第二幕 滝山城合戦 ~諏訪太鼓の音~
四月十三日。
武蔵・金窪城
上杉謙信の許に長尾景勝が合流した翌日、長尾家臣・直江景綱から遣いが武田義信の許へ訪れて将軍・足利義輝の命令を伝えた。
「我々は近く忍城を出陣し、北条方と一戦仕る所存にございます。厩橋中将様は、武田殿も今のうちに動かれておいた方がよいと申されております」
「相判った、そう上杉殿へ伝えてくれ」
「はっ。畏まりました」
たったそれだけを義信は伝えると使者を下がらせた。
「上杉め。我ら武田に指図するとはいい度胸じゃ」
「まったくじゃ。奴らが不甲斐ない所為で、関宿で負けたこと忘れておるのではないか」
上杉方の言葉を聞いて小山田信茂ら武田家臣団は怒り心頭となり、揃って吐き捨てた。
一年前の関宿合戦では、武田は寡兵であるにも関わらずに北条方を押していた。上杉のように無理な突撃を行って一時的な優位を作り出したのではなく、手堅く確実に北条方を押し込み、着実に敵本陣へ迫っていた。そこに上杉謙信の撤退が起こり、武田も撤退を余儀なくされた。
謙信には謙信の戦術、勝機があったのだろうが、武田から見た上杉評は厳しかった。
合戦後に義信は鉢形城の北条氏邦を警戒するという名目で金窪城まで下がることになったが、これは義信の心中を映し出していたと言える。
(これ以上は付き合いきれぬ)
それが今の義信の正直な気持ちだった。
元々義信は甲斐武田の存続を目的に上杉へ協力している。幕府によって所領安堵が約束された今は、謙信のやり方に付き合う必要はなくなっていた。それよりも領地へ戻り、代替わりした武田の統制に力を尽くしたいというのが本音だ。
(とは申せ、いま帰国すれば将軍の心象を悪くする。上杉が戦っているのに武田が退いたと言われるのも癇に障るしの)
それでも義輝からの許しがない以上は帰国は許されない。それでいて上杉の風下に立つのが嫌ならば、独自で関東での戦いに勝利する方策を講じなければならなかった。
「三郎兵衛、いま四郎はどうしておるか」
「報せによれば、四郎様は御屋形様の御命令に従うのを頑なに拒んでおられるご様子と」
「ではまったく動いておらぬのか」
「いえ、某の方より引き続き家中へ働きかけておりますれば、いざ出陣の下知があれば然程に時はかからぬものかと存じます」
「全ては四郎の決断次第ということか」
と言って義信は溜息を一つ吐いた。
信濃は義信が守護職を返上してより守護不在の国となった。大部分は織田家の統治下にあるが、武田の血族が各地に所領を維持しており、影響力を有している。その筆頭たるのが、義信の弟である諏訪四郎勝頼であった。
勝頼は父・信玄に従っていたために兄への反発がある。
「儂は勘当された身じゃ。故に武田当主の命に従う道理はない」
いま動かなければ、諏訪という身代が幕府に召し上げられるかもしれないという時に、勝頼は自らの感情を優先して関東へ出陣するべきという声に耳を傾けなかった。
ちなみに昌景は命令と口にしたが、義信は諏訪家中に根回しをして一部の家臣から自然と勝頼を動かすような手順で事を進めている。弟の性格を熟知している義信にすれば、頭ごなしに言葉を伝えても無駄だと分かっていたからだ。
一方で勝頼も意固地になりやすい正確だが、阿呆ではない。家中の声に兄が関与していることくらい即座に見抜いていた。
諏訪家中の様子は詳細に義信へ伝わっている。勘当を告げたとはいえ今まで同じ勢力であった武田と諏訪家の関係が断絶することはなく、家臣間での繋がりは当時と変わらず生きていた。それ以前に諏訪家臣の中には武田家を主君とする感覚が今でも強く残っているのが正しい現状だった。
「一徳斎、幕府への働きかけはどうなっておる?」
「返事は未だ。されど公方様は我らの申し出には概ね賛成のご様子だったと聞いております」
義信の問いに知恵袋である真田一徳斎が答える。
