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剣聖将軍記 ~足利義輝、死せず~  作者: やま次郎
第六章 ~鎮撫の大遠征・序~
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第三幕 三雄会戦 ~上武連合誕生~

元亀二年(一五七一)二月。

武蔵国・金窪城


死の床から復活を果たした上杉謙信が遂に動き出した。武田家存続の為に幕府への協力を余儀なくされた武田義信が援軍七〇〇〇を率いて駆けつけると、上杉勢は二万近くにも膨れ上がる。上杉一手では難しかったことも、義信の参陣で流れが変わりつつあった。


「我らが採る方策は二つ。このまま鉢形城を攻め落とし、小田原へ向かうか。それとも常陸で危機に陥っている佐竹殿を支援するかでござる」


武田勢を得て連合軍となった謙信は、まず両家を交えて軍議を催した。上杉と武田の両家に従ったことのある北条高広が代表して音頭をとり、軍議を進行する。


上杉と武田、乱世に於いて戦国最強と目された二つの家であるが、共に最強と云われる所以は両家が不倶戴天の敵同士だったことに由来する。第四次川中島合戦は死者数千人、負傷者まで含めると万を超えるという大激戦は世の語り草であっても、当事者たちにとっては他人事ではない。一族や親類縁者から家臣、主君と身の回りの人間を失った傷が誰にでもある。当時ほどの激情はなくとも恨み辛みは、今も残っている。


故に両家の軍議が穏便に進む保障は何処にもなかった。


「我らが来たからには北条など怖くはない。上杉の者たちは安心して我らに戦を任せられよ」

「何を申されるか。北条は我ら上杉ですら手を焼く相手ぞ。武田の方々御来陣はご苦労に存ずるが、甘く考えておるのであれば認識を改められよ」

「上杉が手を焼くからといって、武田も同じとは言えますまい。自信がないのであれば、それこそ我らに任せられよ」

「ならやって貰おうか。我らは高みの見物とさせて貰う故、北条を破ったのなら教えてくれ」


開始直後、心配していたように両家による主導権争いが勃発した。


上杉は長尾家との分割により譜代家臣の多くが入れ替わって上州勢が主、武田は往時の家臣たちを信玄が多く連れていったにも関わらず、この有様である。当時のままの者たちが一堂に会していたのなら、もはや軍議どころではなく下手をすれば刃傷沙汰になっていたに違いない。


宿敵同士の連合など、一見すれば夢のまた夢に思えた。


(上杉に従ったとなれば、末代までの恥よ)

(武田の組下と思われたならば、武士の名折れじゃ)


どちらも相手に格下とは思われたくはないし、思いたくもない。ただでさえ武士は見栄を張る生き物である。矜持が意地になり、引くに引けないやりとりが繰り返された。


「止めいッ!見苦しいッ!!」


それを見兼ねた謙信が、一喝する。


(このような無駄な時を過ごしている暇はないのだ)


卒中で倒れ、いつまた病に侵されないか判らない身体である。相手が武田信玄ならばいざ知らず、その息子である義信や家臣らに対してまで張り通すだけの意地を謙信は持ち合わせていなかった。仮に意地があったところで、天下一統を果たさんとしているしている敬愛する主君のために我と通したりはしない。


(儂の命は上様が為に使う)


そう決心している謙信には、下らぬやり取りが目に余った。


「上杉殿、当家の者が失礼をした」


義信が謙信に謝罪を口にする。


武田と上杉の関係は義信も理解しているし、川中島合戦を経験している本人の中にも(わだかま)りがない訳ではない。だから謝罪は述べても頭は下げなかった。ここで頭を下げる行為が如何なる事に繋がるか自覚しているからこそ、謝罪は言葉だけで済ましたのだ。


「甲州殿、こちらこそ無礼であった」


義には義で返す謙信である。謝罪を先に口にされては、自分も言わない訳にはいかない。


とはいえ両人にも家臣たちと同様の感覚がないのではない。敢えて指摘するならば、両家とも一国の守護という立場ながら謙信は前関東管領であり位階は正四位下・左近衛権中将、義信が従五位下・甲斐守だ。謙信は年長であることもあって義信を受領名で“甲州殿”と呼ぶのに対し、義信は家臣たちの手前もあり謙信を“左中将殿”ではなく“上杉殿”と呼んでいた。


先ほども義信に謝罪の言葉を返した謙信は同じく頭を下げなかった。謙信の場合、無自覚であったが武田という名は本人の中で他の大名家とは違うらしい。


「鉢形には北条氏邦ら一万がいると聞き及んでおる。我らは二万と言えども鉢形城は堅城、抜くのは難しゅうないか」

「左様。佐竹殿は一日千秋の想いで上杉殿を待ち望んでおられるはず。我ら武田が鉢形の氏邦を抑えておる故、安心して上杉は佐竹救援に向かわれたらよい」


ようやくの軍議が進む中、佐竹救援を支持したのは主に武田家の者たちであった。


武田家の事情からすれば、今も信濃が織田軍に攻められている。幕府へ信濃守護職の返上を願い出て恭順が認められてはいるが、直接の相手は織田信長である。いつ甲斐に危険が及ぶか判らない状態には変わらなく、府中には武田信廉ら叔父たちと穴山信君、春日虎綱を残してきていても本隊が国許を留守している以上は不安は拭いきれない。仮に方針が佐竹救援と決まれば鉢形城には抑えの兵を割くことになるので、武田がそれを買って出られる。そうすれば無駄な浪費は避けられ、国許で何かあればすぐに帰国できる位置にいられることになる。


