第八幕 龍の子 -北陸平定の真意-
七月四日。
京・二条城
照りつける太陽の下、暑い夏を迎えて京都盆地は重い熱気に包まれていた。
一年前の大火災から復興もかなり進み、汗を流し肌の焼ける思いをして普請に励む工夫の姿も往時に比べれば半分ほどにまで少なくなっている。都の景色は昔日のように戻りつつあったが、来月に北陸出征を控えた幕府軍の武具や兵糧などが各地から運び込まれ、再び都は活気づき始めていた。
将軍・足利義輝の山崎での勝利から武田信玄の撃破、越前も回復して帝も帰洛し延暦寺は幕府に屈服、この春には石山本願寺も和議という名の降伏を受け入れた。山陰も落ち着き延び延びになっていた足利義昭の隠岐配流も近々実行に移される運びとなっている。そして次なる北陸出征では三カ国の平定という大事業であるも不安要素はまったくなく、確実に北陸は幕府の手に落ちることが予測されている。
全てが順風満帆に思えた。その流れを一挙に吹き飛ばす報告が飛び込んでくる。
「な……陸奥守が身罷っただと……ッ!!」
突然に襲った凶報は、西から届いた。
余りの驚きに報せを聞いた義輝は目眩に似たものを感じ、不覚にもよろめいてしまった。景色は渦巻状に歪んで見え、足元にも力が入らない。夏の暑さにやられたのだと思いたいが、実際はそうではない。陸奥守こと毛利元就の死が何を意味するのかを考えた時、あらゆる事態が起こることが容易に想像できたからだ。
「安らかな最期でありました。“至誠至純の忠義で上様に御仕えせよ”、それが祖父・陸奥守が最期の言葉でございます」
義輝の前で平伏する若き大将は、元就の最期の様子を伝える。その姿を見て、義輝は不安を拭い去れなかった。
これからの大毛利を支えて行くのは、この輝元である。まだ若く成長を望めなくはないが、その片鱗は見えない。見るからに凡庸で覇気に乏しい。謀略家であった元就に似ず、どちらかといえば陽の気質で善人とは思う。これは温厚で篤実であった父・隆元に似たのだろう。故に幕府への臣従も嘘偽りはなく、元就の遺言を守るだとは思う。
(ただ余の期待に応えられるかといえば、難しいであろうな)
元就を失った毛利は間違いなく動きが鈍くなる。吉川元春と小早川隆景は元就の稀有な才能を引き継いでいると思われるが、両川と謳われ毛利の存続に力を尽くす二人は確実に体制維持へ突き進むだろう。今のままでも毛利は安泰なのだから、軽々に幕府の為に兵を動かすことは考えられない。毛利が頼りにならないとなれば、もう西国には代わりとなる大名はいない。つまり義輝が自ら動かなければならないのだ。
「……左様であったか。故の上洛、大義であった」
「はっ」
義輝の言葉に、輝元はただただ平伏して引き下がった。
「もう一年ほど待ってくれたならば、やりようはいくらでもあったものを……」
輝元のいなくなった大広間で、口にしても仕方がないことを呟く。
毛利元就は天下に知らぬ者はいないほどの大人物である。近隣に及ぼす影響力は計り知れず、ただ一人の存在で万の人間の行動を制限させることも簡単な男だ。
その男が死んだ。
つい先日に博多から大友家が肥後に向けて兵を動かしたとの報せが入っている。何を目的としての行動なのかは不明だが、どうやら二万に近い兵が動いているとの事で、早急に調査するよう指示を出したところだ。
(単なる示威行為であればよいが、相良を攻めるとなると大友が肥後一国を支配することに成りかねん)
肥後で大友と敵に成り得るのは南部を支配する相良氏しか考えられない。相良義頼は幕府に従順な男で、代替わりした頃より献金を欠かしていない。二条城を築城する際も遠国ながら協力をし、かつて義輝に官位を奏請された恩を忘れてはいなかった。
まさか義輝も京の地まで名を轟かせる義頼が短期間で敗れるとは思っておらず、大友の目的が相良攻めとはっきりしたなら幕府として矢止めを命じる気でいる。その際、毛利に命じて兵の一部を九州に上陸させ威圧させることも厭わぬつもりだった。
しかし、元就の死で目算に狂いが生じる。
(こうなったら北陸攻めを急がねばならぬ。早急に片を付け、幕府がいつでも動けるということを知らしめねば、九州が危うい)
表面上で大友家は幕府に恭順しているが、義輝は内心で宗麟は毛利の肩を持つ幕府に不満があることを見抜いていた。大友の立場を思えば心中は察するところだが、宗麟は謀反方に鞍替えを企み義輝を裏切っている。その事が露見しているとは宗麟も思っていないだろうが、それは甘かった。義輝は大友家に九州を任せる気は毛頭なく、これまでの経緯から滅ぼさないまでも九州の内で一カ国か二カ国程度まで減封させる考えにある。そして欠地に幕臣を送り込み、九州を幕府で支配して泰平を実現するのだ。
次の瞬間、義輝は北陸攻めの日時を早めるように指示を出したのである。
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七月七日。
