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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第七章 ~鎮撫の大遠征・東国編~
149/201

第一幕 再戦 ~龍の旋風、舞う~

元亀三年(一五七二)四月十二日。

武蔵・忍城


上杉、武田連合軍が北条勢と雌雄を決した関宿合戦から凡そ一年余りが経過した。合戦の勝者となった北条氏政は上武連合を討ち破ったことを関東諸国に喧伝、未だ日和見を決め込む者たち服属させるべく活発な行動をとった。


もちろん反上杉や野心に捉われる者たちも北条の勝利には敏感だった。その一人が下野国で宇都宮家臣の壬生綱雄である。


「待ちに待った機会が到来した。今こそ父の無念を晴らすときだ!」


綱雄は元々独立気質が高く、主君の広綱が幽閉されたのを機に氏政と連絡を取り、その領地安堵を認めさせると宇都宮城で家中の実権を握ろうとしている皆川俊宗の意とは別の形での独立を勝ち取った。過去に綱雄の父・綱房は幼少の宇都宮広綱を奉じていた芳賀高定に暗殺されたという噂が流れており、これを綱雄は信じていたのだ。故に機あれば主家へ反旗を翻すことを厭わなかった。


「阿呆が。いま宇都宮を裏切って先があろうか」


ただ綱雄の叔父・壬生徳雪斎は一貫して宇都宮家臣の姿勢を崩さず、一族内で対立を生んでしまう。結果、壬生同士で争いが始まり、綱雄は身動きが取れなくなってしまい、直接に北条の軍勢と合流することは出来なかった。


また下野国北部に勢力を有する那須七党の中でも亀裂が生じている。


常陸国の佐竹義重と反目する那須資胤は、北条方に加担したものの味方するのは蘆野資泰、伊王野資信、千本資俊らに止まり、大関高増、福原資孝、大田原綱清ら三人は資胤の意に従わず佐竹と通じて離反、上杉謙信とも連絡を取り合って主家からの独立を図った。


他、唐沢山城の佐野昌綱は、北条方であるも忍城の上杉謙信を警戒して城に籠もり続けている。


かくして下野国内は敵味方入り混じっての混戦が相次いでおり、周辺勢力が動かなかったこともあって当初から優位にあった北条方が徐々に勝ち星を重ねて行くこととなった。


加えて常陸国に目を向けてみればというと、随一の勢力を有する佐竹義重が北条に降った結城晴朝麾下の水谷蟠龍斎を傘下に加えたことにより常陸国内にあった結城領を版図を組み入れた。北条方が旧小田氏治家臣団や府中城の大掾貞国に誘いをかけてはいたが、当の義重が関宿合戦にて北条の脅威が常陸から去ったのを機に水戸城に入って常陸国内に睨みを利かせていたため国内で争いが起こるようなことはなかった。しかも義重は蘆名止々斎と不戦を誓い合い、那須七党の内で三党と通じることで背後を万全に固めている。この堅実な戦ぶりからは“鬼”と称される義重の苛烈ぶりは窺い知れないが、戦国大名の老獪さは群を抜いた。


それでも北条からすれば佐竹勢を国内に封じ込めることが出来たのだから、一応の目論みは達していると言えた。


さて肝心の上杉謙信はというと、関宿合戦の敗北で吉江景堅が討死、河田長親は手傷を負い、兵を八〇〇〇にまで減らしていた。但し、将軍・足利義輝の介入によって越後の謀反が鎮まったことにより援軍として送っていた金津新兵衛らが帰還、兵力を一万にまで回復させるに至る。


「そうか、上様が越後まで参られたか」


自らの生まれ故郷に敬愛する主君が足を踏み入れたことに謙信は感動を覚え、新兵衛の報告を笑みを洩らしながら聞き入った。そして来春には長尾景勝が出陣してくるとの報せを受け、反撃の支度を整えるよう諸将に通達する。


