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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第六章 ~鎮撫の大遠征・序~
142/201

第六幕 山陰平定 -名門の落日-

元亀二年三月十日。

但馬国・村岡


時節は春となり、冷たい海風の吹く日本海側で雪が溶けて草木がいよいよ生い茂はじめた頃、ここ山陰では積雪のため停滞していた山名征伐が再開されることになった。


総大将は将軍・足利義輝の信任の篤い細川参議藤孝、副将には出雲守護・尼子民部少輔義久と美作国代官・石谷兵部少輔頼辰の二名、南条元清改め宗勝、松井康之、細川輝経、沼田清延ら伯耆衆が与力で参陣した。総勢は二万余で、諸将は因幡国・鳥取城で合流した後に制圧が完了している但馬国・村岡まで進んだ。


「目指す先は山名祐豊の此ノ隅山だが、敵に糧道を絶たれれば途端に危うくなる。そこで尼子勢には塩冶高清の芦屋城を攻めて頂きたい」

「相判った。塩冶を攻めて二方郡を切り取ればよいのだな。その後はどうする?宰相殿に合流すれば宜しいか」


村岡で藤孝は、まず諸将を集めて軍議を催した。但馬は戦後に藤孝に与えられることが将軍の内意として伝えられている為、幕命とはいえ恩賞に与れない諸大名が積極的に動いてくれるとも思えない。となれば、藤孝が総大将であっても自ら先頭に立って皆を引っ張る必要がある。ただ相手は落ち目の山名とはいえ追い詰めれば大怪我することも有り得る。勝ちの決まっている戦で無駄な損害を藤孝も出したくはない。如何にして敵を上手く降伏に導けるかが鍵となる。


「いや、敵の数は差して多くはない。塩冶は芦屋の城に押し込めて封じられれば、それでよい。敵は南から攻め入っている播州勢や東の丹波勢を警戒して援軍は送れないと思われるので、後は儂が祐豊に引導を渡せば戦いは終わる」


藤孝は将軍・足利義輝の股肱の臣であり官位も正四位下・参議と幕府内でも第四位と高い地位にある。これは評定衆筆頭を務める兄の三淵藤英よりも高い地位だ。それが因幡と但馬二カ国の守護に内定しており、この山名攻めがある。当然、付き合わされる諸大名の中には不満を隠し持っている者のいると思われた。


(小城の一つや二つは攻め落とすが、祐豊は勢威を示して降伏させる)


よって藤孝の基本戦略は、如何に兵力を温存して相手の敵意を失いさせるかに焦点を置いた。


「左様か。ならば押さえ役は任されよ」


義久は歴戦の将の如く淡々と役割を受け入れた。


毛利から解放されて一年半が経過した義久は、挫折と絶望を味わって一回り成長し、かつてのような甘さは完全に抜けていた。義久自身は、この合戦は謀叛方との対決の一環であるため“上様への恩返し”と捉えていたので積極的に関わって行くつもりだったが、総大将の命令ならば仕方がない。引き連れてきている人数から考えても塩冶勢は尼子が担当するのが妥当と思われた。


「頼み入る」


藤孝もこれならば心配ないと号令を下す。


「よし、出陣!」


尼子勢を村岡に残し、幕府勢は東へと進んだ。


長く山名氏が治めていた但馬は既に一部、幕府の勢力圏と化している。西部は村岡まで攻略済みで、南部の朝来郡は昨年中に生野銀山を播磨公方こと足利晴藤が押さえており、要所の竹田城は山名四天王が一人・太田垣輝延が降伏後に別所と小寺の軍勢を中心とした五〇〇〇ほどが駐留していた。晴藤自身は石山に出兵中なために但馬入りの予定はなく、丹波勢も相次ぐ軍役から但馬に兵を入れることを見送っている。それでも幕府として二万五〇〇〇もの軍勢が但馬に流れ込んでいた。今の山名を相手にするには充分な数だった。