伊勢国・大河内御所
足利義氏は、かつて関東十カ国を束ねて東国を統治した鎌倉公方の嫡流である。五代目の公方・成氏の時代に幕府と対立して鎌倉を追われ、下総国古河を拠点として古河公方と呼ばれていたものの実質は関東で最大の勢力を有する北条氏の傀儡として大義名分に利用されるだけの存在にまで落ちぶれていた。しかし、義輝の復権に際して幕府の職制が改められ、関東に身を置いていた義氏は上方へ帰還し、元亀擾乱を経て伊勢半国を与えられて再び公方となった。
義氏は一端、旧領主の北畠具教が本拠を置いていた霧山御所に入ったが、山間部であったので利便性が悪かった。
「この地は要害なれど、伊勢を治めるには街道から遠く不適切と存じます。拙者の見定めたところによりますれば、大河内に移られるのが宜しいかと存じます」
その指摘は梁田晴助から上がった。
関東から付き従った晴助は元関宿城主である。
関宿城は北条氏康に“この地を抑える事は一国を得るに等しい”と云わしめた要所であり、その地を治めていた晴助は、伊勢国を治めるには本拠を何処に置けばよいか地勢を調べ上げ判断した。
「伊勢統治の要は東海道と伊勢湾にございます。本来であればもっと海に近い地にとは思いまするが、新たに城を築く費えが足りませぬ。暫しは大河内にて統治に専念し、御家の建て直しを図りましょうぞ」
軍略の面では流石に北条家を相手に戦ってきた晴助である。土地が変わっても自らの慧眼には並々ならぬ自信が窺えた。
「旧北畠の者たちも奉公衆に組み込まなければなりませぬ。国司家に仕えていた者たちで気位が高うございます。扱いには気をつけねばなりますまい」
また一方で政略面で義氏を支えるのは一色月庵である。
月庵は奉行衆の筆頭であり、常に義氏の傍近くに侍っていたこともあって家老職でも晴助を抑えて筆頭に挙げられていた。鎌倉時代の武家法度である御成敗式目の注釈本を作成もしており、北条家との折衝を務めていたこともあって外交にも優れている。
そんな二人が各々の領分をしっかりと守っていたこともあって、伊勢公方家は上手く機能していた。二人を両輪として旧北畠の連中を従えている。
しかし、問題がないわけではない。
旧北畠の者の中には新たな公方となった義氏に取り入ろうする輩が多い。古河公方の家来たちは多くが関東からの移封で所領を失うことを恐れて義氏に伴わなかった。その為に家中の上席に空きはまだある。そこを狙って北畠の旧臣が我先に発言を繰り返し、義氏へ媚びているのだ。余呉合戦で土岐光秀の援軍要請に反対を唱えたのは、この旧北畠の連中である。
とはいえ長く伊勢で国司家による支配を続けていた北畠にも有能な者は存在する。義氏は一通りの挨拶を受けた後に評判の良かった鳥屋尾満栄を召しだし、家老衆に迎えたいと勧誘した。
「御言葉ではありますが、某は北畠の家に仕える者にございます。武士は二君に仕えずと申します。そろそろいい歳でありますので、隠居して余生を過ごそうかと存じます」
満栄は智勇兼備の名将と名高く忠義心にも溢れていた。義氏の勧誘を固辞し、隠居すると言い出したのだ。
「それは困る。儂とて上様より御預かりした伊勢を統治せねばならぬ。そなたの力が必要なのだ」
それでも諦めず義氏は説得を続けた。満栄は伊勢でも随一の港町である大湊の代官を務めており、その重要性は遥に大きい。そこで義氏はいずれ義輝が京で蟄居処分を命じられている具教を出仕させる意向であることを伝え、再考を促すと満栄はしぶしぶ仕えることを承諾してくれた。
これにより義氏の伊勢経営は順調に進むことになる。
「申し上げます!此度の北陸出征で上様は、左兵衛督様に采配を振るわれるよう御命じです」
そこに義輝によって北陸攻めが発布され、義氏が大将に任じられた。
「上様が所望とあれば断れぬ。すぐに陣触れを発し、上洛する」
最近は己の力と智恵で傀儡の身から脱した義輝を義氏は尊崇している。初めて出会った頃より何事も義輝を見習うようになり、何事も家来の言葉に頷くだけだった古河公方時代から変わりつつあった。
無論、義氏の言葉に力が備わったのは後ろ盾となっている義輝の影響が大きい。それでも義氏は自らの言葉で人を動かすことを覚え、今では晴助と月庵を頼りに伊勢の経営に注力していた。
「北陸平定の御下命、この左兵衛督が必ずや果たして参ります」
幕命が下り、八月に上洛した義氏は己の意気込みを義輝の前で強く語った。
先の余呉合戦は実質の指揮が土岐光秀、結局は義輝が自ら采配して決着をつけるに至ったので、今回こそは己の手で役目を果たしたいと思った。
「そう気負うでない。自らの智恵のみでは万事が上手く行かぬものよ。此度の遠征は大役なれど、そう難儀なことはあるまい。余も家来どもに助けられておる。上手く人を使ってみせよ」
「有り難き御言葉、胸に刻みまする」
「大仰な。遅れて余も参る故、露払いは任せたぞ」
「はっ!」
