第十一幕 九州戦国伝 ~混迷の大地~
元亀二年(一五七一)六月二十三日。
薩摩国・加世田城
この地に島津伯囿斎と呼ばれる男がいる。元の名を貴久といい、薩摩、大隅、日向三カ国の守護を務める島津氏の十五代目当主である。
ただ伯囿斎は宗家ではなく分家の出自で、青年期に父・忠良の後見を受けて守護の勝久に養子入りし、宗家を継ぐ資格を得た。一方で反発勢力もおり、同じ分家で薩州家の実久が勝久を追い出して守護の座に就いた。実久の露骨な守護簒奪は、一時的に薩摩を従えるも宗家の家督という大義なく、次第に貴久が優勢になっていく。追い詰められた実久は、挽回を図るべく上洛して将軍・足利義輝へ拝謁した。この時、島津当主として拝謁の栄誉を賜ることで政治的立場を回復させようと考えたのだ。
ここで実久の夢は途絶える。帰途に発病し、何とか薩摩へ辿り着いたものの快癒せず、半月ほどで死去してしまったのだ。
家督争いに勝利して守護の地位を手に入れた貴久は、その後の周辺諸勢力との戦いで二度目の苦難に遭遇するが、朝廷や幕府に接近して薩摩を治める大義名分を得たことで、公式に薩摩の主となった。しかし、往時に比べて弱体化した島津は三州の守護とは名ばかりで、大隅、日向では守護家の命令が及ばない地域ほとんどだった。
特に大隅は肝付氏、日向は伊東氏が独自の勢力を築いており、島津の悲願である三州回復を阻んだ。中でも肝付家当主・兼続は手強く、竹原山の戦いで貴久は実弟・島津忠将を失うという大敗北を喫する。その後、次々と所領を削られていく貴久だったが、反攻して西大隅を手中に治め、大隅平定の足掛かりを得た。ただ薩摩も貴久の下で統一されているとは言い難く、名実共に薩摩を統一できたのは東郷氏と入来院氏を降伏させた元亀元年のことである。また貴久は薩摩統一の傍らで琉球に使者を派遣して独自の関係に力を入れ、明との交易も密かに行っていた。交易から得られる利益で島津は、他を圧倒する国力を手にしていた。
これだけでも貴久が如何に戦国大名として優れているかを窺い知ることが出来るが、彼の本当の功績は島津を再興させたことではなかったことは、彼の死後に知られることになる。
この日、島津伯囿斎は死んだ。
家督は伯囿斎の生前に嫡男の義久が継いでいた為に跡目争いなどは起こらず、島津は結束を保った。特に実弟の義弘、歳久、家久ら兄弟は仲が良く、各々が才気に溢れる名将、智将、勇将であった。この四兄弟が島津の次代を受け継いで行くこととなる。
「これから正念場ぞ。父上に死に乗じて、必ずや伊東、肝付は動こう」
義久は家中が落ち着くまで父の死を隠そうとはしなかった。既に家督は引き継いでおり、衝け込まれるような隙はない。故に兄弟たちと父を見送った後、これからの方策について話し合った。
島津は遠交近攻という兵法三十六計の第二十三計にあたる戦術を堅実に貫いてきた。遠きと交わるとは大友家のことで、島津と大友は共に守護大名という関係から同盟関係を築いている。近きを攻めるとは伊東、肝付、相良などの諸勢力の事を差した。この内で相良は大友に攻められて降伏したばかり、もはや脅威とは呼べなくなっている。しかし、伊東や肝付は健在だった。
「兄者!良兼が死んだらしいぞ」
ところが苦境に於いて吉報が舞い込んできた。届けたのは三男の又六郎歳久だ。
「それは真か」
「本当じゃ!何の病かは知らぬが、病死したらしい」
「されど良兼は早崎まで出張ってきたばかりではないか」
義久は余りに突然の出来事に弟の報告を信じなかった。それどころか父の死に衝け入る肝付が謀略を仕掛けてきた可能性が高いと考えた。
今年に入ってより大隅国国人・伊地知重興の属城である小浜城を島津が攻めた際、肝付良兼は自ら救援に出向いていたからだ。良兼は齢三十七であり、まだ死ぬような年齢ではなかった。
「伯母上は島津が先代の死を堂々と公表したにも関わらず、肝付が当主の死を隠すような真似は出来ぬと仰せじゃった」
「伯母上に確認したのか」
「無論よ。高山城に堂々とは入れぬが、元より手の者を幾人かは送り込んである。このくらいは容易いわ」
そう言って歳久は兄の前で大仰に笑い声を上げた。
肝付良兼の母は島津忠良の娘・御南であり、義久兄弟からすれば叔母に当たる。守護家の娘として誇り高く、島津と肝付の関係が悪くなった時に夫・兼続より離縁を迫られたが、これを頑なに拒否するほどだったという。女として、離縁されるという不名誉を嫌ってのことだった。
その叔母のいる肝付家の居城・高山城には、誼もあったことから島津の間者が潜り込んでいる。この内の一人と接触し、歳久は良兼病死という確報を得たのだ。
歳久は読みが深く、智恵が回る。状況認識能力に長け、いつも義久が決断を下すための材料を持ってくるため常に傍近く置いていたいと思っている。
「ならば警戒しなければならないのは、伊東のみですな」
二人のやり取りを黙って聞いていた末弟の又七郎家久が口を開いた。
義祐の勢力は北の土持親成、庄内地方の北郷時久の所領を除くほぼ日向全土を支配下に治めている。義祐は貴久の如く身内の家督争いに勝利し、朝廷や幕府に近づいて大義名分を手に入れ、永禄初期には南九州の要地である日向国真幸院を治める北原氏の家督争いに介入して所領を簒奪、続いて大軍を発して島津豊州家が領する那珂郡を占領した。
義祐の治める土地は、その城と砦の数から伊東四十八城と称され、まさに絶頂期にあった。だからこそ家久は、この機に乗じて義祐が動くのではないかと思った。
「相良が大友の合戦で敗北し、肝付の当主も死にました。島津も代替わりしたばかりとなれば、伊東は手放しで喜んでおりましょう」
周辺勢力の不幸は戦国大名にとって好餌だ。さぞ義祐はほくそ笑んでいるだろうと思われる。
