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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第六章 ~鎮撫の大遠征・序~
148/199

第十二幕 鎮撫の大評定 ~天下一統への道筋~

十月三日。

相模国・小田原


 将軍・足利義輝の命を受けて関東までやってきていた北条氏規は、父・氏康のいる小田原城へ入ることを許されず、一族の長老・幻庵宗哲の屋敷で軟禁状態が続いていた。


(いつまで待たされるのだ。幻庵様は何を考えておられる。父上は何故に会ってくれぬのだ)


 時間だけを持て余す氏規の苛立ちは募り、ずっと思案に耽る毎日を送っていた。


 自分の思いを(つづ)った書状は届けた。しかし、それに対する返答は未だにない。どう返せばよいか迷っているのかと最初は思ったが、これほど時間が過ぎると別に原因があるとしか思えない。あの不気味な小田原の雰囲気が、氏規の不安を悪い方へと駆り立てる。


(ん?なんだ……)


 そうやって今日も同じく静かに時を過ごしていると、屋敷内が妙に騒がしくなってきた。いつも以上に人の出入りが多く、ドタバタと大きな足音もする。何やら慌てている様子が窺えた。まるで合戦が起こったかのような物々しい雰囲気だ。


「至急、登城せよとは何事か」

「火急の御用件としか……。ともかく登城せよとの殿の御命令です」

「父上の?……左様か、すぐ支度をする」


 氏規が聞き耳を立てていると、今の屋敷の主で幻庵の三男・長順が城からの遣いと応対しているようだった。


「何かあったので?」


 火急の用件とは聞き捨てならない。氏規は部屋を出て長順へ尋ねた。


「助五郎殿か。いや、何の用件かは判らぬ。ともかく今から登城する故、助五郎殿は留守を頼む」


 それだけを言い残し、長順は急ぎ登城して行った。


 小田原に来て四ヶ月、北条一門ということもあって周りの氏規に対する扱いは常に礼儀が行き届いている。ピリピリとしていたのは本当に最初の数日間だけで、今では外に出られぬものの屋敷内では自由が許されていた。それでも囚われの身たる自分に留守を任せるとは思えない。長順が何かしらの理由で錯乱し、平静を装っているだけならば、納得はする。


(いったい何があったのだ)


 律儀な氏規は、本家の事ともあって屋敷から抜け出すこともなく報せを待ち続けた。しかし、それから半月が経った後も長順が帰って来る気配はなかった。


「助五郎様に御客人でございます」

「客?誰だ」


 そんな折、氏規を訪ねて来る者がいた。囚われの身たる自分を尋ねてくる者など氏規は検討もつかなかった。


「御無沙汰しております、兄上」

「三郎ではないか!?」


 現れたのは、氏康の七男で義輝の許へ送られたはずの三郎氏秀であった。小田原にいるはずのない人物がいる理由を氏規は尋ねた。


「それが急に上様に呼ばれ、小田原へ戻るよう命令されました」

「なん……だと」


 それを聞いて氏規は、全身の力が抜けて行くのを感じた。


 三郎が小田原へ戻された理由を推測するのは難しくない。恐らく人質の存在が必要なくなったからだ。所詮、北条は氏規や氏秀が幕府側にいようが態度を改めることはない。つまり人質とは名ばかり、自分たちが関東を平定するまでの時間稼ぎ。そのようなものに義輝が付き合う義理はなく、北条討伐へ舵を切り出したことの証として、不必要となった氏秀を送り返したに相違なかった。


(儂が戻らなかったばかりに、豪を煮やした上様が次なる行動に出られたか)


 もう四ヶ月も音信不通なのだ。義輝からすれば、氏規が裏切ったか何らかの理由で拘束、もしくは死んでいると思われても不思議ではない。あれだけ自分を必要としていた義輝ならば、その気性から推察できるのは、最悪の事態である北条の討伐。


「上様は儂の事を何か言っておらなかったか」

「いえ、何も仰いませんでした」

「ならば三郎は誰と共に小田原へ戻ってきた。儂の家来の誰かか」

「小田原までは柳生新次郎殿と御一緒で、先ほど別れたばかりにございます」

「新次郎殿だと?」


 柳生新次郎とは宗厳の嫡男である厳勝のことであるが、氏秀の供をするには少々大物だ。剣術家である柳生一族を護衛に付けたとすれば判らなくもないが、義輝の傍近くに仕える宗厳の嫡子である厳勝は、柳生の庄で宗厳に代わり領地経営に携わっているはずである。


 その厳勝を何故に氏秀に付けたのか。


(柳生一族は忍びに似た技を使うと聞く。上様のことだ。単に三郎を送るために小田原へ新次郎殿を遣わせた訳ではあるまい。必ずや小田原の様子は探っていよう)


 主の思惑を氏規は予測していく。


 厳勝が供ならば、連れの者もそれなりにいるはずである。そして柳生の能力があれば、先日の騒動の原因も何かしら掴んでいると思っていい。つまり義輝は最後の決断を下してはおらず、その為の情報収集を行なっていると見るのが自然だ。


(このようなところで無為に時間を費やすわけにはいかぬな)


 まだ僅かに時間は残されている。急がなくてはなるまい。


「三郎、そなたは城へ入ったのか」

「いえ、入ろうと思ったのですが、兄上の安否が気になっておりましたので。聞けば幻庵様の御屋敷で療養されているとか……。そういえば御元気そうな御様子、もう病は宜しいのですか?」


 すっ惚けた様子の氏秀に氏規は、呆れ顔になったものの世情に塗れていない若い氏秀には素直さが残っており、氏規が病ということを本気で信じていたようだ。というか表向き自分が軟禁されている理由が病であることを初めて氏規は知った。ならば北条としては、幕府に氏規が病で静養中と伝えている可能性が高い。


「……ああ、もう随分とよくなった。父上に御礼を申し上げねばならぬと思っておったところだ。いま書状を認める故に、ついでで悪いが届けて貰えまいか」


 裏事情を知らない三郎に合わせ、氏規は最後の抵抗を試みる。


「畏まりました」


 兄の頼みを快く引き受ける氏秀に対し、氏規の瞳は何かを決意したように真剣だった。


(幕府で奉公していた儂と違い、三郎ならば城に入れるやもしれぬ)