その越後勢が三国峠を越えて忍城に入ったのが、四月十二日のことであった。


「遅参の儀、御詫び申し上げまする。長きに亘る戦で兵たちが疲れ切っており、少々支度に手間取ってしまいました」

「なに、兵たちを慈しむのは大将の心得よ。気にするな」


開口一番に陳謝する景勝を謙信は笑って出迎えた。


「それにしても一万二〇〇〇もの大軍を引き連れたと聞いた。そんなに動員して越後の守りは大丈夫なのか」


謙信は景勝が引き連れてきた数を聞いて疑問を感じた。早めに田植えを終えてきたとはいえ、想定よりずっと数が多いのだ。殆ど越後を空にしてきたとも言える数だった。


「羽州への手当ては大宝寺に命じてあります。蘆名も北条との手切りを宣言し、下野へ兵を入れることを約束いたしました。全ては上様の思し召しにございます」


景勝は事の次第を謙信へ報告した。


羽州庄内地方を治める大宝寺義氏は前年に幕府へ恭順を示した。だからといって本領を安堵するだけなど今の義輝が許すはずもなく、幕府として大宝寺には越後の守りを命じる。しかも役目を怠れば出羽守を解官させ、最上に与えるという脅し付きであるから義氏も平身低頭して幕命を受けるしかなかった。


また蘆名に対しても義輝は静観を許さなかった。


蘆名の実権を握る止々斎は、幕府への恭順姿勢を示すために“御命令あらば関東へ兵を差し向ける用意あり”と伝えてきた。


「ならば出して貰おうか。すぐに出陣せよ」


と義輝は止々斎へ下野への出陣を命じ、下野国内に於ける北条方を攻めるよう幕命を下した。


これにより越後は周辺国全てに備える必要がなくなったため、全軍を以って関東へ進むことが可能となったのだ。


(遂に上様の威令が奥羽まで及ぶようになったか)


十年前は目下の京ですら意のままにならなかった義輝が遠く奥羽の大名すら動かしていることに謙信は感動を覚える。


(それに比べて儂は未だ関東すら平定できておらぬ)


同時に自らの不明を恥じる。義輝より関東の平定を命じられてより十三年が経過した今ですら、状況は当時と大した変化はない。


「大殿!我らは昔日の如く全て大殿の御下知に従う所存、ご存分に我らの力をお使い下さいませ!」


その謙信の前で、心中を知ってか知らずか景勝は高らかに宣言する。


長尾景信、柿崎景家、祐家と晴家親子、直江景綱、斎藤朝信、新発田長敦と五十公野治長の兄弟、山本寺定長、山吉豊守、水原親憲、安田長秀、加地春綱、中条藤資、山浦国清、甘粕景持、新津勝資、竹俣慶綱、鮎川盛長、上野家成、岩井信能、小国重頼に降った本庄繁長も加わり錚々(そうそう)たる顔ぶれが揃っていた。


一部で代替わりが起こっているも第四次川中島合戦で謙信と共に戦った者たちも多く、精強なる越後勢が満を持して軍神の下へ帰ってきた。一時は上杉、長尾という二つの家に分かれていた家臣団が、謙信の前に再び終結したのである。


これにより謙信は戦国最強と謳われた武田信玄と互角の戦いを演じたかつての力を全て取り戻すに至る。


「よう来てくれた!よう儂の許へ馳せ参じてくれた!」


感動の余り、謙信は一人一人の手を握って歓迎の意を露わにする。繁長の手を握った時には、その罪を赦して変わらぬ忠勤を期待すると告げただけで、繁長を責めるような言葉は一つとして口にしなかった。


「こちらを上様から御預かりしております」


謙信が皆のところを回り終わって上座へ着くの待ってから、景勝が一通の書状を出して謙信へ渡す。それは将軍・足利義輝からの御行書であった。


表情を一転させ、口を真一文字に構えた謙信は、真剣な眼差しで書面に眼を通して行く。


「上様は何と仰せになられております?」


謙信が読み終わったのを見計らい、本庄実乃が皆を代表して問いかけた。


「織田殿へ東国平定を命じたとあった。近く出陣し、共に任に当たるよう書いてある」

「あの織田宰相殿が、関東へ参られると?」

「それだけではない。徳川殿や浅井殿などを始めとする東海、北陸の大名衆が出陣してくる。規模こそ書かれてはおらぬが、恐らく十万は下るまい」

「十万!?」


想像以上の大軍に座はざわめき始める。


いま関東にいる幕府方の軍勢は、ここ忍城に二万二〇〇〇、金窪城に武田と北条高広ら九〇〇〇、常陸の佐竹義重が凡そ一万である。細かく言えばもう少し増えるのだが、動かせる兵に限定すると四万余といったところだ。


