることもなく、義兄弟とも戦わずに済むので願ったり叶ったりだった。


(信長め!是が非でも北条を潰すつもりだな!)


信長の言葉を受けて、そう氏規は捉えた。信長は京での大評定でも北条討伐を主張している。仮に信長が義輝の命令に素直に従っていれば、まだ北条は選択できる道があったはずだ。ここに来て信長は次々と北条の生き残る道を潰しているように氏規からは見えた。


「ならば、まず全軍にて戸倉城を落とす。その上で韮山城は刑部大輔に任せ、徳川殿には足柄城をお願いしたい。我ら織田は伊勢殿と共に山中城を落とす」


そう信長は命を下した。


山中、足柄の二つの城は小田原城を守る支城として重要な役割を持つ。箱根の関を守護し、西から小田原を守護する重要な拠点だ。韮山は重要拠点だが、小田原までの道筋からは少し離れている。仮に韮山を落とせずとも小田原へ攻め込むことは可能であり、役に立たないと思っている今川を信長はぶつけることにした。


翌日、連合軍は順々に東を目指した。道中では兵たちの間で関東が如何なる状勢なのか話題は尽きなかった。


「上杉は今どの辺りにいるんだ?」

「知らないのか。上杉は川越で北条方を破った後、鉢形城を包囲したらしい。その鉢形城は今も頑強に抵抗しているという話だ」

「武田も一緒なんだろ?」

「甲斐の武田はな。信濃の武田は滝山城を落とした後に小田原へ向かったみたいだが、川越から退いてきた北条勢に阻まれて足止めされているようだ」


そのような話が至るところ持ち上がっていた。


(それも我らが小田原へ迫ることで、全てが片付く)


戸倉城へ向う徳川家康は、既に北条征伐の結末が見えているようだった。


北条方の動きは、対上杉・武田に対するものだ。こちらへ手当てするには絶対的に兵が足りず、残された手段は全軍による小田原への撤退しかない。


関東の覇者として君臨した北条の命運は、まさに尽きようとしていた。


=====================================


八月十一日。

相模国・小田原城


結果として、戸倉城では大した戦いは起きなかった。


元々戸倉城は北条氏光が守備していたが、北条氏政は氏光では防ぎきぬとして幕府軍の到来を前に家老・松田憲秀の子・笠原政晴を送り込んだ。氏光は戸倉から足柄へ退き、小田原への退転を命じられる。氏政も本格的な幕府軍の侵攻に一切の余裕は持てなかった。


しかし、戸倉城に入った政晴は氏政の意に反する行動に出る。事もあろうか幕府軍に降伏を申し出たのだ。


「もはや我らの敗北は決まったようなもの。されど北条への忠義は忘れておりません。北条を滅亡から掬うため、どうか左馬助様の御力をお貸し下さいませ」


当初から政晴は裏切る予定ではなかった。しかし、雲霞(うんか)の如く押し寄せる幕府軍を前に恐れをなしたのだ。しかも幕府勢の中には幸いにも氏規がいたことで、それを頼っての降伏が出来た。政晴の麾下一五〇〇の手勢は、全て氏規の指揮下に入ることになり、氏政は結果的に敵を増やす手伝いをした事になった。


そして葛山氏元も徳川家康の調略に応じ、足柄峠の先導役を申し出てきた。


「御力添え出来る機会を窺っておりました。機会を頂いた権少将様には感謝の言葉もありません」

「顔を上げてくだされ。御家に対する備中守殿の忠義、この権少将がよう知っており申す。所領の安堵は儂が必ずや認めさせる故、安堵されよ」

「これは有り難き御言葉……、忝い」


もはや大勢は決していると氏元は感じたのだろう。きっかけはどうあれ、家康は勝手と知りつつも本領安堵を約束し、信長の指示に従って足柄城へ向った。開戦初期の降将を寛大に遇する事で、後々の戦いを有利に進めようという家康の深謀遠慮である。