「御注進!御注進!」


途中、幕府軍に播磨勢の動きについて一報が入った。


「如何した」

「某は別所山城守(吉親)が遣いにございます。播州勢は我らが軍勢を先頭に養父郡・朝倉へ進出、朝倉城の朝倉大炊を攻め滅ぼし、山名重臣の八木豊信を降伏させて麾下に加えております。周辺諸城を押さえましたので、予定通り宵田にて細川様と合流いたします」

「それは重畳」


“何事の報せか?”と一瞬だけ不安のよぎった藤孝であったも単なる経過報告であったようだ。その後、使者は聞いてもいないのに朝倉城を陥落させる様子や豊信降伏の経緯を語り出した。味方の報告であるから聞き流す訳にもいかず、藤孝は終止で笑顔を絶やさず話が終わるのを待った。


「では、某はこれにて」

「うむ。山城守に万事怠ることなく、と伝えてくれ。特に八木豊信は山名の重臣、易々と降ったことに儂は疑問を感じる。杞憂であればよいが、用心はしておけ」

「畏まりました」


そう言って使者はようやく帰って行った。


わざわざ寡兵の城を接収した様子を事細かく伝えなくてもよいと思うが、要は別所山城なる人物が自らの功績を誇りたいだけだろうと藤孝は思った。今回は恩賞に与れないと分かっていても、この合戦で如何なる功績を上げるかは播磨国内での権力争いに影響する。聞き及ぶところでは播磨は表面上で守護代の別所が二番手の地位にあるが、晴藤の居城である姫路城は小寺の城であり、その影響力は無視できない。また旧守護家である赤松一族の権威も完全に失われたとは言い難く、特に上月城主・赤松政範は西播磨殿と呼ばれて武勇も優れていた。嫡流の義祐が謀反に及んで自害して後に宗家の家督を継いだ実力者だ。


この三者が播磨での実権を争っているという噂だ。


(やれやれ、ああいった輩が幕府にも出始めたか)


藤孝は幕府の成長を感慨深く振り返るも最後に出て来るのは大きな溜息だった。


昔の幕府は身代も小さく単なる権威の象徴だった。故に如何に功績を上げようとも与れる褒美は僅かにしか過ぎず、義輝の下にいる連中は揃って忠義心から仕えている者たちばかりで、自らの武勲を過大に触れ回る者に藤孝は覚えがない。そういう者が出始めたというのは、幕府が大きくなった証だから喜ぶべきなのだろうが。


(喜んでいいのかどうか判らぬな)


と逆に苦笑し、再び行軍の再開を命じた藤孝は山田、稲葉、馬場、太田など途上の城を開城、場合によっては攻め落としながら進み、山宮城を降して横山にまで差し掛かったところで異変は起きた。


目の前から壊走してくる兵が見えたのだ。どうも味方のようである。


「何があった」


藤孝は素早く備えを固めさせると同時に先頭を進んでいる松井康之に報告を命じた。その康之が大将らしき男を捕まえて藤孝の許へ送り、事態は明らかになる。


「も……申し訳ございません!」


藤孝の前に現れたのは小寺藤兵衛尉政職、黒田官兵衛孝高の旧主であった。


「我ら宵田表にて垣屋峰信の奇襲に遭いましてございます!」

「あ……阿呆ッ!何故に儂を待てなかったのだ!」


いきなりの凶報に藤孝は思わず立ち上がり、激昂した。勝手な行動に憤慨する藤孝は、大声で“申せ”と怒号を放ち、政職に詳細を述べさせる。普段は温和な藤孝も義輝と共に新当流を学んだ文武両道の士である。怒った時の形相は並の者よりも恐ろしく、播州の中で大きな顔を出来ない政職を怯ませることくらい容易かった。


「何故に斯様なことになった」

「八木豊信が裏切ったからにございます!」

「豊信だと!?」


豊信の名が出た途端、藤孝の視線は一層鋭くなった。先の使者に忠告した内容だったからだ。


「わ……我らは宵田へ向かう途上で、宿南城城主の宿南信久を降伏させました。ここで某は予てからの打ち合わせ通りに細川様を待つよう山城守へ再三に亘って申し伝えたのですが、山城守は聞く耳を持たず、別所勢が進んだが故に我らも続かざるを得ず、宵田に進んだ由にございます」