「佐竹殿の救援に向かうには、途上の佐野昌綱をどうにかせねばならぬ。昌綱の唐沢山城は関東一とも呼び声の高い堅城、果たして落としながら行って間に合うかどうか」

「うむ。それよりは目下の鉢形城攻めに力を費やした方がよい。城下を焼き、辺りの支城を攻めて挑発を繰り返せば、氏邦も兵を率いて出て参ろう。出てくれば、後は上杉一手でどうにでもなる」


逆に鉢形城に拘ったのは、上杉家臣らである。


上野国に所領を得る彼らからすれば、正直なところ余り本拠から離れたくはない。しかも他家に防衛を託さなければならないという不安もある。鉢形城は簡単に落とせないだろうが、ここに留まれば少なからず自領を守ることは出来る。また鉢形城を落とせれば小田原への道が開ける。北条氏政の本隊が常陸国下館にいるので、小田原は殆ど空の状態にある。難攻不落の名城とはいえ、守る兵さえいなければ落とすのは容易だ。


「……さて、如何なさいますか」


やれやれといった表情で、高広は総大将格で未だ発言をしていない主・謙信と義信へ意見を伺った。両者とも共に主から一喝されたばかりというのに、言葉の端々に対抗心が見え隠れしている。これでは議論は纏まる気配なく、ここは総大将に鶴の一声で決めてもらうしかない。


「甲州殿は如何か」


まず謙信が義信へ問いかけた。


謙信自身の方針は既に決まっている。後は義信の考えとどれほどの差違があるかを確かめておかなくてはならなかった。


「まずは深谷に進むのがよいかと」


義信の考えは、多くの武田家臣とは違っていた。


「深谷か」


深谷との発言に、謙信は興味深く言葉を返す。


深谷城は金窪城から南東に位置し、中山道沿いにある要所だ。金窪城からはそれほど離れておらず、攻めやすい場所にあった。それを攻める理由とは何か。また義信は“まずは”と言った。ということは、続きがあるということだ。それが謙信は気になった。


「深谷城主の憲盛は、上杉殿の一族と聞いておる。上杉殿からしても同族で戦うことは本意ではありますまい」


深谷城主・上杉憲盛は深谷上杉家の当主である。深谷上杉は謙信が家督を有している山内上杉から連なる上杉氏の一つであるので、分家に当たる。武田では強者は武田で、弱者が上杉と定めている。情けは強者が弱者にかけるものであるので、義信は謙信を気遣う素振りを見せる必要があった。


「今さら隠し立てするつもりはないが、儂は北条と盟約を結んでいる。勘違いされては困るので先に申しておくが、盟約と言っても互いに不戦の約定を交わしたのみで、共謀して幕府と戦おうというものではない」


義信は居並ぶ諸将を見まわしながら、堂々と宣言した。


最初に発言したのは、在らぬ嫌疑をかけられぬためだ。上杉は一度、味方の振りをした北条に裏切られている。その事を同盟していた義信は知っていたはずだ。この事からも武田に疑念を抱かない者がいないとも限らず、そもそもあの時点で義信が北条のことを上杉に報せる義務もなければ義理もない。それ以前に北条の野心を見抜けなかった上杉が悪いという認識すらあるくらいで、それが独立した大名家というものだろう。


だからこそ義信も自分の立場を言葉にしておく必要があった。


「ならば敢えて問わせて頂くが、まさか北条とは戦えぬと申しは致すまいな」


当然の疑問を謙信は義信へぶつけた。


義信は不戦の約定と言った。それをそのまま受け取れば、武田は北条とは戦えないと言っていることになる。


「心配は無用に願いたい。堅く盟約を結んだところで、将来に武田と北条が敵対することが絶対にないとは言い切れぬ。そう左京大夫殿には伝えてあるし、手切れの使者も送ってある」


かつて善徳寺での光景を思い出し、義信は言った。


(左京大夫殿には黄梅院と離縁せぬよう約束させてある)


武田と北条は再び戦う道に入った。決して妹・黄梅院が望むようなことではないが、義信も武田という家を背負っている以上は仕方のないことである。約定を反故にする側にいる義信は、甲斐出陣の際に小田原へ盟約破棄の使者を送っていた。


(儂は父とは違う)


いきなり同盟国を攻めるような真似はしない。利害の一致で決められることの多い乱世の盟約であっても、筋道は通す。それが武田義信のやり方だ。


「されど可能ならば、北条を再び幕府に恭順させたいと考えておる。上杉殿とて関東の安寧が御望みなのであろう。それは北条を滅ぼすということではないはずだ」


その上で義信は自らの立場を語った上で謙信に釘を刺した。最終的な責任は大名である氏政に帰属するも義兄弟としての役割は果たすつもりでいる。盟約をこちらから破る以上、それくらいは果たせねば義信は信義を語る資格を失うと思っていた。