実は長尾景勝に義輝より命令が届くより以前、義信の許へも織田勢を派遣する話は届いていた。甲斐は越後に比べて上方より近く、義輝も上杉より話を伝え聞いては義信の心中は穏やかではないだろうと配慮し、甲斐府中へ幕府から使者を送って織田勢と協力して事に当たるべし、と命令を伝えていた。
故に義信は謙信から聞かされずとも幕府の動きは知っていたのだ。
(四郎め。織田が動くのだぞ。ならば信濃の織田も動くはず、それなのに同じ信濃にいるお主が動かぬことが許されると思っているのか)
相変わらず状勢を正しく読めない弟に義信は、強い憤りを感じていた。
義信は関東出兵を促すと同時に織田勢が動く前に勝頼が動くことも伝えている。将軍の心象をよくするには、織田より早く動かなければならないのは判りきっている。織田は強大であるが故に支度に時間を要し、信濃を拝領した柴田勝家は当然のように主・信長の動きに合わせるはずで、単独で先に動くとは考え難い。逆に諏訪家は武田から切り離された故に身軽となり、出陣に時間を要さなくなっている。いま関東は大兵が動いているが、だからこそ兵が少ない地域が存在する。
それが滝山城だ。
滝山城は甲武国境を守る拠点で、城主は北条氏照。秋川と多摩川の合流地点にある加住丘陵の地形を巧みに利用した要害で、関東でも規模は大きな城に入る。その滝山城を攻める好機だと義信は考えていた。
理由は二つあり、一つは城主の氏照は不在で主力を欠いていること、二つは規模が大きい反面、少数の兵で守るのに向いていない城である故に攻めるのに大軍を擁さないこと、である。
義信の出陣で甲斐にも大した兵は残っていないが、甲斐の隣・信濃には滝山城を脅かせるだけの兵は存在している。武田の血族が当主を務める、仁科、海野、望月、諏訪の四家がそれに該当した。
「ならば先に他の連中を動かせ。さすれば四郎の尻を叩くことにもなろう」
その滝山城に、義信は信濃の武田勢をぶつけるつもりでいた。
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四月二十六日。
信濃国・上原城
この日、武田の血族で信濃領主である仁科五郎盛信、望月左衛門尉信永が諏訪四郎勝頼の上原城に集まっていた。幕府より所領を安堵されて主家の武田家から独立が認められた三氏だが、盛信と信永の二人は武田の棟梁・甲斐守義信の助言に従って出陣、勝頼は頑なに助言に従うことを拒んでいた。
「何故にそなたらは義信の指図に従う。もはや我らは独立した一武家の当主、武門の誇りを忘れたのか」
具足を身に纏って現れた二人に勝頼は腹を立てながら言った。ちなみに勝頼の兄であり海野氏を継いでいる信親の軍勢は、当人が盲目で出陣できない状態にあるので、信永が預かる形となって上原城に在陣している。
「忘れたも何も、我らはお主と違って甲州殿より勘当された訳ではない。幕府より独立は認められたが、どうするかは我らの心次第じゃ。儂は今でも武田の一員じゃと思っておる」
これに対して信永が置かれている状況を説明して反論した。
「ならば勝手にすればよい。何故に儂のところへ来た」
ムッとした表情で勝頼がそっぽを向く。三人の中では一番の年長者であるにも関わらず、何処か子供っぽいところを見せる。
「勘当されたとはいえ、我らに武田の血が流れているのは間違いのないことじゃ。過去の経緯を忘れろとは申さぬ。されどいい加減に前を向いてはどうじゃ」
幕府による統制、今後の展望を見据えた時に勝頼の日和見的な態度は確実に悪影響を及ぼす。しかも勝頼が領している地は甲斐に通じる諏訪の地だ。武田を第一と考える信永からすれば放っておける地ではなく、何としても勝頼には重い腰を上げて貰う必要があった。
「甲州殿が気に食わぬのは判るが、幕府に逆らって生きては行けぬ」
「そんなことは判っておる」
「いや、判っておらぬ。四郎殿、そなたは今でも武田の誇りを忘れてはおらぬのだろう?なればこそ、幕府の意向に従うべきじゃ」