 氏規はいま考えられる事態を想定し、そこから導き出せる回答を書状に書き連ねた。これを父が受け容れてくれるのならば、まだ北条は生き残れるはずだ。


 それから氏秀が小田原へ赴き、再び何の音沙汰もなくなった。当てが外れたかと、他に何か方法はないかと苦悩の日々を氏規が送り、年が明けた頃に幻庵が屋敷に戻ってきた。幻庵は自らの屋敷だというのに一年以上もの間を留守にしており、カラカラと笑う陽気な普段の様子は欠片も見えず、まるで戦場に臨むような面持ちで氏規の前に姿を現した。


「助五郎、待たせて悪かったな」


 開口一番、幻庵は氏規に対して謝罪を口にした。


「御構いなく、已む無き事情があったものかと推察いたします」


 己を幽閉した張本人を前にしたにも関わらず、氏規は幻庵を責めることなく、かつてと同じように礼節を尽くして頭を垂れた。


「幻庵様、いま小田原で何が起こっているのか某は存じませぬ。されど北条という家に残された時間は、もうございませぬ。先に三郎へ託した我が言葉をお聞き頂けているのであれば、この場にて返答を聞かせて頂ければと存じます。その答えを聞き、直に上様へ御伝え申し上げる所存にございます」


 力強い言葉だった。そこから窺えるのは、北条への熱き想い。中央で味方なく、立場を悪くしながらも孤独を貫いて主命を全うし、北条という家を残すために尽くしてきた忠臣の姿そのものであった。


 氏規が出した条件は、相模と伊豆の二カ国以外を北条が差し出す代わりに自分が得るであろう河内一国を委ねるというものだった。これならば北条は表向き二つに割れるが、一族で三カ国と評定衆という立場を得る。決して悪い条件とは思わなかった。


「助五郎よ、御主の申し出は嬉しく思う。儂が北条の当主ならば、即座に受けていたであろう」


 逆に幻庵の言葉には力が感じられなかった。弱気というのではなく、何処か諦めに似た印象を氏規は感じる。


「それでは御本城様は、幕府を敵に回してでも関東を得ようと考えておられるのですか。本気で幕府を敵にして、北条が勝てると……」

「御本城様は、亡くなられた」

「……えっ?」


 突然の告白に、氏規は開いた口が塞がらなかった。


 いま幻庵は何を言ったのか。父が死んだと、確かに口にしたように聞こえた。御本城とは北条の家督を表す言葉で、現家督は氏規の兄・氏政が継いでいるが、隠居後も実権は父・氏康にあり、家中では氏康を“御本城様”と呼び、守護職にある氏政を“御屋形様”と呼んで区別している。その御本城様が亡くなった。俄には信じられなかった。


「一昨年の十月、謙信が倒れたとの噂が流れたであろう。あの折、奇しくも御本城様も倒れられたのだ」

「まさか!?そんなことがあったなど……」

「卒中であった。それから御本城様は意識を戻されて回復に向かっておったが、昨年の四月に再び倒れられた。そして十月三日、天命が尽きられた」


 十月三日といえば、屋敷内が慌しくなって長順が小田原への登城を命じられた日である。その原因が、まさか父の死であるとは氏規も予想できなかった。


「御本城様は関東管領に代わって幕府から委任を受ける形で、関東を治めるつもりであった。されど自らの病が治らぬものと知ると、我らに“幕府と和睦すべし”との遺言を最後に残された」


 北条氏康は“相模の獅子”と呼ばれる傑物で、初代・早雲の頃より北条を知る幻庵からしても優れた当主であったと思う。その氏康は徹底した現実主義者で、その積み重ねが今の北条という家を作り上げている。その氏康が幕府との和睦を命じたというならば、氏康は幕府と戦っても勝てないと考えていたことに他ならない。


 光明が見えた、その矢先のことだった。


「されど御屋形様は、御本城様の御遺言を果たされぬおつもりだ。幕府が如何に大きくとも、箱根の関で食い止められると豪語されておった。万が一に抜かれたとしても、小田原に籠もれば北条は安泰であると考えておられる」


 小田原城は二度に亘る上杉謙信の大軍を追い返した鉄壁の牙城、その幻想に兄・氏政が取り憑かれているのだとしたら、北条の先行きは危うい。


 幻庵が氏規の許へ姿を現さなかったのは、氏政の説得に奔走していたからだったのだ。そして、それが叶わぬまま現れたのは、半ば氏政の説得を諦めたからであった。


「莫迦な!確かに今の幕府には即座に大軍を関東に送る余裕はありませぬ!されど数年も経てば、幕府の財政は解決いたします。それこそ十万や二十万の大軍を送り、何年も小田原を囲む力が幕府にはございます!何故にそれが判りませぬ!」


 検地奉行として幕府を知る氏規は、兄の考えが間違っていることを声を荒げて指摘した。


 どれほどの軍勢を幕府が関東に送るかは未知数だが、攻める側は兵糧をいつでも調達できる。しかも目の前には肥沃な関東平野があり、別に調達は遠方からではなくともよいのだ。しかも小田原は海に近く、幕府水軍の力があれば、博多や堺から直接に運び込むことだって不可能ではない。


 一方で籠城側は、兵糧の調達は不可能である。しかも幕府軍に対抗して大軍で籠もるつもりなら、尚更に兵糧の減りは早くなる。その結果がどうなるかなど考えるまでもなかった。


「幻庵様!幕府は昔の幕府ではありませぬ。恐らく小田原へ攻め寄せて来るまでは時がかかりましょう。それまでの間で、もしかすると兄は関東を平定してしまうかもしれませぬ。但し、その時は幕府も九州を平らげておりましょう。つまり箱根の関から西は全て敵となるのです。関東を平定した程度で、幕府の身代に勝てると思っているのでしたら大間違いですぞ」

「判っている。されど御屋形様は聞く耳を持っておられぬ」

「某に兄と話をさせて下さい!直接、兄上を説き伏せてみせまする」

「それはならん」

「何故にございますか!」

「お前は北条を絶やす気か!」


 いきなり凄味を利かせた視線が氏規に突き刺さった。


(儂が北条を絶やす?)


