第十幕 紀州征伐 ~軍師二人~
十二月十日。
京・二条城
八月より始まった将軍・足利義輝の北陸遠征は成功に終わった。
伊勢公方・足利義氏は先手大将としての役割をしっかりと果たし、義輝到着前に尾山御坊を陥落させて加賀平定の道筋をつけた。その加賀を足掛かりに幕府軍は越中へ侵攻、これを平定して本庄繁長謀反に苦しむ長尾景勝を後援、出羽国庄内平野を治める大宝寺義氏を降すことで、ようやく越後の謀反は鎮まった。
これで長尾景勝が来春に関東の義父・上杉謙信を支援することが可能となり、幕府の力が直接に奥羽地方まで及ぶことが証明された。これは北陸遠征最大の功績だろう。
年明け、年賀の祝辞の際は今まで以上に多くの奥羽大名から義輝の許へ遣いが送られてくることは間違いない。
「さて平定した北陸だが、能登は畠山右衛門督に任せる。二度と失態を犯さぬよう、しかと治めよ」
越後からの帰途、残る能登を平定した義輝は、畠山義続に能登守護職復帰を許した。
元亀擾乱後、国替えで諸大名を本貫から切り離してきた義輝にしては、能登を義続に再び任せるという選択は一見して路線を外れた行為に思える。しかし、今回の北陸遠征で義輝は、幕府の力が絶対であることを知らしめる好機と捉えていた。
「右衛門督の能登守護職復帰に伴い、政尚も能登へ移封する。以後は畠山一門として、右衛門督に忠勤せよ」
義輝は義続の復帰に合わせ、畠山尾州家の家督を継ぐ政尚の移封が告げた。幕府によって畠山の主が義続であることを明確化となり、分断されていた畠山の所領を能登一国のみと定められた。しかも政尚の所領は能登羽咋郡とされ、残る三郡が義続に割り当てられたので、畠山としては能登一国を得たが、義続個人としては完全な能登国主復帰とはならなかった。それでも義輝は約定を守ったことになり、同時に義続はこれを拒否する権限は持ち得ない。
また加賀半国の南二郡は約束通り浅井家に恩賞として与えられ、残る半国には朽木宮内大輔元綱が讃岐より加増転封となって尾山に入った。
「宮内大輔は浅井の家中に詳しかろう。余の名代として北陸の監視を命じる故、その一挙手一投足を見張るのだ。されど有事となれば何かと物入りとなろう。越中国礪波郡を幕府の直轄地とするので、その代官もを命じる」
この元綱転封に諸大名は大いに驚いた。
加賀には幕臣の何れかが配置されると誰もが予想していたものの北陸遠征に関わっていない朽木元綱に移って来るとは思わなかったのだ。これは幕府の命により移封、転封が如何様にも行なえるのだという最初の事例となった。
端から見ると元綱は讃岐一国の守護から半国守護へと降格したようにも思えるが、加賀は半国でも讃岐一国より国力が高く、更には越中でも一郡を任されたことにより実は大幅加増されている。これだけの高禄を与えたのは訳があった。
幕府最大の大名は云わずと知れた織田信長である。その信長は尾張、美濃、伊勢、近江、飛騨、信濃を治めている。織田家と縁戚を結んでいる徳川家は三河、遠江二カ国の守護大名で、信長の妹を正室に迎えている浅井家は越前一国と今回で加増された加賀半国を領す。この三家の国力は凄まじく、手を携えれば信玄以上の脅威となる。そうならない為に義輝は信長へ対して懐柔策をとり、浅井の切り離しなども行っているが、万全とは言い難い。三家の内で一つでも国替えを行えればよいが、それだけの土地は空いておらず、九州か関東かを制せば新たな選択肢も生まれるまで待つしかなかった。但し、それすらも絶対ではないために彼らを監視する力がいる。その為の加増であった。
元々元綱は近江国高島郡朽木谷を所領としており、浅井家とは所領を接していた過去がある。その期間は長く、よって元綱は浅井家中に精通していた。また将軍家の避難所として朽木谷を守り続けた朽木家、そして元綱を義輝は高く評価しており、今回の役割には打ってつけと判断したのだ。