「どうであろうか。相良や肝付は伊東にとっては味方、今は助勢を頼める時期ではあるまい。単独で我らとやりあう気概を持っているかのう」
それを否定したのは、次男の又四郎義弘だった。
伊東の勢いは認めるところだが、島津とて負けてはいない。薩摩一国を領し、西大隅と日向庄内地方に勢力を有している。充分に伊東と伍していけるだけの力はあるのだ。もちろん有能な義祐が気付いていないはずはなく、家久の言う通り島津を攻めようとはするだろうが、いま一つ決め手に欠けた。
このように義弘は相手の立場に身を置いて考えることが多い。それが大名であっても間違うことなく、まるで自身が戦国大名であるかの才能を有している。生まれる順番が違えば、義弘が島津を継いでいたとしても不思議ではないと義久は思う。そんな義弘を義久は手元ではなく、島津の副大将として別働隊を任せることが多かった。
「ならば今は守勢ではなく攻勢に出る時かと存じます。肝付に離反を仕掛けては如何でありましょうか」
「離反とな?」
いきなりの家久の進言に三人は首を捻った。
「肝付は永禄九年に先代が亡くなったばかりで、相次ぐ当主の死は当家の比ではありませぬ。私は禰寝辺りに隙があると睨んでおります」
大隅半島を領する禰寝氏が島津に寝返れば、肝付は背後に敵を抱えることになる。現当主・重長は島津と敵対しているが、先代の清年は島津寄りで、貴久が一門で家督を争っていた際は仲裁に乗り出したほどである。重長も心情的に島津を嫌っているのではなく、対立する種子島氏が島津を後ろ盾としたために状況から肝付側に付いただけである。それ以前では、禰寝とて肝付と争っていた過去があった。
家久の説明を聞くにつれて、兄たち三人は納得するかのように首を縦に振った。
意固地にならず、己の考えが通らなかったり間違っていたりしたならば、即座に思考を次に移せるのが家久のよい所だ。末弟であり、四兄弟の中で唯一、母が違うこともあって卑屈になる一面を持ち合わせている弟だが、有能な兄たちに囲まれている御陰か他より成長が早い。しかし、義久は家久が隠れて努力を重ねていることを知っていた。
「ならば又四郎は飯野城へ戻って伊東を警戒せよ。細かきことは一任する故、定期的に報せだけ送れ。又六郎は肝付に調略を仕掛けるのだ。伯母上に親しい者から我らに靡きそうな者を洗い出し、こちらに付く利を説け」
「私は何をしましょうか」
一人だけ主命を発せられない家久が畏まって兄へ問いかける。
「又七郎には上洛して貰う」
「上洛?また何故にございましょうや」
「うむ。正直、この状勢がどのように転ぶか判らぬ。故に今の内に我らの立場を公方様に申し上げておく必要がある。先々の事を考えれば、幕府を味方に付けておく事が肝要だ。場合によっては公方様の御力を借りることもあろう」
「はっ。畏まりました」
そんな弟たちを率いるのが、新たに十六代目として島津を束ねることになった又三郎義久である。一族の長として深謀遠慮に優れ、後に彼の名は島津の名君として歴史に名を刻むことになる。
南九州に新たな風が吹き出した。
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八月十日。
肥前国・佐嘉城
毛利元就の死から凡そ二月が経ち、肥前国主・大友親貞に仕える道意は、博多から道糞を連れて戻った。城下に宛がわれた自らの屋敷に通し、家人を遠ざけて道意は策謀を始める。
「元就が死んだことで色々と動き易くなった。そなたに早速やって貰いたい事がある」
「ちょっと待て。俺は貴様に仕えるとは一言も申してはおらんぞ。付いて来たのは、互いのことを話し合うためだ。貴様に俺の正体を明かされては困るからな」
道糞は到着すぐ悪態をついた。
荒木村重という名で生きていた頃、道糞は謀叛方を率いていた道意に従って行動してきた。その結果が身分を隠しての逃亡生活なのだから、道糞は道意に対してよい感情は抱いていない。道糞も戦国大名の端くれであった以上、道意を恨みこそしないものの“はいそうですか”と素直に従える心境にもない。
「嫌だと申したところで、そなたも今の幕府の膝元では生きてはいけまい。放っておけば、すぐに九州まで幕府の勢力は及んでくるぞ。儂に従えとは申さぬ。だが、力は貸せ」
道意は道糞の立場を正しく理解しながら、協力を求めた。我らは同類だと暗に呼びかけることで、意のままに操れる駒を手に入れようとしていた。
「何を企んでおる」
「何を、だと?笑止!無論のこと義輝への復讐よ」
「復讐だと?これは可笑しい」
復讐と聞いて、道糞は呆れ返った。
義輝が西征へ及んだ頃ならばいざ知らず、今の幕府は北九州から甲信越にまで勢力を拡大させている。あの武田信玄が敗れ去り、百万の門徒を抱える本願寺が屈したのだ。どう考えても勝ち目はない。道糞としては、ほとぼりが冷めるまで幕府の勢力外で生き抜くことしか考えていなかった。
「どうやって復讐を果たすと言うのだ。幕府の軍勢は十数万は下らず、一介の坊主の申す世迷言にしか聞こえぬぞ」
「世迷言かどうかは貴様自身で確かめればよい。既に儂は、肥前一国を自由に出来る立場にある」
「なんだと!?」
突如として驚きと焦り、二つの感情が一気に道糞を襲った。
道意が上方を去ってから一年ほどしか経っていない。話が本当なら、この僅かな期間に道糞が夢見ていた一国の主になったことを意味する。それほどまでに道意の才能は飛び抜けているということか。逆に自分は何をやっていたのだろうかと責めたくもなる。
「そなたが燻っている間に、儂は親貞に取り入り龍造寺を倒した。今では親貞は儂の傀儡よ。その親貞が大友を率いる日も近い。となれば足利尊氏の真似ではないが、九州の軍勢を率いて弱体化した毛利を倒し、その上で義輝と決戦する」