 氏規は声を失い、冷や汗を掻いた。心の臓は鼓動を早め、思考は目まぐるしく回転する。それでも幻庵の言葉を正しく理解することが出来ず、ただ必死に自分を落ち着けながら一族の長老を仰ぎ見た。


「北条は結束は強い。幕府を敵にしたところで、一族から離反者を出すことはあるまい。皆、誰もが血という絆を信じておる。そんな北条の家が儂は好きじゃ。だからこそ潰えるのは見とうないのじゃ」

「なればこそ、某が兄上を説き伏せて……」

「なればこそ、よ。なればこそ助五郎は幕府へ戻るのだ。さすればどちらが勝っても北条という家は残る」

「なりませぬ!もし北条が幕府と戦う道を選ぶというならば、某も共に戦う所存にございます」

「そう申すだろうと思ったわ。されど、それはならぬ」

「某を見くびらないで頂きたい。評定衆という御役目を頂いてはおりますが、某は今も北条の一員という自負がございます。御家の危機とあれば、いつでも幕府を飛び出して戦う覚悟を持っております!」

「たわけッ!まだ判らぬか!」


 その時、懇願する氏規の額を幻庵が腰に差していた扇子でピシャリと打ち据えた。氏規の額は赤く腫れ上がるも頭に上った血を醒ますことになった。


「よいか助五郎、儂は御屋形様の説得を諦めた訳ではないぞ。だがそなたが幕府におらねば、誰が公方様との取次ぎをするのだ。北条が滅びれば、関東には巨大な欠地が生まれる。そのような旨味の溢れる北条討伐に誰が反対する?そなたが幕府におればこそ、北条が生き残れる道も図れるのだぞ」


 凄味を増し、理路整然と話す幻庵の言葉に氏規は納得を頷きで表した。しかし、それこそが幻庵の一族を残したいという願いが形になったものだと氏規は後々に気付くことになる。


 翌日、氏規は解放された。


 次に氏規が関東へ戻ってくるのが北条討伐の時だとは知らずに……


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元亀三年(一五七二)三月四日。

京・二条城


 守護大名らに担ぎ上げられた足利義昭の主導によって改元された元亀が早くも三年目を迎えた。遠国の状勢は未だ予断を許さぬ状況が続いているも畿内を始めとする幕府の支配域は着実に広がり、その繁栄振りは中心地である京の都を見れば一目である。


 復興が始まってから一年と数ヶ月が経過し、大半の建物は再建された。家を失った者たちも新たな住みかを得て義輝の治世を謳歌している。地方から民の流入もあり、現在の京は燃えてなくなる前よりも多くの人で活気に溢れていた。


 年明け早々、山陰の状勢が安定したことで、ついに義昭が配流先の隠岐に向けて出発した。足利一門の見送りは許されず、報告を受けた義輝も一度だけ頷いて見せただけだった。


(義昭よ。そなたの想いは必ずや兄が叶えてみせる故、隠岐にて足利の天下を見届けるがよい)


 義昭が送られる隠岐国がある方角へ向けて、義輝は心の中で弟へ己の覚悟を語った。


 義輝は義昭を死罪にしなかった。身内の情かといえば、それは違う。幕府再興という同じ夢を持った者同士が不幸にも対立するに至った。敗れた義昭を敢えて生かしたのは、戒めだ。政敵のいなくなった足利将軍が油断して足元を巣食われた例は古今いくつもある。共に夢を見た弟に見られていることは、充分すぎる戒めとなるだろう。


 その日、義輝は人を遠ざけて一人遅くまで酒を(あお)った。不思議と杯は二つあり、片方の杯には酒が満たされたままだったという。


「兄上!我らで力を合わせ、幕府を再興いたしましょうぞ!」


 義昭が還俗し、共に語り合った夜からもう五年が経つ。あれから紆余曲折あったが、天下泰平の実現に向けて今一歩のところまで来ている。西国は九州を残して制覇、橋頭堡は築けている。東国は関東で苦戦しているも今の幕府が本腰を上げれば片が着くのは目に見えている。奥羽には幕府に対抗できる大名はおらず、時間の問題でしかない。


 天下一統の道筋は、既に見えた。その眼光は、鋭く研ぎ澄まされている。


「諸大名を京に集めよ!」


 征夷大将軍の大号令が天下へ飛ぶ。幾人もの早馬が各地に送られ、そして戻ってくる。


 迎えた三月四日、京の都の賑やかさは早くも義輝の天下一統を祝うかのようだった。


 この日、将軍・足利義輝によって幕府に従う諸大名が京に集められた。遠国故に名代を送ってくる者も少なからずいたが、よほどの事情がない限り義輝の意向により大名本人が上洛するよう厳命されていたこともあって、多くの大名が一同に会すことになった。


 御一家の足利晴藤、義助、義氏の三人に三淵藤英、細川藤孝、蜷川親長、上野清信、北条氏規、一色藤長、朽木元綱ら評定衆、土岐光秀、三好義継など幕府系守護大名、その他にも織田信長、徳川家康、浅井長政、今川氏真、毛利輝元、小早川隆景、尼子義久、長宗我部元親ら外様大名も出席した。吉川元春は動向怪しい九州に備えて領地に残っており、元春の代わりとして元資が当主代行として出席した。


 また昨年の北陸遠征で新地に赴いた蒲生賢秀や能登守護に復帰した畠山義続にも上洛命令が下されたが、こちらは今年の雪解けが遅く在京する家臣が名代として参加、関東戦線で出陣中の上杉謙信や武田義信には上洛命令が下されず、上杉支援を命じられている長尾景勝の上洛も見送られていた。紀州の和田惟政も国情を鑑みて在国する許しを出した。


 まずこの年の正月に足利一門と一部の大名に官位昇進が伝えられた。


 播磨公方である晴藤が正三位・大納言、阿波公方の義助も従三位・権中納言、伊勢公方の義氏が正四位下・右近衛中将となった。大名衆の中でも毛利輝元が正四位下・参議、土岐光秀は正五位下・左近衛権少将に推任されている。