そのような藤孝を余所に政職は己の弁明を続ける。


「宿南?宿南は確か、八木豊信の一族ではなかったか」

「左様にございます。豊信が説得し、信久はすぐに開城いたしました」

「すぐに?それが何故に怪しいと思わなかったのか」

「某も警戒するよう山城守へ散々申したのです。されど功に逸る山城守は、まるで自らが総大将のように振る舞い最後は“播磨の守護代は小三郎殿(別所長治)であり、その名代たる儂の言葉が聞けぬのか”という傲慢な物言いをする始末、某の言葉など一切を聞こうとはしませんでした」

「それで八木、宿南の手勢が垣屋峰信の突出と合わせて呼応し、城の内と外から挟撃に遭い、成す術もなく敗退したというわけか」

「さ……左様にございます!故に責任は全て山城守に……」

「戯けめッ!あれほど注意せよと申した上で、これか!!」


藤孝はこめかみをピクリと震わせ、吐き捨てるように言った。


確かに世には大勢に靡く者も多くいる。だが如何に追い詰められようとも主君に忠義を尽くす者もいるのだ。特に重臣ともなれば主家との絆は深く、時には血を交じらせていることもある。だから注意せよと伝えたにも関わらず、播州勢は思慮浅く余勢を駆って道を進んだ。


(中納言様がおられなくて良かったわ)


心底、藤孝はそう思った。


晴藤の能力は未だ発展途上である。晴藤の功績を支えていた土岐光秀や黒田孝高は播州を離れ、今は土岐家として義輝の下にいる。故に晴藤を支える家臣は元々から播州にいる者たちとなり、播磨公方の下で序列の争いが始まっているという噂は本当だったのだ。彼らは自らを律して高め、地位を上げることはせずに平気で他者を追い落とす。現に政職は敗戦の罪を全て別所に擦り付けようとしていた。この政職の言葉を藤孝は鵜呑みにはしていない。もし政職が言葉通りに八木、宿南の裏切りを警戒していたならこんな結果には成っていないはずなのだ。藤孝の読みでは、逆に政職は吉親と功を争ったのではないかと勘繰っている。だから敗れた。


(儂も危ういところであった)


もし晴藤が出陣していたら、この戦いに巻き込まれていただろう。山名攻めは藤孝に任せられているため、晴藤が討死でもしていれば割腹ものの事態だ。その時点で細川家の家運は尽きたことだろう。


そう考えると、この足を引っ張る連中を麾下に置いておくだけでも危うい。


「今後、播州勢は戦わずとも構わぬ。戦の最中が故に謹慎はさせられぬが、荷駄役として付いて来い」


藤孝は容赦なく厳しい裁断を下した。荷駄役は重要な役回りだが合戦の主役ではない。云わば荷物持ちであり、合戦にて武功を上げる機会を藤孝が取り上げたことになる。恩賞を与れず、しかも挽回の機会すら失った播州勢はただ浪費のみ強いられる合戦に付き合うことになった。


「治部少輔殿、すまぬが宵田を任せたい」

「仕方あるまい。鶴ヶ峰城を落とすまで押さえておけばよいのだろう」

「うむ」


藤孝は播州勢に代わり頼辰に宵田城の包囲を頼んだ。


宵田は峰信の姓が示す通り山名四天王の垣屋一族の城である。その垣屋の本城が横山の西南・鶴ヶ峰にある。その周囲に栗山、森山、横山、楽々前と四つの支城が存在し、本拠を守っている。そこで藤孝はまず、目下の横山と楽々前の二つの城を猛攻の上で陥落させた。