同様の役目を受けたのが蜷川親長だ。元綱の治めていた讃岐へ守護として入り、阿波公方家を支えると同時に元綱同様に四国の監視を命じられた。親長は軍略にこそ精通していないが、政略面では手腕を発揮している。讃岐は元綱が治めてから安定しており、親長の治世で更なる発展を遂げると期待できた。しかも親長は長宗我部元親と相性がよく、四国の取りまとめ役としては適任だった。
「蒲生侍従には越中を任せる。伊賀は幕府の直轄地に戻し、筒井順慶に代官を命じる。以後は伊賀の代官として国内に本拠を移し、職務に励め」
一方で義輝は幕府の基盤となる京畿の統治を強化することにした。
義輝の小姓として頭角を現している蒲生賦秀の将来を見据え、実直に忠勤に励む賢秀に越中を任せて守護とする。これにより伊賀は幕府領に戻るので、義輝は将軍職復帰以来に独立した大名として味方だった筒井家を完全に膝下に置くことにした。これで伊賀は幕府領として再び経営されることとなり、大和に於ける幕府の支配領域が拡大することとなった。
そして紀州の畠山政尚領が有岡城攻めで功績のあった和田惟政に与えられることを決定、惟政も今までの忠勤を認められて守護への昇格が許され、摂津は池田勝正が後任の代官に選ばれた。
これら北陸仕置によって、北陸もさることながら幕府は京畿での地盤は更に強固となった。征夷大将軍による命令は一切の異議が唱えられることなく粛々と遂行され、義輝の将軍としての地位と権限が完全に確立されていることを天下に示す機会ともなった。
全ては来るべき九州遠征の布石、その為にまだ一箇所だけ手を入れなくてはならないところがあった。
「中納言は首尾よくやっているだろうか」
義輝の視線は、南に向けられていた。
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十二月十四日。
紀伊国・孝子峠
北陸遠征に際して播磨公方・足利晴藤は、洛中守護を命じられていた。補佐には土岐光秀が任じられ、義輝の留守中を晴藤は無事に務め上げる。そして帰洛した義輝と入れ替わるようにして今度は出陣を命じられ、洛中を後にした。
向かう先は紀州、義輝が来年に予定している九州遠征を成功に導くため最後の一仕事を命じられたのだ。
「紀州か。上手く行くとよいが……」
総大将としての不安が晴藤を駆り立てていた。
紀州は高野山、熊野、粉河寺、根来寺、雑賀衆など寺社、国人の勢力が強く守護であった畠山氏の支配は形式的なものでしかなく、昔から幕府の支配が行き届いてない地域である。彼らは時として幕府の保護を必要としたが、自らの支配者として認めているわけではなく、如何に幕府の力が増大しようとも己から膝を屈してくることはなかった。
寺社勢力の強い紀州が結束して幕府に刃向かえば、それこそ数万の僧兵が敵となる。間違いなく九州遠征は取り止めとなり、幕府が紀州一国に手を焼くという不名誉な事態に発展しかねない。
「紀州を放置はできぬ。されど構っている余裕もない」
かといって足元に火種を抱えたまま九州へ征くことは不可能、どうすればよいか思案していた義輝の耳にある者の意見が飛び込んできた。
「ならば割ってしまいましょう」
発言者は武藤喜兵衛こと真田昌幸である。
昌幸は蟄居処分を解かれて真田の家督を継ぎ、今は奉公衆の末席に名を連ねていた。それでも奉公衆であるが故に義輝との謁見は許され、意見を口にすることは認められている。尤も常人ならば新参者である内は名案があっても遠慮し、口を閉ざしてしまうところで発言をするのは、昌幸の豪胆さを物語っていた。
「割るとは?」
興味をもいた義輝が昌幸に尋ねる。