 これだけの大名を集めて義輝は何をしようとしているのか。


「上洛、大義である」


 労いの言葉から始まった大評定で、その目的が義輝の口から語られた。


「此度、集まって貰ったのは他でもない。九州の争乱が激しく、もはや守護の手で治まる状況ではなくなった。よって余が自ら鎮圧に赴くことを決めた」


 九州親征が告げられると場は騒然となった。


 予想していた者もいれば、そうでない者もいる。関東を先に鎮圧するべきという考えの者もいるだろう。だが義輝は九州遠征を発布した。


「皆々方も知っての通り、九州では戦に戦が続いており申す」


 評定衆筆頭の藤英が九州の絵図を広げ、諸大名の前で説明を加えて行く。


 九州の状勢は、ここ一年ほどで激変していた。


 前年の六月に大友家が肥後に出陣し、相良家を攻めて傘下に加えた。幕府は大友家の独断に抗議し、所領を相良に返還するよう通告するも徳渕津から得られる莫大な利益を失うことを嫌った大友宗麟は、言葉巧みに弁明を繰り返すことに終始した。


 宗麟にすれば失った博多の利益を少しでも補填したいと考えている。龍造寺を降して所領を増やしはしたが、経済都市である博多の喪失と比較すればまだ足りなかった。そこへ親貞が徳渕津を手に入れたことにより貿易による旨味が出始める。幕府には貸しがあると思っている宗麟は、いずれ幕府は折れると予想して素直に命令に従わなかった。


 これが義輝の怒りを煽った。


 間の悪いことに前薩摩守護・島津貴久の死去も重なり、南九州では薩摩の島津氏と大隅の肝付氏、日向の伊東氏の間で合戦が相次いでいる。これに九州で敵なしの大友家が動かない訳がなく、大友親貞が肥薩国境に兵を出し、島津と伊東の間で起こった木崎原の合戦で両軍が多大なる犠牲を出したのをきっかけに真幸院の支配に乗り出し、島津、伊東、肝付の間に大きな楔を打ち込んだ。


 そして肝付良兼が島津領へ侵攻。義久は大友勢を警戒して動けず、肝付に薩摩への侵入を許し、絶体絶命の危機に陥っている。


「九州騒乱の元凶は大友にございます。これを討たずして上様の目指す天下泰平の世は訪れませぬ」


 島津氏は筑前まで支配域を広げた幕府を頼みとし、密かに実弟の家久を上洛させた。熱弁を奮う家久を見て、義輝は島津がかなり追い込まれていると思った。


「余に島津を救って欲しいと?」

「この程度のことで我が島津は音を上げたりは致しませぬ。大友の主力は当家が引き受けまする故、上様は背後より攻めかかられませ」


 ところが家久は強気な態度を崩さなかった。家の恥を一切見せない態度に義輝は好感を覚える。


 それから義輝は家久の忠義を報いるべく労いに茶湯へ誘った。その際に家久は“不案内”を理由に白湯を所望する。この飾らない殊勝な態度を義輝は益々気に入り、仮に救援が間に合わず島津家が滅んだとしても幕府が家久に家督を継がせるとして御家存続を約束し、上方に在京領として二千石を宛がった。


 その家久は島津家を代表し、この評定への参加を許されている。


「先日、宗麟めが武田信玄と通じて幕府転覆を謀ったことが明らかとなった。その証も得ておる」


 そこに衝撃の事実が明かされた。城内のざわつきは、ますます大きくなる。


 宗麟は元亀擾乱の際、表向き幕府方を貫きつつも裏では謀叛方に擦り寄っていた。幕府領だった伊予を信玄に要求し、認められている。真田昌幸はその際に信玄から出された朱印状の写しと大友家臣・田原親賢の書状を隠し持っており、蟄居を解かれた際に義輝へ差し出していたのだ。


 この証拠を義輝は大友討伐の決め手とした。


「幕府として新たに九州の国割を定めた。宗麟が幕命を受け容れるならば家名の存続を許すが、受け容れぬのなら討伐する。秋には出陣を諸将に命じる故、各々支度を怠らぬよう務められよ」


 この国割りによって、義輝の強気な姿勢が諸大名に示されることになる。


 大友家の所領は豊前と豊後の二カ国のみとなり、その他は全て没収となっていた。薩摩と大隅は島津、肥後の相良は八代郡の割譲を無効として所領安堵、日向の伊東を始めとする大部分の地域を幕府が一旦は収公するとし、改めて守護が派遣されることになっている。その他は幕府軍が九州に上陸するまでに恭順の意を示すか示さぬかで対応を変えるつもりだ。


 この国割りの狙いは何か。


 欠地を多く見積もることで遠征に派遣される諸大名の士気を高めることが一つ、また九州で七カ国に支配地域を持つ大友家を二カ国と厳しくすることで、宗麟に幕府案を呑ませないようにした。そもそも叛意のある宗麟に大国を任せる訳には行かず、また九州に幕府として確固たる地位を得るには実際のところ大部分を支配している大友家は邪魔になる。ここで妥協案を示して宗麟に呑まれてしまっては、その分だけ幕府の影響力が小さくなってしまう故に義輝は、宗麟が幕命に逆らうことを前提に条件を定め、準備を進めていた。


 もちろん宗麟が条件を受け容れて屈服するなら存続を許してもいい。ただ恐らくは、そうならないだろうと義輝は思っている。


「姫路大納言様には中国勢、阿波中納言様は四国勢を束ねて共に九月に出陣、一旦は赤間ヶ関で合流を果たした後に九州へ上陸して頂く。先導役となる毛利宰相殿は八月に出陣、御味方が無事に上陸できるよう門司城の確保に務めて頂きたい。上様は十月に上方衆を率いて後詰を担う予定である」


 藤英の説明は尚も続く。


 先導役の毛利勢には、吉川と小早川が入る。手勢は二万五〇〇〇を予定し、門司城の確保と博多の維持が主な役割だ。


 次に中国勢を統括する晴藤の麾下には尼子、南条ら外様大名に細川や石谷、上野の幕臣大名が入り、副将には細川藤孝が選ばれた。但し、中国勢の中で備前を領国とする三淵勢のみが義輝の本隊に加えられる。中国勢の規模は凡そ四万余で、九州で毛利勢と合流後、筑前、筑後、肥前、肥後の制圧が主な任務となる。