そして足柄城も要害と目されていたが、徳川勢の猛攻に僅か一日で陥落してしまう。


特出だったのは、織田勢が向った山中城である。


北条勢は地黄八幡こと綱成の子・氏繁を大将、松田康長を副将とする四〇〇〇を送り込んで徹底抗戦の構えだった。西側に突出する西ノ丸や岱崎出丸に対し、信長は近江国・国友村を得て数を増やした二〇〇匁砲で集中砲撃を加えて坂茂木、土塁の類を吹き飛ばし、すかさず蜂屋頼隆が岱崎出丸を奪取、そのまま北上する形で本丸に攻め寄せた。


西ノ丸も岱崎出丸陥落の影響を受けた。こちらは奇妙丸こと元服した織田信重が大将で、早くも堅実な戦ぶりを見せていた。城内からの銃撃に対しては倍の数の鉄砲を撃ちかけて反撃を行い、敵の注意を引き付けた。これにより岱崎出丸から北の三ノ丸への進入に時間がかかっていた蜂屋勢は、敵の抵抗が弱まった隙に穂を進め、遂には三ノ丸の占拠に成功する。


「まだ敵には小田原がある。ゆるゆると攻めよ」


信重は北条方が脱出する時間を敢えて与えていた。織田勢の目的地は小田原なのだから、ここで敵の殲滅を必ずしも行う必要はない。それよりもいち早く小田原まで進み、敵に防備を固める時間を与えないことが肝要だった。


それが判っているだけ、織田の次代は頼もしく育ちつつある。


「ここが退き時です!我らが時間を稼ぎますので、左衛門大夫様は小田原にて再起を図られませ!」

「何を申すか!まだ戦って半日も経っておらぬではないか!ここで退いたら儂は笑いものよ」

「笑いもので結構!御家の為を思えば、そのような恥辱は堪えられませ!左衛門大夫様の御父上が堪えられた恥辱に比べれば、何ということがございましょうか」


康長は決死の様相で、氏繁に退去を申し出た。氏繁は武士の意地で難色を示したものの家臣の忠言に思い直し、脱出に同意する。


かつて綱成は今川家臣であった父・福島正成が御家騒動の末に死んだことで、北条家に身を寄せた経緯がある。そこから地黄八幡の異名を得て北条一門に名を連ねるようにまでなったのだ。それから比べれば、一度の敗戦に何の恥辱があるであろうか。


(松田家の意地を儂が見せねばならぬ!)


恥辱を注がなければならないのは、氏繁ではなく康長である。康長は山中城を枕に討ち死にを覚悟していた。


松田一族から政晴という離反者を早々出してしまった。ならばここで康長が華々しく討ち死にを遂げることによって、松田家の信用を取り戻さなくてはならない。そういう意味では、山中城は格好の場であった。


最終的に山中城は半日で陥落、北条氏繁は小田原へ脱出し、織田勢は翌日には小田原へ向けて侵攻を再開する。


幕府軍の行軍は順調に見えたが、今川勢のみ三〇〇〇の篭もる韮山城に手を出せず、遠巻きに囲んで城兵の突出に備えるという状態を続けることになった。


そして北条領に入って四日目、ついに織田軍を主力とする幕府軍が関東の雄が牙城・小田原へ到着した。


信長は小田原城の西方に位置する早雲寺へ入り、ここを本陣に定める。


早雲寺は、その名前から推測できる通り北条氏の菩提寺である。そこを占領された屈辱は耐えがたいものであるも氏政は“幕府軍迫る”の報せを聞いてから小田原へ戻るのが精一杯であり、周辺に兵を割いている現状から幕府の大軍を押し留める術を持たなかったのだ。氏政にすれば、戸倉城が降伏して山中城が半日、足柄城が一日しか持たなかったのは想定外だった。本当ならば、もっと籠城の支度を整えてから合戦に臨みたかったはずだ。


「指図通りに諸将の布陣が終わった後、竹束を構えて仕寄らせて築山と井楼をありったけ築け」


早雲寺に入った信長は、馬廻りを走らせて全軍へ指示を飛ばす。関東一難攻不落と知られる名城を視界に入れても迷いの類は一切見せなかった。


それは小田原城を落とす方策を既に信長が持ち合わせているからこそ、であった。


「某に使者として城内に赴き、降伏を促して参る」


諸将の配置が完了した頃、伊勢氏規は早雲寺を訪れて総大将の信長に自身が使者となることを申し出た。当然、兄・氏政を自ら説得し、何とか大名として北条が生き残る道を模索しようとしてのことである。