「雑賀は浄土真宗、根来、高野山は真言宗、粉河は天台宗、熊野は神道にございます。彼らは時として手を組みは致しますが、根の部分では繋がっておりませぬ」
「確かに……。して、崩せるか?」
「御任せ頂けるのであれば、すぐにでも。されど根来を御許しになることを御認め下さいませ」
昌幸は幕府と敵対していない高野山を通じ、根来衆を味方に取り込む算段であった。高野山、粉河寺、熊野は幕府と敵対していないので、必然的に幕府の敵として生贄になるのは残った雑賀衆となる。義輝にしても紀州の全てを敵に回さず事を収められるなら、その方がいい。
「やってみせよ」
昌幸の策は、幕府の敵を雑賀衆のみとするものだった。そして、それは義輝の思惑と完全に一致していた。
義輝は余計な犠牲を紀州攻めで払いたくはない。紀州はジッとしていてくれれば、それでいいのだ。その保証がないから兵を送る必要がある。もし昌幸の策が上手く機能すれば、義輝は最小限の労力で紀州を治めることが出来る。
真田昌幸は武田信玄の懐刀。その力量を見てみたいとも思い、許した。無論、謀叛方との繋がりを持っているという利点を活かすという目論みもある。
こうして義輝は雑賀衆を敵と選んだ。
雑賀には敬謙な一向宗門徒が多い。しかも大半は坊主ではなく農民で生活は豊かであり、武勇は天下に鳴り響き、数多の鉄砲を所持している。しかも厄介なことに彼らは衣食の費えや玉薬に至るまで自弁で賄っている完全に独立した集団だった。無論、傭兵業で高額な金銭を得て、海運を握ることによって莫大な利益を手にしていた。
その彼らの権益に幕府が手を出す。その役目を担わされたのが、晴藤だった。
晴藤は播磨、和泉の軍勢を束ねて進軍、紀州の入口である孝子峠に差しかかっていた。
「峠には雑賀衆と思われる集団が凡そ二千、出口を塞ぐようにして待ち伏せしております。敵は多数の鉄砲を所持しており、筒先をこちらへ向けております。突破は、容易ではないかと」
先手を任せた赤松蔵人政範より晴藤の許へ敵の動きが報せられた。
政範は歴戦の勇将で、容易ではないとの判断は正しいように思う。だからこそ晴藤は渋面を作り、助けを求めるようにして脇に控える将の名を呼んだ。
「官兵衛、如何にする?」
「心配はありませぬ。突破が容易でないのなら、相手に道を開けてもらえばよいだけのことです」
如何にも難しいことを、稀代の軍師は簡単に言ってのけた。
黒田官兵衛孝高は土岐勢の一員として京に駐留していたが、光秀は義輝の帰還と共に在京を命じられ、孝高は光秀の名代として軍勢の一部を率いて晴藤に随行となった。
晴藤は孝高の同行を喜び、すぐさま傍に呼び寄せていた。
「道を開ける?……山手を進む和田紀州を待てと申すのか」
「古来より兵は退路を断たれることを恐れるものです。山手を進めば雑賀衆の背後に出ることとなり、敵の優位は一気に崩れます」
「和田紀州の軍勢が気付かれたなら如何にする?」
「特に気にすることもないかと存じます。幕府としては、九州遠征の為に可能な限り犠牲は出したくないところです。本音では雑賀の者たちも幕府に敵うとは思うてはおりますまい。最後まで抗戦することは考え難うございます」
「退くならば幸い……ということだな。して、どう決着させればいい」
「体裁は必要です。単に和睦しただけならば、幕府が謀反人を許したことになります。根来衆は泉州の寺領を一部割譲し、幕府に従うことを了承しています。それがない雑賀衆には一度は戦って勝ち、あくまでも幕府が勝者である形を作ることは必要です」
「なら我々は中野城を落せばよいのか」
「はい。それで一区切りつくはずです」
晴藤は孝高の謎かけに一つ一つ答えを出して行った。