最後の力強い発声に義氏の先行きを明るく捉えた義輝は、安堵の気持ちを胸に抱き優しげな表情で一族の出陣を見送った。
(此度こそ、本当の儂の初陣じゃ)
義氏は晴れやかな気分で胸を高鳴らせ、京を出陣する。その義氏率いる幕府軍が北国街道を進んで浅井長政の居城である北ノ庄城に辿り着いたのは、八月十七日の夕刻頃であった。続々と入城する雄々しき軍勢の数は凡そ一万五〇〇〇を数え、先に入っている浅井の人数と合わせれば予定通りの二万五〇〇〇となる。
「遠路ご苦労に存じます」
城主の長政が幕府の面々を出迎えた。特に総大将である義氏には最大限の配慮を行い、自ら門前まで出向いたほどである。
「越前守か。世話になる」
「まだ普請の最中で御不便をかけるかと存じますが、ご自分の城と思い御寛ぎ下さい」
頭を垂れ、自ら先導役となって長政は城内を案内する。
「まずは旅塵を落とされませ。その間に宴の支度を調えておきます」
その途中で長政は義氏へ風呂に入るよう勧めたが、義氏は軽く手を胸の前に突き出して遠慮した。
「気遣い感謝いたす。されど宴は無用ぞ。上様は近く京を出陣すると仰せじゃ。我らがゆっくりしておる暇はない。さっそくに軍議に入りたい。まずは加賀の様子を報せてくれ」
「畏まりました。では広間に案内いたします」
この義氏の反応は長政にとって意外だった。
義氏の外見は長政がよく知る朝倉義景の如き貴人で、身体の線も細く合戦とは無縁の存在に思える。着ている甲冑も様になっておらず、本人も重そうにしているのが判った。それでも義氏は宴ではなく軍議を望んだ。こういうところにも義輝の影響が出ており、長政は義氏に好感を持った。
「加賀では一部、石山の降伏を認めず幕府に抵抗する動きがござる」
まず浅井家老・赤尾清綱から報告があった。
幕府は石山本願寺との和睦で“加賀を含め北陸三国で不当に占拠している諸城を明け渡すこと”と約定を交わしている。もちろん顕如からも書状を出して抵抗を止めるよう通達は出ている。ところが所領を失うことを恐れた一部の者が蜂起し、依然として戦う姿勢を崩さなかったのだ。
「如何に致す」
これに対し、まず義氏は隣国の太守である長政の意見を問う。
「抵抗したところで我らが恐れるほどの勢力ではありません。殆ど連携も取れていませんので、各個に潰して行けば加賀一国はすぐに治まります」
叛乱に対し、長政は強硬手段を採るつもりでいた。
彼らは自分の領地が惜しいだけなので、他人の土地まで守ろうとはしない。個々は多くても数百という規模に過ぎず、仮に数千がいたところで二万五〇〇〇を数える幕府軍の敵ではないと判断している。この意見は全員が受け入れ、翌日の出陣が決められた。
翌日、北ノ庄城を出陣した幕府軍は破竹の勢いで加賀を席巻することになる。
まず最南端の江沼郡が僅か二日で幕府軍に制圧された。これは大聖寺城、黒谷城、檜屋城などの主な城が以前に上杉謙信の遠征で焼き払われていたことが大きかった。後に北陸を支配した武田信玄は、加賀の領有化よりも上方進出を優先させたために手入れを殆どしておらず、一年ほどの間も江沼郡の城は殆ど手付かずの状態が続いていたのだ。故に一向一揆たちは満足な抵抗も出来ずに幕府軍から逃げるようにして北へ向かって行くしかなかった。
「越前守殿、加賀一向一揆の首領・七里頼周が何処におるかは判明したのでござるか」
手取川を越えて松任城まで到達した頃、総大将である義氏に代わりに月庵が長政へ問いを投げ掛けた。
七里頼周は越前国浅水で幕府軍に敗れた後、加賀へ逃げ帰っていた。度重なる失敗と非道で粗暴な振る舞いの数々で人心を失った頼周の周りからは次第に人が離れていっているらしい。かつては頼周を見込んだ顕如の信頼すらも失い、下間頼純が加賀門徒を束ねるべく石山から送り出され、幕府への抵抗を止めるよう呼びかけていた。
「間違いなく尾山御坊かと」
「尾山御坊か。名はよく聞くが、どのようなところなのでござるか」
「某も見たわけではござらぬが、御坊とは名ばかりで石垣を張り巡らせた城という話だ」
「それは大層立派じゃな。民草から集めに集めた信仰という名の金で造ったのであろう。反吐が出そうじゃ」
その話を聞いて月庵は露骨に嫌そうな顔を浮かべた。
月庵も古河公方の家臣として苦労を経験し、人に支えられる有難味を理解している。だからこそ現状を打開すべく限られた金銭を如何に用いるか思慮を重ねたものだ。自分で稼いだ金でないからこそ、使い道は慎重にならればならない。先代の古河公方の晴氏が北条氏康に敗れて自棄になり、忠義に溢れる勇士から献上されたものを遊興に用いたときは、よく諫言を繰り返したものだ。
それが一向宗を束ねる者たちは省みようとしない。民がひもじい思いをしてまで信仰にすがる理由を理解しようとせず、堕落に費やすなど上に立つ者がやることではない。ましてや仏の使いを名乗り、仏の言葉と偽っている。それが仏の道に仕える者のやることだろうか。