 また義助の麾下には三好、蜷川、長宗我部の四国勢と淡路の安宅信康が入る。副将は長宗我部元親で、軍団の規模は二万五〇〇〇である。門司に上陸後、先導役から吉川勢を加えて豊前、豊後と侵攻し、大友の本拠地である府内の制圧を目指す。こちらには瀬戸内の水軍衆も加勢する予定だ。


 そして義輝の本隊は京畿八カ国の幕府領から軍勢を拠出し、伊勢公方の義氏や丹後の土岐、若狭の柳沢など幕臣衆に織田、浅井、徳川の外様衆が随行、北陸の朽木、畠山、蒲生にも少なからず軍役が課せられた。副将は足利義氏と織田信長の二名、総勢は十万を越える大軍勢となる予定で、赤間ヶ関に留まり戦況次第で九州に援軍を送る算段だ。


 凡そ二十万もの規模となる大遠征の計画が発布された。かつての西征を越える規模であり、九州平定に懸ける義輝の並々ならぬ決意を諸大名は感じ取る。九州で如何に戦功を上げ、大友の所領を頂くかに諸将は考えを巡らせ始めていた。特に先導役の毛利や中国、四国勢は手柄を立てる機会に恵まれている。いち早く席を立って帰国し、戦支度を始めたいところであろう。


 また大規模遠征は幕府財政の復活を意味していた。


 九月遠征は年貢を当てにしてのことだとはいえ、それでも規模は前回の西征を越える。つまりはかつての状況を凌ぐほど幕府の財政が潤っていることでもある。これは正直に言って義輝の予想を裏切るものだった。


 国を手に入れるということは、単にその国そのものの国力が版図に加わるだけではなかった。国と国が繋がることによって得られる利益は、京という日ノ本の中心地においては莫大なものとなる。特に義輝が出した都の復興令は各地から人と物を呼び寄せており、合わせて行なった京七口の関所廃止が拍車を掛けた。遠征によって財政は再び厳しくなるが、実入りの大きい今の幕府には、それは一時のことに過ぎず、すぐ回復する。


 既に義輝は、豊富な財政を武器に遠征に加えて幕府の象徴たる新たなる城の普請をも命じていた。


 場所は伏見だ。


 最初は洛中にて探したが、手狭で大規模な城が造れないと断念。仮に城郭を建てたとしても広すぎる都の建物群が防衛の邪魔になる。京は守り難い土地だというのは、古今の例を外れないことが立証された。次に大坂が検討されたが、要地ではあっても等持院こと足利尊氏が開府した京の地から遠過ぎることに疑問を上げる幕臣たちが後を絶たなかった。故に京から近く水運を通じて東国と西国を繋ぎ、かつ巨椋池を天然の堀として活かせる伏見が選ばれた。


 まだ普請は始まっておらず、各大名家から人足、資材などの提供を求めているところだ。これは普請を諸大名にも負担させることで、幕府のみが消耗するのを防ぐことが狙いだ。


 それは天下一の大名家となった織田家に最も大きな負担が充てられている。


「畏れながら申し上げる」


 その当主・織田信長が評議の席で、突然に声が上げた。


 声の主に耳目が集中する。信長が何を話すのか。もはや幕府、将軍の前に自由に意見を言えるのは、この男しか残っていない。その男の発言だからこそ、注目の的となった。


「九州に兵を送り、大友を成敗することに異存はございませぬ。されど関東は如何いたす。北条家もまた幕府に逆らう反逆の徒、これも討たねば天下に示しが付きますまい」


 殆どの者の視線が西へ向いていたところ、信長の眼は東へ向いていた。大友の事も捨て置けないが、幕府として北条も捨て置けない。北条氏康の死は既に幕府の知るところであり、北条氏規の帰還によって、それは裏付けられた。今も北条家中では恭順についての道筋が話し合われているようであるが、そんなものは信長の知ったところではない。義輝が大友家に対して討伐に動いた以上、北条だけが許されるという謂れはないのだ。


 北条氏康の死は転換点と成り得る。北条の攻勢で幕府勢力は関東で劣勢に陥っており、逆転の一手を打つ機会は今しかないと信長は考えていた。


「岐阜宰相殿の申すこと尤もなり。関東には幕府として長尾弾正殿に出陣を命じており、近く三国峠を越えて関東へ入ることであろう。その御は上杉、武田、長尾の三家が佐竹などの関東諸大名を手を携え、北条の謀反を鎮圧する予定でござる」


 しかし、表向き同意を示しつつも幕府の本音としては九州攻めを優先させたい。関東は下野で宇都宮家が崩壊し、ほぼ一国を北条方に奪われる一方で上杉謙信が武蔵の忍城を拠点にして上野への侵攻を防いでおり、鉢形城の北条氏邦は武田義信が封じ込めていた。そして佐竹義重は常陸国内にて徐々に自勢力を拡大している。そこに長尾勢が投入されるのだ。充分に北条へ抵抗する勢力であり、挽回は難しくとも暫く放置しても現状を維持することは不可能ではなかった。


 幕府としては、関東が膠着状態に陥っている隙に九州を片付ける方針でいる。


「これは異なことを申される。今さら長尾勢を送り込んだところで、北条を討滅できるとは思えぬ」


 ところが信長は、諸大名の面前であるというのに幕府の方針へ真っ向から反対してきた。幕府にも面子がある。諸大名の前で現状維持でよいとは口が裂けても言えないことを信長は判っているのだ。


「それは見解の相違と申すもの。長尾殿の下には精強な越後勢がおり、必ずや成果を上げられるものと存ずる」


 故に藤英は信長の主張を真っ向から否定した。


「成果とは何年後の話でござろうか。永禄の頃より長尾を含めた先に挙げた大名衆は、北条の敵として合戦を繰り返しておる。その現状が今であろう。状勢を覆せる理由にはならぬ」


 ところが、そんなことで己の言い分を引っ込めるほど信長は甘くない。


「かもしれませぬ。されど仮に宰相殿が申される通りの結果になったのならば、その時こそ幕府の出番にござる。此度の九州親征が如く、上様に従う天下の諸将らで北条の野望を打ち砕こうではありませぬか」