そして鶴ヶ峰城に使者を派遣し、降伏を促した。拒否されても構わない。大軍で他の支城を落とし、裸城とした上で攻め落とすだけだ。


「こうなっては抵抗する手立てはござらぬ。御家存続の為、降伏いたします」


そう思っていた矢先に鶴ヶ峰城主・垣屋光成は降伏を受諾、剃髪した上で登場して藤孝の前で頭を垂れた。


「殊勝な心がけよな」

「畏れ入りまする。願わくば主家の存続に力を尽くすこと宰相様にお願い致します。宰相様も細川の名を継ぐ御方、山名に仕える某の想いは理解して頂けるかと存じます」


細川と山名といえば、長く幕府を支えた功臣である。ただ応仁の乱が示す通り時には幕府内で争った家柄であり、仲が良いという訳ではない。それでも光成は主家の存続を藤孝に願った。


というのも光成の父・続成は守護代として山名を支えてきた。当初、幕府方と謀反方の争いで元々毛利贔屓だった続成は、朝倉義景に誘われた主を支持して謀反方に与することに抵抗はなかった。それは毛利が謀反方の陣営に付いていると認識していたからだ。ところが毛利は謀反方ではなく、ただ謀反方の行動を利用していたに過ぎなかった。高梁川合戦後に毛利が幕府陣営に加わると続成は幕府方に鞍替えを画策する。しかし、続成は同じ山名家臣の田結庄是義に暗殺された。是義は伊丹・大物合戦を勝利した謀反方に急接近し、謀反方で権力を握っていた松永久秀の協力を得ると政敵の排除に乗り出したのだ。以後、是義は山名家中で発言力を増すことになり、子の光成は密かに復讐の機会を窺っていた。


「某は口惜しゅうございます。父の言葉に従っていれば、山名の家名を存続させること叶ったやもしれぬというのに、是義の所為で今や山名家は風前の灯火。どうか某の働きをご覧いただき、宰相様から公方様に取り成して頂ければと存じます」

「事情は承知したが、それならば何故に宵田で我らに抗った」

「某も武門、一度は槍を合わせなければ面目が立ちませぬ。それに主家の為と申しても抵抗もせず降った者の言葉を宰相様が信じるとは思えませぬ」

「ふむ。なるほど、道理じゃな」


光成の言い分はいちいち尤もである。ただ解せない点がない訳でもない。これまで山名家が降伏する機会は何度かあったはずである。それなのに今も祐豊が降伏しないのは、家中に降伏を勧める者がいないからだろう。つまり光成は尤もらしいことを言って、幕府軍を是義への復讐に利用しようとしていると思われた。


それを察した藤孝は、光成の降伏を受け入れることにした。受け入れる選択をした際の利点が遥かに多いと考えたのだ。


「そなたの言葉を信じよう。されば道案内を頼む」

「有り難き仕合せ。お任せ下さい」


かくして幕府軍は、再び此ノ隅山城へ向けて進軍を開始した。


「宵田城の垣屋峰信が城を開けましてございます」


藤孝の思惑通り光成の説得で抵抗した宵田城はあっけなく落ちた。ただ光成と思惑が違ったのか八木豊信は遁走、宿南信久は降伏を受け入れられず、自刃してしまう。


(光成め。己が復讐の為に豊信らすら利用したな)


宵田の開城で藤孝の予測は確信に変わる。


播州勢が敗れた宵田表での一戦は、豊信らと示し合わせておかなければ不可能である。それでいて豊信らが幕府に降伏しなかったのは、光成の復讐に利用されていたからだろう。ならば光成の復讐心は本当で、是義が死ぬまで幕府を裏切る心配はなくなったといえる。


(ならば利用できるだけ利用させて貰うだけよ)


冷淡な考え方だが、それが戦国乱世である。光成が幕府軍を復讐に利用するならば、藤孝が但馬平定に光成を利用して何が悪いのか。働くだけ働かせて復讐を遂げさせる。その先は殺さずとも家中の末席で扱き使ってやればいい。それくらいのことを藤孝は思っていた。