月庵は北条に対してよい感情を抱いてはいないが、こればかりは一向宗を禁教としていた北条の政治に賛辞を送りたくなった。
「幸い、上杉殿が道を平らげてくれております。尾山まで一気に進みましょう」
長政が“自分に任せて欲しい”と言わんばかりに義氏に許可を求める。そこへ待ったが入った。
「そろそろ儂の出番であろう。儂ならば地理に明るく何処に敵が伏せているかも想像がつく。左兵衛督様、畠山の儂に公方様のお手伝いをさせては頂けまいか」
発言したのは旧能登守護の畠山義続だった。
義続は余呉合戦で嫡子の義綱を失ったものの一矢を報い、義輝から畠山宗家の舵取りを任され右衛門督にも昇進したて一族の面目を大いに施した。今回は尾州家を継いでいた畠山政尚をも従えての堂々たる参陣で、失地回復に闘志を燃やしている。
(さて、如何するか)
総大将の役割は策を考えることでも兵の指揮を執ることでもない。それが出来る者もいるにはいるが、全てを采配しきる者など一介の将ではなく、もはや英傑の類だ。上様と呼ばれる一族の長・義輝然り、織田信長や上杉謙信、毛利元就や武田信玄など然りである。数えてみたところで戦国の世に於いても一握りに過ぎないのだ。
「足利公方なればこそ、自らが決断せよ。傀儡たる身に甘んじてきたのならば、余の申す事の意味は判るはずだ」
義氏が関東から京に入った際、そのように義輝は義氏に対して助言をしたのを思い出す。
(出来うることならば、上様のように在りたいと願う)
同じ傀儡公方として半生を過ごしながら、何故にここまで違うのか。そのような想いが義氏にはあった。強い憧れと同時に大きな劣等感と醜い嫉妬の心が義氏の中で渦巻き、今も苦しめている。
(されど足枷を外してくれたのは、他ならぬ上様だ)
とはいえ義氏は義輝に深く感謝している。
北条からの解放と伊勢公方の地位、かつては将軍家と二分するほどの権威を誇っていた古河公方と比べれば見劣りはするものの強大な幕府の後ろ盾がある今の地位に義氏は不満はなかった。
何をどうすればよいかは家臣たちが各々の役割に応じて考えてくれる。主たる者は、その意見を吟味して公正明大に決断を下し、その責任を持つことにある。
「ここは右衛門督に任す。上様が到着されるまでに何としても加賀は治めておきたい」
「おおッ!流石は左兵衛督様でござる。この右衛門督に御任せあれ」
義続の表情はパッと明るくなり、自信あり気に胸を叩いた。
(これでよい)
浅井は精強で任せれば着実に役目を果たすだろう。ただ加賀二郡の拝領が決まっている長政にいま以上の功績を与える必要はない。それよりも義続の気持ちを汲んでやった方が全体の士気は上がるように義氏は思った。
「念のために大和守様に随行をお願いしましょう。大和守様ならば、上様にも近い御方ゆえに右衛門督殿も無茶は致すまい」
余呉合戦で義続の暴走を見て知っている晴助が義氏に近づき助言した。
評定衆である蜷川親長が傍にいれば安心と判断したのだ。義続は失地回復に逸るかもしれない。だが親長が傍にいれば、余呉合戦のように独断で動いたなら義輝の耳に入ることは想像に難くない。云わば目付け役だ。
「うむ。それでよい」
義氏も余呉合戦は知っているので、晴助の言葉を退けるようなことはしなかった。そんな心配を余所に義続は先陣を見事に務め上げた。順調な行軍で次々と城を落し、損害を最小限に抑えつつ尾山御坊を包囲したのである。
尾山御坊を包囲した直後、幕府軍に合流する一団があった。
「某は冨樫介泰俊と申します。予てより幕府に味方するべく機会を窺っておりました。加賀のことならば某に御任せ下さいませ」
冨樫介とは、八介という武家階級の一つで、加賀介に任じられ続けた冨樫氏が名乗った尊称である。その冨樫氏は足利幕府の中で加賀守護を務めた家系で、十四代当主・政親が一向一揆に敗れて以降は実質の統治権を失っていた。
その加賀守護家は最近まで泰俊の弟である晴貞が家督にあった。晴貞は元亀元年(一五七〇)に謙信が上洛を目指した際に野々市城で呼応したもののすぐに上杉軍が帰国してしまったために敗れ去り、討たれてしまっていた。越前に潜伏していた兄の泰俊は余呉合戦後のドサクサに紛れて旧領へ帰還し、復帰すると再び幕府に味方して尾山へ駆けつけたのである。
「大義じゃ。されど加賀は尾山御坊を落せば早々に片が付こう。一先ずは後方にて待機し、上様の沙汰を待つがよい」
泰俊に義氏は冷たかった。いや冷たかったというよりは、冷たく扱うしかなかったという方が正しい。
そもそも義輝は冨樫氏のことなど眼中になく、加賀の統治を任せる気などなく事前に言及もなかった。既に加賀半国は浅井に与えられることが決まっており、残る半国も幕臣の何れかに任せるというのが義輝の考えだ。
「加賀の争乱を鎮められなかった冨樫の罪は重い。今さら命まで取るつもりはないが、余の直臣に迎える気もない。新たなる守護の下で務めを果たすがよい」