「宜しいな」


ギロリと義信は周囲に鋭い視線を送った。


「北条の叛意は明確にござろう!滅ぼす覚悟なくして合戦は出来ませぬぞ!」

「そちらの都合ばかりを押し付けるでない!武田には武田の事情がある!」

「ここは関東ぞ!」

「関東は上杉の土地ではなかろう!関東管領は廃止されたはずじゃ!」


途端、両家の間で応酬があった。どちらも己の主が正しいと考えており、その主張は曲げられず、拒もうものなら帰国も辞さないという態度があからさまに出していた。


「静まらぬかッ!」


再び謙信が激昂すると、上杉の家臣たちは一斉に黙った。


卒中に激情は大敵だ。それを知っている上杉の者たちは主をこれ以上に怒らせては大事に障るとして、不本意ながらも口を紡ぐしかなかった。


「ならば甲州殿の考えを聞こう」


辺りが静かになったところで、謙信は続きを促した。


北条とは戦わないとは言わず、滅ぼすとも言わず、恭順させるなら如何なる手段を用いるのか。それを聞かずして謙信も批判できず、また義信も我を通すことは出来ない。


「一徳斎」


軍略面の話に入り、義信は真田一徳斎へ振った。


一徳斎は“上杉を支援するべし”と進言した手前、隠居の身ながらも自ら関東出征に加わっていた。信玄より上州経略を任されていた一徳斎は、当然なように関東の実情にも精通している。その智恵と知識は、今の武田を支える大きな柱となっていた。


「敵は鉢形に北条氏邦の一万、唐沢山に佐野昌綱、下館に北条氏政の本隊がおりまする。この内で氏邦はともかく昌綱は余程のことがない限りは城から出ては来ぬかと存じます」


唐沢山城の佐野昌綱は、これまでも何度か離反を繰り返している。その特徴は名城と謳われる唐沢山の防御力を頼みとして籠もり、敵を引き付けるというものである。


「昌綱は捨て置いても問題あるまい」


これに謙信が同意する。


下野には幕府方である宇都宮広綱がおり、那須七党など不穏分子はあれど下野に於いて宇都宮氏が一番の勢力である事に間違いない。城を留守にして上杉の後方を脅かすなど籠城戦のみで生きてきた昌綱に出来るとは思えなかった。


謙信は一徳斎に向かって頷くと、続きを語るよう促した。


「我々は決して武田の名を軽くは見ておりませぬ。そして上杉の名も天下に轟いておりましょう。その両家が手を携えたのです。敵の動揺は計り知れず、威勢を見せつければ降伏してくる者は多いと見ております」

「それが深谷の憲盛だと?」

「はい。それに深谷の憲盛は、忍城の成田と姻戚関係にございます。また由良成繁殿も成田と姻戚関係にござる。両者から説得して頂けば、忍城は労せずして手に入ります」


忍城は関東の中でも名城と呼び声が高い。つまり力攻めで落とすのは難しいと言っているも同じだった。それが調略で手に入るなら、これほど楽なことはない。武田と上杉の名は、相手を威圧するには充分すぎる。


「忍城を手に入れた後は、関宿城を落とす」


最後は義信が威勢よく答えた。


「関宿城を落とせば、北条は小田原への道を閉ざされることになる」


ここまで言えば、この場にいる全員に義信の狙いは伝わる。これを聞いて、多くの者が唸り声を上げた。


利根川沿いにある金窪、深谷、忍、騎西、関宿の城がこちらの手に渡れば、北条は渡河という不利な手段を用いて連合軍と決戦せざるを得なくなる。利根川は関東一の大河で、故に渡れる場所は限られている。つまり防戦する側からは兵力を集中させやすく、少ない兵でも勝機は充分にあった。


「となれば、下館の囲みは自然と解けるな」


誰かの発言に全員が頷いた。


深谷に次いで忍城もしくは騎西城が陥落すれば、北条とてこちらの狙いに気が付くはず。鉢形城にいる氏邦に妨害するよう命令を出すだろうが、氏邦だけでは連合軍は止められない。確実に氏政は下館城の囲みを解いて関宿防衛に転じる必要が迫られる。


(可能ならば和睦に持ち込みたいが、それは左京大夫殿の態度次第だな)


義信の視線は自然と下を向いた。


不戦の約定を交わしていたとはいえ、氏政の性格からすれば決戦を挑んでくる可能性は捨てきれない。鉢形城との距離が離れる以上は、少なからず抑えの兵を割かなくてはならず、こちらが関宿城へ向かわせられる兵は多くても一万七、八〇〇〇だ。対して氏政は佐竹の抑えに兵を割いても三万は投入できる。この状態で兵の多い北条方が籠城を選ぶことは有り得ない。


「では甲州殿の案で行く。あわよくば関宿城を奪いたいが、決戦は儂の望むところ。関宿近辺に誘い出し、一挙に北条本隊を打ち破る。皆、支度を怠るでないぞ」


総大将として謙信が方針を決定した。


兵站を断つことは戦の常道である。決戦を目論む謙信は、長く伸びきった北条の兵站を脅かす策を考えていた。謙信は義信に軍略を語らせたが、こうまで自分の考えと同じだとは思わなかった。違う点と言えば、謙信は北条本隊を打ち破った時点で和睦を模索せず小田原へ進もうと考えているというところか。


「出陣する!」


謙信が義信の意見に同意したことにより、両軍は川中島での敵対から十八年が経過した今日、初めて軍事行動を同じくすることになった。


上武連合が誕生した瞬間である。


謙信と義信は金窪城を出陣し、互いの正旗を高々と掲げながらその日の内に深谷城を取り囲んだ。


「降伏すれば本領は安堵する。拒否すれば深谷の家はなくなると思え」


城を包囲した謙信は、上杉家の棟梁として城主・上杉三郎憲盛へ降伏を勧告した。


「抵抗などとんでもない。深谷は左中将様の御意に従います」


これに同族の誼を通じ、憲盛は降伏を受諾する。


(上杉と武田を一緒に相手に出来るか!)