その後、幕府軍は東へと進んで遂に出石川を挟んで此ノ隅山城を包囲した。城内には山名氏の家紋である五七桐七葉根笹が無数に翻り、数千の軍勢が籠っていることが窺える。また光成の仇敵・是義も軍勢を率いて駆け付け、幕府軍は布陣する小坂の北側に位置する三開山城に入っていた。


「さて、如何するかな」


対応を話し合うべく藤孝は軍議を催した。


ここで力攻めするのは簡単だ。幕府軍は尼子を除いたとはいえ播州勢と合流し、二万に近い陣容を有している。対して敵は多くても五〇〇〇、しかも二つの城に分かれている。敗れはしないが、犠牲は払いたくない。今後の但馬統治を考慮し、可能な限り被害を最小限に抑える方法はないものか。


「某にお任せ下さい」


そこに発言したのは、降伏したばかりの光成だ。


「某の一族に竹野郡・轟城を預けている豊続という男がございます。豊続に是義の居城である鶴城を攻めさせれば、必ずや是義は兵を返しましょう」


光成の策は、いわゆる中入りである。


「妙案だが、是義が兵を返さぬ場合もある」

「それはございませぬ。是義は私欲で主家を動かす佞臣にございます。己の城が危うくなったのなら、主を放ってでも守りに行くに決まっております」

「……左様か、ならば任せる」


確信的な物言いをする光成の言葉に従うかどうか藤孝は迷ったが、藤孝は是義がどういった人物なのか知らないため、ここは光成の言うことが正しいのだろうとも思った。また特に味方が不利になることもなかったので、別の策が出ないならやらせることにした。


数日後、光成の要請を受けて豊続が動き、光成の読み通り鶴城が攻められていることを知った是義は、途端に兵を返して行った。しかも朗報は続き、是義は豊続と戦った挙句に敗れ去り、城下の正福寺で自害したというのだ。


これが決定打となった。


「山名祐豊に降伏の意思あり」


全ての望みを絶たれた祐豊が降伏すると伝えてきたのである。


「相判った。山名殿の処遇については上様が決められるが、所領の一切を差し出せば命ばかりは助けて頂けるよう儂から取り計らおう。また家名の存続も保たれるよう尽力いたそう」


そう言って藤孝は祐豊の全面降伏を受け入れた。


元々義輝から内意は受けているので、助命と家名存続は約束できる。後の処分については承知していないが、謀反を企てて滅亡寸前まで追いやられた者に対しては寛大すぎる程だ。


「此度は降伏を認めて頂き有り難く存じます。以後は己の不明を反省して忠勤に務めますれば、上様へ御取り計らいの由、平に平にお願い申し上げまする」


祐豊は頭を丸めて藤孝の前に現れた。平身低頭する姿は一見して反省しているように見えるが、その拳は硬く握られ悔しさが滲み出ていた。


(山名の総領家の当主が、元々は細川の庶流に過ぎぬ儂に頭を下げるのだ。屈辱であろうな)


義輝の命で藤孝は己の血筋こそが細川の本流と定められたが、本来は庶流である。一方で祐豊は歴とした嫡流、その当主が頭を下げた。かつては幕府の実権を懸けて死闘を演じた両家の間に明確なる差が示された瞬間だった。


「剃髪されたのだな」

「はい、以後は宗詮と御呼び下さい」

「では宗詮よ。これから儂に従い上洛して貰う。上様への目通りは儂の名に懸けて保障しよう。上様の前で謝罪し、許しを請うのだ。さすれば家名の存続は保たれよう」

「畏まりました。何から何まで御配慮を下さり感謝いたします」

「先祖の功に感謝するのだな。そなたの罪ならば、斬首に処せられても文句は言えぬ」


心底、そのように藤孝は思った。


既に義輝の決定で山名を始めとする四職の者は、総じて赦免されることになっている。他の者と同じ罪を犯しても一等を減じられ、命まで奪われることはない。だからこそ生き残る者は、その有り難みを知らなくてはならない。