「ならぬ。使者は我が家中から出すことに決まっておる」


しかし、氏規の申し出を信長は非情にも拒絶で応えた。


「某が裏切るとお考えか!これだけの軍勢に北条方も敵うとは思うておりますまい。もし北条が降れば、関東の戦いは終わり申す。無駄な合戦をせずとも済もうぞ」


だが、それで素直に引き下がる氏規ではない。御家の命運が懸かっているのだ。鋭い眼光を信長に叩き付け、抵抗を試みる。信長は合理的な思考の持ち主と聞いている。ならば無駄な戦いを避けることに耳を傾けるはずだ。


「今さらそなたが裏切ったところで何も変わらぬ。城内に入り、身内と共に散りたければ散るがよい」


ところが信長は氏規の内応を懸念している訳ではなかった。


「どのみち北条は滅びる。氏政が降伏したところで所領は没収、ならば武士らしく戦って散らせるのがせめてもの情けであろう」

「……何を言っているのだ」


氏規は唖然としてしまい、それ以上に言葉は出なかった。


北条は川越合戦で上杉に敗れたとはいえ、未だに相模と伊豆、武蔵に下総、上総、下野、上野、安房など幅広く版図を維持している。抵抗する力を維持している以上、いま降伏すれば一、二カ国は安堵されるのが武家の常識だ。氏規も小田原を去る際に長老・幻庵へ相模と伊豆の二カ国安堵を申し出ている。それは氏規の独断ではなく、将軍・足利義輝の内示を得ていたからに他ならなかった。


「以前に上様は“相模と伊豆の二カ国安堵を認める”と仰られた。加えて北条は幕府の守護大名、まずは釈明の機会を与えるのが筋でござろう」

「もう当時と状況は変わっておる。評定の場で上様は“左馬助を頼って降る者は全て許せ”と申されたことを覚えておろう。されど“所領は没収”と重ねて申された。仮に左馬助殿が使者として赴いたとしても、それは左馬助殿を頼っての降伏と同じ。北条の滅亡は変わらぬ」

「…………ッ!!」


信長の言葉に氏規は絶句する。


もはや氏規は状況が後戻り出来ないところまで来ている認識を新たにしなくてはならない。兄・氏政に呼び掛けて降伏に導けたとしても北条は大名としての地位を失う。兄の性格を思えば、所領没収前提の降伏に間違いなく応じないはずだ。そして、戦えば幕府が勝つことは前々より氏規自身が口にしていることだった。


「もっとも儂はどうなろうとも北条を滅ぼす気でおるがな」


口角を僅かに上げて氏規を見下ろす信長の言葉に追い詰められていく。


(どうする?このままでは北条が潰えてしまう。何か……、何か策はないのか)


頭を高速に回転させ、思考を巡らせる。だが、すぐに考えなど浮かぶはずがない。ただ氏規は気が付いていなかった。信長の論理に抜けがあるとすれば、氏政が氏規に従うことを約束すれば、御家存続は保たれることを。それも“左馬助の麾下に入ることを条件とする”と伝えた義輝の意にある。


ただそうなった場合は信長も構わないと思っている。北条が独立して大名として存続することは認められないが、伊勢を名乗る氏規の陪臣として残るのであれば、問題はないと考えていたからだ。無論、なくなくならなくなるで信長にとっては何の障りもない。


(北条が抱く関東への拘りは、天下布武の邪魔になる)


信長が抱く天下が如何なるものかは誰も知らない。布武という言葉の中に如何なる意味が、理想が籠められているか。ただ信長の中には確かな理想があり、それに向かって確実に一歩を踏み出している。それだけは信長に近しい者ならば気が付いているだろう。


結局、信長は氏規の申し出を受け入れる事はなかった。仕方なく氏規は信長の前を退去し、自陣へと戻っていった。


「ここは徳川殿に相談してみよう」


その途上、氏規は家康の陣を訪れて事の次第を伝え、何とか北条を救う手立てがないか尋ねた。


家康は信長の同盟者であり、幕府内では織田与党と目されている。実際に信長と歩調を合わせて版図を拡大しており、今回の北条征伐にも信長の誘いによって参加した経緯がある。信長に一番近く、その目的についても知っている可能性があった。