「何を莫迦なことを申す。幕府は、将軍は御屋形様の……父上の仇ぞ!父上が目指しておられた天下は、源氏の世を正しくせんが為のもの。それが判らぬ将軍に今の世を治められようか」
身内だけしかしない場だからこそ、勝頼は本音を口にする。父・信玄と共に天下を夢見て駆け巡った戦場が今でも勝頼の中に色濃く残っている。一昨年の出来事なだけに、忘れろという方が無理であった。
しかし、信永は敢えて厳しい現実を従兄弟の前でに突きつける。
「驕るな。天下は御屋形様の器量があってこそ、持ち得たもの。我らがどうこう考えるに及ぶ範疇ではない。我らの出来ることは、せいぜい家を保つことぞ。そこを履き違えるな」
天下の采配など自分の器量で及ぶ範囲ではないと信永は言い切った。偉大なる信玄に感化され、天下を口にしたくなる気持ちは判らなくはないが、自分たちはそこまで大きくはない。信玄が死した事で、全ては終わったのだ。後は身の丈を思えば、子々孫々まで家を保つことのみに尽くすべきなのだ。
そう我らの武田家を残すために。
「よいか四郎殿。確かにそなたは勘当された。されど御先代様の御子であり、血の繋がりは否定できぬ。それでいて甲州殿には嫡男がおらぬ。この意味、判るな」
信永は暗に全てを語らず、眼で訴えかけるようにして勝頼に問いを投げかけた。マジマジと瞳を見据える眼は本気そのもので、一点の曇りもない。
義信には姫はいるが、男子はいない。つまり武田家に明確な世継ぎがいないことを意味している。次男の信親は盲目で俗世を離れており、三男は夭折、そして四男の勝頼には武王丸という嫡男がいる。もし義信が世継ぎの生まれぬまま世を去ることになれば、武田の一族は勝頼を世継ぎに担ぎ上げるのは有り得る話だ。
「四郎殿が存じておるかは知らぬが、甲州殿は四郎殿に勘当を突きつけた一方で、その旨を口にしただけで家中には何の沙汰も下されておらぬ」
「……なに?それはどういうことだ」
「勘当されたという気になっておるのは、四郎殿だけだということよ」
「莫迦な……」
勝頼は唖然とし、驚きを隠せずにいた。
信永の言うことが本当ならば、義信は己の跡目に勝頼を継がせる気でいることになる。嫡男であるが故に、嫡流であるが故に義信は武田家の事を誰よりも考えていた。それは父に反目してまで幕府側についたこと、武田の血族を信濃に生き続けさせたこと、そして勘当と口にしながらも実際にはその処置を採っていないこと。全てに繋がるのは、武田家を如何にして後世に繋いでいくかである。
「……私は兄であり、家長でございます。家の者の面倒は見るつもりです」
かつて、この上原城で父・信玄との今生の別れに告げた義信の言葉に嘘偽りはなかった。元々約束を重んじる律儀な正確である兄の性格を思えば、兄の行動は自ずと想像がつく。
「恐らくではあるが、近い内に我らは上様の奏請により叙任されることなろう。そう取り計らってくれたのも、他でもない甲州殿じゃ」
「何を勝手な!儂は左様なこと頼んではおらぬ!」
「勝手なことではない!全ては武田の家を残すため、甲州殿は棟梁としての務めを果たしておるのじゃ!」
義信の行動に腹を立てる勝頼に厳しい叱責が飛ぶ。信永は年下であるが、武田を想う気持ちで負けるつもりはない。ましては相手は同じ武田の身内、気心が知れた仲である。
「もうよいではないか。我らが背負う家とて、かつては武田と戦い、そして屈した武家じゃ。武田が幕府に屈したとて、それも戦国の倣いよ。恥辱に耐え忍び、今は生き残ることこそ肝要。さすれば何れ機会もあろうさ」
「……機会」
「ここにおる五郎も四郎殿を次代の武田と思うて従う気でおる。我ら信濃の盟主として、ここは立ってくれぬか」