逆に北条方は関宿城に三万あり、鉢形城に北条氏邦の一万がいる。また小田原も多少は余力を残しており、滝山や韮山、玉縄、江戸、川越など重要拠点にも少なからず兵はいる。更にいえば、結城や里見、那須、皆川など北条方に与し、あるいは従っている連中も動かそうと思えば動かせるだけの兵はある。


大評定の場で信長が予測した如く、長尾勢が加わっただけの現状では、やはり北条方を圧倒するには至らず、どちらかといえば兵の多寡で負けてすらいた。


しかし、織田勢の登場により状勢は一変する。


出陣がいつになるかは不明だが、間違いなく織田勢は東海道を進むはずだ。ということは、北条は守りが手薄となっている伊豆に兵の大半を振り向けなくてはならない。ならば確実に眼前の敵勢は減ることになる。しかも書状には、浅井長政ら北陸の大名衆は北国街道を下って来るという。これらの兵だけでも三万は見積もれ、それが謙信の下に入るとなればどうなるか。


間違いなく氏政は、挟撃の憂き目に遭う。それも未曾有の大軍に。それを防ぐ方法はたった一つしかない。


(上様に感謝せねばなるまい)


謙信の眼がキラリと光った。


「美作、軒猿を使って織田殿の来援を関東中にばら撒け」

「畏まりました」


突然の命令に実乃は何の疑問も抱かず了承の意を告げる。


「喜平次は一度、兵を休ませよ。但し、いつでも出られるよう支度は整えておくのじゃ」

「仰せに従いまする」


次に景勝も静かに頷くのみで、何の質問も返さなかった。


「和州は武田殿に遣いを送り、織田殿のことを報せよ。その前に北条と一合戦仕るとも合わせて伝えい」

「御意。加えて武田殿にも今のうちに動かれておいた方がよいと助言して参りましょう」

「好きにせよ。後は武田殿が判断されよう」


君命を受けた景綱がニッと笑うと、同じ笑みで謙信も返した。


謙信の狙いが何であるかを察している者は実は多くない。しかし、何かを閃き突然に命令を下すことには皆が慣れている。上杉並びに長尾家中は、謙信が棟梁となった時からこのようなことは日常茶飯事なのだ。そして、謙信の意に従えば必ずや勝利を得られることを誰もが疑っていない。だから即座に意に服すのだ。全貌は、その内に明らかになる。ならば、その時を待てばいい。


謙信は再び野戦にて北条と戦うつもりでいた。越後兵を加え、往時の上杉軍を復活させた謙信は、次に戦えば負けないという自信に満ち溢れていた。


後は北条が乗って来るかであるが、それも心配はない。織田勢の来援を知れば、北条は途端に絶体絶命に危機に陥る。それを打破するには、織田勢が関東へ来る前に上杉を叩いておく他はない。その上で織田と決戦し、勝つしか北条が生き残る術はないのだ。


(氏政は一度、武田と連合した儂に勝って慢心おる。今回は喜平次の援軍を得たとはいえ、上杉勢のみだ。儂を叩いておく必要があるならば、乗ってくるはずだ)


謙信の脳裏には、既に合戦場の風景が鮮明に映し出されていた。


=====================================


四月二十二日。

武蔵・関宿城


忍城の上杉勢に越後から援軍が駆け付けたとの報せを受け取った北条氏政は、近いうちに謙信が動くことを予想してほくそ笑んだ。


「謙信が今さら援軍を得たところで数は知れておる。また返り討ちにしてやる」


氏政は関宿合戦の勝利したにも関わらず、父・北条氏康によって制止を命じられて鬱憤が溜まっている。昨年の十月に氏康が亡くなってからは己を縛っていた枷が外れたものの“相模の獅子”と称された氏康の死は家中に大きな動揺を齎した。また氏康が幕府との和睦を遺言したことからも氏政は、当主でありながらも家中の意見を自分に近づけるだけで半年もかかってしまった。


小田原評定――


一門と重臣による合議制で、長きに亘って北条という家の方針を取り決めてきた場である。もちろん氏康の遺言をどうするかも諮られ、それに反対する氏政の意見も評定で主張された。当初は氏康の遺言を果たすという意見が大勢を占めていたものの比較的に若い衆たちが強気な氏政の意見に流れた。結論が出ないまま五ヶ月余りが過ぎ去った後、氏政が密かに陣を抜け出して小田原に舞い戻ったために和睦派は意見を引っ込めるに至った。