いつもは策を秘する道意だが、今回は変わって計画の全貌を語った。己の考えている企みの恐ろしさを敢えて教えることで、勝ち目があると思わせるのだ。
「毛利を倒すだと!?馬鹿を申せ。如何に大友とはいえ、毛利の身代を易々と……」
「毛利を支えていたのは両川よ。その両川を束ねていた元就が死んだ。以後の毛利は両川が率いていくことになろうが、あれは義輝によって守護化されて主家と切り離されておる。本家の家老どもと両川の間に、必ずや齟齬が生まれる。漬け込む隙はいくらでもあるわ」
次第に道糞の表情は険しくなり、視線は有岡城に籠もって幕府勢と対峙していた頃のように鋭くなっていく。
「どうじゃ、儂に付いて来ぬか。上手く行けば、次の天下人の座は貴様に譲ってやってもよいぞ」
道意は誘惑の決め手に“天下人”という単語を用いた。
「儂は老いた。上手く事が運んでも長くは生きられまい。復讐を終えれば思い残すことはなし、子もおらぬ故に天下が欲しければくれてやってもよい」
そう無欲に話す道意であったが、心の中ではあと一息で折れそうな道糞をあざ笑っていた。
(儂が天下の権を握れば、約束などいつでも反故に出来るわ!貴様如きは儂の手足となって働くのがお似合いよ)
そのように思うも表情に一切出てこないのが道意の凄味であろう。道糞は道意の言葉に心を揺らがせ、遂には協力することを了承した。
「よし、ではまずは名を変えて貰う。流石に道糞という名は酷かろう」
「糞みたいな俺には似合いだと思ったのだがな」
「そう腐るな。それならば道薫とでも名乗ればよかろう」
「道薫か。茶人らしい名だな」
渋々納得した様子の道薫は、ふて腐れたように横顔を向けた。
「表向きは儂の家来でよいな。儂も家来の一人くらいおらねば格好が付かぬ故な。その上でお主には日向へ行って貰いたい」
そんな道薫に気を止めず、話を道意は続ける。
「島津の先代が死んだらしい。伊東にすれば軍を起こしたいところであろうが、味方となるはずの肝付も当主が死んで動けず、頼みの相良も他家に手を貸している余裕はなかろう」
「相良が動けぬのは貴様の所為であろうに」
「幕府と繋がりが深い相良は、今の内に力を削いでおかねばならぬ。無論、島津も同様だ」
道薫は九州の細かい事情を知らないが、守護大名である島津の権威が幕府再興によって箔付けされているのは理解できる。ならば仮に幕府が九州へ兵を送ってきた際、島津はいち早く幕府方として名を挙げるという道意は予測はた正しい。
ならば島津は、道意の敵だ。
「その点、伊東は問題ない。義輝の不興を買っておる故な。大友同様に厳しい沙汰が下されるであろうて」
一方で道意は義祐が幕府から厳しい立場に立たされていることを掴んでいた。
永禄三年(一五六〇)、島津は伊東家との和睦朝廷を幕府に依頼したことがあった。義輝は幕命を下すも義祐が従わず、止むを得ず当時の政所執事・伊勢貞孝を派遣して幕命を順守するよう義祐に求める。しかし、義祐は八代将軍・義政の御行書を持ち出して己の正当性を主張、貞孝は義政の時代には使われていなかった言葉が御行書に散見されたことを理由に偽書である可能性が高いと報告した。
裁定の結果、義輝は係争地だった日向国飫肥地方を幕府直轄とする旨を通達する。ところが義祐はこの命令にも従わず、度重なる侵攻の末に飫肥を制圧してしまっていた。
その経緯を当時、三好長慶の傍で幕政に関与していた道意は知っていたのだ。
(あの執念深い義輝が伊東を許すとは思えぬ。よくて飫肥の割譲、悪ければ所領没収も有り得る)
義輝の性格を熟知している道意は、九州仕置きに於ける幕府の方針が凡そ予測できた。
「宗室のところで買い入れた茶器がいくつかある。義祐は都かぶれと聞き及んでおる故、いくつか持って行け」
かくして道薫は道意の密命を受け、日向国佐土原城に赴いた。
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八月二十六日。
日向国・佐土原城
大友家、しかも府内からではなく肥前国佐嘉の親貞からの使者だと聞いて義祐は訝しがったが、九州に於いて大友の名は大きく、無視する訳にも行かなかった。
「ともかく会うみるしかあるまい」
そう思い立って道薫を引見した義祐だったが、貢物の品が茶器と聞いて頬を緩ませた。しかも目の前に並べられた茶器は明、朝鮮で作られた名品で、色艶も然ることながら素人目で見ても出来が良かった。
当たり前といえば当たり前である。貢物は茶湯を茶人・武野紹鴎に師事し、茶道に精通する道意が博多の豪商の下で選んだ逸品で、名物と称されるものには一段劣るものの、日向なぞ田舎では手に入ることは稀な品である。しかも名人級の腕前を持つ道薫から紹介されれば、名物に変わらないように思えてくるから不思議だ。
「流石は大友殿の御家来衆じゃ。よい品を持っておる」
「御気に召して頂き、恐悦至極に存じ奉ります」
「どうじゃ?これから一服、共にせぬか」
「はっ、御一緒させて頂きます」
上機嫌となった義祐は、道薫を茶湯に誘った。そこで義祐は道薫の腕前に驚愕、感嘆し、不覚にも見惚れてしまった。
「素晴らしい腕前じゃ。儂の茶頭として迎え入れたいくらいよ」
「有り難き御言葉なれど……」
「判っておる。大友殿の御家来を引き抜くつもりはないわ」
「御理解、痛み入りまする。それでは早速に用件を御伝えしたく存じます」
「おおっ!そうであった、そうであった」
頃合を見計らい、道薫は本題を切り出していった。茶湯の席では余人を交えぬため、こちらにとって好都合な状況だ。恐らくは、あの道意のことである。こうなることを予測して茶器を持たせたに違いない。
「此度、我が主・八郎親貞様は目出度く従五位下・肥前守と成られました。その為、同じ九州で国主を務められております三位入道様へご挨拶に伺いました」