後に泰俊を引見した義輝は、そのように沙汰を下した。
加賀の争乱は百年も近く前に端を発する。その罪を泰俊に背負わせようとは義輝も思わないまでも、かといって重用する気にはなれない。今ある土地を安堵するだけでも充分と考え、それ以上は何も言わなかった。
泰俊は絶句し、呆然と立ち尽くしたと伝わるが救いの手を差し伸べようとする者は誰一人としていなかったという。
そして尾山御坊も陥落する。
御坊内で抗戦を唱える頼周に愛想を尽かせた者たちが内応を申し出たことを切っ掛けにして幕府軍が城門を突破、頼周は御堂にて自害して果てた。また頼周同様に余呉合戦に参陣していた鈴木重泰も尾山におり、合戦の最中に命を落としている。
加賀一向一揆の象徴が落ちたことにより門徒たちは反抗を諦め、沈静化していくことになった。
「首尾よく行ったものよ、左兵衛督。よう余が到着する前に尾山御坊を落とした。見事ぞ」
尾山御坊陥落の二日後、後詰一万を率いてやってきた義輝は出迎えに赴いた義氏を開口一番に褒め称えた。
「されど加賀一国、未だ平定できてはおりませぬ。面目次第もございませぬ」
義輝に褒められて内心では嬉しさが込み上げている義氏であったが、到着までに加賀を平定するつもりだった事から謝罪を口にした。
「そなたが加賀に入って半月も経っておるまい。上出来よ、のう皆の衆?」
それを謙遜と捉えた義輝は、そのように言って周囲に同意を求めた。幕臣たちの中からは“見事な采配でございました”や“向かうところ敵なし、某も左兵衛督様を見倣いたいものです”などと次々声が上がった。大半が本音ではないことは義輝も判っているので、敢えて否定することはしない。事前に蜷川親長などから義氏の働きぶりを聞いており、充分に満足していた。
しかし、ここから先を義氏に任せるのは難しい。軍勢の数は増えたが能登と越中の二カ国を相手にしなくてはならず、特に能登は難攻不落の七尾城がある。義輝も伝え聞いているだけだが、元城主の義続が“天宮”と豪語するだけはあって簡単には落とせないと思っている。
「右衛門督、七尾城の攻略は任せる。能登を平定した暁には、再び守護として治めるがよい」
ここで義輝は今まで秘して来た能登の統治について明かした。
「あ……有り難き御言葉にございます!必ずや上様の御期待に応え、二度と失態を犯さぬことを誓いまする!」
突然のことに義続は、咄嗟に地に頭をつけて感謝の言葉を述べた。
「うむ。能登のことならば全て右衛門督に委ねよう。旧臣を討つも許すも右衛門督の好きにするがよい」
「重ね重ねの御配慮、感謝いたします」
能登侵攻前に統治について口にしたのは、それだけ義輝が能登攻略が難しいと判断している証拠だった。
北陸三カ国については京を発する前に明らかだったのは、加賀二郡が浅井家に与えられることのみ。残り半分の二郡を誰が統治するのか、義続が能登に復帰するのか、誰を越中の守護に据えようとしているのか不明だった。よって欠地に対する期待は誰の胸にもあった。
義輝が義続の能登復帰を約束したのは、能登を調略で落そうとしているからである。義続が能登を治めると判れば事前に反抗の芽を摘むことができるし、義続に伝手はいくらでもある。また許すことで戦後の安定を図ることも出来た。いずれ北陸の兵も使わなければならない時は来るのだ。その時のために可能なら能登を義続の下で一つに纏めておきたかった。
「大和守と監物、主計頭は右衛門督を支援せい。左兵衛督、我らは越中へ進むぞ」
そこで義輝は軍を二つに分けた。
一つは能登奪還を目指す畠山義続の軍勢だ。畠山勢を主力に蜷川、柳沢、山岡ら幕臣たち九〇〇〇、越中へは残り二万六〇〇〇が向かうことになる。
(上様は一気呵成に越中を平らげ、能登に全軍を送る気でいるのだろう)
この振り分けに誰もが義輝の采配を疑わなかった。
能登を調略で陥落させるには、武威を示すのが一番だ。武威は兵の強さもあるが、やはり数こそ物を言う。最初から全軍を能登へ向かわせるのも手の一つと考えられるも二カ国に跨る加賀からでは兵站が脅かされる危険もあった。どうせ兵を分けなければならないのなら、平野部が多く攻めやすい越中を先に攻め落とした方が効率がよい。加賀に続いて越中も落ちたとなれば、能登の者たちも戦う気力を失うはずだ。そうなれば義続を通じて降る者も増え、幕府軍は更に数を増やすことが出来る。総仕上げに七尾城を落とせれば、北陸出征の目的は完遂する。
ところが義輝の狙いは別のところにあった。
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九月二日。
越後国・本庄城
武田信玄に通じて叛旗を翻した本庄繁長は、長尾景勝の前に劣勢を強いられたが信玄の春日山奇襲で包囲は一時的に解放された。有間川合戦で犠牲を出した長尾軍が再包囲に今年の春まで時間を要したことで、兵糧や武具弾薬は充分な数を揃えることが出来た。