憲盛にしても元々は上杉の一族であるので北条に従っているのは本意ではなく、しかも謙信が武田と連合していることを考えれば、ここでの抵抗は無意味であると判る。理屈の上ではそうなるが、憲盛は単純に上杉と武田を敵に回すのが恐ろしかったのだ。


「忍城の成田家には三郎殿の娘が嫁いでおるとか」

「はい。正確に申せば氏長殿の弟・新十郎殿に娘を嫁がせております」

「確か新十郎殿は騎西城主だったな」

「左様にございます」


成田氏長の実弟・新十郎長忠は忍城の東にある騎西城を任されている。一時は父・長泰が長忠を家督に推した事もあって兄弟仲は(こじ)れかけたが、長忠が父の意向に従わず自ら身を引いたことで事なきを得た。これ以降、長忠に対する氏長の信頼は厚い。


「高広、そなたは金窪城に戻れ。氏邦を抑えるのだ」

「任せて頂けるので?」

「当然だ。そなたの武略であればこそ、果たせる役目ぞ」

「これは……、有り難き仕合せ」


深谷城の降伏と同時に謙信は、鉢形城の北条氏邦を抑える役目を北条高広に任せた。元々謙信が留守を任せられないといった素振りに腹を立てて離反したことのある高広にとって、別働隊を任されるのは何よりの誉れであった。


「お任せ下さい。氏邦の手は知り尽くしておりますれば、何ということはございませぬ」


上杉に帰参した喜びを胸に、高広は金窪城に戻って行った。


その後、上武連合は東へと進んだ。憲盛の家臣が騎西城に入って長忠を説得する同時に由良成繁が忍城に赴き、氏長へ帰順を促した。


「上杉だけでなく、武田をも敵に回して勝てると御思いか」

「されど兵の数では未だ北条に分があろう。簡単に破れるとは思えぬ」

「今のところは……だ。だが兵力を出し尽くしておる北条に比べ、上杉と武田には幕府の後ろ盾がある」

「幕府が関東まで兵を送って来ると?」

「一昨年の西征を知らぬわけではあるまい。上方の争乱は収まりつつあり、いずれ幕府が兵を送ることは

考えられぬ話ではない。その時、北条と共に滅ぶつもりか」

「家の命運を共にするほど北条に義理を感じているつもりはないが、儂にも武門の意地がある。そう簡単に降るわけには……」


当初、氏長は降伏に否定的だった。


忍城は湿地帯を活用した天然の平城で、氏長も防衛には自信を持っている。上杉と武田が攻めて来ようとも忍城は落ちない、と自負している。


「申し上げます!騎西城の長忠殿が開城に応じるとのこと」


だが騎西城の長忠が恐怖に駆られて先に降伏を承諾すると、長忠の説得もあって氏長は遂に首を縦に振った。謙信は忍、騎西城を含めて成田の所領を安堵し、次の矛先をいよいよ関宿城へ定める。


「成田が寝返っただとッ!?早う下館を攻めぬからこういう事になるのだ!」


上武連合軍の報告を下館で受けた北条氏政は、関宿城が奪われることに懸念を感じながらも目の前の城への拘りを捨てられず、周囲に不満をぶちまけた。


だが関宿城は北条氏康に“一国を得るも同じ”と言わしめた要地である。ここを失えば、北条は北関東への足がかりを失い、諸侯の離反を多く招くことになるだろう。


「御屋形様!ここは兵を返しましょう!関宿城が奪われれば、我らは退路を失います!」

「そんな事は判っておる!」


氏政は撤退を進言する松田憲秀に怒りを隠さなかった。


元々憲秀は氏政に従って関東制覇の御膳立てをしてきた。それが氏康が卒中で倒れたことをきっかけに方針を転換し、撤兵を主張するようになる。父の病を知らず、関東制覇の下地は出来上がっていると思っている氏政は、憲秀の豹変ぶりに苛立って最近は遠ざけつつある。


(ここまで来て、引き下がれと申すか!)


それが連合軍の動きを知るや否や、真っ先に氏政の前に現れて撤退を進言するのだから余計に腹が立った。


(御本城様の病を御屋形様に伝えるか?……いや、下手に報せれば“儂が采配を採るしかあるまい”と言い出しかねぬ)


一時、憲秀は迷いに駆られたが、首を左右に振って雑念を振り払った。


氏政は家族思いな性格だが、父に対してのみ素直でないところがある。その原因が夭折した兄・新九郎にあると初代・早雲以来、北条譜代の家老として御家を見てきた憲秀は、独自に分析していた。


氏政は北条四代目であるが、実は嫡男ではなかった。氏政には兄が一人おり、天文二十一年(一五五二)に死去している。新九郎という代々北条当主を意味する名乗りが与えられていることからも彼が四代目として御家を引き継ぐ予定であったことは、誰もが知るところである。幼少の頃より当主、兄としての教育を受けて来なかった氏政は、新九郎の死を契機に嫡子とされたが、尊厳や威厳を保つべく必要以上に長兄として振舞うようになった。


北条氏照ら氏政の弟たちにとっては、氏政が嫡子となろうとも元から兄に代わりはないため受け手の変化は何もなかった。ただ不幸にも氏政は父に反発することによってのみ、自分というものを表現するしか方法を思いつかなかったのだ。


それが今、裏目に出つつある。


「御屋形様、これは好機にござる。上杉と武田を打ち破れば、関東で北条に敵う者はいないと諸侯にも伝わりましょう」


ただ北条上総介綱成は違う見解から撤退に賛成する意見を述べてきた。


(撤退さえ決めてくれればよい。上杉と武田を前にすれば、御屋形様も簡単には決戦を挑めぬだろう)