もちろん義信の入れ知恵でもあるが、信永の思惑は織田に対抗するべく武田の血族を結集させることだ。中心部の松本盆地などは織田に抑えられているが、見方を変えれば武田は織田を包囲しているとも見える。しかし、確固撃破されるわけにも行かず、結束は不可欠だった。その為には核となる人物がいる。それが勝頼だ。
「兄上。私は兄上の下で戦いとうござる。どうか某に戦い方を教えて下され」
まだ若い盛信がまっすぐな眼で勝頼を見つめてくる。
仁科家に養子に出された盛信にとって、勝頼は憧れだった。長兄・義信も一軍の将として優れているが、全軍を指揮する立場にある義信と違って勝頼は一軍を率いて戦う立場にある。自ら刀槍を振るう機会が多く、歳も近く同じ他家に養子へ行った身として盛信は勝頼を慕っていた。
(この兄の為ならば命を懸けられる)
今回が初陣となる盛信がどこまで本気でそう考えていたかは判らないが、戦場を話でしか知らない未熟者だからこその純粋な気持ちだった。
「儂が、武田を継ぐ……?」
これまで勝頼は武田という家を信玄を通してしか見て来なかった。兄・義信が武田を継いでいくものと思っていた。だからこそ父に反目する兄が許せなかった。しかし、信永が指摘する通り兄に子が出来なければ自分に白羽の矢が立つことは有り得ない話ではない。現に目の前の信永も望月家は元々が兄・信頼が継いでおり、その兄は川中島合戦で負った戦傷が元で死去している。享年十八と若く、子がなかったために弟の信永が跡目を継ぐことになった。
武門は武門、武田家に望月家と同じことが起こらないとも限らない。その為の道は、兄の義信が残している。
「それでも甲州殿が憎いなら、同陣せずともよいではないか。我らは我らで戦おうぞ。なに、攻めるところなどいくらでもある。武田が信濃にも生き残っておること、世に知らしめてやろうぞ」
そう言って信永は大仰に笑って見せた。肩を叩かれ、盛信も釣られて笑う。
「…………」
それを一人、沈黙を保つ勝頼であったが、その瞳には強い決意の炎が上がっていた。
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五月朔日。
武蔵国・滝山城
遂に諏訪四郎勝頼が上原城を発った。
一族の説得を受けたものの最終的なきっかけを作ったのは、他ならぬ兄の義信であった。
「諏訪四郎勝頼殿。此度、諏訪家は再び奉公衆となった。上様の直属となったからには無位無官では格好が付くまい。上様の御計らいにより諏訪殿へ従五位下・信濃守へ推挙いたすこととなった。今後は上様の恩情に報いるべく一層の忠勤に励まられよ」
先月の終わり頃に幕府からの使者が訪れ、突然に叙任の話を持ってきたのである。未だ上洛せぬ勝頼には寝耳に水の話であり、しかも信濃の主と認めるかのような国司職への任官だった。信永の話が本当だったのだ。
確かに諏訪氏は過去に奉公衆へ列し、信濃守への任官例はある。それでも勝頼を信濃守にするには功績に見合わないし、諏訪の身代とも釣り合わない。相当な働きかけがあったものだと思われた。
(織田への対抗策だけではなく、武田本家の後ろ盾と関東での今後の働きが含まれておるのだろうな)
信濃の半分を治める織田家へのどう対抗していくかは勝頼の課題でもある。それは義輝の心中とも合致しており、義信の思惑にも当てはまった。
国司の身分に諏訪の身代では足りないのは誰の眼にも明らかである。一方で仁科や海野など武田一族が当主を務める信濃領主の版図を合わせれば、それなりのものとなる。この盟主へ勝頼が成れば、信濃守という役職に見劣りはしなくなる。かつての守護・小笠原も版図は小さくも木曽や村上などの盟主と成り得たことで、武田に対抗しうる勢力を有していた。
幕府は、足利義輝は織田に対抗する人物として、自分を指名してきた。ただ将軍は勝頼のことを恐らく名前でしか知らない。下手をすれば名前すら知らなかった可能性もある。であれば推挙した人物がいるはずだ。それは兄・義信を於いて他にない。
(兄上だけが武田を背負うているのではないぞ!)