祐豊の降伏を受けて二方郡の塩冶高清も開城を決意、残った地域も祐豊の命に従って幕府に従うことを受け容れた。


これにて但馬はようやくの平定をみたのである。


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四月中旬。

丹後国・建部山城


但馬に細川藤孝が攻め入ってから一月と少し遅れること、土岐光秀も軍勢を率いて一色義定の治める丹後に攻め入っていた。


「上様も我ら一手に丹後を任せるとは思い切ったことをする」


自らの置かれた状況に光秀は“やはり豪胆な御方だ”だと主の思い切りに舌を巻いた。


但馬に二万五〇〇〇の幕府軍を投入したのに比べ、丹後には土岐勢四〇〇〇しか義輝は送らなかった。一応、若狭の柳沢元政が軍勢を率いて国境まで詰めているが、支援はそこまでである。これほどの差を何故に義輝が付けたかを光秀は察している。


「丹後を殿に任せようという御意向にございましょう。殿は丹波攻略の立役者でもあります。丹後を殿が平定したとなれば、誰も殿が守護となる事に反対は出来ますまい」


光秀の腹心・黒田官兵衛孝高も義輝の目論見に気が付いていた。


丹後は一色氏が代々治めてきた国、そして義輝の傍には同じ一色一族の藤長がいる。藤長は大きな所領を持っている訳でもないが、長く仕えてきた功臣ということもあり、幕府内には丹後は藤長に与えられるべき、との声が少なくない。ただ義輝としては本貫と大名を切り離す政策を実行中で、藤長に丹後を与えるつもりはなかった。故に義輝は光秀に丹後攻略を任せ、そのまま守護に据えようとしていた。


「織田殿の支援を受けて思った以上の兵が集まった。一色は義道が丹波で討死、上方では謀反方が一掃されて混乱状態、故に調略も上手く進んでいる。それに見方を変えれば、三万を超える幕府軍を山陰に送り込んだとも捉えられる。なに、我らだけでも丹後くらい落とせるさ」


それでも光秀は状況を冷静に分析し、自信に満ち溢れていた。


というのも光秀は岐阜からの帰還後、詳細を義輝に報告した上で信長から与えられた金子を丹後攻略に使用する許可を得ており、上方は謀反方との合戦に次ぐ合戦で牢人が溢れていて、土岐の身代でも四〇〇〇という数を揃えるに至ったのだ。その間、募兵を行っていた傍らで一色藤長の伝手も借りて調略も進め着実に成果を上げている。


その結果が建部山城の包囲である。


当初、四〇〇〇という数を一色義定は侮った。但馬のように二万五〇〇〇もの大軍を派遣できていれば違ったのだろうが、四〇〇〇という数に義定は光明を見出し、起死回生の野戦を仕掛けてきたのである。


合戦の場は建部山城の南に位置する福井で、一色勢の攻撃から始まった。


「丹波は一色が治める土地ぞ!余所者を追っ払え!」


怒涛の如く押し寄せる一色義定の軍勢は、まるで一条の矢の如く土岐勢に突っ込んでいった。我武者羅な突撃は破れかぶれの無策にも思えるが、義定には策があった。


(阿呆め!何が明智じゃ、土岐じゃ!儂が簡単に降伏するとでも思ったのか)


自らの武勇に自信を持つ義定は、幕府に敵わぬとも易々と降伏する気にはなかった。少なからず抵抗して威勢を見せつけ、最終的には領地のいずれかを割譲して家名存続を図るつもりだったのだ。それには将軍の懐刀と称される土岐光秀を一度は退ける必要があり、合戦に及んだ。