綱成が憲秀の意見に賛同したのは、氏康の病状を憲秀を除いて唯一知るからである。もし万が一のことがあれば、北条は屋台骨から揺らぐことになる。ここは敢えて危険を冒さず、いつでも小田原へ戻れる状態にしておくことが肝要だと思った。


「ちっ!」


氏政が悔しげに舌を打った。


「退くとなれば佐竹の追撃があろう。上総介、結城晴朝に殿軍を務めさせよ」

「結城勢が殿軍にござるか?」


そして氏政はあろうことか降伏したばかりの結城晴朝に殿軍を命じた。驚いた綱成は思わず聞き返してしまう。


「どうした?何か問題があるのか」


結城晴朝は最近に北条に降ったばかりだ。危険な殿軍を任せるのは忠誠心を量る上で理屈として判るが、信用に足るかといえば、そうでもない。背後で寝返るかも知れず、そうなっては思わぬ犠牲を被る可能性だってある。犠牲を出した後に上杉・武田連合と合戦になった場合、苦戦は免れないだろう。


「……某も殿軍を務めまする」


仕方なく綱成は殿軍を買って出ることにした。自分ならば、兵を安全に退かせる自信がある。


「ならぬ。上総介は謙信と戦うのに必要だ。結城には伊勢備中を付ける」


しかし、これを氏政は斥けた。


殿軍を務めるということは、奪った結城城に残って佐竹を監視するのは綱成だということになる。上杉と武田が連合して攻めてきている場に綱成がいないのは、氏政は不安だった。相手は軍神・上杉謙信と信玄が育てた甲州軍団である。味方の兵が多いこともあって恐れはないが、勝てるという確証もない。この戦国の世で、上杉と武田両方を一度に相手したことのある者は誰もいないのだ。


(されど上杉と武田に儂が勝利すれば、父上であろうとも異見は出来ぬ)


父・氏康にあって自分に足りないものは何か、と問われれば氏政は武名と答えるだろう。川越夜戦は北条の間では転換期として語られている。そういう類の話が、氏政にはない。挽回する好機が目の前に現れて、逃さない手はなかった。綱成の異見を真に受け、氏政は合戦にて決着を図る気でいた。


そして北条は軍目付を結城勢に配して撤退を開始、それを見た佐竹義重は追撃を主張する家臣らを“深追いするな”と押し止めた。


「何故に追撃せぬので?」


側近の佐竹義久が理由を尋ねる。


「追撃は形ばかりでよい。北条は、上杉と武田に任せる」


義重の口調は何処か醒めていた。


「いま上杉殿がこちらに向かっているとの報せを受けています。追撃する好機かと存じますが?」

「まずは常陸を押さえること。要らぬ損耗は避けるべきだ。それに常陸の者共と北条が繋がっていないとも限らぬ。いま国を空けるのは好ましくない」


結城晴朝が降伏したことにより下館城の水谷蟠龍斎は独立、独断で佐竹に支援を求めてきた。北条は去ったが結城家は既に北条の傘下に入っている。蟠龍斎は佐竹を頼った以上は義重の指示に従うしかなくなり、佐竹は北条の御陰で下館を無償で得ることになった。ここ数カ月で義重は江戸氏と水谷氏を膝下に加えており、佐竹単体で考えれば十分すぎる戦果を得ている。


(今は足元を固める時期だ)


目を閉じ、思慮に耽る義重の脳裏には常陸の地図が広がっていた。


常陸で佐竹の意に従わぬ者といえば、大掾貞国(だいじょうさだくに)が挙げられる。大掾氏は府中という常陸の中心を支配しており、義重の傘下に入った江戸氏と仲が悪い。今でこそ反北条という立場で中立を保っているが、状勢の変化によって敵方に通じることも充分に考えられる。関東制覇を目論む北条ならば、常陸や下野などの者たちと密かに連絡を取っていたとしても不思議ではないのだ。


もし決戦場まで赴けば、勝手に離脱は出来なくなる。その時に大掾が蜂起しれもすれば、常陸がどうなるか判ったものではなかった。


「ならば北条には噂を流しておきましょう。結城は佐竹と通じている、と。北条は我らが追撃を行わなかったこと不思議に思いましょうから、噂であっても上杉殿の支援にはなるかと」

「妙案だな。任せる」


義重はニンマリと笑顔を作って、義久の申し出を許す。即座に代案を出してくる若者を義重は頼もしく思うのだった。


「退くぞ!」


かくして無事に下館から退いた北条と連合軍が関宿城の西で対峙することになったのは、三月に入った頃だった。


関宿城を目指して進む連合軍は、遂に目前の栗橋城へ辿り着く。


「野田は公方様の家来衆、上様の御意を得る左中将様に従います」


城主・野田景範は連合軍を前にすると即座に開城し、帰参を申し出て来た。


元々景範は古河公方家に仕えており、栗橋城も公方家に属していた。かつて謙信が下総国・臼井城攻めに失敗すると下総は北条の勢力圏となり、景範は北条方に転じている。栗橋城は関宿城に近く、これもまた要所であることから北条の命令によって景範は城主を立場を失うも、永禄九年の上杉・北条和議に際して帰属を問われ、北条方が“城主の景範は当家の臣である”と主張したことから、北条領として景範の城主復帰が決まった経緯がある。


ところが景範の本音としては、古河公方を蔑ろにする北条には仕えたくなかったのだ。こうして栗橋城を獲得した連合軍は、次なる関宿城を目の前にして北条の大軍と対峙することになった。