しかし、純粋に氏康の器量、人柄に心酔していた家臣たちは多く、心の奥底では氏政に反発的な者も少なくはなかった。表向き氏政の下知に従う旨を各自が誓紙として差し出すことになり、見えぬ形で(わだかま)りは残っている。


「……ふう、長かったわ」


そして、ようやく関東平定を再開できると思っていた矢先に上杉方に動きがあった。


「忍城の謙信を蹴散らせば、鉢形におる義信も兵を退こう。さすれば即座に下野へ兵を入れて悉く平定し、残る常陸の佐竹を討てば関東は儂のものとなる」


既に勝った気でいる氏政は、関八州の絵図を用い、軍議の場で関東平定までの道筋を家臣たちの前で示していく。


「されど越後勢は精強、また武田勢が出張ってくるやもしれませぬ」

「案ずるな。武田が再び上杉と合流するようならば、安房に背後を衝かせる」


懸念する松田憲秀の口を、氏政は塞いでいく。憲秀は評定で和睦派の筆頭だった。


以前は小田原から鉢形城に命令が下されていたため、氏政の下知に氏邦は従わず武田勢の合流を阻止できなかった。しかし、今回は小田原から氏政の意にそぐわない命令が下されることはない。氏邦は当主である氏政の命令に従う他はなく、間違いなく武田の進捗を阻止するに動く。


ならば敵は、目の前の上杉勢二万に限られる。三万の兵を有す味方が圧倒的に有利である。


「織田が出て来るとの話もありますが?」

「噂に過ぎぬ。もし本当に織田が出て来るのならば、いま何故に謙信が動く?我らを挟撃したいなら、織田が出て来てから動いた方がよいに決まっておろう。上杉の動きは、織田が来ないという確かな証拠よ」


氏政の意見に皆が頷きを繰り返して納得を表していた。


謙信が信長を待たずして動いた理由が何であるかなど、謙信しか知りようのないことである。しかし、結果として謙信の動きは幕府による織田の派兵を否定することに繋がった。


「仮に織田が本当に出てくるのならば、それこそ先に上杉を叩いておくべきじゃ」


と氏政は言ったが、憲秀の不安は拭い去れなかった。


織田は単独で北条とやりあえるほどの大大名である。その織田が関東へ来るということは、それだけ幕府の力が大きいということだ。ならば織田と上杉を確固撃破するような真似は下策でしかない。上策は、勢力を有している内の和睦。つまり氏康が正しかったことを意味する。


(幻庵様にご相談申し上げ、渡りをつけておく必要があるな)


ところが憲秀の想定を超える勢いで幕府による北条の包囲網は狭まっていた。


「申し上げます!突如として下野に蘆名勢が乱入し、蘆野資泰の蘆野城が包囲されました!」

「なんじゃと!?」


突然に舞い込んだ凶報に氏政の顔が驚愕の色に染まる。北条と蘆名は盟約を交わしているはずで、想定のなかった事柄だ。


「陸奥!どうなっておるのじゃ!」

「何も聞いてはおりませぬ!某とて寝耳に水にござる」

「聞いておらぬだと?それは怠慢ぞ!」


氏政は激昂して蘆名との取次ぎ役である氏照に怒声を浴びせ、睨み付けた。


幕府より下野侵攻を命じられた蘆名止々斎は素早かった。


普段通りに氏照と文のやり取りを行い”混迷極まる昨今ではあるが、今後も北条殿とは変わらぬ付き合いをお願いしたい”とまで記した。以前、氏邦が謙信を騙すためにこちらから疑ってかかったことがあったが、今回は逆に止々斎から味方であり続けることを示すことで、北条に二心ないことを信じ込ませた。


「奥羽のことは蘆名にお任せを!万事、整えてご覧に入れまする」


さらに止々斎は幕命を伝えにきた使者に大仰に応じて見せると、自らが幕府の名代の如く振る舞い、使者を伊達家に遣わして己の立場を表明すると同時に幕府の命と言って二本松義国の牽制を依頼した。また二本松氏には能登の畠山義続より畠山本流として幕府に従うよう下命があったので、止々斎の留守に義国は動くに動けなかった。