「合図を出せ。貝を吹け!福井藤吉に出撃を促すのだッ!」


土岐の前衛を崩したところで義定は指示を出し、法螺の音が戦場に響き渡った。


合戦場の北には福井城があり、福井藤吉なる者が城主を務めている。義定は福井勢と無暗に進んできた土岐勢を挟撃する策戦を立てていたのだ。


「撃てッ」


それを脆くも打ち砕いたのは、元一色家臣の稲富伊賀守祐直だった。


元から鉄砲を重視して訓練に励んできた光秀の鉄砲隊は、稲富流を学ぶことでさらに強化されていた。精密な射撃はさらに精度を上げ、釣瓶(つるべ)撃ちはより効果を増した。


「ひ……怯むなッ!」


二撃、三撃と続くに連れて一色勢の足が止まる。そこへ三宅弥平次や斉藤内蔵助利三など勇将が乗り出て行く。これが土岐勢の必勝法として確立した戦い方だ。


「これしきのことで、退けるかッ!」


ただ義定にも意地はある。負ければどうなるか判っており、福井城の援護を待って堪え抜く覚悟で踏みとどまった。


しかし、今回は相手が悪い。


「殿、福井殿が“いつでも懸かれる”と申してきております」

「うむ。ならばさっそく働いて貰おうか」

「はっ」


光秀の許可を伺い、孝高が動いた。孝高は事前に福井藤吉を調略しており、一番の機会に裏切らせることに成功していたのだ。つまり土岐勢は義定が思っているように無暗に進んできたのではない。福井藤吉の内応が確かだったからこそ、建部山城の近くまで進んだのだ。


「お……おのれッ!覚えておれよ!」


義定は何にも根拠のない捨て台詞を吐いて建部山城へ逃げしかなかった。急ぎ防戦の支度を調えるが、義定の下には二〇〇〇しか兵が戻らず、士気は下がる一方だ。


「哀れな男よ」


蔑みにも似た声で、光秀は義定を評した。


土岐勢は福井藤吉を加えて数を増し、さらに調略の輪を広げている。丹後侵入を前に調略していた国人は多いが、大半は土岐勢が有利にならないと動こうとしない者ばかりである。義定が合戦に敗れたとなれば、我先にと馳せ参じて来る者は少なくはないと予測する。


「溝尻城主・矢野備後守殿が我らに降ると決意されました。今こちらへ向かっているとのこと」

「よし、予定通りだ」


効果はすぐに表れた。


初めに東加佐郡一帯を治める矢野備後守が幕府への降伏を申し出てきた。これにより光秀は建部山より東に脅威は殆どなくなり、光秀は建部山城攻めに専念できるようになった。


「弥平次。兵を率いて西の上安城を落としてこい。福井城は内蔵助に任せる」

「畏まりました」

「お任せあれ」


建部山城は城内の兵の数と士気からして半数いれば十分である。その間に光秀は加佐郡を攻め取ろうと考えいる。三日後に上安城を弥平次が落として城主の岡野瑞見が降伏、利三も福井城を接収して建部山城攻略の拠点とした。


「ただいま戻りました」


弥平次が周辺の諸城を切り取って戻ってくるまで十日もかからなかった。それどころか僅か一〇〇〇ほどを連れて行ったのにも関わらず、戻ってきた頃には倍の二〇〇〇にまで数を増やしていた。


これは柳沢勢を警戒して東加佐郡の国人が兵を動かさなかったからでもあるが、義定が居城近くの領主たちすら掌握しきれていない証でもあった。


「よくやってくれた。そなたらの御陰でこちらも上手く行っている」


そう言葉をかけて光秀は弥平次の働きを労った。


「それはようございました」

「これまで苦労をかけた。丹後を拝領した暁には、そなたにも城の一つを任せるつもりだ」

「拙者が城主に!それはまことですか!」


城主への内意に弥平次は破顔して驚いた。


「他にも伝五郎や内蔵助らにも城を任せようと思うておる。何処の城を与えるかは決めておらぬが、恐らく要所となろう。これからも励んでくれ」

「無論にございます。……ところで、黒田殿にも城を任せるのでありますか」


弥平次がチラリと孝高を見て問いを投げた。


土岐家中は何かと面倒である。方針が智将である光秀と智謀に長ける孝高の二人で殆どのことは決められてしまうからだ。まさか主に不満を抱く訳には行かないので、その矛先は官兵衛に向けられることになった。だからこそ光秀は先ほど“そなたらの御陰で”という言葉を用いた。あくまでも調略という官兵衛の功績があるのは、その下地をお前たちが作ってくれているからだ、という意味合いを持たせたのだ。