「上杉・武田と言えども我が北条には遠く及ばぬようだな」


氏政は連合軍の数を確認し、改めて自分の優位さを認識した。


「勝てるぞ」


両の手で頬を叩き、気合を入れた氏政が関宿城を出陣する。残す兵は二〇〇〇、残り全軍を連合軍へぶつけて、勝利を得る。


北条方は兵力を存分に活かせる鶴翼で布陣した。武田勢が布陣する左翼には、北条氏照を大将にして上田朝直、大石定久、中山家範、多目元忠ら七〇〇〇を配し、前衛には里見義頼三〇〇〇を据えた。また上杉勢がいる右翼は地黄八幡こと北条綱成を大将とし、北条綱高、千葉胤富ら八〇〇〇に大道寺政繁三〇〇〇が先陣として展開、少し下がった中翼は遠山政景、松田憲秀ら四〇〇〇と本陣三〇〇〇がある。


総勢二万八〇〇〇から成る布陣だ。数の多さは、流石に北条といったところだ。


対して連合軍は北側に上杉、南側に武田が布陣する。上杉は鉢形城の抑えに兵を割いたため総勢九〇〇〇で、先手から成田氏長、長忠兄弟に由良成繁、和田業繁、長尾当長、吉江景堅、河田長親と続いて謙信本陣がある。


また武田の規模は甲斐出兵から変わらずの七〇〇〇で、幕府より赦免された武田信豊を先手に義信へ帰順した山県昌景、板垣信安、内藤昌豊、初鹿野信昌、小山田信茂、真田一徳斎と義信本陣が続いている。


陣形は共に魚鱗で、二本の槍が北条の楯に向けられた形だ。


「……義信め。儂との約束を反故にしおって!」


遠目に武田菱を眺めた氏政は、吐き捨てるようにして怒りを口にした。


乱世では裏切りは珍しくもないが、信義を口にする義信が平然と手切りしてくるとは滑稽だ。やはり“蛙の子は蛙か”と思い、氏政は容赦なく連合軍へ揺さぶりをかけていく。


「武田殿に申し上げる!我らは互いに敵対せぬとの約定を交わしていたはず!それを一方的に破棄したばかりでなく、上杉に味方するとはどういう了見であるか!我が主・左京大夫様は寛大な御心の持ち主である!今ならば詫びて兵を退かれても追撃はせぬ故、早々と関東から立ち去られよ!」


氏政は使番を発し、武田軍の目の前で堂々と撤退を要求させた。無論、上杉にも聞こえるようにして、互いの信頼に傷を入れようと画策したのだ。


「御屋形様、放っておいても宜しいので?」

「甲州殿は信義を守られる方だ。疑えば、こちらの信用に傷がつく」


前線からの報せを聞いた謙信は、これを捨て置かせた。元より自分から裏切ることのない謙信である。相手がどのように動こうとも、するべきことは変わらなかった。そして暫くすると武田から使者が訪れて“兵を退くことはないので安心されたし”と告げてきた。


「以前にも申した通り武田は関東に野心はない。此度は幕府の命に従っての出陣で、この合戦に儂の意思は反映されておらぬ。左京大夫殿とて判断を誤り、国を失いたくはなかろう。今ならば義兄弟の誼として儂が仲介し、幕府と話を着けてもよい」


また義信は義信で氏政に対して返事をしていた。


義信は確かに氏政と不戦の約束はしたが、幕府と敵対する道を選んだ北条と心中するつもりはない。義信は父・信玄との決別に全力を注ぐため、氏政の申し出を受けたに過ぎないのだ。その代価として、西上野を譲ってもいる。


(後は儂が家を守っていくだけだ)


破滅の道から武田を救った以上、家を守り通して行くだけの責任が当主の義信にはある。敵対は本意ではないものの武田存続のため幕命には逆らえない立場にあるのだ。ならば一戦してでも勝利し、氏政に関八州平定の夢を諦めさせるしかない。幕府が直接に介入できない時期での降伏なら、これまで通りとはいかなくとも御家存続は充分に可能性がある。現にいま一人の義兄弟・今川氏真は遠江を割譲することによって駿河一国の大名として生き残ることになった。


「抜かせッ!儂の判断が誤っておるだと!」


ところが、これが氏政の癇に障った。義信はかつての氏政の言葉を引用しただけなのだが、氏政はますます意固地となり開戦を主張するようになっていく。


「出陣じゃ!全軍で敵に打ち懸かり、誰が関東の主かを思い報せてくれるわ!」


怒り心頭に氏政は開戦を命じるべく“法螺貝を吹かせよ”と命じようとした矢先、綱成が再び歩み出て制止を促した。


「御待ち下さい!我らは数でこそ優れども敵は精鋭、先に仕掛けては犠牲は増えるばかり。また鶴翼は基本、受け手に回るものにござる。ここで犠牲を払えば、関東平定は遠のきますぞ!」


綱成はあくまでも氏政の方針を支持しているという立場を崩さずに異見した。綱成の言葉は理に適っており、しかも合戦に於ける綱成の信頼は厚い為に多くの諸将の支持を集めてしまっては、氏政も強権を発動して開戦を実行できなかった。


(これ以上の合戦は拙い。ただでさえ幕命が下った後も兵を動かしたのだ。ここで合戦にでもなれば、もはや言い訳は出来ぬ)


氏康の方針は、謙信に代わって幕府に於ける関東統治の代行者になることである。謙信の復活で雲行きが怪しくなってきているも謙信には子がないことから氏康の思惑は絶対に崩れない。既に小田原からは幕府へ質を出しており、将軍の機嫌を損ねるような行動は控える必要がある。