「……くそっ!本意ではないが、ここは従う他はあるまい」


義国は本来は自らの二本松畠山氏が正統であるにも関わらず、その地位を失ったことを実感した。悔しい思いに駆られながらも奥羽の大名すら意のままに動かしてしまう幕府の強大さを痛感することになった。


「蘆名の勢いは本物じゃ。なればここは、応じておくのがよかろう」


また敵対する田村隆顕に同盟を呼びかけて承諾させると自らは軍勢を率いて南下を開始する。手始めに下野国で最北端に位置する蘆野城を包囲した。


「いま下野は手薄じゃ。連中の目が南へ向いておる隙に落とせるだけの城は落とすぞ」


止々斎は今回の出陣を版図拡大の好機と捉え、宇都宮に視点を向けている那須党の城に次々と襲い掛かった。


これにより下野国内は国中の至るところで敵味方が交わる複雑な情勢に変化が生まれた。


「上杉勢が南下を開始!松山城を目指しておるものと思われます!」


続いて上杉勢の出陣したとの報せが届く。もはや議論をしている場合ではなくなった。


「松山城に兵は如何ほどおる?」

「確か一千ばかりかと」

「……持ち堪えられぬな」


数を聞いて氏政が渋面を作る。


ここ関宿城と忍城からでは、松山城には忍城の方が近い。上杉が出陣したとの報せを聞いている時点で、上杉勢は松山城に迫っているだろうから、急行したところで城が持ち堪えている保障はなかった。最悪の場合、城が落ちており、到着する味方が確固撃破される可能性もある。


「全軍で川越に向かう。あそこなれば我らにとって縁起のよい土地でもあり、大軍で待ち構えるには適した場所じゃ」


川越城は武蔵国に於ける北条方最大の重要拠点である。先代・氏康の川越夜戦は語り草で、全国の武士で知らぬ者はいないほど。北条という家が大きく発展した契機となった合戦であった。


城主は代々北条当主が務め、城代に地黄八幡こと北条綱成を据えていた。綱成の死後、戦況が慌しかったこともあり、子の康成が代わりを務めている。ちなみに康成は父の死後に家督を継ぎ、氏政から偏諱を賜って名を氏繁に改めている。


「川越で上杉を叩き潰す!」


氏政の下知が、全軍に飛んだ。


関宿合戦から凡そ一年、再び両軍の対決が迫っていた。


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五月二日。

武蔵・川越城


武蔵国の中心とも言える川越で、上杉軍二万二〇〇〇と北条勢三万二〇〇〇の対決が今にも始まらんとしていた。


兵力差は一万。上杉の総大将・謙信は川越城の北側、かつて川越野戦で大田資正が布陣した位置に本営を置いた。また副将を務める景勝は南西に陣取り、(おびただ)しい槍を城内へ向けている。


一方で氏政は川越城内に本陣を構えて陣取り、入間川を天然の堀として上杉勢を阻む壁の如く部隊を展開している。


挿絵(By みてみん)


攻める部隊より守る部隊の方が多い。しかも北条方は川越という地での合戦で自信に満ち溢れている。上杉にとっては厳しい戦いになることは間違いない。


「喜平次よ。やはり儂は戦場が性に合っておるようじゃ」


ところが謙信は、まったく何処吹く風であった。


「大殿。どうやら氏政は城には籠らないつもりのようです」

「当然だ、数はあちらが多いのだ」

「されど地黄八幡が亡き今、如何に北条が息を巻こうとも知れておりまする」

「油断をすると足元を掬われるぞ」

「大殿がおられる戦場で、我らが負けるとは思えませぬ」


他力本願な発言であるも表情には一点の曇りもない。そこからは叔父である謙信を景勝がどれだけ信じているかが窺い知れる。


「では、始めるとしよう」


静かに軍神が采を振る。そして合戦が始まった。


=====================================


まず火蓋を切ったのは柿崎景家の部隊だった。第四次川中島合戦でも先鋒を務めた豪の者である。


「大殿の馬前で槍を振るえるのも、今回が最後であろう」


景家は永正十年(一五一三)に生まれ、為景、晴景、謙信、景勝と四代に亘って仕えてきた。数々の合戦に参加し、川中島では武田信玄の本陣を攻め立てた。謙信の関東管領就任式の際には太刀持ちを務め、重臣中の重臣という自覚もある。