道薫は恭しく礼を言い、位を持ち出して義祐に媚びてみせた。
義祐は大名としては高位の従三位である。出家もしているために三位入道と呼ばれる。また親貞は従五位下なのだから、義祐の方が遥かに上位となる。そして日向一国を完全に支配できていないにも関わらず、義祐を国主と称することで、こちらが下手だと思わせることも忘れなかった。
「先々月の相良攻めでは、入道様も気を煩わせたことかと存じます。申し訳ありません」
親貞の相良攻めで義祐は相良側から大友との和睦仲介を依頼されたが、大友家を敵に回す危険性を感じて断っている。この事自体は仕方のないことだとしても、当の本人の心情を害したことだろう。その謝罪をした後に道薫は秘事を打ち明けた。
「当家は相良から肥後八代郡を割譲されましたが、どうも隣の葦北郡で一揆が起きそうな気配がございます」
「一揆とは、穏やかではないのう」
一揆という言葉を聞いて、義祐の声が一段階ほど低くなる。顎髭を擦り、こちらの出方を視線を鋭くして窺っているようだった。
(葦北郡で一揆が起こりそうだとは聞いておらぬ。大友め、何か企んでおるな)
義祐も義祐で敵地での情報収集は頻繁に行なっている。特に合戦が行なわれたばかりの八代郡は民の流出なども一部で起こっており、流入先となっている葦北郡は間者が活動し易い地域とであった。義祐が放っている間者からの報せでは、葦北郡に一揆の動きなど微塵もなかった。葦北郡は引き続き相良領のままなのだから、当然といえば当然だ。
つまり道薫の言っていることは嘘となる。
「近い内に肥前守が鎮圧ために大軍勢を差し向けられましょうが、あくまでも一揆の鎮圧が目的でございますので、入道様には御間違えなきよう御願い申し上げます」
「……左様か」
突然に訪れた好機に義祐は小躍りしそうになった。
相良が破れ、肝付の当主が死んだ今、義祐が島津と戦うには単独で望むしかない。負けるつもりはないが、それでも勝てるという確証はない。そんな時に大友家から手を差し伸べてきた。
大友家は島津と同盟している。家の大きさから比較しても対等とは言い難いが、大友側から盟約を破るのは外聞が悪い。
(一揆鎮圧とはいえ、大軍が動いたなら島津の動揺は計り知れまい)
葦北郡は肥薩国境に接し、一揆の気配なく大軍が駐留すれば別の目的があると勘ぐるのが普通である。島津からすれば警戒の為に軍勢を割かなくてはならなくなり、それだけ義祐が相手にする数が減ることになる。
「大友殿のお気遣い感謝いたす。これからもよしなに御願いしたい」
「それは当方とて同じにございます」
密かな盟約が結ばれた瞬間だった。
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九月三日。
豊後国・府内城
道薫を日向に送り込んでいる間、事が成るのを見越して道意は主君・大友親貞と共に府内を訪れていた。
「道意、宗麟様は出陣を御許しして下さるであろうか」
今にも始まる謁見を前に親貞は不安でいっぱいだった。
今山合戦に続き相良攻めで功績を上げたとはいえ、勝手に出兵したことを咎められたばかりである。凡才な親貞は気を大きくするのも早いが落ち込むのも早く、再び兵を出したいという願いを拒否されるのではないかと不安な気持ちに駆られていた。
「御安心くださいませ。当家の利を説けば、宗麟様も御理解いただけることかと存じます」
「左様か。なれば、よい」
道意の言葉に少しは心を落ち着けたのか、表情を和らげた親貞は宗麟と対面した。
「大義じゃ、八郎」
「御屋形様こそ御変わりなく壮健な御様子、祝着に存じます」
上座から言葉をかける宗麟の表情を仰ぎ見る親貞。道意は顔を上げていないが、道意ほどの者となれば語気からその者の感情を読み取ることは造作もなかった。
(機嫌は悪くないようだな)
最悪の場合、開口一番に叱責が飛んでくることすら想定していた道意だったが、宗麟の声を聞いて事が上手く運ぶと思った。
「肥後葦北郡で一揆の気配あり、鎮圧に赴きたいとの願いであったな」
「さ……左様にございます」
「既に支度も整え終えていると聞いた」
「御下命があり次第、動けるようにしております」
「……解せぬな。儂の許には葦北郡で一揆が起こりそうなどという報告は届いておらぬ。何を企んでおる」
「それは……」
戸惑いながら宗麟の質問に答えていった親貞は、緊張の余り途中で言葉を詰まらせてしまった。
(阿呆め!相良は降ったのだ。その相良がどのようにして領地を治めていたか、宗麟が配下を送って逐一報告させていることくらい判らんのか)
明らかな道意の失態であった。
元から才能豊かな道意は、これくらい親貞であっても難なく答えられると思っていた。葦北郡出陣の目的は伝えており、どのように宗麟に話せばよいかも事前に打ち合わせをしている。しかし、親貞は宗麟の詰問するような言い方に頭が真っ白になっていたのだ。
宗麟は九州六カ国を制覇した英傑である。親貞の求める出陣が一揆鎮圧でないことくらい既に看破しており、この場で本音を語らせようとしている。そもそも自分の足元で親貞がコソコソと動いているのが気に入らないと思っているはずだ。大友の方針は自分が決める、そう宗麟は考えている。ならば、その前提に従って言葉を選ぶ必要がある。
これはそのための儀式、通過儀礼なのだ。そう親貞に伝えていたはずなのだが、言い回しの問題か正しく当人は理解していなかったようである。
「某から御答えしても宜しゅうございますか?」
仕方なく道意が名乗りを上げた。本来、ここで目立つようなことは避けたかったところだが、どうも宗麟を相手するのに親貞では荷が重そうだ。
「そちは?」
「肥前守様が家来で、補佐を務めさせて頂いております道意でございます」
「初めて見る顔じゃな」