かといって関宿城を奪われる訳にはいかないので、ここは防戦に徹して現状維持するのが最適だ。その間に憲秀の話では小田原が直接に幕府と交渉しているらしいので、何らかの決着が図られるはずと思われた。


「氏邦に遣いを送り、敵の背後を脅かさせよう」


それでも氏政は開戦という考えを変えず、何とかして重臣たちの意見を退かせる状況を作り上げようとした。


「それよりもよい策がございます。小田原には掛川から新三郎様が戻っておられますので、ここは小田原に援軍を依頼し、新三郎様に謙信の背後を衝いて頂きましょう。仮に我が仕掛けるとしたら、その時にございます」


仕方なく松田憲秀が策を上申する形で合戦を食い止めようとした。


今川の援軍として赴いていた北条新三郎綱重は、天竜川合戦の後に掛川城に籠城していた。年の暮れに幕府の命を受けた徳川から解放されて小田原に戻っている。つまり北条には動かせる兵が、まだ残っていた。


(こちらが援軍要請を出そうとも御本城様が動かれることはない)


絶対に援軍が来ないことを確信して、憲秀は策を進言していた。この件に小田原を巻き込めば、確実に主・氏康が介入する。介入があってしまえば、氏政が何を考えていようが諦めるしかなくなると予想してのことだった。


何度も言うが氏康の方針は、幕府権威の下で関東を統治することである。その為には将軍が肩入れする謙信と戦うわけには行かない。軍事的な敗北を受け入れても政治的な駆け引きでは勝利すれば、いずれ関東は北条のものとなる。そのために氏政には、ジッと堪えて貰う必要があった。


「綱重は長期にわたる籠城で体調が優れない。それよりも兵を動かすなと言い聞かせておいたはずが、何故に動いた。すぐに小田原へ出頭し、釈明せよ」


逆に氏康は氏政の行動に業を煮やしており、即座の撤兵と氏政の小田原出頭を命じてきた。公式に家督を譲っている氏政に対してここまで強く言ってくるのは珍しく、それほどまでに氏康が怒っていることが伝わって来る。


「御本城様がお怒りです。すぐに小田原へ向かいましょう」

「い……いや、いま儂が陣を離れては、謙信と義信が好機とばかりに攻めて来よう。父上の命に従える状況ではない」

「軍は上総介殿に任せるよう言われております」

「総大将は儂だ。その儂が陣を離れるという大事、小田原にいては判るまい」


流石の氏政もやり過ぎたと感じたのか、父が恐ろしくなり怖気づいて今度は出頭を嫌がった。


(何故に奴らは攻めて来ぬ!あちらから攻めて来ればいくらでも言い訳が立つというのに!)


それでいて氏政は攻めて来ていながらも肝心のところで戦端を開かない連合軍を恨んだ。


だが連合軍側からすれば兵の数は相手の半分ほどしかおらず、しかも野戦となれば考えもなしに仕掛けることは出来ない実情がある。軍神と呼ばれる謙信ですら、川中島では何十日も対陣して引き下がったこともあるのだ。しかも連合軍、戦機が熟さずして勝手に合戦は始められなかった。


「申し上げます!結城晴朝が佐竹と通じているとの噂がございます!」


そこへ無視することの出来ない報せが入った。氏政が思い返すと佐竹の追撃は、不自然なほど手を抜いたものだった。晴朝は犠牲を出さず居城に帰還して防備を固めているが、目付がいるというだけで元の独立した状態と変わりない状態にある。


「事の次第を風魔に探らせよ」


配下の忍び衆を呼び、氏政は両者の間に人の行き来がないかを調べさせた。


もし噂が本当だとすると、北条は北にも敵を抱えることになる。佐竹と結城が組めば、数の上で優位に立っている今の状況は逆転してしまう。それは拙い。


「氏邦はどうしたのだ?あやつが背後を脅かせば、敵は気が気でなくなり攻めて来るか退くかするというのに」


氏政は次第に焦りを募らせていく。


こちらから遣いを送らなくとも己のやるべき事くらい判るはずだ、と氏政は思っていた。それだけ余計に腹立だしくなる。


「鉢形城の抑えには、喜多條高広が動いていると報せが届いております」

「一万の兵を抱えておりながら、氏邦も不甲斐ない」


そう罵る氏政であったが、実は鉢形城にも小田原から使者が赴いており、軍を動かさないよう通達があっていた。氏邦は父と兄の狭間に置かれて苦悩するも優先させる命令は、考えるまでもなく父の言葉であった。


「こうなっては儂が動くしかあるまい。皆川に使者を送り、即座に挙兵するよう働きかけよ」


氏政は内応を約束している皆川山城守俊宗へ密使を送った。


上武連合が結成されたとはいえ、今のところ関東の情勢は北条方が優位に立っている。北条は里見を降して房総半島を制し、結城も膝下に加えた。噂の所為で結城の帰属が怪しくなっているが、表向き今も北条の支配下にある。下館城は落とせなかったものの佐竹は兵を退き、関宿城下での対陣では一万以上も兵の差を有し、下馬評では北条優位は崩れていない。ただ関宿の合戦で勝てばよいが、負ければ情勢は急変するだろう。父・氏康が消極的な態度である以上は、氏政が関東制覇の為の仕込みが機能するのは今を措いて他にない。