「九州遠征では中納言を先手の総大将に任じるつもりだ。中納言は将軍家一門として人を使うことを学ばねばならぬ。そなたの裁量で中納言を導いて欲しい」
孝高が最初から答えを出すことは簡単だ。しかし、それは義輝より禁じられていた。
(やれやれ、公方様も面倒なことを仰る)
心の中で孝高は大きな溜息を吐いた。
孝高に課せられた役目は、あくまで晴藤を導くこと。晴藤が孝高を頼りとしていることは明らかで、その相性が良いこともこれまでの戦績が物語っている。ただ九州遠征で土岐勢は義輝の本隊と同行を予定していた。つまり孝高を晴藤の傍に付けることは出来ず、晴藤は自己の判断で遠征軍を束ねることになる。
その為にも晴藤にはいま一つ成長してもらわなければならない。義輝も晴藤に素養はあると思っている。しかし、孝高を晴藤に付けることが正解と判っていても義輝は孝高のことをよく知っているわけではない。一抹の不安は残った。
「官兵衛は策士ではありますが、根は善人でございます。決して役目は疎かに致しませぬ。上様の目が届かぬところでも御意に従うでありましょう」
土岐光秀の助言もあり、今回の人選となった。光秀は光秀で孝高の才を自分の下だけに置いておく事を勿体なく思っており、活躍の場を与えたいと考えていたのだ。
それから暫くしてのことだった。
「先手の赤松蔵人殿より遣いが参りました。峠を塞いでいた敵勢が撤退を開始したとのこと」
先鋒隊より再度の報告が入る。
「和田紀州がやったか」
「恐らくは」
「追撃したいところだが、我らは敵を敗走させた訳ではない。ならば敵は組織だって退いて行くはず、下手な追撃は要らぬ犠牲を生もう。追撃は厳禁と蔵人へ伝えよ」
不意に出た晴藤の追撃禁止令を聞いて、孝高は黙って引き下がった。晴藤にも尊厳はある。ここで“正解です”などとは口が裂けても言わない。晴藤が正解を自ら出したのなら、それで充分なのだ。
晴藤の部隊は一万八〇〇〇を数え、浜手を進んで中野城の確保を最初の目的としている。また山手を進む和田勢は摂津、河内の軍勢で一万三〇〇〇。こちらは太田城の占拠が目的である。
ほぼ北陸遠征と同規模の動員がなされていたが、斯くも事の進展が速やかなのは真田昌幸の功績である。
昌幸は武田信玄の腹心として外交、調略を担当してきた。雑賀と根来を抱えていた畠山高政に擦り寄り、信玄の代わりとなって策を弄してきたのは他ならぬ昌幸であり、元々繋がりはある。その繋がりを逆に利用し、幕府に利を齎すことで恩を売り、御家再興のきっかけを図っている。
「真田の家督を継いだとはいえ、謀叛方であった儂は信用されておらぬ。上様の目に止まるほどの功績を上げねば、いつ取り潰されても不思議ではない。少しくらい出しゃばるくらいでちょうど良いのだ」
昌幸が正式に幕命を受けたのは、義輝が北陸遠征に出る二月ほど前のことである。
信玄が認めるほどの才能を有す昌幸は、すぐに根来衆を離反させた。しかも根来衆は幕府へ恭順する土産として泉州の寺領と義輝の命を狙った杉谷善住坊を探し出させ、幕府に差し出させた。善住坊は宿敵・松永久秀の行方を唯一知る人物だ。これに義輝は大いに喜びを露わにした。義輝は善住坊に久秀の行方について問い質し、居場所を明かせば助命するという好条件まで出した。
「し……知らぬのだ。儂は奴が伊勢路へ向かったところで別れた。そこから先の事は知らぬ」
ところが善住坊は久秀の行方を掴んではいなかった。暗殺に失敗し、どちらかといえば捨てられた側である善住坊に逃亡先を教えるほど久秀は情に篤くない。
「伊勢路……。奴のことだ、そのまま伊勢に隠れていることはあるまい。船を使い東国へ逃れたか」
伊勢という地勢から義輝は久秀が東国へ逃げた可能性が高いと思った。東国には北条家という大大名が健在であったし、東北には未だ幕府の手が及んでいない地域が山ほどある。