「それまでの間、北条の謀反を放置すると?それが天下の御政道たる上様の面子を潰すことと同意であるとは思わぬのか」

「それほど申されるならば、宰相殿には妙案が御有りなのでありましょうな」


 そう言い放った瞬間、藤英は苦虫を噛み潰したように表情を崩した。食い下がったものの、結局は信長の言いように話を誘導されたことに気が付いてしまったのだ。


 そして信長は勝ち誇ったように口角を僅かに上げる。


「当家に御任せ頂ければ、一年の内に東国全てを幕府に従わせて見せましょう」


 織田による東国遠征を信長は提案した。胸中で“しまったッ!”と藤英は叫んだが、もう後の祭りだった。もはや大評定の場は、信長の独壇場になっていった。


「宰相殿には九州に兵を送って頂かねばなりませぬ。とても関東を御任せ致すには……」

「大友如きを相手にどれだけの兵がいると申すのだ。西国の軍勢だけでも十万は上回る。これに上様の軍勢があれば大友など一捻り、ならば“我ら”は関東へ向かい、北条を討ちたく存ずる」


 ここで義輝のこめかみがピクリと動いた。


(宰相、“我ら”と申すからには予め話を通している大名がおるということか)


 義輝がちらりと視線を移す先には徳川家康がいる。


 家康は信長と一番親しい関係にある大名である。二人のやり取りを瞑想しているかのようにジッと聞き入っており、信長の言葉に何ら反応を見せていない。恐らく信長の言う“我ら”の中に家康が含まれていると見て間違いはない。家康からすれば、遠い九州へ赴いても後詰故に手柄も立てられず浪費あるのみ。関東へはどっちにしろ遠征しなければならないのだから、九州へ行かず余計な諸将を伴わない信長の案に乗った方が実入りも多く出費も少なかった。


 後は浅井が含まれているかどうかだ。状況からすれば浅井も徳川と同じ立場であるが、家康と違って長政は信長に北近江を奪われ、義輝から直接に領地を頂いている分だけ幕府寄りである。もし北国の入口である越前を領する長政が信長の案に乗っているとすれば、地理的に北国の大名衆は関東行きとなる。総大将は信長であるから、必然的に信長は大兵を手に入れられる。


「大友を侮ってはなりませぬ。大友の版図は九州で七カ国にも及ぶ。相応の軍勢を擁しておりましょう」


 そうはさせまい、と藤英が信長に食らいついていく。戦略、戦術の両面からしても兵を分けるのは愚策であり、九州を晴藤と義助で東と西に分けて侵攻できるのは、義輝の後詰が大軍だからである。信長に抜けられれば後詰の兵が半減し、戦略の練り直しが求められる。


「ではお訊ね申す。大友の軍勢を如何ほどと見積もっておられるのか。まさか十万を越えるとは言いますまいな」


 だが信長は大友を高く評価していなかった。ここでハッタリは通じぬぞとばかりに鋭い視線を信長は藤英に送り、藤英は悔しそうに口篭ってしまいそうになるが、何とか反論する。


「流石に大友とはいえ十万は揃えられまい。されど七、八万は見込んでおかねばなるまい」


 そう言われれば藤英も大友の脅威を煽れない。国力から推定して動員できるだろうと思われる最大数を口にするに留まった。


「ならば次に島津殿に訊ねたい。七、八万の大友勢、島津なならば如何ほど引き受けられる。五千か、一万か?」


 それを信長はあっさりと受け容れた上で、突然に白羽の矢を唯一の九州勢として大評定に参加している島津家久へ向けた。


 島津を見くびった質問に家久が、ムッと表情を硬くさせながら信長を睨む。信長のまるで値踏みをするような冷めた視線に腹を立てた家久は、一族の名誉を重んじ、天下の諸大名が集う大評定の場で大見得を切った。


「島津を甘く見ないで頂きたい。我が兄・修理大夫義久の軍略は並ではありませぬ。大友勢ならば、三万は引き受けられましょう」


 家久は意気揚々と答える。しかし、それこそ信長の思う壺であった。


「薩摩隼人の勇名は真のようじゃ。九州に島津あれば、上様の大友征伐は成った様なもの。ならば儂が東国を平らげれば、天下一統は完遂する」


 そこで信長は高らかに“天下一統”を宣言した。誰もが異を唱えられない大義を振りかざし、反対意見を押さえ込みにかかったのだ。


「御待ちくだされ!」


 そこに声を上げたのは、細川藤孝である。兄・藤英に成り代わり、信長の相手に名乗りを上げた。


「東西同時遠征ともなれば、かなりの費えが入り申す。いま上様の新城普請の話もございますれば、諸大名の負担はかなりのものとなりましょう。得策とは言えませぬ」


 藤孝は別の角度で反対を口にした。


 東国諸大名は、九州が遠いということもあって軍役は西国勢に比べて軽い。ただ東西同時派兵となれば、そうも言えなくなってくる。しかもこの年の正月に義輝は二条城に替わる新たな城の普請を公表しており、諸大名に人足、資材、扶持米の提供を石高を基準に賦課することも告げられている。


「東国遠征は当家に加え、徳川勢のみで行なう故に案ずる事はない」


 ここで信長は先程“我ら”と言った言葉の内訳を明かした。


(ほう……、越前守は誘っておらぬのか)


 意外だったと素直に義輝は受け止めた。合理主義に物事を考える信長のことであるから、東国平定に必要な兵力は想定しているはずだ。つまり信長は織田と徳川の兵でそれを賄えると考えていることになる。しかし、それはそれで幕府の面子が立たず問題が生じる。また東国諸将が幕府よりも織田に強い影響を受けてしまう懸念も生じる。


「……それは有り難く存ずるが、まだ問題はござる。東国にも兵を送るとなれば、上方は空となり、守りは手薄となりましょう。先年の謀叛のこともありますれば、やはり九州を平らげてから関東に兵を送るべきかと」


 先年の謀反とは、元亀擾乱のことである。再び上方を空にする危険性を藤孝は主張した。


「だからこそよ。東西同時遠征ともなれば、仮に上方で謀反が起こったとしても大した数は集められぬ。その上で西に上様、東に儂がおれば謀反などあっという間に鎮められよう。もっとも、そのような状況で謀反を企むような阿呆はおるまいがな」