(自分は大殿の槍だ)


そういう自負が勢いに現れていた。柿崎勢は目の前の松田勢を散々に突き回し、対岸への上陸を一番に果たす。


「平三郎!何を遅れておるか!まさか臆してはおるまいな!」


嫡男の祐家が、自ら穂先となって兵たちの先頭を行く。


「兄者こそ前に出過ぎじゃ!見てみろ、味方が置いていかれておるぞ」


その後ろ進む弟の平三郎晴家は、渡河する味方を支援する傍らで兄の突出を咎めた。


「久しぶりに大殿の戦じゃ!我らがおって負けることは許されぬ」


前回の敗北は自分たち越後勢がいなかったからだ、という認識であるものは家中に多い。謙信の手となり足となって戦ってきた者たちには、こういう我の強い者が大半だ。故に北条高広や本庄繁長のように時には反発して謀反に及んでしまう者もいる。それでも心の奥底では誰もが謙信の強さに酔いしれ、憧れていた。


「我らが一番乗りじゃ!このまま蹴散らしてしま……」


馬上で叫ぶ祐家の声を一発の銃声が掻き消した。


祐家は崩れるように倒れこみ、そのまま地面に落下した。


「あ……兄者ツ!!」


その光景を遠目で見ていた晴家は、一目散に駆け出して兄の安否を確かめようとするが、松田勢に阻まれて近づけない。


「我らを甘く見た結果じゃ。それ!追い返せ!」


憲秀は兵の多寡を生かし、左右から兵を進めて柿崎勢を包囲する。家中でも随一の知行高を誇る松田家は、当然ながら兵も多い。武勇を誇る柿崎勢であっても数の暴力を前にして突破は容易ではない。結局、晴家は瀕死の兄を救い出すのが精一杯で、入間川を戻って行った。


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ここ長尾景勝の陣では、前線から渡河に難儀しているという報告を受けていた。


「大殿のところも渡河に難儀しているようだな」

「はい。何処も備えが厚く、突破には至らないとのことです」


補佐役として景勝の陣に赴いている直江景綱は、北側の合戦の様子を主に伝えた。


上杉の強さの一つに兵の勢いというものがある。今の時代、主従の信頼関係は、そのまま兵の強さに繋がっている。主を信望する家来を多く抱えている家は、兵に勢いがある。逆に大将が臆病だと、兵も及び腰になってしまうのだ。


「武士に弱い者はおらぬ。もし弱い者がおれば、その者が悪いのではなく、励まさない大将に罪がある。我が配下の武士は申すに及ばず。下部に至っても武功の無い者はおらぬ。他家にあって後れをとる武士があらば、我が方に来て仕えるがよい。見違えるような優れ者にしてやろう」


そう西国の勇将・戸次道雪は、このように語っているという。まさにその通りだった。謙信配下の者に、及び腰の者は一人として存在していなかった。


ところがである。その上杉の勢いを以ってしても厚い北条の守りは突破できずにいた。それほどまでに北条の国力は他を圧倒している。それが関東の覇者たる所以でもあった。


「正面が無理なら、搦め手を攻めるしかあるまい」


真っ向勝負をすれば、どうやったって北条に分があることを景勝は知っていた。


「と、申しますと?」


慌てた様子を一切見せない景勝に対し、景綱が問いかける。


「北条方の将を誰か寝返らせればよい」

「今から内通者を作るのですか?」


驚きの余り、景綱は目を丸くした。


本来、内応とは事前工作があってのことである。密談を重ね、密約を交わし、誘い出した戦場で最後の一手を放つ。それが調略というものだ。


「隙がないわけではあるまい。上田朝直辺りは、松山城を返してやると言えば乗ってくるのではないか」

「それは……!?」


痛恨の一言に景綱は大きく唾を飲み込んだ。


関東諸将の誰もが本貫地には並々ならぬ拘りを見せている。この百年で城主は代わる代わる変化したからこそ、余計に己の城だと主張し合うようになった。


先ごろに攻め落とした松山城は、元々扇谷上杉家の持ち城で大田資正が城主だった。これを後に朝直が譲り受け、北条に奔った過去がある。よって謙信も永禄四年(一五六一)の第一次小田原侵攻時に松山城を奪取した際、城主に資正を据えた。