その後、善住坊は六条河原にて斬首に処せられ、東国の諸大名へ向けて久秀の捜索を改めて行なうよう幕命が下された。
結局、善住坊から久秀に繋がることはなかったものの根来衆が紀州守護に従うことを認めたために義輝は寺領の安堵が約束、その甲斐あって山手側は根来衆を先導役として峠道を進むことになった。
しかし、ここで昌幸の調略は終わらない。
雑賀衆も決して一枚岩ではないことを昌幸は掴み、これを割るべく密かに手を回した。雑賀五搦の内、衆内で徹底抗戦を主張する雑賀庄と十ヶ郷を敢えて外し、宮郷、中郷、南郷の三つに的を絞る。
「根来衆はいち早く幕府に降るつもりよ。先に根来が降れば、残った雑賀衆に必ずや幕府は強気に出てくる。そうなれば雑賀衆に先はない。元々そなたらは一向宗の戦いに前向きではなかったのではないか。ならば最後まで付き合う必要はあるまい」
昌幸は巧みに彼らの立ち位置を突いてきた。
石山本願寺に与した雑賀衆といえども全部が一向宗門徒な訳ではない。率先して戦いに参加した雑賀庄と十ヶ郷に一向宗門徒が多く、他の三郷には浄土宗と真言宗の門徒たちが多かった。だから衆として一括りであっても各々が一蓮托生の思いを抱いている訳ではない。それを昌幸は知っていたのだ。
また三郷は主に雑賀の地域で東側に位置していたため根来衆と関係が深く、根来衆の離反を切っ掛けに幕府に属すことを了承した。
これにより山手側の進路が確保され、和田惟政ら山手勢は何なく峠を突破した。和田勢はそのまま紀ノ川を亘って雑賀庄に迫り、太田城の太田左近宗正を降した。所領安堵を条件に宗正は幕府へ恭順を示し、和田勢を太田城へ招き入れたのだ。
「左近が裏切っただとッ!?ふざけるんじゃねぇ!奴が離反したとなると、俺たちは孤立するぞ」
和田勢の太田入城は雑賀衆に激震を走らせ、孝子峠で防衛戦を張っていた雑賀孫一に撤退を決意させた。
「ここは退く。されど負けたわけじゃない。いくらでも挽回の余地はある」
孫一は一端、拠点を置いていた平井に逃れたが、中野城が幕府勢の勢威に屈して開城をすると南方の雑賀城に逃れた。
後を追うようにして、晴藤の浜手勢も雑賀城に迫る。
このまま幕府勢の勝利に終わると思いきや、浜手勢に属する黒田孝高と山手勢に身を置く真田昌幸は雑賀に築かれた敵の陣城を目にすると真っ先に大将の許へ駆け寄って同じ台詞を言った。
「絶対にこちらから雑賀川を越えてはなりませぬ。備えなく渡河すれば、確実に川は味方の骸で埋まりましょうぞ」
雑賀衆は雑賀城を中心に北の東禅寺山城、上下砦、宇須山砦、中津城、南の甲崎砦、玉津島砦、布引浜の砦で防備を固めていた。雑賀川が天然の堀として機能し、川岸には柵が設けられ逆茂木も多く配されている。その後ろには二列横隊で砲筒を並べる自慢の鉄砲隊の姿があった。
(なんという恐ろしい連中なのだ)
生唾を飲み込み、二人の軍師は雑賀衆の怖さを見せ付けられた気がした。冷や汗が流れ、言葉を失った感覚に陥る。
「官兵衛、どうしたのだ」
忠言を行ってから黙りこくってしまっていた孝高に戸惑う晴藤が声をかける。ところが孝高は声に気付かず敵陣を見つめたまま固まっている。
「中納言様。官兵衛の様子、ただ事ではありませぬ。ここは官兵衛の申す通りに渡河は避けるべきかと存じます」
その只ならぬ様子に事態を重く見た政範が補足を入れた。
「蔵人も同じ意見か」
「はい。某の眼から見ても敵陣に突破には難儀するかと。川と逆茂木に足を捉われ、銃弾を浴びせられては合戦どころではありませぬ」
「兵の数は我が方が圧倒的に勝っているが?」
「なればこそ和睦を進めるべきです。兵を失ってからでは和睦話も纏まりません」