「元は延暦寺にて修行をしておりました一介の僧でございます。弘法大師様所縁の地を巡っていたところで肥前守様と出会い、御仕えするようになりました」
「一介の僧が武門に仕えるか」
「今の世では珍しいことではありますまい。某の力で僅かでも乱世を治める手助けが出来るのならば、これに勝る喜びはなく、それも仏の道かと存じます」
「血生臭い坊主じゃ」
「それも今の世では、珍しいことではありませぬ」
そう聞いて宗麟は“それもそうじゃな”と呟き、顎を動かして続きを話すよう促した。道意は衿を正し、姿勢を整え、正面に宗麟を見据えて話し始める。
「されば申し上げます!今こそ九州を大友家が統一する絶好の機会だと肥前守様は考えておられます。島津、肝付と当主が続けて倒れ、日向の伊東を従えれば九州に於いて当家の敵となる者はおりませぬ」
「九州の統一だと?それが葦北郡への出兵とどう関係するのだ」
吐き捨てるように言った宗麟だが、その瞳には関心が窺える。九州の統一は大友家の悲願なのだ。それを持ち出されて宗麟が興味を抱かないはずはなく、その後に続いた沈黙が宗麟の関心を裏付けていた。
「まずは八代郡の領主に島津陸奥守殿を据えられませ。ご存知の通り陸奥守殿は島津の正統にて、薩摩に近い土地を与えれば、確実に島津は揺らぎましょう」
島津陸奥守とは島津宗家一四代目・勝久のことである。
勝久は分家の実久に擁立され、義久の父・貴久と守護家の地位を懸けて争った仲である。実久方が敗れたことによって薩摩に居辛くなった勝久は、母方の実家である大友家に亡命していた。
その勝久を八代領主に、と道意は申し出た。
「島津とは盟約を結んでおる」
「もちろん存じております。故に八代郡はあくまでも陸奥守殿の忠節に報いての御沙汰にございます。故地に近い土地を与えるのも、御屋形様の御配慮で島津に対して何ら含むところはございませぬ」
「物は言い様じゃな」
「我らが一揆鎮圧に赴いている間、たまたま伊東三位入道殿が島津を攻めるらしいという風聞がございます。もし合戦が行なわれれば頃合を見計らって盟友である当家が和睦仲介を申し出て、伊東家に身を寄せている島津修理大夫殿に島津家を継いで頂くことで決着させれば、自ずと九州での合戦は治まるかと存じます」
「…………」
道意の言葉に宗麟は思案した。
策が上手く機能し得るなら、大友家は幕府に対しても充分な言い訳が出来る。上方からでは葦北郡に一揆の気配があるかどうかなど判るはずもなく、疑われても確証を与えるには至らない。証拠が必要なら、村の一つでも焼いておけばいいだろう。そして島津の当主に勝久の子である修理大夫忠康を据えられれば、それこそ島津は大友家に従属する大名となり、伊東義祐も自ずと傘下の大名に降格する。そうなれば落ち目の肝付など大友に従うしかなくなり、毛利の治める筑前北半国を除いて九州は大友家の持ちたる国となる。
宗麟念願の九州統一への道が、道意によって示された。
「……そなたの話は判った。されど勝手に兵を動かすことは罷りならぬ。儂の沙汰があるまで国許に帰り、内政に勤しでおるがよい」
熱弁を奮った道意であったが、結果として宗麟は出兵に応じなかった。不思議と道意は食い下がることなく親貞を連れて引き下がり、命令に従って肥前へ帰国することとなった。
「どういうことだ、道意。宗麟様は出兵を御許し下さるのではなかったのか」
想定通りに進まなかったことに腹を立てた親貞は、珍しく道意に怒りをぶつけた。
語気を強める宗麟の前で親貞は思うように喋れず、要請を断られたことで恥を掻いたと思った。こんなことなら府内に来るのではなかったと後悔もし始めている。
「御安心くださいませ。これでよいのです。恐らくは帰国次第に府内から出兵を命じる使者が送られて来るでありましょう」
そんな親貞と打って変わり飄々とした様子の道意は、何の心配もしていなかった。宗麟はやり取りの中で一度たりとも道意の言葉を否定しなかった。島津とは同盟を結んでいることや勝手に兵を動かすなと言っただけである。
事実、宗麟は親貞の帰国を見計らって葦北郡出陣を命じた。しかも肥後衆に対する命令権も一時的に付与され、豊後からは島津勝久と田原親賢が兵を与えられて遣わされてきた。
「我々は島津を攻める訳ではありませぬ。勝手に兵を動かすなというのも、宗麟様が御命令を下されたことで解消されております。これで肥前守様の思う通りに動けまする」
道意に解説されて親貞は得心が行ったと表情を和らげた。
「やはり儂にはそなたが必要じゃ。頼りにしておる故、決して裏切ってくれるなよ」
「某は肥前守様に拾って頂きました。肥前守様を裏切るなど、あろうはずがございませぬ」
ニッコリと笑い、平伏する道意の姿に親貞は満足気に頷きを繰り返した。その姿に主従の熱い絆を見た者はどれほどいたであろうか。正確には一人だけ、親貞の帷幕でその光景を怪しむ人物がいた。
(あれが道意か。油断ならぬ奴じゃ)
府内からやってきた宗麟の側近・田原親賢である。
「あの道意とか申す者、並の者ではない。今のところ当家に利することしかやっておらぬよう故に放置して構わぬが、怪しいところあれば儂に報告せよ。何のために八郎に近づいたのかを調べるのじゃ」
宗麟から道意の監視を命じられていた親賢は、表向き親貞に従う振りをして葦北郡までの道を共に進んで行った。
大友勢二万が、島津領に近づいていた。
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十月二十七日。
薩摩国・内城
島津の本拠である内城に伊東義祐が動き出したと飯野城の義弘から報せが届いた。義弘は伊東が意外にも早く動いたことに驚いたが、想定内のことであるので冷静に対処した。
「伊東勢は夜陰に乗じて小林城に集結中との事、今のところ一千ばかりが城に入ったと思われます」