「官兵衛は新参だ。長く尽くしてくれたお前たちより先に城主には据えられぬ」


光秀は孝高を一瞥することなく答えた。


孝高を気に掛けていないのではない。元姫路城主の孝高は云わば光秀のために自分の城を失ったも同然で、本来ならば不満を唱えてもよい立場である。しかし、孝高は何も言わなかった。老臣たちが光秀の傍を離れることによって、より光秀の近くで力を奮えるからだ。光秀としても孝高の智恵は必要としており、今のままでいてくれる方が都合が良かった。


「なるほど。では、拙者はこれにて」


弥平次が引き下がり、翌日から本格的に建部山城攻めが始まった。


光秀は西と東にある支城から手を付けた。支城にはいくつもの堀切が設けられているが、いずれも浅く突破は容易で、すぐに曲輪を攻め落とした。どちらも規模の小さな城だったので、陥落まで一日を要しなかった。


「明日からが本番だな」


そう言って兵たちに今日は休むよう伝えた光秀であるが、翌朝に起きてみると城はもぬけの殻だった。建部山での抗戦が不利と悟った義定が昨夜の内に抜け出していたのである。流石の土岐勢も数が少ないので城全体を包囲すること出来ず、義定の脱出を防ぐことは出来なかった。


「義定が逃げたか。何処へ向かったか判るか?」


光秀は義定の行方を降ったばかりの福井藤吉に尋ねた。


「恐らくは北西にある中山城かと存じます」

「中山城?中山城といえば、沼田幸兵衛が城主だったな」

「幸兵衛を御存じで?」

「会ったことはない。されど我らに内通しておる」


光秀の言葉を聞いて、藤吉は冷や汗が止まらなかった。


自分も降った身だが、光秀がどの程度の規模で調略を行っているかは知らない。福井城の自分と溝尻城主の矢野備後守、中山城の沼田幸兵衛が初めから幕府方としたなら、光秀は丹後に入る前から義定を包囲していたことになる。


(敵に回らなくて良かったわ)


心底、藤吉はそのように思った。


藤吉が想像するに光秀の調略は丹後全域に及んでいる。義定が何処に逃げようが蜘蛛の巣のように張り巡らされた網からは抜け出すことは出来ない。もはや義定には誰も味方はいないのだから。


「申し上げます。沼田幸兵衛から一色義定の首級を挙げたと報せが参っております」


藤吉が予測した通り、吉報が届くまで時間がかからなかった。


沼田幸兵衛は、酒や兵糧を用意して逃げてきた義定を迎え入れた。翌日には自分も供をして弓木城に退き、戦うと伝えて義定を安心させたところ夜討ちを仕掛け、遂には殺害したのである。


使者が持ってきた首桶を開け、中身を確認させる。旧一色家臣の者たちが揃って義定のものと確認したところで合戦は終わった。


降伏して命を繋いだ山名祐豊と違い、謀反人・一色義定は家臣に裏切られるという最期を迎えることになった。


元亀二年五月、山陰は完全に幕府の支配下に置かれることになった。




【続く】

まずは御免なさい。義輝の視点に戻ると言いながらも話が長くなりすぎて分割することになりました。最初は山陰平定は報告で簡単に済ませようかと思っていたのですが、それは剣聖将軍記らしくないと思い止めました。一応、分割したので次話分はほぼ書き終えていますので、義輝視点となる次回は一週間以内には投稿できる見込みです。御許し下さい。


さて今回は山名と一色の滅亡でした。一応、国内情勢に史実と大きな変化なく、同じく外部の大勢力(史実では織田家)との戦いでしたので、史実に近い展開になっています。また同時に勢力を伸ばして順風満帆になりつつある幕府内でも家中の対立や不満なども起きつつあるという描写も入れさせていただきました。


次回、この一つに義輝が手を入れますが、本題は別のことです。遅くとも月内には投稿しますので、御待ち下さい。

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