いま資正は常陸で佐竹配下として動いている。幕府方勝利の暁には資正が城主に返り咲く可能性は高く、故にこそ朝直としては北条方に属すしかなかった。当然、松山城が北条の手にあったことも大きな理由の一つだ。


ただ朝直に懸念がないわけではない。北条は松山城を支配していながらも朝直を城主としなかった。これは朝直を氏政が信用していないという明確な証だ。今回の合戦も最前線に配置されており、厳しい立場にある。これに朝直が不満を抱いていたとしても不思議ではない。


そして肝心の松山城が北条から上杉に移った今、朝直の心中は如何ほどのものであろうか。


「……見込みはありますな。よく気が付かれました」


景綱は景勝の着眼点を素直に褒めた。


「されど懸念が一つ」

「大殿が認めるかどうか、であろう?」


二人は互いに視線を交わしあいながら、小さく首を縦に振った。


総大将は景勝ではなく、謙信である。関東に於ける最終的な決定権は幕府にあるのだろうが、よほど重要な城でない限りは謙信の認めた現状を義輝ならば受け入れるだろう。その謙信が私欲で寝返る者を許すかといえば、否定的な結論にどうしても結びついてしまう。


「使い番を走らせたところで話になるまい。儂が直に大殿を説得する」

「お待ちあれ。御実城様は大将であられます。大将が合戦中に陣を離れるのは如何かと。説得ならば、某が承りましょう」

「北条の動きを見て判ったであろう。あちらは守ることに必死で、こちらへ攻め寄せてくる気などない」


冷静に、そして客観的に景勝は合戦の推移を分析していた。


数で有利な状況に在りながらも北条は守りの陣形を敷いている。もちろん上杉から攻めたということはあるだろうが、やはり氏康の死が尾を引いていると見て間違いない。大きな柱を失った北条は、潜在的に守りに入っている。いくら氏政が息巻こうとも三万という大軍全ての心を変化させるような影響力は有していない。


かつて氏康は、この川越の地で八万もの大軍を前に僅か十分の一の数で打ち破った。まったく逆のしかも圧倒的不利にある中で、相模の獅子は味方を奮わせ、敵を(おのの)かせた。


それが出来ない氏政は、確実に氏康に劣る。氏康は超えられないと誰もが認めているからこそ、氏康が築いたものを皆が守ろうとしているのだ。


それら全てを景勝が見抜いているわけではないだろう。しかし、戦場の空気を自然と肌で感じ取っている辺りは、越後の龍の後継者たる素質を確かに備えていると言っていい。


小さな龍が巻き起こす風に、大きな龍がどう出るか。


景勝は景綱に陣を託し、謙信の下へ向かった。


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上杉方を次々と敗退させているという吉報が相次ぐ川越城内では、当初の重苦しい空気は消え去り、早くも戦勝気分が漂い始めていた。


「上杉謙信か。確かに並みの将ではないと思うが、勝てない相手ではない。何故に父が苦戦を強いられたのか、儂にはいまいち理解が出来ぬ」


そのようなことを口にする氏政には、確かに侮りが感じられた。傍らで見守る氏繁は、そんな主を心配そうに眺めていたが、己の意見を口にはしなかった。もしここに父・綱成がいたならば、主の間違いを大きな声で指摘しただろう。


「そろそろこちらから攻めてもよいのではないか」


時間の経過と共に氏政は攻守の逆転を図り始めた。守ってばかりというのは、氏政にしてみれば退屈でしょうがなく、上杉を散々に蹴散らして早く関八州の統一を実現したいという想いが強い。


「入間川という天然の堀が上杉の勢いを削ぎ落とし、我らの優位に繋がっていることをお忘れなく」


前線の報告に城を訪れていた北条綱高がちくりと氏政に釘を刺す。歴戦の勇たる綱高にすれば、寡兵にて渡河を行い、攻めてくる上杉勢の強さを改めて実感していた。奴らは北条を恐れていない。だからこそ前に進めるのだ。


(ところが我らはどうだ。何とか追い返しているものの追撃に及ぶ者は皆無。誰もが渡河して攻め寄せることを避けておる)