「うむ。又四郎には引き続き眼を光らせるよう伝えておけ」
「はっ!畏まりました」
義久はよくやっていると思った。
義弘は伊東領内に間者を潜り込ませて敵の様子を窺わせている。夜陰に乗じてというのだから、伊東側は未だこちらに動きが露見していないと思っているのだろう。ならば、後の先を衝くことは容易だ。義弘ならば、その隙は見過ごす事はないと確信している。
「よし、我らも支度を怠るなよ」
義久は陣触れを発し、弟を助けるべく出陣しようと支度中である。後は時期を見計らって出陣し、出てきた義祐を完膚なきまでに討ち破れば、島津に有利と見た大隅の連中がこちらに靡いてくるきっかけとなる。
「申し上げます!大友勢二万が肥後に入ったと報せが届きました」
「何だとッ!?」
しかし、そう思惑通りに行かないのが戦国の世である。
「大友が動くとは聞いておらぬぞ!すぐに問い合わせよ」
肥後は相良が降ったことで大友家によって統一されている。そこに大軍を遣わす理由はない。考えるならば肥後は通り道で、その先へ向かっているということだ。
その先とは、もちろん薩摩である。
(大友め!伊東と繋がっておったかッ!!)
義久は激昂し、すぐさま家臣の上井神左衛門覚兼を派遣するも返ってきた答えは火に油を注いだようなものだった。
「我らは一揆の兆しがあると報知のあった葦北郡に向かうだけである。盟友たる島津殿の御領地を脅かすつもりはなく、むしろ一揆が飛び火せぬよう努めるつもりであるので、安心して頂きたい」
余りの物言いに義久は返書を怒りに任せて破り捨てた程だった。
葦北郡で一揆の兆しなど義久が知る限りなかった。つまりは別の目的があるということだ。判り易い嘘を付き、こちらの動きを制限させようとしているのが丸判りだ。
「御屋形様。大友の陣内には島津十字が翻っておりました。どうやら陣中に陸奥守勝久殿がおられる御様子」
「大友に身を寄せていた先々代様が?神左衛門、それは間違いないことか」
「間違いございませぬ」
途端、義久の表情が苦虫を噛み潰したようになった。しかし、すぐに元に戻る。状況は芳しくないが、相手の目的が判れば手の打ち様はある。
「又七郎を上方へ向かわせたことは、間違っていなかったな」
三ヶ月前の自分の判断を義久は良とした。
家久が出立して二ヶ月近く経っている。恐らく九州は出てい頃だろうから捕まることはないだろう。状況の変化は聡い家久のことであるから察してくれるだろうし、帰路は自分で何とかして帰って来るだろう。無事に送り出せたことが島津の運命を救うことになると義久は信じた。
「いま一度、又四郎に遣いじゃ。伊東の相手は任せる故、存分に暴れるがよいと伝えるのじゃ」
急使を走らせた義久は、大友へ対し返書を認めた。
「一揆の兆しとは穏やかではない。御心遣いには感謝するが、当家も薩摩の守護として領民を守らなければならぬ役目がござる。万一に備えて国境に兵を詰めは致すが、野心あってのことではない故に大友殿には御安心いただきたい」
まさに挑戦状というべき書状を送りつけたのである。
その後、義久は薩摩兵五〇〇〇を引き連れて出水城へ入り、野間まで駒を進めて街道を封鎖した。ここから先は海岸沿いの陸地側に山々が連なり。街道は細くなっている。仮に大友が兵を進めて来るのであれば、寡兵でも充分に守りきれる地勢だ。
また義久は内地で肥後との街道が繋がる大口へも二〇〇〇を与えて歳久に詰めさせた。
「阿呆が。いくら気勢を上げようとも、こちらから攻める気はないのだから同じよ。うぬらを足止め出来ただけで、儂の策は成就しておるわ」
その報告を肥後水俣城で受けた道意は、親貞に首尾よく進んでいる旨を報告する。と同時に、陣内で真新しい甲冑に身を包んでいる道薫へ密命を授けた。
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十一月五日。
日向国・飯野城
辺りが静寂に包まれた真夜中。ちょうど日付が変わった時刻に早馬が飛び込んできた。
「御注進!伊東方が動きました!」
「まことかッ!」
甲冑姿で床机に腰を下ろし、瞑想に耽っていた島津義弘がカッと両眼を見開く。視線からは閃光が放たれたかと思えるほど鋭さは増し、月夜の光に照らされて眩く光っていた。
「こちらへ向かって来るのか?」
「はっ!数は三千余り、どうやら妙見原に陣を張るようにございます」
「義祐が率いておるのか?」
「いえ、義祐はいないようにございます」
「相判った。大義である」
義弘は物見を下がらせ、再び思案に耽った。
(事前の報せの通りだ。我らに露見することを恐れ、義祐は自ら動くことを躊躇った。ならば勝機はある)
兵の数は僅かに三〇〇、当主の次弟の城で最前線に位置する飯野城に兵が少ないのは、義祐に大軍を動かさせないためだった。
もし飯野城に大軍が駐留すれば、義祐は万余の兵を率いて攻めて来ただろう。現に三年前の飫肥城攻めでは、義祐は二万の兵を動員している。もし飯野城に二万が攻め寄せてくれば、こちらも大兵を繰り出さなくてはならなくなる。そうなれば肝付が動いた時に出せる兵がなくなってしまう。故に敢えて兵を減らした。
読み通り伊東は此方の兵が少ないことを知って三〇〇〇しか送り込んで来なかった。大軍は大軍が故に金がかかる。義祐にすれば少ない手勢で飯野城を落とせると思ったのだろうが、島津を舐めては痛い目を見ることになると教えてやらねばなるまい。
島津の得意とする戦法は釣り野伏せ。敵を内側に引き寄せて油断させたところを突く戦法だ。その釣り野伏せを合戦場の戦術だけでなく、戦略にも用いるのが兄・義久の恐ろしさなのだ。父・貴久が亡くなろうとも義久あれば島津は安泰なのだ。
(この後は、後の先を衝くのみ。我の覚悟を見せてくれる!)