 そう言って信長は周囲を見渡した。


 元亀擾乱後ということもあり、この場に幕府へ逆らうような真似をするものはおらず、後ろめたさから顔を下に向けるような者もいなかった。以前のように水面下で謀反が企てられているようなことは、ないと思われた。


(その御主が謀反を起こしたらどうなる!北条と繋がっている節はまったくないが、先の謀叛方と同様に上様の留守中に叛旗を翻せば、たちどころに上方は堕ちる)


 その中で藤孝は最悪の事態を想定し、悪寒を走らせる。


 とはいえ藤孝も本気で信長が裏切ると考えているのではない。ただ信長が東国平定を行なえば、幕府の影響力が東国へ及ばなくなる懸念がある。東国諸将は自然と織田を頼るようになるだろう。そうなってしまえば西に幕府、東は織田が治めるという奇妙な関係が成り立ちかねない。日ノ本が勢田川で二つに割れるという異常事態に陥ってしまうのだ。


 それは天下一統とは言わない。


「上様、どうか当家に東国平定を御命じ下さいませ。必ずや役目を遂げて見せまする。来年は共に天下一統を祝いましょうぞ!」


 信長は義輝の方へ向き直り、決め手となる最後の一手を打った。


 息を呑む静けさが辺りに広がっていた。誰もが義輝の言葉を待っている。ここで信長に東国平定を命じるか、命じないのかは全て義輝次第だ。


(さて、如何するか)


 信長の勝手は今に始まったことでない故に驚きはしない。織田と徳川を抜いたとしても九州を平らげる自信もある。そして織田勢を関東に派遣すれば、北条相手に苦しんでいる忠臣の援けにもなる。そもそも織田勢の派遣は幕府内でも議論されていた案件、その時は北条氏規を使者として送ることに決定しているが、義輝も藤孝も派遣には反対派であった。


 ところが義輝の考えは少し変わり始めている。


 信長が“天下”というものに独自の考えを抱いていることは義輝も知るところだ。石山を天下の中枢と言い、現地に足を踏み入れたことのある義輝は、信長の抱く“天下”の一端に触れた。感覚のものでしかないが、自分の抱いている“天下”や武田信玄が抱いた“天下”とも信長の“天下”にはずれがある。ただそれでも信長が自分に従っているのは、信長が抱く“天下”は自分の下で実現が可能なものなのだと義輝は推測する。でなければ、これまで多くの勝手をしながら信長が謀反に踏み切らなかった理由に説明がつかない。旗を翻す機会はいくらでもあり、好機も存在した。自分で舵取りをした方が己の“天下”を実現することは容易いにも関わらず、それをしなかった理由が恐らく“足利義輝”という存在にあるのではないか、と義輝は自ら分析している。


 ならば信長に東国平定を任せたところで幕府の根幹を揺るがすことにはならないのではないか、と最近の義輝は思い始めていた。そして信長の抱く“天下”に興味を持った。


(十兵衛は如何に思う)


 光秀は義輝と同じく信長の“天下”に触れた一人だ。その光秀の助言を義輝は欲した。義輝が視線だけを土岐光秀に向けると、光秀は黙ってコクリと頷いた。


(信長に東国を任せてよいと申すか)


 定石で考えれば、織田による東国平定は信長の勢力伸張を許すことになる。ただ仮に信長の案を退けたとしても、勝手に信長が東国へ向かってしまえば止める手立てが幕府にはない。かつて滅亡した鎌倉幕府執権の北条高時が遺児・時行の起こした中先代の乱で、足利尊氏は後醍醐天皇の制止を振り切って出兵をし、足利幕府創始のきっかけとしている。今回の事は中先代の乱に酷似しているとはいえ、北条討滅後に信長が関東で勝手を始める心配はない。そんなことは上杉謙信が許さないであろうし、信濃を織田に奪われた武田義信も反信長派となるであろう。しかも信長の本拠は岐阜であり、かつて関東を本貫地としていた足利家とは状況は違う。幕府の力も、建武政権のように脆弱ではない。


「真に一年で東国を平らげる自信はあるか?」


 故に義輝は、信長の覚悟を問うことにした。


「もちろんにございます」


 確信と打算を持って信長は答える。


 信長は知っているのだ。昨年の北陸遠征で義輝が羽州まで手を出したことをきっかけにして、今年の年賀に続々と奥羽の大名衆が使者を送ってきていることを。


 名を挙げれば切りがない。奥州の南部晴政は駿馬と鷹を贈り、羽州の安東愛季も蝦夷地の珍品を献上、最上義光は永禄六年(一五六三)に上洛して義輝に拝謁していることから親幕府派であることを主張、羽州探題廃止の代わりに大宝寺氏が任官している出羽守への推任を求めてきた。伊達輝宗も鷹を献上し、蘆名止々斎は“御命令あらば関東へ兵を差し向ける用意あり”とまで伝えてきている。概ね奥羽の大名たちは幕府に好意的で、大友や北条のように幕府と対抗して己の野心を遂げようとする輩はいない。ただ幕府の探題職廃止の一件以来、奥羽は騒乱が続いていた。


 南部領では当主・晴政に嫡子が産まれ、自身の養子に迎えていた信直を疎ましく思うようになる。この状況を南部一族で庶流の大浦為信は利用し、信直の実父の石川高信が治める津軽地方で謀反の噂を流した。この後、南部領では内部抗争が加速して行くことになる。


 また奥州探題職を事実上で剥奪された伊達家は、所領拡大の大義名分を失うことになった。しかも重臣・中野宗時が謀反の嫌疑で追放される事態が起こっており、宗時が伊達領南部に勢力を有し、長年対立関係にある相馬領へ逃れたことにより戦の緊張が高まった。これに旧探題家で伊達家の従属下にあった大崎家が独立を画策、しかし隣国の葛西晴信に攻められて破れ、著しく勢力を減退させた。


 一方で羽州はというと、先の北国遠征で幕府に従うことになった大宝寺義氏は大人しくしている。ただ領地を接する最上家の間で家督を巡る争いが起きており、今は義守が隠居したことで終息に至っているも新当主である義光に家臣団が靡いたとは言い難い状況にある。故に義光は出羽守を幕府に求めることで己の正当性を確固たるものにしようと画策したのだろう。