「まだ儂は戦える。景勝如き若造に頭を下げてなるものか」
色部勝長を討ち取って“長尾景勝など恐れるに足らず”として威勢を取り戻した繁長は、信玄が死に援軍が途絶えているにも関わらずに継戦を決めた。
そんな頃に関東で謙信が北条相手に敗れたとの報せが届く。
「まだ儂に天運は離れていなかった。すぐに北条殿と繋ぎを取らねばなるまいて」
新たに援軍を求められる先を見つけた繁長は、家中から“我こそは”と思う者を選りすぐり、小田原へと向かわせた。しかし、包囲の網を潜っての密使は多くが捕まり、ようやく帰還できた者の色よい返事は持ち帰られなかった。
「門前払いを食らったとはどういうことじゃ。北条とて儂の存在が如何に大事か知っておろう」
「はっ!幾度も殿のお言葉は伝えたのですが、城内に入ることは愚か城下からも追い出され、已む無く戻ってきた次第にございます」
「話にならぬ!北条は何を考えておるのだ!」
援軍の派遣が難しいと答えてくるなら繁長も一定の理解を示したかもしれないが、不思議なことに本庄家の遣いは拒否いや拒絶という態度に出られた。繁長は北条側の対応に困惑したが、何も知り得ない以上は、その答えに辿り着くことは出来なかった。
さて、どうするかと悩む繁長に追い打ちをかけるようにして、長尾勢の陣に新たな動きがあった。凡そ一万の長尾勢に新たな援軍が加わったのである。
「何故に斯様なところに来られるのだ?誰ぞ何か聞いておらぬのか?」
この日、本庄城の包囲をする側の長尾勢は未曾有の混乱に陥っていた。
いつぞやの時のように繁長が夜襲をかけてきたのではない。陽は中天に輝いており、城の門は堅く閉ざされている。城攻めも暫くは行なわれておらず、辺りは静かなものである。ちょうど景勝のいるところだけが騒然としており、普段は無口な主が人が変わったように早い口調で周囲に理由を尋ねている。
実は言うと長尾勢に加わった援軍は予定にないものだった。総大将の景勝すら知らず、状況を把握していない。いきなり春日山から急使が飛び込んできたと思えば、驚くべきことを口にしたのだ。
「く……公方様の軍勢が此方へ向かっております!」
急使が語る言葉に、誰もがポカンと間抜けそうに口を開けた。景勝がハッと我に返って理由を尋ねても使者は知らず、ただただ“どうする”と慌てるばかりだった。
「いつ上様は此方へ参られる」
「まもなく、もう近くまで来られています」
「何じゃとッ!?」
男が言うには、春日山に現れた義輝は本庄城までの道案内を求めたという。故に使者に続くようにして幕府軍は安全に行軍し、もう近くまで来ていたのだ。
「ともかく出迎えねば……!!」
急ぎ支度を調えた景勝が義輝を出迎えたのは、その二刻(四時間)後のことだった。
「そなたが長尾弾正か。ふむ、養子とは聞いているが何処となく雰囲気が厩橋中将に似ておる気が致す。あやつも若い頃からこのように可愛げがなかったのかのう」
義輝は初めて姿を見る景勝に忠臣の姿を重ねて見た。
「何分と田舎者にて作法も知らず、突然の御訪問に戸惑っておりました。御許し下さいませ」
若い景勝は諂うことなくただただ事実を申し述べて許しを請うた。京を出る前に引見した輝元と歳は近いと聞いていたが、どちらかといえば景勝の方が大人びて見えた。表情は硬く凛然とした態度は、やはり謙信を彷彿とさせる。本人が意識してのことかは判らないが、義輝は末頼もしく思った。
「よい。事前に報せずに参った余が悪いのだ」
義輝は微笑み、景勝の謝罪を快く受け入れた。
「突然の御訪問、いったいどのような用向きにございましょうや」
「なに、弾正が困っておると聞いていたものでな。余が助けてやろうと思ったまでよ」
「これは、何と有り難き仰せにございますか。上様の御手を煩わすとは、面目次第もございませぬ」
「そう卑屈になるな。弾正は、よくやっておる。それにな、余が参ったのは何も弾正の支援だけが目的ではないぞ。弾正よ、早々に片を付け養父を援護せよ」
義輝は越後に姿を現した本当の目的を伝えた。
越中へ入った義輝は越中一向一揆の拠点であった勝興寺と瑞泉寺を焼き討ちし、信玄亡き後に主を失ってきた富山城を接収、そのまま椎名康胤の旧領だった新川郡も占領する。この時、活躍したのは義輝の小姓で申次衆に抜擢している蒲生賦秀である。
まとまった敵がいないとはいえ賦秀は父・賢秀から軍勢を預かると一揆勢を打ち倒し、三日で七つの城を落とした。御陰で街道沿いの城は瞬く間に幕府のものとなり、越後までの道を得た義輝は義氏に内地部の制圧を任せると景勝の許へ向かったのである。
景勝は本庄繁長の謀反を平らげられずにいる。これが決着させられれば、長尾の軍勢は三国峠を越えて関東に出られた。
(左馬助の言葉に相模守が応じればよいが、上手く行かぬ場合も有り得る)