元来、勝頼が持つ負けず嫌いな性分に火が点いた。
「出陣する」
号令は瞬く間に広まり、元々支度が整っていた諏訪軍は二日とかからずに上原城を発った。目指す先は関東であり、その最初の目的地が滝山城である。
「我は諏訪信濃守勝頼なり!北条の武者ども、潔く降伏すれば命は助けてやる。されど君命に従いあくまでも戦うのであれば、堂々と決しようぞ!」
信濃の国衆五〇〇〇を束ねた勝頼は、滝山城に至るまでの小城を次々と開場させ、目的地に辿り着くと即座に開場の使者を送り、城代の大石惣四郎照基に宣戦を布告した。
「陸奥守殿の不在を理由に回答を日延べすることは許さぬ。潔く降伏するか、城を捨てて主の下へ行くか、華々しく散るか武門としての道を選ぶがよい」
勝頼は滝山城の北側にある拝島という地に本陣を置き、そう宣誓した。陣中は厳かで中央に座する勝頼の風格はまさに大名の如し堂々たるもので、信玄の下で一人の部将として戦っていた頃とは見違えるように威厳をまとっている。
己も武田の家を背負う者としての自覚が勝頼を一段と成長させたのだ。この滝山城合戦にて、勝頼はその才能を開花させることになる。
「殿の御帰りまで城は死守する。弓矢を以って御相手いたそうぞ!」
勝頼の要求へ対し、そう照基が返答したことで滝山城合戦は始まった。
「どうなさるので?」
初陣である盛信は、兄がどのようにして城攻めを行うのか大いに興味があった。兄らしく陣頭に立ち、兵を督戦しつつ城門を突き破る姿を盛信は想像する。
「まあ見ていろ」
そう意地悪な笑顔を浮かべた。しかし、勝頼は三度ほど滝山城へ攻め寄せて退くを繰り返しただけで、軍議らしい軍議も開かずに陣を張ったまま兵たちを休めるように命令を出し、二日間が経過した。
「兄上、滝山城の兵は決して多くはござらぬ。犠牲を省みず、果敢に攻め寄せれば落とせるのではありませぬか」
「犠牲を省みず合戦に及ぶのは、愚将のすることぞ」
「されど合戦に犠牲は付きものにございましょう。それを恐れては武門の名が廃りましょう」
「甘い。確かに犠牲を省みず合戦に及ばなければならない“時”はあろう。左様な“時”が訪れたならば、儂も恐れず戦おう。されど今は左様な“時”ではない。余計な犠牲を払わずとも滝山城は落とせる」
「何か策があるのですか?」
「だから見ていろと申したであろう。そなたは初陣だ。合戦というものを見て糧とするのだ」
疑問に首を傾げる弟を面白そうにからかう勝頼であるが、戦場を直視する眼は真剣である。その脳裏には既に合戦の推移が描かれているようだった。
「殿、まもなく刻限にござる」
腹心の跡部勝資が膝を折り、報告をする。勝頼は一度だけ首を縦に振って頷くと、信玄を彷彿させるように軍配を揮って兵たちに出撃の支度を命じる。
「いったい何が始まるのですか」
「そろそろ甚四郎の部隊が姿を現す頃だ。後は敵の出方を見て、こちらから押し出すか決める」
ニンマリと顔を歪ませた勝頼は合戦を愉しんでいるようだった。まるで童が玩具で遊ぶように、瞳を輝かせて机上に広がる絵図を眺めている。
同時刻、保科甚四郎正俊の別働隊一〇〇〇を滝山城の南西に位置する小仏峠から続々と現れた。滝山城は北に秋川、北から南東にかけての東側に多摩川が流れている。川側に本丸が築かれており、言うなればその方面が最も堅固な造りになっていると言える。勝頼が北側に布陣したことで兵力も北側に集中しており、勝頼が三度も敗退させて見せたことで、北条方は安心しきっているはずだ。
そこへ防御力の弱い南側に別部隊が出現、照基は驚いて対応を協議する。
「このままだと城内への侵入を許し兼ねぬ。ここは出撃し、早々に叩いておくだ」
協議の場で同じく留守居役を命じられた氏照の家臣・狩野一庵が照基へ出撃案を提示した。