義弘は歯を食いしばり、兜の尾を締め直した。
事は伊東については上手く進んでいる。問題は大友の動きだった。当初の予定では、ここで義弘が狼煙を上げて大口城の歳久と重臣・新納忠元に報せ、伊東が攻めあぐねているところを神速の如く駆けつけた援軍と挟撃して敗退させるという流れだった。しかし、大友が予想外に大軍を肥薩国境に差し向けてきた為に伊東への対処は義弘のみで行なわなければならなくなった。
それでも諦めないのが義弘である。こちらの思惑が外れる事も覚悟はしており、その時の動き方も予め考えてある。
「伊東勢、妙見原に着陣。部隊を二つに分け、加久藤城を攻めるつもりのようです」
「中入りか。判り易い策だ。敵の大将は阿呆だな」
敵大将の采配を義弘は鼻で笑った。
夜陰に乗じて進軍してきたにも関わらず、電光石火の如く飯野城を攻めようとせず、抑えの兵を割いて手薄な内側の城を攻めようと定石を打ってくる。この戦法は正しいのであろうが、それならば堂々と明るい内に出陣して威容を示し、城を包囲した後に中入りを行い、救援すべく突出して来た飯野城の兵を返り討ちにするべきだ。わざわざ夜陰に出てきて後方の城に兵を割くなど状況把握が出来ていないと言っているようなものである。
「遠矢下総守は加久藤城の救援に向かえ。村尾源左衛門尉は古溝に出陣し、伏せておけ。野間口におる五代勝左衛門は、まだ動くなと伝えよ」
義弘の命令が戦場を駆け巡った。
伊東軍は一族の祐信に一隊を率いさせて加久藤城へ向かった。祐信は民家を焼いて島津方を挑発に及ぶも加久藤城には五〇ほどの兵士かおらず、悪戯に時間を浪費しただけに終わる。しかも祐信は搦め手から攻めようとし、夜目が利かずに道に迷い、狭い隘路に差し掛かったところを義弘の家老で加久藤城の守将を務める川上忠智の攻撃を受け、背後からは遠矢良賢が攻めてきたために敗退を余儀なくされた。
「お……おのれッ!このままでは済まさんぞ!」
怒り狂った祐信は池島川まで退却し、態勢の立て直しを図ることにした。一先ず緒戦は島津が制した。
「殿、相良勢と思われる軍勢が姿を見せたとのこと」
その頃、飯野城を出て加久藤城との中間に位置する二八坂に陣を張っていた義弘は、新たな報告を受けていた。
「まさか相良が動くとはな。数は判るか」
「彦山と高野にそれぞれ二百から三百ほどです」
「少ないな。こちらへ向かってきているのか?」
「いえ、動きは止まっております」
「伊東との義理を果たしにきたということか」
相良は大友との合戦で領地を削られ、とてもじゃないが兵を出せる状態にない。ただ当主の義頼は義に篤い男だ。今回のことで伊東から援軍要請があったのは間違いなく、兵を出したのだろう。
「攻めては来ぬな。撤退する材料は与えているのだ。すぐに退くだろうさ」
この義弘の読みは的中した。
義弘は戦場の一部に偽兵を施し、幟を乱立させている。万が一に備え、相良領のある北側にも幟を配置していた。相良方からすれば、島津の兵がいて進めなかったという言い訳が立つ。そして伊東の方が兵は多いのだから、自分たちが協力しなくても勝つだろうと思うはず。
故に戦意は低い。事実、相良勢は程なく撤退を開始する。
「よし!出陣ぞ!」
相良勢が引き揚げたのを見計らい、義弘は手勢を率いて祐信の部隊を攻撃した。
「背後を狙う必要はない!今は時を惜め!狙うは大将の首のみぞッ!」
真正面からの攻撃だった。
まさか自分たちが攻められるなど露とも思っていなかった祐信は混乱し、瞬く間に陣中深くまで攻め入られた。それでも勝利を疑わない祐信は退くことをよしとせずに留まり、遂には義弘との一騎打ちを演じるまでに至った。
「島津如きが伊東に勝てると思うなよッ!」
共に馬に跨ったまま自由の利かない状態での戦いだった。祐信は鋭い突きを繰り出して応戦、位は島津より高位の従三位で、その一族であるという誇りとこれ以上の敗退は恥であるという意地が祐信の槍に力を与えていた。
「ぐぬッ……、やるな」
穂先を柄で凌いでかわした義弘であったが、思わぬ強敵に肉薄した。素早く石附を突き立てて胸部を痛打するも馬上にて思う通りに力が入らず、決定打を与えるには至らない。逆に祐信に柄を掴まれて引っ張られ、こちらが体勢を崩してしまった。
「死ねやッ!」
そこへ祐信の一撃が繰り出される。首筋を狙った一撃は、そのまま義弘をあの世へ送るかと思われた矢先、刃は頭上を虚しく越えて行った。
突然に義弘の馬が膝を折り、主人を守ったのだ。
「貰ったッ!」