幕府が関東へ手を出すには、未だ長い時を要する。北陸を平定した後には九州攻めが待っており、それを平らげて後にようやくの関東がある。それまで何としても北条を封じておく必要があり、その為に氏規を送ってはいるが更なる一手が必要と義輝は考えていた。
それが長尾家の援護である。
誰もが義輝の北陸遠征は越中で終わると考えていた。しかし、越中と越後は隣同士であり、もし義輝が支援するとしたら北陸遠征の機会しかない。この時を逃せば軍を催すのも時と費えがかかることとなり、次の機会がいつになるか判ったものではない。少し無理をしてでも越後を支援できれば、景勝は越後一国の兵力を使って謙信を助けることが出来る。越後兵は強兵と知られ、元々謙信の配下であるが故に相性もよい。上武連合は確かに北条に敗れたが、その原因は両家の連携不足と他に上杉勢の弱体化にあると義輝は考えていた。
(これで少しは中将に働きに報いることも出来よう)
そもそもが上杉と長尾の分離は義輝の想定になかったことだ。謙信が織田信長の影響で本拠を関東に移すこととなり、それに併せて景勝に三条長尾家を継がせたことによるもの。これを当時の義輝は追認する形を取ったが、今になって再び上杉と長尾家の力を合わせる必要が求められている。
「余が来たことで採れる手段はあるか」
唐突に義輝が景勝に尋ねた。
義輝は六〇〇〇ほどの兵を連れていた。長尾勢は一万ほどいるので、兵力が大幅に増強されたことになる。それによって繁長謀反を鎮めるための手段を景勝に問いている。
合戦の話となり、景勝は姿勢を正し整然と話し始める。
「繁長は戦上手ゆえに上様の支援を得たとしても力攻めは下策にございます。一万では兵糧攻めが精々でありましたが、援軍を得た今ならば軍を割けます。まずは庄内の大宝寺を攻めるのが宜しいかと」
大宝寺は数少ない繁長の味方である。景勝は繁長を孤立させることによって降伏に導こうと考えていた。
「出羽守には余の偏諱を与えておる。余が直々に仲介すれば、無駄な抵抗はせぬであろう」
この献策に義輝は理解を示した。
大宝寺の今の当主は出羽守義氏である。大宝寺氏は八代・義政以降、代々将軍家より偏諱を賜っていることからも幕府との関係は深い。それは大宝寺氏が庄内地方を統治する正当性を幕府権威に求めてきたからであった。だからこそ義氏が義輝の命令に服す可能性は高い。つまり将軍家と大宝寺の関係性を景勝が気付いていたことになる。
「上様は此方で御待ち下さい。留守は直江大和守に任せますので、何かございましたら大和守にお尋ね下さいませ」
そう言って景勝は直江景綱を呼び寄せると義輝の前で挨拶をさせた。
「おおっ!直江か、久しいのう」
「はっ。公方様も一段と凛々しく御成りになられ、壮健な御様子。祝着にございます」
義輝は景勝の心配りに感心を抱いた。
景綱は謙信が永禄二年(一五五九)に上洛した際、幕府との折衝を務めた人物だ。近衛前久の饗応役も務めた経験もあり礼儀作法に通じている。義輝を応対させる人物として景綱ほど適切な者はいなかった。
そして自らは庄内へ向かうための支度に取り掛かった。若くして自分の考えを持ち、人を扱えている。気の回し方も知っており、軍学もちゃんと学んでいると見える。
(養子と侮っていたが、なかなか見所のある男よ。あれで元服したてとは驚いた。これは早い内に中将の跡継ぎに定めておく必要があるな)
上杉家の後継者問題は密かに持ち上がっていた。
謙信に実子はなく、長尾家を分割してしまったことで景勝は謙信とは別の家の主となった。一応は前関東管領・上杉憲政の子を謙信は世継ぎとしているが、これに義輝が賛同しているかといえば、逆だ。
義輝の命で上杉家と長尾家を再び一つとし、景勝を当主とする。謙信倒れるとの報せを聞いている義輝としては、上杉家の後継者問題を早急に取りかかる必要性を感じていている。
(弾正に会えただけでも越後まで来た意味があったわ)
義輝は満足げに頷きを繰り返しながら、庄内へ向かう景勝を見送った。
景勝は手勢七〇〇〇を率いて北上、五日後には庄内に辿り着き大宝寺義氏の尾浦城に迫った。義氏の許には義輝の御内書が届けられ、将軍が越後まで赴いている事実に驚いた義氏は上杉派で家臣の土佐林禅棟を使者に命じて義輝の存在を確認させることにした。
「余に挨拶するのに自ら参上せぬとは何たる無礼かッ!出羽守がそのように不遜な態度であるならば、越中に余が引き連れてきた軍勢が三万ほどおる。今すぐ呼び寄せ、弾正が軍勢と共に庄内へ進ませてもよいのだぞ」
眼前に現れた禅棟を義輝は脅しつけた。ただでさえ覇気の溢れる義輝が容赦なく怒声を浴びせる。
「出羽守に伝えよ。一度ならば余も許そうが、二度目はないと思え。早々に出頭し、釈明せよ。さすれば所領の安堵は約束してやろう」
これを聞いた禅棟は逃げるようにして義輝の前を退散し、義氏に事の次第を報告した。元より上杉よりだった禅棟は、それでも居城から出ることを渋る義氏の説得を先代の義増に願い出た。義増の説得に応じた義氏は親子揃って義輝の許へ出仕し、陳謝した。