「されど北から合わせて敵が攻め寄せて参ったら如何にする」
「北の敵勢は弱腰者揃い。左様な気概はあるまい。仮に攻め寄せて来たところで五百もおれば、返り討ちに出来ようぞ」
「……ううむ」
照基は迷いに迷った。
先日の攻防で敵が強いと照基には思えなかった。ただ強くない敵でも数は四倍と多く、それらと槍を交えて勝てると考えるほど阿呆でもない。問題は兵糧にある。
六〇〇〇が相手でも一五〇〇の兵と滝山城なら負けない自信はある。しかし、昨今は合戦続きで城内の兵糧は拠出しており、城を囲まれれば一月も保てるだけの余裕はなかった。
(負けずとも、勝てはしない)
包囲する敵を打ち払わなければ兵糧の補充は不可能である。早馬を走らせたとはいえ、一年以上も戻っていない主が即座に帰って来られるという保障もない。淡い希望を抱いて戦い続けるより、目の前の現実を受け入れていった方がよい。照基はそのような男だった。
「よし、南方の敵を先に叩こう」
ここで敵の別働隊を退ければ、敵の戦意は落ち撤退に追い込むことも可能と照基は踏んだ。一五〇〇で六〇〇〇を退けるのは難しいが、一〇〇〇で一〇〇〇を退けるのは不可能ではない。二つを比べたとき、照基が後者を選ぶのは必然だった。
「引っかかりおったな!」
ところが照基の決断は最初から勝頼に見抜かれていた。北条方と別働隊がぶつかったとの報せを聞いて、勝頼は拳を強く握る。
両軍は廿里という地で激突した。
共に一〇〇〇という互角の数であったが、諏訪勢は野戦を想定して精鋭で固めていた上に北条方の出撃を予測して兵を伏せていた。そして北条方は主力を氏照が率いているために留守で、兵の質に不安を抱えている。結果、狩野一庵は果敢徹せず、散々に打ち負かされて城へ逃げ帰るしかなかった。
「このまま乗り込む。続けーッ!」
しかも罰の悪いことに余勢を駆った保科正俊が三ノ丸へ侵入し、攻城のきっかけを作ってしまう。こうなってしまっては、同時に北側から押し寄せる勝頼の本隊に北条方は満足な手当てを行使できない。諏訪勢は太鼓を叩き鳴らしながら多摩川を無傷で渡ることに成功するのだった。
南無諏訪法性上下大明神。
神旗を掲げ、諏訪太鼓の独特な響きがまるで北条を黄泉の国へ誘うかの如く近づいてくる。その音にある者は恐怖し、ある者は戦慄する。勝機のなくなった戦場で、戦意を保つ手段は主への忠義のみ。しかし、それも一部の将にこそ通ずるものであり、末端の農兵たちは我先にと逃げ始めた。
翌日、滝山城は陥落した。
「見事よ」
僅か一日であれ本丸で主のために奮戦した北条方の将兵を讃え、勝頼は讃辞を送った。
武田信玄の下では部隊を率いる将でしかなかった勝頼が、総大将としての才能を有していることに誰が気がつけただろうか。信玄の近くで薫陶を受け、その戦術を勝頼は確かに学んでいたのだ。感情的な気質から失敗を犯すこともあるが、大名という立場に成り、一段と成長を見せた。
この事により武蔵国へ楔が打ち込まれる形となり、戦況へ大きな影響を及ぼすことになる。同時に、諏訪勝頼の名が知られるようになったのは改めて言うまでもなかった。
【続く】
遅くなって申し訳ありません。今回の主人公は武田で、勝頼にスポットを当てています。
勝頼は何かと信玄と比較され、武田を滅ぼした将として低く評価されがちですが、当時の情勢下ですら勝ち星を重ねていますし、長篠の合戦とて無謀とは言い難い状況にありました。当時、武田と反目しあっていた上杉との同盟を纏め上げ、織田との和睦も模索するなど外交面でも評価に値すべき点はいくつもあります。大名としての器量は、それなりにあったものと筆者は考えており、今回のような内容となっております。
次回はいよいよ信長の出陣となりますので、ご期待ください。