 また出羽北部では湊騒動と呼ばれる諍いが起こっており、土崎湊を改修して外つ国や河川交易の統制強化を図る安東愛季に反発する国人勢力が挙兵、大宝寺氏の加勢を得て当初は一進一退の激戦であったものの義輝が越後まで遠征したことをきっかけに大宝寺は撤退、以後は愛季が優勢となり終息したばかりだ。他、京都扶持衆に名を連ねる小野寺氏の当主・輝道は横手城を本拠として安東、最上、戸沢など諸勢力と争いを繰り返して版図を広げている。


 結局のところ奥羽は蘆名以外は直接的に関東へ絡むことは出来ず、対外的には幕府に擦り寄る姿勢を見せつつ内部抗争に明け暮れている。他の地方で見られるような何処かの大名家が地方を統一するような動きは見られず、信長からすれば無視できる存在に等しかった。


 それは義輝も同じであり、奥羽は大兵を率いて行けば勝手に靡いてくるだろうとしか考えていなかった。


(そして難攻不落たる小田原を落す秘策もある、と申すのだな)


 北条を生きながらえさせてきたのは、もちろん優れた統治によるものだ。それは幕政を北条流に近づけた義輝が一番に知るところ。しかし、小田原という堅固な城塞を有していることも、北条が関東の覇者足れた要因の一つだ。


 北条を滅ぼすには、この小田原を落さなくてはならない。その方策ないのであれば、信長は東国平定を申し出ないだろう。


「左馬助」


 ならば、と義輝は信長を最大限に支援すべく北条氏規を呼ぶ。義輝が信長を支援すればするほど関東に於ける織田の影響力を抑えられることになる。許すと決めたのなら、信長が求める以上に信長を支援するべきだった。


「……はい」


 名を呼ばれた氏規は、まるで消沈したかの如く静かに返事をした。


 北条討伐が現実のものとなったことで己の職責を果たせなかった事に加え、御家滅亡を止められぬ罪の意識に苛まれていたのである。


(そのように縮こまるな。そなたは幕府の重鎮ぞ)


 そんな氏規に希望を与えなくてはならない。氏規の力を正統に評価している義輝にすれば、ここで氏規を失う訳にはいかないのだ。そのための処置を行なえるだけの力が、征夷大将軍にはある。


「これより姓を伊勢に復し、そなたを本流とする。以後、伊勢を名乗る者たちは悉く左馬助に従わせよう」


 義輝の決定、それは光秀に土岐氏を相続させたのと同じく氏規に伊勢氏を任せることだった。長尾から上杉を継いだ謙信や京兆家を退けて本流と定められた藤孝や一色本流とされた藤長などが同じ部類に入り、義輝にとっては有能かつ自分に近い人物で周囲を固めることに繋がる。


「お待ち下され!過分な御配慮かと存知ますが、北条の名を捨てること某にはとても……」

「余の決定じゃ。異を挟む事は罷りならぬ」


 突然のことに改姓令に氏規は辞退を申し出た。北条討伐は已むを得ぬとはいえ、自分は北条という家を残すという役割を幻庵に託されている。ここで北条という名を失うのは、幻庵との約束を違えることになると思った。


「左馬助よ、北条は元を辿れば伊勢氏に辿り着く。宗瑞が東国へ下向して根を張ったのが北条じゃ。だが宗瑞が北条を名乗った訳ではあるまい。氏綱が関東を支配するに北条の名が都合よかったに過ぎぬ。それは左馬助の方がよう存じておろう。よくよく考えるのじゃ。北条の名に拘るより、宗瑞の血脈を残すことの方が大事ではないのか」


 しかし、義輝は氏規の心中を慮り、得々と語った。


 義輝の言葉に氏規は聞き入る。慈愛溢れる将軍の言葉は、諸将の胸にも響いたことだろう。氏規は肩を震わせて嗚咽し、深々と頭を下げた。


「宰相よ、東国の平定を任せる」


 そして義輝は信長に東国平定を委ねる。


「左馬助を同陣させる。左馬助を頼って降ってくる者は、全て許せ。但し、所領は没収とし、左馬助の麾下に入ることを条件とする。他のことは、よくよく厩橋中将と諮って決め、余に報告せよ」

「畏まりました」

「加えて、余の名代として然るべき官位を与える。それと越前守ら北国の大名たちも関東へ征かせる。北国の諸大名は北国街道を下り厩橋中将と合流させる故、宰相は徳川権少将と今川刑部を伴って東海道を進め。支度が整い次第に兵を発し、東国の兵乱を治めるのだ」

「御任せを」


 と、短く信長が答えたことで後に“鎮撫の大評定”と呼ばれた評定は終了した。これより後に将軍・足利義輝による九州親征と織田信長の東国派兵を合わせて“鎮撫の大遠征”と云われる戦いが始まることになる。


 戦国乱世は、まさに終焉のときを迎えようとしていた。




【続く】

少々いつも以上に時間が空いてしまい申し訳ありません。今回は非常に大事な回でありましたので、時間がかかってしまいました。


さて東西同時派兵となってしまいました。お気づきの方ももしかしたらいらっしゃったかもしれません。前々より鎮撫の大遠征編は東国編が先になることは後書きや感想の返信で書いたことがありますので、時間軸からしても関東派兵が実は先になるのです。九州遠征は九月は変わらずで、東国は信長の支度が整い次第となります。言い出したのは信長ですので、もう織田領内では準備が先行して始まっていることは想像に難くありません。次回からは、この信長に主軸を置いた鎮撫の大遠征東国編がスタートします。(暫く義輝の登場がなくなりますことは平にご容赦くださいませ)


信長が何故に義輝に謀反せず従っているのか。それでいて従順ではなく勝手な振る舞いを止めないのか。如何なる天下を抱いているのかは次章の東国編で少しずつ明らかになっていきます。


また氏規が伊勢に改姓となりました。貞為という嫡流が生き残ってはいますが、父・貞良と祖父・貞孝は義輝にとって謀反人扱いの為、本流を失うことになりました。今後、伊勢氏規として北条、伊勢と旧畠山家臣団を統制していくことになります。

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