それは弱さであり、恐れであると綱高は思った。北条氏康という大きな幹が倒れ、それを支えていた北条綱成という添え木も折れてしまった。北条という家が、この先どこへ向かうのか。氏政は示せないでいる。関八州統一という目標を掲げたとはいえ、氏政の実績が兵と将を信じさせるに至っていないのだ。聞けば当人は関宿合戦の勝利を口にするだろうが、あの合戦で北条は綱成を失ったのだ。勝利という言葉の裏に漂う何ともいえない敗北感は、いま上杉謙信という龍を目の前に再び表れている。


そして、前線に変化が起きる。


「上田朝直が返り忠!大道寺殿の陣へ襲い掛かり、その隙に上杉勢が多数、押し寄せております!」


松山城復帰を謙信に認められた朝直が寝返ったのである。


「あ……あの痴れ者めがツ!」


何故にこうも上手く行かないのか、振り回される理不尽さに氏政は怒りと悔しさで顔を歪ませる。


いつも途中まで上手く行くのに、必ず邪魔が入る。こちらが勝っているというのに、なぜ寝返るのか氏政にはまったく理解できなかった。物心が付いた頃より北条という大きな家しか知らない氏政に、弱者の心など判るはずもなかった。


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上田朝直の裏切りにより戦況は大きく上杉方に傾いた。


突如として上田勢に襲われた大道寺政繁は、正面から攻め寄せる和田業繁の相手もしなければならず、四半時ばかり堪えたものの敗走を余儀なくされた。次いで孤立するのを恐れた里見義頼は、敗退を装って戦場の離脱し始めた。


「我ら里見は、元より公方様に弓を引く気は毛頭ござらぬ。北条に攻められ、方々に援軍を請うたものの手を差し伸べる者なく、已む無く北条に従った身でござる」


かつて里見が攻められた際に助けてくれなかった連中が悪い。そう主張する義頼は堂々と戦場を去った。いま上杉と敵対する愚を、義頼は悟っていたのだ。


謙信も去る者は追わない。今は目の前の敵に集中すべきだった。


(上様の天下を守る。そのために儂の至らぬ拘りなど捨て置きべきだ)


謙信が裏切りを許した理由、それは全て義輝のためであった。


景勝が朝直の調略を進言してきた際、謙信は眉間に皺を寄せて難色を示した。素直に心中を吐露するのであれば、平然と裏切りを行う者など義輝の世にはいらないと思う。それを進言してくる景勝にも当然ながら含むところはあった。


しかし、それに拘り続けた結果が今である。関東管領に任じられ、軍神と称されて携わる合戦の大半に勝利してきたにも関わらず、関八州は以前と大差のない状態が続いている。


自分のやり方では、実績を出せない。きちんと認め、向き合うべきだった。遅いかもしれないが、今からでも改めようと思う。朝直が寝返れば、合戦の勝利は見えてくる。それが敬愛する主君の悲願達成に繋がるならば、自らの拘りなど捨てるべきだ。恐らく義輝は、永禄の変というものをきっかけとして大きく考えを改めたのだろう。


ならば自分も、主に倣おう。


「進むぞ」


謙信が入間川へ足を踏み入れる。それはまるで、新たな道を一歩踏み出すかのような力強いものだった。


そして合戦は終局を迎える。


謙信が率いる上州勢は上田朝直の内応をきっかけに里見義頼の離脱を呼び込み、二陣に控えていた千葉胤富と北条康種は対応に苦慮した。もちろん北側の同様は西側にも伝染する。柿崎景家は嫡男の負傷に見舞われたものの再度の突撃を指示、出戻りながらも越後勢の攻撃を長きに亘って堪え続けた強さを誇る本庄繁長も続き、新発田長敦や山浦国清など越後勢も渡河を果たす者が相次いだ。こちらは北条氏照や綱高が絶妙な間合いで支援を差し向けたために戦線の維持は保てたが、更なる凶報が合戦に大きな影響を及ぼした。


諏訪四郎勝頼、滝山城を攻略中。


甲武国境を守る北条の重要拠点が危機に瀕していた。




【続く】

二ヶ月以上の更新停滞まことに申し訳ありません。


本業での異動それらに伴う業務などでまったく小説に触れる時間がありませんでした。僅かばかり時間が作れたので書き上げましたが、次話には手をつけられていない状態です。それでも上げなくてはお待たせすると思い、投稿に至りました。


次話もいつになるか判りませんが、なるべく早く上げたいと思いますので、お待ちいただければと思います。

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