西播磨殿と呼ばれ、数々の合戦を経験してきた政範も雑賀衆の備えを崩すことは不可能には思わないものの簡単ではないと感じていた。もし紀州を制圧するだけなら犠牲も厭わず大軍勢で押しまくるという方法も選択肢にある。しかし、今は九州遠征を控えており、それは義輝の意に沿わない。
「ならば当初の予定通り顕如殿を頼ろう」
晴藤は鷺森別院にいる顕如法主に義輝から預かっていた御内書を届けた。
鷺森別院は顕如の石山退去以来、本願寺門徒の総本山に位置づけられた。紀州の門徒たちは顕如の来訪を諸手を挙げて喜びを露わにしていたが、当の本人は幕府より洛中に約束された土地に新たな本拠を築くつもりでおり、鷺森別院は一時的に身を寄せているつもりだった。
その鷺森別院のある雑賀庄に幕府が攻めてきた。内心では面白いはずがないが、敗者である顕如が表立って嫌悪感を示す訳には行かない。臥薪嘗胆、石にでも噛り付いて幕府に約束を守らせ、洛中にて再起を図らなければ本願寺に先はないことを顕如は知っているのだ。
「佐大夫殿。ここは幕府に従ってはどうか?幕府の条件も悪くあるまい。目頭衆が揃って誓詞を差し出せば、これまでのことは赦免すると言ってきておる」
顕如は胸に秘める悔しさを隠し、雑賀衆の主・鈴木佐大夫こと重意に降伏を勧めた。
「幕府は信じられるのでありますか?幕府は法主様との約束を破り、加賀や長島で門徒たちを攻め滅ぼしました。我らも同じ道を辿るのではありませぬか」
「同じなら、また戦えばよいではないか。雑賀の地に拠れば、幕府の連中は手も足も出せまい」
「それはその通りでありますが……」
顕如の言葉に重意は心を揺らした。
雑賀衆の主として、自分たちの強さは自負している。現に幕府は数倍の人数を誇りながら鉄壁の防衛陣に攻め寄せられず、どれだけの数が押し寄せて来ようとも退けるだけの自信が重意にはあった。
そこを顕如は絶妙に衝いた。
雑賀衆としても幕府に囲まれている現状は好ましくない。費えがかかるばかりで海上を封鎖されては商売も上がったりだ。重意にとっても幕府勢が去ってくれるなら願ったり叶ったりなのだ。
「畏まりました。法主様の御意に従いましょう」
かくして雑賀衆は頭目衆七名の連署で誓詞を幕府に差し出すことで降伏の証とした。幕府勢は撤退を始めたが中野城に一隊を差し置き、惟政は有田郡に入って畠山政尚の所領を引き継いだ。
「来秋の九州遠征、和田紀州の軍役は免除する。余の名代として国人たちの彼官化を推し進めよ。今のまま紀州が治まることを余は望んでおらぬ」
依然として紀伊では幕府の支配力が限定的なものだったが、次第に彼らの力は削がれていくことになる。これを機に日高郡の玉置直和は幕府に近づき始め、牟婁郡の堀内氏善も謀叛方に与したことを謝し、年明けには恭順の意を示した。
そして元亀三年(一五七二)二月、北条氏規が小田原より帰還し、いよいよ戦国乱世は終焉を迎える時が近づいてきた。
将軍・足利義輝は諸大名に号令を発し、京にて大評定が行なわれることになったのだ。後世にて“鎮撫の大評定”と呼ばれる出来事が始まろうとしていた。
【続く】
遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。本年こそ更新速度を上げたいところであります。
さて紀州征伐と題しましたが本格的な合戦には至っていません。状況が酷似しており、ほぼ信長が最初に行なった紀州攻めと大差はありません。違いといえば軍師二人の存在があり、雑賀川で渡河しなかったので余計な犠牲が出ていないことと畠山政尚の人事権がある幕府がその領地を無血で手に入れたことです。
次回は一度、状勢を整理しつつ新たな登場人物を出し、次々回の評定をもちまして次章へ移りたいと考えています。
どうか今年もお付き合いよろしくお願いします。