すかさず顎下に穂先を突き立て、義弘は祐信を討ち取った。
「目的は果たした。退くぞッ!」
ここで義弘は勝ちを驕らず、撤退を指示した。敵の数は依然として味方と開きがあり、無理をするのを憚ったのだ。
敗走した祐信の部隊は本隊と合流、総大将の伊東祐安は守勢に転じるべく背後にある白鳥山に拠ることを決定する。しかし、白鳥山を登ろうとした際に島津方と通じている白鳥神社の光巌上人が農民らと結託して太鼓を打ち鳴らさせ、同時に幟を押し立てさせたことで伏兵を装わせた。
「ここにも島津の兵がおるのかッ!」
驚いた祐安は反転、山を降り始めるも正面には義弘の本隊が迫っており進退が窮まった。
「伊東が意地!見せてくれる!」
“窮鼠猫を噛む”ではないが、追い詰められた伊東はそのまま義弘の本隊を突っ切ること決意させる。坂を下りる勢いも加わり、伊東軍の攻勢は凄まじく、連戦で疲れの残る島津軍を圧倒した。
「ここは下がられませ!某が引き受け申す!」
この攻勢に流石の島津も挽回できず、加久藤城救援後に本隊と行動を共にした遠矢良賢は、義弘の前に出て殿軍を申し出た。
「何を申すか、下総守!」
「まだ伊東の方が数は多うございます。最後の一手、間違うわけにはいきますまい。某が壮絶な討死を遂げれば、殿の策は万全となり申す」」
「莫迦な事を申すな!」
「殿が為に皆が死んでおります。某だけに恥をかかさないで頂きたい!」
良賢は義弘の馬の尻を叩いて無理やり走らすと、身を盾にして伊東勢の前に立ち塞がった。ここまで島津勢は伊東方を翻弄しているが、元々数が少ない島津は半数近い犠牲者を出している。通常、五割もの死者を出したなら軍勢は敗走していても不思議ではない。それでも軍として機能しているのは、義弘の人徳と采配によるものでしかない。
それを知っている良賢だからこそ、義弘を逃がす。
後方に退いた義弘は後を追ってやってきた加久藤城の兵を吸収して隊伍を整え、伊東勢と木崎原で再び槍を合わせた。そこへ白鳥山に伏せていた五代勝左衛門と白鳥山へ向かう前に背後へ廻り込ませていた鎌田政年が到着、包囲された伊東勢は壊乱して散り散りとなった。
まさに島津の御家芸“釣り野伏せ”が決まった瞬間であった。
伊東祐安は敗走中、本地原という場所に差し掛かった時に嫡子・祐次が討たれたという報せを聞いた。仇討ちせんと留まって隊伍を整えていた最中、突如として村尾源左衛門尉の兵が襲い掛かり、遭えなく祐安も命を落すことになった。
後に木崎原の戦いと呼ばれる合戦は、島津の勝利で幕を下す……はずだった。
「双方とも我らの為にご苦労なことだ」
双方の合戦が終結に差し掛かった時、飯野城が陥落した。
飯野城を落としたのは、先ほど撤退したと思われた相良の軍勢だった。殆どの兵が出払っていたことで抵抗らしい抵抗は出来ず、ほぼ無血で飯野城は落ちた。
しかし、その正体は相良の軍装をまとった大友勢。道薫の指揮する部隊であった。流石の義弘も飯野奪還は不可能と断じ、加久藤城にいる妻子を伴って歳久のいる大口城へ退いていった。
かくして真幸院と呼ばれる南九州の要地は、漁夫の利を得た大友家のものとなったのである。
【続く】
毎度のことながら遅くなって申し訳ありません。
今回は九州と関東の情勢を描くつもりが九州だけで長くなってしまい、時間がかかってしまいました。次回、前半に関東のことを描き、遠征前の評定の様子を描いて次章へ進みたいと思います。
さて今回ですが、引き続き道意の暗躍がメインです。ただ新たな登場人物としてお待ちかねの島津四兄弟が登場です。時系列で貴久を登場させることが叶わず、期待していた方は申し訳ない限りです。また史実より早く木崎原の合戦が起こってしますが、結果は大友の一人勝ちとなりました。本作では史実以上に大友の勢力が強くなっていることに加え、南部への影響力を増していることからの結果です。
次回、上洛した家久は引き続き登場しますので、ご期待ください。
また余談ですが史実でも家久が上洛した際の様子が“家久君上京日記”で知る事が出来ます。普段は戦国武将たちを偉業などからしか知ることの出来ない我々は過去の人たちが凄い人たちなんだなぁ……と思ってしまう多いと思います。この日記は当時の様子を等身大で知ることの出来る貴重なもので、筆者もちゃんと読んだ事はないのですが、家久が関所を力ずくで押し通ったり、信長の行軍を見物したり、光秀と会ったりなど色々書かれています。興味ある方は検索してみることをオススメします。