ただ氏規の知る徳川家康という人物は、ただ信長に黙って付き従うような男ではない。文武に秀でて思慮深く、誰よりも慎重でありながらも果敢さを持ち合わせ、時には雷鳴の如く檄を発して軍勢を動かす。


それが今川義元の下で幼少期を共に過ごした氏規が知る家康という男だ。


その家康の口添えがあれば、氏規が使者となることを信長が呑むかもしれない。使者となり、城へ入れればこっちのものである。全身全霊に言葉を尽くして兄の説得に及ぶだけである。


「ふむ。左馬助殿の御家を想う気持ちに、心を打たれ申した」


氏規の話を聞いた家康は、瞳を潤ませながら頷きを繰り返した。


「権少将殿、何故に織田殿は北条を滅ぼさんとしているのだろうか。まさか北条を滅ぼし、関東を自らの手で治めんとしているのか」


氏規は信長が関東に領土的な野心を抱いているのだと思った。多くの大名が己の所領を増やしたいと考えている。それは戦国大名に共通する思考で、氏規が信長の考えを同様に推測するのは当然と言えた。


「いや、それはあるまい」


しかし、意外にも家康は氏規の推測を簡単に否定した。


「どういうことで?」

「はっきりしたことは儂にも判らぬが、どうも織田殿は東国に興味を抱かれていない気がしてならぬのだ」

「東国に興味がない?これほどまで肥沃で広大な関東平野に興味がないというのか」


関東に拘り続け、関八州の制覇を目指してきた北条という家に生まれた氏規には、信長の思考がまったく理解できなかった。


「思い返せば永禄五年(一五六二)のことであった」


そこから家康は昔語りを始める。


「織田と徳川が清州にて盟約を結んだ際、織田殿は儂に“西国は儂が治める故、東国は好きにされよ”と言ったのだ。織田家は尾張一国をようやく纏めたところで、儂は三河岡崎一帯を治めるに過ぎなかったにも関わらずだ」

「それは冗談でありましょう。某とて昔は関東を切り従え、いずれは天下をと口にしたものにござる」

「いや、昔から織田殿は冗談を申すような方ではない。現に織田殿は昨年まで東に兵を出すことなど一切なかった。此度の遠征とて、西国の制圧は幕府諸大名の兵で充分な故に東国へ進まれたに過ぎぬ」

「では織田殿は東国に版図を広げる気はまったくないと?」

「その点はしかとは判りかねる。自ら東征を口にされた以上、上様が御考えのように天下一統を織田殿も目指しておるとは思うが、東国よりも西国を重視されているのは確かだ」


家康の話は氏規をますます混乱させることになった。


東国に版図を広げる気がないのであれば、何故に北条を滅ぼさなければならないのか。それこそ北条という家を残し、そのまま統治させた方が上手く行くのは判っている。幕府に刃向かう懸念があるのであれば、所領を削減して抵抗する力を無くせばいい。必ずしも滅ぼす必要はないはずだ。


そして西国にこそ興味を抱いているのであれば、何故に幕府の大友征伐へ加わらず東征を申し出たのか。幕府の方針は何も東征を行わない訳ではなく、あくまでも大友征伐を終えた後に東征を行う予定だった。だが信長は大友征伐を事実上で辞退し、東征を申し出た。この矛盾はどう説明がつく。


いったい織田信長という男は何を考えているのであろうか。それは家康とて理解していないことだ。


(織田殿が何故に北条の滅亡に拘っておるのか皆目見当もつかぬ。感じられるのは、北条を排除するという並々ならぬ意思だけだ)


信長のことだから、必ずや理由があってのことだとは思う。昔から理由もなく行動を起こすような人間ではない。一見して激情家な面を持ち合わせているが、その裏には細部まで詰められた計算が常にある。