「今後は余計なことは考えずに庄内の統治に専念せよ。忠勤に務めたならば羽黒山の別当職も引き続き認めよう」
大宝寺氏は幕府へ恭順、義氏の身を景勝が一時的に預かることとして本庄長繁支援を断ち切る証とした。それから景勝は義輝へ繁長降伏仲介を依頼し、その条件を提示した。
「本気で申しておるのか」
その条件に義輝は驚く。言葉には怒気を含んでおり、明らかに対応に不満の色が窺えた。
景勝の提示した条件は、謀反を起こした繁長を助命しただけでなく、一時的な蟄居と嫡男・千代丸を差し出すことこそ含まれるが所領は安堵されていた。
長きに亘る叛乱と有利な現状を考えれば助命だけでも充分であり、義輝にすれば所領は一切を没収するのが妥当に思えた。
「養父・厩橋中将の上様への忠義は家中でよく知られておりまする。上様が助命を命じることで、我らが約定を反故に出来ないと繁長には容易に判ります。所領が安堵されれば繁長とて無闇に抵抗は致さぬかと」
「謀反人を許すと申すのか」
「当家の流儀は厩橋中将様の流儀にございます。如何なる理由であれ、それで降伏してくるのであれば拒みは致しませぬ」
「……まったく、そなたらは本当の親子のようじゃな」
謙信をよく知る義輝は景勝の申し出を苦笑いを浮かべつつ認めた。
義輝の仲介により繁長は降伏、ようやく越後の争乱は終息を迎えた。
景勝は謙信から借り受けた金津新兵衛らを帰還させ、来春の関東出征を約して春日山への帰路に着いた。
「九字兼定だ。近年の太刀ではよい造りをしておる。褒美に弾正へやろう」
別れの間際、義輝は太刀を一振り景勝へ与えた。
「まことでございますかッ!あの兼定の作品をいただけるのでありますか!」
これに今までの硬かった景勝の表情が僅かに緩んだことに義輝は気が付いた。
「ほう……、弾正は太刀に興味があると見えるな。弾正が上洛した暁には、余の秘蔵の太刀を存分に見せてやろうぞ」
「なんと!この弾正、その時を楽しみにしております!」
満面の笑みは歳相応で、ようやく義輝は景勝の人間らしいところを見たのだった。
そして義輝も越中へ戻って行き、北陸平定の総仕上げに入る。
越後平定を成し遂げた幕府の威勢はますます高くなり、越中の抵抗は止む。能登でも畠山の旧臣が続々と義続への帰参を申し出て数を増やし、幕府軍が七尾城を囲む頃には四万にまで膨れ上がっていた。
義輝は七尾城を包囲する傍らで熊木、黒滝などの支城群を陥落させた。裸城となった七尾城では遊佐続光が一揆を扇動して幕府軍の背後を脅かそうと画策、義輝は大兵の利を使ってその動きを封じ込めた。義輝が事前に加賀と越中を平らげていたことで一向一揆の勢力は激減しており、幕府に抵抗など考えられなくなっていたのだ。
七尾城内には二〇〇〇ほどの兵しかいなかったものの堅城ぶりは流石で、試しに攻めてみたが幕府軍の攻撃は全て撥ね返された。
「右衛門督、城内にこちらと通じそうな者はおらぬか。威勢がよいのは今のうちだけだと敵も理解しておろう」
幕府軍を退けた城方も援軍が得られない以上、最終的には敗北しか道がないと知っているはずである。
「修理大夫には二人の子がおります。続光の傀儡として当主の座にありますが、一蓮托生だとは思うておりますまい」
義続は畠山当主の義慶を寝返らせようと考えていた。
当主とはいっても幕府が認めた正統当主は義続である。義慶は何の実権もない地位に不満を持っているはずで、祖父に従えば当主の座を継ぐことも夢ではない。また義慶が寝返ることで続光に不安を持つ者が大義名分を得られるという利点もある。
「相判った。任せると申したからには口を挟むまい」
義輝は全てを義続に委ねた。
それから数日後、城内と繋ぎを取った義続は義慶を寝返らせることに成功、続光は子の盛光と共に家臣の一人・笠松但馬守に殺され、首級は義輝の許へ送られた。
かくして七尾城は陥落し、北陸一帯は十一月までには完全に幕府の支配化に入ることになった。
【続く】
今回は北陸平定戦です。こうやって数カ国が僅かな間に平定される様子を描いていると天下統一が近づいているんだなぁ~と自分ながらに思います。
今回の義輝の狙いは最初から景勝の援護でした。景勝が関東に出られれば謙信の助けになるし、箱根の関を突破する危険もなく相性もよい。北陸に出るならば、その足を少し伸ばして助けてやろうと思ったわけです。
また景勝は愛刀家とも知られ、趣味趣向の合う義輝との相性は実は謙信よりもよいのではないかと思っています。史実では猿の様子を見て一度しか笑顔を見せなかった景勝と言われますが、義輝の持つ秘蔵の太刀コレクションを目の前にしたらどうなるのでしょうかね。歳も若いので、はしゃいじゃうのかな、と思ったり。
さて次回は氏規の話です。今回も繁長の家臣が門前払いを食らっていますが、小田原はどうなっているのでしょうか?その辺りを描きたいと思います。