北条氏康の真意と病を知らず、上方の情勢にも疎い皆川俊宗が誤った決断を行ったのは、丁度そんな頃だった。


「殿を籠絡し、宇都宮を間違った道へ歩ませようとする奸臣どもを討ち果たす!」


宇都宮家臣・皆川俊宗が壬生綱雄と計らって挙兵、宇都宮城を占拠したのである。


「血迷ったか、山城守!」

「拙者はまともにございます。殿こそ籠絡されて頭がおかしゅうなっておいでの様子。宇都宮の舵取りは、我らに任せて養生に努められませ」


そう言って俊宗は、広綱を城の奥に押し込めて幽閉してしまう。俊宗は那須資胤と連絡を取り合って、下野での形勢を一挙に北条方へ塗り替えると岡本宗慶ら一部の重臣を殺害、宇都宮家中の実権を掌握した。


「またもや同じことになろうとは……」


家老の芳賀高定は広綱の子・伊勢寿丸を連れて城を脱出した際、昔を思い出して呟いた。


以前にも高定は広綱が幼少の頃に連れて城を脱出した事があり、その後に御家再興を果たしている。経緯は違えども振り出しに戻った事に高定は大きな責任を感じていた。


「まさか城内で挙兵に及ぶとは……、あれらにそれほどの度胸があるとは思わなかった」


皆川らが北条と通じていることを高定は予め想像していたことだ。もちろん彼らも慎重を期して表向き忠臣を装って尻尾を掴ませない様に動いている。故に高定は動くとすれば自領に戻って挙兵し、北条や那須と組んで抵抗するものだと思い込んでいた。


「どうか上杉様の御力で宇都宮を救って下され」


悔しさを胸に高定は、謙信の許を訪ねて御家再興の協力を要請した。


「眼前の北条を打ち破ったら、宇都宮へ向かおう。今は儂の陣で、戦の趨勢を見ておくとよい」


謙信は快諾し、義信へ近く合戦を始めたい旨を伝える。


「如何しますか?」


要請を受けて義信は家臣たちと軍議を催した。


「気持ちは判るが、甲信の状況が変わらぬ以上は開戦は見送りたい」

「当然ですな」


だが結果は一致していた。


信濃には今も織田の軍勢がおり、甲斐を脅かしている。この状況で敗北すれば、甲斐を守る兵すら失い信長に伝われば好機とばかりに甲斐の併呑を考えるかもしれない。上杉の事情だけで、開戦は決断できない。


待ち望んだ報せが届いたのは、四月に入ってからだった。


「甲府に幕府から使者が参りました。幕命により織田は兵を退くそうでございます」

「そうか。ようやく信長が上様の命に従ったか」


それを聞いた義信はホッと胸を撫で下ろした。これでようやく目の前のことに集中できると思った。


「よく信長が命令に従ったな」


ただ義信は信長が命令を受諾した理由が気になった。これまでの信長の態度を見ていれば、理由もなく命令に従うとは思えない。何かしらのきっかけがあるはずだった。


「どうやら織田は長島を攻めるつもりのようです」

「長島?何故に今になって一向一揆を先に攻めるのか」

「その辺りは判りかねます。ただ幕府と本願寺との間で和議が結ばれる模様、これが関係しているのではないでしょうか?」

「……ふむ」


と、義信は暫く腕組みをして思慮に耽るが、肝心の情報が不足しており、答えが出るものではなかった。それに、その事は武田にとって重要な事柄ではない。


「信濃はどうなる?」

「誓紙を差し出した者たちは揃って本領安堵、ただ伊那、筑摩、更科、埴科(はにしな)水内(みのち)、高井郡は織田に引き渡されるとのこと」

「つまり信濃は織田と幕府で治めるということか」

「そのようになると思われます。当家が治める地は、全て織田に引き渡されるようです」


信濃一国の裁定は、幕府と織田の力関係がまだ完全ではないことを窺わせた。強硬手段に出る織田を将軍は完全に制止できず、揺さぶりをかけて自制を促すのが精々といった感じだ。もっとも幕府の西国支配は固まりつつあるので、最終的には織田も幕府に従わざるを得ないと義信は考えている。


実際、これまでの織田は自分で攻め取った地を自分で治めてきた。義輝から与えられた領地はなく、幕府からは織田が独自で攻め取った地を支配する権利を追認するという形で処理されている。しかし、武田が治める土地が織田に引き渡されるということは、信長が義輝から恩賞を授かったということであり、名実ともに主従の関係が明確化されたことになった。これは少しずつであるが幕府と織田家の関係が変わりつつあることを表している。


ともあれ、この事実に気が付いている者は受け入れた信長本人と命令を出した義輝自身だけであった。


「これで合戦に臨めるな。左京大夫殿に最後の通告を行う。それが受け入れられなければ合戦を始めたい、と上杉殿に伝えてくれ」

「御意」


武田の使番が、上杉の陣へ走っていく。


関宿野戦または三雄会戦と呼ばれる戦いが、始まろうとしていた。




【続く】

一月ぶりの更新、先月は更新できず申し訳ない限りです。


さて上(杉)武(田)連合と題して三雄開戦が次回より始まります。ナポレオン時代の三帝会戦から名前を頂いたのですが、信玄と氏康がいないので“う~ん”と思われる方もいらっしゃるかもしれません。そこは申し訳ないです。一応、上杉、武田、北条の当主が参戦しての合戦と位置づけての題名です。


また上方の動きについて少し触れさせて頂きました。次回が関宿合戦、その次が織田回となり義輝へ場面が戻って行くことになります。信濃を織田の誰が領することになるかは織田回で触れる予定にしています。

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