それが織田信長という武将だと家康は思っている。


「それでは、某はどうしたらよいのか」

「功を立てなされ。左馬助殿は上様の覚え目出度く、功を立てれば北条の領地の一部を引き継ぐことが出来るやもしれぬ。その上で降って来た者に生きる糧を与え、北条という家を再興すれば宜しいではないか」

「やはり……、それしかないのか」


一族が敵味方に分かれて戦うことは、今の世で珍しいことではない。骨肉の争いを演じる時もあれば、勝った方が負けた相手を命懸けで助ける時もある。


(上様は儂を頼ってきた者は全て許すと仰せられた。北条には伝手が多い。助けられる者を助けられるだけ助ければ、誰も儂を無碍には扱えまい)


家康の陣を離れ、氏規は自分の力を高めることを優先させることにした。そのきっかけは、夜に早くも訪れた。


北条が抱える忍び衆・風魔の一人が氏規の陣を密かに訪れたのである。


「左馬助様に申し上げます。御本城様は織田の城攻めが始まったなら左馬助様は信長の本陣を襲うように、とのことでございます」


風魔からの伝達は、氏政の命令だった。


今になっても兄は織田に、幕府に勝てるつもりでいる。それでいて氏規を自分の家臣と認識している。確かに氏規は織田勢の隣に陣を敷いているが、いったい織田勢が如何ほどの軍勢を抱えていると思っているのか。七万五〇〇〇である。城攻めが始まったとて、全ての兵で城を攻めるわけではない。もちろん氏規は最初から警戒されている身である。信長の本陣を突くべく少しでも怪しい動きをしたならば、寝返りを疑われて即座に排除されるだろう。


(……莫迦が!)


氏規は人生に於いて初めて兄に悪態をついた。


ここまで時勢が読めないとは思ってなかった。氏規も予想外のことだったが、先遣隊と呼ぶべき織田勢らのみで十万に近い数がいるのだ。今頃は北陸道を浅井勢らが進んでいるはずで、忍城にいると聞いている上杉勢を合流し、小田原へ到着すれば総勢で十五万は超えてくる。


(もう北条に勝ち目はないのだ。ならば力を残している内に生き残れる方策を考えるべきであろう)


自分を頼るのはいい。だが頼り方が違う。全面降伏をするのであれば、少なくとも一国を安堵させて一族郎党の命を救うことに全力を傾けられるというのに。


「ちょうど此方から城へ密使を送ろうと思っていたところだ。相判った、と兄上に伝えてくれ」

「それはようございました。左馬助様が敵本陣を突いたならば、合戦は我らの勝利に間違いございませぬ」

「……ついで、ではあるが幻庵様に渡したいものがある。届けれはくれぬか」


氏規は心中とは裏腹に了承の返答をすると、忍びを待たせて奥へ去った。暫くすると一通の書状を手に持ち現れた。


「これは?」


訝しげに忍びが書状について尋ねる。


「先に小田原へ戻った際、長く幻庵様の御屋敷に滞在させてもらった。その御礼状である」

「御礼状?合戦の最中にですか」

「知っての通り幻庵様は礼儀に厳しい御方だ。儂が姿を見せたのに礼も済ませておらぬでは、後で顔を会わせた際に叱られてしまうわ」

「左様でございましたか。では、こちらは幻庵様にお渡し致します」

「うむ。頼んだぞ」


そう言って忍びは闇夜に消えていく。その虚空を氏規はいつまでも見つめていたという。


後の世に小田原征伐と呼ばれる戦いがついに始まった。




【続く】

お待たせいたしました。


ようやく鎮撫の大遠征・東国編の本格スタートとなります。いきなり小田原城を囲まれてしまった氏政でありますが、現状の北条は史実で豊臣家を相手にした時より防備が固められていない状態です。肝心の小田原城さえ総構えはありません。それでも謙信の軍勢十万を退けた堅城ではあります。


堅い城を信長が如何にして攻めるか。史実を知っている方なら想像が付くものかと思います。戦術は信長らしく単純で王道をいくものです。


小田原城の戦いはあと二幕ほど続く予定です。次回は謙信や北陸組を最初に描いて場面を小田原へ戻します。今回でも少し信長の考えに触れ、珍しく信長視点での考えにも触れました。今後、徐々に明らかにしていきます。

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